土曜の遅い時間。早めに練習が上がった時点でリョーマに電話をして、駅で待ち合わせた。テニスバックは買い物には邪魔になるので、駅のコインロッカーに放り込んだ。
「っで、何買いに行くんだ?」
「桃先輩、明日何の日か覚えてる?」
「明日?」
何の日だったろうか?考えても、思考の片隅にも、検索事項は引っ掛かってはこなかった。
都心に向かう車両は、混雑はしていない。目的地まで大した距離も時間もかからず到着する。
「母の日」
「ア〜〜〜」
言われて初めてそんな日も存在していた事を思い出す。
よくよくよ見れば、車両の中。天井に吊されているチラシには、デパートのSALEの文字が書かれている。
「んで、お前お袋さんに、何かプレゼントか」
「ん〜〜プレゼントって大袈裟じゃないんだけど。何かね」
「決まってんの?」
「別に物に拘る人じゃないし、あげれば何でも素直に喜んでくれると思うんだけど」
「カタチね」
「多少は」
「お袋さんキャリアウーマンだし」
リョーマの母親はキャリアウーマンで、ハーフと言う事もあって当然アメリカ育ちで英語が話せて、あちらの現地事情にも詳しいからと、外資系企業の管理職をしている。
一体どういう経緯で南次郎と知り合い結婚に至ったのか?今度尋ねて見たい所ではあった。
「万年筆とか今じゃ使わないし」
「お前なぁ、アレ物がいいと、べらぼうに高いんだぞ」
「知ってる。だからムリだしそんなもの渡さない。アアそうだ桃先輩、明日練習休み?」
「アア」
「だったら昼間ウチ来る?」
「親子水入らずがいいんじゃねぇの?」
これでも、一応気を使う部分は心得ているのだ、桃城も。
週末だけ帰省する娘に、南次郎が楽しみにしている事も知っているし、母親が何かと心配している事も知っている。いるから、自分が独占する権利はないと、判っていた。
「母さんがカレー食べたいって言うから」
「リマのカレー巧いもんなぁ。ルーから手作りだし」
中学1年二学期から渡米していた先で、この際だからと料理の腕を磨いていたというリョーマの台詞に嘘はない。今ではテニスの他には、趣味は料理になっている。
リョーマ自身アメリカで育った年月は長い筈なのに、それでも和食が好きだと言っては、今一つ和食を作らない母親の変わりに和食を作って、父親にいたく喜ばれているらしい。
「だから明日暇なら来れば?」
「んじゃお邪魔に行くかな」
来てとは決して言わないし、時間があって暇なら来ればと言うのは、別段嘘でもないのだろう。それぞれの時間が存在するから、無理に来いとは決して言わない。
「オッと、着いたな」
ゆっくりホームに滑り込む車両。慣れた音楽に扉が開いて、ゆっくりと腕を差し出すと、フワリとレースの裾が舞い、リョーマの小さい手が重なった。白く瀟洒な左の薬指には、硝子の蒼い指輪が嵌められていた。
□
「スゲー人だな」
目的のデパートのレディースアクセサリー売り場は、予想通り混雑していた。
混雑を極めている売り場を前に、桃城は眼を点にする。やはりそう思っているのは自分だけではないらしく、夫婦やカップル、家族で来た客達は、誰もが男性陣が売り場を前に立ち尽くしている。隣をこっそり窺えば、リョーマも似たり寄ったりで、予想外の混雑に、溜め息を吐いている。
「危ないぞ」
些か呆然としてしまっているリョーマの薄い肩を抱き寄せる。最近決まってデートの時来てくる服は、フェミニンタイプが多い。どうやら従兄弟の菜々子に今時の流行を教えて貰っているらしい。
今日は淡いピンクのレースを重ねた華の柄が浮き立つワンピースを着ている。袖や胸元にレースが着いていて、フロントのシャーリングがポイントになっている。けれど肩は出すのを控えているのか、先日も来ていたホワイトのニットのカーディガンを羽織っている。
「何買おう……」
甘かったと、リョーマは呟いた。予想外の混雑に、既に疲れてしまっていた。
「そうだな」
「選んでよ」
「お前なぁ」
「だって慣れてるでしょ?女性へのプレゼント」
「………お前…」
あまりと言えば余りの物言いに、桃城は一挙に脱力した。
どうせ俺は初体験11歳で、相手は従兄弟で、リョーマに会うまでは相手を取っ換え引っ換えしてましたよ、そう内心で毒づくと、殆ど自棄で、桃城は混雑する売り場に分けいって行った。
□
「ハンカチとかにすれば?2、3枚。箱に綺麗に詰めて貰って。実用的だし。使うだろ」
「そうしようかなぁ〜〜」
アクセサリー売り場を見て回っても、歩けば歩くだけ選ぶものが判らなくなる。
元々人込みが苦手だから、息切れしてきてしまう。これが試合なら幾らでも体力も気力も精神力も尽きないというのに、この人込みの前には眩暈ものだ。
「大丈夫か?」
気遣わしげに、桃城がリョーマの肩を抱く。リョーマが人込みが苦手な事を知っているから、肩を抱く腕を前に回し、サラリと長い前髪を梳き上げ額に触れる。
「ねぇ桃先輩、母さんの好みで選んでよ」
ハンカチ売り場に移動しながら、リョーマは疲れて肩を抱く腕を振り払う気力も湧かず、口を開いた。テニスより買い物は体力以前に気力が消耗すると辟易とする。柔らかく気遣うように触れてくる大きい掌が気持ちいい。何より安心できた。決して言葉に出す事はないけれど。
「ダメ」
「何で?」
「お前からのプレゼントなんだから、お前が選ぶの。じゃなかったら、意味ないだろうが」
「やっぱ桃先輩タラシ」
「どうせ俺はタラシで悪党で人でなしだよ」
「判ってるんだ」
「そりゃ毎回言われてるしな。でも俺程恋人に誠実な奴は、ちょっと居ねぇぞ」
「自分で言う?」
クスクス笑いながら、リョーマは綺麗なハンカチが並ぶ場所へと歩いて行く。
悪党でタラシで人でなし。けれど恋人には誠実。
そんな事は、今更言葉に出さなくても判っている。今更だ。大切にされている事なんて。
判りきっている。
滅多に電話もできない程恋しくて、すれば声を聞いただけで逢いたくなる。だから滅多に電話なんて出来ない。きっと桃城はそんな自分の内心を知らないだろうとリョーマは思う。
切るのが辛くなるから要件だけで、何でもないフリをして、さっさと切ってしまう。そんな事、きっと知らないに違いない。
「リマ?そっちメンズもんだぞ」
レディースもののハンカチが並んでいる隣に、メンズ物も置いてある。リョーマはレディース物には眼もくれず、隣のメンズのハンカチに向かって行く。
「母さん、ハンカチはメンズ物だから」
「ヘェ〜〜」
何となく、キャリアウーマンのリョーマの母親らしいと思えた。
「母さん花柄とかあんま好きじゃないみたいで、メンズものばっかり。大判だし、生地もしっかりしてるから使い易いって」
「まぁそう言われればそうかもな。っで?リマは?」
「色々。その時目に着いたのや、気に入ったのや」
「フーン」
「桃先輩は?何もプレゼントなし?」
隣で相変らず肩を抱いている男を上目で問い掛けると、
「ん〜〜お前が済んだら、俺もハンカチ買うは」
母の日だしと、桃城は笑った。
□
あれから、ハンカチを選んで、会計で列に並ばされ、その手際の悪さに辟易として、喫茶店でお茶をして、帰り着いたらもう随分な時間になっていた。
越前家の前で、桃城は白く小さい綺麗な袋を手渡した。
「ホイ」
「母さんに?」
やっぱタラシじゃん。リョーマは少しだけ憮然とする。
「バカ、リマに」
「私?」
まろい瞳が、キョトンと見開かれる。
「ご褒美」
「何の?」
判らないと、桃城を見上げると、桃城はひどく優しく笑っていて、切なさが胸を締め付けた。
「俺は忘れてたんだよな、母の日なんて。でもお前ちゃんと覚えてて、お袋さんにプレゼント買って。明日だってカレー作るの、お袋さんのリクエストだからだろ?優しいいい子に、恋人からご褒美」
「何かソレ変」
「いいの、いいの、お前甘やかしたい俺の気持ち」
「子供じゃないよ」
「そりゃちゃんと知ってるって」
「………何か桃先輩、ソレやらしい」
「そりゃね」
笑うと、細い腰を抱き寄せる。抱き寄せ、耳朶を甘噛み、
「リマ」
「んっ…やっ…」
低く柔らかい声が耳を擽り、桃城の腕の中。ほっそりとした姿態がビクンと顫えた。
「知ってるよ、ちゃんと」
『リマの感度のよさ、なんて』
「あっ…んっ…タ……ケシ……」
嫌々と背筋をのけ反らせ、逃げようと弱々しい抗いを繰り返す。けれど実際弛緩している躯は逃げる事などできる筈もない。
「子供扱いなんて、できる筈ないだろ」
こんなに綺麗で、いつだって大切で、子供だったらどんなに楽だったかと思う。
「ダ…メェ…これ…以上…」
欲しくなる。止められなくなる。桃城の匂いに包まれて、抗いなんて建て前にも通用しなくなる。
「お…願い…」
キュッと胸元を握る指の白さに、桃城は苦笑すると、
「これだけはね」
触れる程度に口唇を重ねた。
「……もっと…」
触れてすぐに離れて行く口唇の温度に、リョーマは桃城の首に両腕を回し、爪先になって、キスをねだった。
「理性砕く気か?」
大仰に溜め息を吐くと、桃城は求められるままに、口唇を重ねた。蒼い闇に、色付く吐息が溢れた。
「明日な、俺ちゃんと言うわ」
「何?」
熱いキスに眩暈がする。少しフラ付く思考回路に、桃城の腕の中でそんな言葉をぼんやりと聞いていた。この際桃城の情欲等、二の次、三の次になるのは当然で、理性を試させているようなものだ。
リョーマは手渡された白い袋を開けると、ソコなは綺麗なハンカチが入っている。
「リマに似合うと思って。クリーム色。柔らかい色だし、可愛い花柄だし」
「ウン、ありがとう、桃先輩。それで?明日何言うの?」
「お袋さんに、ありがとうってな。母の日だし」
「?」
背を凭れている桃城を、顔だけ上げて振り仰ぐ。
キョトンとしたその警戒心のなう気配に、サラリと額にかかる前髪を梳き上げてやる。
「お前を生んでくれて」
「桃先輩?」
「お袋さん居なきゃ、お前居なかったし。俺はお前と遭えなかったから」
「バカだよ…」
優しい男。何処までもバカみたいに優しくて、きっと自分を取り巻く環境全部を優しく愛してくれる。そんな男だ。
何で、何処がこんな優しい男に気に入られたのだろうかと思えば、自信なんて一つもない。考えれば、いつだって足元が竦んでしまう。
「でも真実だぜ。お袋さん居なきゃ、お前は居なかった。俺とは遭えなかったんだし」
「だったら私は、桃先輩のお母さんに、感謝しなきゃね」
「こんないい男に生んでくれて?」
「言い過ぎ」
クスクス笑うと、クルリとターンする靭やかさで振り返る。
「ねぇ、明日来る?」
自分より遥かに頑丈な腰に両腕を回し、甘えるように見上げて笑うと、
「勿論。リマのカレー旨いからな」
細腰を抱き返し、桃城は笑った。
「……目的カレーなんだ」
「バーカ、っんな筈ないだろ。夕方送ってくから」
「甘やかしすぎ」
その甘えに慣れて、依存してしまったら、相手を潰す事になる。それが何より怖い。
男と女になっても、依存するのではなく、支えあう相手で在りたい。そう願う。依存したら、決してこの関係は続かない。何より桃城ょ潰してしまう事になる。それが判るし怖いから、いつだって自戒していると言うのに、こうしていつだって桃城は、簡単に自分から自戒しようとする心を取り上げてしまう。
「いいの、俺の精神安定なの」
白い瞼に口唇を落とすと、『おとなしく甘えとけ』軽口を叩いた。
□
晴れた5月の空。越前家の玄関チャイムが鳴った。
「桃先輩」
玄関ドアを開けると、其処には予想通り、桃城が立っていた。変わらぬ笑顔は、それでももう随分大人の男を滲ませている。
「ホイ」
後ろ手にしていた腕をリョーマの前に翳すと、淡いピンクのカーネーションの花束が現れた。
「お袋さんにね」
「そんな気、使わなくていいのに」
差し出されたソレを受け取ると、一体何本在るのかと思える花束に、頬を寄せた。
「俺の気持ちだって、お袋にも手渡してきて、雨が降るって笑われた」
きっとこんな事がなければ、照れくさくて花束など渡さないし、渡せない。その偉大さなど、こうして綺麗な恋人に出会わなければ、一生知り得なかったかもしれない、母親の存在、取り巻く周囲の環境。倖せにと、願い掲げる大切さなど。
きっと幾重も教えて貰って、与えてもらった。この綺麗な恋人に。大切と言う言葉そのものを。
「こんな日じゃねぇとさ。今更言えないだろ?『ありがとう』なんて」
「悪党」
リョーマはコツンと桃城の肩に額を押し付ける。
不意に泣き出したい衝動を怺える事が精一杯だ。
「リマのソレ、褒め言葉だからな」
クスリと笑い、柔らかい髪を撫で、その愛しさを閉じ込める。
きっとこうして大切な恋人がいなければ、母の日など思い出しもしなかった。
いずれこの恋人も母親になるのだろう。その時隣に在るのは、自分でいて欲しい、そう願う。そう思えば、思い出すのは昨日の不二と英二の台詞だった。
「コラ、お前ら、不純異性交遊を、堂々と玄関先でしてるんじゃない」
いつまで経ってもリビングに戻ってこない娘に、顔を覗かせた南次郎が、ニヤニヤと笑っていた。
「こんにちは」
少し引きつった笑顔を向ける桃城に、
「まだ、嫁にやった訳じゃないからな。母さんが待ってるぞ。早く来い」
南次郎がヒラヒラと手を振った。
「ア〜〜リマ、来月はパパの日だからなぁ」
「……何がパパだか…すっかり娘を持つ父親しちゃって」
「そりゃ娘は可愛いって言うしな」
これだけ綺麗に育ってしまえば、父親としても可愛くて大切で仕方ないだろう。本人にどれ程の自覚がなくても。
「まぁいいや、ホラ桃先輩上がって。美味しいカレー、食べさせてあげる」
「お邪魔します」
躾は、こういう時に出る物なのかもしれないとリョーマは思う。どれ程この家に通い慣れても、必ず礼儀は守る。
『こんにちは』『お邪魔します』『いただきます』『ありがとう』
最低限の挨拶ができる。それは好ましい習慣だと思う。
「ホラ、桃先輩行こう。母さん待ってたんだよ」
白い手が、がっしりとした腕を掬い上げる。
「お前の手、小さいなぁ」
しみじみと思う、その手の小ささと体温の柔らかさ。
話さなくてはならない言葉は幾つもあるけれど、今はこの体温に触れていたいと思う。
「桃先輩のが、大きすぎるんだよ」
重ねた掌、翳してみれば尚その違いがクッキリ判る。
幾ら時間が過ぎても、元々の違いには置いていかれる事はあっても、その距離が縮む事はない。身長差も体格も、何もかも距離が伸びてしまうばかりだ。
「今日母の日だから、終わったらね、聞いてあげる」
「リマ?」
「隠し事下手だもん、桃先輩」
綺麗な物に紛らわせて、隠してしまえない誠実さ。桃城の誠実さは、きっとそういう類いのものだろう。
隠す事は幾重も綺麗な物に紛らわせて、見分けも付かなくさせてしまえばいいのに、他人にはできても自分にはできない桃城は、確かに誠実な恋人なのだろう。
「お前……」
「あとでね、でもまぁ大抵予想は付いてるから。今まで黙ってた罰は重いよ」
クスクス笑うと、リョーマは桃城の手を離す事なく、リビングへと引っ張って行く。
「今は目先の楽しみに集中してよね。折角腕奮ったんだし」
「リマ…お前さ」
「だから後。今は嫌。折角のカレー食べてよ。ルーから作って、結構時間かかって大変なんだからね」
「そうだな…」
苦笑する。相変らず、誤魔化しは利かない。自分の事にも周囲にも無頓着なくせに、隠したい事実だけを綺麗に見抜いて行く。隠しているつもりでも、リョーマの前で隠し事は通用しない。簡単に見抜く。何でもない事のように、忘れていた。
「ありがとうなんてさ、こんな時にしか、確かに言えないし」
今更照れが湧くから、簡単には言えない。年に一度だけの感謝の言葉。
「でも言わないとな」
大切な大切な存在を生んでくれてありがとうと。
母の日は、日頃の感謝を込めての日と言うけれど、原点に辿り着けばそういう事にも思えるのだ。考えられるようになった分だけ成長しているのかと思えるが、きっと成長なんてしていないだろう。
「ウン」
言わないと、いけないのだろう『ありがとう』と。
今は倖せだから大丈夫だと、感謝を込めて。
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