幼馴染 1











「なんや、皆狡いわ……」
 ポツリと呟いた和葉の台詞に、蘭はなんとも言えない貌をする。
「そう思わへん?私はずぅっと平次の事だけ見てきたんや」
「私も……新一の事だけ」
 ずっと好きだった。周囲からそう言われれば否定してきた言葉。けれど、新一だけが、ずっと好きだった、幼い時から。
「私も、新一の事一番判ってるの、私だけだって思ってた」
 だけど現実は違う。違うと言う事を、先刻見せつけられたばかりだった。
倒れた華奢な姿態。理由も判らない。けれど、新一は確かに笑って服部に何かを告げていた。そうしては、泣きそうになっていた服部は、自分達の知らない場所で声を殺し、泣いていた。それが蘭にも和葉にもショックだった。
「平次…気付かへんかった……」
 ポツリと告げた和葉の言葉に、蘭はそれが何を意味するか、漠然と判った気がした。
服部は剣の天才で、それだけではなく武道にも精通し、他人の気配を読む事にも長けている。いると言う事を、和葉や幼馴染みから聴いていた。けれど、先刻の彼はそんな事が嘘のように、自分達の気配一つ感じ取れてはいない様子だった。
 新一が倒れ、ソッと覗いた扉の隙間から聞えたくぐもった声を殺した声。アレは確かに泣き声だった。
「平次が泣きよる処なんて、初めて見た…」
 どんな事があっても、服部は人前で泣いた事はないのだと、和葉は幼馴染みの声を殺した泣き声を聴き、初めて気付いた。
 どんな時も、推理で行き詰まって悔しい思いをしても、どんな時でさえ、自らの未熟を責める事はあっても、泣くところなど見た事はないのだと、思い知ったのはつい数時間前の事だ。だから和葉はショックを隠しきれない。大切な想い人が倒れた蘭より、そのショックはある意味で、大きいものを孕んでいる。
「ゴメンな蘭ちゃん、蘭ちゃんかて、辛いのに…」
 大切な幼馴染みが倒れて、その理由さえ判らない。教えては貰えない。きっと訊いてもはぐらかされてしまう事だけは、蘭も和葉も判っていた。だからよりいっそうの不安が拭えない。変わってしまったのだという痛烈な想いだけが、胸に痛い。
 距離が開いた、それも違うのだろうと思う。元々自分達が想っていただけで、何一つその距離感は変わらないのかもしれない。変わったのは、より大人になってしまった幼馴染み。様々な意味で、大人になっしまった、そう思う。置いていかれると言う意識だけが、距離なのだと思う。開いてしまった分の距離は、自分の内界での意識差。それは焦燥やナニかだ。
 褐色の肌、精悍な面差し。笑顔が眩しく、それでいて推理時は、驚く程にひき締まった横顔。つい最近まで、その横顔は、確かに少年のモノが色濃く滲んでいた筈なのに、此処最近深まってしまった横顔は、完成された大人の面差しを秘めている。その横顔に、益々異性を意識してしまう自分を、和葉は判っていた。いたから尚、置いていかれるという焦燥が拭えない。
「幼馴染みなんかやなかった…特別でいたかった…ほんま、幼馴染みなんか、ええ事何一つない…」
 誰もが羨んだ。服部は、高校内外からモテていたから。けれどそれでも、特別な相手は作らずにきた。
恋人と呼べる相手は、居なかった。平次が年上の女性にモテる事など、和葉はちゃんと知っているのだ。それだけ服部を視てきたのだから。それでも、特別な相手は作らずにきた。けれど、それが何時からか、変わってしまった。
「本当、幼馴染みなんて、いい事ないよね。回りが言う程、特別なんかじゃ全然ないんだもん。私なんて、新一がずっと高校休んでいた理由一つ、話して貰えない…」
 新一の休学の理由を、自分は何一つ知らされてはいない。どれだけ言い募り、時には詰問し、それでも、新一は少しだけ困った顔をして、『なんでもねぇよ』そう言うだけで。 信用されていない訳ではないのだと思う。
 『警察組織の救世主』と言われてしまう程、新一は高校生探偵として、マスコミや警察から、畏怖と畏敬を祓って称賛の言葉を贈られて来た。愛想と愛嬌でマスコミに笑顔を振りまいてはいたけれど、その称賛の数々を、本人はさほど喜んでいない事を、蘭は今まで漠然と判っていた。その深い意味まで図る事はできないけれど、それだけは判っていた。母親譲りの美貌と演技力で、周囲を欺いても、幼馴染みの自分は欺けない。蘭は今までそう思ってきた。けれど、近頃では、その言葉は何一つの意味も効果も持っていない事が判ってしまった。
「服部君なら…知ってるのかな……」
 ポツリと呟いた声が、可笑しい程、身の裡に響く気がした。
「平次が?」
「ウン…だって、私全然知らない。いつの間に、あの二人、あんなに仲良くなったのか…」
「平次の工藤君病は、今に始まった事やないけど…」
 何時から始まっただろうか?
特定を作らず過ごしてきた幼馴染みが、誰か一人の名を呼ぶ事が多くなったと気付いたのは、何時からだっただろうか?
 最初は東京の女だと思った。事実、周囲が呆れる程、毎週の頻度で東京に上京していた服部に、学友達は『東京の女は具合がいいらしい』。そんな高校男子らしい下世話な台詞も飛び出していた。そんな噂を、けれど服部は苦笑と自嘲で躱してきて、詳細等その口から語られた事は一度とてない。
 和葉に判っていた事は、幼馴染みには『東京に具合のいい女』は存在しない事。その代わり、きっとそれ以上に大切な特別が在る事。それが同年代の、同じ東の名探偵なのだ知ったのは、早い時期だった。けれど、その執着の意味まで、結局今まで判らずにきた。
 最初はライバルとして、止めるのもきかず東京に乗り込んで、帰ってきた時は、変わっていたように思う。その差異など、何時からとハッキリ認識できないけれど、変わったと今更想起できるのは、幼馴染みが東京に、東の名探偵に会いに行った時なのだろうと和葉は思う。                          
「新一ね、珈琲はブルマンが好きで、食事に関しては無頓着で、『頂きます』も『ごちそう様』も、挨拶しない奴だった。でも今はモカが好きで、ちゃんと挨拶もして、食事ができて」
「蘭ちゃん?」
 少女らしい蘭の部屋で、小さいテーブルを挟み、ポツリポツリと話す姿に、和葉は少しだけ怪訝に問い掛ける。
「服部君って、優しいよね。コナン君も、懐いてたし」
 小学一年生で、メガネを掛けてしまう幼い子供。頭がよくて、機転が利いて、時折外見とは相反する内面を覗き込んだ気がして、蘭はその幼い子供の行く末を、たいそう心配した事もあった。そんな子供は、服部には奇妙な程懐いていたし、服部も、会話など噛み合う筈はないだろうに、弟を可愛がるように傍らに置いては、楽しそうに話していた。
「そうやね、平次も、弟みたいに可愛がって、でも知らなかったんや私。平次があんなに面倒みいいなんて」
 別段子供だからと、特別眼にかけ、可愛がるなんて事は、今まで服部にはなかった。確かに優しいし、懐かれれば可愛がるだろう。けれど、アノ幼い子供は特別なのだと、和葉はなんとなく思っていた。
「なんでだろう。皆私達には話さない秘密持ってる」
 倒れた姿が脳裏から離れない。崩れ落ちた躯。それでも、賢明に笑っていた。たった一人の為に。託す言葉を託して。そうしては、安心したように崩れて意識を失った。
「服部君、新一が倒れる事、判ってた…」
 崩れる寸前で、差し出された腕。
冷静に思い出せば、倒れる寸前の二人の会話は、そういう会話だったように思える。
 右手が掻き毟るように胸を鷲掴み、崩れた新一。その理由を、服部はきっと知っているのだろうと思う。
 自分の知らない新一のナニか。そうして新一も、自分には話さないナニかを、服部には託している。決して割り込む事のできない絆じみたナニかを感じる。
それは二人がマスメディアで取り沙汰される『探偵』だからなのか、判らない。探偵として、通じるナニかも在るのだろう。けれど、決してそれだけではないナニかを感じる。
 それは気配や感触や、言葉には出来ない肌身で感じる事のできる類いのもので、言語構造はできない。言葉は不便なのだと、こんな時思い知る。新一が思い出したように言う台詞。その意味を、今更蘭は気付いた気がした。した時、胸を突かれた気がした。
 自分は何一つ、新一の言葉を理解していなかったのかもしれない、そんな想いが痛烈に胸を迫り上がってくる気がした。
「私ね、アノ二人が同居する程親密になってたなんて、何一つ知らなかった」
 呆れる程、服部は毎週上京していた。それでも、二人が同居という形をとる程その関係が親友になっていたと、知らなかった。知らされた時のショックは、今でも可笑しい程、胸の奥に凝っている。          
「私もや」
 まさか同居すると思ってはいなかった。
服部の父親は、自分の父親同様の警察官僚で、都内にマンションを持っているのだから。当然マンション住まいをするものと思っていた。自分が現在、父親名義の都内のマンションで一人暮らしをしているように。
 警察官僚は、2、3年の任期で中央と地方を異動し、階級とポストを上げていく。警察官僚にとって、階級とポストは連動したもので、官舎住まいが原則だ。一戸立てを建てたとて、異動が激しく、任期の短い官僚にとっては、ある意味マイホームは無駄にも思える。その所為なのだろう。自分の父親も服部の父親も、それぞれ都内に息抜きのマンションを持っていた。だから服部が上京した時、彼はその父親名義のマンションに泊まっていたとばかり和葉は思っていたのだ。けれど内情は何一つ違う。
「平次なんて、訊かなかったら、教えへんかってんよ、きっと」
 工藤君との同居の事。
「新一もね、簡単に、何でもない事のように、言ったもの」
「なんて?」
「服部君、此処に住むって」
「そうなん?」
「新一ね、アレで案外神経質で、他人と接触できる性格してないの」
「なんやそんな感じせぇへんよ」
「変わったんだと思う。新一って、自分の事には無頓着なんだけど、だからね、自分のテリトリー侵害されるの極端に嫌うの。愛想いいように視えるでしょ?事件で関わった人に対しては別だけど、自分から人の環に入って、お友達って苦手なの」
 当時は判らなかった。けれど今なら微かに判る気がした。その意味が。
「辛かったんだと思うの…」
 色々な意味で、様々な形で。自分が同年代と違うと意識してしまうから。だからなのかと今更思い知る気がして、胸が苦しくなる。
 話して語って、こうして記憶を想起し当時を振り返って。新一の時折言う台詞が、胸に落ちる。
 言葉の難しさ。難しいから、無意識に、他人との接触を避けていたのだろうか?フトそう思う。
『難しいよな…』
 極時折、口にされた言葉。思えばそれは、彼が珍しくも口にする、辛さの形、なのかもしれなかったのに。自分は、相槌を打つ事で、簡単に聞き流してしまっていた。深い意味さえ考えもせず、判った気になっていた。
「テレビや週刊誌視てるだけじゃそないな感じ、全然せぇへんのに。だったら、平次なんて、完全テリトリー侵害なんやない?」
 東の工藤、西の服部。どちらもマスメディアで取り沙汰された高校生探偵だ。それがこうして東京の事件にも首も頭も突っ込んで、今ではワンセットのよう扱われている二人。
「ウン。だからね、驚いた。だってアノ時の新一、当然のように言ったんだもの。きっと本人全然意識してないの」
 日常会話の中で交わされた言葉。日常の中で語られた言葉だから、それが新一にとっては極当然の事なのだろうと、蘭は思ったのだ。だからよりショックは大きく深かったのかもしれない。
「アノ時、私、ちょっとだけ服部君に嫉妬した」
 可笑しいよねと、蘭は華奢な肩を竦めて笑う。
「私もやよ。平次『工藤、工藤』ばっかりで、工藤君に、妬いたわ」
「本当、幼馴染みなんて、損ばっかり」
 幼い時から知るから、今更告白なんて、できなくなってしまう。異性として意識すればする程に、一歩を踏み出す事すら怖くなる。告白し、その関係すら崩れてしまったら。
 そう考えれば、怖くて足が竦んで、告白なんて、できなくなってしまう。 
「蘭ちゃん、いつ知ったん?二人の同居」
「アノ時私が訊かなかったら、きっと新一も話さなかったのかも知れない」
 それもちょっと違うかな?蘭は和葉を見詰め、再び肩を竦めた。
きっと、話す必要もない程、新一には極当然で、決定されていた事なのかもしれない。 そうして蘭は話し始める。胸を焦がし、焦燥を受けた春先の事を。









「ねぇ蘭、新一君に、ちゃんと言ったの?」
 受験も済んで、後は卒業式を待だけの身で、蘭と園子は、米花駅前のショッピングモールをのんびりと歩いていた。
「何?」
 他愛ない会話の中、突然の台詞に、蘭は隣を歩く園子に視線を移す。
「だって、二人共大学バラバラじゃない。今までは高校で会えたけど、大学バラバラになったら、いくら幼馴染みっても、気軽に会えなくなるじゃない。あれであやつはモテるから、制服の第二ボタン下さいって、多いと思うよ。今の内に、気持ち伝えちゃえば?」
「園子…」
「好きなんでしょ?新一君の事。いい加減告っちゃいなさいよ」
「別に私は新一の事なんて、なんとも思ってないわよ。それに…」
「それに?」
「新一高校だって、休学してて、気軽になんて会えなかったわよ。連絡先だって知らなかったんだから」
 高校二年時、突然姿を消した幼馴染みを、どれだけ心配したか判らない。けれど消えた時同様、幼馴染みは、何事もなかったかのようにフラリと復学してきた。既に学校側は、新一の課外授業並の探偵業に眼を瞑っている節もあり、別段問題もなく復学し、まじめに授業を受けていた同級生が、世を儚みたくなるT大ストレート合格を成し遂げている。そうして自分は、新一が突然休学してまで携わった『事件』の内容を知らない。
「それでもよ、通う大学違うと、色々有ると思うよ。この園子さんの眼は、誤魔化されないわよ」
 蘭が新一君を好きな事なんて、お見通し。園子は言外にそう語っている。
「ホラホラ、これから通い妻するんてだしょ?」
「あのねぇ、園子。通い妻ってなによ」
「よく言うわよ。夕飯作りに行ってやんでしょ?それが通い妻じゃなくてなんなのよ」
「仕方ないじゃない。新一って自分の事には無関心で、食事も簡単に抜いちゃうんだから。たまには夕飯作りにいってやらないと、あいつ平気で一日二日、食事しないんだから」
 一人暮らしが長い新一だから、家事一切がパーフェクトな事は知っている。けれど新一は自分には無関心で、読書や推理に熱中すれば、平気で食事を抜いてしまう。だから時折蘭は新一の家に、夕食を作りに行っているのだ。
「ハイハイ、まぁ蘭がそう言うんなら、私はいいけど、でもね、後悔しないように、した方がいいよ」       
 新一同様、幼馴染みの園子は、こうしては時折蘭に正鵠を射る忠告をする。蘭の親友の園子だ。蘭の気持ちなど、見抜いている。蘭の新一に向ける気持ちが、ただの幼馴染みではない事くらい、判っていた。
いたから、一歩を踏み出さない蘭が、視ていてもどかしくなるのだ。
「ありがと、園子。でもね…」
 怖いの…。
「蘭…」
 言葉にされない蘭の気持ちも、きっと園子は見通しているのかもしれない。
俯く蘭に、園子は半瞬嘆息を付くと、次には殊更明るい笑顔華奢な背を押し出してやる。
「判った、まぁ蘭の好きなようにするといいよ。ホラホラ、遅くなるよ」
 蘭が手にする、食材の入った袋を指差し、園子は笑う。        
「ウン、じゃぁ、ありがとう園子。私行くね」
「ハイハイ、いいから、その調子で、キスの一つも奪ってこい」
「園子〜〜」
 往来での台詞に、蘭の白皙の貌は瞬時に紅潮する。そうして蘭は、もう一人の幼馴染みに感謝を残し、新一の元へと走って行く。











「悪ぃな、蘭。お前ぇ、小父さんの夕飯どうしたんだよ」
 リビングテーブルの椅子に腰掛けると、新一はテーブルに並んだ料理を見て、席に着いた蘭に、思い出した様に問い掛ける。
 女房とは十年になんなんとする別居生活で、それでも未だ離婚もせず、不即不離の状態を保っている幼馴染みの両親は、母親は法曹界のクィーンとして、刑事弁護専門の弁護士と有名だが、父親の方はといういと、新一がコナンから戻って以来、地味な仕事をしているようだった。その父親の家事一切、日常生活の面倒を見ているのは、蘭だった。
 それでも酒がと麻雀が好きで、よく近所の人間て飲み会を開いては娘の蘭に叱られていた事を、新一は思い出す。
「大丈夫。今夜お父さん、近所の人達と飲み会で在ないの」
「ハハ…相変わらず…」
 渇いた笑いが、フト漏れる。
毛利小五郎は、決して悪い人間ではない。むしろ人が良すぎるくらいだろう。現に、コナンだった当時の新一は、どう言っても、その人の良さに救われ、幼馴染みの家に転がり込んでいたのだから。あれで良く警視庁捜査一課の刑事が勤まってたもんだと、新一は思うくらいだ。
「新一、こうして私が作りにこないと、平気で食事忘れるじゃない」 
「そうでもねぇよ」
「そう?でもそう言えば、冷蔵庫、案外揃ってたわね」
「うるせぇのが、毎週くるからな」
「うるさいの?」
 『毎週来るうるさいの』の言葉に、蘭は半瞬考え、
「服部君?」
「うるせぇからな、あいつ。冷蔵庫に材料入ってないと」
 そういう新一の素っ気ない口調は、けれど穏やかな気配に裏切られている。
きっと新一は知らないのだろうと蘭は思う。服部との友好関係は、自分が知らない以上に親密らしい。そう感じられて、半瞬だけ寂しいと思う感情が湧いた。
「それより食おうぜ。冷めちまう」
「ウン、食べて食べて」
「いただきます」
 新一は、箸を手に取ると両手で手わ合わせ、挨拶をしてからゆっくりと料理に箸を付けた。
その慣れた所作を、蘭はジッと凝視している。
「なんだよ?」
 その視線に気付いた新一が、不思議さうに首を傾げた。そんな風に首を傾げる様は、名探偵と言われている新一を、少しだけ幼く見せ、蘭をホッとさせた。
「ウウン、いい習慣だって思ったの」
「?」
「いただきます。ちゃんと言うようになったと思って」
「アア」
 幼馴染みの台詞に、納得がいったと、新一は笑う。穏やかな笑みに、蘭は胸が痛むのを感じた。
「服部の奴がうるせぇんだよ。挨拶しねぇなんて、料理人に対して失礼すぎるって。そりゃもぉ目くじらたてやがる」
「服部君がねぇ。そんな風に視えないのに」
「そうでもねぇよ。あいつ武道してるし、挨拶基本だろ。それに親父さんの仕事考えりゃ、当然なんだろうな」
 そう話しながらも、新一は綺麗な所作で、料理に箸を付けていく。その仕草も、優雅な程綺麗なもので、蘭は以前の新一はどうだったろうかと思い出す。  
 新一は、確かに箸の使い方は器用で綺麗だった。食事も、別段見苦しい食べ方はしていなかった。けれど今のように、落ち着いた気配や雰囲気はしていなかったように思う。今は何故か、落ち着いた印象が深みを増している。その理由が判らない。だから胸が痛いのかもしれないと、蘭は漠然と不安な気持ちを抱え、思った。
「服部君、料理するんだ」
 ゆっくりとしたペースで、食事をしていく。こうしてゆっくりと会話す事は、ひどく久し振りな気がした。少しでも長く、この時間が続いてほしいと思うのは、高校卒業も間近に控えた蘭にしてみれば、極当然の感情なのだろう。
「知ってたか、俺は最初驚いたよ。聞いて知ってたけど、うどんと飯一緒に出しやがった」
「大阪案内された時もそうだったじゃない?御好み焼きがおかずなんて、喫驚したわよ」
 以前大阪を案内された時、流石食い倒れの街だけあって、案内された場所は食事処が多かった。その中でも蘭達を驚かせたのは、御好み焼きと御飯を一緒に食べると言う事で、大阪人にとって、御好み焼きはあくまで副食と言う事だった。関東では、御好み焼きを食べる時は、それが主食になるから、蘭も新一も、驚いた。が、案外イケると思ったのもその時で、流石、食い倒れの街と、奇妙な感心をしてしまったものだ。
「それで、最初は揉めたよ」         
 揉めたと言いながら、その口調は見事に台詞を裏切っている。思い出し笑いを浮かべる新一を、蘭は初めて見た気がした。
「ねっ…ねぇ新一、服部君も、新一と同じT大よね?」
 とても園子が応援してくれたような状況ではない気がした。
 告白なんて、出来ない、そう思う。一歩を踏み出す怖さに、足下が竦む気がする。今までそんな怖さは、味わった事もない、居心地の悪さを蘭に齎している。
「アア?あいつ受験の時まで押しかけてきやがったからな」
 受験の上京の時でさえ、服部は工藤邸に訪れていた。もっとも、流石に服部も、受験時くらいは遠慮しようと思ったのだ。けれど新一は呆れて今更だと笑った。それは誘いと挑発の言葉でしかなく、服部は白旗をあげ、恋人の誘いを受け入れた。
 受験の前夜くらい無理などさせられない自覚くらい有るから、せめてもと、父親のマンションに転がり込む予定を、けれど新一は服部の努力を無駄にする。電話口で呆れて今更だと笑うのだから、大概成長してしまったと、脱力したとしても、罪はないのかもしれない。
 所詮新一は服部に甘いのだ。服部が誰より新一に優しいように。
「服部君、確かお父様のマンション都内にあったのよね。其処から通うの?」
「ああ?あいつ此処だぜ」
「此処?」
「部屋余ってるし。あいつ毎週ってくらい来てやがるから、この近辺の地理にも詳しいし。二人の方が経済的にも便利だし、あいつあれで料理巧ぇし」
 面倒じゃねぇか、どうせ学部同じだし。
事もなげに言う新一に、けれど蘭の綺麗な双瞳は瞠然となった。 
 神経質で、他人との接触が苦手で、そんな幼馴染みの身の裡の領域に平然と足を踏み込めた人間は、自分を含めれば、身内以外に存在しない筈だった。テリトリーを侵害されるのが嫌いで、干渉されるのも嫌いで。そんな幼馴染みが、極当然のように簡単に告げた台詞に、蘭は打ちのめされる気がした。足下が、不安定に崩れていく。
 自分の知らない新一の側面を、確かに服部は引き出し、知っているのだと思えば、蘭が嫉妬の一つや二つしても、可笑しくはない筈だった。
 学部が同じで、寝起きする家も同じ。四六時中同じ相手と在る事に、窮屈も息苦しさも、新一に感じさせない相手。たとえ二人の関係が親友ではなく、恋人の領域に足を踏み入れてしまっていると知らないとしても、嫉妬するなと言う方が、無理なのかもしれない。
それでも、そんな台詞を言わない当たりが蘭で、身の裡に言葉を飲み込んでしまう。そんな幼馴染みだからこそ、新一が守りたいと思っている事も、知らないのかもしれない。
 だからこそ、最後まで新一は蘭に対して口を閉ざし続けるだろう。自分が生命の危険に曝されていた事も、知れば泣かせると判っているから、話さず傷つけているとしても、新一が話す事はないだろう。そうして今では姉とも妹とも思う肉親の感情の中で、幼馴染みを守り続けていくのだろう。自分の躯がボロボロになったとしても。手負いの獣が、自らを曝す事がないのと同じように、何でもない表情をして。
「そっか…服部君来れば、賑やかになるね。和葉ちゃんも、こっちの大学通うし」
 和葉から、服部が新一と同居する事など聞いてはいない。と言う事は、和葉も知らないのかもしれないと蘭は思う。
「ねっ…ねぇ新一?」
 眼前で舌鼓を打っている幼馴染みに、綺麗な双瞳が窺うように視線を向ける。逡巡した後、蘭は口を開いた。
 可笑しいとフト思う。
居心地の悪さを意識して、会話の為に慎重に言葉を選ぶなど、生まれた時からの付き合いである幼馴染みに対し、そういう意味で気遣った事はない蘭だった。だから可笑しいと思うし、哀しいとも寂しいともいう感傷が、痛烈な威勢で胸に湧く。
「和葉ちゃんは、知ってるの?」
「何がだよ」
 蘭の台詞に、新一は箸を止め、キョトリとした仕草を見せる。推理時は、大人でさえ圧倒される怜悧で凛冽な眼差しは、こうした場面ではひどく幼い印象が出る。五感とそれ以外の何かで真実に到達する新一は、けれどこうした何気ない会話の中、相手の機微を読み取る場の流れは、不得手な一面が存在している。
「だから、服部君が、ココに同居する事」
「んな事俺が知るかよ。あいつが話してれば知ってるんじゃねぇ?あいつが幼馴染みにどう話してるか、んな事俺は知らねぇよ」      
 何で突然蘭が和葉の名前を出したのか、新一に理解は出来ない。蘭の気持ちに気付かない新一ではないし、和葉が服部を想う気持ちも判っている。けれど服部が、大学進学の為の下宿の件を、その幼馴染みにどう話しているかなど、新一の興味の範囲外だった。
 大阪と東京と言う遠距離恋愛で、けれど新一が服部の想いを疑う事など微塵もない。
疑うくらいなら、最初からリスクの大きい同性同志の恋愛になど、溺れたりはしないだろう。だから自分より遥かに服部と同じ時間を共有している和葉に、子供じみた嫉妬を新一が感じる事もなかった。だからこそ、蘭の台詞の言外の意味までは判らない事だった。
「仲いいんだね。やっぱり東西の名探偵だから?」
 再び箸を動かし始めた新一を眺め、蘭は少しだけ淋しげに笑う。
高校生活までは、子供の時間だったのかもしれない。他愛ない会話と幼馴染みの関係は、ある意味、微温湯に浸かりきっていた穏やかな時間だった。突然幼馴染みが行方不明になって、一方的な連絡しかとれなくても、それは子供の時間だったのかもしれないと蘭は気付いた。
 だからこそ、自らの途を選択して、気の合う同居人との生活を踏み出そうとしている新一に対し、置いていかれるという焦燥が湧くのかもしれない。
「さぁな……」
 改めて問われると、その関係を抜きにしても、どうしてだろうかと半瞬新一は考え込んだ。    
 出会いは最初最悪だった。
コナンになった自分の前に、突然フラリと現れた西都の高校生探偵。自分と同じ高校生探偵という同業者だったから、名前と顔だけは知っていた。けれど自分のように、マスメディアに登場する事は殆どない。それは彼の父親の存在が多大に影響していた事も、新一は知っていた。
 推理勝負だと、毛利探偵事務所に乗り込んで、次に合った時は、『ホームズフリークツアー』の時で、その時服部は、正確にその正体を、僅かな躊躇いもなく、切り込む鋭さで指摘し、次には鷹揚に笑った。以来、事情を掻い摘まんで説明し、同業者として付き合ってきた。それが何時から現在の関係になってしまったのか?
『やっぱあいつ天性のナンパで詐欺師だ』
 偶然も立て続けば、それは作為と必然の可能性を考えさせられる。偶然と言うには高い頻度で事件にバッティングし、推理を論じ合った。
 気付けばその存在は違和感もなく身の裡に浸透し、我が物顔で居座っていた。他人の心理に入り込む術を、自分同様心得ているのだろう。でなれれば、探偵は勤まらない。
「悪党だからな、あいつ」     
 ボソリと呟く新一の声は、けれど蘭には届かない様子だった。
「何?」
「何でもねぇよ」
「それでいつ、服部君来るの?」
「後は卒業式だけだからって、週末に来るってたな」
「だったら、和葉ちゃんも来るし、遊びに行かない?」
「時間あればな」
「いいじゃない。一日くらい。大学入ったら中々会えなくなるし」
「なんでだよ、別に近所に居んだから、会おうと思えば、会えんだろ」
「それでも、忙しくなるでしょ?」
「そうか?」
 新一は、そう思えなかった。
 幼い子供の姿から元に戻ってからは、なるべく派手な行動はしないようにしてきたし、幸いな事に、高校生探偵が乗り出すような事件も起こってはいなかった。会う気になれば、会う困難など、新一には感じる事はできない。
「まぁいいけどな」
「約束ね」
 さした気のない返事をすれば、蘭は少しだけ拗ねたような表情をして、淡い笑みを作った。
『本当、幼馴染みなんて、特別なんかじゃない』
 蘭は内心で呟いた。周囲は新一の幼馴染みと言う立場に、羨ましい、そう言うけれど、自分もそう思ってきたけれど、そんな事はないのだと、今更判った気がした。
 幼馴染みは幼馴染みでしかないのかもしれない。父や母のように、幼馴染みでその関係を進める事は、案外難しいのかもしれないと思えば、父と母には、その勇気があったと言う事なのだろう、蘭は両親の強さを思い知った気がした。
 


 







「だからね、私幼馴染みなんてちっともいい事ないって、思ったの。自分の勇気がないだけなんだけどね…。でもやっぱり、新一が好きで、視ている事が止められない」
 狡いよね…答えばっかり欲しがって…。蘭は過去を想起し、自嘲的に呟いた。
「そんな事あらへんよ、あの男達が鈍いだけや」
 そう強気で言う和葉の貌に、涙はない。けれど、強気の台詞の背後に横たわる和葉の内心を、理解できない蘭ではなかった。二人共、同じ状況で、幼馴染みを想っているのだから。
「ねぇ和葉ちゃんも教えてよ。服部君と新一の同居。とうやって知ったの?」
 今夜は女二人、告白大会をしようと、蘭は笑う事しかできない。
新一は、どうしているだろうか?服部は、今も泣いているだろうか?声を殺し、自らを責めるように。
 紙のように白い端整な貌。閉じられた眼差し。蘭の脳裏に、スローモーションのように、華奢な姿態が崩れ落ちていく場面が再生されて行く。
 差し出された腕。長く褐色のソレは、迷いも逡巡もなく、当然のように、細い躯を抱き留めた。自分には届かなかった距離は、物理的ではなく精神的な距離。
「私、幼馴染みじゃなくて、母親になりたかったな…」
「蘭ちゃん…」
 蘭の独語のような呟きに、和葉はなんとも言えない貌をする。
「母親になって、新一生みたかったな。そうしたら、守れたのかな」
 あんな風に、胸を掻き毟る苦しみを与えず、見逃す事もなく。抱き締められたのだろうか?
 届かなかったのは、腕の長さではない。
「こんな事言ったら、小母さんに怒られちゃうけど」
「工藤君のお母さんって、偉い美人の女優さんやったよね」
「ウン、凄い綺麗。でもすごく可愛い人」
「可愛い?美人やないの?」
「美人だけど、性格はすっごく可愛い。そのくせ行動破天荒だって、新一言ってるもの。新一の事すごく可愛がって、よく新一の一人暮らし許可してると思うもの」
 幼馴染みの蘭から見ても、新一の母親はある意味理想の母親だろう。見た目美人で、けれど性格は少女の感性を残したままの可愛さ。けれど大人の女性の芯の強さを持っている。自分の母親とはまた別の意味で尊敬もできる女性。
「そうやね、でも私は、違うんよ。母親にはなりたない。やっぱ平次の恋人がええよ。聞いてくれるん?私ほんま、工藤君には嫉妬してるんよ。心の狭い女やねん。」
「和葉ちゃん…」                 
「倒れた工藤君見ても、そう思うんよ」
 そう笑う和葉の白皙の貌は、再び泣き笑いに歪んでいた。