初夏に移ろう季節の夕暮れが遅いとはいえ、流石に6時を回れば、夜の闇が浸食し、周囲は藍色の
空間へと塗り替えられていく。空を焼いていた太陽の残光も今はなく、あるのは等間隔に点在している
住宅街の街灯や、閑静な住宅街を彩る家々の灯だ。
「結局お前、最後まで残ってたな。明日の支度は大丈夫なのかよ?」
知り合ってから今日まで。欠かさず日課になっている桃城の送迎で、リョーマは当然のように帰宅した。桃城の送迎がなかった日は、数える程だ。極当たり前のようにリョーマの送迎をしている桃城に、級
友の荒井などは当初散々小言を言っていたものの、一向に効力のないその小言に、今ではもうすっか
り諦めている。言うだけ無駄だと、学習したのかもしれない。
「別に、支度って言う支度なんて、ないと思うけど」
身軽な動作で桃城の自転車からヒョイッと飛び下りるリョーマに、桃城は呆れた。
「それでも、着替えやなんだかんだ、支度あるだろうが」
幾ら何でも一週間の修学旅行に、手ぶらで行く訳にはいかないから、着替えやなんだと、細かい支度
はあるだろう。尤も、去年の自分を振り返れば、決してリョーマのことを言えない桃城だったけれど。
「女じゃないんだから、下着程度でしょ?」
修学旅行は課外授業の延長線だ。当然市内観光は制服が義務付けられている以上、お洒落をした
い女子ではないリョーマにしてみれば、支度は着替え程度なのかもしれない。
「お前、私服持ってかない気か?」
「持ってくに決まってるでしょ?あんたの」
「………お前、それはサイズ的にどうだよ」
シレッというリョーマに、桃城は半瞬呆れ、深い溜め息を吐いた。
付き合い出してから今日まで。リョーマの部屋には、桃城の日常が持ち込まれて久しい。南次郎には
既に半同棲状態だなと笑われている有様だ。それでも、息子が同じ男に抱かれている事実を、南次郎
が桃城に突き付けたことはない。その鷹揚な余裕が一体何処から来るのか、桃城には判らない。けれ
ど、物言わぬ眼の底で、時折試されているのが判らない程、桃城も無知なガキではなかったから、桃城
に言わせれば、南次郎は掴み所がないと言うことになる。
「上着にするから。パジャマは、無理かな」
小首を傾げ、半瞬考えながら、リョーマは室内にある桃城のパジャマを思い出す。
「そらお前、どう考えても、無理だろ」
リョーマが自分のパジャマを着ることは、最近では滅多になくなっているから、リョーマの指すパジャマ
は、自分のパジャマだと、判らない桃城でもなかった。
「ねぇ?」
不意にリョーマの眼の色が変化したことに、桃城は気付いた。見上げてくる色素の薄い蒼瞳には、薄
い熱が灯っている。
「無茶言うなって」
物憂げに見上げてくる眼差しの意味に、気付かない桃城ではない。それでも、明日慣れない団体行
動に出発するリョーマを見送る身としては、このままリョーマの誘いにのってしまう訳にはいかなかった。
「俺一週間、留守にするんだからいいじゃん」
「支度あるだろ、支度」
「うるさいなぁ、桃先輩、細かい。だったら支度してよ」
「…あのなぁ」
とんでもないリョーマの言い草に、桃城はガックリ肩を落とした。此処でリョーマを突き放せない桃城は、だから過保護だと周囲に言われるのだ。今まで散々甘やかした弊害とは言えないものの、それでも、リョーマが此処まで問答無用で口を聴くのは、桃城が甘やかした結果なのには違いない。
「ホラ早く」
「コラ越前」
グイッと手首を引っ張られ、桃城は観念したように自転車をリョーマの家の庭先に引き入れた。
完全に日本屋敷のリョーマの家は、門から玄関までの短い距離、風流にも石畳が敷かれている。
そして庭には豊かな緑がある。桃城がリョーマの部屋に泊まったり遊びにきたりした時、自転車を停め
る定位置は、縁側のひさしの下と決まっていた。
都心に近い立地で、比較的治安の安定している青春台は、それでも近頃何かと軽犯罪は多い。鍵を
掛けた自転車とはいえ、玄関先に置いておけば、盗難に合う確率は跳ね上がる。
「俺は明日授業があるんだぞ」
自転車を置きながら、それでも諦め悪く呟けば、背後から気配を感じさせず近付いたリョーマは、淡如
に口を開く。
「そんなの明日俺を送ってから、教科書でも取りにいけばいいじゃん」
「………お前、それ本気で言ってるだろう?」
「当然。俺明日早いし」
ガックリ脱力し、肩を落とす桃城を面白そうに眺め、リョーマはシレッと肯定する。
いつも朝練に出掛けている時間と殆ど変わりない時刻、堀尾達と青春台駅前に待ち合わせになって
いる。リョーマは承諾した覚えはなかったものの、堀尾達に念押しされれば、否とは言えないリョーマだ
った。
「第一桃先輩、教科書、教室に置いてるでしょ?」
「そらお前もだろうが」
テニスバッグに、一日の必要教科の教科書は入らない。テニスバッグにはラケットが3本、他にそれ
だけは欠かさず持ち歩いているTシャツやタオルが入っているから、テニスバッグのスペースに、教科書
の入る余地はない。二人共、教科書は大抵教室の机の中だ。
「そういやお前、明日テニスバッグ持ってくなんて言うなよ?」
「……俺だって、其処まで言わない」
「嘘付け」
「笑うな、ムカツク」
「お前らしいなって、思っただけだよ」
憮然と口を開くリョーマがあまりにらしすぎて、愛しさしか湧かないから、桃城はただ緩やかに笑うと、
節のある長い指で、柔髪を愛しげに掻き回す。それが益々リョーマを憮然とさせる。 テニスのできない
一週間は、それが課外授業の延長線とはいえ、リョーマにとって楽しい筈がないことを考慮すれば、ラ
ケットの一本くらい、持ち込んでも可笑しくはないだろうと思ってしまう桃城の推測は、ほぼ正確を射ている。
団体行動を乱すことはないだろうが、何処か時間を見つけ、打ちっぱなしをしないとは限らない。リョー
マにとってテニスは、既に呼吸するのと大差ない程、身の裡の中核を為すものだからだ。
□
「でも桃先輩だって、去年同じだったんじゃないの?」
リョーマはボストンバッグに必要品を詰め込みながら、背後で愛猫の相手をしている桃城に、振り返る
こともなく尋ねた。 一週間の修学旅行に行くことを考えれば、リョーマの荷物は余りに少ない。小さい
ボストンバックにこじまり荷物が収まってしまう。尤も、此処ぞとばかりに意中の男子にお洒落を見せた
いと張り切る女子とは違うから、男子の支度は案外と気楽だ。リョーマの年齢なら、修学旅行の準備は、母親が大半してくれるのだろうが、生憎越前家の主婦であり、南次郎の愛妻の越前倫子は、現在仕
事で渡米中で不在だ。留守を預かる主婦代わりの菜々子も、倫子にくっついて渡米中なのを考えれば、リョーマは明日の支度を自分でしなければならなかった。尤も、渡米する母親が、大半の必要品は買
い置きしてくれていたから、さして問題にはならなかった。だからリョーマの作業は、ボストンバッグに荷
物を詰める程度の簡単なものだ。
「それともなに?女子と仲良くやってて、そんなこと考えなかった?」
意識するより、極自然に同居しているテニスへの餓え。一週間もラケットを握れない苦痛を、桃城は感
じなかったのだろうか?
「お前なぁ、根に持つなって」
リョーマの言い様に、桃城はガックリ肩を落とす。同時に、ネコじゃらしを揺らす手も止まり、カルピンの
抗議の声が上がった。小さい前足が、ねだるように桃城に触れる。
「持ってないよ、純粋な興味。あんたのタラシぶりを気にしても、疲れるだけだし」
「お前なぁ〜〜〜」
「あんた天性のヒトタラシで詐欺師だから」
「言うにこと欠いてそれかよ」
恋人に言うにはちょっとひどい科白に、桃城は大仰に溜め息を吐くと、自分に薄い背を向けているリョ
ーマの背後に気配もなく近寄り、華奢な躯を両腕の中に抱き込んだ。
「天性のヒトタラシは、お前の方だって」
抵抗もなくあっさり腕に収まった華奢な躯。そのくせこの華奢な躯の内側には、桃城も計り知れない
闘志が秘められている。コートに立てば、小柄な体格などリョーマにとってさして問題にもならない。
凛然とした気配を纏い、戦場に等しいコートに立つのだ。リョーマが何より綺麗に映る、回帰される場所
は、荒野に等しいコート以外有り得ない。
「辛いなぁ」
背後から自分を抱き込む桃城が、ポツリと漏らした声に、リョーマは不思議そうに視線を移した。
「辛かった、じゃないの?」
「辛いでいいんだよ」
「何それ?」
「お前がテニスできなくてつまらないなら、俺はお前をこうして抱き締められないのが辛いなぁって」
「………あんた心底莫迦?」
たかが一週間じゃん、そう笑うリョーマは、けれどそのたかが一週間、テニスができなくてつまらない
と言っているのだから、所詮似た者バカップルだ。
「ホァァ〜〜」
放り出される恰好になったカルピンが、そんな二人に抗議の声をあげ、リョーマが身支度しているボス
トンバックに前足をかけ、中身を覗き込むようにまろい瞳を瞬かせている。
「カルでも連れてこうかな」
まるで立ち歩きを覚え始めたばかりの赤ん坊が、中身を覗き込むようにしているカルピンの姿に、リョ
ーマが嘘とも本気とも判らない独語を漏らせば、桃城は苦笑しかできなくなる。
「越前、お前今本気の科白だっただろう?」
「カル、一緒にくる?」
尻尾を振りながら、バッグの中身を興味津々で覗き込んでいる愛猫の柔らかい躯を抱き上げ、頬擦り
を繰り返す。
「ママァ?」
「やっぱタヌキ、お前のことママって呼んでないか?」
近頃どうにもカルピンの鳴き声が、リョーマをママと呼んでいる気がしてならない桃城だったが、別段
それは桃城の幻聴ではなかったらしく、リョーマ当人にも、南次郎にもそう聞こえるらしい。されをして南
次郎に、新婚夫婦と言われてしまっているのだ、二人は。
「あんたや親父が、ふざけてそう呼ぶからでしょ?」
別にそれは俺の所為じゃないしと、リョーマは愛猫と戯れ始めた。
「コラ越前、お前明日の支度の続きがあるだろうが」
今まで見ていて、リョーマがバッグに無造作に放り込んだのは、代えの下着だけだった。ただ単純に、気乗りしない旅行支度に、リョーマが飽きたのだと判らない桃城ではなかったから、深々溜め息を吐
き出すと、腰を上げた。ここいらあたり、桃城がリョーマに過保護だと言われる所以だ。
「桃先輩ってさ、案外大和撫子だよね」
ねぇ、カル?と、愛猫とベッドの上で戯れ始めたリョーマは、溜め息を吐きつつもクローゼットの扉を開
けている桃城に、笑みを覗かせる。
「………お前その科白、甚だしく使用方法間違ってるぞ」
それも果てしなく間違っている。
クローゼットの中に頭を突っ込んでいた桃城が、リョーマの科白に不意打ちを食らったとばかりに、ガク
ッと前のめりに脱力する。
幾らなんでも図体のでかい自分に、その科白は如何なもんよ?桃城は内心で突っ込みを入れていた。
「なんで?あんたみたいなの言うんじゃないの?」
「お前……誰にそれ聴いた?」
「不二先輩と菊丸先輩」
「………あの人たちは〜〜〜」
それなりに本は読むくせに、国語が苦手なリョーマに、どうせろくでもない入れ知恵をしたのだろう36
コンビに、桃城は内心悪態を吐いた。リョーマが本気でそれを信じているとすれば、今すぐ此処で、大訂
正をしなくてはならない。そんな科白を外部で言われたら、ろくでもない尾鰭が付くのは眼に見える。
「案外かいがいしくマメだし。言われてああそうかもって思ったんだよね」
「お前にだけだろうが」
「当たり前でしょ?俺以外にそんなことしたら、ただじゃおかない」
「まったくお前は、突拍子もないこと言い出すなよ」
「桃先輩、そこに入ってるあんたのシャツ、入れといて」
「お前、マジで持ってくのかよ?」
クローゼットに入っている桃城のシャツは、数枚ある。けれど桃城は、リョーマの言うシャツがどの種類
を指しているのか、よく判っていたから、それをハンガーから取り外すと、適当に畳み、バッグにいれて
やる。こんな部分が大和撫子だと不二や英二に言われる自覚は、けれど生憎桃城には皆無だから始
末に悪い。
「当然。別に可笑しくはないでしょ?」
「一回りは大きいだろうが」
「Tシャツの上にでも羽織れば丁度いいし」
クローゼットに入っている、長袖の黒い綿シャツは、リョーマのお気に入りで、最近では持ち主の桃城
よりリョーマが着ていることが多かった。殆どリョーマ専用と言っても間違いではない。今もそうだ。
室内に居る時、大抵リョーマは桃城の衣服を身に付けていることが多く、桃城の服を身に付け、愛猫
の長毛で毛だらけにしている。けれどそれを桃城が咎めたことは、一度としてなかった。
「ねぇ、桃先輩」
カルピンを抱っこしながら、リョーマが少しばかり甘えた声を出し、ヒラヒラ手招きする。
「まったく、お前、俺を先輩だと思ってないだろう」
「当然、あんた俺の恋人だから」
それとも先輩が優先した方がいいの?リョーマが意味深な忍び笑いを漏らせば、桃城は苦笑し、白く
細い指をヒラヒラ揺らすリョーマに近寄って、ベッドの端に腰掛けた。
「俺いないのいいことに、羽目はずしたら、浮気してやる」
「お前〜〜〜一体いつ俺が羽目はずしたよ」
言うに事欠いてそれかよと、桃城は深い苦笑を滲ませると、横着に寝転がりながら、愛猫と戯れてい
る細い躯の両脇に腕を付き、体重を掛けずにのし掛かる。今までリョーマと戯れていたカルピンが、突
然できあがった影に、キョトンとまろい瞳を瞬かせ、頭上にある桃城を見上げ、甘えた鳴き声を上げた。
「女子とツーショット撮られたり、抱き付かれたり?」
「お前こそ、迂闊に抱き付かれたりするなよ?」
「そんな物好き、桃先輩以外誰がいるって?」
吐息が触れ合う間近で見つめ合いながら、リョーマはクスクス可笑しそうに笑い、到底鋭い打球を打
つとは思えないほっそりした腕を桃城へと伸ばした。
「お前、自分のことに無自覚すぎるからなぁ」
伸びてきた細い腕が、緩やかに首に回るのを感じながら、桃城の武骨な指が、瀟洒な面差しを包み
込む。
部活途中、フラリと現れた乾の科白ではないが、リョーマは自分の容貌に無自覚すぎる。それはまる
で、与えられた天からの才と引き換えのように、リョーマの性格はテニスに対して一極集中だ。その所
為で、どうにもテニス以外のことには無頓着で、後回しになる傾向がある。少しは自覚してくれという桃
城の吐露は、恋人なら当然のものだろう。
「辛い?」
頬を包まれる柔らかい温度に、リョーマは小首を傾げ、悪戯気に笑う。
自分を抱き締めることのできない一週間は辛いと言った桃城の呆れるる科白に、自分もそうだと、リョ
ーマは半瞬だけ何とも言えない貌を垣間見せる。
テニスのできない一週間に加え、桃城ともいられない。こんな時、たった一つしか違わない年齢さを恨
めしく思う。せめてテニスができないなら、桃城と一緒にいられればいいものを。こんな恋情は、桃城と
出会いさえしなければ、知らずにすんだものだった。それが時折、身の裡が痛む切なさをもたらしてくる。けれど今はもう手放せない痛みになっているのが、リョーマには不思議だった。
「迎えに行くから、ちゃんと羽田に着いたら、メール寄越せよ」「あんた過保護すぎ。部長がそんなんでど
うするの?」
地区予選が開始される今、無駄にできる時間は欠片もない筈だ。それでなくても青学テニス部は去
年全国の強豪を打ち破り覇者になったのだ。誰もが打倒青学を合い言葉に、挑んでくる。その中で、部
長の桃城が一部員を、これ以上眼に見えるカタチで過保護に甘やかしていては、他の部員に示しが付
かないだろう。
「バーカ、何の為に海堂が居るんだよ」
「海堂先輩は副部長。あんたは部長。それぞれの立場があるでしょう?」
「俺が一日居なくてどうにかなるテニス部なら、全国なんて勝ち進めないさ」
クシャクシャと、柔らかいネコっ毛の髪を愛しげに掻き回す。
「だからお前は、ちゃんと連絡寄越せよ」
携帯を持ってはいるものの、殆ど活用しないリョーマのことだ。滅多なことで、メールなど打ってはこな
いだろう。年を押し過ぎて押し過ぎることはない。
子供達ばかりか、大人社会でさえネット依存症の増える中。リョーマも桃城も、必要事項以外、殆ど
携帯を活用しない生活を送っている。四六時中顔を合わせているから、さして切羽詰まって携帯を使用
する気にもなれなかったし、必要も感じられなかった。
「それと、なんかあった場合もな」
「何かって何?あんた本当、過保護すぎ。たかが一週間の、それも修学旅行で、一体何があるって思う
訳?」
甘やかされている自覚は今更なものの、此処まで過保護だと些か心配してしまうリョーマは、けれど
自分のことにも無頓着だからこそ、桃城が此処まで過保護にしているのだと、自覚は皆無だから始末
に悪い。こういう部分で、二人の性格は案外擦れ違っている。
「莫迦だね、本当にあんたは」
密やかな吐息で囁くと、情事の最中の艶冶な気配を滲ませながら、リョーマは仕方ない人と、桃城の
首に回した指に僅かに力を込めた。
「お前がもちっと、自分のことに執着してくれたら、俺の気苦労も少しは減るんだけどな」
「何それ?意味判らないよ。それを言うならあんたこそ、その詐欺師っぷり、どうにかしたら?」
男子にも女子にも友人知人の多い桃城は、明け透けな笑顔を盾に、他人との距離感を曖昧にするこ
とに長けている曲者だ。だから女を勘違いさせるのだと、少しは気付けと思うリョーマだった。けれど素
直に口に出す気もしないのは、それがらしくない独占欲と、嫉妬だと判っているからだ。自分で気付け、
そう思う。
「悪党で曲者で詐欺師なんだから」
「その詐欺師が、お前は死ぬ程好きだろう?」
「俺に詐欺働ける程、あんたに甲斐性あるなら、もっと惚れてあげますよ?」
まるでガラスケースにいれるかのように慎重に扱われて、既に周囲からは眼に入れても痛くない所が、眼に入れてしまっていると言われている桃城だったから、自分に詐欺行為でも働ければ、それはある
意味甲斐性だろうとリョーマが思ってしまっても、罪はないのかもしれない。
「生憎恋人には、誠実が俺の売りなんでな」
「自分で言う?」
クスクス可笑しそうに笑うリョーマをひどく愛しげに眺め、不意に武骨な指が頬を撫で、長い前髪を好き
上げていくのに、リョーマはキョトンと無防備な貌を作り出す。
「軟派なんて、されてくるなよ」
「莫迦?」
嘘か本気か判らない桃城の微苦笑の背後に、一週間離れていることに対する心配も見えてしまうか
ら、リョーマは呆れると同時に、やはり桃城は過保護だと苦笑する。
「本当に心配性。たかが一週間でしょ?」
「あ〜〜〜お前なんで俺と同じ歳じゃないんだよ」
「駄々っ子みたいに、我が儘言わないでよ。それ言うなら、なんであんたは俺と同じ歳じゃない訳?」
何処から本気で何処から嘘か判らない曖昧さに、リョーマはやれやれと溜め息を吐くと、
「気が向いたら、メールして上げます」
桃城の首に絡めた腕に力を込めると、その意味を見誤ることのない桃城が、ゆっくりリョーマの身に覆
い被さっていった。
「あんたって、こういう部分、甘えたがりだよね」
それでも甘やかしてしまいたくなる要素を持ち合わせている桃城は、だから悪い男だと思い、リョーマ
はクスクス可笑しそうに笑い、桃城の口吻を受けた。
□
「じゃぁ、気をつけて行ってこいよ」
堀尾達と待ち合わせの青春台駅の改札前、桃城の自転車から降りたリョーマの表情は、些か憮然と
したものだった。その様子に、桃城は苦笑しかできない。それはーマの機嫌の悪さが、自分の昨夜の
行動だと、判りすぎる程、判りきっていたからだ。
結局今日修学旅行に出掛けるリョーマに配慮して、桃城は昨夜帰宅した。それがリョーマの機嫌の悪
さだったが、慣れない団体行動に出発するリョーマに、無理をさせたくないという桃城の意見は、最後ま
で平行線だった。リョーマに言わせれば、慣れない団体行動に出掛け、あまつさえ一週間離れている
のだから、そんな時くらい桃城を身近に感じたかったということになる。それはそれで愛されてるなぁと
莫迦な感慨に耽る桃城だったが、生憎自戒も理性も周囲の中学生以上に持ち合わせていたから、結
局リョーマと平行線の意見のまま、昨夜は別れた。
「コラ越前」
出掛ける前から拗ねてるなと、桃城がクシャリと髪を掻き回せば、その手を払い落とすことなく、色素
の薄い蒼眸が眇め見た。
「帰って来たら、覚悟してよ」
「ああ。帰って来たら、幾らでも相手してやるから」
「その言葉、忘れないでよね」
情交の約束を取り付けるにしては、果てしなく色気の欠いた会話だった。その所為で、堀尾達はてっ
きりテニスのことだと思っているのか、リョーマの傍若無人な科白に、やれやれと呆れ顔をしてる。
堀尾達にも、判っているのだ。リョーマがこんな口を聴くのは、テニス部を見渡しても、桃城一人にだと。だからこれがリョーマの甘えなのだろうと、漠然と気付いていた。既に彼等にも、二人のこんな会話は見慣れてしまったものなのだろう。以前なら横から口を挟んでいた堀尾も、毎回ことに慣れてしまっている。口を挟むだけ、無駄だと学習したのかもしれない。
「堀尾達も、気を付けて行ってこいよ」
「ハイ」
生徒の自立性を重んじるという教育方針の元、修学旅行や遠足は、現地集合現地解散が大抵の青
学は、今回修学旅行は、羽田集合羽田解散になっている。尤も、集合時刻が決められている以上、皆
似たような時刻に待ち合わせをして、出掛けるから、青春台駅周辺は、青学の修学旅行所為が、それ
ぞれの友人達と待ち合わせをしてるのだろう。結構な人数が集まっている。その中でも、先輩に自転車
で送ってこられたのは当然リョーマだけだったから、周囲から注目を浴びている。とはいえ、中等部では、既にリョーマが桃城の送迎付きだというのはかなり有名になっているから、修学旅行まで後輩を見送りに来てしまう桃城の過保護ぶりに、周囲は案外呆れていた。そこまで後輩を可愛がる先輩も珍しいからで、何処も体育会系は縦割り構造が基本だから、その垣根を取り外し、親密な二人が少しだけ羨しいからだ。
「桃先輩、九州はカステラが有名なんでしょ?」
「お前本気で、俺の家に送り付ける気だな」
「菊丸先輩に文句言われたくないんで」
送りますから、ちゃんと菊丸先輩に届けて届けて下さいね。リョーマはクスリと笑うと、堀尾達と改札に
向かった。
「気を付けてけよ」
「………過保護…」
背後からかかる声に、リョーマは呆れて苦笑する。小声で囁いた独語は、隣を歩く堀尾にも聴かれな
かったのか、堀尾は賃金表を見上げている。僅かに遅れ、朋香と桜乃も現れて、一挙にその場は賑や
かになる。それを眺め、桃城は安心したように笑った。そりでもリョーマが改札の奥に消えるまで見送っ
ているあたり、桃城は莫迦みたいに過保護だ。
そんな桃城をリョーマも判っているのだろう。背後から柔らかく凝視される視線に、振り返れば、自転
車に跨がったまま、桃城はリョーマを見ている。
一体何を心配しているのか甚だ判らないものの、心配されているのだけは判るから、リョーマは呆れ
た貌を刻み付け、
「マダマダ、だね」
音にせず、口唇だけでカタチを作り出し、リョーマはヒラヒラ手を振った。
「ったくあいつは」
一体何処まで判っているのか苦笑する。それでも、堀尾達と連れ立って歩く後ろ姿に安堵し、桃城は
漸く自転車を漕ぎだした。
朝練残り時間までは未だ時間があった。地区予選が開始される今。リョーマの言うように、確かに無
駄にできる時間は欠片もなかったから、
「頑張るしかねぇな」
受け継いだもの。託されたもの。そして次代に託すもの。
それはまるで、綺麗な円環を描き出すようだったから、桃城は一時も時間を無駄にするつもりはなかっ
た。
初夏の早朝、爽やかな空気が、周囲を包み込んでいた。
‖閉ざされた悲鳴‖
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