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I LOVE YOU 以前の日本には、『LOVE』に当て嵌まる日本語はなかったのだと聞いた。 LOVEは愛 今なら誰もが簡単に知る英語 けれど英語が日本に入った時 時の偉人達を悩ませた単語 LOVE それまでも、愛と言う漢字は存在していた けれどそれは『いとしみ』や『かなしみ』と表現されていた 愛と書いてかなしむ そう聞いた時 ダレかを思い出して、らしいと思ってしまった 時の偉人が思案の果てに訳した言葉 I LOVE YOU 貴方の為なら 命さえいらない I LOVE YOU 君を 愛している 己の命さえ差し出して、尚余りある程 たとえそれが、傲慢な想いや願いだとしても。 「なんやけったいやな」 ボソリと服部は呟いた。 「最期くらい、工藤の声、聞きたいもんやな」 深く溜め息を吐き出すと、服部は座り凭れている壁に後頭部を押しつける。そして長い溜め息を再び吐き出した。 廃墟が崩れて行く轟音。周囲を覆い始めた炎と燻り焦げる匂い。外から響くスピーカーの声。それは反響して、言葉としては何一つ伝わってはこなかった。 服部は、ズボンのポケットから愛用している外国産煙草の箱を取り出すと、マッチで火を灯す。 ライターではなくマッチで吸うのは、服部の拘りだった。どうしてもライターだと味気無く感じられて、マグネシウムの青白い炎を好んで吸った。 最初は確か何かのドラマで、主人公がマッチで吸う恰好がよかったからで、実際吸い出し煙草の味が判ると、確かにライターよりマッチの方が旨く感じられたのだ。 だから新一がこっそり隠れて吸う煙草も自分の愛用の煙草で、マッチだと、服部は知っている。 「困った奴ちゃな…」 クスリと、苦笑とも自嘲とも付かぬ笑みを漏らす。 何度言っても煙草を吸う事をやめない。自分の前で吸えば取り上げられている事を判っているから、こっそり吸うのだ。それも自分の部屋ではなく、服部の部屋で、服部の煙草を。隠れて吸いながら、気付かれる可能性など100%と判って吸う当たり、悪戯した反応を愉しむ子供のような面が、確かにある。 そして、自分が新一の前で吸っていればソレを取り上げ、旨そうに吸う。 そんな仕草さえ艶めいていて、ドキリとなる。きっと確信犯なのだろう。 「まぁ悪くない人生やったなぁ」 何より新一に会えた事は、奇跡のようだ。綺麗で優しい風景だと思える。稀代の名探偵が、自分の腕の中に在た。 天の才を与えられてしまった稀代の名探偵。驚く程怜悧で凛冽な推理と、抑揚を欠いた淡々とした言葉。端的で淡如で、時には感情など欠片もないと思えてしまう冷冽な横顔。けれど、新一を知れば、その背後には、色濃い苦悩が横たわっていた。 「まぁもちっと、視ていたかったけど」 怜悧な推理時の顔とは違う、感情を乗せた笑顔。優しい言葉。強くて靭やかで、諦めない綺麗な魂。もっと視ていたかった。後悔が、ない筈はない。けれど、苦しくはない。この炎に巻き込まれている事実が新一でないと言うだけで、救われる気がした。 「黒羽に後は頼んであるし」 泣いたら、あかんで……。 服部は紫煙を燻らせる。 あの綺麗な双眸が、涙を流すところを、見た事はない。 勝ち気な恋人は、自分の前では決して涙は曝さない。意地っ張りで、勝ち気で、そんな魂が、だから愛しい。 泣き場所が在る事が、今は安堵できる。 悪友で、対極の立場の筈の相手に、けれど信頼を託して預けられる。何より大切な風景を持つ人を。自分と同じく、新一を大切にしている稀代の怪盗だから。癒してくれるだろう、心の疵を。 「そろそろやな」 焼け付く炎の匂い。気道が苦しくなって、咳き込んでくる。それは煙草の所為ではない。 「最期くらい、旨く吸いたいもんやな」 炎と煙に巻かれ、煙草を吸う自分が悪いかと、服部は苦笑する。 「足も、折れてまったしな」 立てば激痛が走る。感覚が残っているだけマシだとは判る。 右足が、こうしていてさえも酷く痛む。間隔をあける事なく続く拍動の痛み。 切り裂かれた下肢や腕、胸からは、生命の脈動がひどくゆっくり伝い流れ、服部が凭れている周囲に生臭い腐敗臭をまき散らし、暗赤色の血溜りを形成している。貧血症状で、頭がクラクラする。意識をしかっり絞っていないと、深い淵に引きずりこまれて行く感覚まで纏わり付く。 「まぁ最悪切断されてもうても、感覚は残ってるもんやからな」 phantomgliedschmerz。 切断された手足の残存感は、すぐには消えはしないし、癒える事はない。 失った手足の感覚だけはリアルに残る。その痛みも。 周囲は薄暗く、時間に取り残された場所を示すように、逃げ込んだ最初は塵の匂いが酷かった。けれど今は廃墟を取り巻く焦げ臭い炎の匂いが勝っている。それでも、服部は奇妙な程、動揺も狼狽も感じてはいなかった。 意識を失わない程度の半端な痛みが、意識を保っていられる状況で、ある意味痛みに感謝する。痛みは何よりリアルな感覚で、そしてもっとも人の恐怖を引き出す感覚だ。 「案外自分は、潔かったんやな」 ジタバタしても状況は変わらない。こんな時程冷静さを欠いたら、自らの立場を危うくする事を、服部は理屈ではなく経験則で理解していた。だからこそ強い。意識が訓練されていると言う事は、そう言う事だからだ。 「けどまぁ。今回ばっかは、アウトかいな」 理性的な冷静さで、窮地を乗り切った事は一度や二度ではない。けれど今回は分が悪い。状況を適格に判断する判断能力は、探偵の資質と条件の一つだ。でなければ、何事にも端緒は見つからないし、見極められない。 忘れられない光景を持つ人。輝く星。災いを呼ぶ星だと言われても、自分には哀しい程綺麗な星だ。何より大切な、自分の持つ全てを補っても補いきれない大切な星。その星を守る為になら、自分の命など惜しくはない。それで例えその星が嘆き哀しみ、そして自らの傲慢さと身勝手さに、憤ったとしても。結局自分の生き方は変えられない。 「お前ん為なら、惜しくはないんや、俺の命なんて」 まぁ聞かれたら怒られ、当分どころか、絶縁されそうな台詞ではあるけれど。 けれど自分にはそれこそが真実なのだから、怒られ嘆かれても仕方ない。 自分はそう言う人間だ。所詮身勝手で傲慢な自己犠牲な。 「へぇ〜〜だったらその命、お前んじゃなくて、俺のもんって事だな」 「…なっ!」 その瞬間、服部は耳を疑い、跳ねたように壁から身を引きはがし、冷ややかな声のした方角に視線を移した。瞬間、鳥肌がたった。 「工藤ッ!」 一瞬幻覚かと思えた人は紛れない本物で、服部は狼狽を露にする。 薄暗い室内。視線の先には、入り口に凭れ、両腕を組み、冷冽な眼差しでこっちを凝視している新一の姿が在った。 「何してるんやっっ!このビルもう崩れる、なんでんな所に居るんやっ!」 有り得ない事だった。今回新一の心配もよそに単独で動き、新一はこの場所さえ知らない筈だった。もっとも、これだけ派手にスピーカーが鳴り響いていれば、ニュースにはなっているだろう。けれど、知った所で、東京から簡単に駆け付けてこられる場所ではない。此処は自分の庭である、大阪だ。 「だったらお前ぇは、そこで何してんだよ」 冷ややかで淡如な声。研ぎ澄まされた眼差しは淡々として、感情の並一つない。 それは推理時に見せる新一の顔。けれどそれは違うのだと、服部が悟るのは瞬時だった。 怒っている。臨界点を超えた怒りに、感情さえ綺麗にかき消えてしまう程、新一は怒っているのだと。 自分の佇む場所と、入り口は距離で程度あるから、粒さに彼の表情が視える訳ではない。けれど、その声で、どんな表情をしているかなど、想像するのは容易だった。 誰より大切な恋人の表情なのだから。 『あ〜〜葬式も来てもらえんかもしれんなぁ〜〜』 服部は悟った瞬間、そんな呑気な事を考えて、新一を凝視する。 「早う逃げ!工藤!」 自分はもう一歩も歩く事はできそうにない。できたら諦めて、こうして蹲ってはいない。可能性を捨てる程、潔くはない。けれど、ゼロの可能性を突き進める程、無謀ではなかった。 「人に諦めるなとか言って、自分はそのざまかよ。情けねぇな、西の名探偵が」 こんな状況にあっても、新一の口調は動揺もなく、冷ややかなままだ。 もう背後まで、炎は迫っている。何処かの一角が崩れたのだろう轟音が、地を揺るがす。 「工藤ッ!」 そんな中でも眉一つ動かさない新一の精神は一体何かと服部は焦燥を露にする。 悲鳴じみた声が新一の名を叫ぶ。 「俺を助けたかったら、此処まで来い。そしたら肩貸してやる」 此処まで。自分の立つ、入り口まで。 「工藤っ!」 「じゃなかったら、二人心中だな」 腕組みしたまま、扉に凭れ、新一の台詞は何処までも冷ややに研ぎ澄まされている。 「ハズレ〜〜」 「黒羽」 状況に反した呑気な声に、流石の新一も面食らう。 「三人心中」 こんな時でも相変わらずのスタイルを崩さないキッドの恰好をした快斗が、新一の隣に並んでいる。塵と煙が充満しつつある部屋で、白いマントが清涼な気配を湛え、はためいている。 「黒羽っ!」 咎める口調が、服部の喉の奥から叫ばれる。 以前、一度だけ、快斗に託した言葉がある。 「だって、俺嫌なんだよね」 「黒羽っ!早く連れ出せっ!」 何より大切な新一を。 「此処で服部置き去りにしても、俺一生名探偵に恨まれちゃうし」 「ちゃうやろっ!」 稀代の怪盗の快斗は、稀代の魔術師でもある。その中に含まれる暗示。 以前服部が託した言葉だ。 「無理」 催眠暗示は、主体の望みのない場所では、一時の見せかけのものにしかならない。 けれどこうして見れば、服部の先読みと言うのは、恐ろしい確率だったのだと思う快斗だった。 託された言葉に頷いたものの、その時間がここまで早く巡るとは、思ってはいなかった。いなかったからこそ、頷いたのだ。 『もし、万が一にも、俺が居らんようになったら。そん時は……………』 怖い程真剣な貌をして、託された言葉。明かりの灯る事のない工藤邸の服部の部屋で、互いに隠れて煙草を吸いながら、交じわせた会話。 その時の服部の真剣な横顔と、何処か達観した苦笑を、快斗は鮮明に覚えている。 此処最近、出会った当初より精悍さを増した貌は、完成された大人の男を感じさせる。 シャープに刻み付けられている陰影には、より深く色濃い苦悩が横たわっていると感じられた。それでも、新一を止める事のない精神的な強さに、驚嘆さえする。 事件を呼び寄せる体質は、二人揃えば倍加する。そう言う事、なのだろうか? 探偵は、そう言うものなのかと、思わずにはいられない。 「痛ぇなら、足使うな」 冷ややかな眼差しは相変わらずだ。けれど炙られる炎に、瀟洒な面差しには汗が浮いている。それでさえ、新一は気にした様子はない。恐ろしい程研ぎ澄まされた眼差しが、瞬きを忘れ、服部の眼球の中核を射ぬいて行く。 「足掻く事が恰好悪いなんて、思ってないでしょ?」 マント邪魔と、白い煙の中で 呟いた時には、快斗の服装は軽装なものに変わっていた。 「黒羽っ!何考えてる」 「叫ぶ体力も気力もあるなら、這っといで」 軽口な口調は常と変わらない快斗は、けれど漆黒の眼差しは恐ろしい程鋭利だ。 冷ややかな刃先のような眼。快斗の本質は、きっとこの眼なのかもしれないと、服部はこの状況で漠然と思う。 「どうすんだよ服部。お前ぇ俺が大事だとか言ってながら、最期はこのザマかよ。俺に三人心中させる気か?」 冗談じゃねぇぞ。真冬の月さながらの眼は、言葉以上に雄弁にその想いを突き付けている。 「チッ!」 服部は、舌打ちする。託す相手を違えた。それ以上に、侮っていたのかもしれない。 黒羽快斗と言う稀代の怪盗を。 「工藤と二人ならともかく、黒羽は邪魔やな」 「だったら、立ちな」 勝手に諦めたいなら構わないけど。でも恨まれるのは御免。 突き放したような快斗の台詞は、きっと初めて聞いた気がする服部と新一だった。 「恨むで」 忌ま忌ましげに舌打ちすると、服部はズルリと重く軋む躯を壁に凭れつつ、引き起こした。力の入らない下肢、その痛みだけはリアルに伝えてくる。未だ生きているのだと。 痛みは恐怖と同時に、リアルな生を突き付けて来る。そしてその向こうの彼岸さえ、横たわらせ、手を伸ばしてくる。 いつか訪れるその淵。けれど未だ早いと、痛みが伝えている事に、今更気付く。 新一が怒りを覚えて、当然なのかもしれない。こんなに簡単にリタイアを決め込んでしまった自分に。 一歩歩くごとに、鋭い痛みが下肢を中心に脳髄まで突き抜けていく。貧血に、クラリとする。意識をしっかり正面の綺麗な貌に絞っていないと、閉ざされてしまいそうで、服部は相変わらず冷ややかに佇んでいる新一の貌を凝視している。 伝い流れていく生命の脈動。歩くごとに、糸を引くように落ちていく暗赤色。実際血は鮮やかなレッドではないが、伝い流れる脈動は、サラリとした朱をしている。塵が舞う、照明もない薄暗い廃墟の一室では、その血の色はより暗く映る。 歩く背後に、引きずる様に連なり蟠るソレ。自分の血なら同様も狼狽もない。これがもし新一のものだとしたら、服部は考えただけでゾッと身震いした。 「ホイ、貸しいち」 壁伝い歩いてきた服部に、肩を貸して支えてやると、快斗は笑う。 「急ぐぞ」 じき崩れる、新一は服部の肩に腕を回す。 「走るぞ」 「ああ、三人心中はごめんや」 燃える炎は、けれど焔のようなものは何一つなく、炙り焦げる匂いを発するだけのものだった。肉を灼く油の匂いまで、鼻孔を嬲る気がする。 掠れた服部の声に、新一と快斗は顔を見合わせると、頷き、走り出した。 「工藤…」 汗の浮く横顔を長め、服部が躊躇いがちに名を呟く。 「今は何も言うな。今何か言ったら、お前ぇはこのまま此処に置き去りだ」 「堪忍…」 正面を見詰める新一の横顔に、服部は呟くような言葉を口にした。した時、背後で、轟音と共に、崩れ落ちる音が地を揺るがした。 「工藤…」 救急車のストレッチャーに問答無用に乗せられた服部は、脇に佇む新一を見上げた。 何か話そうとしても、言葉が何も出てこない。今何を言っても新一を怒らせるだけな事を、服部はよく心得ている。そして臨界点を超える程怒らせた自覚もあった。 「お前ぇがお前ぇの意志通した結果だろ?俺には何も言う事はない。言う権利もない」 ストレッチャーに寝る服部を見下ろす新一の声は、感情の波一つ乗らない淡如なものだ。 「堪忍…」 「まぁ早く出所してきな。それまで名探偵は、ちゃんと預かっておいてあげるから」 「黒羽、お前の事は、恨むで」 「恨まれたく、ないんだよね、名探偵に。別に服部に恨まれても、痛くも痒くもないし」 大仰に、肩を竦めて苦笑を漏らす。 互いのテリトリーは侵害しない。何処までもまぁ不器用な二人だと、服部と新一を眺めて快斗は思う。 つい先刻までは、能面さながら、全ての表情が消えてしまっていた新一を思えば、怒っている様すら、今は安堵できた。凛冽な言葉を吐いても、怒っているのだという感情の波が、今は見え隠れしているから、安心できた快斗だった。 だから、服部から託された言葉を実施する事は、できなかったのだ。 そうする事は簡単だ。けれどそうしたら、きっと大切な、何より新一が新一として形成されている大切な根っこの部分が失われてしまう。そう思えたのだ。 一度壊れてしまったものは、どれだけ精巧に繋ぎなおしたとしても、もう二度と修復は出来ないのだ。それがどれ程外見からは、繋ぎ目が判らない綺麗なものだとしても。 知れば痛々しさばかりが滲んでしまう。きっと傍には居られなくなる。 「行って下さい」 涼しげな声が、救急隊員に向けられる。 「工藤。俺な…」 移動するストレッチャー、必死に何か言葉を紡ごうとしては、失敗する。 視界に映る新一は、静かな程穏やかな眼をしている。先刻の臨界点を超えた怒りを張り付けているものは今は一切ない。けれどそれが服部には怖かった。 「帰る、すぐに戻る。待っといてや」 上半身を起こし、救急隊員に咎められる。けれどそんな事に構ってはいられない。 何か言葉を紡がなければ、そんな焦燥だけが身の裡を急き立てる。 瀟洒な面。炎に炙られ傷付いて、それでも綺麗な面差しに浮かぶ一対の眼。双眸に走り抜けた一瞬の影を、服部は見逃しはしなかった。 「工藤っ!」 バタンと、後部の扉が閉められた。 「何、考えてるの?」 走り去っていく赤灯。警察病院へと直行されるだろう。アレだけ話せれば、緊急OPして一日、二日、ICUに入れば、一般病棟に転棟だろう。 「別に」 「名探偵、大阪滞在?」 「なんでだ?」 ゆっくりと、視線が動いた。 「旦那入院でしょ?面会とか、しないの?」 「必要ねぇだろ、親元だし。それよりお前、俺に何か言う事なかいのか?」 相変わらず涼しい程の眼差しが快斗を視る。その眼差しにの前に身を曝し、快斗は底冷えするナニかを味わった。 これこそが、本質。 ヒタリと凝視される眼差しの奥深さ。眼球の中核を正確に射ぬく鋭利さは、一瞬の痛感さえ感じられる程だ。場の空気と言うものを操作する術を、新一は自覚なく出来る特異な一人だ。 「それは服部からね、聞いた方がいいよ。俺は頼まれただけ」 「だったら」 揺るがない瞳が、快斗を静かに視る。 長い前髪の間から覗く一揃えの眼。長い睫毛に縁取られた怜悧なソレは、怒りも哀しみも虚無な願いも映さず、ただ静かにソコに在る。そのくせに、圧しがたい研ぎ澄まされた鋭利なナニかを潜ませている気分にさせる。そんな眼の色だ。 快斗は息を詰まらせる。新一の次の言葉が読めてしまうから、快斗は聞きたくないなぁと、ボソリと呟いた。 「残してくつもり?置いてかれると、煩いからヤダな」 「だからお前ぇに頼むんだよ」 俺にしようとしたんだから、服部にも可能だろ?新一はそう告げる。 「お見通し?」 「あいつの考えくらい、簡単に判る」 「ソレ惚気」 「あいつが単純なバカだからだよ」 「さっすが旦那の事は、一番判ってるって?」 「判ってるさ」 その刹那だけ、新一は表情を現した。苦笑とも自嘲とも判らない曖昧な笑みを刻み付けて。 「あいつがスゲーバカだって事」 人の生き死になんて、幾らでも視てきた。 人は生まれ落ちた瞬間に、死と言うゴールを目指し歩いている。或いは走っている。 生命情報に乗っ取って、プログラミングされた同一の環の上を巡っている。どんな意味合いを用いても、死だけは平等に訪れる。その過程は、存在する人の数だけ在るけれど。確かに死神の鎌は、ダレにでも無条件に平等だ。還り戻った自分と哀以外には。 だから服部は苦しんでいる。その苦しみは、けれど分かち持つ事はできないものだ。 辛いのは、服部。哀しいのも。自分はもう達観できる。どれだけ絶望して吐き気と嫌悪に見舞われても。そう言う事なのだと、変えられない事実として。 奇跡を願う程、単純でも、子供でもない。自分の躯の事は、誰に指摘されるまでもなく、自分が一番判っている。 それでさえ、辛いのは服部や快斗である事実が、新一を苦しめる。 逃げ出したいのかもしれないと、心根の奥で、ダレかが呟いた。 「バカで単純だけど、猟犬だからね。きっと捜し当てると思うよ」 アレだけ新一を大切にしている服部の事なのだから。恋人というより、もっと根の深い部分で、二人は結び付いているように快斗には思えた。根拠はないけれど。けれどこれだけは判る事実。服部は、置いていかれて、拗ねて諦めて、そして誰か別の愛する対象を見つける人間ではないと言う事。 「アレは狼だし」 まぁだから呼べば届くよきっとと、快斗は内心でコッソリ答えた。 「俺はこれだけは知ってる」 「何?」 不思議そうに新一を覗き込み、瞬時に息が凍り付く。 意味深な笑みが、崩れ落ちたビルの塵の中に輪郭さえ溶け込ませながら、冷ややかなナニかを背後に横たわらせている。 日本人形のような意味深な笑み。謎めいて、秘密めいた忍び笑い。 忍び笑い。適格な表現はソレだろう。酷薄な口唇にはためく忍び笑い。 子供の頃、意味もなく恐ろしいと思った日本人形のような笑み。ゾッとする程、心根の奥を引き絞っていくソレ。 「誰もが倖せになる術なんて、本当は何処にも存在しないんだ」 薄布一枚引きめくった背後から、突然現れたかのような見知らぬ貌。 冷ややかで謎めいて、恐ろしい程綺麗な面差し。 「あいつがバカだっていうのは、そんな単純な誰でも知ってる事、絶望するだけだって、判ってて、それでも俺に願い掛ける事だよ」 「名探偵」 悲鳴のような快斗の声。差し出された長い腕。 「泣いていいから。服部いないし。俺泣き場所でしょ?」 誰からも視えないように、稀名探偵の泣き顔を。簡単に称賛を与え、その枷も苦しみも、見る事もしない誰からも。 「でも一番バカなの、俺だな……」 くぐもった声。縋り付く事なく、小作りな頭だけを肩口にソッと預けて。 『工藤っ!』 差し出された腕。必死な貌。それでも、自分ではなく隣の少女を助けろと。 その時の想いなど、想像してさえ今なら追いつかない。辛くて痛くて哀しくて、きっと表現はできない。 それでも、言い続ける事しかできない。自分ではない見知らぬダレかを助けてくれと。 そしてきっと服部は助け続けていくから。 自分に、何を求めているのかと、訊いたらきっと哀しげな顔をして、怒るだろう。 ハッとして、眼を醒ます。何か叫んだ気がして、前触れなく意識が覚醒へと引っ張られた。眠りから覚醒への中途な心地好さは何も与えられず、ただ心臓が早鐘を打つ苦しさと、ジットリ滲む脂汗に、吐き気がした。 「夢……かよ?」 アレが?リアルな感覚と感情が?突き付けられる痛みが、精神の奥を引き絞っている。 けれど確かに見渡す周囲は見慣れた室内で、何よりも、自分を抱き締めている腕が在る。肌を合わせる事なく眠りについた。薄い布地に隔てられた体温は、それでもこれが確かに現実なのだと教えてくれる。 早鐘を打つ心臓が、徐々に通常の速度へと戻ってくる。きっと血圧も下がっているだろう。手足が冷たい。血が通っていない感触だけが生々しく感じられた。 「発作…か……?」 寝ている時に発作が起きて、覚醒を促された。そんな事は、今まで一度もなかった。 けれど、一度もないソレに、安心していてはいられない事くらい、自分の躯の事は判っている。今までなかったからといって、安心できる程、目出度くはなかった。 「たまんねぇ」 ボソリと小声で囁く。相変わらず自分を抱いて眠る男は、眼を醒ます気配はない。その事に、ホッと安堵する。でなければ、余計な詮索をされ、騒がれる事は経験上判っている。 騒がれ心配され、そして不安にさせ、哀しませる。 「なんて夢だ」 コロリと仰向けになると、腕が瞼を隠す。そして再び長い息を吐き出した。 らしくない雫が一筋、頬を伝うのが判る。夢の名残だと思った。煩い隣の男が起きていなくて良かったと、新一は心底思っては、夢を思い出す。 生々しいリアルな死。自分ではなく服部の。直面したダレかの死は、初めてではない。 救いたくても救えない生死の狭間は確実に存在する。追い詰めて、結局は死なせてしまった事も…。あの時程、自分の無力さを、思い知った事はない。真実の痛みも罪悪も。 罪悪が引き出した結果だろうか?それともいずれ訪れる時間だろうか?どちらも可能性が在り過ぎて、否定要素が見つからない。 今でも覚えている。悲鳴のように叫ばれた声。差し出された腕。けれど、その手を取るより先に、自分は叫んだ。その瞬間の服部の絶望的な貌は、忘れられない。 自分の腕一本で支えていた少女の生。左手は、少女の腕を。右手は屋上の柵を。差し出された腕に、少女の腕を取るように叫んでいた。 『お前なら、どうする?』 初夏の雨の中。問い掛けた問い。 『俺と見知らぬ誰かが崖っぷちに掴まってて、お前ならどうする?』 残酷な問い。答えも判っていて、問い掛けた問い。そうして現実になった時間。 『お前なら、どっちを助ける?』 そうしてながら、夢の意識にこうして胸が痛むのだから、自分は何処までも傲慢だと、新一は苦笑する。 服部は、絶望的な表情をして、それでも守ってくれたのだから、少女の命を。自分との約束を。 『両方やな……』 思案しつつ、言葉を選んで告げた服部の答え。 『でもまぁそんな都合よぉできないやろうから…』 そう言って、覗き込んで来た精悍な貌を、新一は今でも覚えている。 服部の本心は違うのだと、雄弁に語った眼差しの深さ。けれど自分は別の答えを望んで吐かせた。偽りの答えを。 『その状況で、できる判断で助ける』 でもなと、言葉を繋いだその先。深い哀しみを湛えて笑っていた。 『咄嗟じゃ俺のできる判断なんて、あてにならん。きっと利き腕に在る方、助けてもうやろな』 『正解』 その答えに安堵して、笑った。 そして現実に訪れた時間。少女の命を腕一本で繋ぎ止めた自分。そして助けろと叫んだ。自分ではない少女の命を。 少女を助け、そして次に自分を助けた服部は、無言だった。そして快斗には、優しくひっぱたかれた。 ひっぱたかれた意味も理由も判っている。決して少女を救う為に、柵から身を投げた自分にではない事くらい、判っていた。 探偵の理を、理解している稀代の怪盗に、苦笑さえした。 「夢分析なんざ、したくねぇよ」 夢が無意識の象徴的出来事を客観的に写し出す投影だとしたら、今の自分は嗤える事実だ。 生の延長線上に在る死。死は生の始まりだと言うのは、偉人の台詞ではあるが、リアルな死の直面は、それこそ生きていると言う意味に繋がるからだ。未だ生きていると言う現実に。死への恐怖は、生への執着を呼び起こす。死への問いは、生の意味を問う。 相反する生死の狭間は、けれど同じものを答えにしている表裏一体性を秘めている。 ソッと、新一は服部の胸に頭を傾けた。 刻まれる生命の脈動。確かに聞こえる耳に心地好い鼓動。生きていると言うリアルさ。 「お前ばっかり、辛くなるな……」 無言に向けられた背に、語る言葉は持たなかった。 「逃げりゃいいのに………」 絶望に歪んだ服部の貌。声を殺して哭く声に無言の拒絶。辛くなるばかりなのに、どうしてこの男は当然のように、抱き締めてくるのだろう? 自分は、何か残してやれるのだろうか?答えなど、何一つではしない。 与えて貰うばかりで、与えてやる事ができない。そんなもどかしさが付き纏う。きっと服部に言ったら…… 「ひっぱたかれるかな?」 苦笑とも自嘲とも思える曖昧な笑みが漏れた。きっと快斗が見たら、呆れただろう。 『ひっぱたかれたそうな顔してるよ、名探偵』と。 『貴方も、告解をしにきたの?』 瀟洒な白皙の貌。ストレートの翠髪はも綺麗に肩口で切り揃えられて、まるで日本人形のような少女だった。16歳と言う年齢とは思えぬ程に、落ち着いた声には、恐ろしい程感情がない。瞬きを忘れた眼の底には、一体何が映っているのかと思えた。 眼前に在るのに、気配一つ感じられない少女。 聖堂と言う、古代の宗教観を連綿と受け継ぐの空気にその輪郭さえ背後に溶けこませ、ただ淡々とした声を紡ぐ酷薄な口唇が、忍び笑いを浮かべていた。それがより日本人形の意味深なナニかと重なった。 「告解……か…」 服部の腕の中で、新一は突き付けられた言葉を思い出すように、呟いた。 「別に懺悔なんてねぇけど…」 償いも、罪の告白もない。追い詰め死なせてしまった犯人に対してなら、懺悔はあるのかもしれないけれど。それでも、罪を告白して、救われようとは思わないし、思えない。 それはただ結局、罪を告白する事によって、重荷を誰かに預けて、心が幾分軽くなるだけだからだ。そしてその重荷を、以前自分は服部に預けてしまった。 『お前…ヒト、殺しちまった事、あるか?』 その一言で、服部はきっと重荷を背負った筈だった。自分はその言葉を、誰にも伝えた事のない、初めて、最初で最後、たった一人に伝えて、その分、きっと心は軽くなった言葉。 「俺の告解は……」 ソロリと、新一は服部の腕の中で半身身を起こす。起こし、穏やかに眠る寝顔に、ソッと顔を近付ける。 「願う事だよ……」 深夜の気配にスルリと身を溶け込ませ、覗き込む。 精悍な面差しは、近頃めっきり大人の鋭角も露になっている。自分とは対照的に。 「お前きっと、泣くだろうけどな…」 願う淵の深さを、きっと誰も知らない。 告解をと、淡々とした冷ややかさで告げたアノ少女は、けれど見透かしていた様にも思う。 あの少女の、長い睫毛に縁取られた瞬きを忘れた眼が、精神の底に居座ってしまった気がする。気付かされてしまった願い、そんな気分だ。 「逃げるなら、今のうちだぜ」 コッソリと呟き、忍び笑いに微笑んで、新一は穏やかに眠る酷薄な口唇に接吻た。 |