情後、抱き合い忙しい息を整え、不意に新一は服部のパジャマの上着を羽織ると、窓辺に近付いた。 新一には大きいパシャマの上着から、スラリと伸びた白い下肢が、煽情的である一方。神聖な白さを弾いている。闇の中でそれは、一際痛い程の白さを弾いている気分にさせる。 「月がそないに気になるんか?」 上着を新一に取られてしまい、服部はズボンに足を通すと、背後から新一を抱き締める恰好で外を眺めた。 窓の外は蒼い帳に包まれ、深閑とした深夜の気配が心地好く漂っている。その中を大きい月が切り取ったように浮かび、優游と地を見下ろしている。 「月が視てるって、どういう意味やったん?」 「別に、ただ単純に視られてるなって。蒼い夜だなって思ったんだよ」 別に他意はないと、月を見上げたままの視線が遠くを見詰めている。 宙に溶ける視線をしているだろうと、背後から抱き締めた服部にも判る。だから服部は片手で覆えてしまう小作りな面に在る瞼を塞いでしまう。 「オイ、何しやがる」 突然塞がれた視界に新一が抗うと、そのまま細腰を囚われ服部の腕に深く引き寄せられる。 「労れよ、俺今熱あんだかんな」 「せぇへんよ」 「確かめても未だ不安かよ」 大仰に嘆息を吐くと、新一は抗いを止め、諦めたように服部の胸板に背を預けた。それでも未だ服部は瞼を覆う掌を解かなかった。新一は諦め、静かに口を開いた。 「なぁ服部、お前が怖がるのはきっと、絶対、俺の所為なんだろうけどな、月はいつだって姿形を変えてくんだぞ。満ち欠けを繰り返してくんだ」 「工藤は月やないやろ?」 抽象的な言葉だと思う。 その眼差しの深さや潔さが、よく月に譬えられる新一は、けれど人間だ。時には生きた感触さえ失う人形のような抑揚を欠いた時が在ったとしても、新一は天に浮かんでただ地を見下ろしている、手の届かない球体ではない。こうして抱き締めれば、温もりを感じ取れる存在だ。 けれど新一は、服部の台詞に薄い笑みを刻みつけ、静かに話す。 蒼い闇に溶けるような響きを持っている語りは、静かでそれ自体に意思が備わっている感触すら服部に抱かせた。 「人の思いも姿形を変えるんだ。悟りも迷いも苦悩も何もかも。どんなに悟ったつもりでも、また別の迷いが生まれるんだ。迷いに答が出せるお前の強さを失うなよ」 でけなれば……。続くだろう言葉の意味を感じ取った服部は、骨身が軋む程、華奢な姿態を抱き締める腕に力を込める。 「悟れんよ……」 苦しげな、呻きに交じった声が漏れる。 悟れない。悟る事などできはしない。それは新一が倒れた時、痛感した事だ。 哀は厳しい愛情だと言った。新一も哀と変わらぬ言葉を言った。 大切な人間が傷付く可能性を負っていたとしても、服部に新一を止める事はできない。 それはある意味で、恋人としては、冷たい願いや祈りなのかもしれない。けれど、服部は新一を止める事はできないのだ。どれ程止めたいと切望しても、止められない。それが新一の望みだからだ。だからせめて、いつでも腕の伸ばせる距離で、見守っていようと決めたのだ。 せめて新一が窮地に陥った時、助けられる位置に在たかった。呼んでもらえる人間でいたかった。傷付けば、抱き締められる立場に在たかった。それは、こんな風に、心配をかけてしまう為では決してなかった。 それなのに、何一つ悟る事などできない。決めた事一つ悟れない。いつだって、自分は泥沼の迷いの中で足掻いている。 大切なら笑顔で在ろと言われた時は、理解していた筈だったそれが、今は笑顔も作れない。 「形を変えないものなんて、実際は何一つないんだ。それは別に下らない感傷じゃなくって、当然の事で、哀しい事でも不幸な事でもないんだ。お前さ、辛い?哀しい?それとも怖いか?」 こんな自分と一緒に在るのは? 自分の存在は、もしかしたらこの優しい人間に、哀しみばかりを背負わせているのではないのだろうか? 「……辛いで、お前が倒れるのは。でも、お前が俺の知らない所で倒れるのは、二度とゴメンや」 後から誰かに結果だけを聞かされ、もう二度と手が出せない事実を突き付けられる。 誰かに結果としての事実を告げられ、経緯をなぞり、時々の感情や痛みを反芻するような真似、そんな事だけは真っ平だった。そんな事は、コナンだった新一が、銃により負傷したアノ時だけで十分だった。 いつだって、手の届く範囲に在たい。それは服部には何より優先する、願いと祈りが込められている。その為に、大人になりたかった。見守るだけの強さがほしかった。崩れない勇気がほしい。 「迷って悩んで、それでも答を出していけるお前の強さが好きだよ。辛かったらな、言えよ」 「月が満ちかけて繰り返されて時間が流れても、俺にとっての工藤はなんも変わらんよ。こうしてお前が腕に在る事が、奇跡なんやからな」 いつだって守りたい。大切に大切にして、誰にも見せず、そう思うのに、結局その存在に癒されているのは自分の方だ。 「奇跡ねぇ」 服部の台詞に、新一は薄い肩を少しだけ竦めた。 「奇跡は起こして始めて価値が出るんや」 待って祈っても奇跡は起きない。起こしてこそ始めて価値がでるのが奇跡だ。 「らしいな、ソレッて」 クスリと笑うと、新一はクルリと態勢を入れ替える。 「別にな、悟る必要ないんだぜ?俺の為になんて悟るなよ。迷ってろよ。でないと、先に進めないぜ?迷わなくなったらおしまいだ。俺は悟ったお前ぇになんて抱かれてやらねぇ。泣きたかったら泣いていい。辛かったら辛いって言え。抱き締めてやっからさ。その為に、俺在るんだろ?」 スゥッと、空気の動いた流れさえ感じさせず、新一の腕は静かに動き、精悍な輪郭を包みこんだ。ジィッと覗き込むように見上げてくる眼差しには、抗い難い力が有る。絶望的に深い色をした眼差しだと、服部は思う。 「いっつも甘やかされとるな。でもな工藤、だったら自分も泣いてくれへんか?狡いやろ?」 服部は泣き笑いの表情で新一の瀟洒に縁取られた白皙の貌を凝視する。 新一は、自分が苦しい時は何も言わない。手負いの獣のように、ひっそりと息を潜め、苦しみを身の裡で飲み下すのだ。 少なくても、見た目の傷なら、傷から判断する痛みは理解できる。痛みは誰もが持つ、ある一種の共通感覚だからだ。何処か常識と言う言葉と似ているのかもしれない。常識とて、個人価値に付随する共通感覚だ。見た目の傷から判断される痛みを気遣う事は簡単だ。けれど、精神に負う痛みや疵は外からは見えない。見えないから、深さや痛みの程度など、計りしれない。傷付いているのだろうと、推測する事しかできない。それ以上の事など、決して他人にはできないのだ。気遣う事さえ、相手に痛みを覚えさせてしまうかもしれない。それが怖い。 「バーロー、俺はぜってぇお前の前では泣かねぇって決めてんだ」 「狡いやっちゃな、泣き場所所、作らんといてや」 「さぁな。お前の眼にどんな風に視えてっか知んねぇけどな」 其処で一旦言葉を区切ると、新一は繊細な面差をスゥッと服部の眼前に突き出した。 「俺はいつだって、ドップリ迷いの中、なんだからな」 眼を細め、莞爾と笑う仕草に、服部は半瞬呆気にとられた。 この眼差しの深さや強さに惹かれたのだと、改めて思う。 綺麗な輝きはいつだってまっすぐ前を凝視して、決して逸らされる事がない。崩れる事のない強さ。 ガラス細工の脆弱さはない、月の光を凝縮したような色素の薄い眼差し。怖いと思うのは、その輝きが、近頃益々深みを増してしまった事……。 時折ドキリとする程、色素の薄い茶の眼差しは、蒼く透けて見えるのだ。それが怖い。遠い眼をして、狭間を見詰め続けていく新一が。何を見詰めているのかと、同じものを視ようとしても、視えていない怖さが付き纏う。 主観により、物事を見詰める眼差しは変化する。決して同じものは視えないのかもしれない。眼球というレンズを通せば、屈折度はそれぞれの価値により簡単に変化してしまう。 綺麗な眼差し。綺麗な魂。強くて優しくて、そして脆さを秘めている。 「俺なんて、別になっっんにも完璧なんかじゃねぇんだ」 完璧を望まれ、無理に押し込めてきた感情。完璧で在る事をだけを望まれた存在。 ピースを繋ぎ、事象を見詰め、絡んだ糸を解きほぐす作業は、確かに探偵に必要な資質だ。探偵に必要なのは見極める眼を持つ事なのだとは、百も承知だ。その事に関しては、天の才が新一にはある。見極める眼。そして、ピースの組み立て方が、おおよそ他人とは違うのだ。 「でもアレだな、俺今一つすんげぇ才能発見した」 「なんや?」 今更何をと、服部は眼前で悪戯気に笑う新一を眺めた。 悪戯気に笑う貌に、幼い姿が重なる。 「お前の辛さが判る事。お前の痛みが判る事だよ」 悪戯気に笑う貌が、刹那に反転する。すれば真摯な眼差しが服部の眼前には在った。 人の辛さや痛みが判る筈はない事を、新一は知っている。判ったとしたら、それは主観に惑わされた、主体の都合に生み出される痛みや疵だ。 けれどと…何処かで呟きが漏れる。 可笑しい程判る。服部が曝す表情は、自分がつけてしまっだろう疵だからだ。 「工藤……」 息を呑む、絶句する音が零れ落ちた。 「すまねぇな」 そんな表情をさせてしまっているのは自分なのだと、新一に自覚はある。不安がらせるような要因を、与えてしまったのは自分だ。 自分を大切にする事で、服部はますますま傷付いていく。そしてその分優しくなっていくのだ。それでも自分は自分だから、真実を求める事はやめられない。 たとえそれでどうにかなってしまったとしても、視る事はやめられない。それは新一にとって、生命を放棄するのと変りない事だからだ。 「堪忍な…」 今だけや、そう泣き笑う。 どうして新一はこんなに優しく強いのだろう?自分は嘆く事しかできないのにと、服部は細身の姿態を抱き締める。 自分の疵を自覚できない子供のような部分が、ある意味新一の脆さといえる。自覚できない分、他人の痛みや疵には敏感に反応してしまう。 傲慢なのだと思い知る。所詮傍観しかできない自分の痛みなど、些細な事だ。見守っている事しかできない歯痒さや焦燥に比べれば、新一自身の痛みに比べれば、こんな事は痛みにならない。 近くに。結果と事実だけをダレかに告げられる事のないよう、誰より近くに。そう望んだのは自分の筈だった。倒れたら支えられる腕でありたい。そう望んだのは自分だ。こんな事では、体たらくもいい所だ。守るなんて言葉は、無知な子供の繰り言にすぎなくなる。 「お前は、お前のままでいろよ。俺の為になんて、変わるなよ」 満ち欠けを繰り返す月。人の想いもまた変化していく。迷いも悟りを繰り返し、二人で歩いて行けたら、それは倖せだな事だろう。 「適わん事ばっかやな…ほんま……」 細い肩口に顔を埋めれば、宥めるように触れてくる指がある。 いつだって、誰より傷付いている新一は、こうして誰かを救いあげようとする。それは新一には、意識するとか、考えるとかする必要のない、極自然な事なのだろう。呼吸する事と変りない程。 細い肩から僅かに視線を伸ばせば、蒼い闇には月が浮かんでいる。それはアノ日祈りをこめた月と同じだ。 蒼い闇に浮かぶ白い球体。満ち欠けを繰り返し、地球を一定に回り続ける。 そうありたいと願う。変化が成長であればいい。無知な自分は何も知らない。大切な人を守る術一つ見出だせない。こうして癒されてしまう自分なのだから。 近くに在るだけでは意味がない。守れるだけの強さが欲しい。繰り返す迷いと苦悩が、悟りへと続く事はない。迷いと苦悩が次の途を切り開く為の力になればいい。守る為の強さになればいい。 誰より側に在る事を望んでくれた大切な人。誰より隣に在る事を許してくれた。優しい手を持っている、哀しい人。強くて脆くて、だから誰より綺麗なのかもしれない。 大切な愛する人の姿を見守るだけの力を。 走り出していく彼を見失わない強さを。 崩れてしまわない勇気を。 繋いだ手を離さない強さと勇気を。 抱き締めた薄く細い肩から垣間見える白い月に、服部は祈りをこめた。 |