月の雫 1
 

「とうとう降ってきちゃったわね」
 リビングのソファーに腰掛け新聞を読んでいた哀が、不意に視線を窓に向けると、誰に聴かせるでもなく呟いた。
「隣まだ帰って来てないのに、災難。降られてるよ絶対」         
 哀の向かい側で、彼女の良く知る東の名探偵と変らぬ造作と声の主が、外を眺めて頬杖ついたままに呟いた。
「なんか今回の事件は、妙に二人共雨に好かれて大変だな…」     
 怪盗キッドたる黒羽快斗は、夏の空が重く垂れこめた雲を引き連れ、雷雨を齎す様を、ボンヤリとした態で空を眺めている。 
 表と裏の顔を持つ若干18歳の快斗は、表では有名な世紀のマジシャンとして頭角を現し始め、裏の顔はもう過去からICPOに特殊Noを付けられ手配されてしまっている世紀の大怪盗だった。 
月夜に白いマントを翻し、冷冽な月さながら冷ややかで鋭利な印象で、無駄のない手口で流血一つなく、鮮やかな手際で宝石を盗んでいく。その紳士さに、ついた通り名は数知れない。
 怪盗紳士から始まって、今では月下の魔術師とまで言われている。けれどその素顔を知る人間は、片手で足りる程しか存在しない。彼を追う警察も、当然その素顔を知る事はない。
「傘なら予備が有るわよ」
 クリスタルグラスに注がれたアールグレイのアイスティーを一口含むと、哀はボンヤリ窓を視ている快斗に声を掛ける。
「そんな野暮したら、恨まれちゃう」
「アラ誰にかしら?」
 クスリと哀は小さい笑みを漏らす。
「東の名探偵。普段リアリストなくせに、名探偵は、こんな時ばっかロマンチストだから」
「西の探偵さんは、きっと喜ぶわよ。大切な工藤君、風邪ひかせるよりマシってね」
 あれだけ新一を大切にしている服部を知れば、今頃服部が途方にくれているだろう事は、想像に容易い。まして今の服部は、新一の抱える躯の秘密を知っている人間だ。ちょっとの風邪が新一にとっては命取りになりかねない事を知っているから、服部は今頃途方にくれているだろう。
「大切にしてるくせに迂闊だよ。西の名探偵も。傘くらい持ってけばいいのに、夏に雷雨はつきもの」
「少しは涼しくなるかしら」
 雷を伴い降り出した雨は、乾いた土にゆっくりと染み込んでいく。庭の緑が一層鮮やかに染まる景色が綺麗だとフト思う。
「名探偵は、雨苦手なのに」
 空翠な木々に、快斗は眼を細め呟いた。
「苦手だけど、嫌いじゃないから困るって、泣いてたわよ」
 以前服部から聴いた話しが有る。未だ新一がコナンの時だ。雨の中飛び出した事を。泣いていたとは、当然服部の事だ。
 雨が苦手で、降ればゲンナリするのに、時折無茶な行動に出る東の名探偵の悪癖を、服部は脱力して窘めてきているのだ。けれど、聞き入れられない事が多い事も、知っている哀だった。
「七夕なのにな」
「意外ね、泥棒さんが七夕好きなんて」
 哀は冷ややかな眼差しと面差しで、怪盗として存在する快斗を知らない。
 哀の知る彼は、昨年の夏。傷を負い、服部に頼まれるまま傷の手当てをした時から少年の姿だ。以来何かと新一や服部ばかりか、哀の前にも姿を現すようになった。
 世間を騒がせ、窃盗関連を扱う部署である、警視庁捜査三課の捜査員を翻弄している世紀の怪盗だとは知っている。けれど実際新一や服部のように、立場的にその姿で対峙した事は哀にはない。 
 月下の魔術師と呼ばれる程、冷冽な月さながらの冷ややかな印象だと言われる快斗の裏の顔を、実際眼にした事はない。けれど、感じる事は案外容易い事だとも哀は思う。
 軽口を叩く快斗は、寧ろ対外的仮面を被っている姿だろう。裏の顔も、さした変りはないだろう。快斗の秘める本質は、もっと凛冽で、研ぎ澄まされた冷ややかなものだろうと予測している。むしろ怪盗キッドと呼ばれる姿は、ストッパー的要素が強いのかもしれないと思う哀だった。
 思う事に根拠はない。ただ時折交じわせる会話から感じ取れる印象でしかない。それは科学者の台詞じゃないと、哀は内心苦笑する。感じ取れる事が不思議ではない事が、不思議だった。
「ロマンチックでしょ?」
 ニッコリと笑う笑顔に、哀は半瞬呆れた。
笑う笑みは、その酷似する造作から似ている筈なのに、新一のような、危ういまでの静謐な透明さはない。
 新一の笑みは、時折恐ろしい程無色透明で色がないのだ。それが新一のある一点での脆弱さのように、哀には感じられて仕方ないのだ。弱さではない。かといって、硝子のような脆弱なものではない。けれど確かに脆いナニかを孕んでいるようで、恐ろしくなる時がある。自分が気付いているのだから、アレ程大切にくるみ込むように新一を見守っている服部が、気付かない筈はないだろう。
「雨は恵みよ、地へのね。自然で無駄なものなんて、一切ないのよ。生々流転の摂理の一つ」
「科学者なのに、案外哀ちゃんロマンチスト」 
 生々流転の摂理の一つは、科学者の哀らしからぬ言葉に聞こえた。
「哀ちゃんは、やめてほしいわね」
 一向にその呼び名を改めないのは、出会った当時の西の名探偵と呼ばれていた服部と同じだと、哀はこっそり溜め息を吐く。彼も未だ都合よく 『嬢ちゃん』と呼ぶ事をやめない。もっとも、その呼び名は、聴く者が好き勝手に解釈できる呼び方ではあるので、今では哀は服部の呼び方を窘める気もしなかった。そして快斗が哀ちゃんと呼ぶ事も、至極当然な事だとも判っている。服部同様『嬢ちゃん』と呼ばれたら眩暈ものだけれど、 『哀さん』とか呼ばれたら尚眩暈ものだから、近頃快斗の呼び方にも苦笑しつつも、諦めの境地にある哀だった。
「だって七夕に雨降ったら、天の川が氾濫しちゃう」
 本気とも嘘気ともいえない快斗の台詞に、哀は今度こそ呆れた顔を隠さない。
 幼い少女の面は、けれど呆れて嘆息を吐く様は、小学一年生のものではなかった。元々哀は子供らしく振る舞う事は苦手だった。それを考えるなら、工藤新一は、ある意味柔軟性を持った人間なのだろうと、コナンだった当時の新一を思い出す。
 折れそうに細い首。華奢な手足。頭脳だけが大人で外見は子供。その所為で、コナンという子供は、ひどくアンバランスな印象だっただろう。
「そういえば哀ちゃん、さっきのお友達、可愛い子だね」
 哀の考えを呼んだように快斗が口を開く。
「手ぇ出さないでね。歩美に手を出したら、私だけじゃなく、工藤君にも酷い目に合うわよ」  
「可愛い子は、褒めるのが男の甲斐性ってもんでしょ?」
「知らなかったわ。貴方も西の探偵さんと同じく、フェミニストでタラシなのね」
 自覚しているフェミニストは始末に終えないと、以前新一が服部のフェミニストぶりを、憮然とも拗ねるともとれる声と仕草で話していた事を思い出す。
 哀の眼から見ても、服部は呆れるフェミニストだ。そのくせ、女に甘える術をちゃんと知っている狡い男の部類に入る。その服部を甘やかしている自分はどうなのだろうか?考えれば、苦笑しかできない。できないから、服部はやはりタラシだと苦笑すれば、新一の気苦労が判る気がした。
 けれど服部と、今では快斗も口を揃えて言うのは、新一の方が自覚のない天性の人タラシだと言う事だ。それには哀も同感だった。工藤新一の万有引力は、半端ではないのだ。見詰められたら引き込まれてしまう眼差しの深さや、それだけではない綺麗な魂に。
「大丈夫、哀ちゃんは十分美人さんだから」
「工藤君の次にでしょ?」
 服部同様、快斗が新一を大切にしている事は、哀にも判る。だからこそ、こうして時折フラリと様子を窺うように現れるのだ。新一の躯の秘密を正確に知るのは、自分と関わった阿笠博士と服部の他に、今は快斗が加わっている。
 飄々とした外見に相反し隙がなく、得体の知れないのが快斗だと、哀は思っていた。
 油断はできない相手だとは思うけれど、服部同様、新一を大切にしているのを知っているから、哀は何も言わない。新一自身、軽口を叩きながらも、決して嫌がってはいない事が判るから、哀は何も言わない。
「滅相もない」
「西の探偵さんといい、泥棒さんといい、確かに工藤君は美人でしょうけどね」
 仕方ない人達と、哀は大仰に溜め息を吐いた。
 女の眼から見ても、工藤新一は無類の美人に入る。というより、美人と言う言葉にも誤塀があるだろう。
形容詞的には『綺麗』の方が似合う筈だ。 
 雑踏の中でも人目を惹く存在。それが工藤新一だ。
精巧で精密に作られた人形のような無色天然さがあるのだ。そして瀟洒で静謐な雰囲気や気配を持っている。その独特の印象こそ、新一が綺麗と言われる所以であり、特異な印象なのだろう。例えるなら、真冬の蒼い闇夜に切り取ったように浮かぶ冴々とした白い月を連想させる。特に推理時の新一の印象は、月に通じる。隠し持つ人の深淵を、鏡面のように綺麗に映し出して行く。その研ぎ澄まされた眼差しの深さや、纏う気配の冷ややかな鋭利さは、皎々とした月そのものだ。ソレは決して、誰にも真似は出来ない。
「名探偵は、コナンだった時も、アノ眼差しだけは変わらなかったからネ」
 哀が淹れてくれたアイスティーを一口含み、その眼差しは外で降る雨を眺めている。
「そうね、だから尚更私も工藤君も、彼女たちが大切なの」
 判ってるでしょ?哀の眼差しがそう告げている。
「名探偵は、随分演技力あるよね。流石大女優、世界の恋人、藤峰有希子の一人息子」
「大抵は騙しおおせてたけど、アノ人の大切な幼馴染みさんには、何度もバレ掛けたわね」
 少年探偵団の面々とキャンプに行き、洞窟で銀行強盗で手配中の被疑者と遭遇し、腹部に被弾した時は、流石にもうダメかと観念した名探偵を救ったのは、西の名探偵の友情以上の想いに支えられていたのと、阿笠博士が即席で作った変声マスクのおかげだ。そしてその日を境に、西の名探偵と東の名探偵は想いを確認しあったと言う事を、哀は知っている。
「歩美達が在てくれたから、私も工藤君も、子供で在る事に堪えられたの。あの子達の純粋さが、私達の救いだったのよ」
 それは今も哀にとっては変わりない。
本来子供は、異端を見分ける眼は大人より顕著だ。その中で、歩美達の子供らしさに何度救われたか判らない。
 特に新一は、探偵としての資質と技量があっただけに、外見年齢と実年齢のアンバランスさがフト見せる瞬間の脆弱さと相俟って、視る者を不安にさせる要因を幾つも抱えていた。
 いつも前に走り出そうとする眼差しの深さが、哀には恐ろしかった。それは服部も同様だろう。恋愛感情と言う複雑な想いが絡んでいる分、その想いは服部の方が強かった筈だ。その所為なのだろう。こまめに電話で近況連絡を取り、大抵週末毎に、大阪からわざわざ東京まで訪れていた。軽口に誤魔化しながらも、服部は工藤新一が巻き込まれた組織の危険性を、正確に理解していたのだ。
 外見は子供なのに、前を見詰める眼差しは澱みなく正面を凝視し、走り出しそうな色をしていたから、そのアンバランスな不均衡さに、不安を覚えさせられた事は、数えれあげればきりがない。そのくせに、呆れる程危機管理能力に劣ってもいるから始末に悪い。
「私やあの人が子供として過ごしてこれたのは、歩美達が在たから」
 アノ子供の純粋な強さに何度も助けられた。そして救われ癒され、だから大切な聖域なのだ。
 純粋に友達の為に泣く事のできる彼等に、何度救われたのか判らない。無邪気なくせに、物事の本質を適格に見抜く眼をした彼等に、幾度大切な事を教えて貰ったのか判らない。
 あの純粋な強さや勇気を、成長過程で失ってほしくなはない。哀も新一も、そう願っていた。
「貴方はなんで、江戸川君が、工藤新一だって見抜いたの?魔法使いさん」
 木々を空翠に染める銀の雫を眺め、哀は視線を眼前の新一に酷似する輪郭に向ける。
「魔法使いじゃ、ないでしょ?」
 哀の台詞に、快斗は少しだけ苦い笑みを張り付かせた。
「アラ、工藤君は、そう言ってなかったかしら?」
「アレは名探偵の嫌み」
 新一と良く似た造作をしているけれど、若干快斗の方が背が高く、肩幅も広い。その肩が苦笑に竦められる。
「そう?貴方魔術師って呼ばれてるって聴いたわよ」
「奇術師、魔術師、怪盗、色々ネ。でも俺を『魔法使い』なんて呼んだのは、名探偵だけ。アアでも、詐欺師ってのも言われたかな」
「アラ、詐欺師ってピッタリね」
「……どう言う意味でしょう…?」
「ナンパでタラシで、西の探偵さんと街歩いてたら大変そうね」
「そりゃ無理、服部の方が、声かかる率高いから」
 それは仮定ではなく、実体験から滲み出た台詞だ。              
 服部と新一と三人、街を歩けば女性達から、それも年上の女性から数多く声がかかるのは、腹の立つ事に、服部がダントツだった。少女達より、玄人じみた筋の女性や、OLやらと、確実に年上と判る女性達から声がかかるのは服部だった。その都度眼に見え、東の名探偵が不機嫌になるのが快斗には新鮮だった。そんな時間を作って過ごしてきたのだろう二人の絆の強さに、羨望が湧く。
「それじゃ、工藤君は大変ね」
 大変に被せられた言葉には、幾通りかの意味が存在している事を、快斗は見抜いている。
「拗ねたり不機嫌になったり、子供みたいに表情変えるよ。コナンだった時より、子供に見える時あるし。でもまぁ、別の意味でも、結構大変かな」
「モデルのスカウトは多そうね」
「人形みたいだからね、立ってるだけで口開かなきゃ」
「案外工藤君、口開くと凶悪だし」
 端整で繊細、瀟洒な人形のような冷ややかさで、生きた感触を感じさせない新一は、けれど口を開けば案外乱暴で、容赦のない事を知っている。
 大抵は物腰の柔らかさで話すか、推理時は抑揚を欠いた淡々とした声で話すかだが、モデルのスカウト云々となると、話しは変わる。
 瀟洒な面差しは一変し、その白皙な繊細さからは想像できない、乱雑で凶悪な台詞が投げ付けられる。それはコナンだった時から変わらない、新一生来の勝ち気さだ。
「俺がね、江戸川コナンが工藤新一だって知ったのは、例のインペリアルエッグの時。船での電話や無線回線は盗聴してたから。でも確信したのは、スコーピオンと対峙している新一視た時。ちょっと怖かったかな。銃持った相手の前に平然と立ってて、撃てって言ったんだからね。怖いよ。当たりどころ悪けりゃ、死んじゃうんだから」
 今思い出しても恫喝される、新一の当時の姿だ。 
 折れそうな細すぎる首。長く華奢な手足。小柄な躯。どれもがアンバランスな印象で、そのくせ端然と佇んでいる鷹揚さに、恫喝させられた。
 相手が右目を撃ち抜く事で、先祖の無念を晴らしている暗殺者だと知っても、あの至近距離で平然と銃の前に立ち尽くしていられる人間を視ているのは、怖いものがある。
「……そうね…工藤君は、ある意味、死に対しての恐怖心が希薄なの…」        
 それが新一の強さであると思う一方、ある一点で、無色天然な彼の脆弱さに感じられる時がある。死に対しての恐怖が希薄な人間は、生に関しても希薄だ。生きていると言う現実感が乏しい事が概ねで多い。
「他人の死や哀しみには、あれ程敏感なくせに、自分の事には希薄で無関心なのよ」
 困った人よ、哀は再び外に視線を向け、呟いた。
「服部が過保護に心配する筈だよ。無自覚だからね、名探偵は」
「それでも止めないだけの強さを持ってるから、工藤君も安心してるのよ」
 厳しい愛情だと、哀は思う。
誰より新一を大切にしている服部は、それでも新一が真実を追求する為走り出す事を、止めたりはしない。愛している人間が傷付き痛みを背負うと承知して、それでも新一が真実を求め走り出したら、見守るだけの強さを持っている人間だった。その強さが、時折憐れに思う時がある。
「呼び戻しているのは、きっと服部なんだろうね」
「…そうね…」
 呼び戻す意味を、哀は悟っている。それだけ服部の背負っているものは大きい。そう言う事だろう。
「気付いてる?」
 何気なく外を視ていた哀の眼差しが、快斗の双眸に焦点を絞る。長い睫毛の間から放たれる、瞬きを忘れた眼差しは、澱みや躊躇いなく、漆黒の眼球の中核を射抜いていく。 
 真摯で真剣な声だった。その声音を聴けば、哀がただの小学生ではない事は判る。快斗を凝視する視線は真摯でいて、哀しみを横たわらせている。
「怖いね、名探偵はさ。どんどん深みを増して行く。実感できちゃう所が怖いかな。でも、服部の言葉は、言霊の力を持ってるからさ。特定人物だけには」 
 呼び戻すと言う意味は、そういう意味が大半を示している。
「貴方は?魔法使いさん?工藤君からそう呼ばれる貴方は、何の魔法を使えるのかしら?」
 薄い笑みは、けれど酷薄なものではなく、柔らかく瞬き、意味深に横たわっている。
「俺は服部みたいな『魔法』は使えないよ。名探偵を呼び戻す魔法なんてね。魔法なんてまやかしなのに、服部のソレだけはまっすぐ名探偵の心に響く力を持ってる」
 あんな真似、自分にはできないと、快斗は苦笑とも自嘲とも着かぬ笑みを刻み付ける。
「でも、名探偵は、俺に魔法の言葉をくれたよ」
「魔法の言葉?」
 快斗の台詞に、哀は初めて表情を崩し、キョトリと不思議そうな色を浮かべて見せた。
「守ってやるってね。去年の夏、言われたから」
「守ってやる?貴方案外気に入られてるのね、魔法使いさん」
「根拠は?哀ちゃん」
「工藤君は、特定の人間に守ってやるなんて、言わない人だもの。あの人は、事件に関われば関わった人間を守ろうとするし、他人の傷や哀しみを救いあげようとして必死になって、自分が傷付いていく事さえ気付かない子供みたいな人だけれど、特定のダレかに向けて、そんな事は言わない人だわ。西の名探偵さんになんて特にね、絶対言わないわね。もっとも、違う魔法の言葉を持ってるんだろうけれど」
「掴まえるまでは、守ってやるって」 
 昨年の夏、捜査三課の管轄である怪盗の快斗は、気付けばそれは捜査一課と、経済犯罪を扱う二課まで巻き込んでの殺人事件の中心に、巻き込まれていた。
 負傷した自分を目敏く発見し、盛大に怒鳴られ、貸を返してやると、コナンだった新一に救われた。その際言われた台詞だ。
『お前を現場でパクるまで、守ってやるから。情けねぇツラしてんじゃねぇっ!とっとと起きろ!』 
 そう言って、負傷した自分を抱き起こそうとした小さい手の感触は、今でも覚えている。きっと、絶対、一生涯忘れられない温もりだろう。
 頼りない程小さい躯。小学校一年生と言う年齢より更に小さく、同年代の子供達の中でも小柄だろう。
その小さく頼りない筈の躯は、賢明に自分を助けようとしていた。
 一握りで呼吸を奪えそうな細すぎる首筋。華奢な手足に、小さい躯。
必死になるのは、自分の事だけでさえ精一杯の筈なのに、他人の事を構っていられる余裕など何処にもない筈なのに、それでも、小さい躯はいつだって必死にナニかを守ろうとしているのは、例のエッグの時から何一つ変わりない。
 人の哀しみを救いあげ様と必死になっている。真実を追求しようと必死になって、自分がより深く疵ついている事にも気付かない。それが怖い。 
 推理する事は、新一にとっては呼吸すると変わりない自然な事なのだと、以前聴いた事がある。それを目の当たりに見せつけられた気分だった。 
 怒鳴られ助けられたのに、極短時間で再び愚行を起こし、今度は服部に助けられた。だから尚更新一の機嫌が悪くなる事を、快斗は知っている。そしてやはり新一は、誰もが隠したい真実を、極当然のように、何の衒いもなく見抜いてしまうのだ。
 白皙の瞼、長い睫毛の間から放たれる眼差しはただ静かに瞬き、人の隠し持つ深淵を映し出す。色素の薄い眼差しが、不思議そうに自分を凝視すれば、不思議とその眼差しの奥底には蒼い深淵が映し出されている気分にさせられた。
『お前、俺と同じか?怪盗してる意味と理由』
 前振りなく、独語のように呟かれ、それでも眼差しは逸らされる事なく問い掛けられて、瞬時には反応できなかった。
 問い掛けてくる眼差しの深さは澱みなく、けれど追求する厳しいものはなく、ただソレはソコに静かに在った。
 静謐と言う言葉を形容として知ってはいた。けれどアノ時初めて、その静謐と言う言葉の意味を知った気がした。
 蒼い闇を映す湖面のような眼差しは、全体の印象は、真冬の冴えて研ぎ澄まされた月そのものだった。
 誰もが隠したい内心を、けれど新一の綺麗な眼は、不思議なものでも視るかのように、ソコに在る真実を淡如に突き付ける。  
 隠している筈のものが、新一には不思議なものでも視るかのように、見抜けてしまう。だから新一は不思議そうな表情をするのだろう。彼には極自然にソコに在るものが視えているのだから、必死に隠している人間が、何を隠しているのか判らないのだ。だから新一は時折不思議そうな表情をしている事がある。
 それが周囲の人間には、まるで進化過程にある筈の環を飛び越えて進化してしまった、ミッシング・リンクとして映るのだろう。それこそ新一が、警察からも、犯罪者からも、畏怖と畏敬を祓われている所以だろう。
「それで貴方は、あの人に掴まる事に決めたの?」 
 それは快斗を知れば、確認の意味しか持たないものだ。
「掴まるのはね、あの小さい手って決めたの」
 アノ忘れられない温もりに。アノ静謐な魂に、掴まると決めた。
「今は小さくないけれど?」
「アノ時掴まっちゃったからねぇ」
 必死になって、自分を抱き起こしていた小さい手の感触や温もりは、忘れられない。きっと生涯忘れられないだろう。アノ時自分はもうその存在に掴まってしまったのだ。
「中森警部に、恨まれそうな台詞ね」
「ハハハ…警部と俺とは、近いのはルパン3世と、銭形警部ってとこかな」
 中森警部は目暮警部と同期生で、捜査三課の主任刑事だ。今ではKID選任の捜査官と言われてしまっている程、快斗にも関わりの深い刑事だ。そして東の名探偵である工藤新一の幼馴染みと言うポジションに生まれつき、今では彼が肉親と変わりなく守りたい者と断言する、毛利蘭同様、中森警部の一人娘の青子は、快斗にとっては大切な幼馴染みであり、夜の魔女と異名の高い小泉紅子のお気に入りだ。
「ピッタリね」
「哀ちゃんは?」
「運命から逃げるなって、言われたわね」
「フ〜〜ン、名探偵らしい台詞」
「アノ人は、どんな運命からも逃げないわ。どんな困難な目にあっても、現実を正面から受け入れる精神の強さがある。それがアノ人の怖い所でもあるわね。そのくせ自分の事には無関心で、死に対する恐怖心が希薄。アンバランスもいい所よ」 其処で哀は一旦言葉を区切り、深く溜め息を吐き出した。そして少しばかり自嘲すると、再び独語じみた台詞を吐いた。
「科学者なんて、馬鹿で性質の悪い生き物よ…」 
 呟きに近い言葉を紡ぎ、視線がリビングの外に流れる。
 相変わらず外は夏の夕立が降っている。重い雨雲が垂れこめ、恵みの雨を地を覆っている。
「科学は元々自然発生だよね」
 哀の視線の先を追い、快斗の目線も外へと流れた。
 科学が自然発生の応用だとすれば、哀が先程言った台詞も頷ける。
「19世紀以降に開発された技術なんて、元々自然がやってきたものの応用。それに理論を当てはめる作業の繰り返し。気の狂った先駆者達の屍を継承して、識る事を求めているのが科学者よ」
「ラプラスの魔?」
「怪盗さんは、東西の名探偵同様、物知りね。自然界の全構成要素と初期条件が揃えば、自然界のあらゆる現象は予測できる。18世紀後半から、19世紀半ばまでは、そう信仰されてたみたいね。ラプラスの魔は、機械論的、決定論的自然観から導かれる必然的な帰結。考えれば、単純な問題点だらけで、成立しない信仰よ」
「自然界の全構成要素を瞬時に知る事は不可能。構成要素の配置順次を調べている間に、最初に調べた配置は変わってしまう。だから初期条件を厳密に調べる事はできない。構成要素の配置を知ろうと観測すれば、結果的に構成要素が乱れてしまう」
 澱みない快斗の台詞に、哀は薄い笑みを綺麗に刻み付ける。
 快斗のIQは400と言う、冗談にもならない数値が弾き出される事を哀は知っている。
「客観性を重要視する科学は、その到達点は不変の同一性としての実体と、それらの間に成立する不変で普遍の法則を想定する。けれどこれは元が自然の中に自在するするものではなく、人間の認識の中から生み出されたものにすきない。科学者は、識る事に貪欲なのよ」
「原理への欲望とコントロール願望」
 哀の自嘲に、快斗は淡々とした声を出す。
飄々とした軽口を叩く表情の背後から現れたその貌こそ、彼の本質なのかもしれないと、哀はフト思う。
「科学はなるべく少ない同一性で、なるべく多くの現象を説明しようとする欲望を持ってる。だから科学が真理と認められるのは、再現可能性が必要不可欠」  
 再現可能性。それはマニュアル化された法則だ。誰が実験しても、結果が同じである事。誰が計算しても同じ解答が出る事。この二つが絶対条件として課せられているから、APTXは偶然の副産物にすぎないのだ。現に、開発者の哀すら、その副産物を二度は作り出せないでいる。
「私、こんな風になってもならなくても、研究してたと思うわ。民間企業と違って、組織にいれば純粋に研究だけを続けられた。費用の心配なんていらなかった。世間の常識と罪悪に眼を瞑れば、悪い環境じゃないのかもしれないわ。科学者にとってはね。識ると言う研究を貪欲に続けられる環境ではあったわけだし」
「識る事の怖さは?」
「怖ければ、科学者はしてられないのは当たり前だわ。でも今は…怖いわ…少しね…」
 相変わらず抑揚のない声をしている哀は、けれどその一瞬見せた眼差しは、背後に深い哀しみを湛えている。
「辛くない?」
「辛いのは、私じゃないわ」
「名探偵?」
「そうね……」
 どちらのかしらね……哀は視線を外から逸らし、自嘲する。
 辛いのは、決して自分ではないと、哀は思う。識る事の怖さ、その摂理は、自分より新一や服部の方がより理解しているだろう。
 高校生で探偵として名を馳せて来た二人だ。人の深奥に眠る深淵を直視すれば、それは同じ分の力で向こう側から凝視される事になる。他者の深淵を垣間見る事は、自己の深淵と対峙する精神の強さを持っていると言う事だ。深淵を識る二人は、それでも尚深いナニかを求め、走り出した。いつ自分の躯がどうなるか判らない爆弾を抱え、それでも新一は走り出した。それはやはり識りたいからだろう。隠されている真実という深淵を。
「七夕、しようか」
 そう笑うと、快斗が哀の眼前に長い指先を瀟洒な仕草でスゥッと差し出すと、小さい花々と一緒に、短冊が一枚現れる。
「願い事、書いてサ」
「……天の川は氾濫してるわよ。魔法使いさん」
 快斗の台詞と笑みに、哀は半瞬呆れた。呆れたが、快斗の台詞と笑みを読み違える事はなかった。
「本当、貴方も西の探偵さんと同じね」
「でも実は一番フェミニストなのは、名探偵なんだよね。サイテー的な天性の人タラシだし」
「その天性な人タラシって判ってて、掴まっちゃったんでしょ?魔法使いさん」
「哀ちゃん、その『魔法使い』は、やめてくれない?」
「貴方が私を『哀ちゃん』て呼ぶのをやめてくれたら、考えてもいいわ。嫌なら詐欺師でも泥棒さんでも、いいわね」
「……どれも嫌かも…名前で呼んでくれる気、ない?」
「黒羽さん?それとも快斗さん?」
「……魔法使いでいいです…」
 哀に名前で『さん付け』で呼ばれると、どうも違和感が多大過ぎる。
「雨、やまないかしらね。折角だし」
「新一達、大丈夫かねぇ。電話ないし」
 珍しく二人とも饒舌だった。会話の為の会話を楽しんだ気がする。他人との接触が苦手な哀と、実は軽い印象とは裏腹に、服部同様他人との距離感が微妙な快斗と、二人とも饒舌だと言う意識がある。けれどこの空間が心地好いのは確かだった。 そんな時だった。
"R R R R R ………"
テーブルの上に置かれている快斗の携帯が音を立てた。着信メロディーは、先刻代代に出たルパン3世だった。
「アラ、お呼び出しかしら?」
「かな?」
 ディスプレイのナンバーは、確かに西の探偵の名を映し出していた。
「ハイヨ、今何処?」
 快斗は通話ボタンを押し、軽口に口を開いた。