「あちゃ〜〜やっぱ降ってきちまったな」
珍しくも、部活のない日曜。通い慣れだストリートテニス場では、出会う面々も決まってしまっているからと、桃城とリョーマの二人は、検索して弾き出した、来た事のないストリートテニス場に出掛け、見知らぬ他人と打ち合い、テニスを満足させ、帰宅途中の事だった。
朝は雲一つない快晴で、雨の確率を報じていた気象庁の天気予報など信用せず、二人は傘を持って出掛けるなんていう真似は、当然しなかった。けれど午後になって広がりを見せ始めた雲は、見る見る快晴だった蒼い空を覆い、今は重く垂れこめた暗い空から雷と共に、威勢よく雨が降り始めていた。
「だから、傘持ってくれば良かったのに」
突然降り出した雨の中。何処か雨宿りできる場所はないかと、周囲を窺う桃城の隣で、まったく悪びれず、リョーマは小生意気な科白を吐き出しては、桃城を脱力させる才能を発揮している。
周囲は簡素な住宅街の様子で、雨宿り出来る場所は見当たらない。取り敢えず駅に向かって行くしか術はない様子で、二人はゆっくり走り出した。
見知らぬ街の、見知らぬ場所。擦れ違っていく人間も、朝は快晴の為、天気予報を信じる事はなかったのか、傘を持たず、擦れ違って駆けて行く。中には、きちんと天気予報を信じ、転ばぬ先の杖を持つ人間が居はしたが、多くの人間は、傘を持たず、両腕で頭を保護する恰好で、夫々目指す場所に走って行く光景が見受けられた。
夏の雨は、冬の鋭利な雨とは違い、寒さより湿度の上がる生温さを肌の上に残して行く。それでも、夏特有の雷雨は、熱さを消し去る清涼さをも運んでくるから、長居していれば、風邪を引く。
「だったら、お前はどうなんだ?」
相変わらずのリョーマの理不尽な科白に、桃城は苦笑する。昨夜ちゃっかり、リョーマの部屋に泊まり込んでいた桃城だ。起き抜けに付けたテレビで、ブラウン管の向こう、朝から無駄に明るい女性アナウンサーの声に、リョーマが半ばうんざりした様子でチャンネルを変え、映し出された気象予報を見聴きしたのは、同じだろう。そのリョーマが、傘を持たない桃城を責めるのだから、リョーマは大概いい性格をしている。
「俺の事、莫迦みたいに大切にするなら、それくらいしてみせなって」
莫迦みたいに大切にするくせに、肝心な部分で取り零していくのが桃城だと、リョーマはシレッと言っては、尚桃城を脱力させる。
「ったく、このネコは」
桃城はリョーマの細い手首を掴まえると、視界の先に移った白い建物を目指し、走り出した。
「ちょっ……痛い桃先輩。いいじゃん慌てなくても」
「アホ。雨は苦手なくせに、嫌いじゃないお前の事だ。ほっといたら、このまま散策に出掛けるとか言うだろうが」
桃城の正鵠を射る科白に、リョーマは正解と、まったく悪びれない様子で、忍び笑いを漏らした。
「ったくお前は」
「雨、苦手だけど、嫌いじゃないから」
水滴で煙る周囲の景色は、見慣れた日常とはまた違った部分を見せてくれるから、リョーマは雨の中、散策に出掛ける事は嫌いではなかった。けれどその話しを桃城にした覚えはなかったから、桃城はリョーマが思う以上に、随分慎重に、その距離を扱っていると言う事なのだろう。そうと知れば、尚更舌打ちの一つもしたくなるリョーマだった。
「だからだって、言ってるだろ」
テニス選手にとって、腕は生命と同じだ。腕を冷やして得られるものなど、ダメージばかりだ。だから雨はある意味天敵だ。足場も濡れ、滑って怪我を追うリスクも高いから尚更だ。だからリョーマは、テニスをする過程に於いて、雨は苦手としている。けれどテニスを離れた場所で、リョーマは雨が苦手でも、嫌いではないと、桃城が知ったのは、別段一緒に居る時間が長ければ、不思議ではなかった。
雨の降る中の下校時。自転車を乗らない徒歩の時間。リョーマは敢えて遠回りをして帰る事を好んだからだ。
「ホラ。行くぞ。お前に、風邪引かせる訳にはいかないんだ」
大会の前の大事な選手であり、そして何より、桃城にとって、リョーマは生命そのものに近しい存在だ。
桃城は、掴んだ細い手首に少しばかりの力を込めると、目指す建物に向かって走り出した。
「………ああいう場所に、逃げ込もうって神経が、俺には判らないよ」
桃城の目指す場所が何処か判って、リョーマは繊細な貌に、少しだけ呆れた笑みを滲ませ呟いた。
□
「内陣はキリストの頭部を、身廊は胴体を。袖廊は腕を。主要祭壇は彼の心臓を。それは存在の中心を現しているんです」
何処か無機質な声が、リョーマの口唇から滑り落ちるのを、薄暗い荘厳さを放つ内部に吸い込まれ、桃城は綺麗に象られた口唇を眺めていた。
「大抵の教会は、入り口は西向きに作られてるんですよ」
あんた知ってる?
半歩背後に立つ桃城を振り返る事なく、リョーマは薄い笑みを滲ませ、ゆっくり視界を巡らせた。
どんな教会でも、方位が重要になる。別段それは教会建築に限らず、風水が流行っている今。方位というのは、誰もが重要視する一部だろう。尤も、風水が正確無比ならば、中国王朝が積み重ねられる歴史の中で、ああも滅亡を強いられる事はなかっだろうが。
「お前、何でそんなに詳しいんだよ?」
雨宿りの為にと、二人が駆け込んだ場所は、簡素な住宅街から少しだけ離れた場所に建てられた、白亜の教会だった。まさか扉に鍵が掛けられていないと思わなかったから、桃城は軒を借りる感覚でしかなかったが、躊躇いなく入り口の扉を押し開いたのは、リョーマだった。
西向きに位置する教会の入り口。故に祭壇は東を向いている。諸説は色々存在するが、単純に言えば、東は日の出の向きで、生命再生の方位だからというのが、最も単純な発想なのかもしれない。
鍵の掛けられない教会の入り口の無防備さ。礼拝は終了したのか、司祭の姿一人見えず、桃城に言わせれば、随分危機管理能力に劣っていると言う事になる。
治安が良いとされた日本も、それは過去の称賛に等しく、今はどんな災難が日常に転がっているか判らない程、日常レベルで殺人が起こっている。それを考えれば、信仰の場所だからと、犯罪に手を染める人間が、場所を考慮してくれる筈はない。
元々父親が警察官である桃城にとって、幼い頃から叩き込まれた危機管理能力は、同年代の子供達より、遥かに優れたものを持っている。そしてリョーマは、日本とは桁の違う犯罪都市であるアメリカで育った帰国子女だから、日本の子供より危機管理能力が発達していていい筈が、けれどテニス以外には、周囲にも自分自身にすら無頓着なリョーマは、桃城が呆れる程、危機管理能力のない、一極集中の思考回路をしていた。
「俺あっちで、こっちで言えば、日曜学校みたいなの、行かされてたから」
リョーマは慣れた仕草で、一歩を踏み出して行く。
静まり返った教会内部は、聖堂というような、血に濡れた歴史の重みを連綿と受け継ぐ、厳粛に満ちた壮麗さはない。それでも、簡素な住宅街より外れた立地に建つ白亜の建物は、何処か世間とは隔絶された荘厳さが、内部に敷き詰められている気がした。
「ヘェ〜〜〜お前んところ、親父さんは住職代理で、お袋さんは、カトリックかよ」
「そんなわけ、ないでしょ?二人共、俺の親ですよ?」
突然降り出した雨の中。男二人で雨宿りに選んだ場所にしては、些か演出が出来すぎていると、リョーマは自嘲する。
異端排斥の強いカトリックに於いて、同性同士の恋愛は、それこそ禁忌の一つだ。だとしたら、同性同士で番い快楽を得る自分達の関係は、この場で歓迎される筈もない。
白亜の建築物は、一歩内部に入れば始まり返った荘厳さばかりが肌身に伝わってくる。それはリョーマには少しだけ慣れた感触を与えてきた。
西向きの薄暗い入り口から、玄関間(ナルテックス)をゆっくり歩きながら正面を見据えれば、正面に位置しているのは、磔刑のキリスト像だ。人類の贖罪を贖う為、神に召された神の子。だったなら、磔刑になったその時。叫んだ言葉は、一体何を意味するのだろうか?
Eloi,
Eloi,
lamasabachthani?
幼い頃から教会に通っていたリョーマには、贖罪を背負い磔刑にされた神の子が、最後の最期に叫んだその意味が、判らなかった。
言葉の意味なら知っている。知り得ないのは、叫んだ言葉に隠された悲鳴だ。それは、絶望、ではなかったのだろか?
「日本は、基本的に多神教民族だから、あんまり判らないかもしれないけど。あっちは一神教だから。
思想とか随分反映されるし。だからお袋も親父も、自分達は無心論者のくせに、俺には通わせてたよ」
「何だそりゃ?」
ゆっくり歩いて行くリョーマの半歩後ろを、桃城は周囲を見渡し歩いて行く。
見渡す視線、けれどそこには、物珍しいものを興味深げに見ると言うより、鋭く観察する視線が、周囲に向かって放たれている。けれど桃城に、そんな視線の自覚はない。
周囲は教会らしい、ステンドグラスが有る。陽射が差し込めば、それは随分綺麗にその姿を現すのだろう。けれど桃城には、ステンドグラスに描かれた人物の価値など、何一つ知りようもなかった。単純に綺麗だろうと思ったにすぎない。
ステンドグラスを通して窺える外の気配は、激しい雷雨は未だ止まない、その程度だ。そして視線を下げれば、集う人の為に、飴色した小さい椅子が設置されている。年代を感じさせる飴色の椅子は、もしかしたら、この場所がもう随分長い間、この場所に建っている事を示している気がした。
「自分で選べってさ。何を信仰するのも、何を求めるのも、自由だから。選択する幅を狭める事はないってね。だから俺が行きたくないって言ったら、無理して行かなくていいって言ったし」
「それでお前は、通ってた訳だ」
連綿と受け継がれた人類の歴史だろう宗教に、気後れする事なく、リョーマは内部を歩いて行く。その迷いのない足取りからも、リョーマが何をどう言っても、アメリカに居た当時。教会に通っていた事は、桃城には丸判りだ。
「まぁ、汚い部分と綺麗な部分が、綺麗に混じり合ってる、あのどうしようもない思想は、わりと面白いと思ったし」
「……お前、取り敢えず教会内部で、随分罰当たりな発言してるぞ」
リョーマの物言いに、桃城はただ静かな苦笑を漏らす。
「宗教そのものが人類の歴史だからね。綺麗に見せかけて、実際はホロコーストなんて、足許にも及ばない血が流されて確立されてきてるって、あんた判ってる?」
受け継がれてきた血の歴史。流されてきた血によって、確立されてきたのが宗教だ。特にカトリックは、徹底して異端を排除し続け、凄惨な虐殺が行われてきた宗教でもある。中でも信者約3万の血を吸った、アルビジョア十字軍に虐殺されたカタリ派は、その最たるものだろう。
ヘレニズムの流れにより、善悪二元論を主張してきたグノーシスや、マニ教の影響を色濃く受け継いだカタリ派が、カトリックにより異端排斥されたのは、余りに有名な歴史的事実に他ならない。
カタリ派以降。異端審問は血を吸う快楽を覚えたかのように生け贄を探し、教会位階制の成立の為。異端審問の場所は、有名な魔女裁判に移行する。
桃城は、歴史の授業で習った世界史を思い出し、信仰の中に見え隠れする影の部分に、改めて背筋を冷たくさせられた気がした。それはきっと、今のリョーマの声音が、余りに無機質なものだから、なのかもしれない。
連綿と受け継がれてきた古代の宗教観は、今を生きる人間にすら多大な影響を与え、神に従属させて行く。
「And I tell you that you arePeter, and on this rock I will build my church,
and the gates of Hedes will not overcome it.
I will give you the Keys of the kingdom of heaven;
whatever you bind on earth will be bound in heaven,
and whatever you loose on earth will be loosed in heaven." 」
桃城の半歩先を歩くリョーマは、正面の磔刑のキリスト像を無機質に眺め、表情同様の無機質な声で、それでいて流暢な英語で、桃城には意味の判らない言葉を漏らした。
「どした?」
背後からでも、今リョーマが浮かべている表情が、桃城には判る。判ってしまうから、桃城は長い腕を回すと、リョーマを緩やかに引き寄せた。引き寄せられる腕に、リョーマは欠片も抗う事はなく、トサッと酷く軽く乾いた音を立て、桃城の腕に収まった。
柔らかく気遣い触れてくる腕。背を凭れる、慣れた厚みの胸。いつのまにか慣れてしまったそれらの温もりに、リョーマは慄えた。桃城は、何処まで判っているだろうか?そう思う。
「マタイ福音書第16章18節、19節」
教会が、神の代行機関として権力を持つとされる意味は、この文節そのものだと言われている。
キリストが初代ローマ教皇のペテロに授けたとされる『天国の鍵』は、現在教皇紋章にされ、教会権力の絶対的シンボルとなっている。
「……お前、暗記してるとか?」
流暢に紡がれた言葉に、躊躇いはなかった。と言う事は、リョーマは、長いその文節を、記憶していると言う事だろう。
「思い出しただけ」
触れてくる温もりに、リョーマは自嘲を漏らす。
男二人で逃げ込むには、余りに安易な場所だった。それでも、桃城は何の躊躇いもなく、こうして抱き寄せてくるから、始末に悪いと、リョーマは薄く切り取ったような笑みを刻み付ける。
「だからお前、そういう笑いは止めろって」
無機質な部分を装いながら、今のリョーマから感じとれるものは痛々しさばかりで、桃城は抱き締める片腕に力を込めた。
「ねぇ桃先輩?階段だって、知ってる?」
片腕がゆっくり頬を撫で、そうして瞼を塞いで行く。これは、桃城の癖だ。まるで泣いていいと言われている気がして、リョーマは適格に見抜いて行く眼を持つ桃城の慎重さに、胸が捩れる程の軋みを感じていくばかりだ。誤魔化されてほしい時こそ、適格に見抜いて行くから、始末に悪い。
きっと桃城は知らないのだろう。
リョーマは瞼をゆっくり塞がれていく仕草を、別段拒みも止めもせずに、軋みを伴う意識をぼんやり眺めるように、何処か他人事のように、見ていた。
視線は正面のキリスト像に落ちているくせに、精神の眼差し自体は、内側の意識に焦点が絞られていく。
桃城は知らない。柔らかい優しさばかりを与える事が、どれ程残酷で、軋む切なさを抱いてしまうのか。きっと桃城は知らない。知らない事は、ある一種の罪を生む。
「階段?」
腕にした細い未成熟な躯。昨夜も散々に番った幼い肉体。桃城の視線は、キリスト像を見据え、そうして腕の中のリョーマに落ちた。
「教会は、神の国と、地上を結ぶ階段。地上の楽園で、地上で唯一の救済機関だって」
「何だよそりゃ?」
リョーマは、泣きたいだろうか?
フト桃城はそう思い、咄嗟に瞼を覆ってしまったが、泣かれるより、余程始末に悪い表情を、今のリョーマはしているように思えた。
泣きたい訳ではないのかもしれない。けれど教会に一歩足を踏み入れたリョーマは、隔絶された日常に迷い込んだ瞬間。ガラリと雰囲気から気配まで変え、存在している。普段なら、見せない部分を無自覚に露出して、局所に抱く疵を、曝け出している感触が拭えない。
「告解、する?」
カトリック教会なら、『告解室』が存在する。尤も、人一人存在しないこの空間なら、『告解室』に行く必要はないだろう。
「……お前、つくづく俺を甘くみてるな」
桃城は、塞いだ瞼を開放するようにゆっくり腕を放し、それはリョーマの細腰を引き寄せる。静かに滑り落ちたリョーマの言う『告解』の意味程度、桃城とて知っていた。
「俺は、無心論者だ」
「俺も、そうだよ」
父親も母親も、神など信じない強靭な精神力を持っている。その二人の血を受け継いだ自分が、居るか判らない架空の存在を信じる事などできないと、リョーマは自嘲する。
何より父親である南次郎は、自らのテニスを確立し、今でもテニス界に名を残す存在だ。その強さは、自己を信じる強さだった事を、リョーマは知っている。知っているというより、気付いたと言う方がきっと正確だろう。
異界の存在に頼らず、自己の高みを目指す強さを持って始めて、到達出来る場所に、南次郎は君臨していたのだ。
「だったら、お前は何を迷う?」
「迷ってはいない」
多分と、リョーマは内心で付け加え、
「もう、決めた事だから」
ゆっくり噛み締めるように、吐き出された一言だった。
告げてしまえば、後戻り一つ出来ない時間になる。どれだけ餓えて疵付けば、その場所に到達できるのか、何一つの確証はない。それでも、こうして連綿と受け継がれてきた歴史という階段のように、自分もその階段を歩き出そうとしている。
「…そうか」
噛み締めるように告げられた先に在るものは、桃城自身にも判るつもりだった。
桃城は長い溜め息を吐くように一言呟くと、塞いだリョーマの瞼からゆっくり腕を離した。
塞がれた瞼を開放され眼を開けば、十字架に張り付けにされたキリスト像が浮かび上がっている。
雨の所為で薄暗い教会内部は、まるで今の不安定な自分の精神状態のようだと、リョーマは苦笑する。
背負う十字架の重さ。被る茨の冠。目指す玉座は、暖かみ一つないだろうに。それでも、その場所を目指そうと決めた時。見えてきたのは、踏み付けてきた屍の群れだった。
偉大な父親の名に押し潰され、足掻きながら手にしたテニス。父親から取り戻した自己。そしてその涯に見えたものは、戦場のような場所だと判った。先に行けば行く程、細くなる切っ先のような場所。その場所に到達するのに、一体何人の屍を踏み付けていくのだろうか?
考えた時。背筋がゾッと引き攣る感触を味わった。それはきっと、迷いではなく、恐れだろう。そして迷いと恐れを等分に持つ先に見えたものは、桃城という存在だった。
「俺の罪は、死ぬまで俺のもんだって、お前、覚えとけよ」
カトリックが、徹底した異端排斥をしてきた事程度なら、世界史の授業で習い、桃城も知っている事だった。
この場所に逃げ込んだ時から、変化したリョーマの気配は、内心にもっと複雑なものを絡み合わせ、存在しているだろう。だからこそ、桃城は言わなくてはならなかった。
「桃先輩?」
ひどく真摯な声だった。気安い笑顔ばかりの印象の中。リョーマには尤も聞き覚えの在る桃城の真摯な声。
「神とやらの前で、告白しなきゃならない罪は、俺には一つもない。あっても、それは俺が墓場まで持ち込む俺のものだ」
同性同士の愛情は、カトリックには禁忌とされる。けれどそれは逆に、カトリックのみの禁忌だ。
「桃先輩……あんた莫迦だね…」
声に出し、揺るぎない端然さで告げる桃城に、リョーマは泣き出したい気分を味わって行く。
今なら判る。桃城の表情など見なくても、そんな事はさした問題にはならない気がした。今どんな表情で、桃城が告げているのか、リョーマには見えていた。
「懺悔して救われたいなんて、俺は思わない。懺悔して、取り上げられたい程、安い気持ちは、何処にもない」
お前も、それだけは覚えとけよ。そう言われているのが判った。まったく容赦のない厳しさと優しさだと、リョーマは始めて泣き笑いの表情で桃城を振り返った。
「だからお前も、自分で自分を救い出せよ」
架空の存在に縋り付いても、得られるものは何一つないだろう。ましてリョーマがこれから目指そうとする場所は、自己の力を信じなければ、到底辿り着けない場所だから尚更だうろう。
「あんた本当に、容赦ない」
泣き笑いの表情で、リョーマはクスリと笑った。
「恋愛ごっこ、したいわけじゃないだろ?」
真綿に包んで、ただ甘やかしたいガキの恋愛ごっこじみた愛情など、二人とも求めてはいなかった。
大切な存在が、ただ笑っていてくれればそれでいい。テニスに傷ついても、踏み付けて行く屍の多さに悲鳴を上げても。テニスをしてほしいと願う罪深さ。その程度の自覚は桃城には今更で、それは懺悔して救われるものでは到底ない。
「気が狂いそうだって、言っても?」
テニスだけしか知らなかったら、ラクだった。選択など、考える必要もなかった。けれど今は違う。
棄てられないものが二つ。けれど、進むべき道は一つしか見えない。その罪深さを、桃城はどれ程理解しているだろうか?
「俺選んだら、お前はもっと早くに気が狂っちまうさ」
気が狂うと言う言葉は、少しだけ語弊があるだろう。正しく言えば、きっと壊れていく。そういう言葉が適格な気がした。
テニスではなく自分を選んだら。リョーマは確実に壊れて行くだろう。その光景が、桃城には見える気がした。ゆっくり始まる崩壊。誰にも悟られる事なく、サラサラ流れて行く砂丘のように。きっと壊れて行く。速度さえまして。
テニスに餓え、餓え続けて。それでも棄てられない執着と化した愛情を手放す事もできなくて。奈落に堕ちていくように、壊れていくだろう。桃城とテニスという狭間で。
「サイテー」
桃城がもっとガキだったら救われたと、リョーマは毒づいた。
「だったら、此処で、証明してよ」
「カトリックでもないのに、此処で何が証明になる?」
腕の中。クルリと向きを変えたリョーマを抱き寄せ、桃城はコツンと、額を合わせ、綺麗に瞬く色素の薄い蒼眸を眺めた。
「して」
細い腕が、ねだるように桃城の首に回され、ひっそりとした薄い笑みが漏れる。
「俺に誓って」
神など信じていない二人なら、その証明は互いの身の裡に刻みつけるのが妥当だろうと、リョーマはひどく密やかに笑う。
「桃先輩」
伸長差の合わない二人のキス。リョーマの踵が浮いた。
「リョーマ」
情事の最中にしか呼ばない名前を囁き、桃城の腕がきつくリョーマを抱き上げる威勢で引き寄せ、噛み付くように口唇を重ねた。
□
隔絶された密室から外へと一歩出れば、雷雨は遠ざかり、夏の夕暮れが空を染めていた。
「ああ、此処って、聖母教会だったんだ。どうりでマリアに関するステンドが多いと思った」
西向きにある入り口の扉を開いて、外に出た時。此処が始めて『聖母教会』である事が判った。雨の中駆け込んだ時には、そんなものを気にする余裕などなかった。
「マリア信仰、なのかな」
「マリア信仰?」
黒い表札に金の文字で書かれた教会の名前を眺め、桃城は不思議そうに問い掛ける。
「『無原罪の宿り』くらい知ってるでしょ?処女で神の子を宿した神の娼婦を信仰してる場所。神の子を生んだ事で、同列に扱われてる娼婦の事ですよ。尤も、一説には、第二のイヴっ、て、言われてるらしいけど?キリストは第二のアダム」
「お前なぁ」
アメリカの日曜学校で、一体どんな捩れた思想を身に付けたのか、桃城には計り知れないリョーマの宗教観だった。
「今なら完璧に、DNA鑑定行き」
処女で何一つ宿せる筈もない。自分ですら、桃城の精液を流しこまれれば、生命を作り出す海の存在しない肉体の内側で、残骸となって排出されるその欠片に、莫迦みたいに感傷的になる時もあるというのに。まして女なら尚更だろう。交わりなく宿した我が子に、愛情など、感じる事ができるのか?
「だったら、お前もマリアみたいなもんじゃねぇ?」
「………何それ?」
「娼婦ってところ?」
抱けが抱く程、誰り手垢もついていない気分にさせられる処女性をもっているリョーマの肉体。そのくせ入り込めば、どんな女も適わない、娼婦のような爛れた熱を生む胎内。
「サイテー」
可笑しそうに、リョーマは笑う。まるで面白い見せ物でも見つけたかのような、そんな笑みに、桃城の胸が痛んだ。
「……あんな可哀相な女には、なりたくない」
笑う笑みが急に失せ、薄布一枚引き捲った背後から現れた貌は、自嘲を深めたものだった。
「俺は」
俯く眸は、足許の影に落ちている。立ち尽くす影は、まるで今の自分だと、リョーマは嗤う。
もう決めた事の筈だった。揺るぎない言葉もなく。端然さも見出だせず。それでも。結局、テニスしか選べないと、判っている事だ。どれ程気が狂いそうでも。いっそ桃城だけを覚えていられたら、どれ程倖せだろうか?周囲の煩わしいもの全てを忘れ、桃城だけを胸の内側に刻みつけるように、覚えていられたら。そんな事は、奇跡でも起きない限り、有り得ない事だと、リョーマは笑った。
「あんただけなら、よかったのにね」
笑うと、リョーマは空を見上げた。
その横顔には、今まで滲ませていた自嘲は何処にもない。
「上に行くよ」
雨上がりの夕暮れ時。蒸し暑かった空気は、雷雨の後で、清涼な風が吹いている。涼しく冷やされた空気が、リョーマの前髪をフワリと掻きあげるように触れて行った。
「俺はね、足許に在る屍の存在の上に立ってるって、ちゃんと判ってるから」
その屍の多さに、どれ程の悲鳴を飲み込んでも。勝敗のあるゲームである以上。敗者が在るのは当然の仕組みだ。嫉妬も羨望も何もかも、きっと怨念と変わりない。それらを背負って歩いて行こうと、決めたのだ。
言葉に出される事なく、祈る程深く、桃城がそうと願ってくれるように。戦場に等しい切っ先のような場所を。
「俺は、あんただって、きっと踏み付けてく」
恋愛ごっこがしたいわけじゃないだろ?
揺るぎなく、端然と告げられた桃城の言葉は、突き付けられた感じがした。
「俺も、ただやられてる莫迦じゃないぜ?」
瞬きを忘れた色素の薄い蒼い眼差しが、正確に眼球の中核に焦点を絞り、凝視してくる。その眼差しの深さに、桃城もまたリョーマの言外に隠された言葉を、正確に理解していた。
「知ってるよ、そんな事」
だからこそ、託した言葉だ。
「あんたは、永久に俺の保険」
「保険、ねぇ」
随分甘い科白だと桃城は思った。永久の保険。それは、永久に離さないという言葉と、同義語だからだ。永久とか、永遠という言葉は、リョーマから一番遠くにあるものに思えていたから、尚更なのかもしれない。
「大丈夫」
クルリとターンする靭やかさでリョーマは振り返ると、トサッと桃城の胸元に無防備に凭れた。桃城の指が労るように、リョーマの髪を梳いて行く。
「俺は、ちゃんと歩いてくから」
屍を踏み越え、怨念を背負って。到達する場所など、きっと怨嗟でしかないだろうけれど。それでも、テニスは棄てられない。桃城とも離れられない。その狭間で、捩れていく精神に悲鳴を上げ続けたとしても。
「俺は、上に行くよ」
自分の意志で踏み出す一歩の怖さに怯んだとしても。足許の屍程度、踏み付けていかなければ、進めない事は、判っている。どれ程の実力と天性の才能が備わっていたとしても、ただそれだけで先へ上っていける程、生温い世界ではないのだ。ピラミッドの頂点を目指すと言う事は。その程度の精神的な強さがなければ、最初の階段で転げるだろう。
薄い肩に在るのは、柔らかい羽などではなく、背負わされた十字架だろう。それでもその十字架を背負うと決めたのは、自分なのだ。茨の道を歩き、脚から血を流しても。結局こうして桃城という男に餓えながら、テニスを棄てる事もできない。
都合のいい言い訳を、許してくれる男だったら、こんな思いを味わう事もなかっただろうに。
リョーマは桃城の肩口に顔を埋め、密やかな忍び笑いを漏らした。
□
「アレ?お前次は何だよ?」
薄暗い校内の階段で、二人が出会う事は、稀だった。施設設備が豊富に揃っている青学は、校内も広く1年と2年の二人が、偶然に校舎で擦れ違う事は、稀だった。
「桃先輩こそ」
普段から、キスや何かは、見上げる恰好でなければ適わない身長差の桃城は、今はリョーマの数段上に立っていて、リョーマを見下ろしている。
「この恰好見て判らないかぁ?」
珍しくも周囲に級友達の姿がない。
「判りますよ。体育でしょ?」
レギュラージャージでもなく、自前のTシャツでもない桃城の体操着姿を見るのは、珍しい事だった。
「お前は?」
「音楽」
「そっか」
ゆっくり互いに歩いて行けば、段差はあと一歩だった。
いつも見上げているより、若干高い位置に在る桃城の顔を見上げる恰好で、リョーマは不意に笑った。
足が同じ位置に立つべく段差を踏み出したのは、互いに同時だった。
視線が混じった瞬間。
桃城は息を飲み込んだ。
時間に置き忘れられた日本人形のような忍び笑いを、リョーマはしている。相反し、瞬きを忘れた眼は、桃城の眼球に焦点を絞っている。
あの雷雨の日から数日。二人の内側で変ったものが、確実にあった事を、その瞳は物語っていた。
同じ位置に一瞬だけ立ち、リョーマは躊躇いなく次の階段へと踏み出して行く。桃城は降りて行く歩調を変える事はなかった。
フワリと、擦れ違う一瞬。
「俺は、お前を手放さない」
抑揚を欠いた静かな声が、リョーマの胸に落ちた。
「屍になっても、追いついてきてよ」
あんたは永久に俺の保険なんだからと、リョーマは密やかに笑う。
擦れ違う一瞬。周囲に誰も居ない事を確認して、互いにキスを掠め合った。それが申し合わせたかのように同じ行動だから、掠めるようなキスを与えながら、次には笑い、そうして離れていく。
一瞬だけ絡み合った視線に映し出されたその色こそ、深まった分の距離と真実、なのかもしれない。
リョーマは振り返る事なく、階段を上っていく。
桃城はゆっくり降り、そうして最後の一歩を踏み出す時。振り返った。リョーマが丁度最後の一段を追え、踊り場から廊下に続く距離を、歩いて行く所だった。
薄暗い校舎の長い階段。それはこれから先、リョーマが歩く道の険しさを示しているようで、桃城はフトらしくない感傷を味わった。
けれどそうと決めた越前の道は、途中で尤も残酷な形で、途切れる事になる。
テニスも何もかも棄て、俺の事だけを覚えていられたら。
そんな奇跡はある筈もないと願った越前の願いは、尤も残酷な形で、あいつの身の上に降りかかる事になるのは、そう遠くない未来の事だった。
罪も罰も全部俺が受けるから。
どうかあいつをあいつのいる場所へと回帰してほしい。
下らない感傷で告げた代償だとは到底思えないが、
あの教会で、俺はそんな事を願った。
俺の罪は死ぬまで俺のものだ。
墓場に持ち込むと決めた越前への想いは、誰にも咎められるべきではないと思えたから。
懺悔して、救われたいと、思った事はない。
けれど。
懺悔一つですむのなら。
どうか……
どうか…
あいつが居るべき場所に。
罰なら幾らでも俺が受けるから
どうか
あいつが一番綺麗に映る場所へと。
屍を生み出し、踏み付け、悲鳴を飲み込んでさえ。
歩くと決めた道に
どうか…
頼むから…
天と地を結ぶ階段と言われる教会で。
俺は、願い続けた。
「ももせんぱい」
舌足らずな幼い笑顔を向けてくるリョーマは、今はテニスも何も覚えている事はなく、ただ一人。そうと願った桃城の名前だけを呼び続け、綺麗な笑顔を見せている。
悲鳴を飲み込む事もなく。ただ無心に桃城を呼ぶその笑顔は、リョーマが願った奇跡ではないだろうに。
神様?
そんな都合のいい人
一体何処にいると思います?
何の代償もなく、失うもの一つなく、
得られるものなんて、本当は何処にもないんですよ?
そんな事もわからないなんて、あんたってやっぱ莫迦
「越前……」
クスクスと可笑しそうに笑ったリョーマの笑みばかりが、桃城の胸を抉って行く。
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