駅前のスーパーで夕食の材料を買い物し、帰宅した服部は、玄関を開けたと同時に感じた違和感に、慌てて室内に上がり込んだ。 静まり返った室内には、在るべき姿がない。何処か寒々しい深閑としたリビング。違和感の正体は、この気配のなさだったのかと思う服部だった。 携帯は常に連絡が付くようにONにしている。けれど着信はない。事件現場に出入りしていない限り、着信メロディは設定してある。けれど着信音が鳴った記憶はなかった。騒がしいスーパーの店内で聞き漏らしたかと、コートの内ポケットから取り出しディスプレイを確認しても、着信表示もメール表示も何一つない。と言う事は、事件で呼び出しを受けたと言う事で、新一が不在と言う事ではないのだろう。 発作が起きて以来。何かと心配する服部に対し、最低限、事件で呼び出しを受け出掛ける時は、連絡を入れるようにしている新一だったから、連絡がないという事は、事件絡みではないと判断していい筈だった。 他人に心配される事も、過剰な心配を寄せられる事も好まない新一は、けれど一緒に生活をし、まして恋人と言う関係に在る服部に、心配を掛ける事もまた本意ではなかったから、言葉に出す事の少ない服部の機微を適格に読んでは、『仕方ねぇ奴』と苦笑し、事件関係に出かける時は、服部に連絡を入れる事にしていた。 新一の辞書に、保身と言う言葉はない。発作が起き、まして事件現場で発作が起きてしまっては、周囲が迷惑する。新一の発作は、病院に直行されても困る類いのもので、診察は、運命共同体の哀にしか出来ない類いのものだったから、事件関与で出掛ける際連絡を入れるのは、概ねでそういう意味を含んでのものと、何よりも、発作以来。益々言葉に出す事なく、自分を気遣う事を覚えてしまった優しい恋人に対しての、新一らしい気遣いだった。その気遣いを、当然服部が気付かない筈はない。服部は新一より、他人の機微を読む術に長けている人間だ。その新一が、連絡もなく不在。事件でないとしたら、残される可能性は多く残されてはいなかった。 新刊のミステリーでも買いに行ったか、思い付いて散歩にでもいったか、そんな所だろう。心配なら、携帯を持ち歩いている新一に、連絡すれば済む事だった。 そう判断した服部は、取り敢えず買い物袋から夕飯の材料を冷蔵庫へと放り込んで、改めてリビングに向った。 「なんや、やっぱ気紛れやないか」 肩を竦め苦笑する。リビングのテーブルの上には『散歩』とだけ記されたメモが残されていた。 「そういえば、前にもこないな事、あったな」 秋に差し掛かった早朝。新一は近所の公園に散歩に出掛けた。それも散々朝方まで睦んで、殆ど寝ていない状態でだ。 「今度は、何を思い付いたんや?」 新一のこういう行動に、深い意味は存在しない。思い付きの行動が多いし突発的な行動が多い。そういう思い付きは、服部や快斗が呆れる程度には無防備で無自覚だ。 けれどこれが推理になれば話しは別だった。 新一の行動に思い付きは有り得ない。周囲にはどれ程思い付きの行動に映ったとしても、新一に思い付きは存在しない。かといって、計算とも違う。まっすぐ正確に、新一の眼差しは深淵を見据えている。見据え、素手で深淵に腕を指先を伸ばす。 見誤る事のない眼と、聞き逃す事のない耳で、新一は深淵にヒタリと焦点を絞り込む。 それこそが、警察組織の救世主と、畏怖と畏敬で呼ばれている推理力だった。決して新一に幸福はもたらす事のない三呪眼。称賛さえ、新一を呪縛するものでしかないと、気付ける人間は片手で足りる。 けれど今『散歩』と書かれたメモも見れば、確かに疑う余地もなく、突発的に何か思い付いたのだろ。 「しゃぁない奴ちゃな…」 別に新一はコナンではない。否、コナンだったとしても、近所に散歩に行く事を、心配する必要はない。通常なら。 新一の発作に前触れはない。突然心臓を鷲掴み、握り潰すような発作が起こる。それに伴い血圧が急激に変化し、失神状態に陥る。それを考えれば、近所だから安心と言う事はないだろう。それでも、常に発作の事を心配し行動範囲を狭めてしまう事を新一は嫌った。周囲に対して迷惑は掛かるが、それでも、新一はだからこそ行動範囲を狭めてしまう事を極端に嫌う。 人混みが苦手なくせに、人混みに溶けて行く事と同じくらい、新一は服部や快斗の心配の意味を十分理解した上で、それでも、行動範囲を縮小する事などしなかった。 多少なりともの危機感や保身を持ってほしい、そんな服部や快斗の願いは当然届く筈はない。人混みが極端に苦手なくせに、肌身に届く痛い程の他人の気配が新一を深淵に導くから、いつだって新一は人混みに溶けて行く。 保身を持てば、その分真実に到達する距離が遠くなる。安全と危険を秤に掛ける保身を、新一は持たない。素手で肌身で、深淵に腕を伸ばして近付くいて行く。そんな新一だから、過剰な心配を何より嫌う。だから見守る事しかできないと、いつも思い知らされる服部だった。 『あの人、消えるわ。貴方達が、少しでも自分の為に変るような事があったら、あの人喪失えるわよ』 初詣の時、哀が告げた言葉だった。 『貴方は、笑っていて。何が在っても、笑っているのよ』 それも以前哀から聴いた言葉だった。 「俺に出来る事なんか、初めから見守る事しか出来へんけどな」 東の名探偵と称賛される新一に、してやれる事なんて極限られた事だけで、精々彼が発作を起こして倒れた時、哀を呼ぶ事くらいだ。 『覚えておいて。私が今した事、いつか貴方が代わる事になるのよ』 『私の躯はいつどうなるか判らない』 不意に以前哀が真剣に言った台詞を思い出す。 二人共、時限爆弾を体内に抱えているようなものだ。いつどんな形で爆発するか判らない爆弾………。 「冗談やないで……」 哀の台詞を思い出して、服部は苦い顔をする。 狂って行く生体機能。書き替えられた遺伝子。新一が失われる可能性など、考えたくもなかった。けれど、その可能性を否定できない事も、服部は判っていた。それでさえ、自分は見守る事しか出来ないのは、それが新一の望みで願いだからだ。 哀の台詞を思い出し口唇を噛み締めると、服部は玄関へと向った。 「アレ?服部」 玄関を出て門まで歩いて、予想しなかった人物に声を掛けられ、服部は盛大に溜め息を吐き出した。 「なんや黒羽や、何処行くん?」 「……何処って、名探偵の家の前でソレ訊かれてもねぇ」 「居ないで」 「あの人、今度は何思い付いての散歩なの?」 「……どうしてそう思うん?」 嫌なやっちゃな、服部は毒づいた。 何一つ話してはいないのに、正確に新一は散歩と断言する快斗だったから、彼もよくよく新一を見守っている。そういう事になるのだろう。 「服部が慌ててないから」 シレッと言う快斗に、きっと罪はないだろう。それ程、新一に関わる服部は、顔色や態度がバロメータになる。尤も、臨界点を越えてしまえば、むしろ顔色は指針にもならない。 綺麗に表情など消え失せてしまうだろう。 そんな服部を、未だ快斗は視た事はない。新一はきっと一生そんな服部の表情を視る事はないだろう。視る事があるとすれば、それは自分なのだろうと、快斗はただ漠然と思った。思っていると言うより心根の奥で、判っている事だった、決定事項のように。 何故なのかと自分でも半分呆れる部分は在るけど、けれどきっとそんな服部を眼にするのは自分なのだと、快斗は判っていた。それはむしろ確信に近い。 「っで、お前は何しに来たん?」 「アレ?覚えてない?」 「なんや?」 「桃の節句」 「ホ〜〜知らへんかったなぁ、お前はそうやっていっつも女口説き回ってるんやなぁ。別の意味で、掴まるんやないで」 3月3日の雛祭り。新一も服部も当然男で、祝うべき祭りでは当然ない。まして年齢的に考えても、女でもこの歳で、雛祭りを祝う人間は在ないだろう。快斗のソレは完全に口実で理由だ、工藤邸に来る為の。 別段口実も理由も必要とはしないし、来たければ来るくせに、快斗は時折こうして理由を作ってみたりする。してみせては、新一に複雑な表情をしてみせる事に成功している確信犯だ。 ゆっくり歩きながらの会話は、完全に言葉遊びのキャッチボールになっている。 新一は、自宅からそう遠くない公園に在るだろう。以前もそうだったように。流石に陽光の沈む時間帯、未々寒い季節に、公園の芝生に寝転んでいられては困るけれど。 「なんかさ、未々冬で寒いのに、時折春の香りするよね」 蒼空からゆっくりと陰る陽光。空が夕焼けでオレンジに染まっている。懐かしい景色だとフト思う。 以前何処かで垣間見た光景。懐かしい記憶と重なる色。身の裡に浮き上がってくる懐かしい過去が、確かに在る。その中に、フト交じる春の香りが感じられて、フト快斗は足を止めた。 「まぁ暦の上から言うたら、春やからな」 足が止まった快斗を振り返る事もなく、服部は闊歩する。 簡素な住宅街の中。吹く風は冷たいのに、確かに春の香りを孕んでいる気がする夕暮れ時。懐かしいと、フト感じるナニかが、心の奥を柔らかく包んで行く。 「工藤の散歩の理由、コレかもしれへんな」 「やっぱり、突発的な人だね」 服部の台詞に肩を竦めて快斗は笑った。 「アラ、珍しいコンビで歩いてるわね」 「なんや今日は作為的な偶然が多い日やな……」 公園に向い際、哀と出会った。小さい姿が、長く影を落している夕暮れ時。 「哀ちゃんは?」 「歩美の所でね、雛祭りがあって、その帰り」 もう随分弱味ができてしまったと、クリスマスにポツリと呟いた哀の台詞を快斗は思い出す。 哀も新一も、チビッ子探偵団の面子には弱い。それはコナンだった当時の新一や現在の哀の心を和ませているのが、疑いようなく歩美達だったからだろう。だろうと、快斗は思う。 「二人は?工藤君と服部君ならともかく、貴方達二人っていうのが、可笑しいわね。工藤君は、どうしたの?」 「散歩やて」 「また?」 散歩と聴いて、アアまたかと、納得出来てしまえる程度には、哀も新一のその思い付きの突発的な行動を理解していると言う事なのだろう。 「仕方ない人ね……」 薄い笑みと苦笑と溜め息を器用にこなして、小さい姿が二人に並んだ。 「私も、行くわ」 どうせ暇だしと、付け加える。 「両手に葉っぱ」 スッと快斗が身を引くように、服部との間を空けると哀を間に挟んだ。 「貴方も、西の探偵さんと同じにタラシで悪党の口ね」 慣れた仕草に、哀は笑う。 これで『お姫様』と、指先にキスする事も、造作なくやってのける事は可能だろう、この稀代の怪盗は。そういう所作が、途方もなく似合う事も、嫌みでない事も、哀は知っている。 自分にされたら、悪寒ものだとは思うけれど。 「タラシは名探偵だと思うけど」 「工藤のは、人タラシ言うんや」 「悪党は服部だし」 「好き勝手言うんやないで」 「アラ、西の探偵さんは悪党っていうより、人でなしだと思うけど」 「嬢ちゃん〜〜〜?」 「工藤君、言ってるわよ」 「言い得て妙。微妙な匙加減だよね。悪党と人でなし」 「悪党でタラシで、人でなしって」 「工藤〜〜人が居なん時、何言ってるか判ったもんじゃないな」 「半分は惚気ね、自覚ないだろうけど」 もう今では聴く事は殆どなくなった新一からの惚気じみた言葉。 『悪党』で『タラシ』で『人でなし』 未だ新一がコナンだった当時、登下校が一緒で、クラスも一緒で過ごしてきたから、訊く事もなく聞かされてきた言葉のうちの一つだ。 「でも西の探偵さんだけじゃないわよ」 「って事は、こいつの事もやな」 クツクツ可笑しそうに笑って、服部は小さい姿に隠れる事のない悪友の姿を眺めた。 「魔法使いさんも、大した違いはないでしょ?」 「服部と同列って言うの、嫌だなぁ」 「俺かて願い下げや」 「魔法使いさんの場合は、気障でタラシよね」 優しい笑みの印象が多い稀代の怪盗は、だから実際は誰にも無関心なのだと哀は直感で思った。けれどそれは概ねで間違ってはいなかった。 誰にでも優しい笑み。気障でタラシで、稀代の怪盗。闇夜に翻る白い翼。黒い羽と言う名字を持つくせに、白い翼を闇夜に鮮やかに翻す稀代の怪盗の枷。 新一は快斗に付いて何一つ語らない。その枷についての何一つも。けれど新一と違わぬ枷をその身に隠している事を、哀も新一も服部も知っている。けれど何み訊かない。それがラインだからだ。 「アア、やっぱ在ったで」 池も散歩コースも在る公園は、日曜は家族連れが多い。その中のベンチに腰かけもせず、新一はもう少し立てば花を付ける桜の樹の根元に佇んでいた。 「相変わらず、あの人ああしてると、お持ち帰りしたくなるねぇ」 ボンヤリと暮れた夕空を眺めている眼差しは、一体何処を見詰めているのかと思える。 視線が綺麗に宙に溶けている。そんな時の新一は、とても稀代の名探偵と称賛される気配は微塵もない無防備さだ。 「ボケ言うとるんやない」 「でもさ。アノ人がああしてる時って」 途切れた言葉に続く声を、きっと服部も哀も判っていた。 宙に溶ける視線の深さ。桜の根元、幹に背を持たれ、腰掛けている姿。深淵を見詰め続けているその綺麗な双眸には、何が見えているのかと思う。きっと自分達とは見えているものは何一つ違う気がして、だからいたたまれなくなる。 家族ずれも多くて、周囲は喧騒に紛れているのに、新一の周囲は綺麗に空間が切り取られている。 清涼な眼差しに映っているのだろう夕暮れ。こんな時の新一は、深呼吸をして、何か身の裡に力を蓄えている気がするのだ 「せやけど、まぁ丁度ええ時間やろ」 そう言うと、服部はクルリと背を向けた。 「服部?」 「ちょぉ待ってろや」 服部の方角に在る物の意味に気付いて、快斗と哀は肩を竦めた。 「ウワッ…服部?」 気配もなく突然頬に触れた熱さに、新一は慌てて隣に視線を映した。 「黒羽も灰原も一緒かよ」 「少しは自覚してちょうだい」 仕方ない人ね、風邪引くわよ。哀は笑った。 「なんでお前ぇら一緒なんだよ」 「俺は桃の節句に名探偵の家に行く途中。ホラ、お土産のレモンパイだって持参してるんだよ」 ホラホラと、片手に見慣れた駅前のケーキ屋の箱が、快斗の手には在った。 「私は歩美の家からの帰り」 「黒羽、何で俺が雛祭りなんだよ」 そりゃ一体全体どういう了見だよ、途端に新一の目付きが変った。 「別に、全国的なお祭りだし」 「女の節句だ。俺は男」 「んじゃ次は端午の節句だねぇ」 「殴るぞ」 言った時には、手が先に出ていた。 「痛い名探偵〜〜口より先に手ぇ出てるじゃない」 後頭部を思い切りはたかれ、快斗は泣き真似をしてみせる。 「お前ぇが悪い」 俺は悪くねぇぞ、新一はソッぽを向いた。 「いちいちんな下らねぇ理由作って来んな」 「邪魔しちゃ悪いかなぁ〜〜とか、取り敢えず気ぃ利かせてみたんだけどね」 ボソリと告げた言葉に、快斗は肩を竦めた。 「なら永久に気ぃ遣ったとけや」 アホな気遣いや、服部は快斗を睥睨する。 「ホレ工藤。少しは暖まるやろ」 「ん〜〜サンキュー」 差し出された缶コーヒーは無糖だった。 「レモンパイも食べる?」 「此処でかよ」 「いいじゃない。桜には早いけど、雛祭りだし」 「その台詞次に言ったら、殴るからな」 「貴方達、忘れてるかもしれないけど」 「そうそう、哀ちゃん在るし」 「付けたしにされるのは腹立つわね」 新一の横に腰を下ろし、哀は笑う。 「ハイ」 差し出されてしまったレモンパイを、無下に投げ付ける事など出来る筈もなく、新一は快斗から差し出されたソレを手にとった。 結局其処で奇妙な宴会となってしまう。 春には未だ早い夕暮れ時。桜の根元でレモンパイと缶コーヒー。さぞかし周囲の家族連れには奇妙な集団に映っただろう。 「ねぇ名探偵、何で急に散歩だったの?」 コーヒーを啜り、快斗は横目でチラリと新一を眺めた。 「ん〜〜別に意味ねぇけど」 「工藤のこういうんは、突発やからな」 「俺が何も考えてないみたいに言うなよお前ぇは」 桜の根元に新一の隣には哀が。その隣に服部。反対側の新一に隣には快斗と座っていて、殴りたくても新一に服部まで腕は伸びない。 「俺が書庫から出てきた時にはお前ぇ買い物行っちまってたじゃねぇ?」 「声掛けたけどな、お前ちゃんと返事したで」 読書に熱中している新一に、何を言っても無駄な事も判っている服部は、生返事に期待などしてはいなかった。けれど新一はちゃんと夕飯のリクエストも答えていたから、服部は肩を竦めて苦笑する事しかできない。 読書中の新一を現実に引き戻せるのは、良い意味でも悪い意味でも事件なのだから、稀代の探偵なのだろう。決してそれが新一に幸福はもたらせない称賛だとしても。 「それで、どうして散歩なわけ?」 「なんでだったかな」 「……そういう人だよね」 快斗は新一の台詞に苦笑する。 「窓開けたら、寒いのになんか春の気配してさ、違うじゃねぇ?こう風とか空気とか匂いとか春の感じしてさ」 「っで、メモ一枚残して散歩に出掛けたんやな」 まぁ予想範囲やな、服部は口を開いた。 「丁度日が暮れてて夕暮れでさ、スゲェ綺麗だったんだよ」 蒼い天から茜に変る時間帯。雄大に沈み行く太陽。繰り返される時間。移り行く季節。 未々寒いのに、それでも何処からともなく漂い流れてくる春の気配に、歩きたくなったのかもしれない。 中学一年の冬の早朝。見上げた蒼空に泣き出したくなった衝動と、何処か似ている気分と気配が備わっていた夕暮れの空。 自分の存在なんてとても小さく感じる自然の摂理。変わり行く季節。何処までその季節を一緒に視る事ができるのかとフト思う。感傷ではなくて現実的な部分で、何処までこの優しい人達を傷つけてしまうのかと思えば、時折いたたまれない衝動を意識する。 いつどうなるか判らない時限爆弾を体内抱えこんでいるような躯だ。いつ変質してしまうか判らない肉体。肉体を構成する細胞、それ以前に遺伝子のレベルで、どんな変調が訪れるかの予測も付かない躯………。 夕暮れの空は何処までも広くて、空を眺めて歩いて。 これから先、歩いて行く強さを。崩れない勇気を。そしていつか告げなくてはならない言葉を。その時訪れる時間を……。 いつか告げなくてはならない言葉。傷付けると判っているから、痕跡など残す気はなかった筈だった。それでも、その瞬間の言葉を考えている自分は感傷的なのだろう。だろうと、新一は酷薄な口唇に自嘲を刻み付けた。 「もう少しすると、沈丁花の香りがするね」 新一の内心に気付かないフリをして、快斗はレモンパイを食べ終え、缶コーヒーに口を付ける。 春を告げる庭先の香りは沢山の花が在るだろう。けれど白九小さい花の香りは、何より春の香りを運んでくる気がする。 「今月の終わりは桜やな。そん時は此処で夜桜見物やな」 「此処、結構混むぞ」 「大丈夫やろ。身軽な怪盗が席取りしたい言うとったから」 「服部〜〜〜」 「佐保姫を頂戴とか、予告状出しとけや」 「佐保姫、また随分風流な言葉知ってるもんだねぇ」 「此処一角仕切ってもらって、俺達宴会するか」 「それもいいわね」 綺麗にレモンパイを食べ終えた哀が、新一に同調する。 「名探偵〜〜〜、哀ちゃん」 冗談にならないじゃない、快斗はガクリと肩を落す。 「花盗人は罪にならないよ」 深々溜め息を吐き出し、快斗は笑う。 「そろそろ帰らないと、工藤君、風邪引くわよ」 太陽は今は殆ど地平線に沈み、天は夕暮れから夜の帳が降りてきている。流石に風も冷たくなってきていた。 「んじゃ帰るか」 ヨッと、新一は軽い動作で姿態を起こした。 「それじゃ久し振りに、旦那の手料理でもご馳走になろうかな」 「生憎やな黒羽、夕食のメニューは、工藤のリクエストで銀だら西京焼きや」 「ゲ……」 「残念やな」 「んじゃさ、帰りこのまま買い物して」 「材料無駄にできるか」 「明日にすればいいでしょ。ハイ決まり決まり」 言うが早いかさっさと立ち上がり、新一の腕を取る。 「黒羽。オイ、お前ぇなぁ」 「だってこのままじゃ、魚料理食わされちゃうでしょ。だから買い物。名探偵は人質」 「仕方ねぇ、鍋にするか。灰原も食ってくだろ」 「そうね、お邪魔するわ」 折角だし、哀は服部の隣に並んで歩き、一歩前を歩く新一に答えた。 「しゃぁない奴っちゃな」 溜め息を吐く服部だった。 「アッと言うまに星空。早いねぇ」 初春の夕暮れは、日が伸びても、油断しているとすぐに日が暮れる。周囲はもうスッカリ闇夜になっている。それでも何処はかとなく冬の空気は失せ、春の香りが漂っている。 「本当、早ぇな」 天を仰げば、綺麗な月が出ている。 流れて行く時間の速度は何一つ変らない。自然の摂理は何一つは変らず、淡々と時間を刻み続けて行く。 自分と哀が、自然の摂理から背いた生命だと知っている。きっと此処に在る誰もが知っているだろうと、新一はコッソリ隣の端整な貌を窺った。 出会った当時は双子だ何だとよく勘違いされた面差しも、相手はめっきり大人の輪郭になっている。もう双子と間違われる事もない。反対に『兄弟?』と訊かれる事は多々あった。それが癪に触ると同時に、そういうふうに、徐々に周囲に気付かれて行くものだと思えた。 いつまで……。 そう思うのは、きっと感傷なのだろう。 「鍋なら材料無駄にせんで済むように、たらちりにでもしたろか」 「……服部〜〜」 背後から笑いを含んで響く声に、快斗は半ば恨めしげに振り返る。 「鍋ならおでんにしようよ」 「だったら熱燗な」 「だったら熱燗ね」 哀と新一の声が重なった。 「あのな……」 服部はガクリと脱力し、快斗はオヤオヤと言う表情を浮かべる。 「おでんって、酒の肴だろ」 シレッと言う新一は、確かに幼少時から父親に呑まされてきた酒豪だった。 「材料費お前持ちやで」 「持たせて頂きます」 魚以外ならもう何でも。 「工藤、黒羽持ちやからな。一番高い酒、買うて貰え」 「そういう事言う?酒余りまくってるくせに」 稀代の小説家の父親を持つ新一の家には、ファンからの差し入れの酒がふんだんに有る事を、快斗は知っていた。 「なぁ」 「なんや?」 「何?」 「桜の宴会、しような」 ポツリと告げられた新一の声に、三人は違いに顔を見合わせ、次に新一に視線を注ぎ、 「せやな」 「席取りしてあげる」 「桜の季節は寒いから、風邪ひかないように、暖かくしてちょうだい」 「そん時こそ、極上のお酒、調達してきて上げる」 いつまでと、時折思う。 こうして何気ない会話をして、いつまで手を繋いでいられるだろうか? いつか必ず、それはそう遠くない未来。一人で歩き出していかなければならない。 その為の力を。崩れない勇気を。 倖せな時間にたとえ告げなくてはならない言葉が来るとしても、この倖せな時間は決して消えない。この穏やかな時間がいつまでも、自分を支えてくれるだろう。 「早く桜咲かねぇかな」 「早く酒呑みたいいうんやな」 「酒豪だからね、名探偵」 「酒は妙薬だけど、呑みすぎは許可しないわよ」 いつか振り返った時、支えてくれる優しい時間。優しい人達。ずっと消えない、強い力。 |