第三章
愛しい面影 act 2











 桃城は二年振りに、懐かしい越前家の門を潜った。そこは当時と変わらず緑溢れる庭があり、門から
玄関までは幾重かの石畳が在った。
 玄関を潜った矢先、愛嬌のある鳴き声を上げ、愛猫が懐に飛び込んでくるのを優しい仕草で受け止め
ると、リョーマは桃城を中へと促した。
「タヌキ、久し振りでな」
 細い腕の中で甘えて尻尾を振っているリョーマの愛猫は、当時と変わらず甘えたで、声を掛ければキ
ョトンと首を傾げるようにまろい瞳を見開いて、僅かな間の後、桃城の腕の中へと飛び移った。
「覚えててくれたか〜〜〜」
 二年振りの再会に、戯れついてくるカルピンの背を撫でてやけば、相変わらず愛嬌のある甘えた鳴き
声を上げ、カルピンはますます桃城に戯れ付いていく。
「カルピンが桃先輩覚えてるとは、思わなかった」
 桃城に戯れ付く愛猫に、リョーマは少しだけ喫驚した様子で、愛猫を眺めた。
 元々人見知りの激しかった愛猫は、アメリカでは誰かに懐くことはなく、家族の中でだけ甘えていたか
らだ。
「リマ、帰ったのか?」
 あいつには結局会えたのか?そんな科白を独語しながら、居間から歩いてきた南次郎は、カルピンを
構い倒している桃城の姿を見付けると、らしくない様子で驚いて瞠然となり、次には飄々とした態を纏い
付かせると、
「よぉ、久し振りだな」
 内心など悟らせない笑みを桃城に向けた。
「お久し振りです」
 二年振りに会う南次郎は、相変わらず黒い作務衣を着て、何処から見ても、生草坊主の印象しか感じ
られない。けれどその南次郎が、リョーマのことでどれだけ苦しんだのかは、当時珍しくも憔悴した貌を
隠すことをしなかった南次郎から、桃城でも推し量れるものだった。
「ババアが言う通り、曲者だな」
 二年前の夏、リョーマから全ての事情を聴いた桃城が竜崎に語った覚悟は、そのまま南次郎にも伝
えられ、桃城がいる限り、リョーマは大丈夫だよと、竜崎は南次郎に語った。けれど南次郎は、竜崎の
科白の全てを信じた訳ではなかった。
 桃城の覚悟は、きっと本物だろう。連日どころか朝夕リョーマを尋ねてくる桃城の気持ちを、南次郎は
桃城以上に早くに読み取っていた。そして息子であるリョーマの気持ちも、桃城と大差ない感情である
ことも判っていた。けれど、だからといって、楽観視をするつもりは何処にもなかった。
 覚悟は本物でも、期限のないその気持ちが何処まで続くかは、誰にも判らないからだ。まして中学と
いう多感な年齢だ。いつ戻るとも判らない恋しい相手より、身近な存在に温もりを求めてしまうことがあ
ったとしても、不思議ではない。そうなった時、リョーマは二重三重に苦しむ結果になるから、南次郎は
桃城の覚悟とは別物にして、楽観視をしてはいなかった。けれどそれも杞憂に終わり、桃城の覚悟は
怖い程のものだったのだと、今更悟った。
「お前、実は大莫迦だったんだな」
 リョーマがどれだけ桃城に愛されているのかと思えば、南次郎はそんな憎まれ口を叩くことしかできな
かった。
「莫迦でいいですよ。越前が手に入るなら」
 そして桃城は憎まれ口を叩く南次郎の眸に、らしくない光を見付け、苦笑する。それが南次郎なりの
挨拶なのだと、判っているからだ。
「良かったな、リマ」
 ちゃんと見付けてもらえて、愛されてるじゃねぇかと、笑いながら南次郎が愛娘の柔髪をクシャリと梳
けば、リョーマは僅かに憮然となり、父親の手を払い落とした。
「リマ?」 
 けれど桃城は南次郎が口にした科白に、半瞬怪訝そうに柳眉を寄せ、リョーマを凝視すれば、
「名前、変わったの」
 リョーマは何とも言えない曖昧な貌をして、桃城の腕から愛猫を抱き上げると、淡い笑みを刻み付けた。










「入って」
 二年前まで通い慣れていたリョーマの部屋は、階段を上がってすぐの場所だった。けれど今はその場
所を通り過ぎ、二つ先の部屋の扉をリョーマは開いた。元々家族四人で暮らすには、部屋数が余ってい
た家だ。
「部屋、変わったんだな」
 リョーマの細い肩越しに、開かれた扉の内側に視線を向ければ、部屋の造り自体は同じなものの、中
身がまったく違うことに、桃城は少しだけ驚いた。 
 木目で統一されている室内の作りは同じでも、調度品が明らかに違う。視界に飛び込んできたベッド
は、淡いピンクのケットが掛けられ、ピロケースもケットと同色のピンクで統一され、レースが付いている。
 吸い寄せられるように足を進め室内に入れば、書棚には以前のリョーマには無縁な料理の本が数多
く並んでいて、机の上には、可愛らしい一輪挿しの花瓶があった。開け放たれた窓辺で揺れるカーテン
も、以前とはまったく違う白いレースのカーテンで、遮光用の厚手のカーテンは、淡い暖色系をしている。
 少女が好みそうなヌイグルミなどは置かれていないものの、室内の雰囲気は何処から見ても、少女ら
しい柔らかい空気がそこかしくこに息衝いている。
「今はここが、私の部屋」
 愛猫を抱いたまま、やはり曖昧な笑みを刻み付けているリョーマは、所在なさげに佇み、部屋を見渡
している桃城に、薄い肩を竦めた。
「適当に、座って?」
「適当に、たってな……」
 以前なら迷わず指定席になっている床に腰を落としたものの、少女の部屋で何処に腰掛けていいの
か判らず、桃城が少しだけ困った顔をリョーマに向ければ、リョーマは小首を傾げ、部屋の隅から折り畳
み式の小さいテーブルを持ち出し部屋の中央に広げると、桃城にクッションを手渡した。
「桃先輩、ヘン」
 今更初めてでもないだろうにと笑うリョーマのそれは、けれど桃城にしては十分初めての代物で、再
会して初めて通されたリョーマの部屋で寛ぐには、桃城は緊張しすぎていた。それがリョーマには可笑
しかった。 
「青学の曲者でしょ?」
「越前〜〜〜」
 受け取ったクッションを敷き腰を落とし、改めて部屋を見渡せば、息づく気配は何処までも少女のもの
で、桃城はリョーマの性別が変わったのだと、改めて実感した。
 以前のリョーマなら、桃城にクッションなど渡さなかった。その気遣いに、桃城は何とも複雑そうな笑
みを刻み付けた。
「ちょっとカルみてて」
 飲み物とってくるから。そう言い置くと、リョーマは桃城を残し部屋を出て行った。パタンと小さい音を立
て、扉が閉まる。
「越前に、料理の本ねぇ」
 独語して、桃城は不思議な気持ちで書棚に並ぶ本を眺めた。並んでいる本は料理の本が多く、中で
も取り分けお菓子作りの本が多く並んでいる。リョーマと料理の本という関連がまったく結び付かず首を
捻ると、机の横に、立て掛けるようにして置かれた赤いラケットが眼に入った。それを見た瞬間、精悍な
造作が泣き出しそうに歪み、桃城は赤いラケットを手に取った。
 改めて室内を見渡せば、テニスに関するものは、見える場所にはこのラケットしか置かれてはいない。以前なら、テニスに関連する様々なものが、リョーマの部屋には無造作に転がっていた。けれど今は
違う。それが桃城の胸を締め付けていく。半瞬呼吸が苦しくなり、意識して肺に酸素を取り込み、吐き
出した。
「越前……」
 リョーマが使っていた赤いラケット。それは今も使われているのか、放置されている印象はなく、桃城
の指が懐かしい足跡を辿るように、ラケットに触れていく。
 変容した躯で、リョーマは今でもテニスを続けているのか?桃城には判らなかった。それがひどく苦し
く、呼吸がしづらい。
「タヌキ、越前は今でもテニスを続けてるのか?」
 足許に戯れ付く愛猫に視線を移し問い掛ければ、カルピンは小首を傾げ、愛嬌のある鳴き声を一つ上
げた。
「テニスを失ったら、正気でいられるとは、思えなかったんだけどな」
 リョーマが望む望まないに関わらず、天から与えられたテニスの才。それは恐らく、呼吸する程極自然
にリョーマの傍らに存在し続けていたものだ。だからこそ、リョーマがテニスを失い、正気でいられるとは
思えなかった。それは二年前の夏、性別が変化すると聴いた時も、莫迦みたいにそれだけは疑いもなく、リョーマがテニスを失う可能性を考えもしなかった。けれどこうして変化した有り様を見せつけられると、リョーマテニスを続けているのだろうか?そう思えた。
「私も、そう思ってたんだけど」
 突然掛けられた声に驚いて振り向けば、リョーマは桃城の視線の先で、薄い肩を竦めて笑っている。
「あの二年前の夏。桃先輩達とテニスができなくなるって聞かされた時、生きてられないと思った」
 身の上に起きた災難を聞かされた時、一番最初に脳裏を過ぎったことは、莫迦みたいにそんなことだ
った。
 青い空、白い雲。コートという戦場を共に駆けていく仲間。来年も全国大会を優勝しよう。そう誓い合っ
た矢先だった。
「でも、こうして生きてる…」
 手にしたトレイをテーブルの上に置くと、クッションの上に腰掛ける。淡いピンク色したスカートが、フワ
リと揺れた。
「越前…」
 目線に促され、桃城はラケットを元の位置に丁重に戻すと、リョーマの正面に腰掛ける。
 白皙の貌を縁取る翠髪は、以前より少しだけ長い位置で揺れ、白いニットのアンサンブルが、少女ら
しい線の細さと柔らかさを見せている。それは何処から見ても、綺麗な少女の姿だ。
「何から…話したらいいのか…」
 二年前の夏、寺の境内で今とまったく同じ思いをした。何処から何をどう話したらいいのか?今もあの
時と変わらず、胸の内側には迷いがある。
「名前、リマって変わったんだよな?」
 玄関先で南次郎が口にした名に、変わったのだと教えられた。
「んっ…リョーマの『ョ』の部分を抜かして、『リマ』って。父さんが付けた」
 そうして性別と名前の変更を申請し、戸籍が変わった。
「そっか」    
 リマと、口の中で小さいく反芻すれば、それは桃城の身の裡で、掛け替えのない言霊に変化する。
「んじゃこれからは、そう呼んでいいよな?」
「えっ?」
「越前ってのも、なんかな」
「……桃先輩がタラシって言われるのは、そういう部分じゃないの?」 
 少しだけ呆れてリョーマが笑えば、桃城は苦笑を深めた。
「リマ」
「やっ」
 呼ばれば、胸の奥が言い様のない衝動と甘い困惑に彩られ、羞恥で白磁の貌が色付いていく。
「うん、いい名前だな」
 口に出せば、それは何より掛け替えのない大切な名前になり、胸の奥に、愛しさが降り積もっていく。
「呼ばないでよ」
「いい名前じゃないか」
 色付く貌が俯き羞じらうのに、桃城は抱き締めてしまいたい衝動を怺える羽目に陥った。
「今は、どうしてるんだ?」
 目の前に置かれたクリタスルグラスからは、香ばしいアールグレイの芳香が漂い、氷が割れる涼しい
音が、小さく響く。
そして白い皿の上には、チョコレートケーキが乗っている。
 クリスタルグラスに添えられたストローに、桃城はリョーマが少女になったのだと改めて思う。以前なら直接グラスから飲んでいた為、ストローなど使用しなかったからだ。それは些細な気遣いであるものの、少女なら当然なものなのかもしれない。
「リマ?」
「だから、呼ばないで」
 躊躇いもなく、性別の変わってしまった自分の名を口にする桃城をタラシだと思うものの、恋しい声音
で呼ばれれば、胸の奥が甘い疼きに満たされてしまうから、リョーマはますます羞じらいで頬を染める
結果になった。
「お前が愛されてる証拠なんだから、恥ずかしがるなって」
 羞じらう姿がひどく可憐で、胸の奥から愛しさが迫り上がってくる。同時に、南次郎と倫子が、どれだ
けリョーマを大切に慈しみ、この二年を送ってきたのかが桃城には判った。名前は、親が一番最初に子
供に贈ってやれる贈り物だからだ。
「でも…」
 愛されている子供なのだとは百も承知だ。けれど理解と羞恥はまた別物なのだと、どう説明したら桃
城に判ってもらえるだろうか?
「リ〜〜マ」
「面白がってるでしょう?」
 嬉しそうに自分を呼ぶ声に憮然となり正面を見れば、桃城がひどく倖せそうに笑っているのに、リョー
マの反駁の言葉は、吐息と共に喉の奥へと飲み込まれていった。
「お前が、笑ってくれてるからな」
 憮然となったり羞じらったり、幾重もの表情を見せてくれるリョーマがどうしようもなく愛しかったから、
自分は案外手軽に倖せを満喫できる人間だったんだなと、桃城が内心で暢気に思ってることを、けれど
リョーマは知らない。
「莫迦……」
 臆面もなくそんな科白を口にする桃城は、やはり詐欺師でタラシだと思うものの、性別の変わってしま
った自分を支えてくれていたのは、他の誰でもない桃城の『待っている』と言ってくれた言葉だった。
 まるで切れ端の端を掴むかのように脆弱な拙い約束だけが、自分を支えてくれていた全てだった。
「……私……可笑しくない…?」
 不安気に揺れる色素の薄い空色の瞳が、窺うように桃城を凝視すれば、桃城はリョーマの内心を的確に推し量ったのだろう。精悍な面差しに深い笑みを刻み付けた。
「面白いだろう?日本語って」
 二年前のあの当時、国語が苦手なリョーマを知らないテニス部員は、恐らく存在しなかっただろう。
リョーマに言わせれば、登場人物の心に絶対的な答えが用意されていることが納得できないらしかった
が、リョーマの頭の作りは理数系だったことも、影響しているのだろう。その所為で、リョーマの一学期
の中間期末の国語の点数は、理数系科目と比較すれば、あまりに無残なもので、部長の手塚に溜め
息を吐かせることに成功していたくらいだ。
「英語なら『私』も『俺』も『I』の一つしかない。でも日本語は、違うからな」
「ぅん…」
「可笑しくないし、言ったろ?綺麗になったって」
「…本当……?」
 綺麗になったという言葉はまったく信用できなかったけれど、『私』という言葉を用いる自分は、桃城に
可笑しく映っていないだろうか?それだけが、リョーマには不安だった。
 今日も鏡の前で何時間も服を選び、駅へと向かった。見付けてもらえる可能性などゼロだと思ってい
た気持ちは別物にして、鏡の前で何枚を服を当て散々に迷い、髪を梳いて、淡いルージュを引いた。
 そんな自分は、桃城の眼に可笑しく映ってはいないだろうか?今までなら、そんな不安を感じずにす
んだ。けれどこうして桃城の視線の前に身を曝せば、それが何より怖いと意識する。
「本当、信用しろって。お前にだけは、嘘なんて付かないから」
 むしろ綺麗になりすぎて、それこそ変な虫が付かないか、心配なのは自分の方だと思う桃城だった。
 元々自分の容姿に無頓着だったリョーマだ。それはどうやら少女になってもさした変化はないらしいか
ら、桃城に言わせれば、頼むから少しは自覚してくれということになる。
「その服だって、ちゃんと自分に似合うのを選べてる。自信を持って、いいんだぞ」
「……私、寮生活してて…週末帰ってきてるの」
「寮?」
 唐突に口にされた科白に、桃城は思ってもいなかった事実に、半瞬面食らった。
 テニス以外には、自分自身にも周囲にも無頓着だったリョーマが、寮生活を送っているという事実が、
桃城には瞬時に理解できなかったからだ。
「桜ノ宮女学院って、知ってる?」
「ってお前、都内どころか全国でも有名な女子中じゃないか」
 それはただ有名なだけではなく、全国有数のお嬢様学校として名高い学院だったからだ。
 正確には、桜ノ宮短期女子大付属中等部という名前になる学院は、創設は明治時代まで遡れるとい
う由緒正しい女学院だ。
 当時女性は夫に従い、良妻賢母となるよう推し進められた教育方針を由とはせず、これからの女性は
社会進出すべきであるという理念の元に創設された学院だけに、都内ばかりか全国でも有数なお嬢様
学校でありながら、偏差値のランクもかなり上位に位置している。つまり、主体性の欠片もなく、他人に
依存して可愛いだけが取り柄の、今では希少価値のお嬢様を養育する学院ではないということだ。そし
てその女学院は都内に在る為、近隣の男子生徒からは憧れの的としても有名で、桜ノ宮女学院の生
徒は、巷の男子達の間では『桜姫』と呼ばれているくらいだ。だからこそ、リョーマがそんなお嬢様学校
に入学しているとは、こうして当人から告げられても、感情が理解しないのか、桃城は首を捻っている。
「そうなの?よく判らないけど、竜崎先生の勧めもあって」
「やっぱバアさんは、一枚も二枚も噛んでるな」
 それは南次郎がどれだけの憎まれ口を叩こうと、竜崎との精神的距離を物語っているのだろう。いざ
という時、南次郎が相談する相手は、いつだって竜崎だったからだ。
 けれど桃城は知っている。誰もがリョーマという存在を忘れていない以上、その存在の所在も何もかも
に口を噤み、振る舞うことが、どれだけ辛く困難なことか。
「いつからだ?」
「今年の春」
「確かあそこの編入試験って、無茶苦茶難しいって聴いたぞ」
「そぅ?難しかったけど、きっと噂程じゃないと思うけど…」
 けれどリョーマは知らないのだ。それがかなりのランクで難しく、簡単には編入試験をパスしないことを。だから帰国子女ということも手伝って、リョーマは学園内の噂の的なのだから。尤も、相変わらず周囲
には無頓着な部分が拭えないリョーマは、自分が校内の噂の的である事実に気付いてはいない。
「楽しいか?」
 アールグレイのアイスティーに口を付けながら、桃城はひどく穏やかな眼差しで問い掛けた。
 アールグレイ独特の香ばしい芳香と仄かな甘みが、口の中で溶けていく。滅多に紅茶を口にしない桃
城でも、それは紅茶専門店で飲むくらい、美味しいものだと判った。
 以前のリョーマなら、こんな場合は考えるまでもなくファンタが出された。それが今は紅茶が出されて
くるのに、桃城はこんな些細なことでも、リョーマが変わったのだと痛感する。
「楽しいけど、最初は喫驚した」
「女子中だからな」
 私立では珍しい共学の青学で、僅かな期間とはいえ育ったリョーマにしてみれば、女子中はまったく
別世界だっただろう。
「いきなり挨拶に胸触られた」
「……ハァッ?」
 リョーマの科白に脳内では疑問符が飛び交い、その科白の意味が繋がった桃城は、素頓狂な声を張
り上げた。
 それはそうだろう。女子が女子の胸を触って楽しいとは思えないからだ。けれど世間の認識と女子中
や女子校のノリは、対極に位置していることを桃城は知らない。
「寮に引っ越した時、挨拶変わりに胸触られた」
「ちょっ…まて、女にだよな?」
「女子中なんだから当然でしょ?」
「……楽しいのか?」
「さぁ…判らないけど…少なくとも、青学では見掛けなかった」
 リョーマの知る青学の女子生徒と言えば、桜乃と朋香に代表されるものの、二人が互いに胸を触って
騒いでいるとは思えなかったから、女子中は不思議な世界だった。
「いきなり輝夜と晶は胸触ってきたから」
「友達か?」
 突然思い出し笑いに淡い笑みを見せるリョーマに、それなりに女子中で楽しくやっているんだろうなと
ホッとしたものの、前触れなく口にされた名前に、桃城は問い掛ける。
「輝夜は寮長で、二人ともクラスが一緒」
 寮に引っ越した時、寮長と副寮長として挨拶にきた二人は突然リョーマの胸を触りながら、綺麗な笑
顔でよろしくと笑った。
 後に二人が学内の有名人だと判ったものの、その二人が何かと気に掛けリョーマに声を掛けてくれた
から、リョーマはクラスの輪の中に入っていけた。それがなければ、到底女子中で生活している自信は、流石のリョーマにもなかったからだ。最初こそ別世界だと眩暈を感じたものの、慣れてしまえば異性の
視線がない分だけ、ラクなのかもしれないと判った。
「そっか」
「うん」
 そして今のリョーマには、頭の痛い事実もあったけれど、今は未だ桃城にそれは内緒だった。言えば
騒ぐに決まっている。
「二人には、勝手に倶楽部申し込みもされちゃったし」
「そいやお前、その料理の本はなんなんだ?」
 室内に案内された時から気になっていた幾種類もの料理の本は、おおよそ過去のリョーマからは想
像も付かない代物だ。
「そのケーキ、食べてみて」
 意味深に笑うリョーマは、かつてのリョーマとまったく変わりなく、その本質は変化していないことを桃
城に物語っている。 白い皿にそっと添えるように置かれている、デザート用の銀のフォークで、ケーキ
を一口切り分け口に含むと、桃城の表情は驚いた様子で、正面のリョーマを凝視した。
「美味しい?」
 桃城の反応に満足そうに笑うリョーマは、小首を傾げ問い掛ける。
「スゲー美味いぞこれ」
 甘い物が苦手な桃城は、ケーキを口にすることはあまりない。けれどこれは違った。
 チョコレートケーキだと思っていたそれは、バナナチョコレートタルトで、桃城同様、甘い物が苦手な南
次郎が、好んで口にするケーキだった。
 バナナの甘さが引き出される為、砂糖はそれ程使用せず、しっとりした仕上がりに仕上がっている。
同時に、ビターチョコレートの僅かなほろ味が甘さと調和し、味加減は絶妙だ。
「まさか、コレお前が?」
 書棚に並ぶ料理関係の本の中、種類が多いのはお菓子関係の本だ。そこから導き出される答えは、
まさかと疑う余地はあるものの、食い尽くしたケーキと意味深なリョーマの笑みを考え合わせれば、答
えは一つしかない気がした。
「私が今所属してる倶楽部、なんだと思う?」
「料理倶楽部とか?」
「近いけどハズレ。花嫁倶楽部」
「………そんなんあるのかよ?」
 少なくとも、青学には有り得ない倶楽部で、リョーマがそんな倶楽部に在籍していることが、桃城には
何より意外だった。
「流石、お嬢様学校」
 奇妙な関心をして見せる桃城に、リョーマは淡い笑みを刻み付ける。
「料理だけじゃなくて、茶道に華道に着付けもするの」
「なんでまたそんな…」
「今の私の趣味はね、料理、かな?」
「料理〜〜〜?食うばっかだったお前が?」
「あっちでね、何もすることなくて、この際だから料理を覚えろって、母さんと菜々姉に基礎から徹底的に
仕込まれた」
 術後の経過は良好で、入院していたのは二ヶ月程度だったから、退院後は定期的な通院で済んだ。
けれどそれは退屈を持て余す時間の長さと同義語でもあったから、そんなリョーマに料理でもしてみた
ら?そう提案したのは母親の倫子だった。
「リマ……」
 変わってしまった性別の重さは、リョーマが生涯背負っていくものだ。その為に必要なものを、きっと倫
子は教えたのだろう。その為に料理は確かに丁度いいものだったのかもしれない。テニスはできたとし
ても、術後すぐにスポーツはできなかっただろうからだ。
 料理が趣味だと言えるまでに、リョーマは一体どれだけ影で泣いただろうかと思えば、リョーマが一番
辛かった時期、傍に居ることが許されなかった自分に、桃城は腹が煮えた。
 リョーマの置かれた状況で、たとえ自分が傍に居たからといって、何ができたと言う訳ではなかった。
それでも傍にいたかったと思うのは、桃城の気持ちの問題だった。
 きっとリョーマは、手負いの獣がひっそり傷を癒すように、声を殺して泣いていたに違いないのだから。
「そんな表情、しないで」
 少しだけ困ったように笑うと、リョーマは綺麗な仕草でフォークを掬い、ケーキを口にする。
「美味しいでしょう?輝夜達にも、好評なの」
 人に花嫁倶楽部なんて倶楽部を紹介しながら、元凶の二人は料理などまったくせず、人の作った物を
ちゃっかりつまみ食いしていく。けれどそんな学園生活が楽しいのだと、今なら素直にそう思えた。
「そっか」
 リョーマは強いと今更思う。綺麗な魂は綺麗なまま、今も昔も何一つ変わらない。リョーマに誇れる自
分で在りたいと誓ったものの、一体どれだけリョーマと釣り合う男になれただろうか?桃城には判らなか
った。
「なぁ、リマ?」
「なぁに?」
 甘く低い声音に変わった桃城の声に、リョーマは折れそうに細い首を傾げ桃城を凝視すれば、桃城の
眼差しは深い真摯さを映し出し、リョーマを見詰めていた。
「そっち行っていいか?」
 静かな声で告げられた科白に、リョーマは小首を傾げたまま、キョトンと瞬きを繰り返す。
「今更」
 二年前、いつもいつも一緒にいた相手で、そうして初めての口吻を交わした相手だ。
 クスリと小さい笑みを零すリョーマに半瞬見蕩れ、桃城はリョーマの隣に移動すると、静かに腰を落と
した。
「……怖い?」
 以前なら躊躇いもなく髪を梳き、肩に回ってきた腕が、今はひどく躊躇いがちに髪に触れてくるのに、
リョーマは静かに口を開くと、桃城の胸板に薄く華奢な背を預けた。
「リマは?」
 以前にも増し薄く細くなった背を意識し、躊躇いがちに髪を梳くと、桃城は緩やかに細い躯を抱き締め
る。抱き締めれば愛しさが湧き、華奢な躯を抱く腕に力がこもった。
「怖い筈ないでしょう?」
 抱き締めてくる腕に緩く指を回せば、更に強く抱き締めてくる桃城の腕に、胸の奥から突き上げてくる
恋しさに、リョーマはゆっくり瞳を閉じていく。
「なぁ?」
「なぁに?」
「約束、覚えてるか?」
 二年前の夏、夕暮れ時に交わした拙い約束。
「俺が見付けた時に、教えてくれるって、言ったよな?」
 性別の変わってしまった自分を見付け出せたら、気持ちを話すと、リョーマはあの日に言ったのだ。
 耳に落ちる静かな声に、リョーマは交睫したまま物憂げな表情を刻み付け、躊躇いが口唇を重くさせ
た。
 女になったとはいえ、自分はできそこないなのだという事実が、リョーマの胸の奥を凍えさせている。
それは容易に溶けることはなく、リョーマの身の裡に根を這っている恫喝だ。
 こんな自分が桃城に釣り合うだろうか?中学生当時から女にモテていた桃城に相応しいだろうか?
そう考えれば考える程、リョーマは桃城に気持ちを告げることに躊躇いが生じていた。
「リマ」
「私は……」
 静かに促される声。髪を梳いてくる指先に、薄い肩が小刻みに慄えれば、桃城は宥めるように、華奢
な肩を抱く腕に力を込める。
「お前しかいらない」
 リョーマの躊躇いを読めない桃城ではなかったから、細く白い首筋に口唇を寄せ、柔らかい黒髪に顔
を埋めれば、リョーマの躯がピクリと揺れる。
「だから」
 リョーマの答えが聴きたいのだと、真摯な声音がリョーマの耳に落ちる。
「桃先輩、莫迦だね…」
 見付けれなければよかったのに。二年前にも言った科白だ。別の誰かを好きになるのが、普通なのだ
と。
「桃先輩の言葉だけが、私の支えだった……」
 描いた未来を、過去に置き去りにしなくてはならなかったあの時、まるで切れ端の端を掴むように、自
分を支えてくれていたのは、あの夏の日に交わした、桃城との約束だった。
「桃先輩……」
 桃城の腕の中で向きを変えると、節のある長い指先が繊細な輪郭を包み込む。その温もりに、リョー
マの瞳が歪に歪んだ。
「お帰り、リマ」
 長い睫毛に口唇を寄せれば、桃城の胸元に伸びた細い指先が、縋る様に制服のシャツを握り締める。
「桃先輩……」
 いびつに歪んだ瞳から、まるで零れ落ちるように光が弾け、瀟洒な輪郭を伝い降りていく。
「桃先輩…桃先輩…桃先輩……ッッ!」
 戻ってきたかったのだ、いつだって。桃城の腕の中に、優しい人達が在るこの場所に。
「お帰り」
 忍び音に泣くリョーマの薄い肩を宥めるように撫でながら、桃城は深い声音でリョーマの名前を優しく
呼んでやる。
「桃先輩……」
 柔らかく呼ばれる名前。優しく触れてくる指。伝わる温もり。どれもが恋しい男のもので、リョーマは泣
き濡れた貌を桃城に向けると、瞬きを忘れた眼差しで桃城を見詰めた。淡いルージュを引いた口唇がゆ
っくり開き、拙い約束の答えを口に乗せる。
「ただいま」
 泣き笑いに微笑むと、節のある長い指先が、細い頤を掬い上げ、光を弾く長い睫毛に、口唇が触れる。リョーマの白い瞼が、そっと伏せられた。
「お帰り、リマ」
 愛しさを込め囁くと、桃城の口唇が淡いルージュの乗る口唇に触れる。甘い吐息を一つ漏らすと、リョ
ーマの細い指先が縋るように桃城の首筋に回った。
「んっ……」
 甘い吐息が零れ落ちる。
記憶の淵に封じ込めた気持ちも、過去に置いていかなければならなかった未来の夢も。忘れなくては
ならなかったものは沢山在るけれど。それでも、いつかまたそれは別のカタチをして、きっと掴まえられ
るだろうから。
 あの夏の日に交わした、拙い約束のように。









 桃城と二年振りの再会を果たしたリョーマは、地区予選で疲れている桃城を労い、恋人同志のキスを
交わし、淡い笑みで見送った後、二年前までは当たり前のように使用していた、かつての部屋の扉を
開いた。
 少しだけ躊躇いがちに扉のノブを回し、意識してゆっくり扉を開いた途端、視界に飛び込んできたのは、幻影というにはあまりに色鮮やかな過去の風景だった。
「アッ……」
 室内のそこかしこに満ちている過去の自分と、置き去りにしてきた諸々の想いが、そこには今も柔ら
かく息衝いている。


『まだまだだね』


 横着にもベッドの上に寝転がり、愛猫と戯れながら、扉を開いた場所で立ち竦んでいる自分に凛然と
した眼差しを投げてくる幼い子供。
 小生意気な笑顔で、お決まりの科白を放ってくる過去の幼い自分が、そこには在った。
「リョーマ………」 
 慄える声が、静かに落ちる。胸の奥から突き上げてくる感情に、泣いている自覚はリョーマには皆無
だ。
 引き寄せられるように室内に足を踏み入れ、グルリと見渡せば、そこは二年前と何一つの変わりはな
かった。
 二年前の渡米時、越前リョーマとして生活していた全てを、この場所に残していった。
プロになりテニスを続けていく夢も。桃城への想いも。自分を育んでくれた、優しい人達の記憶も何もか
も、この部屋へと残してカギを閉めた。
 けれど桃城と再会して初めて、封印していたこの部屋の扉を開ける勇気がリョーマは持てた。帰国し
てから今まで、リョーマは一度として、この部屋の扉を開ける勇気が持てなかったからだ。けれど今は
違う。少しずつでも変わってしまった性別を受け入れる勇気が持てたのは、桃城が在てくれたからだ。
 性別の変わってしまった自分を当たり前のように人込みから見付け出し、受けていれてくれた桃城が
いたから、リョーマはこの部屋の扉を開け、過去と向き合う勇気が持てた。
 ベッドの上、丁重に畳まれ重ねられた青学レギュラージャージ。全国大会優勝の金メダル。机の上の
フォトスタンドには、手塚が腕の治療の為、ドイツに旅立つ前、皆で山に登り写した、朝陽の中の写真
が一枚。そして、全国大会優勝時の記念写真。クローゼットの前には、ハンガーに吊されたままの懐か
しい学生服。そして、机の横にそっと立て掛けられた赤い二本のラケットと、黄色いボール。
「ゴメンネ……」
 全てを振り切るように置き去りにした過去が、今はひどく懐かしく、胸に痛いほど愛しく切なかった。
 リョーマは赤いラケットを手に取ると、久し振りに触れる感触に、自分が泣いていることに初めて気付
いた。
 今使用している部屋にもラケットは置いてある。桃城がそれを手にしながら、何も訊かなかったのは、
それが気遣いだと判っていた。
 テニスでプロになる夢は諦めた。けれど結局テニスは棄てられなかった。それは自分自身であると同
時に、何より大切な人達と会わせてくれた、掛け替えのないものだったからだ。
「ただいま」
 ただいまを言うまで、随分時間が掛かってしまったけれど。置き去りにした未来への夢も、忘れなくて
はならなかった過去も、今は全てにそう言える。
「ただいま、リョーマ」
 愛猫と戯れ、寝転がっていた過去の幻影に笑い掛けると、リョーマは小生意気な笑顔で、
「まだまだだね」と言っている気がした。
 やっと過去の自分と現在とが融合した気分で、リョーマはひどく晴れやかに笑うと、桃城にメールを打
つ為、静かに室内を出て行った。


『まだまだだね』


 扉を閉める一瞬、懐かしい青学のレギュラージャージを着た過去の自分が、そう笑っているのがはっ
きり聞こえ、リョーマはクスリと小さい笑みを浮かべると、足取りも軽く、現在使用している部屋へと向か
った。
 これからはこの部屋にも、足を運ぼう。過去の自分と対話する為に。自分が自分で在る為に。



【件名】テニスしよう
【本分】桃先輩、今度寺のコートでテニスしようね。

 リョーマは送信画面を見詰めると、送られたメールに桃城が喫驚している様子を思い描き、綺麗な笑みを刻み付けた。



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