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臨海副都心線『国際展示場』新交通システムゆりかもめの 『有明』。どちらの駅からも歩いて僅かな場所に、第二の殺害現場である有明テニスの森公園はある。 ヴィーナスフォートや、パレットタウン、世界最大級を誇る大観覧車のあるお台場周辺は、観光地としてアベックのメッカだが、遺体発見現場は、未々空き地が点在する立地に在った。 服部と新一が路線を乗り継ぎ現場に到着した時。鑑識も機捜も一段落したのか、見慣れた保存テープがグルリと現場周辺を括っていて、その中は更に青いビニールテープが周囲を囲い、現場自体は目隠してされていた。 観光地化されたお台場周辺からは距離が離れている為だったのか、野次馬で混在している事もなかった。現場周辺には、一課や所轄の刑事、現場保全に駆り出された所轄の地域課警察官が在るだけだった。 事件現場から少しだけ離れた場所でタクシーを降りると、新一と服部は捜査員が集中して集まっている場所とは裏手から、黄色いテープを潜り、更に中央で事件現場を覆ってる青いビニールテープの中へと入って行く。 けれど二人は気付かない。目敏く二人を見詰めた存在の在る事に。 青いビニールテープは、渋谷の事件で第一通報した、アノ、ホームレス達の『家』のテントに似ていた。 「目暮警部、月山さん」 「オオ、工藤君、服部君」 検視が終わり、月山の指示で、遺体を監察医務院へ搬送しようかとしている丁度その時だった。突然気配もなく現れた東西の少年探偵の二人に、目暮と月山は遺体から視線を移した。 「どうしたの?」 月山は、正面に現れた二人に不思議そうに声を掛ける。 月山や目暮は、テントの入り口になっている部分に背を向け、被害者脇に立っていたから、当然裏手から回り、テント内に入った新一と服部は、正面から月山や目暮向き合う事になった。そして月山や目暮ばかりか、佐藤や高木、白鳥は、不思議そうに新一を凝視する。 「アア、コレですか?」 大人達が、自分を凝視してくる意味に、新一が気付かない筈はない。少しだけ薄い肩を竦めて笑ってみせる演技すら、板についたものだった。そしてその演技を見破れる人間は、両親以外では片手で足りる。 「ちょっと近視はいってて」 「らしくなく受験勉強のしすぎで、ここん所ますます眼悪くなってさかい、買うたんや、似合うやろ?俺の見立てやで」 服部のその笑顔は爽快なばかりで、やはりそれが演技してのものだと気付く人間は、此処には存在しない。 「受験勉強ね、T代法学部ストレート入学で?」 先刻の推論をみても、新一のIQが高いのは窺い知れる。 「アレ?でもさっき会った時、眼鏡なんてしてなかったよね?」 不思議そうな高木の台詞だった。 「だから途中で買うたんや。事件現場に立ち会うのに、何か見落としたら、大変やからな。まぁ、即席やけどな」 新一の白皙の貌には、フレームのない、瀟洒な眼鏡が乗っている。小作りな顔立ちに瀟洒な眼鏡は、寧ろファッション的なセンスがあった。 眼鏡なんて、小手先の誤魔化しにもならないなと苦笑する新一は、けれどないよりマシかと、渋谷駅前で眼鏡を購入していた。 服部が言うように、選ぶに任せ選ばせたソレは、確かに瀟洒で知的で、それが嫌味にならないファッション性を備えている。全体のバランスを考え選んだのだろうソレは、選んだ人間が、贈る相手を熟知している事を窺わせるバランスの良さが滲んでいた。 「それで目暮警部」 新一は、テント内部をグルリと見渡し、ゆっくりと視線を脚下に落した。落とし乍ら、凛とした声が目暮に説明を求めた。 「昨日の遺体と同じだよ。外傷はなし」 「まだ毒物特定、出ないんですか?」 被害者の横に、ゆっくりと新一と服部は膝を折る。 二人の厳しい視線が、彼等を少年には見せなかった。ただの推理好きな少年探偵ではない厳しく引き締められた横顔。元よりも、推理に長けただけの少年を、警視庁捜査一課5係々長である目暮が、事件現場に脚を踏み入れさせる筈はなかった。 少年には視えない凛然とした横顔は、何処か崇高である気さえする。日常的に生活している人間には、一生縁がなくて不思議ではない犯罪。付随する異状死体。それに自ら関わるに必要な要素を、長年事件に接し、目暮は痛い程熟知しいる。そして眼前の少年二人が、ソレを持ち合わせている事が、少しだけ哀しくも思えた。 どれだけ社会病理が拡大し、犯罪が多発し凶悪化しても、日常的に暮らしている人間は、大抵思っているのだ。根拠のない確信さで。呆れる程無防備な単純さと愚かさで。 自分だけは大丈夫。犯罪になど、巻き込まれない。 犯罪は、巻き込まれるべき人間が巻き込まれる、非日常的な産物だと。テレビドラマや小説の出来事のように、無防備なのだ。大抵の人間は、そう思って日常を送っている。 けれど二人は、未だ少年と呼ぶに可笑しさを感じさせない年齢で、社会病理を直視している。闇は人間の身の裡にしか存在しないのだと。 闇は実態として存在している訳ではない。罪の本性を持つ、人間の意志が生み出す作用にすぎない。 未だ少年の二人が、人間の根底に位置する悪意を直視する真摯や強さはなんなのだうか?考えても、判らなかった。 事件に関われば、ガラリと変化する横顔。服部の事は、目暮は良く知らない。いつから親しくなっただろうかと考えれば、自分の部下だった、現在は探偵業をしている毛利小五郎関連の知り合いだった。けれど気付けば、いつの間にか顔馴染みになっている事に、今更気付いた。 服部が、警視庁で発生する事件現場に在る違和感を、いつから感じなくなったのだろうか?彼は大阪在住の人間で、まして父親は警察官僚である大阪府警本部長だ。その服部が、頻繁に東京の事件に関与するようになったのは、一体いつだったろうか? 東の名探偵、平成のホームズ、警察の救世主。幾重もの称賛の形容詞で湛えられた新一は、古馴染みの、世界的ベストセラー推理作家の一人息子だ。その新一は、知り合い、事件現場に立ち会わせるようになった時。恐ろしい程の頭脳で、推理展開をしてきた。それはプロである自分達が、口を挟む余地もない程、完璧を極めていた。 けれどその時の新一は、真実を求めながら、何処か推理を手段にしている節が感じられた。 世界的な推理作家を父親に持つ影響だろう。幼い時から推理と言う一点では、新一は明敏だったのたろう事は、容易に想像出来た。知識を吸収するだけの聡明な理解力と、確かな記憶力。推理に必要な資質を、新一が幼い時から持っていた事は判る。 少年とは思えぬ洞察力と叡敏さ。それに裏付けされた推理と確実な推論は、恐ろしい程研ぎ澄まされた剣のようだった。 研ぎすまされすぎて、返した剣で、他人まで切り付けてしまうような鋭さを持っていた。けれど今は違う。剣は研ぎ澄まされているだろう。寧ろ過去よりも、鋭敏に研ぎ澄まされている事が判る。けれど、その冷ややかに研ぎ澄まされた硬質な光で、他人を傷つける事はないのだろうとも、目暮には思えた。 何が彼を変えたのだろうかと思えば、それは西の名探偵の影響なのだろうか?フトそう思う。 いつの頃だろうか?東西の高校生探偵とマスコミに持て囃されてきた二人が、揃って現場に現れるようになったのは? ライバル同志とマスコミに取り上げられた事は一度や二度ではない。同年齢の、それも東西に別れて存在する等しい実力を持った名探偵は、誰の眼から視てもライバルと映っただろう。けれど二人は、マスコミの無責任な流言飛語に流される事はなく、今年春からは同居生活に入っている。 お互いに影響しあえる存在は、人が思う程にそう多くはない。けれど二人は互いに影響し、成長しているのかもしれないと、目暮は漠然と思った。そしてフト、羨ましいと思えた。 「もうじき出る筈よ。田所せっついてきたから」 目暮の横で、月山がほっそりとした両腕を細腰に押し当て、佇んでいる。 何百種と存在する毒物は、時間経過により分解され、体外排出されてしまうものもあるから、特定が困難なことは判っている。けれど月山は、捜査本部の管理官席で、鑑定書を待っている程、おとなしい性格をしてはいなかった。 「外見年齢、二十代後半から、三十代前半ってとこやな」 ボソリと、思案気に服部が呟いた。 光のない両眼が、苦悶の表情で見開かれている。 「目暮警部、被害者の所持品、やはりナシですか?」 確信した新一の台詞に、目暮は言葉少なに頷いた。 「共通点は、4点」 眼鏡越しに遺体を観察する眼差しは、推理する際の厳しさと同時に、殺されてしまった人間の痛みを背負うかのように、深く研ぎ澄まされている。瞬きを忘れた澄んだ眼差しには、真実が映されているのか?月山や目暮は二人の年若い探偵を凝視している。 東の名探偵の清涼な眼差は、真実を映す鏡のようだと、マスコミが評した事がある。そしてもう一つ、新一を傷つけただろう言葉があった。新一は、気にした様子も見せなかった。けれど気にしない筈がない『噂』が一時期存在していた。 ダレが言ったのか、出所不明な無責任な流言飛語……。 「一つ、被害者の遺体に、第一の殺人同様、外傷がない事。二つ、被害者の身元等を証明する所持品がない事。三つ、遺体発見現場が、公園だと言う事」 淡々と告げる抑揚のない声。理性的で冷静な声。真摯な横顔に映る眼差しだけが、新一の内心を語るように、奇妙な明鏡止水を映している。陰惨な殺人現場を見続けて、それでも新一の眼差しは曇る事がない。そればかりか、ますます冴える深みを増し、真摯に真実と対峙しているように目暮には視えた。 「四つ目は、第一の殺人同様、死体遺棄の可能性や」 新一の隣で、新一と変わらぬ眼差しを湛え、服部が口を開く。笑顔の明るい印象とは裏腹に、事件に対峙する時の服部は、新一と変わらぬ横顔を湛えている事に目暮は気付く。 影響しあうと言う事は、そういう事なのだろうかと、目暮は感慨深げにそう思う。そしてやはり、羨ましい、そう思えた。 自分は、もう純粋に、事件を追う事は許されてはいない。 発生した犯罪に対し、刑事は純粋に事件を追う猟犬であればいい。それは建て前だ。減点式の組織制度の中では、誰もが政治とは無縁ではない事を、目暮は痛感しているからだ。 だから真摯な眼差しで真実や正義と向き合っている年若い探偵達が、目暮は羨ましかったのかもしれない。 平成のホームズと、その理論的で確実な推理に裏付けされた被疑者検挙は、確かにそう言われて不思議ではないだろう。けれど、だからこそ、畏怖と畏敬を込められて、そう呼ばれてきた事を、新一は知っているだろうか? 平成のホームズ。その言葉に込められた意味は、視聴率や3FET誌の部数売り上げを伸ばす事に、主婦や女子中高生をターゲットに生み出された言葉だったが、警察組織では、もっと別の、深い意味を持っていた。 一介の高校生が、体制組織より数段上の推理で、被疑者を検挙する材料を提供出来る事実。組織が高校生の手を借り、被疑者に手錠を掛ける事実。被疑者検挙が最大の防犯と言われるだけに、起こった犯罪に対し、被疑者検挙が最優先されるのは当然だった。けれどその事件解決が、一介の高校生になされてしまっては、組織の面目は丸潰れだった。 少年は関わった事件に関しては、迷宮なしの名探偵。送検した被疑者は確実に起訴され、公判有罪率を勝ち取っている。 それは新一の推理に探し出された、証拠能力と証明力の高さを物語っている。それが因習的なプライドの高い体制組織の上層幹部達を驚異に曝してきたのか、きっと新一に自覚は皆無だろう。彼は発生した犯罪に対し、推理していただけだから。たとえ推理を媒介にしていたとしてもだ。そして真実を見抜いてきた。陽の元に曝してきた。否、引き摺りだしたという言葉の方が、当時の新一を表すには、適切だっただろう。 そんな時だ。二つの噂が面白可笑しく、出回ったのは。 服部は、どうなのだろうか?当時の服部のテリトリーは関西だから、中々東京まで噂は出回らない。少なくとも、服部に関し、新一のように、ホームズ云々と言うように、脚色された形容詞は、耳にした覚えはなかった。 「ホームズと、ワトソンね」 目暮と同じ事でも考えていたのか、月山が薄い笑みを滲ませている。それは幾許の苦笑を刻み付けた、綺麗なものだ。 「毒物殺人は、繰り返される恐れがある」 早う毒物特定割り出して、入手ルート解明せなあかんな…。溜め息混じりに紡がれた服部の台詞に、新一の視線がチラリと移った。 新一の視線に気付かぬ筈はない服部は、けれど素知らぬ表情をして立ち上がる。新一の言いたい事など、聞かなくても判る。新一が、服部の様子に内心深く溜め息を吐き、立ち上がった時、月山のスーツの内ポケットで、バイブに切り換えておいた携帯が鳴った。携帯のNoを一目見て、月山は開口一番、 「何の毒だったの?」 問い掛けた。 「エッ……?そう、詳しい事は、聞きに行くから。検案書宜しく。アアそれと田所、さっき連絡いれた遺体、今からそっち搬送するから、同じ毒物鑑定を最初にお願い、きっと、第二の殺人だから」 予想外の毒物の名前でも出たのだろう。月山は、携帯に耳を傾けながら、驚愕に顔色を変え、次には手短に死体検案書の作成と遺体搬送後の毒物鑑定の以来を説明すると、手短に携帯を切った。 「何の毒やったん?」 「テトロドトキシン」 「って…工藤……」 「当たっちまったみたいだな、お前の推理……」 月山の台詞に、流石に少し顔色を変えた服部が、隣に佇む新一を見れば、長い吐息を吐き出して、新一は服部に答えた。 今朝、太陽が真上に差し掛かる少し前。目覚めて会話をした中で、服部が推論仮定した毒物の一つが、遺体から検出された。 昨夜の激しい情事の後、温もりに飢えたように互いの躯を抱き締めて眠った。必要以上に、服部を求めた記憶が有る。 怖かったのだろうか?身の裡に問い掛けても、判らなかった。足場の不安定な今の自分の状況に、凝視すれば、足下が竦む事も有る。薄氷に佇む不安定さに、絶望を味わった事など、一度や二度ではない。けれど新一にとって、怖い事はもっと別に有った。そんな事、きっと服部は知らないのだろうと、隣に佇む荒削りで彫りの深い横顔を凝視すれば、服部も新一を視ていた。 凝視する眼差の深さに、互いの深奥まで垣間見た気分になる。鏡像を映すように、同じ表情をしているのが判る。だから一瞬、視線がはずせなくなる。 視線をはずしたのは、新一の方だった。見詰められれば、内心を見透かされる恐怖さえ感じた。 自分の為に、傷付いて行く服部など見たくはないと思うのに、傷つけるのは、いつも自分なのだと新一は判っている。そして、傷つけると承知して求めてしまった唯一の相手だと言う事も。後戻りはできない。それだけは、判っていた。どんな事があっても、絶望に哭いても、後悔はしない。服部を選んだ時から、それだけは決めていた。自分を愛してくれた、彼の為にも。 最期まで足掻く事が、無駄な事とは、思いたくはなかった。 「テトロドトキシン、又はヘパトキシン、フグの卵巣や肝臓に含まれている神経毒。青酸カリの約200の致死量を持つ、猛毒や」 「青酸の200倍……」 テトロドトキシンと言う中毒は、あまり一般的ではないだろう。 「フグ毒か…これで二度目だわ」 月山は、下品に舌打ちする。 「二度目?」 「アア、以前にね、あったのよ。まだ私が一課捜査員だった当時にね」 監察医務院に勤務する友人の、その又友人の妹の恋人が、殺害された事件、救急搬送された病院で、心筋梗塞と診断され、異状死にも関わらず、医師が診断を誤り、死亡診断書を作成し、火葬されてしまった事件は、被害者が恋人に当てたハガキに貼付された切手の唾液から、中毒判定されたと言う顛末のつく、極めて稀に毒物が特定された事件だった。 「摂取30分前後で口唇や舌の痺れなどの知覚障害が出現、平均3時間で中枢麻痺で死亡する。ただし発症2時間内で、呼吸・循環動態の維持がなされれば助かる事も少なくない。人口呼吸器装着で呼吸管理し、昇圧剤使用で血圧管理。発症8時間持ち堪えれば、毒素は分解され、体外に排出されます。致死量に至らず適切な処置なく死亡した場合、毒は体内で分解されてしまうから、特定の難しい毒でもあります」 「それに加え、毒殺するには、極めて特殊なケースやな」 「その特殊なケースを、君達は想定したわけだ」 今の二人会話から考えれば、二人は毒物が特殊な毒だと想定していた事になる。 「仮定や、仮定。昨日の遺体状況や何や考えて、まぁ青酸じゃいのは十中八九判っとったから、それ以外の可能性のある中毒死を考えてたんや。なんせ遺体現場や遺棄状態みても、なんやけったいな事件や思たからな」 服部の直観力の確かさは、こうして現場で証明されるのだと、新一は思う。そして新一は、服部の直観を巧く誘導し、意識の上に引き出す術を心得ているのだろう。まるで全てを見通すように。ミッシング・リンクを完成させるピースを持つように。 「刑事より、プロファイラーに、向いてるわよ」 「工藤と同じ事言わんといて」 揶揄を含んだ、けれどそれが嫌味ではない月山の台詞に、服部はゲンナリする。渋谷公園での会話が思い出された。思い出せば、気付いてやれなかった罪悪が深まりばかりだ。 本音を言えば、これ以上関わらせたくない。毒物が、心配した組織のモノではなかった。けれど極力、事件に関わらせたくはない。走り出した新一を、決して止める事のできない自分を知るからこそ、服部は切実にそう願ってしまう。 厳しい愛情なんかやないんや…。 思い出された少女の台詞に、服部は自嘲する。 「もぐりの調理師が、二件の事故死を出したって事はないんですか?」 今まで黙って彼等の会話を聞いていた高木が、口を挟む。 「フグ料理で間違ごうて死人だしよった、んなアホな事考えてるんか?」 呆れた服部の台詞に、高木は肩を竦めて見せれば、それが冗談だと判る。まさか警視庁刑事が、そんな可能性を考えていたとしたら、捜査員失格だ。 「ただし、高木刑事のいう事は、当たってますよ」 高木の台詞に、新一はその一点だけは可能性があると、指摘する。 「エッ?事故死?」 「違うで、テトロドトキシン、毒単体を手に入れる事は困難や」 「けれどフグを手にいれれば、毒を抽出するのは難しい事ではない」 「そういうこっちゃ。フグ料理の板前やその関係なら、寧ろ簡単やろ?解剖報告書見ないと、なんとも言えんけどな」 チラリと、漆黒の眼差しが隣を間視する。 「解剖された遺体の胃の中から、フグそのものは検出されなかった筈です。検出されていたら、此処まで毒物特定に時間なんてかかりません」 「その通りよ。アノ時だって、そうだったわ」 アノ時と、月山は苦々しげに口を開く。 「毒そのものを、なんらかの形で摂取した」 静かな新一の声が、誰の胸にも不気味に響いて聞こえた。 威圧が被されている訳でもないのに、奇妙に端然とした厳然さで響く新一の声に、大人達は瞠然とする事しか出来ない。 大学生になったばかりの少年二人の澱みのない眼差しや、迷い逡巡のない言葉が、目暮達を恫喝する事を、きっと二人は気付かないだろう。 「目暮警部、第一の被害者、丸山芳樹の家宅捜索、開始しているんですよね」 疑問ではなく、確認する為だけの台詞に、目暮は頷いて応えた。 「明日、その調書と解剖報告書と、見せてもらえますか?明日には、この遺体の解剖報告も、出てますよね」 新一の台詞に、目暮は半瞬だけ上司に当たる月山を間視する。すれば、月山は、 「本店の方に来る?」 キャリア官僚にあるまじき台詞に、目暮ばかりか、新一や服部、高木らも苦笑を隠せない。 本店は警視庁、支店は都下101在る所轄署。それはキャリアが言う台詞ではない事は、確かだった。 「いえ、FAXかメールで、送信して下さい」 「随分、謙虚じゃない?東の名探偵が。この事件にも、二人が関わってる事を、公表しないでくれって?」 「君は随分変わったな、新一君。昔は随分、自己主張が激しかったのに」 目暮の知る工藤新一が、推理を手段に楽しむ節があると感じたのは、その自己主張の激しさも起因していたからだ。 マスコミのライトを浴びる事に、躊躇いのない自己主張。 ゲームを達成した子供のような部分が、確かに新一には存在していた。事件を解決する事で、自己肯定する子供のように。けれど今はどうだろうか? 眼前の新一は、以前と変わらぬ明晰な頭脳で推論を進めていく。けれど以前とは打って変わり、自分の存在をマスコミへ公表する事を拒否している。その変化は一体なんなのだろうか?自己主張していた彼と、今の彼と、何処かが違う。滲み出す何かが違うのかもしれない。それが何かと問われれば、目暮は形にする言葉を持たなかった。けれど何かがゆっくりと変化している。その事だけが、判る事だった。それはもしかしたら、より深く、真実と向き合う事を覚えたからなのか?そんな感傷が胸をよぎった。 此処二年足らずで、新一は探偵として格段に成長した。そう感じられる。子供が急激な変化で、突然大人になって現れたかのような感慨や驚愕さえ含んでいる事が、目暮には不思議だった。 「子供だっただけですよ」 目暮の台詞に、新一は肩を竦めて苦笑する。 きっとコナンになる事がなければ、こんな事にも気付かなかっただろう。子供だった自分は、真実を追求する困難や痛みを知る事もなく、仮初の真実を追求していただろう。 「さっきも佐藤ハンに言ったんやけどな、俺ら今大学生活満喫しとるんや。煩くされたら、かなんのや。マスコミの連中、好き勝手書き立てるさかいな。面倒は御免や」 「まぁいいけど、こっちもその方が、都合いいし」 「んじゃルール成立って事で」 「取りあえず、二人には無用だけど、ルール成立だから言っとくわ。リークはなしヨ」 「誰に言うとんのや。情報管理は探偵も刑事も基本やろうが。言うたやろ、俺ら大学生活満喫中なんや」 「だったら、此処で引き返せばいいじゃないの」 少年とはいえ、東西の名探偵と湛えられ、偽りではない彼等二人の探偵としてのプライドの高さを知るからこそ、月山の台詞は愉しげな響きしか持ってはいなかった。 「関わった事件を放り出すような真似、出来ません」 月山の台詞に、新一は薄い笑みを湛えて返す。湛えられた笑みの背後には、清涼なまでの凛冽さが横たわっている。 「遊びで探偵してるつもりはないんや。ただマスコミの連中は、俺らの推理、子供の延長線って書き立てるからな、気にいらんだけや」 それは服部の虚偽のない吐露だ。寧ろ服部の方が、プロとしての探偵としての姿勢は、新一より上だっただろう。 新一が自己主張の激しい探偵なら、服部は、プロに近い探偵だった。父親の七光で、探偵としての功績を湛えられる事など、服部のプライドが許さなかった筈だ。 新一の探偵業は、寧ろ趣味の領域に近かっただろう。けれど服部は、取り巻く環境が趣味で事件に口を出す事など、できなかっただろう。その差異が、二人の探偵としての姿勢の違いだったのだろう。けれど今は違う。 「成長したって事?」 シニカルな笑みが、その名に月を持つ彼女の、清涼さを引き出している。冷ややかで研ぎ澄まされた笑みに、新一は半瞬息を飲み、やはりシニカルな笑みを返す。その新一の笑みを、服部だけが、憂痛のこもった眼差しで凝視している。 「何か判り次第、調書関連は回して下さい」 「調書本体、FAXで送ってあげるわよ。メールで概要所見だけじゃ、物足りないでしょ?」 警察の調書は、警察官面前調書として、検察に送致される。ITだ何だと騒がれていても、未だ司法に於ける公文書は、手書きが基本だ。 「それこそ守秘義務違反、服務規定違反、なんじゃないんですか?」 クスリと、新一が笑う。昨日の、坂巻刑事調査官の台詞だ。 「被疑者検挙が最大の防犯。その為なら、なんだってするわよ」 エリート集団と言われる捜査一課の刑事達を束ねるキャリア管理官の月山は、確かに型破りな女性キャリアなのだろう。 猟犬を束ねるには、猟師の資質と技量が必要だった。猟犬のプライドを擽り、手綱を調整する手腕が猟師には求められる。 「被疑者の繋がりを見付ける事が、一番早いラインだと思いますよ」 「特に暴力団関係とかやな」 「嫌なガキね」 事件の本質を、年若い探偵二人は掴んでいるように見える。ボソリと、月山が漏らすのに、新一と服部は笑った。 「特殊ルートの計画殺人。遺棄方法みてもマニュアルからはずれとる。無差別の訳があらへん。冷静な手段を用いて、殺しとるんや。特定の人物をな。その繋がり見付けるんが、早いラインや思うけどな」 「そのライン見付ける方が、大変そうよ。何せこの遺体の身元割り出しから、なんだから」 「家宅捜索している第一被害者の部屋からでも、なんぞ見つかるといいんやけどな」 思案気に呟く服部を横目に、新一の視線も沈吟深げに遺体を見下ろしている。 「まぁ、今は俺らが此処で考えてても、なんも埒あかんな」 フッと、視線をあげた時。服部の視線は推論を進める時とは打って変わった、日常的に、誰にでも見せる表情をしていた。 「ほな、帰ろか」 ポンっと、隣で未だ凝思している新一の肩を軽く叩くと、新一は『そうだな』と、遺体から視線を上げた。 「それでは目暮警部、何か進展あったら、その時点で、教えて下さい、携帯オープンにしておきますから」 「アアそうだ新一君、言い忘れとったよ。蘭君にあったかな?」 「蘭?いえ、来ているんですか?」 思いも掛けない幼馴染みの名に、新一はキョトンと首を傾げた。その仕草があまりに無防備で、服部は柔らかい笑みを口端に上らせた。 新一にとって、蘭は肉親同様守りたい人間だと昨夜言われた。けれどこんな風に無防備な表情をさせられるのかと思えば、幾許の嫉妬じみた幼い感情が湧くのに、服部は自嘲する。 「三人で来ていたよ、お台場に遊びにきていたと言ってた。彼女達が居てな。君達が来る事を言ったら、待ってるとか言ってたけど、会わなかったかい?」 「裏から来たんで……」 出来れば、蘭達には会いたくないと、新一は口ごもる。 そういえば、今日は蘭と和葉は遊びに行くから、昨夜和葉は毛利探偵事務所に泊まると言っていた。三人と言う事は、きっと園子も一緒なのだろう。 「そういえば、そうよね。今回やたら徹底してるわね、マスコミ対策ってのは、本当?」 女の直観はあなどれない、新一と服部は顔を見合わせ、ひきつった笑みを見せる。流石女性初の、キャリア管理官と言うべきだろうか? 「ほんまや、ほんま。嘘言う必要あらへんやろ」 のんびりした声は、不思議と他人に警戒心を与えない響きを持っている。それは探偵には必要な技量の一つだろう。何の権限も持たない探偵は、自分の資質と技量だけが頼りだ。捜査で他人に警戒心を持たれるようでは、話しにならない。 「じゃぁ、俺達帰るで」 ポンッと、新一の肩を叩くと、正面とは正反対に、来た時同様、裏から出て行く。 「なぁ〜〜んか、不思議よね。アノ二人」 二人並んでテントから出て行く後ろ姿に、月山は不思議そうに呟いた。 「ア〜〜怖、女の直観はあなどれんなぁ、和葉といい、蘭姉ぇちゃんといい、女は怖いわ」 テントを出て、ボソリと服部が呟くのに、新一も同感だと、言葉なく頷いている。 昼近くに起き出して、ブランチを摂りながらPCを作動させ、情報収集し、そして渋谷に着いた時は、もう2時を回ってた。第一通報者である片山と話し、佐藤や高木と会い、この現場に駆け付けた。時計を見れば、初夏の季節に時間感覚が曖昧になるが、短針は、6時を少し回っている。 「そのメガネ、よう似合っとるやん」 ツッと、節のある長い指先がフレームのないメガネの縁を撫で、流石俺の見立てだと薄い笑みで新一を見れば、漆黒に瞬く眼差しは何処か切なげで、新一は胸が締め付けられる。 二人共、正確に理解しているのだ。 当事者である自分より、その覚悟が服部の方に大きい事が、新一には不思議だったけれど。 新一が、再びメガネを掛けた意味。その理由。今回は違った。けれど、工藤新一と服部平次。東西の探偵が事件に関与している事実に、何が動き出すか判らぬ不気味さが付き纏う。 組織は解体した。けれどそれは表向き。それも情報漏洩の可能性がある事実に、新一も服部も、もう安穏とした生活に浸る事は出来なくなっていた。気付いてしまった事実から、視線を逸らす事はできない。気付かされてしまった事が、少しだけ哀しい、そう思う。 もう少しだけでいい、気付きたくはなかった。 新一の深奥で、隠す事のできない情素がポツリと漏れる。 「久し振りにすると、鬱陶しいけどな」 服部の手が、フレームから、ゆっくりと前髪を梳き上げる。その感触は何処まで切なく胸を締め付けるのに、肉の下を這う甘い懊悩も意識してしまう。 「人前でするなって」 あからさまな服部の仕草が、けれど無意識なのが判るから、尚タチが悪いと、新一は髪梳く指を振り払う。心配させているのが判るから、新一は憮然と指を払う事しかできなかった。 まろい双瞳が服部を見上げれば、物言いたげな瞳の色は恐ろしい程澄んでいて、フト吸い込まれる錯覚を覚える服部だった。 「……堪忍」 「謝るなよ……」 優しい声と笑みで謝られても、切なさが増すだけだ。心配させながら、それでも告げられない言葉を隠し持つ後ろめたさに、新一は俯いてしまう。 「……夕飯、何にしよか」 リクエストあるか?言外に告げる言葉に、服部の優しさに、ますます新一は口唇を噛み締める。 「傷付けるんやないで」 血が滲む程口唇を噛み締める仕草を、今日だけで二度眼にしている服部は、新一の疵の深さを垣間見た気分になり、いたたまれなくなる。 新一はきっと、自分が傷付いている事も理解してはいないだろう。口唇を噛み締めているとしたら、それは別の意味を持っている事を、服部は疑ってはいなかった。それがまさか自分に起因している事など、考えもしないだろうけれど。 互いに想いあい過ぎて、逆に互いの痛みと疵ばかりに、焦点が絞られてしまうのかもしれない。 「……筑前煮……」 ボソリと、新一が呟いた。 「何?」 「筑前煮、夕飯のリクエスト」 歩き出した新一の歩調は、ひどくゆっくりとしたものだ。 「工藤ほんま、和食好きなんやな。昨日も蘭ねちゃんが作って持ってきてくれたばかりやろ?」 「濃いって言ったろ」 言葉少なく憮然と言う新一の台詞は、服部にすぐに意味は通じなかった。 「お前のが口に合う、そう言ってんだよ、気付けよバーロー」 自分の台詞に、白皙の貌に熱が散るのが判る。新一は、紅潮する表情を隠すように、俯いて、照れた証拠に、少しだけ歩調が早くなる。 「なんや、素直やないか」 頭半分低い恋人の頭を見下ろす恰好で、目線を下げた服部は、照れたように歩く新一に、酷薄な口唇に笑みが浮かんだ。それをちょっと離れた距離で見ている三人の視線に、未だ二人は気付かないでいた。 「ちょぉ遅ぉなるけど、リクエスト作ったるで」 「んじゃ俺、鉄板焼き、作ってやるよ」 「それ料理ちゃうで。材料並べるだけやんか」 「んじゃ食わねぇんだな、俺一人で食っちまうからな」 「珍しいやん、工藤が積極的に食事摂るゆうんわ」 同居する以前の新一は、どうやら食事には無頓着で、面倒がたたれば、カロリーメイト等の補助食品で済ませていたらしい。服部の台詞に、新一は俯いた視線を横に向け、足が止まる。 「どないした?」 ジィッと、眼球の中核を覗き込むように凝視して来る眼差しに、服部は不思議そうに問い掛ければ、 「鈍い……」 新一は、大仰に溜め息を吐き出した。 自分の事を、他人の機微に疎いと言う服部は、どうやら恋人の自分の機微にだけは疎いのではないのか?新一は、呆れたように服部を凝視し、次には大袈裟に脱力の仕草をしてみせる。 「ちょぉ待ち、工藤に鈍い言われる覚えないで」 「一人で食事するなんて、味気ねぇんだよ」 気付かせたのはお前じゃねぇかと、新一は凝視する視線を外し、再び歩き出した。 「ほんま素直やな、気味悪いわ」 幅広い肩を竦め、服部は新一の横を歩きだした。 陰惨な殺人現場の帰り道、それでも一時の平穏は許されるだろう。互いにそう思っているのだろうし、感じているのだろう。歩く歩調がひどくゆったりとして、この時間を手放しがたい、そういう雰囲気が二人の間には滲んでいた。 だから彼女達は、声を掛ける事を躊躇った。滲み出す二人の間に流れる空気の穏やかさに、戸惑っていたのかもしれない。幼馴染みの彼女達ですら知らない表情を、互いにしている二人は、まるで知らない人間のように視えた。遠くなっていく距離に、焦燥が湧く。 二人の繋がりを、絆を、彼女達は知らない。新一がどんな辛酸を舐め、服部が苦悩しながら新一と在る途を決めたのか?二人がこれから辛酸を舐め、歩かなくてはならないのか? 彼女達は知らない。何一つ。これからも、知る事はないのかもしれない。 「……新一……」 「平次……」 聞き慣れた二人の少女の声に、新一と服部の足が止まる。 背後から掛けられた声に、振り返る。 「蘭……」 「なんや和葉、蘭ねぇちゃんとのデート、こっちにきてたんか」 繊眉を歪め、蘭を視る新一とは裏腹に、服部は殊更明るい声で幼馴染みに振り返る。 蘭の隣には、少しだけ心配そうな表情をした、園子が立っていた。 日本有数のコングロマリットの鈴木財閥の会長令嬢である園子は、けれどそうは見えない。令嬢に有り勝ちな奢った部分も気取りもなく、新一が行方不明時、何かと心を痛めてきた蘭を、心底気遣う事のできる、優しい少女だった。その性格の明るさと気遣いが、どれだけ蘭の慰めになってきたのか、新一は知っている。 「新一……?どうしたの、そのメガネ」 18歳と言う、少年から青年の入り口に差し掛かった幼馴染みの、繊細に整い過ぎた白皙の貌に、昨日まではなかった瀟洒なメガネが有るのに、蘭はまろく大きい瞳を瞬かせた。 「近視……んな事よりお前ぇ、何してんだよ、此処は事件現場だぞ」 都大会優勝という空手の腕前を持つ蘭は、怖がりで寂しがりやな普通の少女だ。けれど居場所を限定出来ず、事件を追い飛び回る幼馴染みを責める事もなく、待ち続けていられる強い少女でもあった。 服部と出会う以前の新一にとって、確かに蘭は『還るべき場所』だった。服部を選んでしまう、アノ瞬間までは。 その少女の眼差しが、今はひどく淋しげで、新一は後ろめたさが湧く。コナンだった時、新一である自分の不在を心配しても、こんな淋しげな眼差しは見た事がない。 「此処は大阪やない。東京やで、首つっこむんやない」 「なんやの平次だって、首つっこんでるやないの」 優しいくせに厳然とした物言いの服部に、和葉は幼馴染みが知らない人間に視え、急速に何処か遠去ってしまった感触に、不安が増した。 「和葉、言う事きくんや」 「なっ……なんやの、あんた可笑しいわ平次」 今までは、口ではなんと言っても、推理する時、必ず隣に在る事を許してくれた。 推理する時、推論を推し量り、確信に近付き、真実を得た平次を視る事が出来たのは、自分だけの特権だった。 服部は剣の天才であり、西の名探偵と言われた人間だ。荒削りではあるが、精悍に整った容貌もあって、女生徒にはかなり人気が有った。服部に告白する生徒も少なくはなかった。それは何も通学していた高校だけではなく、他校からも数多い。けれど服部が首を縦に振った人間はいなかった。特定の人間を作らなかった。知らず自分だけが幼馴染みの推理時の表情を知る人間になっていた。自分を、選んでくれている。そう思っていた。けれどそれは自分勝手な都合だったのだと、今更思い知らされた気がして、和葉は今にも泣きそうに顔を歪めた。 「平次、変やね。あんた……」 その先の台詞は、言ったら幼馴染みを怒らせる事だけは判るから、和葉は先の言葉を飲み込んだ。飲み込んで、口唇を噛み締める。ウッカリすれば、涙が溢れそうだった。 西の名探偵と言われる服部に対し、東の名探偵と呼ばれる工藤新一に会いに上京し、アノ日から、幼馴染みは少しずつ変わってしまった事を、和葉は知っていた。 東京に行く度に、幼馴染みが少しずつ自分の知らない人間になって行く焦燥を、和葉は判っていたのだ。知りたくなかった現実を、意識の眼前に突き付けられたくはなかった。けれどその顕著な変化を、和葉は突き付けられてしまった。 もうとっくに、大切な幼馴染みは自分とは違う途を歩き、違う人を、選んでしまったのだと。 「目暮警部に聞いたの。新一達が来るかもって……」 言い訳がましいと、蘭は思った。 少しずつ、自分の眼前で変わって行く幼馴染みが、再び自分の手には届かない場所に行ってしまいそうで、怖かったのかもしれない。何処かで、絆を持っていたかったと思うのは、少女にとっては極当たり前の感情の一つの筈だ。 「んで、こんな時間まで待ってたのかよ」 新一は、少しだけ呆れた表情をする。蘭が自分に寄せる想いは理解しても、それ以上の感情となると、新一は理解出来ない。自分が離れていきそうで、幼馴染みが焦燥と不安に陥り、父親が探偵で事件には慣れてしまってはいるものの、本来臆病で怖がりの少女が、事件現場に長くとどまっていられる性格などしていない。その少女が、自分を待っていた意味を、新一は判らないでいた。 推理に必要な他者の感情は理解しようと足掻いても、幼馴染みの機微などは考えも付かないのだろう。そんな新一だからこそ、蘭にとって新一は『推理バカ』と言う事になるのだと、それさえ新一は知らないのだろう。 「ウッン…あのねぇ、新一……」 逡巡が、口を重くさせる。言うか言わないか、迷っている仕草が窺えた。 「なんだよ」 「見覚え、あるんだって」 初めて園子が口を開いた。 「冷たいわよ、新一君、蘭が散々心配してたの知ってるでしょ?少しは気遣いなさいよ、相変わらずら鈍いんだから」 「なんだよ園子、蘭、お前何知ってるんだよ」 「蘭ちゃん、何処かで今回の被害者、見た事あるらしいんよ」 「なんやて?」 「本当か?蘭?」 「見たような気がするの……ただ…」 「いつ、何処で?」 「だから、ハッキリしないのよ」 「どういう意味や?」 逡巡している蘭の様子に、新一も服部も攅眉する。 「判らないの。目暮警部に付いて、ちよっとだけ見せてもらった時、見覚えがあるって感じただけなの」 「どっかで擦れ違ったくらいじゃ、記憶には残らない。見覚えがあるって事は、記憶にネットワークされてるって事だ。思い出してくれよ、警察もすぐには身元割り出し出来ないかもしれねぇんだよ。昨日の事件も有るし」 「そうせかすもんやないで、工藤」 「なんだよ服部、折角此処に被害者知る人間在るんだぞ」 「結論を先走るな言うとるんや。らしゅうないな。蘭ねぇちゃんは、見覚えがある気がした言うたんやで。簡単に思い出せたら苦労しない事くらい、自分判ってるやろ?」 見覚えのある気がすると言う目撃証言が、どれだけアテにならないものか、自分達は知っている筈だと、服部は新一を窘める。記憶は常に変質する。自分の都合のいいように、書き替えられてしまう事を、二人は知っている筈だった。 嘘を付いている自覚もなく、記憶は主体に都合のいいように、書き替えれてしまう。起こった 服部の視線は優游として、それでいて、複雑なものを孕んでいる。窘める声は何処までも優しくて、新一は凝視してくる眼差しを見詰め返す苦しさを味わって、フト視線を逸した。その数秒の動作が、どれだけ雄弁に彼の内心を物語っているか自覚はないのだろう。けれど一途に新一を見詰め続けきてきた蘭には、それだけで十分だった。 変わってしまった。そしてこれから、もっと変わっていくだろう。服部と言う、西の名探偵をパートナーに。 それは確信だった。新一を見詰め続けてきた、蘭の女の勘だった。 刑事達ですら圧倒する明晰な頭脳を基盤にした推理。推論を推し量る新一を、窘める事ができる人間など、今まではいなかった。誰もが幼馴染みの推理力に圧倒され、大人でさえ、畏怖のこもった眼差しで新一を視てきた。だから新一のパートナーになれる人間など、今までなら存在しなかった。 「すまねぇ」 どちらに謝罪した言葉なのか?新一はボソリと呟いた。 「思い出してみるから」 健気な少女だと、服部は思う。和葉も蘭も、健気な程だ。 そう想い、応えてやれないから耳を塞ぐしかなく、服部は内心自嘲する。 卑怯だと、判っていた。応えてやる事が出来ないのなら、ちゃんと答えを与えてやるべきなのだろう。けれど卑怯はお互い様でもあったから、言葉に出す事をしない服部は、確かに厳しい一面を持っているのかもしれない。 「悪ぃ、頼む」 「やぁねぇ、何謝ってるのよ。新一らしくないの」 殊更明るい笑顔に、淋しい内心を押し隠す少女の気持ちが、痛々しい程滲んでいる。 言葉を欲しているのが服部には判る。不安な心に、答えを欲しがっている事を、けれど新一は知らないだろう。気付くどころか、想像もしないだろう。卑怯な自分とは又別に、罪な男だと思う。けれど同情する気にはなれなかった。 健気で優しい少女だと言う事は、新一がコナンだった当時からの付き合いだから、その面倒見の良さでも十分に推し量れる。けれど関係を進展させたければ、一歩を踏み出す勇気は必要な事だった。彼女はそれを怠っている。逃げている。答えだけ欲しがって、幼馴染みの関係に甘えている。それだけでは、何一つ進展などする筈もない。だから不憫で健気だとは思うけれど、同情するつもりはない服部だった。それは和葉にも同じ事と言えた。結局自分も言葉をかけてやる面倒に、逃げているのだと、彫りのある面差しに、苦笑を刻み付けた。 「?なんだよ」 嘆息を吐き苦笑する服部に、新一が不思議そうに見上げれば、なお苦笑は深まって、新一は憮然となる。 「なんでもあらへんよ。帰ろか?鉄板焼き、作ってくれるんやろ?」 「どうせ料理じゃねぇよ」 子供に話しかけるような声で話され、新一はますます憮然となる。けれどそれが端から見ていれば、子供のように拗ねた印象が深まってしまう事を、新一は知らないのだろう。そして彼女達が、ますます心を痛めていく事も。 「ねっ…ねぇ。どうせなら、一緒に食事してかない?銀座に、美味しい洋食屋さんあるのよ」 蘭と和葉の淋しげな笑みに、園子が口を挟んだ。 「そうや平次、たまには一緒に、食事付き合うてよ、そんくらい、バチあたらんやろ?」 「昨日押しかけて食ってったんは、何処の誰や?」 「いいやないの、昨日は昨日。久し振りに平次の料理堪能したし、今夜は外食、そうしよ?」 「俺ら今夜は遠慮するわ。事件の事もあるし、いつ電話入るか判らんしな。それに今夜は工藤が鉄板焼き言うとるし、筑前煮食いたいなんて我が儘言うとるし」 「何が我が儘だよ」 リクエストしろって言ったのは、お前ぇだと、新一はボソリと渋面する。 「そっか、すっかり新一、自分じゃ料理しなくなっちゃったんだ、服部君に甘えっぱなしなんだ」 「なんだよ蘭、その甘えっぱなしって」 「自覚ないのね、新一は。料理だって、自炊してきて出来るのに、全部服部君がしてるんでしょ?」 高校入学当時には、新一はアノの広い工藤邸で、一人暮らしをしていた。料理どころか家事一切、今すぐ嫁にいけると、蘭が揶揄したくらいの腕を持っている。 幼少時からの新一は、同年齢の子供より、大人の在る環境に身を置いてきた。それは国際的名女優の母親と、世界的ベストセラー推理作家の父親を考えれば、不思議ではない。だからなのだろう、新一は歳不相応に大人びた面を持っていた。学校にいれば、友人関係は少なくはない、寧ろ多い方だっただろう。けれど一旦校内を出れば、他人との距離感はガラリと変わる。明るく笑っていても、身の裡まで他人を受け入れる事はない。誰かに甘えると言う事も、蘭の記憶にはなかった。元々推理バカと言うくらい推理をしていれば満足な子供だったから、事件を追いかけている方が多かった。常に一人で行動し、一人で対処してきた。他人を頼る事のない新一は、だから今その変化が、哀しい程蘭には鮮やかだった。 甘えている自覚もない程、甘えている。新一と対等に推理が出来て、新一を理解している。幼馴染みの自分でさえ、結局入り込めなかった新一の心の奥まで、服部は入り込んでいる。それを新一が許し、受け入れている現実に、泣き出せれば、楽なのかもしれない。 「初めてやもんね、平次が其処まで他人甘やかすの、なんや妬けるわ」 誤魔化すように笑った笑みに織り交ぜられた台詞は、彼女の吐露だった。 服部平次と言う男は、優しいけれど必要以上に他人に執着もしなければ、甘やかす事もない男だった。常に明るい笑顔が魅力的で人を惹きつけてきたけれど、甘やかす事などなかった。それは事件に関わる服部を常に隣で見守ってきた和葉が、誰より知っていた。だからこそ服部が上京し、新一と出会い、事在るごとに繰り返される『工藤』と言う名に嫉妬した。 最初こそ女かと思っていた相手は男で、まして女以上に整った繊細な面差しを持っている。思春期にありがちなプラトニックの延長線と考えられなくもない。けれど、こうして押し並べて見れば判る。どれだけ服部が新一を大切にしているか。新一が、どれだけ服部を大切にしているか。自分達には説明のできない絆。それも魂の根っこで結び付いているような絆を二人に感じる。それが羨ましくもあり、哀しくもあり、妬みさえする。そして淋しかった。一挙に大人の男の横顔を深める幼馴染みに、更に異性を感じてしまう悪循環。自分が女だという事を意識するのは、こんな時だ。 「狡いわ……」 和葉が、小声で独語する。 「俺ら帰るから、いつまでも、事件現場、うろついてるんやないで」 「んじゃ蘭、被害者の件、思い出したら何時でも構わないから、電話くれよ」 「判ったわよ」 何処までも事件の事ばかりだと、蘭は可笑しくなる。パートナーを得て、更に事件を追い掛けていくのだろうか? 「ねぇ新一、そのメガネ」 「メガネ?」 「そうしてると、なんかコナン君に似てるね」 「エッ?」 蘭の何気ない台詞に、新一ばかりか服部も、ギクリと半瞬表情が強張った。 つくづく女は怖い、目線で語り合う二人だった。 月山といい、蘭や和葉といい、女であると言う事は、他人の感情を読む術に長けている事なのだろうか?そんな風に感じてしまう二人に、きっと罪はないだろう。 「ちょっと違うか、コナン君の方が、10年下なんだから、コナン君の方が、新一に似てるのか。流石遠縁ね」 「アッ…アアッ、そうだな」 コナンと関わった人間から視れば、新一の方がコナンに似ている。そういう解釈になるのだろう。そんな可能性を、二人共綺麗に忘れ去っていた。 「コナン君、元気にしてるって、手紙きたわよ、新一と服部君にも宜しくって」 現在ロスに在住している父親に、頼んで投函してもらったコナンとしての新一の手紙だった。 「そっか」 んじゃ安心だなと、新一は笑って見せる。 「ボウズなら、何処でも元気でやってけるやろな」 新一に会わせた服部の台詞だった。 「それじゃぁ俺達帰るからな、蘭達も食事済ませて、早く帰れよ」 何気ない労りの一言が、時には残酷なものだと、新一は気付かない。推理以外の時では相変わらずだと、蘭は苦笑する。 「アアそうだ、三人に言っとくで。今回の事件、俺ら二人が関わってる事、誰にも言うんやないで」 「なんで?」 「煩いからや」 「対、マスコミ対策。だから言うなよ。好き勝手書かれて騒がれんのは、鬱陶しいんだよ」 「らしくないのね…」 本当、らしくないと、蘭はか細い声で呟いた。 「んじゃな」 ヒラヒラと片手を振り、新一は蘭達に背を向ければ、その隣をごく自然な雰囲気で歩いている服部の姿に、蘭と和葉は複雑な表情をしていた。 いつの間にか、二人で在る事が馴染んでいる歩調、距離が、服部と新一には感じられた。 「狡いや…工藤君…」 「和葉ちゃん…」 「平次、工藤君知ってから、別人みたいや。どんどん遠くなってく、なんでやの?」 「……新一もよ…服部君と知り合ってから、なのかな?私、いつからあの二人があんなに親しくなったのか、それさえ知らないもの」 知らない事ばっかりと、蘭は呟く。 同居する程親密に親しくなっているなど、二人が同居するまで、知らなかった。知った時は、流石にショックだった。 「久し振りに会ったけど、新一君、なんか艶っぽくなったわねぇ?」 園子の台詞に、蘭と和葉は互いに顔を見合わせ、肩を竦めて苦笑した。 園子の台詞を聞いたら、新一は真っ赤になって、否定の言葉を喚くだろう。それが正鵠を射る言葉だと肯定するように。 事象を正確に、覚えてられる事は少ない。 「焦りは禁物、そやろ?」 |