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個室の展望台と変わらない小さい箱が、ゆっくり地上へと近付き、足許に在った筈の光の渦が、視線と同じ高さに近付いてくる。 「ア〜〜着いちまったな」 恋人のほっそりした指から口唇を離すと、桃城は華奢な躯をキュッと抱き締め、その身を離した。小さ い箱の中、寄り添って座っている二人だ。腕にしているかしないかの大差しかないものの、華奢な躯か ら腕を解いた瞬間、フローラル系の甘い香りが柔らかく残り香として桃城の鼻孔を擽っていく。 「絶対見られた」 さして咎めた様子も覗かせず、リョーマは桃城の腕に包まれながら、クスクスと淡い笑みを覗かせてる。その恋人の倖せそうな笑みに釣られて笑いながら、桃城はアッと一言声を出していた。 「なぁに?」 「滲んじまったな」 節のある親指で、薄く開かれたリョーマの口唇を撫でると、その意味に半瞬後に気付いたのだろう。 リョーマは淡い笑みをひっこめ、少しばかり憮然となった。 「だから嫌って言ったのに」 「言ったか?」 嫌とは言わなかったよなぁと、桃城は不埒にも考え、堪能した恋人の口唇の感触を思い出す。 物憂げに開かれた口唇と、怖々と絡んできた柔らかい舌。頼りなく肩に預けられた指先。 「もぉ……」 口唇に触れる指の感触に、先刻甘噛みされた指先が生温く疼きだすのに、リョーマは白皙の貌を紅 潮させたまま、トロリと蜜を浮かべて蕩ける眼差しで吐息を吐いた。 こんなことはそれこそ今更だったもの、恋人から言われると、何処となく気恥ずかしさが拭えない。 それこそ自分の肌の脆く敏感になる場所まで曝けだしてしまっているというのに、リョーマはこんな局面 でひどく初々しい一面を覗かせる時がある。それが桃城を倖せにしているのだと、けれどリョーマは気 付かない。 リョーマが小さいバックから小さい鏡を取り出すと、鏡の中の瀟洒な面差しは、形良い口唇にひかれ た淡いピンク系のルージュが滲んでしまっていた。 口唇の輪郭から僅かに滲んでしまったルージュを直すように、無意識に薬指で手早く整えると、桃城 はひどく不思議なものを見るように、リョーマを凝視する。 「?桃先輩?」 凝視される視線に、リョーマが不思議そうに小首を傾げれば、 「なんか新鮮だな」 「なにが?」 何処か感嘆とした様子で桃城が呟くのに、リョーマはますます小作りな貌を傾げた。白皙の貌を縁取 る綺麗な髪が、傾斜に沿ってサラリと流れていく。 「そうやって、ルージュを整えるとこっていうか」 キスもセックスも今更なものの、リョーマがこうして自分の前でルージュを整えることは殆どなかったか ら、奇妙に新鮮な気持ちを味わってしまった桃城だった。それもゴンドラ内で、もう外側から鍵が開けら れるからなのだろう。ルージュを引き直すことはせず、薬指で手早く滲みを整える部分が、新鮮だったの だ。 「色っぽい」 「……バカ」 自分の躯の隅々まで、むしろ自分より熟知している桃城が、今更言う科白かと、リョーマが呆れてし まったとしても、それは仕方ないだろう。 「そいや薬指って、紅差し指って言うんだよな、確か」 他の指に比べ、遥かに存在感の薄い薬指は、昔は軟膏を塗布することから、そう呼ばれるようになっ たものの、それは薬を塗る程清潔にされている指だから、昔は紅をひいた指だったんだと、桃城に教え てくれたのは、歳の離れた従姉妹だった。 「フーン」 一体何処の誰に、そんな雑学を教えられたのか?ジィッと精悍な面差しを凝視すれば、桃城は苦笑し つつ、蟀谷を掻いた。 「昔だよ、昔。大昔に聴いた話し」 口紅云々の話しなど、そういう関係でなければ話さないだろうと、リョーマがジィッと桃城を睥睨すれば、今のは素直に失言だったと、己の愚を反省する桃城だった。 「別に、いいけどね」 今更桃城の過去の女性問題に嫉妬しても始まらない。それでも婚約者であるリョーマにしてみれば、 過去の女性遍歴を窺わせる発言が面白くないのは当然だったから、仕返しとばかりに、桃城の口唇を リングが嵌められた薬指で、なぞっていく。 「塗ってあげようか?」 「コラ」 ルージュを整えた指先には、僅かにその名残が在る。少しだけ香料の入った甘い香りのするルージュ は、リョーマの肌の白さによく映えていた。 「ゴメン」 悋気というものはないとしても、むしろ与えたのは不安や心配だっただろうから、桃城は素直な言葉を 口にすると、口唇をなぞってくる指先を掬い上げた。 その瞬間、リョーマの面差しが少しだけ曖昧な表情を刻み付けた。困ったような、なんともいえない曖 昧な貌だ。 「リマ?」 過去の女性関係を窺わせる科白が、リョーマを哀しませただろうかと、心配そうに小作りな貌を覗き込 めば、リョーマはますます困ったような貌を浮かべ、次に淡い笑みを見せた。 「桃先輩の詐欺師ぶりなんて、中学時代から見慣れてるから」 「リマ〜〜〜」 それは未だリョーマがリョーマとして在った時。確かに時折言われていた科白だった。 『詐欺師』『タラシ』そんな科白をリョーマはよく笑いながら、それでも呆れた貌で言っていた。 「心配なんて、してないから」 桃城と生きていくという自分で決めたのだ。今更過去の女性関係に一から十まで嫉妬していては、身 がもたないと、リョーマは桃城の肩口に額づく。 「今更だから」 それこそ過去より現在幅広い年齢層の女性ファンを獲得している桃城だ。今更過去に妬いても意味 はない。 「今更ってのは、ちょい違くないか?」 婚約者に今更と言われてしまう程、中学生当時の自分は、詐欺師っぷりを発揮していただろうか? 桃城は少しばかり脱力し。首を捻った。 桃城の自覚の有無は別にして、開放的な笑顔とは相反する、内側に他人を踏み込ませない為の盾 のしての笑顔は作為的だったのだから、詐欺師以外の何ものでもないだろうと、リョーマは緩く腕に抱 かれながら、首を捻る桃城を楽しげに眺めた。 恋人同士の甘い空気が小さい空間に漂い、桃城の指が再び頤にかかった時、ガタンと鈍い音を響か せ、ゴンドラが地上に到着したことを告げていた。 デートのメッカであるお台場の、観覧車から降りてリョーマが直行したのは、すぐ隣にあるデパートの 化粧室だった。混雑している人込みと、桃城の前で口紅を直す訳にはいかず、リョーマが選んだのは、 女性としては至極当然の結果だろう。 幸いにも化粧室は混雑していることもなく、化粧室の隣には、パウダールームも設けられているから、 リョーマはそこに設置されている椅子に腰掛け、ルージュ手早く整えた。 昨今のデパート事情は、トイレにまで衛生面ばかりではなく、お洒落を取り入り、パウプダールームと 兼ねている場所が多いから、観光地であるお台場のデパートの化粧室はそれなりに洒落た空間に仕 上がっている。 アイボリーの壁に、淡い照明。大きい鏡と、やはり壁と同色のアイボリーの洗面台は、ホテルのロビー を思わせる。 「紅差し指」 紅筆で丁寧に口唇の輪郭を描き、ルージュを引くと、リョーマは先刻の桃城の言葉を思い出し、左手 の薬指の指先を、ソッ薄い口唇に添えてみる。 桃城が色っぽい仕草といった科白の意味合いは、リョーマ自身には判らないことばかりで、半瞬小首 が傾いだ。 数年前には化粧をした自分の姿には違和感しか感じられず、桃城にそんな自分を見せるのが怖い時 もあった。けれど今はそんな自分にも慣れてしまい、鏡の向こうからこちらを凝視してくる面差しにも違 和感は感じられない。 そこに中学当時の面影を見出だすことはあったとしても、リョーマはもうそれを哀しむことはなくなって いた。むしろ懐かしい感慨が深いのかもしれない。 『越前リョーマに会いたい?』 以前そう訊いた時、その科白が、桃城をひどく哀しませたことを、リョーマは今もハッキリと覚えている。 哀しませたと同時に、優しい恋人をひどく傷つけてしまったことも、覚えている。 「バカ……」 どれだけ哀しませてきたのかと思えば、桃城が口にだす心配など、言葉にされない部分のほんの僅 かでし かないことを、リョーマはよく承知していた。 桃城は隠しているつもりなのかもしれないが、昔から他人にも自分自身にすら頓着のなかったリョー マは、当時から桃城の機微にだけは驚く程敏感だった。 「桃先輩……」 綺麗に整ったルージュで淡く笑うと、リョーマは左手の薬指に嵌められたリングに口唇を落とした。 |