結局傘もささずにリョーマの自宅まで帰り着いた二人を出迎えたのは南次郎で、父親の盛大な呆れ
顔にリョーマは憮然となったが、桃城は南次郎の言いたいことの欠片程度は判るから、蟀谷を引っ掻き、ついつい視線を彷徨わせてしまった。
何を好き好んで雪の降る最中迎えになど行っているのかと思う。過保護で心配性なのは判っていたも
のの、それは結局桃城の認識を、表面をなぞった程度しか理解していなかったのかもしれないなと、南
次郎は桃城の認識を上書きする羽目に陥った。
ヒトは誰もが、自分を中心に物事を優先させる生き物だ。けれど桃城は違うのだと改めて思い知らさ
れれば、リョーマはどれだけ大切にされているのかと思えた。その精神の強靭さには、親として心底頭
が下がる南次郎だった。
そんな南次郎の思いなど欠片も知らず、桃城はリョーマの部屋に居た。
再会した当初こそ、部屋の場所も移り、中身も以前とは変わって少女のものになっている室内に、桃
城は物凄く慎重になり、足を踏み込むことも何処かで躊躇していた節が見受けられた。けれど毎週リョ
ーマの部屋に上がり込んでいれば、当初の躊躇いなど綺麗に消え去って、今ではしっかり所定位置が
ある。
ドアを正面から見える場所。背後には窓。そこが桃城の定位置だ。そこに座り、桃城は室内を見渡し
た。
以前のリョーマの部屋とは似てもに付かない室内。以前は年相応にゲーム祖父とが散乱していた部
屋だったが、この部屋にそんなものは見当たらない。けれどまったくその手合いのものをしなくなったの
かと言えば、どうやら寮ではしているらしく、仲の良い晶や輝夜と対戦ゲームもしているらしい。これに
は流石の桃城も頭を抱えた。
女子寮の一室で、ゲームに熱中している少女三人組。リョーマと仲の良い少女二名を知っている分、
熱中した場合の光景も想像がついた。
負けず嫌いが災いして、どうせ碌なことなどしていないのは丸分かりだ。
「そーいうところは、全然変わらないからなぁ」
ついつい遠い眼をしてしまう桃城に、罪はないだろう。それは実感の籠った認識だったからだ。
二人で過ごす時間の中、桃城の部屋でゲームなど始めてしまえば、甘い雰囲気が霧散したことは一度
や二度ではなかった。以来リョーマが訪ねてきた場合、桃城はゲームの類いをすることはなくなった。
恋人としては、もっと大切な時間があるだろうと思うからだ。
遠い眼をしたまま室内を見渡して、ある一点で視線が止まる。桃城の自覚の有無は別にして、それは
毎回、回帰する場所のように、桃城の視線は必ずそこで止まる。まるで儀式めいた感慨だった。
以前とは変わった部屋の中身。綺麗に整えられたベッド。以前なら有り得なかった、料理の本やレシ
ピが詰まった書棚。けれどそんな本達に紛れ込み、丁重にスクラップされたファイルが在る。その中身
が一体何か、判らない桃城ではなかった。別段リョーマも隠している訳でなかったから、以前秘密を分
け与えてくれるかのように、その中身を見せてくれたことがあった。 そこに丁重に保存されていたのは、中学一年の夏の終わり、別れて以来の桃城を中心にした、かつての仲間達の活躍だった。
室内を見渡す桃城の視線は、必ず最後には机の横に立て掛けてあるテニスバッグに帰結される。
それはまるで回帰するかのように、可笑しいくらいにその場所で止まるのだ。
再会した当初は赤いラケットが一本。名残のように置いてあった。けれど桃城と付き合うようになり、
その時間の中で遊び程度のテニスをするようになってから、リョーマは以前使用していた部屋から、青
学のテニスバックだけはこの部屋に移していた。今でもテニスバックの中には、リョーマのトレードマーク
とも言える赤いラケットが三本入っている。
長時間の試合をこなす体力は失われてしまったものの、遊び程度のテニスなら、リョーマは十分でき
るのだ。尤も、テニスを知らない者から見れば、リョーマのテニスは十分遊びの域ではなかったのだけ
れど。リョーマのテニスは試合時間に関する体力を除けば、天性の才を今なお健在だ。試合を続けられ
る体力が奪われることがなければ、リョーマは性別が変わってしまった今も、世界を目指していただろう。
誰もを魅了する鮮やかなテニス。静謐に研ぎ澄まされていくリョーマのテニスは、医学的にも症例が
少ない病に陥らなければ、世界がリョーマの名を呼んだだろう。リョーマは間違いなく、テニスに選ばれ
た子供だったのだから。
「…リマ……」
「なぁに?」
頭上から降る声に、咄嗟に視線を向ければ、少しだけ困ったような表情で見下ろしてくる空色の視線
とぶつかって、桃城は何ともいえない表情を刻み付けた。
「ナァァ」
リョーマの足下には愛猫のカルピンがいて、一週間ぶりに会う飼い主に、甘えて戯れついている。
「…悪い…」
「謝るようなこと、何かしたの?」
小さいテーブルにトレイを置くと、リョーマは仕方ない人と吐息を漏らし、桃城の懐に潜り込んだ。当然
のように細い腕の中には愛猫がいて、甘えたな鳴き声を上げている。
エアコンが聴いている室内は、桃城には少しばかり暑すぎるのか、制服の上着を脱いでいる。触れる
体温に躯の何処かが安堵するのが可笑しい程に判った。
「辛い?」
桃城の内心など、リョーマには丸判りだ。それが少しだけリョーマにも痛かった。
「らしくないよな」
辛いという言葉を吐けるとしたら、それは当事者のリョーマ自身で、リョーマを見てきた南次郎達だ。
自分がおこがましくも言える科白ではない程度のことは、桃城も判っていた。
けれど理性と感情は別物だ。心の何処かが鈍く痛む。
「らしいでしょ?桃先輩って、自分で思ってるより遥かに感傷的だし」
「……そうか?」
「それでも思考回路は基本的にポジティブだから、前に進めるんだろうし」
だからこそ、性別の変わってしまった自分を受け入れることができたんだろうと、リョーマは思う。けれ
どそれは決して口に出せない科白だ。言えば桃城を何より哀しませる言葉だったからだ。
「桃先輩は、取り違えないから」
だから安心していられると、リョーマはコトンと擬音を響かせ、桃城の胸板に背を凭れた。
「リマ……」
触れる温もりを緩く抱き締め、柔らかい髪に顔を埋めれば、室温で暖められた柔髪は、凍えるような冷
たさを残してはいなかった。
「それより、ねぇ?」
冬限定のホットチョコと、桃城のマグカップを手渡せば、桃城は湯気の揺れる甘い芳香に口付ける。
一口口を付ければ、懐かしい味が口内に広がる。子供の頃、よく母親が淹れてくれたココアの味だ。
けれど純ココアを作っているのだろうそれは、ココアというよりホットチョコレートで、けれど甘いだけが舌
先に残ることのない味をしていた。
「なんかちょっと違うな?」
「判った?」
「普通のホットチョコじゃないな」
もともと甘いものを好んで飲む桃城ではなかったが、記憶に残るホットチョコレートの味と、微妙に何か
が違っていた。
「ちょっと一工夫してみたんだけど」
美味しい?と背後を振り返り目線で尋ねれば、桃城は味わうようにホットチョコを飲んでいる。
「何入ってるんだ?」
「コアントロー」
「って?」
「正確には、これってホットチョコじゃなくて、ココアカクテル」
「カクテル?」
リョーマの悪戯気な表情に、桃城はらしくもなくキョトンとなる。
高校生にもなれば、ビールやちょっとした酒は飲むから、程度のものなら酒の味は判る。けれど今飲
んでいるものからは、酒らしい味はしなかった。
「コアントローってね、オレンジリキュールのこと」
「ああ、だからカクテルか」
甘い果実酒を使っているからカクテルなのかと納得する。
リキュールをストレートで飲まない限りは、そのリキュール本来の味は判らない。けれどこうして一工夫
しただけで、違う味になるココアに、桃城は素直に驚いていた。
「やっぱりリマの淹れてくれたお茶の味に慣れると、他では飲めないな」
それは素直な賛辞だ。だからそれはちょっと困るんだぞと、桃城は嘯いて笑う。
「学食の珈琲が、飲めなくなったからな」
私立の青学は、中等部にも高等部にも学食がある。以前なら何でもなく口にしてきた珈琲も、リョーマ
の淹れてくれる珈琲や紅茶の味に慣らされてしまった今、桃城は学食でそれらのお茶が飲めなくなった
という顛末が付く。間に合わせで飲む以外には、好んで飲むこともなくなった。こうして週末リョーマの部
屋で、リョーマ手ずから淹れてくれるお茶を堪能するのが、何より贅沢な時間だった。
「もともと桃先輩、学食の珈琲なんて飲んでなかったんじゃない?」
記憶を漁ってみても、桃城は中等部時代も学食で珈琲を飲んでいる記憶はリョーマにはない。
「まぁな、どっちかっていうとスポーツ飲料だしな」
「じゃあ問題なし」
私の所為じゃないしとリョーマが笑えば、桃城は思い出したように口を開いた。
「そーいえばこれって、バレンタインのチョコか?」
「……はぁ?」
間抜けた桃城の質問に、リョーマは半瞬何を言われているのか判らなかったくらいだ。
「やっ、もうじきバレンタインだろ?」
駅ビルは凄かったぞと、数時間前に見た光景を思い出せば、リョーマは意味深に笑って桃城に向き直
った。
「幾つもらえるかの心配?」
「なんでそんな心配するんだ」
「本命チョコ、幾つも貰うでしょ?」
桃城に想いを寄せる少女は、少なくはない筈だ。ここ最近精悍になっていく面差しは、少年から青年
の輪郭を際立たせている。ましてテニスをしている時の桃城は、強烈な雄を匂わせているから、少女達
が惹かれてしまっても当然だろう。
「桃先輩って、テニスしてる時フェロモン出してるし」
「……リマ〜〜」
なんだそりゃ?と、リョーマの科白に桃城は情けない様子で華奢な躯を抱き締める。
「ねぇ?」
「俺がリマ以外から、受け取る筈ないだろうが」
そーいうリマはどうなんだと尋ねれば、リョーマは小首を傾げ、
「作るに決まってるでしょ?定番のガトーショコラ。バレンタインは平日だから、明日の午前中に作って、
明日午後に持ってくから」
「明日……」
「勿論泊まりね」
「リマ〜〜なんで知ってるんだよ」
「叔母さんからメール貰ったの」
「お袋〜〜」
端的な科白に、桃城は本気で頭を抱えた。
昨年の自分の誕生日、不測の事態とはいえ、遊びにきていたリョーマを残し、鎌倉の実家に戻って言
った母親だ。美味しく据膳を頂きなさいよという言外まで聞こえた気がして、あの時も桃城は頭を抱えた
が、今もそれは続いているのかと思えば、それはそれで勘弁してくれということになる。
「第一なんでお袋がリマのメルアド知ってるんだよ」
「交換したからに決まってるでしょ?」
莞爾と笑うリョーマに、桃城は落涙する。
「明日鎌倉の実家に泊まりにいくから、武を宜しくねって言われたから」
だからちゃんと夕食も作ってあげるからと、桃城の落涙を余所に、リョーマは楽しげだ。けれど爆弾発
言はその後だ。
「勿論その後もね」
「………」
そっちがメインだし?と笑うリョーマに、桃城は額に手を当て、遠い眼をした。
積極的な恋人は勿論嬉しい。据膳となれば尚更だ。美味しく頂かなければ男が廃る。けれど積極的す
ぎるのは如何なものよ?と、桃城は内心で母親に悪口雑言を叩いた。
「だから今日は、我慢してあげる」
「まったく…」
勝ち気な性格は以前のまま、リョーマは綺麗になっていく。それが恋人として嬉しい反面、男の生理
上困ることも多々存在するのだ。まして『我慢してあげる』と、綺麗な笑みを見せつけられたら、ガラス並
みと自覚している理性など、簡単に引き千切れて行くのは当たり前の結果だ。
華奢な躯を腕にしていれば、抱きたい衝動が止められないのはいつものことだ。けれど性別の変わっ
たリョーマに、なるべく負担をかけたくはなかったから、衝動で抱くような真似を、桃城は今までしてきた
ことはない。
そんな桃城の理性を、けれど毎回無駄にするのはリョーマの勝ち気さだ。抑え込む桃城の理性の在
処などあっさり見透かして、ピンポイントで雄の本能を直撃してくる。それもどうやら当人には無自覚らし
いから、性質の悪さは二乗どころか三乗だった。
「知らないぞ、そんな無防備に綺麗だと」
内心白旗を上げ理性を放り投げると、桃城は綺麗な輪郭を包み込み、言葉とは裏腹の丁重さで、酷
薄な口唇に口吻を落す。
「ん…」
それはすぐに貪りあう濡れた音を立て、リョーマはフローリングの床の上に押し倒された。
「あっ……」
舌と舌とを絡み付かせ、口唇で媾合うかのように噛み付くように口吻を交わし、耳朶に移動した桃城
の舌に敏感な箇所を舐め上げられ、敏感な躯は羞かしい程、顕著な反応を返す。
「リマ…」
「ぁん……」
甘く低い声で呼ばれた名に全身が顫え、細腰が身悶えるように揺れ動く。性感は敏感になっていくの
に、神経は弛緩し、躯から力が抜け落ちていく。
しゃぶり付くように首筋から耳朶を愛撫され、細い首が折れそうに嫌々と揺れ動く。漏れそうになる嬌
声を噛んでいると、婬らな熱はより深く肉の奥へと潜り込み、新たな官能の火種を探り当てられ、怺え
きれない嬌声が口をついてしまう。
「んぅ…」
散々細い首筋から筋から耳朶を往復していた桃城は、再びリョーマの口唇を求めて吐息を塞ぐかのよ
うに重ねてくる。
のし掛かってくる慣れた重み。幅広い肩に両腕を回し、恋しい男の欲情を受け止めて、貪りあう口吻
の合間に、薄く開いた視界の先には、静かに降る白い花片が見える。
「明日は、雪合戦するか?」
リョーマの視線が何処を見ているのか判ったのだろう。静かに音もなく降り続ける雪は、このまま降れ
ば雪合戦程度はできるのかもしれない。
「莫迦…」
掠れた声で甘く笑われ、リョーマも甘い吐息で戯れたような言葉を返す。
「雪が綺麗なのは判るけど、今は俺を見とけよ」
低い声で甘やかに囁くと、桃城は綺麗な恋人の瞼を口唇で優しく塞いでいく。
「これじゃぁ、見えないでしょ?」
くすくす笑うと、リョーマは桃城を求め、細い腕を首筋に回した。
静かに降る白い雪。錫色の空と、白い光景に、境界線が不鮮明になっていく天地の境。せめて抱き合う今は、互いの境界線も溶け合えるように。そんな願いを持ちながら、二人は互いを求めた。
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