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LUNE act3 |
「残月」 「?何?」 「残りの月って書いて、残月ってんだってよ」 「ああ、有明け月ね」 日本語って綺麗だよね、快斗は笑った。 とても綺麗で、誤魔化す事も可能な程、綺麗なものに紛らせ、隠す事が可能な言葉。 けれど新一は、綺麗なものに紛らせて隠す真実を簡単に見透かしてしまうから、始末に悪いと、快斗は笑った。 隠したいもの程、新一は綺麗に見透かして行く。隠すから見えると言うのは、稀代の探偵だからこその言葉だと、新一に自覚は薄い。 結局、アレから新一の父親である稀代の世界ベストセラー作家宛に大量に送り届けられ来る酒の中から、日本酒を取り出して、新一と快斗は月見酒に興じていた。 時折新一は窓際に佇み、クリスタルのカップに注がれた透き通る液体の中。月を浮かべ、不思議そうに眺めては、月を飲むように酒を飲んだ。快斗が言った月の在処を確かめているのかといえば、多分違うのだろう。 「月窟ってさ、在ると思う?」 新一の隣に佇み、快斗も新一に倣ってカップに口を付けている。 秋の夜長も徐々に明けてきて、月はその光を柔らかいものに変え、それでも失われない光で地上を映し、相変わらず天に居座っている。 「月窟って、アレか?月の出入り口って言われて、地上の何処かに有るって信じられてきた洞窟の事か?」 「そう」 淡如に返答すると、快斗はカップに口を付けた。 「アレは石の球体で地球の衛星で、天に浮かんでるもんだろ?」 裏側は視る事のできない地球の分身、それだけだ。 こんなに綺麗で、哀しい程綺麗で、手に入れたいと願うのは、地球の分身だからなのかもしれない。 「そうだね」 この身を生み、血肉を育てた地球の欠片。愛しくて、決して手に入らない高潔な光。 孤独な宇宙に浮かぶ、石の球体。近くて遠くて、一定の力で引き合い、距離を保っている。 「……お前、行くんだよな」 「行くよ」 「帰って、来るんたよな?」 「名探偵もね」 俺さ、心底服部の八つ当たりは嫌だし、されたらどっちかって言うと、それで消えちゃうかもよ? 快斗はそう笑う。 「卑怯もん」 「お互い様、でしょ?」 「詐欺師」 眇める眼差しが、快斗を視ると、不意に視線を逸らす。 「名探偵?」 「何処にいても、見てるって言うのは、卑怯だよな」 新一の独語に近い声に、快斗は半瞬瞠目し、 「だったら、世間様から愛される怪盗キッドは、東の名探偵の為に、頑張らないとね」 生きていると、証明できるように。新一が、安心できるように。痛みと疵も自覚できない稀代の名探偵の心を、自覚できる程切り裂かないように。 「未来に、日付はないよ、名探偵」 明日も1年後も10年後も。確かな明日はないけれど、有ると願う事が希望なのだろうし、希望を持つ事が生きて行く糧なのだろう。どれ程の痛みを孕んでも。 綺麗な光。地上の星座だと笑った綺麗な光景の一部にはなれないけれど。それでも、何かを信じて歩く事は、糧になる。信じて歩く事が、強さなのだ。 「名探偵にね、いつか見せてあげるよ」 「何だよ」 「月の裏側」 いつかね、快斗はやはり穏やかにそう笑った。 「すっかり、朝だなぁ」 アレから言葉、互いに何かを誤魔化すように月見酒に興じ、気付けば新一は寝入っていた。 ゆっくり明けて行く世界。白々と明ける空気は、好きだった。何処か引き締まった清涼さは、新一を連想させるからなのかもしれないし、まったく違うのかもしれない。 こうして囚われて行くものが増えていく事を、心の何処かが喜んでいく。残して行きたくくはないと思う傍らで、残していく事を喜んでいる。 まったく相反する矛盾もいい所だと、快斗は苦笑する。 「残月か、名探偵、時々小説家みたいな事、言うんだよねぇ」 国語が苦手なくせに、血なのか、稀代のベストセラー作家の息子の片鱗を覗かせる一面が、新一には存在する。 白く明けて行く空気の中。地の縁に戻る事なく、白く明ける空に、白い月が浮かんでいる。 白い雲に同化する事のない白い球体。けれど、一見すれば同色で気付かない。気付く者だけが気付くのは、月だけではないし、何でも、どんな事でも、同じだ。特をする事もあるし、損をする事もある。その程度のものだ。知っても知らなくても、多分影響のない程度の代物。 コトンと、腕が落ち、グラスがコロコロと転がった。 本格的に呑みに入る体勢で、二人ともフローリングの床に座り込み、軽口を叩いて時間を過ごした。 快斗は、新一の呼吸が穏やかな事を確認すると、細い姿態を抱き上げ、ベッドへと横たえる。 使用された形跡の欠片もない清潔な白いシーツ。部屋の主が、通常この室内を使用していない事を物語る、生活臭のない室内は、何処か寒々しい空気に満たされている。 「よく眠ってね」 サラリと、前髪に掛かる髪を梳くと、繊細な白い面差しをハッキリ見る事ができる。 繊細に象られた面差しの中。開いていれば強さを現す綺麗な双眸。けれど今は閉じられて、子供のような感触を覗かせる。 「寝てる時くらい、穏やかでいてね」 起きていれば、新一の内側の何処かが、当人は意識する事なく、様々なものに薄く薄く、薄皮を一枚一枚削り出されて行くように、殺がれて行く。同時に、意識する事のない痛みと疵を与えられて行く。 間に合わなかった生命達の言葉。救えなかった人達の声。 間に合う事も救える事もできないと知りつつ、探偵を続けているのだから、身の裡が疵付けられて当然だ。新一は、決してそれらを免罪符に使用する事も、できないのだから。 畏怖と畏敬と称賛と羨望。そんな名声や称賛が、間に合わなかった生命達には、何一つの役には立たないと思う事が、傲慢な事だとも自覚して尚。新一は深淵を見詰め続けている。 暫く、名残惜しげに新一の寝顔を見詰めていると、快斗は額に口唇を寄せ、立ち上がる。 流石に夜が明ける時間帯。この窓からハングライダーで飛び出しては、誰かの眼に止まれば、不審人物確実だ。新一が関わる以上、不用意な真似を、快斗ができる筈もなかった。 「こーいう時なこそ、活用しなくちゃ、だよねぇ」 ジーンズのポケットから取り出したのは、一つの鍵。 「ついでにさ、名月を譲られた身としては、意趣替えしの一つもしないと、悪いんだろうし」 笑うと、快斗は服部のデスクに近寄った。 デスクの上には、新一が吸った煙草の残骸が1本。クリスタルの灰皿に残されてる。 「持ってってやろ」 どうせ大したものなど、このデスクの引き出しにしまっている筈がない。新一に見られて困る類いのものなど、用意周到な服部の事だ。どこかの金庫にでも預けてあるだろうし、何だかんだいっても、到底そうは見えないがお坊ちゃま育ちの服部は、金銭に執着はしていないから、デスクの引き出しに几帳面になどしまってはいない事など知っている。 だから心置きなく、快斗はデスクの引き出しを引っ張り出した。 「煙草、煙草」 自分の不在時新一が喫煙している事を知っている服部は、けれど愛用の煙草をデスクにしまっている事を快斗は知っている。新一の喫煙を由とはしないくせに、決して煙草を隠す事はしないのだから、喫煙が新一の精神安定だと言う事も判っているのだろう。 デスクの右側の引き出しの上段をスルッと引っ張って、快斗の視線が停止する。鍵一つしていないのだから、当然隠す意思などないのだろうが、ソレは丁重にその引き出しに一つだけ収まっていた。引き出しには、他の一切は入ってはいない。 「あいつ……」 見慣れた銀製の小さい時計。一見すれば何処にでもある子供用の時計だろう。けれどそれは照準の付いた特殊性の麻酔銃だ。 とても、大切にしてきたのだろう、江戸川コナンという幼い子供の姿を。子供の姿をしていた、新一を。でなければ大切に、此処に一つだけしまわれてはいないだろう、小さい時計は。 「まいったな」 服部に適わないと思うのは、こんな時だ。 快斗は、大切にしまわれているソレを眺めると、引き出しを締め、一番したの引き出しをひっぱりだして、目的のものをみつけた。 封の切られたばかりの煙草は、服部がわざわざ買い置きし、残している事が窺える。 快斗はそれに手を伸ばすと、ひっそりとした笑みを覗かせる。 「これくらいの意趣替えしなんて、可愛いもんだよね」 外国産煙草は、気軽にコンビニで買える代物ではないから、でなくなったら、駅前までは出向いて買いにいくしかない。 「戦利品としては、まぁなんだけど」 ヒラヒラ掌中で浮かぶ小さい箱。浮かぶソレを掌中にすると、ソレは瞬時に掌の内から消えた。 「おやすみ、名探偵」 もう一度、新一の傍らに近寄ると、穏やかな寝顔を見下ろした。触れてしまえば離れる事が辛くなるから、今はもう触れられない。 「未だね…」 喪失えはしないから。父が消えた彼方には。炎の中にも、闇の中にも。未だどちらにも居場所など見当たらない。 「おやすみ」 不用心だからと、怪盗のくせに生真面目に開かれた窓を閉めると、天には未だ白い光が浮かんでいた。 アノ月は、失われる事はないのだ。視えなくなっても、ソコに在るのだから。 「大好きだよ」 ノブに手を掛け出て行き際、快斗はもう一度振り返ると、室内を後にした。 「まったくあいつは、何考えとるんや」 早朝一番の新幹線で帰宅した服部は、当然在ると思っていた快斗の姿が新一の部屋にも見当たらず、使用回数は両手にも満たない自分の部屋に足を向ければ、其処には新一が穏やかに寝ていて、脱力した。 ご丁寧に、デスクの上には数本の酒瓶とグラスが二つ。そして見慣れた灰皿には1本の吸殻。 「月見酒しろなんて、言うた覚えはないで」 それにしてもと、服部は些か困惑の表情を拭えなかった。 新一の発作の事を知っている快斗が、自分の不在時、まして酒を呑んだ後、新一を一人残している事が、不自然に感じられたからだ。 ベッドに近寄れば、穏やかな寝息をたてている新一が在る。けれどその頬に光の軌道を見咎めて、服部は攅眉する。 「酒呑んで、何してたんや」 穏やかな寝顔に吐息。新一の寝顔から、決して苦しがっている様子は欠片もない。 快斗が、新一をとても大切にしている事を知っているから、泣かせるような事があるとも思えなかった。 「何、聞かされた?」 辛い話を、何かしただろうか?無自覚に疵を負う新一が、自覚する疵の在処など、そう多くは存在しない。 「何も、代わってやれへんな……」 稀代の怪盗の枷の在処など。服部には漠然としたものしか知らない。それでも、判っている事も在る。とても新一を大切にして、壊れてしまう事を、恐れていると言う程度の事は。 「……服部……?」 触れる温もりに、覚醒を促されたのか、新一は掠れた声で服部を呼ぶと、閉ざされた眼差しが開いて行く。 「アレ……黒羽は?」 凝視してくる服部を見上げ、ついで視線を移しても、一緒に呑んでいた筈の怪盗の姿は何処にもなかった。 「おらんで。何や、アレは内緒で帰ったんか?」 何とも快斗らしいと、服部は内心でそう思う。 「せやったら、あいつは初めて合鍵使こうたんやな」 新一の不思議そうな顔に、服部はベッドサイドに腰掛けると、 「きちんと玄関の鍵も掛かってたし、窓もな。鍵掛かってるやろ」 「あいつ……」 全開になっていた窓が、今は几帳面に閉ざされている。 「腹、空いてないか?」 何とも表現し難い表情を刻み付ける新一に、服部はクシャリと髪を梳くと、空腹を尋ねた。 「空いてる」 「よっしゃ、何か作ったるから、少し休んどき。何かリクエストあるか?」 「ワカメと油揚げと豆腐のみそ汁」 「工藤、好きやな、そのみそ汁」 案外和食の好きな新一は、リクエストを尋ねれば、必ずみそ汁を要求した。 「判った。作ったるから待っとき。どうせ黒羽と宴会だったんやろうから、二日酔いにもみそ汁は効果バッチシや」 何があったのか、服部は尋ねる事をしにい。それが服部の優しさと気遣いだと気付かない新一ではなかったから、立ち上がった服部のシャツの裾を掴んで、引き止める。 「工藤?」 どした?裾を掴んで俯く様は、何処か子供の仕草だ。 「いつか…」 「工藤…?」 呟き程に小さい声だった。俯く新一を覗き込むように服部が膝を折り覗き込めば、視線は裾を掴む新一自身の指先に落ちている。 「いつかさ…いつか…」 「工藤」 言葉にされない悲鳴のような呟き。いつかに続く言葉。 細い声。独語に呟く程に小さい小さい声。けれど、切り裂く程の痛みを、その声は服部にもたらして行く。 服部はたまらず細い姿態を抱き締めると、けれど荒々しさは微塵もない緩やかな抱擁に薄い姿態を閉じ込める。 「言うたやろ?誰だって自分の人生は自分の路しか歩く事はできへん。せやけど、出会った人間は人生の大切な一部や」 「…服部…」 懐かしいと感じてしまえる煙草の香りに、不意に泣き出したくなる。離れていたのは一日だというのに、随分離れていた気がする。朝方まで誤魔化すように呑んでいた快斗との会話が、思いの他辛かったからなのだろう。 「工藤も、黒羽も、出会った大切な一部や」 「お前ぇ…バカだよ」 泣き出したい衝動を、軽口に変える事しかできない新一に、それでも服部は躊躇いもなく優しい言葉を分け与える。だからますます新一は誤魔化す事しかできなくなるのだ。 「いつかな、いつか皆で、笑える日が来る。そう信じてるんや」 それがどれ程遠い祈りでも。届かぬ願いでも。 壊れた遺伝子を持つ新一に、確かな明日は存在しないし、不確かな明日が未来なのだ。 「お前ぇ、本当にバカ…」 甘えてばかりで、優しい人達に何一つ返せない。それでも。探偵である事はやめられないし、後悔はできない。 「バカな方が、倖せになれる事、多いんやで?」 精悍な面差しが笑うと、新一はやはり、お前ぇ、バカ、そう呟いた。 月の裏側を誰も知らない。地球の海は、その内側を映す事はないのだから。 けれど、アノ石の球体は、見えても見えなくても、ソコにあるのだ。軌道を変えずに。 |