「ただいま〜〜〜カルピン…うわぁっ!」
リョーマは自室の扉を開き、愛猫に声を掛けた半瞬後には、室内の惨状に、珍しく叫び声を上げていた。
「どした越前?ってこりゃまた見事に」
リョーマの背後に立っていた桃城も、滅多に取り乱す事をしないリョーマの声に、一体何事かと室内を窺えば、その惨状に、リョーマとは正反対に、クツクツ喉の奥で笑いを漏らした。
「ホァラ〜〜〜」
けれどそんな二人に頓着せず、リョーマの愛猫のカルピンは、数時間振りに帰宅した主人であるリョーマの脇を通り抜けると、リョーマの半歩後に立っていた桃城の足許まで、尻尾を揺らし、歩いて行く。
「カルピン〜〜〜」
自分の横を、薄情にも素通りしていった愛猫に、リョーマは恨めしげに背後を振り向いた。リョーマの視線の先で、カルピンは桃城の足許に纏わり付き、ご機嫌に尻尾を揺らしている。
「ったく」
そんな愛猫の様子に、リョーマは室内の惨状を視界の端に捉え、舌打ちする。
人見知りの激しい筈だった愛猫は、何故か桃城だけには懐いていて、桃城が来れば、主人であるリョーマより、桃城に戯れつく傾向に有った。リョーマとは四六時中一緒だから、時折訪れる桃城と遊びたい。そんな思惑がカルピンに有るのかは、当然不明だ。
「タヌキ。また随分派手な事したな」
色素の薄いリョーマの双眸より濃い蒼い瞳が、遊んでとばかりに見上げて来るのに、桃城は苦笑すると、膝を追って小さい躯を抱き上げてやれば、腕の中で、愛嬌のある声が一声鳴いた。
「ア〜〜ア。クレヨンって、中々落ちないっスよね」
狭くない室内の、フローリングの床の上に転がる、色とりどりのクレヨンに、リョーマは薄い肩を落とし、溜め息を吐き出した。
「っにしても、越前。クレヨンなんて、どうしたんだ?」
桃城はカルピンを抱き上げ立ち上がると、室内に足を踏み入れた。
フローリングの床の上に転がるクレヨンは、美術の授業にでも使用するのかと首を捻ってみた所で、自分が一年の時。美術の授業で、クレヨンを使用した事などなかったと、桃城は思い出す。尤も、美術の担当教師が違えば、授業内容が異なるのは当然だから、定かではないと、桃城は床に転がるクレヨンを眺めた。
「親父が昨日だか一昨日だか、物置いじってたら出て来たとか言って、持って来たんスよ。使う事ないからって言ったのに、買ってに置いてっちゃって」
溜め息を吐き出しつつ、リョーマは一本一本クレヨンを拾っい始めた。
「そんで、タヌキのオモチャになったんだな」
机の上に無造作に置いておいたのだろう。それをカルピンが落として、遊んでいた。どうせそんな所だろうと、推測すると、桃城は片腕にカルビンを抱き、リョーマと共にクレヨンを拾い始めた。
フローリングの床の上には、クレヨンの後が転々と付いている。確かに雑巾でちょっと擦った程度で、落ちはしないだろう。
「桃先輩、カルピンの足見て」
床が汚れているのだ。当然カルピンの足が無事な筈はないだろうと思ったリョーマの予想は、的を得ていて、夏服に衣替えした桃城の白い半袖のシャツには、カルピンの足に付いたクレヨンの色が、付着していた。
「アチャ〜〜〜」
「ホァラ〜〜」
「っとと、こら、暴れんな」
桃城が前足を持ち上げて見れば、カルピンの足は、確かにクレヨンで汚れている。床の上も、所々、カルピンの足の跡が不鮮明に残されていた。
「取り敢えず桃先輩。風呂場でカルピンの足洗ってきて」
「客にさせるか普通?」
リョーマの科白に、桃城は苦笑する。
「今更何言ってんの。あんた客らしい態度した事、一度もないでしょ?第一今更、客として扱って欲しいんスか?」
どういう経緯で始まった関係でも、自分達の関係は世間で言うと所の恋人関係で、リョーマの室内には、もう随分。桃城の日常が持ち込まれている。
桃城のお気に入りのCD。数枚の服や下着。髪の毛の手入れをする為のムースに、シャンプー。
そんな細々した桃城の日常が、リョーマの室内に持ち込まれて久しい。今ではリョーマの父親の南次郎には、入り婿とさえ笑われている程だ。曰く、カルピンは二人の子供と言う事らしい。
「カルピン。パパにちゃんと足洗ってきてもらいな」
桃城の腕の中。ご機嫌に尻尾を揺らしている愛猫に、リョーマはクレヨンを拾いながら、笑った。
「………お前と親父さんの会話が怖いよ。俺は」
カルピンが行方不明になった事件以降。どうやら南次郎の脳内では、完璧にカルピンは自分達の子供と言う構図が出来上がっているらしいと、桃城は脱力する。
一体どういう親子の会話を築いているのか?気にはなるが、口に出すのも恐ろしいので、訊いた事はなかった。訊けばどうせ『どうみても、お前ら、親子だろうが』そんな言葉で笑われるのは眼に見えていた。
南次郎のその発言の大本には、リョーマが愛猫を赤ん坊を抱くように抱く事から由来している。そしてそんなリョーマの横に、桃城が鷹揚に立っていれば、確かに親子の構図に見えない事はないと言う南次郎の脳内発想は、別段間違ってはいないのかもしれない。
「そんなの、今更でしょ?親父の奴。あんたが長男でも、弟妹居るって知って、虎視眈々と狙ってるから。俺は一人っ子だから、嫁には出せないらしいっスよ」
桃先輩頑張ってね。
リョーマはクレヨンを片手にヒラヒラ手を降って、桃城を早く風呂場へ行けと、促した。
「……」
何をどう頑張れと言うのか、甚だ南次郎とリョーマの会話は得たいが知れないと、桃城は幅広い肩をガクリ落とすと、
「タヌキ。ママって意地悪だよなぁ〜〜〜」
そんな言葉を吐いて、桃城は室内を出て行った。
「桃先輩。ついでに冷蔵庫にファンタ入ってるから、持ってきて」
階段を降りて行く桃城の背に、リョーマの無情な声が掛かった。
□
「ったく、本当お前。俺の事先輩だと思ってねぇだろ」
ベッドに腰掛け、お気に入りのファンタグレープを飲んでいれリョーマに、桃城はウーロン茶を飲みながら、大仰に溜め息を吐いた。
結局、フローリングの床は、リョーマが雑巾掛けを放棄して、そのままになっている。多少汚れていても、別段生活に支障がなければ、リョーマが面倒をする筈はない。
「恋人より、先輩を優先させてほしい?」
フローリングの床の上。胡座をかき座っている桃城に、リョーマは笑った。その膝の上には、綺麗に足を洗われ、ついでに躯を洗われたカルピンが、タオルに包まれ乗っかっている。
「おとなしく、洗わせた?」
従兄弟の菜々子が洗えば、逃亡を計ろうとするカルピンだ。
「ん〜〜?別におとなしかったぞ。なぁ?タヌキ」
タオルに包んだ躯を撫でてやれば、カルピンは綺麗に洗われた事が少しばかり気になるのか、前足をペロペロ舌で舐めている。
「やっぱあんた、懐かれてる。八方美人だけでも悪党だって言うのに、動物にまで愛想振るから」
「誰が八方美人だ、誰が」
「俺の前に居るダレか以外、居るとでも?詐欺師でタラシで悪党でタチ悪い上に、動物にも愛想いいから」
「親父さんの論法で行けば、タヌキは俺らの子供だろ。可愛がって何処が悪い」
桃城にしてみれば、カルピンはリョーマの兄弟に見えるから、尚更可愛いという結論に達している。
どちらにしろ、オワッいるのには違いないが、桃城に自覚はなかった。
「ママ、焼き餅妬きだなぁ〜〜?」
「………殴るっスよ」
「殴ってから言うな」
殴ると言った時には、リョーマの手は桃城の後頭部を軽くはたいていた。大した痛みなどないそれは、他愛ない戯れでしかない。
「そいやあのクレヨン。MADE IN JAPAN、だったな」
「それが?」
「お前小学校アメリカだろ?」
帰国子女のリョーマが持っていたクレヨンが、日本製だったのが、桃城には些か不思議だった。
何せものは文具用品では一流のメーカーのものだから尚更だ。
「ああ、多分あれ。俺が幼稚園の時のだから」
「っにしては、あんま減ってなかったんじゃないか?」
「ホラ、だからあんた救えない詐欺師って言うんじゃん」
リョーマは笑うと、ベッドから降り、机に戻したクレヨンを取りに歩いて行く。
「洞察力が、何でイコールで詐欺師なんだよ」
どうやらクレヨンだけではなく、机の上には落書帳も揃えてあったらしく、リョーマの手には、クレヨンと落書帳が持たれている。
「普通ね、転がってるクレヨンに眼が行っても、使用頻度にまで、思考は行かないから。目端が利くのって、詐欺師の要素の一つ筈でしょ?」
桃城の横にストンとこし下ろすと、リョーマはクレヨンを差し出した。
「24色クレヨン。懐かしいよな。俺もガキの頃は、よく使ったな」
差し出されたソレを受け取ると、蓋を取る。綺麗に色順番に並んでいるクレヨンは、どれも一様に減ってはいない。
「今もガキのくせに。何言ってんだか」
桃城の言い様に笑うと、リョーマの白く細い指先が、一本のクレヨンに伸びた。
「その色だけ、減ってるのな」
綺麗に並んでいるクレヨンの中。青色だけが、減っていた。
「よくね、青空書いてたから」
懐かしいだろうと、南次郎が持ってきたクレヨンを見て、思い出した事と言えば、白い画用紙一面に青い色を塗りたくっていた記憶だった。
「青空か。そんで次によく使った色は、コレか?」
桃城は笑い、黄色いクレヨンを取り出した。
「テニスボールでも書いてたか?」
「多分ね」
想起する中。確かな事など何一つありはしない。けれど青空を良く描いていた事だけは覚えていた。
そしてきっと黄色がその次に減っていると言う事は、きっと桃城の言う事が正解なのかもしれないと、リョーマは手にした落書帳を開いた。
「お前でも、落書とかしたんだな」
落書というより、きっとお絵描きが正解だろうなと、桃城は笑った。
「あんまり、記憶ないけどね」
手にした青いクレヨンで、白い紙を綺麗に塗って行く。
「親父や母さんが良く言ってる。俺は、オモチャを持つより先に、ラケットとボールを、オモチャにする事を、覚えた子供だったって」
「越前……」
リョーマのアメリカでの生活というものを、桃城は以前聴いた事があった。
確かな血によって受け継がれた天の才。そして環境によって受け継がれ、磨かれた才能。
偉大すぎる父親を持った子供が味わう苦悩を、リョーマが味わってきた事を、桃城はリョーマの口から語られた事が有った。すればするだけ居場所を失われていったリョーマのテニス。自分を取り戻す為だけに、続けていたと語られたテニス。
無責任な称賛と安易な嫉妬。ラベルとレッテルに苦しめられ、居場所を奪われ続けてきたリョーマの存在。どれ程の才能も、当人の努力もなしに、手にする事など何一つ有りはしないと言うのに。宝石さえ、磨かなければ、原石で終わるというのに。そんな事も知らない人間達かせ、無責任に送ってきた称賛に、どれ程この小さい躯で堪えて来たのかと思えば、桃城は堪らない思いに駆られる。
「そんな顔、しなくていいよ」
隣に居れば、極自然と桃城の気、みたいなものが流れて来て、リョーマにはその内心が綺麗に伝わっていた。
一体いつから、他人に対してこんなものまで感じ取れるようになっていただろうか?リョーマにその最初の自覚はなかった。気付けば、もう随分、桃城の存在は、身の内側にまで浸透していたらしいと、リョーマは年不相応な苦笑を刻み付けた。
「青って、どんな意味あるか知ってる?」
リョーマの視線は、白い画用紙から隣の桃城に移り、そして再度白い紙へと落ちた。
ゆっくり塗られて行く青空の青。子供の時より幾分ましに描けているのかもしれないが、それは描くというより、白い紙を塗り潰して行く作業に近い。
「お前の瞳」
節の有る指先がリョーマの髪に触れれば、それは慣れた感触で、指の間をサラリと流れて行く。
「あんた本当、好きだね」
やっぱタラシじゃん。リョーマはそう笑う。
「カルピンの瞳も、そうじゃん」
リョーマより幾分色素の濃い蒼い瞳。桃城の膝の上の愛猫は、遊び疲れたのか、スヤスヤ目蕩み始めている。
「青ってより、空色だな」
色素の薄い、空色の瞳。一体どういう遺伝子形態なのか、リョーマにも判らないらしいが、別段リョーマがその瞳の色を気にしている様子は微塵もない。テニスをするのに瞳の色など何一つ影響はしないと言うリョーマの科白はもらしすぎて桃城の苦笑を誘ったのは、一番最初にキスをして、繊細に縁取られた輪郭を覗き込んだ時だ。
「青ってね、天上の色だってさ」
空の領域は、神の領域とされる。だからその空の持つ青い色は、神の色とされると言う。
「でも反対に非地上性って意味も加わるから、失望とかにも繋がるらしいけど。あとは海の色で、深淵な知恵、だったかな?」
「アア、確か、聖母の衣の色は、青なんだっけな」
「……って、美術関係でもしてた女に教えられたと」
「…………」
「詐欺師のくせに、やっぱあんた此処肝心な時には致命傷だね。咄嗟に誤魔化せないなんて」
あんたサイテーと、クスリとリョーマは笑う。嫌みも険も含まない笑みは、今更桃城の過去の女性関係に嫉妬するだけ無駄だと、リョーマが学習したからだろう。
「お前こそ、よく知ってるじゃんか」
「まぁね」
それ以上、リョーマは答えなかった。
一瞬覗かせたリョーマの表情は、ひどく複雑なものを浮かべていたから、桃城はそれ以上言及する事はしなかった。
「まぁでも、青色ってのは、幸福の色とも言うしな」
そう教えてくれた女とも、大した期間関係が続く事なかった。青は天空の色であり、魔法の色でもあると、教えてくれた女。
「何それ?」
「青い鳥」
「三流詐欺師」
倖せを、探して探して探し続けて。気付けば、それはちゃんと手の中にあったと言う童話。
この局面で、そんな科白を言う桃城は、やはりタラシだと、リョーマは可笑しそうに笑った。
「倖せなんて、そんなもんだろ?気付くか気付かないかで、随分落差がある代物」
倖せは、探し追い求めるものではなく、きっと気付くものなのだと、戒めを含んだ童話。
「ねぇ桃先輩。知ってる?」
青空を象り、塗られた白い紙。リョーマは床にクレヨンを置くと、ソレはコロコロ転がって行く。それに構わず、リョーマは桃城の首筋に細い腕を回し、
「青色ってね、中世じゃ愚者って意味もあったんだよ」
クスリと綺麗に笑った。
「無限って意味も有るって、知ってるか?」
首に回された細い腕を眺め、桃城は膝の上で寝ているカルピンを起こさないよう、隣に座っている華奢な姿態を引き寄せる。
「やっぱり行き着くのって、空なんだ」
無限に広がる空のように。そう在れたらと、願う。
「お前の瞳は、だから空色って言うんだ」
「何それ?」
「そういう意味だよ」
きっと地上のどんな道具を使っても、描き出す事のできないリョーマの綺麗な瞳の色。何処までも続く空のような綺麗な蒼。リョーマを構成する要素の中。何よりリョーマを其処と位置付ける力強い双眸。
「ねぇ?」
「お前、実は拗ねてた?」
「あんた、子供可愛がり過ぎ」
だから今ではすっかり、桃城が部屋に居る時。其処は自分の指定席だと、カルピンは思っているのだと、リョーマは言外に滲ませた。
「ったく。判りにくい拗ね方するな」
「拗ねてるんじゃなくって、面白くないってのが正解」
だから精々機嫌取って下さいと、リョーマは桃城の肩口に顔を埋めてクスクスと笑った。
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