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星に願いを EPISODE2 東の名探偵の幼馴染 |
通り過ぎて行く人の群。隔絶された内と外。 太陽は都心のビル群に埋もれている。つい先刻まで、一日の終わりを告げる断末魔の如く、天と地の落差の有る筈のその境界線を綺麗に隠していた朱の色彩は、今はもう蒼い闇のものへと移り変わっている。 「なんや近頃日暮れが早ようなったと思わへん?未だ7時やん」 カップルのメッカのお台場で、ちょっと贅沢に食事をしようと、展望夜景が綺麗に映えるイタリアンレストランに入った蘭と和葉は、奇跡的に空いていた窓際の席に案内され、腰を落ち着けた。 場所のわりには値段も高くなく、イタリアンな店。 周囲はカップルから、二人のように、女同士のグループも多い。眼下では、暗くなった自然の照明と入れ替わりに、人口のネオンが輝き出していた。 「夏至から1ヶ月以上経つから、仕方ないよ」 メニューを差し出してきたウェイトレスに礼を言うと、蘭はソレを開きながら、正面に座る和葉の台詞に、クスリと笑みを漏らした。 「気分的にはこれから真夏やのに、季節はもう秋なんやねぇ」 蘭に倣いメニューを開きながら、感慨深いとでも言うように、和葉はメニューに視線を落としている。 綺麗に盛り付けされた、料理の写真付きのメニュー。どうしてもデザートページを先に開いて眺めてしまうのは、女の子としては当然だろう。 「どれも美味しそうで、迷っちゃうね」 ゆっくりメニューを捲り、綺麗に盛り付けられた写真を眺め、蘭も楽しげに笑う。 空手の段持ちで、都大会でも優勝している蘭と、合気道の段持ちの和葉も、普通の女の子だ。やはり二人ともメインより先に、デザートに眼が行っている。 「平次やったら、こんな時早ぅ決め言うて、ゆっくりメニュー見れへんねん」 思い出したように、メニューに視線を落としたまま、和葉は口を開いた。 幼馴染みの服部と、和葉は良く出掛ける事がある。 流石食い道楽の大阪の人間だ。食に関しては口も肥えていて、美味しい店の情報が入ると、誘い合って出掛ける事は珍しくもない。けれど服部は和葉と違い、メニューをゆっくり視る事はない。コレと思ったものを注文するから、和葉がゆっくりメニューを開いていると、それだけで口論になる。 周囲から見れば、仲の良いカップルの痴話に見えるだろう。現に馴染みの店の亭主などには、そう言われる。けれど、違うのだと、和葉は一瞬沈んだ顔になった。 和葉にとっては幼馴染み以上の大切な存在。けれど服部にとっては大切な幼馴染み。 何処まで行っても関係は平行線を辿っている。その事が時折もどかしく、けれど和葉は訊けない。服部が自分をどう思っているのか。 怖いのだ。訊けば其処で関係が途切れてしまう事が予想できて。悪態を吐き、軽口を叩ける幼馴染みと言う居場所を、手放したくはなくて、一歩を踏み出せないでいる。狡いとの自覚は有った。 「新一もそう。男ってどうしてアア目に付いた物頼むのかしら。ろくにメニュー開いて見ないもの。まぁあいつ、高校入ってから一人暮らししてるから、家事一切できるし、食事行ったりするの、面倒がるし」 「ヘェ〜そーなん?」 一瞬、自身の内界に沈み込んだ意識に、独語のようにクスリとした笑みを漏らして呟かれた蘭の声に、和葉はフト視線を上げた。 幼馴染みの服部から、意識せずとも耳に入ってくる工藤新一と言う人物と、蘭の言う人間とは、何処か微妙なズレを感じるのは何故だろうか? 実際、工藤新一に会ったのは現在でも過去でもたった一度だから、何に対してズレがあるのか、和葉に判りはしないのだけれど。 会ったのはたった一度。蘭の高校の学園祭の時。アノ時用事があるから行けないと言っていた服部は、蘭のクラスが演じていた演技の途中、発生した殺人事件に顔を出した。それも工藤新一としてだ。何故そんな事をしたのか? 明確な答えは、今も教えては貰えない。きっとずっと教えてはもらえないだろう。だろうと、和葉は思う。 自分には判り得ないナニかが、二人の間には存在している。そう感じるのは、ずっと服部の隣で、たった一人を見てきた和葉の女の直感だった。 西の名探偵と東の名探偵。同時期に存在する高校生探偵。同業者でライバル。世間はそう評価している。けれど違うのだと言う、言語構造に置き換えカタチにできない漠然とした違和感。違うのだと言う違いだけが、奇妙にリアルに浮き上がって判る。その在処など、到底判りはしないのだけれど。 「もう全然ね、新一ってば、自分には無頓着」 意外そうな和葉の表情に、クスリと笑みを漏らした蘭の瞳が、少しだけ過去を懐かしむ特有の遠い眼をしているのは、きっと和葉の気の所為ではないのだろう。 「事件って聴けば、何処にでも飛んでっちゃうくせに、それ以外には無頓着で、食事も面倒とか平気で抜いたりするし」 事件と聴けば、何処でも出掛けて行くくせに、それ以外には、新一は自分の事まで無頓着だった。全ての力が、推理というものに傾けられているのかもしれないと、こうして離れた場所で心配して、初めて気付く事ができた気がした。 事件がなければ大抵書庫に籠って徹夜で読書なんて珍しくもなかった。そして平気で食事を抜くから、始末に悪い。高校生なんだから、多少なりとも規則正しい生活をしたら?そう忠告して、けれど受け入れられた事は皆無に等しい。口では判っていると言っても、面倒がって食事もバランス食品で済ませている事も珍しくはないのだ、新一は。 「平次はそれはないなぁ〜叔母ちゃん食事に煩いし」 「服部くんのお母さん、すごい綺麗で、料理も巧くて、羨ましいよ。ウチはお母さん、料理全然だもん」 大阪に訪れた時。蘭達は服部の家に厄介になった。 その時振る舞われた服部の母親の料理の腕は、相当なものだった。 服部の母親程と高望みはしないが、父親と別居して家を出た母親も、もう少し料理の腕が有ってもいいんじゃないのだろうかと、蘭は料理音痴の母親を思った。 法曹界のクィーンと言われ、自らロー・ファームのシニアパートナーを勤め、法廷戦術に長けている蘭の母親は、法律はエキスパートでも、料理は天才的に音痴だった。というよりも、味覚が可笑しいのだ。 食材を選ぶ眼も、手順も手際も巧いのだ。けれど天才的に味覚が破壊されている。味覚が破壊されているだけで、料理が決して嫌いではない母親は、だから食生活も、蘭が心配するような事は、一度も起こってはいなかった。 「女はまず眼で料理を楽しむもんなんやて、何度言うても平次は理解しないんやから」 「そうそう。女の子はやっぱ眼で楽しむよね」 「こんなに綺麗で可愛い食事が有るのに、吟味して選ばないんやから、男は損な生き物や」 「本当、本当」 和葉の意見に全面賛成と、蘭は笑った。 女の子同志の気楽さで、蘭と和葉は結局、野菜の種類が豊富に取り揃えられたグリーンサラダとピザとスパゲティを注文し、少しずつ食べる事にした。 「ココ初めて入ったけど、美味しい」 「ほんま、味もしつこくなくて」 どうやらこの店の料理は、食い道楽の大阪で慣れた和葉の舌にも、満足の行くものだったようだ。 「また来ようね」 無邪気に笑いながら、蘭はフト、新一はちゃんと食事をしているだろうか?そう思った。 事件と聴けば、飛んで行ってしまう幼馴染みから、連絡はない。何処に居るのかと心配しても、携帯のNoは教えて貰えない。思い出した様に一方通行で掛かってくるだけだ。信用されていないと、言う訳ではない事は判っている。 信用、信頼。多分そのどちらも当て嵌まらない部分で、教えては貰えないのだろう。それでも定期的に、それも自分の心配や不安を見透かしたように、驚く程の正確さで、携帯を鳴らして来る。 その都度、近くで見守られている。そんな感触を抱かせられる。安心していいと、言われている気がするのは、多分気の所為ではないのだろう。 ちゃんと食事をしなければ、推理などできないだろうにと思えば、食事をしているのだろうか?そう思う。 『わぁってるよ』 思い出すのは、少し甘い響きを持っている声。 『そんな事言ったって、新一、煩く言わないと、食事しないじゃない』 『ヘイヘイ』 そんな些細なやりとりが、けれどとても倖せなものだったのだと、こうして気付かされて行く。些細なやり取り。些細な会話。穏やかな優しい時間。触れる温もり。 新一の声が、心根の奥で甦っては消えて行く。 「なぁ蘭ちゃん。平次よくこっち来てるようなんやけど。コナン君と合うてるん?」 兄弟のように仲の良い二人は、10歳も年が離れていて、話題の共通点など有るのだろうか?何とも不思議な組み合わせだ。まして幼馴染みは6歳の子供に向かい 『工藤』と呼ぶ事も珍しくはないのだから。 『この坊主の推理が、工藤の推理とよう似ててな』 足許に佇む小さい頭を、慣れた仕草でポンポンと撫でて行く。その瞬間。途端に憮然となる幼い顔を思い出す。 小学校一年性だと言う子供は、厚い黒ブチメガネを掛けている。小学1年生でメガネを掛けてしまう程視力の弱い子供。時折恐ろしい程、勘が冴えるのだと、蘭から聴いている。 推理が似ていると判る程、東の名探偵と呼ばれる工藤新一と幼馴染みは、いつ推理劇をしたと言うのだろうか?和葉の記憶にはなかった。 幼馴染みが東の名探偵と呼ばれる工藤新一に、執着を持つ理由も意味も、自分は何一つ判らないのだと、和葉は今頃幼馴染みはどうしているだろうかと、窓の外に視線を映した。 「そうねぇ。コナン君、服部君来てる時は、なんでも服部君のお父さんの所有してるマンションに泊まりに行ってるんだけど」 面白い組み合わせだとは思う。仲のよい兄弟のようだ。けれど和葉の言う通り、不思議な組み合わせだ。普通に考えれば、会話など噛み合わない筈だ。 「なんや、近頃の平次可笑しいんよ」 毎週、とまではいかないけれど、二週間に1度は東京に来ている。彼を知る周囲の悪友達は『東京に女でもできたんじゃ?』そんな噂をしている。 「なんや私、どんどん置いてかれてまう気ぃするんよ」 「和葉ちゃん…」 「ゴメンな蘭ちゃん。蘭ちゃんの方が、辛い筈やのに」 蘭の幼馴染みは、今は彼女の隣にはいない。それを考えれば、贅沢な悩みだろう。 けれど辛くて、誰かに聴いてほしかったのだ。離れて行ってしまう距離を。その不安を。 狡い事は自覚して、一歩を踏み出す事の出来ない臆病な自分の想いを。 「私は」 其処で蘭は言葉を区切り、和葉を眺めた。 互いに幼馴染みが探偵で、それも互いに警視庁、大阪府警に影響力を持つ高校生探偵。こんな偶然は、奇跡に近い。 言葉の途切れた蘭の綺麗な面差しを眺め、和葉は次の言葉を待った。先を促す言葉はない。 少しだけ遠い眼をしてるのは、此処には居ない幼馴染みを思い出しているのだろう。心配も不安も感じさせない蘭の穏やかさが、細身の背後に静かに横たわっている事が、和葉には不思議だった。 とても空手で都大会優勝者とは思えぬ綺麗な顔立ちと細い線をしている。大切な幼馴染みが所在不明で、それでも待ち続けていられるその強さは一体何なのかと、和葉はこんな時、蘭の強さを思い知らされる。 「私ね、近頃思うの」 柔らかく瞬く眼差しの背後から、眼差しから連想できる柔らかい声で、蘭は和葉に視線を戻した。 「蘭ちゃん?」 「私ね、新一が好きだよ。どーしようもない推理馬鹿で、推理の事になると後先考えなくて、今だって出席日数足りなくなる程なのに、帰ってこない。本当に推理馬鹿。推理小説が大好きで、ホームズが大好きで、新一の口癖って言ったら、『ホームズみたいな名探偵になる』だったもの。もう本当にね、小さい頃から、その話しばっか。私ね、判らなかったの」 「判らなかった?」 一体、何が判らなかったと言うのだろうか? 自分より遥かに聡明だろう蘭に、何が判らなかったのか、和葉にはそれ自体が判らない。 「新一がね、なんでそんなに推理に夢中になるのか」 「それだったら、私もやよ。平次がなんであんなに推理に夢中になるのか、今でも判らへんよ……」 そう言う和葉の面差しは、少しだけ哀しげなものを浮かべていた。 判らない。危険を犯してまで事件に関わろうとする精神は一体何処からその力が生まれてくるのか? 腹部を撃たれて尚、必死に何かを守ろうとしていた。まるで自分の生命より何よりも、大切で大事なものがあるとでも言いたいかのように。 工藤新一という存在を知ってから、幼馴染みは確実に変ってしまった。その理由の一切は判らなくても、それだけは和葉には判った。判る事と言えば、そんな事くらいで、和葉はフト哀しくなった。 ずっと見てきた。想ってきた。幼馴染みの事は、自分が一番判っていたと思っていた。けれど思っていた事は、きっと察する程度の理解でしかなかったのかもしれない。 「新一が、あんなに必死になって事件に関わるのは、きっと誰かの痛みが判るからなのね」 綺麗な所作でフォークを動かし、蘭は笑った。 「あいつもね、変ったと思う」 「工藤君と、会ったん?」 「ううん、相変わらず思い出した様に携帯くれるけどね。会ってないよ。でも判るの。あいつ今までなら、必ず事件解決したらマスコミに登場してた。けど今は違う。何かね、新一の中でも変るものがあったんだと思うの」 それはもしかしたら、もっと痛みを孕む物なのかもしれないと、蘭は漠然と思った。 事件に関与して、推理を続けて。きっとそれは簡単な事ではないし、優しいものなんか一つもないのかもしれない。それでも、名探偵になりたかったのだろうと、今なら思う。今だから、思えた気がした。 「時折思うんだ。こうして、友達とショッピングして、美味しい食事して。きっと今までなら当たり前だと思ってた」 「そうやね……」 和葉も、蘭の言いたい事の片鱗が見えたのだろう。 スパゲティーを食べる手が止まり、視線が窓の外に流れた。 眼下に広がる人口の光。綺麗な綺麗な夜景。 「天然の宝石箱」 不意に思い出したように、蘭が口を開いた。蘭の台詞に、和葉は不思議そうに蘭に視線を戻した。 「新一のね、お母さんの台詞。『天然の宝石箱』」 「天然の宝石箱?なんや面白い台詞やね」 「新一のご両親アメリカなんだけど、その時聴いたの。こうして食事してる時。天然の宝石箱ってね」 輝くネオンの光。道を 流れていくテールランプ。明滅する赤い光。 眼下に見下ろせば、有希子の言う通り、宝石箱をひっくり返したようだった。 『ねぇねぇ、見て見て。ホラ。天然の宝石箱みたいじゃない?』 無邪気な少女のように、笑った新一の母親の有希子。とても新一のような子供が在るようには見えない稀代の女優は、今も綺麗で若くて美しい。 『なぁにが天然の宝石箱だよ母さん。いい歳して、言う台詞かよ』 『やぁねぇ新ちゃん。そんなんじゃ、名探偵になれないわよ』 『なんだよ。それ』 『ダメよ。名探偵はね、余裕がなくちゃ』 ウィンクして笑った有希子の笑顔。 流石の新一も母親には適わないらしく、反駁は、結局通用しなかった。 「こうして見る夜景の一つ一つに、ダレかが存在するんだよね。私達が見ている夜景の一つ一つ。多分こうしてる私達の座る位置に在る光も、誰かが見る夜景の一つ、なんだよね。だから新一は、帰ってこないんだと思った」 「だから、帰ってこない?」 『だから』に続く前後の文脈が、和葉には判らなかった。『だから帰ってこない』その『だから』の意味とその在処。 「痛みが判る新一だから。何処かで誰かが泣いてるから。当たり前だと思ってたこういう時間が、本当はすごく貴重で大切なんだって、気付かされた気がするの。何もない、こうして寛ぐ時間が、平和なんだって、新一に教えられた気がするの。だから新一は帰って来ない。きっと、見知らぬ誰かが苦しんでるから」 「偉いんやね、蘭ちゃん。私ダメやね。そんな風に、思えへん」 虚勢ではない蘭の綺麗な強さは、一体彼女の内側の何処から生まれてくるのだろう? 和葉は蘭の台詞に、泣き笑いの表情を垣間見せる。 「違うの。今そう思えたの。きっと和葉ちゃんが居たからよ」 不意に泣き笑いの貌を見せた和葉を、蘭は労るように笑みを向ける。気丈に見せている和葉が、けれど自分より案外脆い部分を持ち合わせている事を、蘭は察していた。 互いに想う相手は、体制組織にも一目置かれる高校生探偵だ。きっとこうして立場の同じ和葉が居たから、蘭も自分の内心が垣間見えたのかもしれない。 「私、新一が好きだけど、大切だけど。でもきっと恋人なら、待ってられないのかもしれない」 その位置を、決して望まない訳ではなかったけれど。けれど今でなら、見えてくるものも在るのだ。見えなかった部分。知らなかった貴重な時間。離れてこうして心配して、初めて新一が探偵を続けている理由が、垣間見えた気がした。 「なんで?」 和葉を凝視する蘭の眼差しは、けれどやはり虚勢の一つもない、穏やかで柔らかいものばかりを浮かべている。 「恋人なら、所在も判らなくて、他人の為に必死になってる相手、待ってられない気がするの。それってやっぱり少しだけ淋しいし、哀しいじゃない?でも幼馴染みなら、待ってられる。あいつが、どれ程探偵になりたかったか、知ってるから」 もうね、耳にタコが出来るくらい、聴いてきたんだよ。蘭は笑った。 「見てきて、知ってるから。ホームズみたいな名探偵になるって、言い続けてきた新一を。私は見て、知ってるから」 そう笑う蘭の笑みが、不意に滲んだ。 「蘭ちゃん」 綺麗な強さを身の裡に秘めている蘭が垣間見せた脆さ。辛くない筈はない。 望む位置。望む居場所。けれど、心の何処かで判ってもいる。決して手に入らない位置だと言う事は。 「幼馴染みのままだったら、私いつまでも待ってて、あいつが帰ってきたら『お帰り』って言ってあげられるの。でも、恋人だったら、辛いな」 繊細な面を一筋流れていく光の軌道。哀しいけれど、綺麗だと和葉は思った。まるで蘭の心の欠片のようだと、フト思えた。 「他人の為に、必死になってるの見るの、やっぱり辛いと思う」 「そうやね……」 「だから、今はまだこのままでもいいなって。こうして和葉ちゃんと食事して。あいつの話しして。それでいいなって」 「強いんやね、蘭ちゃん」 「強くないよ」 狡いんだよと、蘭は肩を竦めた。 答えを先延ばしにして、自分を納得させているだけだと、蘭は知っている。 それでも。『お帰り』と言ってあげたい気持ちには欠片の嘘もない。矛盾した気持ちを、蘭は自覚している。自覚してなお言えるその強さの自覚は、けれど皆無だ。 「穏やかな時間を気付かせてくれた新一には、感謝してるの、少し」 こんな風に大切な人間が、見知らぬダレかの為に必死になている姿を心配しなければ、そんな時間にも気付く事はできなかった。けれど今は気付く事が出来る事が、少しだけ哀しくて、そして嬉しいと、蘭は笑った。 「平次も、そうなんかな?」 犯罪を哀しみ憎む気持ち。けれどそれを生み出すのはいつだって人間だ。延々と連鎖する繰り言と変わりない。けれど、誰かが踏み止どまり、犯罪と向き合わなければ、誰も救い出す事はできない事も判っている。 そうして、頑張っているのは和葉の父親で在り、服部の父親で在り、服部なのだ。 其処に存在する、感情の在りようど、判る筈はないけれど。 「ウン。きっとね」 何処かで、結び付いているかのような新一と服部。 今までの新一にはいなかった友人なのだと、今なら判る。惨事はいつだってブラウン管の向こうの、自分には関係ない部分の出来事だと、大抵の人間は思っている。自分も、今までならそう思ってきた。 絵空毎ではない日常の延長線に在る惨事。いつ自分が巻き込まれるのかなど、判らないのだ。決して、他人事ではない社会病理。けれど大抵の人間は『自分だけは大丈夫』と、根拠のない自信で、対岸の火事と思っている。けれど新一は違う。生々しい生死の狭間を見続けている。そんな新一の推理と言うものを、他人は理解できない。けれど服部は違うのだろう。だろうと、漠然と蘭は思えた。 『フーン。服部君には、ちゃぁんと連絡してるんだ』 大阪駅での些細なやり取りだった。けれど痛感したのは、もしかしたら、アノ時なのかもしれない。 「私もね、知らないんだ。新一が、いつ服部君と、連絡取り合う程、親しくなったのか」 以前の新一から、西の名探偵と言われる高校生探偵の名前を、聴いた記憶はなかった。けれど今は連絡を取り合う程、推理を語り合っている様子が判る。 新一と服部が出会った時は、間違いなく辻村外交官が殺害された時で、たまたま大阪から新一を尋ねてきた服部が居合わせたアノ出会いが、二人の初対面だと知っている。けれど、いつの間に、二人の間に其処まで親しい距離が出来上がったのか、蘭は知らない。 「時折思うんよ」 蘭の台詞に自分と同じ想いを持っている事を知った和葉は、柔らかい、けれど自嘲的な笑みを浮かべ、口を開いた。 「何?」 「嫌いになれたら、ラク、なんやろうなって」 離れていくばかりで、届かない距離。物理的距離は変らない筈なのに、隣に在るからこそ判ってしまう、離れていく精神的距離。その落差に、時折いたたまれなくなる。けれど、一歩は怖くて踏み出せない。臆病で卑怯で狡いのは自分だと、和葉は自嘲する。 「嫌いになる前提って、必ず『好き』が有るんだよね」 「蘭ちゃん?」 「そう思わない?嫌いになるって、好きだからだもの。だから私やっぱり新一が好き」 恋人の位置を、願わないわけではないのだけれど。 けれど自分達はもう随分長い間、その段階を通り過ぎてしまったのかもしれないと、不意に思う。 大切で好き。けれどそれはむしろ、家族に対する愛情に近いものになってしまったのかもしれない。 「そうやね。好きじゃなきゃ、嫌いにもなれへんよね」 だったら自分もやっぱり平次が好きで仕方ないのだと、和葉は笑った。 「ウン。好きじゃなきゃ、嫌いにもなれない」 白皙の貌に穏やかな笑みを浮かべ、蘭は頷いた。 好きじゃなければ、嫌いにもなれない。好きでなければ、嫌う事もない。 まず最初に在るのは『好き』と言う想い。 「なぁ蘭ちゃん」 食後。ケーキを食べながら、和葉は窓の外を眺め、口を開いた。 「観覧車、乗らへん?」 窓の外。様々なバリエーションでライトアップを変えて行く臨海副都心の大観覧車。 日本一の高さを誇る観覧車からなら、富士山まで見渡せるパノラマだ。 「そうだね。折角此処に来たんだし」 地上115Mの高さを誇る世界最大の大観覧車は、1周約16分。臨海副都心の注目スポットだった。 「きっとよう綺麗な夜景が見えるやろね」 「ウン。綺麗な天然の宝石箱が、見えるよ」 浮かび上がる夜の光の中。その一つ一つに見知らぬダレかが在るのだ。きっとその見知らぬダレかの光が綺麗だから、互いの大切な幼馴染みは、必死になっているのだろう。その見知らぬダレかの哀しみを掬い上げようと。だから待っていたいと、今更思う。 「星、みたいに、綺麗やもんね」 こうして蘭と話して見下ろす夜景に、初めてそんな事に気付いた。 「ちょっと並ぶかもしれないけど、いいよね」 デートメッカの観覧車だから、夏休みの現在は、並ばないと観覧車には乗れないだろう。 「ええよ。話してれば、時間なんてアッと言う間に過ぎてまうもん」 「それじゃさ、行こうか?」 「そやね」 デザートを堪能した二人は、互いに笑い合い席を立った。 眼下に広がる夜景が、殊更綺麗だった。 |
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