nec spe nec metu sine luce sine croce sine Deo |
初めてコレを読む工藤新一へ 随分感傷的な事だと、自分でも多少の呆れはあった。それでも、失われて行く確実なモニ対して、有効的な策はコレしか思い付かなかったのも事実だから、つい嗤ってしまったとしても仕方ないと、新一は肩を竦めた。 何故PCじゃないのか?自分でも新一には判らない事だった。 読書が好きで、やはりPCは便利だけれど、小説を読むなら断然紙の方がいい。その程度の事なのだと思う。 カサカサと小さく鳴る紙の音。パラパラ捲っていく小さい音。読み書きは全て本で覚えた。父親の書斎や広大な蔵書を所有している父親の書庫で。だからだろう。どうしても小説は紙の感触の中で読みたい。そんな感傷的な部分が多分に影響しているのだろうと冷静に思えば、思い出す眼差しと声が新一の記憶に甦る。 『なんでそないに、冷静なんや……』 フト甦る西の言葉。精神の底に馴染んでしまった関西弁。 精神の深みから、深い哀しみを浮かべて凝視してくる眼差し。濃く深く瞬く双眸の毅然さと想いの深さに、フト痛みを感じる。同時に、当事者の自分より、痛々しく傷ついた表情を曝している事が、不思議にも思う。 『別に、冷静じゃねぇよ。此処でジタバタしても仕方ねぇじゃん』 そう返した。そうしたら余計哀しみに埋没した眼をして、泣きそうに顔を歪められた事まで思い出して、新一は薄い笑みを刻み付けた。 『工藤は、いつも人の為にばっかやな』 以前そう言われた事があった。けれど新一に言わせれば、自分の為に必死な顔をして傍に在る服部の方が、他人の為にばかりだと思えた。 様々なものを犠牲にして、服部は傍に在る。それが時折苛立つ程の痛みや、刺す程の哀しみをもたらして来る時もあるけれど、言えば『堪忍』と困った顔をして、らしくない程深い笑みをみ見せつけられてしまうから、もう言葉にする事もできなくなって久しい。 『工藤が困る事ないんや、これは俺の我が儘やから。堪忍な。傍に居させてな』 所詮人は自分の為にしか行動できない。どんな意味に於いてもだ。だからコレは自分の我が儘だからと、服部は新一に決して背負うものを預けない。それさえ、新一を困らせるだけの言葉だと理解して。 『傲慢やからな』 そしてやはり堪忍と笑うから、新一はいたたまれなくなる。 「バカな奴……」 自分の為に傷ついて行く。それこそお人好しもいいところだ。服部だけではなく、快斗や哀はいつだって傷ついて行く。何も遺こしてやれない自分の為に。 『貴方は怖くないの?』 フト甦る哀の台詞。 『貴方はダレ?』 そう思った事はない? 問われた時、それが何を意味するのか、新一には判らなかった。けれど半瞬後、鏡を凝視する哀の視線の意味に気付いて、理解した。哀の言葉の持つ、彼女の疵を。 『私は毎朝、ゾッとするわ』 コナンだった当時、言われた言葉だった。 工藤新一から江戸川コナンになって、それでも。鏡を視る事が、怖いと思った事は新一にはない。怖いと思ったのはむしろ別の意味での鏡の作用で、ダレかの眼差しの深さで、逸らす事をしない服部の瞳だったように思う。 人の意識の底に映る外見こそ、むしろ鏡面作用をもたらすようで恐ろしかった。一体その双眸の底にはダレが映っているのかと思えば、精神が凝るようだった。 けれどその反面。『工藤』と躊躇いも迷いもなく呼び続けられ凝視されれば、一抹の後ろめたさが湧くのに、居場所を指し示され、安堵していたのも確かだった。 鏡を視て、恐ろしいと思った事はない新一は、自分自身では納得していたのだろう。だから当時、哀の持つ疵の意味を理解はしていない事も、新一は理解していた。 疵や痛みは結局共有できない。理解しようとしても、物差しは所詮自己のもので、相手の痛みは理解出来ない。けれど今なら、哀の告げた恐ろしさの意味の一端は、判る気がした。 『大丈夫』 鏡を見て、未だ覚えていると安堵の溜め息を吐く。 未だ大丈夫だと、残された時間の限りは何一つ判らなくても、未だ自分は工藤新一を覚えていると。工藤新一として存在し、江戸川コナンとなった時の記憶も何もかも、未だ覚えている。自分を取り巻く周囲の大切な人達の事を。 自分を愛してくれる人達の事を。自分が大切に想う人達の事を。自分が愛した人の事も。 『未だ、大丈夫』 呟きに繰り返す。 鏡に映る自分を、未だ認識できる。未だ、覚えている。 日記帳なら、操作はいらない。単純に紙を捲れば書き記されているものを簡単に読める。記される言葉の意味を、自分が何処まで認識できるかは判らないけれど。 何か書留め残すなら紙の方がいい。本が好きで、紙の感触や匂いが好きだから、そんな単純な発想だった。何よりも、変形サイズの本に視えるし、表紙の海の写真が色鮮やかで綺麗だった。 天空海闊を映した写真が表紙を飾る日記帳。 日記等付ける気がなかった随分前に、たまたま立ち寄った文具店で見つけて何となく買った代物が、今更役にたつとは思わなかった。 そしてもう1冊。 蒼い空に、緑の木々と淡い木漏れ日を映した日記帳。 「お前さ、後悔してないのか?」 蒼い闇の中。広いマホガニーのデスクの照明だけが灯る仄かな光の中。新一は一枚の写真を手に眺め、クスリと苦笑する。 『工藤……』 アノ日、アノ夜の服部の声だけが、今でも耳の底に残っている。精神と肉体に持ち越された声。 『愛してる…』 密やかに、苦しげに告げられた言葉。 触れる体温の熱さ。互いの鼓動が可笑しい程逸っていた。 触れたくて交わりたくて、それが最初で最後だからこそ、永遠にと、下らない感傷まで思って感じて願って……。 『心も躯もお前ぇにやるから、全部やるから……』 お前にだけ…。愛してるって言葉は、お前にだけやるから…。 『だから、お前ぇは生きろ』 懇願と哀願とを滲ませ、残酷な言葉を告げた自覚はある。 告げた瞬間の服部の表情は、哀しみに沈み込んで今にも泣きそうだった。それでもきっと、服部は誰より自分の願いを知っていたのだろう。 『残酷な奴っちゃな……』 『お前ぇなら、大丈夫だよ』 『工藤……』 『お前ぇにやるから……約束しろよ』 今思えば、随分尊大で横柄な言葉だったと思う。それでも、自分の望みを誰より心得ている服部は、柔らかい仕草と穏やかな笑みで触れてきた。 『堪忍な……』 そんな時でさえ、謝罪の言葉を口にして。 初めて触れた体温とその熱さ。逸る鼓動。情欲に歪んだ貌。そのくせに、決して荒くならない愛撫。 「お前、バカな奴だな……」 手にした一枚の写真。 蒼い空、輝く波間。笑っている自分達。 「俺なんか、切り捨てりゃ楽なのに」 それでも、触れたいと望んだ。忘れて切り捨てて引き摺らないでほしいと切実に願いながら、触れたいと願った。触れれば相手に辛さしか遺こさないと判っていたのに、それでも、残酷な言葉と傲慢な想いで、望みが満たされる事を願った。 大切にされていた事なんて、知っていた。 服部はいつもいつも、自分にとって居心地のいい空間を作り出していてくれたから。 『工藤』と、呼び続けていてくれたから。きっと服部は、自分より遥かに自分の望みを知っていたのかもしれない。傲慢で残酷な想いも何もかも。 『愛してる……』 繰り返し、囁かれていた声。忘れないように。意識や肉よりもっと深くに刻み付けるように。優しく低く穏やかに囁かれていた真摯な言葉。真摯な声。 『覚えてっから……忘れても……覚えてっから……』 そればかり、繰り返していた。それこそ、気がふれたように。自分に言い聞かせるように。自分自身に、刻み付ける為の言葉。 『愛してる……』 最初で最後に告げた言葉だった。 愛してると言う言葉は知っていた。けれど、その意味は判らなかった。 けれど、今なら判る。 ポタリと、手の中の写真に雫が跳ねた。繊細なラインをゆっくり伝い流れて行く一筋の光の軌道。 色鮮やかに甦る想いでが在る。 自分で生きなきゃ行けない。 一人で死んで逝かなければいけない。 けれど 力をくれた人達を忘れない。 『名探偵ってば、自分には案外、無茶無頓着なんだよね』 『っるせぇよ』 『お前ぇ、んな事言ってると、魚料理の刑だぞ』 『ウワ〜〜それって卑怯もん』 『なんだと』 『俺もその点だけは、黒羽の意見に賛成やな』 『ホラ〜〜ダンナもそう言ってるじゃん』 『無頓着だし、危機感が薄いのよ、工藤君』 『灰原』 『アラ、事実の筈よ』 『名探偵、ホラ、名探偵の好きなレモンパイ買ってきたからさ、お茶しようよ。服部、珈琲淹れて』 『なんで俺がお前に淹れたならあかんのや』 『それはさホラ、服部さんの方が、美味しいから〜〜』 『謙遜しなくていいで、黒羽の方が、メチャ巧いの淹れられるやろ』 『っるせぇお前ぇら、っんなに淹れたくなきゃ俺が淹れる』 『名探偵のは別』 『工藤のは俺が淹れるのは決まってるやろ』 『本当に、モテるわね、工藤君』 『嬉しかねぇ』 『今日は天気もいいし、外で飲んでもいいかもしれないわね』 『賛成〜〜』 『それじゃ貴方達、テーブルセットして』 『哀ちゃんのお願いなら、きいちゃう俺』 『嫌な奴っちゃな』 鮮やかな蒼い空。眩しい緑。爽やかに吹く風。優しい語らい。穏やかな空気。柔らかい木漏れ日。 『ダメよ新ちゃん。お茶の時間を忘れちゃ。探偵は余裕がなくっちゃ』 『探偵の推理は、大体が知識と経験からくるひらめきに助けられているんだよ、新一君。経験がなければ、知識を確かなものにする事だよ。勘は当て推量ではないからね。見逃さない事だよ、どんな些細な事も』 『新一〜〜まったく、自分の誕生日くらい、覚えてなさいよ』 与えてもらった優しい時間。穏やかな記憶。教えてもらった色々な言葉。沢山の風景。 数え上げたらキリがない程。 『おはよう、コナン君』 『おはよう、新一』 『無理せんで、はよ寝や』 『名探偵、元気?』 『貴方、やっぱりバカね……』 『新ちゃ〜〜〜ん、見て見て、ホラ〜〜似合う〜〜?』 『そうか、新一君は、ホームズみたいな名探偵にんるんだね』 それは些細な挨拶だったり、些細な携帯での繋がりだったり。交わす言葉が在る人達の存在。きっとこんな事にならなければ、気付く事もなかったのかもしれない。 哀しみに押し潰されても、背を押してくれた人達。 人は一人で生きているけれど、でも絶対一人じゃない。そんな簡単な事にも、気付けなかった。 愛している。 『工藤、お前は工藤新一やろ?』 お前を。 俺、お前ぇらが、 『戻っておいでね。何処に喪失えても。名探偵の居場所、ココだよ』 『私を恨んでいいのよ』 大好きだった。 「Thanks you」 与えてもらった事何一つ、返す事はできないけれど。 与えてもらった沢山の事は大切すぎて、きっと失っても当たり前と思えてしまう程、大切すぎて……。 『工藤……それでも俺は、探偵のお前が一番好きやと思う』 愛している。 言葉は知っていても、意味は何一つ知らなかった。 でも今なら言える。きっと遅すぎはしないだろうから。 『俺がさ、名探偵好きって言ったら、困るでしょ?』 俺も好きだから、ちゃんと知ってる。いつだって、見守っていてもらった事。悪ぃな、気付かないフリしてて。 『ゴメンナサイ……工藤君…』 ゴメンナ、俺最期まで、知らないフリして逝くから。 お前良い相手見つけて、倖せになれよな。んじゃないと、婚期逃すぞ。 大好きだから、お前達の事。愛しているから……。 死に逝く為のチカラをくれたお前達を。 だからお前達は、誰より倖せになって。 |