閉ざされた

  

SCENE3:始まりの一夜









「俺、今夜泊まってっていいですか?」 
 抑揚を欠いた静かな声が、室内に落ちる。頭に巻いたタオルから、雫が伝った。
浴室からリョーマを抱き抱え戻ってきた時。桃城が南次郎に尋ねた言葉は、それが最初だった。尋ねな
がら、桃城は壊れ物を扱う慎重さで、力の抜けきっているリョーマの躯を、ベッドに横たえた。
 トサリと、擬音が響きそうな軽い音を立て、細い躯は力なくベッドに沈み込み、清潔に敷かれたシーツ
が撓んだ。力なくベッドに横たわる細身の姿態。南次郎は、浴室で何があったのか、訊くことはなかっ
た。
「今更、許可とるようなことじゃないだろ」
 南次郎は、リョーマの勉強机の椅子に腰掛けたまま、桃城の背中を見ていた。
一体どれ程の覚悟があれば、これ程泰然としていられるだろうか?自分が中学時代は、テニスをして、
女の子とデートして、もっと青春というものを謳歌していたように思えると、南次郎は桃城の強靭さを、思
い知る気がした。
 元々他人に懐くことの少ない性格のリョーマが、掛け値なしに懐いた部活の先輩というだけでも、当
時の南次郎には晴天の霹靂に思えた。けれどそれがただの先輩後輩という関係ではなかったと判った
のも、案外早い時期だった。
 去年の今頃。丁度暑苦しい学生服が、夏服に変わる頃。それは判ったことだった。それは偶然にも、
リョーマの白い肌の極一部に、目立たないように付けられていた淡紅色の痕に、南次郎が目敏く気付
いたからだった。尤も、今は仕事で渡米しているリョーマの母親の倫子とて例外ではないから、付き合
いだして1年も経過してしまった桃城の存在は、リョーマの両親には咎められることなく受け入れられて
久しい。
 それが元々アメリカでの生活が長かった所為なのか、恋愛は所詮嗜好の問題だと割り切っているか
らなのか、甚だ得体のしれない面の存在するリョーマの両親は、二人を見守るだけの強さを持ち合わせ
ていることだけは、桃城にも判っていた。だから今更、半同棲状態に近い割合で、リョーマの家に宿泊
する回数が増えていくばかりの桃城は、開き直りの境地で、リョーマの部屋に、着替えの服などを置い
ている。
 そんな桃城だから、南次郎にとって、宿泊許可を求められることなど、今更でしかなかった。まして今
のこの状況で、桃城が帰宅してしまうことは、むしろリョーマにとって最悪な事態を生む可能性を秘めて
いる。
「ただし、お前もシャワー浴びてこい」
 リョーマを浴室から連れ出した時に濡れたのだろう桃城は、この部屋に現れた時、全身ずぶ濡れ状態
だった。
 南次郎の科白に、桃城は半瞬だけ困ったような表情を覗かせた。今リョーマの傍を一時でも離れてい
たくはないという、無言の言葉だと、判らない南次郎ではなかった。
「風邪引いたら、色々面倒だろうが」
 色々の中に含まれる言葉は、幾重か在った。
テニス部々長として、再び全国大会出場を掛けた戦場に出向く今。風邪など引くのはプレヤーとして、
自己管理能力を疑われることになる。そして何より、リョーマを支える覚悟があるなら、これから続くだろ
う事態に、シャワーを浴びる一時の距離に逡巡されては、結局潰れることに繋がるからだ。
「判りました……頼みます…」
 こんな時、南次郎が大人なのだと、桃城は思い知らされる。底に潜む苦悩など、子供の自分の前で
は、決して曝すことはない。それが大人の深慮なのかと言えば、こんな事態に取り乱す大人というもの
は珍しくもないだろうから、それが南次郎の生来のものだろうと思う桃城だった。
「未だ、嫁にやった訳じゃないぞ」
 無意識に出た言葉だからこその所有の顕れなのだと、南次郎は気付いている。リョーマの父親である
南次郎に、桃城が『頼む』という科白は、ある意味、見当違いなものだからだ。
 南次郎の苦笑混じりの科白に、桃城は自嘲とも苦笑とも判らない笑みを滲ませると、ソッと室内を出
て行った。
 出て行き際、リョーマに視線を移し、半瞬凝視した視線に、南次郎は長い溜め息を吐き出した。
 きっと辛いのはこれからだろうと、何処かで判っていた。
 権利と覚悟だと言っていた桃城の科白。それは偽りではないだろう。それはたった今。室内を出て行
った桃城の視線からでも、簡単に推し量れるものだった。けれど覚悟だけで乗り切れるものと、そうでな
いものは確実に存在する。桃城より生きてきた年数がある分、南次郎にはこれから先、リョーマが味わ
うだろう苦悩が、手に取るように判った。
 氾濫する情報の中。メディアからでも判る性犯罪被害者が歩む苦悩は、簡単なものではないと、南次
郎には判っていた。きっと桃城も判っているからこそ、出た科白だろう。
「戻って…こい」
 今は穏やかな寝息を立てているリョーマの、憔悴しきった貌を見下ろし、南次郎は呟いた。
力なく崩れるように寝ているリョーマが着ているものは、細身の躯には一回りは大きい桃城のパジャマ
だ。きっとリョーマが何より安心するだろうものを、桃城はちゃんと判っているのだろう。
「お前の彼氏は、自分も無傷じゃいられないって、覚悟してくれたぞ?」
 乱れている前髪をサラリと梳くと、帰宅途中の桃城が思い出された。
 薄暗い沈黙した車内。自分も無傷ではいられないと覚悟した桃城のその強靭さに、救われたのはリョ
ーマだけではないだろうと、南次郎は更に苦笑を深めた。










 桃城が手早くシャワーを浴び戻ってきたのと入れ変わりに、南次郎がシャワーを浴びに出て行った。
こんな時、女性陣が居なくて良かったのか、不在の方が幸いだったのか、桃城には判らない。リョーマ
の母親が居てくれたら、もっときめ細かい部分で、リョーマの内側に刻み付けられた疵を、抱き締めてや
れたのだろうか?それとも、女性陣には些かハードすぎるリョーマに身の上に起きた事実に、不在の方
が幸いだったのか、桃城はリョーマの寝顔を見ながら、考えていた。尤も、考えて、出せる答えは何一
つないことも、承知していた。それは桃城が考えて、及ぶ範囲の部類ではないからだ。ただと、思うだけ
だった。もし母親がいたら、リョーマはもっと安心していられたのではないだろうか?冷水のシャワーを
浴びることもなく。疵を広げることもなく。ただ単純に、そう思っただけだった。
「俺は、お前に何してやれるんだろうな?」
 ベッドサイドに椅子を置き腰掛け、桃城は繊細に縁取られた寝顔を眺め、指先に慣れた感触をもたら
す柔らかい髪を梳いた。サラリと流れていく髪。見事な黒髪だけに、蒼く透き通る白い貌が際立って見
えた。閉じた瞼に落ちる、色濃い陰影。時折長い睫毛が揺らぎ、桃城を心配させたが、閉ざされた瞼の
奥、色素の薄い蒼眸から、透明な光が流れてくることはなかった。
「越前…」
 付き合いだしてからの時間は、1年近くが経過しようとしている。二人の関係が、キスからそれ以上に
進展したのも早かった。求めたのは桃城が最初でも、リョーマは一度として拒んだことはない。
 番う度、桃城の腕の中で変容していく綺麗な綺麗な生き物。羞恥しか感じさせなかったものが、物慣
れた様子で口唇を開きキスを求め、下肢を開いて褐色の腰に絡み付かせ、幼い胎内に、雄を迎えいれ
る官能に埋没することをリョーマが覚えたのは、早い。桃城という存在を、貪欲に身の裡に覚え込んで
いくかのように、リョーマは桃城と番う行為で、綺麗に変容していった。その反面、日常的なリョーマは
何処かストイックな面が存在し、性的な部分とは、一切無縁の印象が強いのもまた事実だ。
 きっと二人の関係に気付かない、今は一人を除いては、高等部に進学した当時のレギュラー陣以外、リョーマは未々テニスしか知らない子供で、性的なものなどは一切無関係な暮らしをしていると、周囲
の人間は信じているだろう。
 だから桃城がこうして、じっくりリョーマの寝顔を見ることは、珍しいものではなかった。躯の関係がで
きあがった時から、桃城は家族以外誰も知らないだろうリョーマの穏やかな寝顔を見ることを、密かな楽
しみにしていた程だ。その都度リョーマに呆れられていた桃城だ。
 綺麗な顔だと思う。綺麗という言葉は、世間一般では男に使用する表現ではないだろうが、桃城には
その言葉しか思い付かなかった。
 これ程綺麗なのだから、アメリカで想いを告げられた一人や二人は居ただろうに。リョーマはテニスし
か振り向かず、きっと好かれた意味さえ理解できなかったのかもしれない。そんなリョーマが応えてくれ
た意味を、桃城は正確に理解している。
 一つ一つのパーツが、小作りな輪郭に揃って収まっているその端整さが、綺麗な印象を深めている。
けれどその綺麗さには、脆弱なものなど、今までなら一切なかったものだ。けれど今は違う。力なく横た
わる躯からは、一切の活力が失われてしまっている。こうして眠る姿を目の前にしても、桃城は安心な
どできないというのが、正直な本音だった。
 今のリョーマは、稀薄すぎるのだ。生気そのものが綺麗に喪失してしまっている感触が、桃城には生
々しすぎた。
「頼むから……笑っててくれよ……」
 そう願う願いは、リョーマの前で言葉に出せば、きっと追い詰める言葉だろうと判っているから、桃城
はそっと密やかに祈るように呟き、力なく投げ出されているリョーマの片手を、そっと掬い上げた。
 リョーマの笑顔を見たのは、一週間前だ。たった一週間前のことだ。
修学旅行という団体行動は、帰国子女のリョーマにとって、日本では初めてのことだった。元々周囲と
歩調を合わせるのが苦手なリョーマにとって、始終クラスメイトと一週間も一緒に居るというのは、それ
なりにストレスの溜まるものだと、桃城も南次郎も予測できていた。
 それこそ最初は修学旅行になんて行かないと、冗談とも本気とも判らない口調で言っていたリョーマも、それが課外授業だと判れば、行かない訳には当然いかず、渋々という態で旅行に出掛けて行った。
それが一週間前だ。
 羽田集合、解散という、生徒個人の自主性と独立性を重んじる青春学園の校風は、徹底された『文武
両道』だった。当日、桃城はやはり羽田迄送るといってはリョーマに呆れられていたから、朝いつも通り
迎えにきて、学校ではなく、青春台駅まで送り、改札に消えるリョーマを見送った。その時のリョーマの
笑みが、桃城には鮮やかだった。
 九州って、カステラ有名なんでしょ?桃先輩の家に送るから。そう笑い、改札に消えていった華奢な姿。改札では一年生トリオの堀尾達と会い、4人で羽田空港へと向かっていった。改札の向こう側。いつ
までも気配の消えない桃城に気付いてか、リョーマは一度振り返ると、呆れた表情で、まだまだだねと、呟いて笑った。それは桃城には読唇術など必要とはしない程、極自然に読み取れた口唇の動きで、
カタチだった。リョーマの姿が完全に見えなくなってから、桃城は漸く自転車を漕ぎ出し、完全に練習開
始時間には遅れ、朝練に参加したのだ。
 それが桃城の見た、リョーマの最後の明るい笑顔だった。
一週間。たった一週間離れていただけだ。無事空港まで帰り着いて、まさか帰宅途中の車内で性犯罪
に遭遇するなど、誰も予想などしないだろう。それはまるで、犯罪は何処にでも転がっているのだと、桃
城に教えているかのようだった。
 一週間前とは、まるで面差しが変わってしまったようなリョーマの憔悴しきった、表情の落ちた貌。
たった数十分のことが、リョーマの表情を奪ってしまったその残酷さに、桃城は口唇を噛み締め、ベッド
に横たえたリョーマの寝顔を見詰めた。
 所詮どう言い繕ってみたところで、どれ程の覚悟を決めてみた所で、所詮他人事なのかもしれないと、桃城はリョーマの手を握り締め、口唇を寄せた。
 これから先、リョーマが味わうだろう残酷さを、自分は見ているしかできない無力さを、桃城は良く判っ
ていた。リョーマが味わった痛みは、所詮リョーマにしか判らないものだ。リョーマが背負わされた疵や
痛みや恐怖すら、その一部すら、桃城に肩代わりしてやれるものは一切ない。それは少しばかりの願
いと祈りを掲げた、子供の繰り言なのかもしれない。所詮、誰かの背負わされた痛みや疵を、肩代わり
してやることなど、誰にもできないのだ。
 それでも、それでもと、桃城は握った指先に口唇を寄せ、真摯な面差しに色濃い苦悩を刻み付け、呟
いた。此処最近鋭角になっていく輪郭に、濃いグレーの影が落ちる。その苦悩を見ている者は、今は誰
も居ない。
「それでも俺は、お前を守りたいんだ…」
 それはまるで、真摯な誓のようだった。
何一つ守ってやることもできなかった。無残に傷つけられて、生涯消えないだろう痛みを背負わされて。
今更何も守ってやるものなどないのかもしれない。けれどと、桃城は願う。
 誰かの為に、何かをしてやれると高慢な思いを持つ程、桃城は子供ではなかった。だから桃城が考え
たことは、ひどく現実的なものでもあった。それはこれから先、リョーマを襲うだろう残酷な苦悩を予測し
てのものだった。
「よぉ、ちょっと付き合え」
 そんな桃城の思考回路を切断するかのような、相変わらず底の見えない声を軽口に紛らせ、南次郎
が扉を開いた。片手には缶ビールが持たれていて、桃城はそれがなんとも南次郎らしくて笑った。
 もう南次郎にはバレている。警察官の父親を持つ桃城が、中学生の身分で、ビールは水と変わりない
と言えてしまう程、呑み慣れていることを。
「先は長いんだ」
 だから肩の力を抜かないと、お前が先に潰れるぞ。そんな南次郎の声が、桃城には聞こえた気がした。言外にもたらされた言葉の意味が読める桃城だからこそ、これがプロ当時、37連勝という奇跡の記
録を持つ南次郎の、本質的な精神の強さなのだろうと思えた。











「親なんて、実際何の役にも立たないもんだな」
 其処は桃城にとって、既に勝手したたる他人の家以上に、通い慣れてしまった、キッチンと隣接してい
る和室だった。
 料理の得意なリョーマの母親と従姉妹とが、笑いながらキッチンで料理を作っている光景が、桃城の
脳裏をよぎる。その時のリョーマは、年相応の顔をしていたように桃城には思えた。 リョーマの母親で
ある越前倫子は、日本に進出しているアメリカ企業の渉外法務部門の担当弁護士で、今はアメリカ本
社に呼ばれ、渡米している。将来は、倫子のような渉外弁護士を目指したいと、リョーマの従姉妹であ
る菜々子は、倫子にくっついて渡米している。だから越前家には現在女性の姿はない。
 短期間なら、それはそれで男だけの空間というのも悪くはないと思えるが、こんな事態では、そう呑気
なことを言ってはいられないことも確かだ。それでも、桃城には判らない。今この場に、リョーマの母親
の倫子の姿がなくて幸いだったのか。
「叔母さんには?」
「あいつも仕事であっち戻ってるしな」
 未だ連絡はしていないのだと告げながら、南次郎はビールを呷った。いつもよりペースの早いその飲
み方が、今の南次郎の精神状態なのだろう。
「あいつが居たら、少しはマシなのかも、しれないけどな」
 男親は、こんな時には何一つ役にたたないと、苦笑する。
「バアさんには、どうしますか?」
「ババアには、俺から連絡するしかないだろうな」
 この場合のババアとは、当然竜崎スミレのことだ。南次郎にとって竜崎スミレは、自分を世界に押し出
した恩師で、そして今はリョーマを孫のように可愛がっている、テニス部顧問だ。
 ババアとは、南次郎が中学生当時からスミレにだけ用いているもので、それは今では桃城と南次郎
の間では形容詞になっている。けれどだからこそ逆に、南次郎にとって、スミレは今でも恩師なのだと
言うことを、桃城は知っていた。
 スミレをババアと呼ぶ時の南次郎は、ひどく懐かしい眼をしているからだ。今でも変わらない呼び名で
呼び続けているその他人行儀のなさが、二人の距離の近さを現してもいるかのように思えた。
「………一度は、越前を、病院に連れていかないと、行けないですね」
 その為には、信用のおける病院を選ぶ必要があった。
「お前が言ってるのは、感染のことか?」
「精神的ケアと併せて、心配する必要、ありますから」
 これが女性なら、妊娠の問題も心配しなければいけないのだ。
「バアさんなら、知ってると思うんですよ」
 長く青学でテニス部顧問を勤め、試合や練習で怪我をした生徒に付き添い、病院に行っている竜崎だ。信用のおける病院や医師の知り合いは、一人や二人は居る筈だった。
「それと、カウセリングを」
 犯罪被害者の受ける心の疵は、どれ程腕を差し出した所で、素人には限界があることを、桃城は知っ
ていた。だから早期の段階で、カウセリングを介入させることが有効であることも、判っていた。尤も、そ
のタイミングが難しいのは、言うまでもない。カウセリングに必要なのはラポールであり、あくまでカウセ
リングを受けようとする意思がなくては、成立しないからだ。
「お前は、本当に怖いな」
 普通中学生と言えば、もっと世情には無関心で、自分の楽しみだけを優先させているものだろうに。
目の前にいる子供は、ただの子供ではないのだと、南次郎は思い知らされるかのようだった。それは言
い換えれば、どれだけ自分の息子が、この男に大切にされているのかということにしかならないからだ。
「父親の、受け売りですよ」
 父親の仕事が仕事だけに、どうにも世間で発生する凶悪犯罪というものを、無視できなくなった結果
だった。取りあえず、新聞には眼を通している。感情を廃棄した新聞というものからの方が、身近な部分
で入手するなら、情報は入手しやすいことを、桃城は知っているのだ。週刊誌になどなれば、書き手の
感想と私情が入ってくるから、情報というものの価値はなくなってしまう。
「諸々あわせて、バアさんに相談するのも、手段の一つかと思ったんです」
 リョーマの身の上に起こったことを、顧問の竜崎に知らせない訳には行かない。だとしたら、長年教師
をしている竜崎に、相談してしまうのも一つの手段であることを、桃城は感じていた。
 長年教師という職をしてきている竜崎だ。生徒達からの信頼も厚く、相談ごともよく受けている。それ
は裏を返せば、口が堅いと言うことだ。だから安心して、思春期の話しを、竜崎には誰もが口に出すの
だろう。長年の教師歴だけで、生徒は簡単に教師を信用しない。だとしたら、信用されるだけのものが、
竜崎にはあると言うことだろう。だから桃城は竜崎に、諸々のものをあわせ、相談する現実的な手段を
模索していた。
 これからリョーマの身の上を襲うだろう残酷な苦悩を判っているからこそ、憔悴した寝顔を見詰め桃城
が考えていたのは、リョーマの負担を少しでも軽くできる、現実的な方法だった。
 ドラマや小説や漫画に出てくるような安易さなど、現実には何一つ起こらないことを、桃城は正確に理
解していた。抱き締めることは簡単だ。そしてそれは随分大切なことだとも判っている。けれどそれだけ
で解決できる程、中身は簡単なものではないことも、桃城はちゃんと認識していた。
 抱き締めて、壊れそうに細い躯を抱き締めて。大丈夫だと言ってやればリョーマの疵が治るなら、何
回でも何百回でも、そうしてやれる。けれど現実は、そんなに甘いものではない。素人には、やはり限
界点というものがある。
「奇遇だな。俺もお前と同じ考えをしてたよ」
 そんな軽口で、南次郎は桃城の言葉を肯定した。そんな時だった。重苦しい空気を変えたのは、聞き
慣れた愛嬌のある鳴き声だった。
「ホァラ〜〜〜」
「タヌキ、久し振りだな」
 愛嬌のある独特の鳴き声は、この種の特徴なのか、このネコだけの特徴なのか判らないヒマラヤンは、リョーマの愛猫のカルピンだった。フワフワと長毛種のカルピンが、一週間振りに訪れた桃城の膝の
上に飛び乗った。桃城の膝の上は、桃城が訪れている間、カルピンの指定席のようなものだった。それ
が時折、リョーマを言葉なく拗ねさせるのも、少なくはない、
「お前も、寂しかったよな」
 膝の上に乗り上げてきた慣れた感触に、桃城は小さい躯を抱き上げてやると、カルピンはユラユラ尻
尾を揺らし、甘えた声を上げた。
「お前、飯食ってないんじゃないか?」
 リョーマが帰宅して以来、桃城も南次郎もカルピンに餌を与えた記憶はなかった。だとしたら随分空腹
の筈で、可哀相なことをした。尤も、桃城と南次郎も、夕食など摂ってはいない。不思議と空腹など感じ
ない。けれどカルピンは違うだろう。
 桃城は缶ビールをテーブルに置くと、キッチンに置いてあキャットフードを取りに立ち上がった。勝手し
たたるとは、こういう部分で最大限にものを発揮するのかもしれない。リョーマの愛猫のキャットフードの
置き場から、その買い置き場所。使う皿の場所まで、桃城は知っているのだ。
 桃城が立ち上がると、カルピンも桃城の後を追い、足下に戯れついた。きっと家の中の重苦しい空気
を、敏感に感じとっているのだろう。
「ホラ」
 リョーマの家の愛猫は、甘やかされて育っている。ペットなど飼ったこともなく、他にヒマラヤンという種
を見たこともないが、他の同種のネコより、この愛猫は若干肥満傾向にあるだろうと、桃城は思っていた。その反面、可愛がっているくせに、首輪をつけていない所が、なんともリョーマらしかった。
「ホァラ〜〜〜」
 桃城は再び腰掛けると、自分の隣にキャットフードをいれた皿を置いてやる。そうすればカルピンは愛
嬌のある声を上げ、ユラユラ尻尾を振って、食べ始めた。そんなカルピンを優しく眺め、桃城は缶ビール
を手に取った。
「ったく、一丁前に呑みやがるな」
「今更じゃないスか」
 桃城が呑むと判っているからこそ、南次郎は普段から、桃城を晩酌に付き合わせている。建て前飲酒
は20歳からとは言え、家の中にまで建て前を持ち出さない臨機応変さが、南次郎の性格だった。
「お前は、本当に、いいのか?」
 軽口に紛らせ、不意に文脈を無視して口を開くのは、案外遺伝なのかもしれない。リョーマもよくこうい
う話し方、切り出し方をしたから、桃城は何となくそう思った。
「俺は親としちゃ、失格だからな」
「あいつも、ガキじゃないですよ」
 未だプロの世界では、伝説の選手として名を残している南次郎だ。当時の南次郎が拠点としていたア
メリカでは、その名の威力は、日本では比べようもないものだろう。『サムライ』と称えられた伝説のプロ
テニス選手。世界ランキング1位を目前に突然の引退。世界記録を更新し続けた37連勝記録を持つ男
が父親だ。未だその記録を塗り替えた選手はいない。
 アメリカに居た当時のリョーマが、周囲からどういう扱いを受けたのかは、桃城にも想像に容易いもの
だった。
 ラベルとレッテルを貼られ、稀少価値の生き物のように扱われてきただろう。けれどリョーマを取り巻く
当時の環境は理解できても、リョーマの負った疵は、容易に桃城に理解はできない。ただ多少なりとも、桃城には理解できる欠片はあるということだけだった。
「俺があいつにしてやれることなんて、ゼロに近いですよ」
「その近似値は、一体何処からだ」
 気安く開放的な笑顔の似合う桃城の、きっとこんな局面で見せる苦笑や言葉が、曲者の所以で、本
質なのだろうと南次郎は思う。とても中学生が言える科白ではないだろう。
「ホアラ〜〜〜」
「どした?食べたのか?」
 キャットフードを食べていたカルピンが、急に二階を見上げ鳴き声を上げた。その動作に桃城も南次郎
も天井を見上げ、鈍い音が響いてくるのに、顔色を変えた。
「越前!」
 しまったと、苦く舌打ちする。魘されることなく眠っていたから、一時は大丈夫かと思い、リョーマから
離れた。けれど離れるべきではなかったのかもしれないと、桃城はリョーマの部屋に走っていった。













「越前!」
 慌てて扉を開いた桃城の視界に映ったのは、ベッドの上に起き上がり、悲鳴もなく壁に爪を立て、掻
き毟っているリョーマの姿だった。表情を失った貌のまま、白い指先が爪を立て、壁を掻き毟っている。
歪な音が、室内に異様に響いている。
「越前!」
 桃城が上げた声は、悲鳴に近い。無機質に落ちたままの表情で、リョーマは無心に壁に爪を立て、掻
き毟る仕草を繰り返している。軋みを立てる嫌な音が、桃城にはリョーマの悲鳴に聞こえた。実際、そ
れはリョーマの心が上げている悲鳴なのだろう。悲鳴も叫びも殺されて、複数の男達に凌辱されていた
時間。もがき苦しんでいた心の悲鳴が、形として現されているかのようで、桃城には堪らなかった。
「越前…やめろ…」
 壁に向かって無心に爪を立てるリョーマの背後から、怯えさせないように、そっと両手を掬い上げる。
掬い上げた両手は、桃城が思っていたより遥かに簡単に壁から離れた。リョーマに抵抗はない。覗き込
んだ貌には、欠片の表情も浮かんではいなかった。それが尚いっそうの痛ましさと憐れさを刻み付ける。
「越前……」
 もしかしたら、今のリョーマに意識はないのかもしれない。どれだけ、リョーマは怖かっただろうか?
そしてこれから先、どれだけの悪夢に苛まれるのかと思えば、桃城は抱き締めてやるしかできない無
力さに、腹が煮えた。
「やっ……ッ」
 抵抗などなかったリョーマが、抱き締められた時初めて怯えた表情を見せ、弱々しく抗った。
「越前、大丈夫だ。もう大丈夫だから」
「桃先輩…助けて…」
「越前」
 戻ってきてくれと、桃城が声を掛ける。それでもリョーマは、弱々しい抵抗を繰り返している。
「桃先輩……!」
 強く抱き締めれば、リョーマは怖がって暴れた。押し殺された悲鳴が迸るように、掠れた悲鳴が上が
る。その貌は、今の今まで失せていた表情に、色濃い恐怖を張り付かせ、慄えている。
「俺だ、越前!」
「やっ…やだぁ…桃…先輩……桃先輩……!」
 ありありと恐怖を張り付かせた眸が、見開かれる。恐慌状態に陥っているリョーマに、桃城の認識は
皆無だ。絶望に凍り付いた綺麗な瞳が、生々しい恐怖を刻み付けている。
「リョーマ」
 桃城の数歩後から駆け付けた南次郎は、リョーマの恐慌状態を、今夜初めて眼にした。
桃城から連絡を受け、駅員事務室に向かった時には、既にリョーマは意識を手放した後だった。浴室で
のことも、桃城しか知らないリョーマの恐慌状態だったから、南次郎がリョーマの恐怖に強張った悲鳴
や表情を見たのは、今が初めてだった。
 桃城はこれから一体、どれ程疵付いていくだろうか?
覚悟と権利なのだと言った桃城のその科白は、裏付けされたものなのだと、今更ながらに、南次郎は
思い知った気がした。同時に、自分も無傷ではいられないと覚悟した桃城のその精神値の強靭さを、痛
感した。
 桃城の腕の中で抗っていた細い姿態は、元々起きていられる気力など残されてはいなかったのだろ
う。数回掠れた悲鳴を上げると、急速に意識を手放した。
「越前……」
 喪失という言葉が適格な程、リョーマは急速に意識を手放し、桃城の腕にほっそりした躯を預けた。
それは駅員室とまったく同じ喪失の仕方だと、南次郎は知らない。
「怖かったな……」
 腕にかかる重さ。けれどそれはひどく軽くやせた印象しか桃城にはなかった。その軽さが、桃城には
痛ましかった。
 怖かったなどという言葉は、簡単すぎるものだろう。これからリョーマが歩かなくてはならない、残酷な
現実の前には、繰り言にもならなければ、慰めにもならない。
 桃城は細身の躯を再びベッドに横たえると、乱れた前髪を何度となく梳いてやる。それはリョーマにと
っても精神安定作用があると同時に、桃城にも同様の効果があった。
「ホァラ〜〜〜」
 不安気な鳴き声が、部屋に響く。桃城の足許に纏わり付き、リョーマの愛猫は小首を傾げる仕草をし
て、桃城を見上げていた。リョーマより色素の濃い蒼い眸が、何処か不安気に揺れているのに、桃城は力のない笑みを見せてやることしかできなかった。
「お前も、不安だよな」
 お前ママ大好きだからな。そう力なく笑うと、足下に纏わりつく小さい温もりを抱き上げ、桃城は膝に
乗せてやると、漸くカルピンは安心したかのように、覗き込むようにリョーマを見詰めた。
 そんな様子を、南次郎は言葉もなく見ていた。













 初夏の夜明けは早い。遮光カーテンの隙間からでも、仄かな早朝の陽射が、室内に入り込んでくる。
窓を開ければ、きっと清涼な空気が流れているだろう。それがいっそ綺麗に、リョーマに起きた悲劇を、
洗い流してくれないだろうか?そんならしくない感傷に、桃城は自嘲する。そんなもので洗い流せる簡
単なものだったら、リョーマは昨夜の内に立ち直っている筈だ。
「…桃先輩……」
 柔らかい光が朝の訪れを告げる中。リョーマの長い睫毛が緩やかに揺れ、重い瞼が開かれていく。
 リョーマの眠りを妨げないようにと、引かれた遮光カーテンの向うから漏れてくる些細な光でも、リョー
マにも朝が来たことは判った。
「起きたのか?」
 不意に掠れた声を前触れなく掛けられ、桃城は少しだけ驚いた様子で、リョーマの顔を覗き込んだ。
色素の薄い眸は、昨日より幾分生気の戻った光を宿し、桃城を見ている。
「……練習の時間じゃないの?」
 自分を心配そうに覗き込んでくる桃城に、リョーマは掠れた声を漏らした。それは何処か歪に歪んでい
るようにリョーマには感じられ、リョーマは辛そうに口唇を噛んだ。
 躯は相変わらず軋んで痛い。鉛のように躯も心も酷く重たく、朝の爽快さなど微塵もない。
桃城が朝リョーマの部屋に居る時、それはいつも共に快楽を分け合った時だった。関係が出来上がる
前は、仲のよい先輩後輩で、一晩中ゲームをしていたりした時もあった。けれど恋人という明確な意味
で付き合いだした時から変わった関係の中。リョーマの部屋に桃城が居るのは、互いにどうにもならな
い激情に番いあった翌朝だ。けれど今は違う。そのことが、リョーマには暗い絶望でのし掛かってくる。
 幾人とも判らない男達に、蹂躙されるしかなかった。どれだけの時間、どれだけの男達に弄ばれてい
たのかも記憶にはない。どれもが断片的すぎて、意識を上滑りしていく。まるでパズルのピースのよう
に、記憶は曖昧だ。そんな自分の疵さえ見て、逃げ出すこともしない桃城に、リョーマは泣き出しそうになる。
 普通なら、逃げ出していて可笑しくはないだろう。恋人が、何処の誰とも判らない男達に犯されたと知
れば、大抵は逃げ出すだろう。けれど桃城は違った。きっと一晩中、寝ることもせず、付いていてくれた
のだろう。それは嬉しい反面。リョーマには胸の痛む事実でもあった。
「…大丈夫だから………」
 心配そうに気遣う様子を見せた桃城に、リョーマはゆっくり半身を起こした。けれど躯は何処か奇妙に
捩じれた感触がひどく、歪に歪んでしまったように感じられた。まるで自分のものとは思えず、何処か現
実感が稀薄していた。
 鉛のように重い躯は、奇妙な形で捩じれてしまったような感覚がある一方で、ひどく現実感が欠落し
ている。何処までが自分のもので、何処から他人のものか判らない妙な違和感が、残っている。本当に
今、越前リョーマという存在は、現実に生きているのか、リョーマは薄気味悪い、不可思議な感覚を味
わっていた。まるで外側から自分を眺めているような、現実から切り離された部分で、自分を眺めている
ような、そんな感触だった。
「お前……」
 昨夜のことは、きっと覚えてはいないのだろうリョーマの様子に、桃城は椅子に腰掛けたまま、細い腕
を掬い上げた。
「……俺…何かした……?」
 桃城に掬い上げられた腕。その指先には、細かい疵が付いているのが判る。肉眼的に見て疵が付い
ていると判ってしまう程度に、自分は何をしたのか?記憶が欠落していることが、リョーマの恐怖に拍車
を掛ける。
 不安そうに見上げてくる視線に、桃城は緩く笑い、クシャリと髪を撫でた。
「良く寝てた」
「……嘘……」
 寝ていたら、こんな疵は付かないだろう。
「嘘付く必要、ないだろうが」
 それこそ嘘だ。嘘を付く必要など、多いにあり過ぎた。リョーマの記憶がない限り、余計なことは話せ
ない。話せば不安にさせるだけだ。だから決して悟らせてはいけない筈だった。不用意に傷ついた指先
を掬い上げてしまった時点で、それは桃城の失敗だろう。
 桃城は椅子から立ち上がると、遮光カーテンを開けた。初夏の清涼な朝の光と空気が、綺麗に室内
に入り込む。その光に、リョーマは半瞬眩しそうに瞳を閉じたがすぐに開かれ、再び戻ってくる桃城に焦
点を絞っている。
 不安そうに揺れる眼差しに、自分の失敗を内心の打ちで隠し、桃城は怯えさせないように、綺麗な貌
を象る輪郭に触れた。
「ごめんね……」
 ポツリと、小さい声が漏れる。
「越前、お前が謝ることなんて、何処にもないだろうが」
 リョーマは、一体どんな気持ちで、何を謝罪するのか?
考えれば、桃城の胸は軋みを立てる。
「……俺…」
「間違えるなよ越前」
 その時少しだけ、桃城は厳しい声を滲ませた。その厳しい口調に、リョーマは怯えたように身を竦ませ
る。どれだけリョーマが大丈夫と自分自身を納得させるように言った所で、傷つけられ弱った心と躯は何
より素直だ。
「悪い」
 半瞬竦んだリョーマに気付き、桃城は柔らかく笑う。けれど眼差しは何処までも真摯なものばかりを映
している。
「お前は、何も悪くない。これだけは、忘れるなよ」
「桃先輩……」
「お前は、巻き込まれただけで、何も悪くない。頼むから、自分を責めることだけは、しないでくれよ」
 日本の悪い風習のように、様々な意味で、犯罪被害者は自責の念に駆られることが少ないないのだ
と、桃城は知っていた。特にリョーマのように性犯罪の被害者は、自らを責めてしまう傾向にある。人格
を否定されるような行為の中。自らも存在価値を見失い、自責感に囚われ、自らを追い詰めてしまう被
害者は、決して少なくはないのだ。そしてまた周囲も、犯罪に合うのは特別な人間で、隙のある、被害
に合う理由を持っている人間だと思い込んでいるケースが少なくはないことも、桃城は知っていた。だか
らこそ、リョーマに、それだけは忘れてほしくはなかったのだ。犯罪に合うのは、何も特別な理由を持っ
ている人間ではないのだと。誰もが巻き込まれる社会病理だからこそ、怖いのだと、それだけは、忘れ
てほしくはなかった。
「だから、謝ったりするな」
 どうか怯えないでくれと願いながら、桃城は一週間前より細くなってしまった印象の拭えない躯を緩く
抱き締めた。
「……桃先輩………莫迦だね…」
 コトンと桃城の肩に小作りな頭を預け、リョーマは力なく笑った。
こうして抱き締めてくれるだけで、どれだけ桃城は傷ついていくのだろう?穢がされた自分など簡単に
放り出してしまえば、疵つかずに済むと判っているだろうに、それでも抱き締めてくる腕の中。リョーマは
声を殺し、初めて意識して泣いた。
「本当に…莫迦……」
 桃城に抱き締められ、リョーマは漸く生きていると実感できた気がした。した途端。自然に泣き出して
いた。
「越前」
 押し殺された悲鳴。泣き出すことさえ意識できず、ただ流れていた涙。けれど今リョーマは意識して泣
いていることが判るから、桃城は少しだけ安堵の溜め息を吐き出した。それは昨夜と違い、少しでも感
情を取り戻したと言うことだからだ。
 桃城は慄える華奢な肩を抱き締め、クシャリと髪を掻き混ぜていく。
「桃先輩…」
 肩に回る柔らかい温もりの中、リョーマは桃城の胸板に顔を埋め、声を殺して泣き続けた。



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