| 「新ちゃん、ママの名前の『有希子』と言う名はね、『未来への希望の有る子』と言う意味なの。私が生まれた時、おばあちゃんとおじいちゃんが、とても祝福して付けてくれた名前。希望を忘れず、未来へと歩いて行くように、そういう願いと祈りが込められてるの。だから思うの。名前はね、その人が一番最初に出会う、世界で一番短い美しい詩なの」 そう笑った母の顔は穏やかで、少女と母の表情が綺麗に混在していた。
君の名前
「名前ってのは、世界で最初に出会う、一番短い、一番美しい詩。何より魂持ってる言葉だ」 「流石、名探偵らしい言葉だよね」 フローリングの床の上、無造作に投げ出されているクッションの上に座りながら、快斗が感心したように口を開く。 「世界で最初に出会う短い詩、工藤らしい言葉やな」 ロイヤルドルトンのビルトモアに注がれたモカコーヒーに口を付けながら、服部が快斗同様感心したように新一を眺めた。 「母さんの受け売りだよ」 服部が淹れたモカに口を付け、新一はそう言った母、有希子の面差しを思い出す。 息子の自分の眼から見ても母の有希子は若く、自分のような子供が在る事が不思議な程に若い容貌を保っている。結婚引退した今も、『世界の恋人』と呼ばれてしまっている母は、相変わらず少女のような面差しと台詞で、息子である自分に接してくる。そのくせに、不意に覗かせる表情は限りなく母親の貌をしてる事が、不思議だった。 「世界の恋人のねぇ、でも名探偵の母上らしい台詞」 勝手に工藤邸に持ち込んだ、ジアンのオワゾ・ドゥ・パラディに、服部にモカを淹れさせて、その美味さに快斗は鷹揚に笑っている。新一は自分の母親だから別にしても、服部や快斗の年代にまで、新一の母である工藤有希子の存在は、知れ渡っている。 「祝福されてる人ね。そして誰からも愛されてる人」 両手にウェッジウッドのマグを持ち、哀は呟いた。その呟きは、外見を裏切り、憂いを浮かべている。 「嬢ちゃんもやろ?」 「……私は生まれた時から、組織に在たのよ」 「確か本当の名、『志保』やろ?」 「志を保つ人。哀ちゃんにピッタリ」 「運命から逃げず、志を持って孤高に佇む。お前そのものの名前じゃん」 何言ってんだと、新一は呆れて哀を見ている。逡巡のない新一の台詞に、哀は半瞬すぐに口を開く事はできなかった。 運命から逃げるな。 自分に向かって放たれた端然とした声と台詞。迷いも何も映さないから、それが新一の本心だと判った。 新一の運命を捩じ曲げてしまったのは自分なのに、それなのに責める言葉を持たない新一が、時折憐れになり、そうしてその痛みは自分に跳ね返ってくる。 「貴方、本当にIQ高いくせに、脳細胞は単純なのね」 新一達の台詞に、哀は小さい肩を竦めて呆れ見せる。けれどそれが彼らの気遣いなのだと、気付かない哀ではないから、彼らの優しさに内心笑苦笑を浮かべていた。 「灰原 哀は、そうやな。燃えた中から、再生した子供ってとこやな」 「燃えたらすべてが灰になって、無になる。その中から再生されて生まれた子供」 「哀しい子供って事よね」 「バーロー、哀って言葉にはな、『愛』や『賞美』って意味もあんだ。響きだけなら愛も哀もおんなじだ」 「eyeって意味もね」 「貴方達、本当に何処までもお人好しね」 「お人好し位が、丁度いいんや」 笑顔で笑う服部の、その笑顔の裏の真実の顔を知っているから、お人好しである精神の強さを、誰もが知っている。 「せちがらい、世の中だからねぇ」 「泥棒のお前ぇが言っても、説得力欠片もねぇよ」 「ひどいな〜〜名探偵は」 「んじゃお前ぇの名前なんだよ」 「心地好く斗うっしょ」 「……それちゃうやろ…誰が自分の子供に、斗うなんて付けるん」 「快斗の斗は、升目の意味だかんな。北斗七星の斗。快は心地好い」 「んでその心は?」 「俺はお前ぇの親じゃねぇ」 「んじゃ服部はどうよ」 「俺の名前は、爺ちゃん付けたからなぁ。爺ちゃん平って言うねん」 「んで親父さんは平蔵。単純に、平蔵の次だからってんじゃない?」 「次は継ぐって引っ掛けかもしんねぇぞ」 「工藤君は、誰でも判るわね」 「新しい最初の子供」 三人が揃って声を出す。三人の声に、新一は少しだけ憮然となる。 「立つ木を斧で切り開く。途を切り開くって意味かもしれないわよ」 「そうかもしれんな」 「さすが哀ちゃん。名探偵の言う通り、名前は親が最初にその子に贈る言葉なんだから。掛け値ない愛情」 「だったらお前、括るなよ」 「?何?」 「名前」 「名探偵?」 「呼ばせてやっから」 新一の台詞に、快斗はマジマジと新一の端整に整った貌を凝視する。 「工藤……さん……?」 凝視し、恐る恐ると言った態で、快斗は伺うように新一を見詰めたまま、口を開いた。 「バーロー、なんだよソレ」 快斗の台詞に、新一は背にしていたクッションを投げ飛ばす。ソレを軽く受け止めると、 「新一ってのはねぇ」 チロリと服部を凝視する。 「ソレはあかん」 服部が、それだけはダメやと、口にする。自分だって、日常でその名前は呼ばせてもらえない神聖な言霊なのだ。 「服部と同じでいいじゃねぇか」 「嬉しい魅力的なお誘いだけどね、でも俺にとって『名探偵』ってのは、括りでも区切りでもない、一人だけだから」 スッと、新一のソファーに身を乗り出し、長い指が、新一の長い前髪を一房弄ぶ。 快斗にとって『名探偵』というのは称賛の言葉ではなく、たった一人に捧げられた神聖な名だった。 「だからね、名探偵って呼んじゃダメ?」 「変な奴」 パシリと、触れてくる指をふり払う。 「OK?」 払われた手にさした未練も見せず、快斗は悪戯気な笑みを覗かせている。 「勝手にしろ」 「甘いわね」 「せや、甘すぎや」 「なんだよお前ら、お前らだって、好きに呼んでるじゃねぇか」 何が甘いんだよと、新一は途端憮然となる。 「せやから、懐かれとんのは、俺やないで」 最初キッドたる快斗に懐かれるような真似をしたのは工藤の方やと、服部は少しだけ拗ねたようになる。 「大丈夫、俺ちゃんと服部も好きだから」 快斗がシレッと言うと、服部は嫌そうに精悍な貌を顰めた。 「いらんわ、気色悪い」 シッシッと、手で払いのける動作をする。けれど二人が新一を挟み、対極に位置しながら、不思議な友好関係を築いている事を、新一も哀も知っている。案外当人達だけが、理解していないのかもしれない。 「あなた達、結局似た者同志よ」 軽口でしかない少年達の会話に、冷めてしまったモカに口を付けた。 志を保つと言うのなら、それは工藤新一を正常な肉体に戻す事。それだけは、何を犠牲にしても優先される事だった。自分を責める言葉一つ持たない新一だから、辛くなる。いたたまれなくなる。それが贖罪だと判っているから、哀は運命から逃げない強さを教えられた。 綺麗でまっすぐな魂。その清涼さと凛冽さで、誰より苦悩を深めて疵を負う。それでも諦めない魂は、途を切り開く一本の線。 名は魂を現すのなら、工藤新一は、まさしくそうなのかもしれない。 「新ちゃん、名前はね、親になって子供へ贈る、最初のプレゼントなの。忘れないで。貴方がどんな事になっても、私達は在るから」 名前が在ります 無機質な記号ではない血肉の通った名があります 世界で一番短く美しい詩です 貴方の為に 君の為に 祈りと願いのこもった 世界で最初の贈り物 誰かの為に 呼んで下さい 愛する人の名を 大切な君の名を 大切な貴方の名を 大切なダレかの名前を 「心理学的に言えば、モノの名称としての『名』は、意味するものと、意味されるものになるのよ。名に魂が宿るというのは、そういう事」 「……灰原……そうややこしく話しを捩じるな」 軽口をひとしきり叩いた後の静寂を破ったのは、哀だった。 「アラ。貴方達なら知ってるでしょ?シニフィアンとシニフィエの関係論」 「聴覚シニフィアンと視覚シニフィアン」 「聴くものと、視るもの」 「知覚シニフィアンと言語シニフィアンやろ」 「視るものと、視えるもの」 「聴くもの、と聴こえるもの……なんや、ダレかみたいやな」 聴く事なく聴こえる声。視る意識なく視える才。本質を捉える三呪眼。 それが枷なのかもしれないと思うのは、彼を見守り続けている三人だった。 「あのな……どうして小難しい話しになんだ」 方向性の変わってしまった会話に、東の名探偵は退屈そうに口を開く。 「好きやろ工藤。こういうん」 「ダメよ、この人、国語苦手だもの」 「名探偵、言葉にだけは、些か不便だもんねぇ」 ウンウンと、納得して思わず頷きあってしまう三人には、けれど罪はないのだろう。確かに工藤新一は、些か言語には不自由な存在だ。 「お前ら〜〜」 なんだよソレと、新一は途端拗ねたような貌をする。 「どんな姿になってても、工藤新一は一人しかおらん。そういうこっちゃな」 服部が、新一の髪を弄ぶように梳き上げていく。宥めるとも労るとも思えるその仕草に、所有を現す感情は一切な含まれてはいなかった。 「どんな姿でも、すぐに判るよ。名探偵はこの世にたった一人」 ハイッと、新一の眼前に長い腕を差し出して、閉じた掌中を開いた其処には、一輪の花。 「俺は女じゃねぇ」 服部の手を払い除け、花に罪はないと、花を取り上げると快斗を足蹴にする。足蹴にし、次には何ともいえない貌をする。 「工藤?」 「名探偵?」 「工藤君?」 「お前等さ、本当にバカ」 確かに自分は、他人の言葉を理解する事に長けてはいない。服部や快斗の方が、長けている。けれど彼等の言外の意味が、判らない訳ではなかった。 「サンキュー」 「バカね…」 「なんや、しんみりしてまったやないか」 「大丈夫だよ、名探偵」 どんな時も、ココに在るから。 「新ちゃんは、新ちゃんの名前を目指して歩いていって。不幸も哀しみも倖せも、人生の終止符には、プラマイ0になってるもんなの。だから、迷っても倒れても、躓いても、休んでいいの。途を切り開いて、歩いて行って」 貴方の名前は、そういう名前。 新しい途を自らの手で切り開く人になって。それは確実に未来へと繋がる一本の線。 |