犯罪者が、何故犯罪者となるのかは、誰もが知る簡単な理屈でしかない。
目的の為の行為。その結果に対して意味を与え、評価を下す法律が存在するからだ。
行為の為の行動結果に意味と理由を与え、それを断罪する。
犯罪を規定する法律。
つまりは法律と言う条文が社会の意思とし、評価を下す。


殺人などその典型的な例で、称賛されれば正義と持て囃され、英雄となる。
即ち、それは人にとっての確たる善となる。
怒りや悲しみに押し潰されれば、マイナスと評価され、犯罪と規定される。
即ち、それは悪であると言う。


本来『善悪』という言葉の本質は、これこそがそうだと言う物は存在しない。
行為に対して善悪と言う言葉は、意味を持たない。
それはその時代、社会を構成する人間の価値が評価決定を下す物でしかないからだ。
同じ社会でも、生活、文化、環境。とりまく集団によって、価値は異なる。
単純に聞こえる『常識』と言う言葉すら、合理化された個人価値だ。
時代時代で常にその価値は形が違う。つまり、帰属社会の既存秩序によって、常にその善悪の形は姿を変える脆弱さでしかないと言う事だ。
だからこれこそが『善』であり、『悪』であると言う言葉は意味をもたない。
『悪意』と言う言葉がある。対象物に対して持つ意思が、悪に勝れば悪意になる。                       


『悪』と言う言葉に意味と形を与えるのは、人間でしかない。
それは『悪』に対しての意思を明確化し、輪郭を与える作業と言う事だ。
『悪』に意思と意味を与え、姿形を与えれば『悪意』になる。
それに理由と言う意味を付け、目的の行為と行動、その結果によって犯罪を規定する。
『悪』は人間の心の裡に、誰にでも存在する意識の一つだ。
実態として、存在している訳ではない。
罪の本性を持つ人間の意思が生み出す作用だ。
心の脆弱な天秤が傾く比率によって、帰属社会の既存秩序の枠組みから逸脱する。           
多数性を重んじる多数者正常化原則の流れの中では、誰もが乖離的になる。
犯罪と向き合える心の強さは、自己の暗闇と対峙できる強さと言う事だ。


美徳が高まれば悪徳が深まり、知性が輝けば醜悪が増す。
清潔な外見に、淫蕩が横たわる。臨界を超えればすべてが吹き出て共食いを始める。
対極だからこそ双極であり、その本質は鏡像をかい潜り、恐ろしい程同類だ。
罪を罪と認識しなければ、主体にとっての罪は成立しない。
法を制定し、守り、秩序を正す人間が、法を乱す。
理想は虚構を生み、現実界との溝を深くする。
せめぎあう善悪の中で、善人でなければ出来ない仕事など、何一つ存在しない。




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