手の心








 それは秋も深まる、土曜の午後のことだった。
都内でもお嬢様学校として名高い、私立女子大付属の中等部に、三年の春から中途編入したリョーマ
は、今では周囲の環境にも寮生活にも慣れてきて、近しい友人もでき、それなりに楽しく女子校での生
活を送っていたある日のことだった。
 机の上に置かれた白い携帯電話が、不意にメールの着信音を響かせた。それは桃城が設定したま
まになって、リョーマがいじることをしていない所為で、賑やかな音楽が流れていた。
「ちょっと待って」
 白いニットのアンサンブルのカーディガンに袖を通していたリョーマは、不意に賑やかな音楽を響かせ
た携帯に視線を移し、淡い笑みを浮かべると、それを掬い上げるように手に取り、ディスプレイでメール
の着信を確認する。
 小さいボタンを操作しメールを開くと、そこに当然のように記された名前は、桃城の名前だった。
 日本に帰国し半年経った現在も、リョーマはかつての親しい人達に、自分の所在を知らせてはいなか
ったから、携帯に登録されているアドレスは極端に少ない。
「桃先輩、過保護すぎ」
 メールを読みなから、花のような口唇から、淡い笑みが零れ落ちる。桃城が居たら、間違いなく独り占
めしたいと願う笑みを、リョーマは無自覚に滲ませている。
 寮生活を送っているリョーマは、週末に実家へと帰宅する。都内のお嬢様学校は、リョーマの実家が
在る青春台からでも十分に通学できる距離だったから、本来なら、寮生活をする必要は何処にもなかっ
た。青春台の実家から、リョーマが通学している女子中等部は、電車に乗ってしまえば、ものの20分
程度の距離だったからだ。それでもリョーマが寮生活を送っているのは、南次郎の親バカ発言から端を
発している。
 南次郎曰く、朝夕の気違い的な通勤ラッシュに、愛娘を乗せたくは無い。痴漢などの被害に遭わせた
くないという、リョーマにしてみれば呆れるしかない力説をして、南次郎はリョーマをお嬢様学校に放り
込んだ。けれどそれか南次郎の本音である筈がないことを、リョーマはよく心得ていた。
 自分の前で、決して苦悩など覗かせない父親が、影でどれだけ苦しんできたのか、リョーマは知って
いる。表向きは親バカな事情で、お嬢様学校に自分を編入させた南次郎の意図は、計り知れない。
 性別の変わってしまった現在、流石に青学に編入生するには躊躇いがあったリョーマは、南次郎の勧
めた都内のお嬢様学校への編入を渋々ながら承諾したものの、寮生活など聴いてはいなかったから、
最初リョーマはかなり寮生活に抵抗も警戒心もあった。けれど二ヶ月もすれば、寮生活にも慣れてしま
っていた。その時人間は所詮慣れの動物なのかもしれないと、リョーマは変わってしまった自分の性別
とともに、諦めにも似た感情でそれを受け入れたのだ。
 年頃の女子を預かる学校側の配慮で、寮はそれぞれ1ルームマンションと大差ない個室になっている。元々お嬢様学校の名に恥じぬ設備を誇っている寮は、外観は完全に瀟洒なマンションにしか見えな
い作りになっていて、誰もが学校の寮というイメージから受ける建築にはなっていない。浴室もそれぞれ
の部屋にある贅沢さは、まさにお嬢様学校の名に恥じない設備を兼ね備えている。実際その名に恥じ
ぬ設備を備えているだけに、管理費用は、その名に恥じぬ金額ではあったのだけれど。
 室内は冷暖房完備、ベッドも机も備え付けてあり、壁には嵌め込み型のクローゼットがあるとなれば、
足りないものと言えば、テレビやCDコンポ程度のものなのかもしれない。
 1階は二重の硝子扉に守られ、入り口には管理人室が設置され、常に管理人が寮を出入りする人間
のチェックを行っている。管理人室には警備会社と連携しているシステムがとられ、有事の際には即座に警備会社が到着するシステムになっているし、管理人室にいる管理人達は、誰もが元警察関係者と
いう念のいれようだった。それも女子寮なのを配慮して、管理人室に在るのは、全員が女性だった。
 一階はマンションのロビーのようになっているものの、そこにはマンションのようなエレベータはなく、
二階へと続く階段がある。それも無機質な作りではなく、暖かみを感じさせる木目の階段で、それは何
処の家にでもある普通の階段だった。
 そして二階からが寮として機能し、食堂と、リビング兼談話室があり、そこにはテレビも置かれている。自主学習を促す為の図書室もあって、世間のいう寮生活というイメージからは、リョーマが通っている
お嬢様学校は完全に隔絶している色合いが強いだろう。
 そんな寮だったから、プライバシーは保たれたまま、誰もが快適な寮生活を送っていた。リョーマもそ
んな寮生活を快適に送り、週末実家に帰宅している。そして大抵の場合、恋人に過保護な桃城が、最
寄り駅まで迎えに来るのだ。桃城も南次郎に負けず劣らず、リョーマには過保護すぎる程、過保護だっ
たから、極力リョーマを電車に一人で乗せたくはないという過保護ぶりだ。実際リョーマは見知らぬ男に
お持ち帰りされても可笑しくはない容姿をしているから、桃城の心配も最もなものだった。
 リョーマは桃城のメールに返信すると、携帯をジャケットと同系色の淡いピンクのバッグにしまい、白い
ショートブーツを履き、室内を出ようとした時だった。
「リマ!」
 ノックの音と同時に、寮の友人であり、クラスメイトでもある、藤沢 晶(アキ)が、突然慌てた様子で室
内に飛び込んでくるのに、リョーマは半瞬キョトンとした貌で、開いた扉の目の前で佇む結果になった。
「何?」
 活動的なジーンズ姿で、淡い栗毛に軽いウェーブのきいた髪を揺らす友人が、慌てることはそうそうな
い。
 女子校という特殊な環境に身を置きリョーマが痛感したことは、女子校という場所は、良いも悪いも男
性の眼がない分羞じらいが薄く、そして下級生が上級生に見せる眼差しは、時には宝塚的なノリがあ
るということだった。
 特にこの友人は活動的な行動力と、見た目とは裏腹の竹を割ったようなあっさりした性格の所為か、
下級生から異様にモテる。その友人が、慌てた様子で他人の部屋に飛び込んでくることは滅多にない
から、一体何事かと、リョーマは不思議そうな表情を刻み付けた。
「お願い!」
 晶はリョーマの前でパンと拝むように両手を会わせると、
「今夜付き合って!」
 早口で話し、頭を下げた。淡い栗毛がサラリと揺れる。
「何かあったの?」
 自分と気の会う友人が、珍しくも慌てた様子を見せているのに、リョーマはますます意味が判らないと
細い首を傾げた。
「合コンの面子が、一人足りないのよ」
「合コン?」
 友人の科白にリキョトンと瞬きを繰り返すと、次には攅眉を刻み付けた。
 そういえばこの友人達は、近隣の高校生と合コンを開いていると聴いたことがあった。けれど自分に
は桃城が居ることが周囲には知れ渡っているから、誘われたことはないのだ。それが突然一体何事か
と、リョーマはますます訝しげに眼前の友人の聡明な貌を眺めた。
「ホラ、あの例の男子校。あっちからやらないかって話しが持ち込まれたのよ」
 都内でも進学校として有名な男子校は、やはりここのお嬢様学校と負けず劣らずの学校で、面食い
の女子達が喜ぶ程度には、顔がイイ面子がいるということでも、有名らしい。けれどリョーマには欠片も
興味もなかったから、女子達の噂話しは右から左に綺麗に流れていた。
「私これから帰るんだけど」
「ちょっとだけでも、顔だせない?」
「ダメ」
「リマ〜〜〜」
「だって桃先輩、迎えにきちゃってるし」
 桃城からのメールの内容は、駅に着いたという連絡で、そのメールに、リョーマもこれから駅に向うと
返信したのだ。
 心配性の桃城のことだ。寮から最寄り駅までは歩いてもさして掛からない。それを考えれば、予定時
間に着かなければ、またメールが入るだろうし、きっともう途中まで寮に向う道を歩いているだろう。
駅から寮までの道筋は、決まっている。
「そこをなんとか」
「……別に私じゃなくても、いいんじゃない?」
 やけに拘るなと聴けば、友人は悪戯気にペロリと舌を出し、
「リマ呼んでほしいって、言われちゃったんだよねぇ」
 明るい笑顔を見せている友人に、リョーマは思い切り呆れた。それでも憎めないのは、彼女の明るい
性格だろう。
「………ダメに決まってるでしょ?絶対いかない」
 それでなくても桃城は、過保護の心配性だ。そんな場所に出るなど知ったら、合コン場所まで迎えに
来るに決まっているし、まず絶対に、行かせてはもらえない。
 何より見知らぬ男子と会って、何が楽しいのかリョーマには理解できないから、合コンなど、欠片の興
味も湧かない代物だった。
「彼氏が怒る?」
 三年進級時、中途編入してきた帰国子女のこの友人には、先輩と呼んでいる彼氏がいる。お嬢様学
校のわりに、校則や寮の規則が比較的緩やかなこの学校で、彼氏がいる女子生徒など珍しくもなかっ
た。けれど帰国子女である筈のリョーマが、先輩と呼ぶ彼氏を持っている不思議さを知る者は、けれど
校内でも寮内でも、存在しない。 
「怒らないけど、心配させるし。私も行きたくないの」
 ナチュラルに惚気ている自覚は、当然リョーマには皆無だ。
「ちょっとだけでもダメ?」
「彼氏同伴でいいなら」
 珍しくもごねる友人に、リョーマが莞爾と笑って口を開けば、晶は心底呆れた表情を刻み付け、ガック
リ薄い肩を落として溜め息を吐いた。
「まぁそう言うとは思ってたけどね。リマは自覚ないかもしれないけど、結構近隣の男子からはチェック
入ってるからね」
 以前リョーマを迎えにきた桃城を見た時、明るい笑顔が眩しい、今時の高校生に見えた。けれど惚気
ているつもりは微塵もないのだろう、リョーマから聞かされる桃城は、ひどく恋人を大切にしてる彼氏だ
ったから、彼女が近隣男子からなんと呼ばれているかも、チェック済みだろうと思えた。そして晶の予想
はビンゴだった。桃城はしっかり知っているのだ。リョーマが近隣男子達から、何と呼ばれているのか。
「チェック?なんの?」
「まったく、世間知らずはこれだから」
 友人の呆れたような溜め息に、リョーマは途端に憮然となる。それは桃城にも、繰り返し言われてい
る科白だったからだ。そしてリョーマには、桃城が繰り言のように口にする科白に自覚はないから、その
点に於いて、桃城とリョーマの間には、意思疎通は図れていないらしい。
「自覚しなきゃダメだよ。近隣の男子からは、マドンナとか言われてるんだからね」
「………バッカじゃないの?」
 友人の科白が、一瞬では脳内に伝達されなかったのだろう。リョーマは半瞬キョトンとした貌をして、
次には心底呆れた様子で嫌そうな貌をした。そしてそんなリョーマの表情を、晶は呆れた様子で凝視し
ている。
 世間ズレしているとは思っていたものの、ここまでとは思っていなかったのだろう。普通女子なら、多
かれ少かれ、男子からモテれば、喜ぶのは当然だったからだ。けれどリョーマは違う。心底嫌そうな表
情をしているのが、その証拠だろう。それは裏を返せば、リョーマがどれだけ彼氏である桃城に、大切
にされているかを物語っている。
「リマって、彼氏に甘やかされてるもんねぇ」
「あの人、私甘やかすの趣味だって公言してるから、いいんじゃないの?」
 青学に在籍当時から、桃城は莫迦みたいに甘い先輩だった。一体何を好き好んで、後輩の送迎を喜
々としてしているのかと思っていたものの、それが自分も嬉しかったし、桃城といるのが一番心が和ら
いだ。きっとあの時から、無自覚な恋は始まっていたのだろう。自分が女にならなければ、それはきっと
自覚のないまま昇華されていたに違いない。けれど今は違う。
 恋人同士となった現在、桃城は恋人を甘やかすのが一番の趣味と、公言して憚らない性格になって
いた。元々リョーマには過保護だったその性格は、さらに輪を掛けた性格になっているものの、それでも
リョーマを束縛しない器の大きさは、一体何処からくるのか?リョーマにも判らなかった。
 ナチュラルに惚気を聞かされる羽目に陥った友人は、半瞬溜め息を吐き出すと、再びリョーマの携帯
がバッグの中で音をたてた。それはディスプレイで確認するまでもなく、桃城はもう既に近所まで来てい
るというメールだろう。
 少しばかり慌てた様子でバックから携帯を取り出すと、リョーマは画面で桃城のメールの中身を確認
すると、
「じゃぁ晶、私行くからね。桃先輩もうそこまで迎えにきちゃってるし」
 流石に女子校の女子寮まで堂々と迎えにくるのは桃城でも憚られるのか、寮のごく近所で待っている
というメールだった。
 友人の晶の背を押し一緒に部屋を出ると、リョーマは扉に鍵を掛けた。外観だけを見るなら瀟洒なマ
ンションにしか見えない寮は、けれど一歩ロビーから上に上がれば、そこがマンションではなく、寮の形
態を保っていると判る。床は無機質なリノリウムではなくフローリングで、スリッパで歩けるようにできて
いる。家庭から離れていても、家庭を感じさせる作りが生かされているのだ。
「じゃあね」
「ハイハイ、しっかり彼氏に甘えてきな」
 慌てた様子で小走りに一階へと向う友人の背に、晶ヒラヒラと手を降った。
「フラれられちゃったわね」
 そんな晶の背後から、ネコのように気配も足音も感じさせず現れた友人に、けれど晶は別段驚いた様
子も覗かせず、肩を竦めた。
「輝夜、あんた黙って見てないでよ」
「アラだって、邪魔しちゃ悪いと思って」
 名前に相応しい見事な黒髪をサラリと揺らし、輝夜は笑う。中学生とは思えない落ち着きと、その見
事な黒髪と相俟って、細面の典型的な日本美人の彼女は、近隣男子達からその名前のとおり、姫と呼
ばれている人物だった。尤もその性格はと言えば、『姫』呼ばれる渾名とは、対極に位置している。
「合コンなんて、実際口実でしょ?リマと出かけたい」
「あの子週末は彼氏にベッタリじゃない?だからたまには連れ出そうと思ってさ」
「リマの彼氏は、実際婚約者の意味合いが強いから、仕方ないんじゃない?」
「婚約者、ねぇ」
 長い黒髪をサラリと揺らす、典型的な日本美人の友人は、幼稚園からの付き合いで、少しばかり勘が
強いことを晶よく知っていた。
 そして何よりも、リョーマが桃城と会う時は、必ず左手の細く白い薬指には、蒼いガラスの指輪が嵌め
られているからだ。それは桃城の手により、リョーマに嵌められたものだと、以前惚気の自覚もなく、リョ
ーマが言っていた科白を二人とも覚えていた。
「甘やかされてるっていうよりは、大切にされまくってるって表現の方が、適格な気がするし」
 熱病に浮かされた恋愛をしていないのは、リョーマを見ていれば簡単に判るものだった。自分の周囲
にいる女友達のように、彼氏とのエッチを赤裸々に面白そうに興じることもなければ、夢見がちな発言も
ないからだった。それが逆に一つ年上の彼氏との関係に、真剣さを感じさせるのだ。そして一度でも友
人の恋人である桃城を見れば、恋人を莫迦みたいに大切にしているのが判ってしまう。
「ちょっと羨ましいなって、思うんだよね」
 無防備に駆け出していった、華奢な背。近隣の男子達からチェックが入るのも頷ける。
「そうだね」
「あ〜〜あ、私もリマみたいないい恋したいなぁ」
 恋人の元に駆け出していった薄い背を思い出し、晶は両腕を後頭部で組むと、
「仕方ない、今夜は輝夜と過ごすか」
「アラ、合コンは?」
 答えなどきかなくても判っている。伊達に幼等部からの付き合いではないのだ。
「リマみたいな恋掴まえるなら、合コンで満足してたら見つからないでしょ?」
 所詮身近で手軽な部分で、異性を見つけて遊ぶだけが目的だ。恋をするなら、そんな手近な部分で
間に合わせていては見つからない。
「だったら取りあえず、お茶に行こうか?」
 駅前にできたちょっと洒落た喫茶店が、最近の二人のお気に入りだった。そして時折この二人に付き
合い、リョーマもフルーツパフェを食べている。性別が変わっても、甘い物好きな部分は変わらないらし
い。

















「遅いから心配したぞ」
 リョーマの暮らす寮のすぐ近所で、恋人が出てくるのを待っていた桃城は、漸く姿を現したリョーマに、
見た目にも判る程、大仰な吐息を漏らした。
「出る時、晶につかまっちゃって」
「掴まった?」
「意味判らないこと言ってた」
 大仰ともいえる安堵の吐息を漏らす桃城の腕に、ごく当たり前のように細い腕を絡ませているリョーマ
は、友人に言われた科白を思い出すものの、自分の容姿に無自覚な分、友人の科白の意味が今一つ
どころか、二つも三つも判らない部分がありすぎて、小首を傾げている。
「どうした?」
 柔らかい髪をサラリと揺らし、自分の隣を歩くリョーマに、桃城は莫迦みたいな倖せを噛み締める。
 違和感の欠片もなく、リョーマは淡いピンクのダウンジャケットを羽織り、白いフワフワのスカートを履き、同色のショートブーツが足許を飾っている。手にはジャケットと同色の小さいショルダーを持っている
姿は、何処から見ても、可憐な少女の姿でしかない。
「合コンに誘われたんだけど」
「合コン?」
 リョーマと合コンという組み合わせが、半瞬では脳内に伝わらなかった桃城は、けれどその科白の意
味を理解した途端、途端に精悍な面差しに渋面を刻み付けた。
「なんとかっていう男子校」
「なんとかって…」
 それは何処だと、桃城はさらに渋面を刻んだものの、リョーマはまったくそんな誘いに興味はなかった
のか、桃城の科白に小首を傾げている。
「リマ〜〜頼むから少しは自覚してくれ」
 自分の容姿の綺麗さに、欠片も自覚がない恋人に、桃城がガックリ脱力したとしても、罪はないだろう。この点に於いてはリョーマが帰国して以来、まったく二人の間に意思疎通はゼロだった。
「ねぇ桃先輩?」
 桃城の脱力など毎度のことなのか気にした様子も覗かせず、リョーマはそういえばと小首を傾げたま
ま、無防備な瞳で頭一つは高い桃城を見上げた。
「晶に言われたんだけど。近隣の男子からはチェックが入ってるから気をつけろってどういう意味?」
「………それマジで言ってるか?」
 今度こそ桃城は、勘弁してくれと、泣きそうに情けない表情をリョーマに向けた。そんな桃城の表情に、リョーマはますます不思議そうな貌をして見せた。
「意味判んない」
「マドンナって言われてるって聞かされなかったか?」
 自分の容姿に欠片も自覚のない恋人を持っている桃城にとって、それはリョーマには言えない頭痛の
種だった。
 青学という場所で、常に行動を共にしていた時分と違い、現在は性別も変わり、その容姿も以前に磨
きを掛け綺麗になっている恋人を持っていれば、心配するなという方が無理というものだろう。まして近
隣の男子にしてみれば、突然フッて湧いたように現れた美少女が、帰国子女だとなれば、それは尾鰭
を付け噂が広まってしまったとしても仕方ない。仕方ないから、リョーマには尚更自覚してほしい桃城だ
った。   
「言われたけど……」
 力説に等しく言われたものの、友人の科白は一向に意味は判らない代物ばかりだ。
「ヘンなの……」
「…リマ…怒るぞ」
 ポツンと呟かれたリョーマの何処か淋しげな横顔に、桃城はその内心を正確に理解して、少しばかり
厳しい表情を滲ませた。
「…だって……事実だし…」
 自分は男でもなく女でもなく、できそこないの半陰陽だと、リョーマは淡いルージュを引いた口唇を噛
み締めた。
 こうして桃城と一緒にいることさえ、時折鋭い刺となり、胸の奥底を抉っていく。
桃城は自分の全てを知り、受け入れてくれている。それが嬉しい反面、どうしようもなく負い目を感じて
しまう。自分と付き合うことがなかったら、桃城はもっとうんと綺麗な人と、一緒にいるとができる筈なの
だ。それでも自分はもう桃城の腕を手放すことができない自覚が、リョーマにはあった。
「それ以上言ってると、口塞ぐぞ」
 足取りが重くなってしまい、最後には止まってしまったリョーマに、厳しい表情をそのままに、桃城は
小作りな頭をグイッと引き寄せると、土曜日の午後で、住宅街とはいえ、人通りがゼロではない見知ら
ぬ家の壁に背を預けた。
「ちょ……桃先輩」
 往来で一体何をするんだと、リョーマが桃城の肩口に顔を埋めたまま抗議の声を上げれば、桃城はさ
らに小作りな頭を抱え込む恰好で、リョーマのほっそりした躯を抱き締める腕に力を込めていく。
「…桃先輩……」
 言葉にされない桃城の心配は、判っていた筈だった。けれどこんな桃城を目の当たりにすれば、それ
は判っていた筈の理解だという、勝手解釈なものだったのだと痛感する。
 待っているから必ず戻ってきてくれ。そんな祈りにも似た願いを口にされた時、リョーマは他の誰でも
ない桃城の元に、戻ってこようと思ったのだから。
「頼むから、そんなふうに言わないでくれ…」
「……ごめんなさい…」  
 くぐもった声が胸に落ちる。痛々しささえ滲ませたその声に、リョーマは桃城の背にソッと腕を回した。
 中学一年の、全国大会が終わった夏の終わり。祭りの後の心地好い疲労感を、全て奪い取っていっ
た悍ましい事実。もう二度と、桃城達とテニスをすることは叶わない躯になってしまったのだと告げられ
た凛冽さは、きっと誰にも判らないだろう。それでも、告げられた事実に崩れなかったのは、桃城の言葉
があったからだ。
 必死ささえ滲ませ告げられた科白には、一抹の憐憫も感じ取ることはできなかった。伝わってきたの
は真摯な祈りにも似た願いだけで、それだけが当時のリョーマの唯一の支えだった。たとえそれが、切
れ端の端を掴む程度の脆弱なものだったとしても、当時の自分には桃城の言葉だけが全てだったと、リ
ョーマは桃城の肩口に深く頭を預けた。
「リマは、リマだろう?」
 リョーマで在った時も、リマで在る現在も。自分にとっては、何より大切で唯一の存在なのには変わり
ない。たとえ性別は変わったとしても、その魂に変わりはない。だから自分を卑下するような気持ちを、
欠片でも持ってほしくはなかったのだ。
「大体そんなふうに思ったら、リマを大切にしてくれてる人達のことも、卑下してることになるんだぞ」
 指に馴染んだ柔らかい髪は、かつてと何一つの変わりもない。以前もよくリョーマの髪を弄ぶように梳
いていた。あの当時から、リョーマの髪を梳いて、腕をたたき落とされなかったのは、桃城だけだった。
 それは当時から二人の精神的距離を物語っていたのだと、こんな時になった気付くあたり、自分も大
概マヌケだと、桃城は内心苦笑を漏らした。
 戻ってきてくれと必死な願いを口にして、初めて自分の想いに気付いた。それまでお手軽な恋愛ごっ
こはしてきても、本気で誰かに想いを預けたことなどなかったのだから。
 テニスの才を与えられた小生意気な後輩がとても大切だったのだと、あの時気付いた。戻ってきてく
れたら、今度こそ見誤らず、リョーマを受け止めたいと自分に誓ったのだ。たとえそれが大人から見れば、子供の絵空ことのように、脆弱なものだったとしてもだ。
 閑静な住宅街の往来だ。他人から見たら、子供がラブシーンを演じているようにしか見えないだろう姿
に、好奇な視線があからさまに向けられる。それでも桃城はリョーマを抱き締めたまま、腕を離すことは
ない。
「親父さんも、お袋さんも、友達もな」
 勿論俺もだぞと、桃城はクシャクシャと柔らかい髪を掻き乱せば、甘いフローラル系の香りが仄かに立
ち上ぼってくる。
リョーマの髪が以前と違うというなら、今は少女らしい甘やかさが仄かに漂っている、その差程度だ。
「だから、頼むから、ここにいてくれ」
 負い目を感じるな、そんな必要はないのだと、言葉にするのはとても簡単なことだろう。けれどだから
こそ、桃城はそんな科白を軽く口にするのを何より嫌った。どう言った所で、リョーマの負い目は軽くは
ならない。決して肩代わりのできない重いものを、リョーマはこの薄い肩で一人で受け止めているのだ。
だからこそ安易な科白で宥めることを、桃城は何より嫌った。それはリョーマが自分と向き合い、一つ一
つ、少しずつ昇華していくしか術はないことを、誰より判っているからだ。
「……桃先輩は……」
 いいの?こんなできそこないの自分で?
それは幾度も言葉に出そうとして、飲み込んできた言葉だった。そんな問いをすれば、桃城を傷つける
ことも、哀しませることも判っていた。けれど言葉に乗せることができなかったのは、万が一にも肯定さ
れてしまった時、自分が立っていられない怖さがあったからだ。
「リマしかいらない」
 頼むから、それだけは覚えていてほしいと、桃城は往来で華奢な躯を抱き竦めた。そんな二人に、あ
からさまな好奇な視線と、大人達の呆れた視線が投げ付けられるが、今の二人に、そんなものを気に
する余裕は欠片もなかった。




















「でもマジで、自覚してくれよ」
 寮に近い場所で、どんな事情があれ抱き合ってなどいたら、通り掛かった近隣の住人に、謂れない流
言飛語をされても仕方ない状況だっただろう。迂闊な行動をとることが少ない桃城にしては、珍しい失
態だった。
「それこそ下らない噂だって、思わないの?」
 閑静な住宅街の往来で抱き締められたことを思い出せば、少しばかりの気恥ずかしさに、リョーマは
桃城から視線を逸らしたまま、それでも腕はしっかり組んでいる。そんな仕草が当たり前のようにできて
いる自覚は、きっとリョーマにはないのだろう。
「下らない噂の訳あるかって」
 帰国子女の美少女という噂が、まったく莫迦げた下らない噂ではないあたり、男子の情報網も伊達で
はないのだと、桃城は知っている。
 ゲームとネットと携帯電話の無機質な文字の羅列で、人間関係の形成手段が稀薄な子供達が増え
る一方の中、現実と仮想現実の区別がつかず、関係妄想に陥る莫迦な子供も少なくはない。IT産業の
利益の裏で、社会病理は歪んだまま深まっていく。 思考力と想像力を育てられなかった未熟な子供
が、莫迦な事件を罪悪感もなく引き起こす社会事象を考えれば、桃城の心配は、決して見当違いの心
配ではないのだから。
「桃先輩、心配性」
 クスリと、花のような淡い笑みが零れ落ちる。
「リマが安心させてくれないからだろう?」
 容姿の綺麗な自覚と危機感でも持ってくれたら、自分の心配は多少は減るのかもしれないなと、桃城
は天を仰いで大仰に溜め息を吐いた。
「間違っても、合コンに参加なんてダメだぞ」
「興味ないし」
「興味あっても、ダメだからな」
「桃先輩は?」
 それこそ自分より、桃城の方にこそ、こんな誘いは幾らでもありそうだと、リョーマは悪戯気に隣を歩く、頭一つ以上高い桃城に視線を向ければ、桃城は案の定そうなのだろう。目線を泳がせ、ポリポリと蟀
谷を掻いた。
「……人のこと言えないじゃん」
 口調がついうっかりと、懐かしい響きを伴って漏れ出るのに、桃城は半瞬リョーマを見凝め、次に深い
笑みを滲ませ、柔らかい髪をクシャクシャと掻き混ぜる。
「断ってるよ」
「……つまみ食い、してるんじゃないの?」
「……なんちゅー科白言うんだ」
 一体何処でそんな科白を覚えたんだと、桃城は苦笑する。
けれどリョーマはそんな軽口では騙されないとばかりに、まろい瞳が桃城を凝視している。
「誘われてるけどな」
 そんな可愛い表情して睨むなよと、桃城は降参とばかりに両腕を上げると、サラリと合コンの誘いを受
けていると口にする。
「でも行く必要ないだろう?」
 高等部に進学し、海堂と二人でテニス部のレギュラーになった現在、脇目を振っている時間は、桃城
にはなかった。何よりリョーマと再会した時、桃城は自らに課したものがあった。
 そして週末には、こうして綺麗な恋人との逢瀬に勤しんでいれば、見知らぬ女との出会いをセッティン
グしてもらう必要など、何処にもないのは当然だろう。
「だったら、私も同じ」
 コトンと桃城の肩口に小作りな頭を預けると、リョーマは淡い笑みを滲ませる。
 一緒にテニスをしていたあの時から、桃城がモテるのは知っているし、実際告白シーンに出くわしたこ
ともある。告白されれば、誰とでも気軽に恋愛ができそうな桃城は、けれど誰の告白にも頷かなかった
ことも知っている。当時はなんでかと思っていたものの、こうして恋人同志になれば、桃城の誠実さは嫌
という程実感できる。手軽に恋愛という言葉は、今の桃城を知れば、尤も遠いものだと痛感する。すれ
ば、擽ったい気持ちで大切にされているのだということも、嫌という程思い知る。
「行く必要、ないから」
「でもまぁよく考えたら、中学生が合コンってのは、こぉ何か、間違ってないか?」
 今更当然の問題を口にして、桃城はリョーマの掌を不意に掬い上げる。
「高校生もじゃないの?」
 不意に掬い握られた手の温度。深まる秋に、温もりが愛しいと思った。
 警戒心を殺ぐ桃城の笑顔と、話術の巧みさは、きっと合コンという場所に出れば、遺憾なく発揮される
類いのものだろう。それでも週末ごとに、テニス部の練習が終わって駆け付けてくる桃城に、リョーマは
桃城の誠実さを疑ったことはない。そんな不安を、リョーマは桃城から与えられたことはない。
「俺達には、一生縁がない代物だろうな」
 細い左手をやんわり握れば、リョーマの薬指には夏祭りで買った蒼いガラスの指輪が嵌められている。それは週末逢うごとに、リョーマの細い指に収まっている。その感触を楽しみながら、節のある長い指
先が、存在を確かめるように握られる。
「恥ずかしい人」
 緩く握られてくる桃城の節のある長い指。腕を組むことにはもう慣れたものの、こうして手を握る行為
は腕を組む以上の気恥ずかしさを伴って、リョーマの身の裡の何処かを甘く擽っていく。それでも振り解
くことはせず、リョーマは桃城の指をやんわり握り返した。
 触れ合う手と手の温度が、まるで互いの心のように流れ込んでくるのに、二人は離さないとでも言うかのように指先に力をいれると、青春台へと向う駅の改札をくぐった。
 雑踏の中でも、掴んだ腕を離さないように。そんな願いを込めながら。