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沈黙の光 act1 |
仄かな明かりだけが室内を灯す夜の沈黙の中。意識がゆったり浮上する心地好さに、新一は覚醒を促された。 何かに呼ばれた気がするが、それが何かは判らなかった。 外部からの柔らかいナニかに覚醒を誘われた。言葉にするなら、そんな陳腐な表現で事足りてしまう程、些細な事だろう。起きる寸前まで、何か懐かしい夢を観ていた気はするけれど、それは覚醒した瞬間から、崩れて形も残ってはいなかった。必死に足掻いて止どめて置く程、必要な夢でもないのだろう。 朧に覚醒した思考回路が瞬時に機能する筈もなく、新一の細い腕は無意識にシーツの上を彷徨い、隣に在る筈の体温を探し動いていた。 「服部……?」 ゆっくり撫でる仕草で、瀟洒な指先がシーツの上を辿る。 それが無自覚に隣に在る筈の温もりを探しているのだと認識したのは、指先に触れる筈の体温が綺麗に消え失せ、反対に触れるのは何処か冷たいシーツの感触だけでしかないと、理解したからだ。 「服部?」 先刻より幾分正面に発生した声が再度呼んでも、返事はない。耳に伝わるのは、奇妙に反響した声だけで、室内は蒼い闇に閉ざされ、沈黙が却って耳に痛い程だ。 長い睫毛が微かに慄え、瞼が開かれる。色素の薄い双眸に映るのは、ベッドサイドの極少量に抑えられた光量だけで、隣に在る筈の姿はなかったが、新一に落胆はない。 周囲を見渡しながら、新一はゆっくり上半身をベッドの上に起こし、寝乱れ瞼に掛かる前髪を掻き揚げる。 視界に映るのは蒼い闇に閉ざされた纏い付く沈黙と、ベッドサイドの仄かに柔らかい明かりだけだ。レースのカーテン一枚引かれただけの窓の外からは、秋を告げる虫の音が綺麗に響いてくる。 感傷的な季節を、感触として受け取るのは、きっとこういうものなのだろう。降るように、鈴のように鳴り響く情緒。響く音や、肌身に纏い付く清涼になった空気や何か。眼には見えない季節を感じるのは、多分気配や感触や何かだろう。 灼け付く夏の季節が終わり、次の季節を迎えていた事を、こんな時に気付かされる。 耳に優しい虫の音は、秋独特の感傷をもたらしてくるのは、日本人と言う事なのだろうか?半瞬だけ感傷に浸り、新一はクスリと笑った。穏やかな時間が、ひどく優しく肌身に纏い付く。 例えるなら、自分達の関係は、灼け付く陽射の下で情熱的に抱き合う、激情を通り越した秋の季節なのかもしれないと、フト思う。最初にそう感じたのは、アノ夏の陽射の下だったのかもしれない。分岐に立っていると、実感したのも多分アレが最初なのかもしれない。 『何処に…』 分岐に立った過去の時間。感傷的に苦笑し、告げた言葉を思い出す。 今思えば、当時の自分は、やはり何処かで焦っていたのだろうし、感傷的になってもいたのだろう。 『何処に…行くんだろうな……?』 幼い偽りの姿。大切な人達を幾重も裏切り偽り、それでも、愛されて来た姿。 夏の夜。呆れる程の上京回数で訪れる服部に連れ出され、幼い姿で都内の大観覧車に乗せられたゴンドラの中での会話だった。 冷房などない真夏のゴンドラの中は当然暑く、それでも、不思議と足許に浮かぶ夜景を見ながらの会話は、不快ではなかった。アノ時の光景や会話をこれから先、忘れる事はないだろうし、忘れる事はきっとできないだろう。 服部は覚えているだろうか? そんな疑問が脳裏を過ぎたが、覚えているだろうと、奇妙な確信さも新一は持っていた。そしてそれは外れてはいないだろうとも予想していた。 『ほんま、天然の宝石箱やな』 見下ろす眼下の夜景。不意に思い出す母親の科白を服部に先取りされ、憮然とした事まで思い出す。 それが、服部の気遣いだと、今なら判る。今だから判る事は数多い。判れば、自覚していた以上に大切にされていた事まで判ってしまって 新一は苦笑する事しかできななくなる。 大切に、されている事など判っていると思っていたのに、こんな些細な過去の記憶に左右され、その実感が深まってしまう理不尽さに、更に苦笑を深める事しか出来なくなる。 物好きだと思う反面。だから服部の愛情を疑えない事も痛感する。限定された諸々の状況の中。あの当時の新一を支えていたのは、泣き出したい程柔らかい想いで包んでくれた人達が在たからで、その最たる存在が服部だからだ。 大切な幼馴染みや、危険を承知で、それでも好きにしていいと、我が子の性格を違える事なく理解し、好きにさせてくれた両親や、幼い肉体に戻ってしまったコナンの為にと、様々な道具を作ってくれた隣家の気の良い博士だったり、新一の知らない場所で、届かぬ願いに歯噛みし、新一の躯を戻す事だけに生命を削り出すかのように必死になっていた哀や。チビッコ探偵団の子供達や。 優しい人達に包まれていたから、新一は立っていられたのだろう。それはどれ程の絶望に哭いても、愛されている事を知っていたからだ。どれ程の後ろめたさと引き換えても、それが傲慢さえ孕んいるものだと理解して尚。愛され、大切にされている実感が在るから、崩れず立っていられた。 置かれた状況に絶望し、それでも立っている勇気をくれた優しい人達。偽り欺き嘆かせて尚。愛されてきた実感に立っていられた。立っていられたから、絶望を直視できた。 新一の置かれた状況を理解し、適度な息抜きをさせ、それでも同情ではない想いを傾け支えてくれた服部の存在は、当時の自覚より、新一に楽に呼吸させてくれていたのだろう。 今なら、自覚できる。出来ると、柔らかい沈黙の中。繊細な貌に、新一は深い笑みを刻み付ける。 当時の自覚が未々薄く甘かったのだろう。けれど、アノ夏は、分岐だったのだろう事は、疑えない気がした。 激情に抱き合うより、余程泣き出したい程の想いを伝えてくる今の状況を自覚すれば、通り越してきた季節なのだと思えた。 真夏の、灼け付く太陽のような恋だったのかもしれない。 限定された探偵活動や環境に不自由を感じていたくせに、出会い愛し愛された人間との恋愛だけは、真夏のような激しさを持っていた気がする。灼熱の下で抱き合う激情じみた恋愛、そんな感触だった。 実感は、こうして深まるばかりで、薄れて行く事など皆無な気がするのだから、溺れているのかもしれない。否……。 「溺れてんだろうな」 苦笑とも自嘲とも付かない、けれど柔らかい声が、蒼い闇に零れ落ちる。 服部は知らない。新一の柔らかく苦笑する表情を。むしろ知っているのは、自らの狡猾さを自覚している新一が、それでも泣き場所と定めた稀代の怪盗の方だろう。そして新一にそんな自覚は皆無なのだから、快斗が苦笑している事も、新一は知らないのかもしれない。 そしてそんな快斗の苦笑を知っているのが服部なのだから、大概面白い関係だと思っているのは、哀だった。 まるで柔らかく整った綺麗なコンパスを描いているかのような関係だと、哀は言う。 対極に在る怪盗と探偵と言う位置の筈が、馴れ合いではない関係に佇んでいる。判ってはいるのだろう。いずれ時が来たら、対峙しなくてはならない可能性と言うものを。それでも共に在る事を選んでいるのなら、それはそれで一種の強さと勇気、なのだろう。 新一は稀代の怪盗と言われる快斗の枷を知っており、彼が辿るだろう道筋と言うものを、漠然と言う形で理解している。戻って来いと、勝手に死ぬ事は許さないと、何とも理不尽な科白を二度目に突き付けたのは、昨夜の事だ。 月の明かりに照らし出されて映る影。複製としての姿と、真実の姿。月の光に綺麗に浮き上がる白い姿。黒い羽の名と音を持つ稀代の怪盗の白い翼が枷なのだと言う事。それだけは、理解していた。 『何処に、行くんだろうな……?』 愛されて来た、幼い子供の姿は。偽り欺き続け、それでも、彼を愛してくれた人達の中では、明確な人格を持って存在していた愛された子供は。 『ココ、やろ?』 トンッと、節の在る指先が、心臓の上に触れていった。 半瞬の間と苦笑と共に、それでも躊躇いなど微塵もなく、触れていった指と眼差し。極簡単に、内側に触れて行く柔らかい指。 アノ時の感触が、不意に生々しく深奥で甦る。 心臓の上を正確に撫でた指は、切っ先を感じさせない柔らかさだけを伝えてきた。閉じ込められた空間で、それでも触れて来る指先には情欲の一つもなく、ただ真摯な眼差しと指先が、在処を伝えていた。 『喪失える訳や、ないやんで?』 『お前ぇ…バカだな』 『俺はバカで多くのものなんてちぃっとも判らんガキやけどな、工藤は工藤やって事だけは、判っとるで』 まるでそれだけ判っていれば、他は不必要だとでも言うような笑みと声は、此処最近深まっていく一方だ。それが時折辛くなる事を、服部は何処まで知っているだろうか? 『どれだけの人間が居たかて、俺は見つけられるで』 誤魔化す笑いの欠片もない真摯な声と眼差しに身を曝し、あの一瞬、眩暈がする程退路を立たれた甘い懊悩に曝された自分の気持ちなど、服部は知らないのだろう。 多分どんな告白も適わないだろう服部の真摯な言葉。 泣き出したい程真摯で、偽りのない愛情に包まれていた言葉と声。大切に包まれているのだと、泣き出したくなった自分の内心など、きっと服部は知らない。 誰もが自分を偽りの姿でしか見てくれなくても、その事実に自力でたった一人気付いてくれた服部なら、きっとまた、姿を変えてしまった自分が居ても、見つけてくれるのかもしれない。幾重もの人の中から。砂漠に落ちたダイヤを探す確立の中からでも。再び、幼い姿に戻ってしまったとしても、逃げ出しても、見つけてくれるのかもしれない。 「そんときゃ…見つけてほしくもないけどな……」 どれ程綺麗に痕跡を消しても、きっと見つけるのかもしれない。服部ともう一人は。バカでどうしようもない大バカな愛しい二人は。 それはそれで、困る事実ではあるのだけれど。誰をも巻き込みたくはないのだ。綺麗事ではなく、切実な部分でそう願う。 解体した組織が、表向きだと言う事は判っている。全滅したと思える程、新一は無知な子供ではなかったし、楽天家思想の持ち主ではなかった。 誰かを巻き込む恐怖は、常に足許を竦ませる。もう手放せない優しい体温を理解して尚。身を切り離すように、そう願う。 時が来たら。その時が、来たら。 下らない繰り言さながら、身の裡で繰り返す言葉だった。 爆弾を抱えた躯に壊れた遺伝子。老いと言う成長を止めている躯。それでも、前へと足掻く意志。対等でなど在る筈もないのに、対等でありたいと足掻き願う愚かさ。哀しませるだけだと嫌と言う程理解して尚。差し出された腕に応えたと言うのに、こんな時、泣き出したい程胸が詰まる思いを、新一はもう幾度も味わっている。 「本当に、お前ぇ大バカ…」 向けられる愛情の深さを甘受しても、溺れきってしまったら、この関係は破綻する事を、新一は予感していた。 考えれば尚更だ。溺れきってしまったら、自分は一歩も先に進めなくなる事を、新一は嫌と言う程理解していたからだ。 危険に巻き込むと承知で新一が選んだ相手は服部一人だ。 けれど、巻き込みたい訳はないのだ。 これからどうなって行くのだろうか? 指針のない未来への路。否、未来など有るのか判らない爆弾を抱えた肉体。それでも、後悔していると言えない自分が在るのだから笑えない。それでも、危険に巻き込むと承知して、巻き込まれ愛してくれた人を手放せない傲慢さを、新一は十分自覚している。まったく支離滅裂だと自嘲する。 ソッとシーツの上を彷徨う指先は、寝る時服部の居た居場所を彷徨っていると理解したから、己のらしくない態度に、十分溺れていると、新一は薄く細い肩を竦めた。 シーツの上に体温は残っていない。昨夜は情事に及ぶ事なく互いを抱き合い眠りについた。 肌を重ねる事に慣れてしまった眠りの中では、パジャマを着て薄布一枚隔てた向こうで感じた他人の体温は、逆に恋愛発展途上の初々しさを思い出させ、らしくない照れさえ湧いた。 まるでままごとのようだと思えば、昨夜は随分早く寝た事も思い出し、ベッドサイドの時計に視線を移す。 午前2時を少し回った時間帯。ここ最近、随分と秋めいた気候になって、深夜に半袖のパジャマでは肌寒さを感じる。感じる季節だからこそ体温が欲しい。冷房によって適度に温度調整された肌寒さではないから、より体温が欲しいのだ。 新一は、フローリングの床に素足を下ろすと、ヒヤリと冷たい感触が脚先に伝わって、その冷たさが少しだけ心地好かった。 服部の行き先など、見当は付いている。時折フラリと服部が部屋から居なくなる事は極少ない回数で存在していたから、新一は別段驚く事もしなかった。 一人になりたい時も、一人になって考えたい事もあるのは当然だから、相手の時間を束縛して満足する程、新一は子供ではなかったし、互いの身の裡に存在する距離が判らない程、無知でも馬鹿でもなかった。 どれ程の距離に在るとしても、自分達が別の人間であるという認識は大切で重要な事だ。案外人間は簡単にそんな事を忘れ、投影同一化を図りたがる生き物だから、些細な認識はとても重要な事だと新一は知っている。犯罪現場を見ればその想いは尚一層深まって行くばかりだ。 自分や他人の中に在る、見えない距離や境界線。見誤らない事の難しさを、新一は常に痛感している。不明瞭で、時には装飾されて線引きされている境界線の存在を、人は見誤りがちだ。 その距離から発生する陰惨な犯罪を、新一は幾多も眼にしてきている。 傷付け、傷付き、意思を無視して切断された生命達。己と他人の身の裡に存在する距離を飛び越し、人格も尊厳も無視して、たった一つの大切なものは、切断したらもう二度と戻らない事も知らないで、切断してしまった者達。どれ程の後悔も嘆きも、切断してしまったら、繋ぎ直す事は不可能だ。そんな簡単な事も想像できないで、切断した者達を、新一は幾人も見てきている。 人間が等しく持っていて、そしてたった一つしかないもの。それは生命だ。そして等しく訪れるものは死だ。けれどそれは他人の手により、振り下ろされる疑似的な死神の鎌であってはならない。死は生の延長線に位置しているもので、遠いものでは決してないが、誰彼に切断されてしまうべき類いのものではないのだ。 人が死ぬと言う事を、多分知らないのだろう。言葉ではなく実感として、理解してはいないのだろう、倖せで無知な人間は。小説やマンガやドラマやゲーム。仮想現実の中でしか死を捉える事のできない想像力の欠落の中から、人の死が、どういった事柄を示すのかなど、貧困な想像力の中から、生み出される筈はない。失ってしまったら、もう二度と触れ合えない魂の在処を、知らない。 容易く死んでしまうと言う極簡単な事実を知らないから、簡単に切断してしまえるのだ。まるで、壊した玩具も、修理すれば元通りになるとでも言う安易さで。 「ったく、バカな奴……」 肩を竦め、少しだけ淋しげに新一は呟いた。 見えない場所で常に自分を気遣い、傷付いていくのは、哀や快斗と一緒だ。傾けられている愛情の深さなど、今更だった。 大切に、大切にされてるい事など、判っている。立っていられた。そして今も立っていらるのは、絶望に哭いても、崩れない勇気と強さを手にいれたからだ。 与えられる優しさに、何一つ返せる事はないけれど。だからせめて、足掻こうと思う。喪失えないでくれと、切実に願う愛しい人達の為に。足掻く事は、決して無駄ではないだろうから。足掻く事は、勇気と強さも必要な事だからだ。愛してくれる人達に、せめて最期まで誇っていたいから。 新一は、ネコ化の小動物のような仕草で、音を立てず扉を開くと、スルリと闇の中に身を紛らせた。 薄く音を立てずに開いた扉の向こう。照明一付いていない室内でも、不思議と窓から差し込む月の光で、窓際に佇む服部の姿が新一には見えていた。 実際の所、月の光が人物の角度を浮き上がらせて明確に判る程、室内に降り注ぐような窓の設計にはなってはいないから、それはある意味、感傷的な要素を多分に含んだ、記憶から構成されて行くものなのだろう。 不思議なものだと、新一はフト思う。それは、こんな服部を数度眼にした時に、いつも身の内側から湧き送るものだ。 服部の姿は、背後の蒼い闇に輪郭さえ溶かし込み、武道に精通しているからなのだろう、綺麗に気配も消えている。そのくせに、隙など何一つないのだ。今此処で、誰かがその背後を奪った気分でいても、付け入る隙など決して与えてはくれないだろう。気配を殺し、けれど隙いる仕草など微塵もない矛盾が、極自然に同居している。 それが判る程度に、新一も隙と言うものを理解していると言う事になるのだろうが、けれど新一にそんな自覚は相変わらず薄い。新一が自覚している事と言えば、言葉を掛けてこない服部は、それでも自分の存在を、きっと感じ取っているだろうという事だけで、それでも声を掛けてこない服部に、新一は内心コッソリ溜め息を吐いた。 窓の外に流れて行く一筋の紫煙。新一の視界に映るのは服部の見慣れた後ろ姿だけだと言うのに、新一には服部の表情が見える気がした。多分ソレは、昨夜の自分の姿と似ているからなのかもしれない。知れないと、新一は更に溜め息を吐いた。 服部は、実家の都合で大阪に戻る時。大抵快斗に連絡を入れている事を知っているから、昨夜新一は服部の部屋で窓を全開に開き、彼の愛用している外国産煙草を吸っていた。それは精神安定剤的要素が多大な行為ではあったが、同時に、深夜の簡素な住宅街の中。何度言い募っても、ハングライダーで夜空を飛んで来る快斗を知っていたからだと言う意味も含まれている。いる事を、快斗は知らないのかもしれない。知っていたとしたら、知っている素振りなど綺麗に隠してしまうだろう。新一が、哀しまないように。 そして稀代の怪盗は、帰り際、初めて渡した合鍵を使用し帰って行った。その意味を考えれば、胸が痛むばかりな気がした。恐ろしい程静謐な刃で、切り裂かれた感触が鈍く疼いて、身の裡の何処かが、抉り出されて行く。 『変らないものも有るって、覚えておいてね』 『俺はね、これだけは判ってるよ』 『名探偵に大切に愛され、一緒に逝く事のできない服部より、倖せだってね』 静寂の中。穏やかに告げられたその声だけが、身の裡に突き刺さる程痛かった。 苦笑とも自嘲とも付かない笑みを、冷ややかに刻み付ける影。沈黙の光を、ただ静謐なまでの残酷さで地に与えている月光に浮かび上がる黒々とした影こそ、稀代の怪盗と呼ばれる、快斗の真実の姿だと、新一が気付かない筈がない。けれど新一は、それを言葉に出して告げる事はなかった。そんな事は知っているからといって、何一つ必要ない事だからだ。 快斗は快斗で、どれ程の血に塗れても、自分の前では決して素顔など覗かせない。知っていると思うものは、彼を構成する極一部だと、判っている。沈黙に佇む冷ややかな影。月光の足許に浮かび上がる綺麗な影。それが唯一ですべてだ。 『見せてあげるよ、月の裏側』 いつかね、そう笑った穏やかな表情の裏側に、何を思っているのかなど、新一には判らない。何が隠されているのかなど、例え視えてしまったとしても、視たくはなかった。 その時が、来たら…。 その時。自問自答しても、答えなど出ない問い。否、答えなど、出過ぎている問いを、下らなく反芻するだけの行為にしかならない。 服部の後ろ姿を凝視すれば、少しだけ辛そうに紫煙を吐き出している気がした。 此処最近鋭角になった精悍な面差しに、深い苦笑を刻み付けているだろう事は疑えない。笑う笑みが、此処最近深いものを滲ませている事など、服部に自覚は皆無なのだろう。だろうと、新一は何とも言えない曖昧な表情を覗かせる。 淋しげで切なげで、それは蒼闇に浮かぶ銀盤に似ている。 澄んで冴えて怖い程綺麗な光は、服部が見たら、相変わらず心配さうな顔をして、尋ねる事なく、その名を極簡単に、けれどとても慎重に、口にするだろう。とても大切な宝珠の在処のように。とても大切に慎重に口にするのは、服部も快斗も同じだ。 『工藤』 『名探偵』 軽口に誤魔化す言葉の音に、新一が誤魔化されているのか、いないのかは?二人には見当も付かない。 置いていけばいいのにと、新一の身の裡で夢の名残が零れ落ちて行く。 捨てていけば簡単な筈だ。幼い子供の姿など、その正体など、知らなかった、気付かなかったフリをすれば、よかったのに。 工藤新一に戻ったとはいえ、後遺症というには多大な代償を残した爆弾を抱えた自分など、捨てていけば、もっと楽だろうに。簡単な事だろう、忘れる事くらい。彼に帰る場所は、用意されているのだから。 一時紫煙を吐き出し、服部が何を考えているのかなど、到底その内心を推し量れる事などできなはしない。多分察する事もできはしないだろう、新一には。 多分、自分だからできない。察する程度の理解と言うのなら、自分だからできない、その程度の理解だ。 新一は其処で再び、コッソリ深い溜め息を吐き出した。
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