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Calendar Girl










「やっぱ何だな、母の日程、父の日は世間的には重要視されてねぇんだな」
 6月第三日曜日を前日に控えた土曜の夕方の事だった。
母の日同様、桃城のテニス部での練習後、最寄り駅で待ち合わせをして、桃城とリョーマは都内のデパートに来ていた。
「まぁそれは仕方ないんじゃない?子供にとって、母親は絶対的でも、父親はねぇ?」
 都内のデパートは、今日が土曜と言う事を考えれば、それなりに混雑している。けれど、母の日を前日に控えた5月のデパートの殺人的な混雑ぶりから考えれば、明日が父の日だと言う野が嘘のように、静かなものだろう。尤も、人混みが苦手なリョーマにしてみれば、それはありがたい事でしかなかったのだけれど。
「考えれば、父親なんて、寂しいもんだよなぁ」
 デパートに脚を踏み入れて、けれどディスプレイも、母の日とは一段所か二段も三段も扱いが違う。母の日を前日に控えたデパートの殺人的な混雑が嘘のようだ。
「………桃先輩、ソレ高校生が言う台詞と違うんじゃない?」
 深々溜め息を吐き、奇妙な程実感籠って感慨深げに言う桃城に、リョーマは肩を竦めて笑ってみせる。
「っで?リマ、何買うんだ?親父さんに」
 5月同様、突然電話を貰って、買い物に付き合う事になった。けれどデパートには来たものの、何を買うのか訊いてはいなかった。
「ん〜〜夏だし、浴衣かなぁ」
「そりゃピッタリだな」
 出会った当初から、南次郎はいつも作衣だった。それが奇妙に似合っているから、浴衣も似合うに違いない。
「いっつも黒い作衣だしね。たまには気分換えて」
 エスカレーターの案内板で場所を確認すると、二人は目的回数までゆっくりと昇って行く。
「っにしても、お前案外マメだな」
「?何?」
「母の日といい、父の日といい」
「ん……まぁね。心配掛けたし…」
 多少言い澱み、リョーマの視線が静かに足許に落ちた。
「リマ………」
 心配掛けた。その言葉の意味を、桃城は知っている。それはそのまま、リョーマの疵の深さを物語るものだからだ。
 裸足で立ち、歩いて行く強さが欲しかったのだと、リョーマは言った。
靴を履かなくても、傷付いても、自らの脚だけで立ち、歩いて行ける強さと力が欲しかったのだと、泣き笑いに告げられたのは、5月の終わりに訪れた海での事だった。
 サンダルを投げ出し、砂浜を裸足で歩いた白い脚。シンデレラのような硝子の靴はいらないと、砂の上に自らの足跡を残して歩いていた綺麗な後ろ姿が、少しばかりの痛みと共に、桃城の身の裡の一番深い部分に、綺麗に残されている。
 アノ5月の海の出来事で、自分達の関係は少しだけ変っただろうか?
『今まで隠してた罪は重いよ』

 蒼い天。碧い海。崩れて行く砂と白い波。幾重も繰り返されて行く自然の流れの中。
薄く蒼い双瞳が、泣き笑いの笑みを覗かせた。

『桃先輩、何でそんなにバカなの?』

『置いてけばよかったのに』


 泣きそうな笑み。けれどそのくせ、決して泣かない流れない涙。けれど、だからより深い疵が垣間見えてしまい、桃城は堪らなくなって、細い姿態を抱き締めていた。

『ゴメン……』

『ゴメンな……』

 幼稚なばかりの願いを掲げ、追い詰めるばかりの繰り言を繰り返して。結局抱き締めて吐き出せた言葉なんて、それだけだった。


「だから…こんな日くらいね…」
 足許に落ちた視線はそのままに、リョーマの声は静かに流れて行く。
 心配を掛けた。きっとそんな言葉が平凡なくらいに、心配を掛けた自覚はあった。それが自分が望んだ事ではなかったとしてもだ。
「負い目…感じさせちゃったと思うし……」
 負い目。
父親も母親も、見えない部分で、自分に対する負い目を感じているだろう。見えない部分と言うよりも、必死になって見せまいとしている母親が、時折影で泣いている事を知っている。

『ゴメンネ……』

 普段は気丈で、クワセ者の父親と一緒に在るだけに父親以上のクワセ者を発揮する母親が、初めてみせた涙だった。

『リョーマ…ゴメンネ…』

 何も母親が謝る事ではないだろう。
自分がこうなった原因は、母親でもなければ、父親でもない。ただの事実で、それだけだ。誰の責任でもないだろうに。

『ちゃんと、男の子に生んであげられなくて……』

 ちゃんと、確かに、言われればそうなのだろう。
アノ時まで自分は男だったし、それ以外の自分なんて想像もしなかったし、する必要もなかった。テニスが楽しくて、それで時間はすぎて行くと思っていたのだから。

『ゴメンね……』

 白皙の貌を伝い落ちる涙。母親の涙を見たのは初めてで、
その衝動の方が大きかった。突然の事で、きっと自分の事は考えられなかった。
だから漠然と母親が泣く事は、とんでもなく、どうしようもない事態なのだと思えた。
 そんな位置から、自分の身の上に起きた災難を漸く理解した。母親の悲しみの延長線で見出だした自分の災難と言うものが、一体これから先どんな顛末を迎えていくのか、その時になって漸くその重大さに気付いたくらいだ。
 謝られるばかりの言葉と涙。
それが負い目なのだと、気付かない筈はない。謝られれば、自分も負い目を感じてしまう。
 負い目を、抱かせてはいけない、ダレにも。この、隣に佇むバカみたいに優しい男にも、そう思う。
「俺、何もしてやれねぇな、本当」
 静かな声と静かな横顔。足許に落ちる視線の意味に、気付かない筈はない。
感情を映さない双瞳の光。ただ静かに、エスカレーターの上に注がれている。その整った横顔が、綺麗だと思う。
 掲げる願いの幼稚さなど、結局の所で未々ガキのものだ。
倖せに、誰よりも倖せに。そう願うし祈る。できるならば自分が倖せにしてやりたいと言う幼稚な願いを掲げてしまう程。
それが枷になる危ういものだと承知して、尚願い祈る。
だから未々ガキなのだと承知して尚。


『バカだね桃先輩』

 クルリと振り向いた鮮やかな蒼。空が映っているのかと、本気で思った綺麗な瞳と柔らかい笑み。

『後悔なんて、幾らでも在るよ』

 トンッと、軽く蹴り出された白い脚。崩れて飛ぶ小さい砂。

『数え上げたら、キリなんてないくらい』

『男じゃなくなって、女になって』

『何より、桃先輩に見つけられた事』

『桃先輩の枷になっちゃった事』

『何で、話してくれなかったの?』
       
『シンデレラの靴なんて、いらないのに』

『硝子の靴は魔法だから。別に魔法を掛けて欲しかったわけじゃないよ』

 崩れて行く砂。砕けて行く白い波。蒼い空と碧の海。
静かに紡がれた静謐な声。


「バカだね。同じ台詞言わせて」
 リョーマも、5月の海での出来事を思い出したのだろう。
俯く横顔が桃城を見上げた。


 もしも………。


 この躯が女にならなかったら。桃城とはただの先輩と後輩として、テニスをしていたのだろうか?
 キスもしないで、抱かれもしないで。ただ仲の良い先輩と後輩でいられたのだろうか?


『見つけた』

 もしも……アノ時。

『見つけたぞ』

 もしも、アノ時。桃城に見付からなければ。こんなに切なげな顔をさせないですんだのだろうか?


「本当に、バカ」
 不意に泣き出しそうになって、桃城の腕に細い腕を絡めると、リョーマは交睫する。
「言ったじゃん」
 ちゃんと、アノ時に。
初めて正面から。桃城の顔を、その眼差しを凝視した気がした。
「大丈夫、今はね」
 そうと気付かせない柔らかさで、守ってくれるもの。
負い目でもなく、枷でもなく。ただ柔らかく守られている。今はそういう柔らかいものを、受け入れる事もできる。
 愛しているのだと、そう思う。
「もう、時間ないし。だからさ」
「リマ…」
 不意に少しだけ絡まる腕の、爪の先に入った力の所在を、桃城は正確に理解していた。
「っんな可愛い事言うと、今キスしちまいそうだ」
 軽口に誤魔化す言葉だった。


『枷になるような関係は嫌だよ』

『変らないで』

『成長するなって?』

『私の為に、変らないで。桃先輩は、桃先輩のまま。成長と、ダレかの為の変化は、意味が違うよ』



 願いを掲げ、蒼い双瞳に何処か必死な願いを掲げて来た言葉と眼差しの深さ。
自分の為に変らないでくれと、半ば懇願のように縋りついてきたアノ瞳の深さ。
枷としての存在を意識したら、迷いなく関係は切られてしまうだろう事を、桃城は嫌と言う程知っている。そんな潔さばかり、何一つ変らない。だから愛したのだろうと思う。


「バカ……」
 甘く柔らかい声が呟くと、小作りな頭がコトンと桃城の肩口に凭れた。









「なぁ、リマ、これどうよ?」
 色とりどりに掛けられている可愛らしい浴衣の中から、桃城が取り出したのは、藍色の生地に朝顔の柄の入った一枚の浴衣だった。
「………誰が着るわけ?」
「お前に決まってんだろ」
「……あのさ桃先輩」
「リマは親父さんの選んで、俺はリマの選ぶ。能率的だろ」
「私買わないけど?」
「俺が買うからいいんだよ」
「………浴衣なんて、何処着てくの?」
 動きとれないし、見た目より暑いし。
「花火大会行こうぜ」
「……ヤダ」
「リマ〜〜〜」
 それくらい付き合えよ、桃城はガクリと肩を落とす。
「人混み嫌い。あんな黄泉平坂のような殺人的な人混み」
「黄泉平坂、お前も言う様になったじゃん」
「前に桃先輩が言ったでしょ」
 少しだけ呆れた顔をしたリョーマに、いつだったかと思い出して、それはリョーマが消えた中学1年の夏だったと思い出す。思い出しては、アノ時の胸の痛みも同時に反芻され、長い腕が柔らかい髪を愛しげに掻き混ぜた。
「完璧にエスコートしてくれるなら、行ってもいいけどね」
 不意に伸びてきた腕。柔らかく撫でて行く指。桃城が何を思い出してしまったのかなど、訊かなくても判る。
「夏中、デートしような」
「浴衣着て?」
「コレ似合うと思うぜ?リマ赤とかピンクも似合いけどな。浴衣だとやっぱ涼しい色がいいだろ?」
「桃先輩さ、浴衣ってそれだけじゃダメなの判ってる?」
「帯びはコレな」
 そう笑うと、淡い黄色の帯びもセットで持っている桃城に、リョーマは肩を竦めた。
「それだけじダメ」
「ダメ?何か足らねぇか?」
「全然」
「何だ?」
「ゲタでしょ?それから巾着。団扇にバレッタ」
「そんなにかよ〜〜」
 其処まで考えてはいなかった桃城は、羅列された内容に脱力した。
「当然」
「判った、判った、お姫様の為に、買いましょう。優しい王子様が」
「ダレが優しい王子様?」
「俺」
「……自分で言うのはマダマダ」
「親父さんの決まったら、俺の選んでくれよ」
「桃先輩のも買うの?」
「そりゃ当然。デートなんだから」
「桃先輩のねぇ」
 言われて小首を傾げると、リョーマは視線を男性用浴衣が掛けられている場所へと移動する。
「今じゃなくていいって。親父さんの先だろ」
 女性用の浴衣の鮮やかさやに比べたら、男性用の浴衣は色の数も華やかさもない。それでもリョーマは随分楽しげに桃城の浴衣を選んで行く。
「別にいいよ」
「いいってお前」
「決まってるし。それとも、父さんとお揃い着る?」
「………それは絶対嫌だな」
 それだけは絶対に勘弁してほしい。
「コレは?」
 ヒラヒラと手を振ると、リョーマは一枚の浴衣を桃城の前に会わせて眺めた。
「えらく渋くないか?」
 白地にグレーの市松模様のソレは、随分大人の男が着て似合いそうなものだった。
「そう?似合うけど?二人で青いの着るのもなんだし。じゃなかったらね」
 そして再びガサガサとアレコレ選んで行く。
「楽しそうだな」
 苦笑する。
「楽しいよ」
 好きな人の服を選ぶのは、当然楽しいのは決まっている。
「桃先輩だって、楽しいでしょ?」
 それと同じ、リョーマは言うと、一枚の浴衣を取り出した。
「コレは?」
「お前渋いの好きだな」
 濃淡の在る茶色り生地に、亀甲を散らしたソレは、随分個性的に映る。
「桃先輩見た目大人っぽいもん。中身は別にして」
「お前なぁ〜〜」
「でも好みは、最初のこっちかな」
 ン〜〜〜と見聞するように、着せ換え人形よろしく桃城の前に当てて見せて、
「やっぱこっち」
 最初のものをリョーマは桃城に手渡した。
「お前が似合うって言うなら、似合うんだろうな」
 自分では良く判らないけれど、恋人が似合うと言うのだから、似合うのだろう。自分がリマに大切ものを選べるのと同じように。
「それ着て、花火大会ね」
「オシッ、完璧にエスコートしてやっからな」
「期待しないで待ってます」
 嘘だ。桃城のエスコートがしっかりしている事など、百も承知だ。
「って所で、親父さんのは?」
 スッカリ忘れていたけれど、本来の目的は、父の日のプレゼントだった筈だ。
「ん〜〜?」
 桃城の浴衣を選ぶのに夢中で、リョーマもしっかり忘れていたのと言うまでもない。










「桃先輩、明日来る?」
 帰りがスッカリ夜になっているのは、もういつもの事だ。
梅雨の合間の霽明には、月が綺麗に光っている。
「ん〜〜夕方な。迎えに来る」
「夕方?」
 緩やかな抱擁に閉じ込められている腕の中で、リョーマが不思議そうに桃城を見上げた。
「たまにはな、父の日だし。親子水入らずがいいだろ?アノ人スッカリ、娘持つ父親になっちまってるし」
 娘が可愛いのは当然だろう。今では南次郎はスッカリ娘を可愛がる父親でしかなく、それでも公認されているのだから、未だ倖せなのだろう。
「ヤダ」
「リマ?」
 見上げて来る表情が、途端拗ねたように変るのに、桃城は不思議なものでも視るように、腕の中の小作りな顔を凝視する。
「こっちも水入らずしたい」
 コトンと、甘えたように肩口に顔を埋めると、
「こっちだって、時間ないのに」
 むしろ様々な制約で、桃城に会えるのは大抵が週末だけで、これからはどんどん時間は削られていく。
「リマ………」
「謝ったら怒るよ」
 緩やかに髪を撫でて行く指の感触に身を委ね、釘を指すのも忘れない。
「選んだんでしょ?」
 埋めた肩から顔を上げると、夜を映す瞳が、桃城を正面から捉えた。
「……アア」
 半瞬の後に、桃城はゆっくりと繊細なラインに縁取られた頬を両手で包み込んだ。
「だったらね、迷ってたらダメ」
 いつだって、選択の時は怖さが付き纏う。選び取る勇気も未知への希望も恐ろしさも、すべてが同じ盤上に位置している。 けれど、選んだ事に対して、迷っていても仕方ない事を、リョーマは知っていた。自分が選び取って今此処に立っているように。


 もしも……


 幾ら悩んで、苦しんで、泣いたかなど、誰も知りはしない。
けれど、知らなくていいのだと思う。負い目は、誰の為にも必要はないものだからだ。


「見てるから」
 ちゃんと、見ているから。
自分の為に、自分の存在故に夢を諦めるなど言ったら、その傲慢さに、縁などさっさと切っている。
 枷ではないのだと、自らの夢を選んでくれた事に、安心する。
「桃先輩戻ってきて。それでもさ……」
 自分でいいと言ってくれたら、その時は迷いはないだろう。
「お前以外いらないって言ったら、怒るんだろ?」
 泣きそうに歪められた眼差しに、白い瞼に柔らかく口唇を落として行くと、タイミングを間違う事なく、長い睫毛に縁取られた瞼が閉ざされる。


『先の事なんて、判らないのに、簡単すぎるよ』
               
 水平線の彼方を見詰め、そして再び戻ってきた視線。ゆっくりと、静かな声で告げられた言葉だった。



「怒るよ」
 瞼から、頬、口唇へと辿るソレ。失う怖さに身震いがする。それでも、意地でも自分は立っていなくてはならない、この位置に。たとえ立ち竦んでしまったとしても。
「俺、戻って来るからさ」
 待っててくれと言ったら、きっと何処かに消えてしまいそうで、告げられない。
「ウン…」
 待ってるとは、言えない気がした。
自分は一体何ができるだろうか?彼の地に一人飛び出して行く恋人に。枷にならない言葉は一体なんだろうか?
「でもこれだけは、言うぜ。お前が怒っても」
「何?」
 薄く開いた視界の前で、真摯な眼差しが自分を見詰めているのに、リョーマは桃城の首筋に細い腕を回した。
「愛してる」
 華奢な姿態を強く抱き締めて告げる言葉は痛い程真摯なものばかりで、リョーマの胸の奥を鷲掴みにしていった。




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