『神様?そんな都合のいい人、一体何処にいるって言うの?莫迦だね、桃先輩』
それでも。信仰を必要としないのは、自分の立つ場所が、切っ先程の空間しかないとしても、先進国
という、極一部の恩恵を受ける環境に在るからだと、彼は幼い時から知っていた。世界は未々、信仰に
救いを求めるしか術のない国が多いことを、彼は知っていたからだ。
だからなのだろうか?彼はその運命が無慈悲なものでも、最期の最期まで、笑っていた。どれ程力一
杯握り締めても、指の間からサラサラ流れていく砂のように、記憶が零れ落ちていってしまっても。自分
を取り巻く大切な人達の名前も何もかもを忘れていく時間の中でも。彼は最期まで笑っていた。
自らの力を信じる強さは、そのまま彼の心の強さと同義語だ。幼い生き物は、見た眼とおりの幼さで
はなく、身の裡に眠れる獅子を飼う、綺麗な綺麗な生き物だった。けれどその獅子は、眠ったまま刻を
逝った。
『もも…せんぱい……』
最期の最期まで、覚えていたのはたった一人の名前。
自分の名前すら忘れてしまった中。リョーマがリョーマとして覚えていた名前は、父親でもなく、母親で
もなく、可愛がっていた愛猫でもなく。子供の恋だと自覚して尚、離れられないと自覚した、桃城の名前
だけだった。
『逝くな、越前、頼むから…頼むから……!』
声に出して願った願い。祈る程深く…深く…深く…。
今まで願いを口に出して、自分の命さえ引き換えに、願ったことはなかった。最初も最後も、ただあの瞬
間。祈る程深く、声に出して願った言葉は、それだけだった。
言葉には力が宿るという。そんな切れ端を掴む程度の希望に願いを託しながら。けれど言葉に魂が宿
ることはなく、幼い獅子は、高く遠い蒼に、溶けて消えた。
『桃先輩』
願ったナニか。途切れた切っ先のその先の言葉を、必死になって、今も探している。
『まだまだだね』
記憶の中、成長しない彼の姿は、あの日のまま。幼い姿と研ぎ澄まされた眼差しで、凛然とコートに
立っている。
彼を彼として立たせていたその場所。越前リョーマという個を、何より明確に顕していた、戦場に等し
い位置。その場所は、彼の有り様を、何より鮮明に映し出していた荒野だ。
『桃…せんぱい』
ゆっくり舌足らずになっていく言葉。躯だけはその成長を止めないくせに、脳だけは時間の流れに逆
行していく。その理不尽な病に打ち勝つ術は、現代の医学ではどうにもならなかった。
『ももせんぱい』
繰り言を繰り返す子供のような、舌足らずな声。それでも賢明に、必死になって、覚えていてくれた名前。どれだけ彼の中で、価値があっただろうか?最期のその一瞬を、看取ってやることさえ、できなかったというのに。
『桃先輩………』
記憶の中の幼い笑顔は、今も輝くばかりで……。
『世界へ』
託された無機質な活字の向こうから、彼がどれだけ、愛してくれていたのか、アノ瞬間、理解した。
生々しい言葉だった。何より、リョーマの願いが強く現れていた『声』
そして……。
『死』を認識した瞬間、生は始まる。そのパラドックスの中でしか、ヒトは生きられない。化け物の腹のような社会の中で。
灰になった躯を両手に抱いて
風に乗せ
あの海へと還して下さい
いつかダレかまた求めるはず
愛されるはず
そうなったら、倖せでいて
倖せに笑って生きて
あなただけは、倖せでいて
倖せに生きて
それだけが……俺の願い……
あなただけは、倖せでいて
光の中で、笑っていて。
それだけが、俺の最期の願い
ベッドサイドの仄かな光だけが灯る室内に、女の白い肌が淫らに浮き上がり、高い嬌声が嫋々に啼く。男の胴を挟み開かれた白い下肢は、カタチよい爪先を反り返しながら、与えられた快感に小刻みに顫
え悸いている。
「あっ…ぁんんっ……」
スプリングの良く効いたダブルベッドの上。乱したシーツを更に乱しながら、開いた下肢が男の鍛えら
れた腰に回る。尚深くその昂まりを胎内に導くように細腰は揺れ動きながら、柔襞が内部の雄を締め付
ける。途端、内部で質量を高める男の楔に、女の細い背が綺麗に撓った。
「あっ…ぁんっ……!」
快楽に紅潮する頬。長い睫毛は切なげに揺れ、噛み締めた口唇から、それでも喘ぎが漏れる。
昔と変わらず、肩口で綺麗に切り揃えられた髪は、今は色だけが黒髪から淡い栗毛に染められ、白い
シーツの上を快楽のままに乱れている。
浮き上がる細腰、撓う細い背。淡いマニキュアの乗った瀟洒な指先が、褐色の背に爪を立てた瞬間。
女は胎内の雄を絞りとる威勢で締め付け、小刻みに顫えながら達した。
ぬかるんだ媚肉がきつく自身を締め付けた瞬間。桃城は喘ぐ女を無感動な表情で見下ろし、軽く呻き
ながら、快楽を伝えてくる胎内で達した。けれどその熱は、女の胎内に吐き出されることはない。それ
が愛情もなく抱く女への、桃城なりの気遣いなのかと言えば、それが気遣いなどではないことを、彼女
は気付いていた。躯を重ね、初めて知った桃城の、外側から覗ける本質の極一部は、決してフェミニス
トなどではなかったからだ。
何も知らなかった無邪気な少女時代。桃城が命より大切にしていた彼の幼い恋人が生きていた当時
の面影を、今の桃城の中に見つけ出すことは、彼女には少しばかり困難な作業だった。それが変わっ
てしまった互いの有り様で、続ける関係の代償なのだろうかと思えば、哀しみとも淋しさとも憐れみとも
判別の付かない曖昧な感情が、彼女の胸を軋ませていく。
けれどそれは偽りの関係を重ねる度、脳裏を掠めていく感情だった。慣れることのないその感情は、
何処か諦めに似ている。
中学生当時は、気軽に軽口を叩きあえる関係だった。今も昔も決して名前を呼んでもらえることはな
かったが、それは桃城の引いた境界線だと言うことも、判っているつもりだった。けれどその境界線を無
理にこじあけ、男と女という関係に持ち越してしまっ時。知っていた筈の桃城という男は、彼女の中で姿
を変えた。知っていた筈の桃城は、知っていたつもりの男だったのだと、思い知らされたからだ。
何より大切に愛してきたリョーマが居たから、桃城は何にも、誰にも、優しかったのだろう。当時は何
一つ見えてはいなかった桃城という男が、過去を想起した時。精悍な貌の横顔だけが浮き上がって見
えた。光の当たる部分と、影の部分。常に一方だけしか見せ貰ってはいなかったのだと、凍り付く思い
で痛感したのは、この関係を始めてすぐのことだ。それは光が当たる面積が増えれば増える分だけ。
不可視の部分が密度を増していくのと同義語だった。鮮明に曝される横顔があれば、決して曝されな
いもう一面がある。それを嫌という程思い知らされた。
何より大切な彼を守る為には力が必要で、桃城が求めた力は、世界へと旅立つだろうリョーマを、見
守り続けていく為の強さだった。それは強さだけでは成り立たない、優しさと表裏一体のものだ。けれど
其処にはただ甘やかすだけの甘えを許してもいなければ、甘やかして自己を満足させる、安易で幼稚
な感情も存在してはいなかった。其処に在ったのは、ただ真摯なリョーマへの想いだけだった。だけだ
ったのだと、彼女は桃城と肌を重ねれば重ねる都度、淋しさと同時に噛み締めるものだった。
胸の内の何かを分け与えるように、桃城はリョーマに優しかった。それがどれ程の強さを求められてい
たのか、当時は気付けなかった。尤も、気付けたからと言って、何ができた訳でもなかっただろう。桃城
が何より大切にしていたリョーマがそうと願ったそのままに。桃城は周囲を欺き、立つ強さつを持ってい
たのだから。リョーマが発病する前も。発病した後も。幼くして、この世を去った時も。
とてもとても大切にしていた幼い少年が、この世の者ではなくなった時。桃城はその願いのまま、世
界へと旅立っていった。結局、あの当時。桃城の泣き顔一つ、見ることはできなかった。
「んっ……」
胎内で満ちながら、顔色も変えずに吐き出される熱。与えられる快感に喘ぎながら、無感動に見下ろ
されていることに気付いたのは、爛れたと言うにも程遠い関係を始めた中、早かった。
熱くならない理性的なセックスに、愛情が灯っていないことなど、抱かれて気付かない女はいないだ
ろう。それでもいいと、納得づくで始めた関係だったから、桃城を責める言葉を持っていないことも、彼女
は判っていた。責めるつもりもなかった。
女の性感を心得ている丁重な愛撫。乱暴にされたことなど一度もない。身の裡から、快感を引き摺り
出すやり方を心得ている桃城は、幼い同性の恋人を抱いていた時。どれ程大切に大切に抱いてきたの
だろうか?今はもういない記憶の中の幼いリョーマは、桃城に抱かれながら、どんな嬌態を曝してきた
のだろうか?どんな嬌声で啼いて、どんな言葉を吐いて、幼い胎内に桃城という男の熱情を、受け止め
ていたのだろうか?彼女には、想像の内にも判らないものだった。所詮同性同志の、まして男同士のセ
ックスなど、彼女には到底判らない。何も生み出すことのない、疑似行為の延長に等しい筈の同性同
士のセックスに踏み込んだ二人の想いも、その強さも、彼女に判るものは一切ない。ただ判っているの
は、桃城とリョーマが、子供の恋だと自覚して尚。その恋を手放さなかったということだけだ。
セックスの最中、乱暴にされたことはないが、たった一度。口に乗せた言葉が桃城を怒らせた。怒鳴
られたり、手を上げられたりした訳ではなかったものの、底冷えする冷気が、桃城の背後に揺らぐのが
見えた。口調を荒げることもなく、ただ底冷えする怒りの気炎だけが感じ取れる有り様で、桃城が怒りを
顕したのは一回だけだ。けれどそれでも乱暴にされはしなかったから、むしろそれが愛情のない関係だ
と思い知らされて、泣き出したくなった。
生身の熱さは間違えがないというのに、伝わる熱が何処か無機質に感じられるのは、欲望を放つ瞬
間。何より桃城が無感動な眼差しで、見下ろしてくるからなのだろう。
無感動な眼差しで、胎内で達する桃城を初めて眼にした時。眼にした無感動さに、浅ましい自分を見
下ろされていることに、どうにもならない羞恥と、それ以上の恐ろしさを感じた。それはこれからこの先も。この関係が、性欲処理以外の目的から、愛情に変わる可能性はゼロだと無言で言われているのと同義語だったからだ。
胎内で吐き出されることのない熱は、それが桃城の気遣いなどではなく、今はもうこの世に存在しな
い大切な人以外の胎内では、熱情を吐き出すことさえ嫌なのだろうと、抱かれて気付かない女はいな
い。けれどそうと判っていても、セックスの間だけは桃城を独占した気分になっていられたから、浅まし
いと理解しつつ、彼女は桃城との関係を、手放すこともできないでいる。
桃城の心が此処に無いなど、百も承知で重ねる関係だった。けれど独占していた気になっていたその
時間すら、結局桃城は自分を見ていないのだと、重ねる情交の度に思い知らされる。その痛みを、どれ
だけ桃城は知っているのだろうか?
欲望を満たす為だけの爛れた関係の中。結局どれ程躯を繋いでも、桃城の内側には一歩も入り込め
ない。それは彼女が身が軋む程、実感したことの一つだ。
今でも桃城の身の裡には幼い少年が居座り、桃城を抱き締めて離さないでいる。関係を重ねれば重
ねる程、その存在は明確なカタチで浮き彫りになり、桃城の外側の部分に薄い膜のように張り付いてい
る。死んでも桃城を離さない幼い綺麗な貌が、見えるかのようだった。
『まだまだ、だね』
『ねぇ?桃先輩』
小生意気な科白を吐き出しながら、桃城を呼ぶその時だけ、その声に甘さが含まれていたのを、きっ
と幼い子供は知らなかっただろう。どれだけ甘えた声を出し、桃城を呼んでいたのか。桃城の前では、
どれ程無防備な背を曝していたのか。きっと何一つ自覚はなかっただろう。
桃城は決してリョーマを忘れない。永久に喪失われてしまった存在を、桃城は今でも大切に大切に愛
し続けている。記憶の中で、死者は常に美化される傾向にあると言うが、桃城の身の裡では、彼は以
前のまま、綺麗な面差しで小生意気な笑みを湛え、きっと甘やかな声で桃城を呼んでいるのだろう。
「んっ……」
吐息が色付き白い下肢が顫える。ズルリと擬音を付け、萎えた桃城が胎内から出て行くのに、彼女
は少しだけ顫えた。
愛情が無いとはいえ、胎内で喚起していた確かな欲望が出て行くのは、彼女に一抹の淋しさを覚えさ
せる。それは心は得られなくても、褐色の肉体を独占していた時間の終わりを告げられることだったから
だ。
日本を代表するテニスプレーヤーに成長した桃城の肉体は、鍛え上げられ、引き締まった筋肉が、骨
格に沿い綺麗に付いている。運動もしない同年代の者は、そろそろ中年太りを気にする年齢だろう。け
れど世界を相手に戦場に等しい場所で試合を繰り返している桃城に、そんな心配は必要なかった。
鍛練を怠れば簡単に失墜するのは、この世界では当たり前のことだからだ。
桃城が出て行った膣襞は未だ男を浅ましく欲しがり、小刻みに悸き喘いでいる。その生々しさに、濃
密に彩られた紅脣から、姚冶な吐息が漏れる。
パワーを誇るテニス同様、桃城のセックスが欲望に満ちたパワフルなものかと言えば、桃城から与え
られるのは、獣じみた欲望ではなく、莫迦な女なら簡単に勘違いしてしまいそうなものだ。
今まで何人の女を勘違いさせてきたのかと思うものの、仮初の恋人達と、揉め事もなく終結している
のを見れば、桃城は誰とも心を繋ぐことはなかったのだろう。女は男より自分に向けられる愛情には敏
感だ。愛されていないと判れば、離れていく。そのくせ、何度繰り返しても一向に懲りないのは性格な
のか、さした愛情もない相手を抱くのに、勘違いされそうな気遣いを見せるのだから、悪党で狡い男だと
思う。
けれど一つ年下の幼い恋人を抱いていた時。桃城がどれ程の気遣いを見せていたのかを想像すれば、無自覚に胸が抉られて行く気がした。そしてどれ程激しくその躯を開いていたのかを考えれば、胸は
捩れていきそうだった。
桃城がリョーマを抱いていた中学生当時。年若い激情だけに流され、欲望の前に幼い躯を貪っていた
桃城の姿は、彼女には到底想像できないものだった。そんなセックスをしてきていないのは、当時の二
人を知る人間ならば、誰もが極当然に理解できるものだった。セックスだけの安易な結び付きなど二人
には無かった。なかったからこそ、桃城は今世界を舞台に戦っているのだから。リョーマが祈る程深く、
願い望んだそのままに。 リョーマは桃城に抱かれ、幼い胎内を開かれながら、どんな嬌声を上げ、身
悶えていたのだろうか?どれ程浅ましく。この男を求めたのか?女のように褐色の背に爪を立て悦がり、イッたのだろうか?
涼しげでいて凛然とした容貌からは、乱れるリョーマを想像することは、彼女には困難なものだった。
まして相手は小柄で華奢とはいえ、紛れもなく桃城と同じ性を持っていたのだから。
同性同志の行為は、知識として知ってはいても、リョーマの乱れる姿など、彼女には到底想像できな
い。それは桃城しか知らない、桃城だけに見せてきた、リョーマの表情だからだろう。 もう永久に失わ
れてしまった存在は、生きていればきっと今頃、桃城など足許にも及ばない、一流プレーヤーになって
いた筈だ。
不世出と謳われた父親の血統の確かさを受け継いだリョーマは、その父親をも凌駕する天の才を与
えられた稀代の子供だった。けれど同時に、天才にありがちな命の短さをも持って生まれ落ちた。誰の
胸にも鮮やかすぎる強烈な印象を叩き付け、短すぎる生命を生きた幼い魂。生きていれは、間違いなく、日本のテニスを変えられた逸材だった。
もう今はこの世に居ない存在に、嫉妬するなど莫迦げたことだと判っている。この関係は初めから、愛
情が育つ可能性はゼロだったのだから。けれど感情と理性は別物だ。理性は納得しても、感情は欠片
も納得などしていない。情交を重ねれば重ねる程、精神の何処かが解離していくのが可笑しい程判る。
愛情とかけ離れた場所でも、触れられれば簡単に熱を宿す肉体は、桃城と言う男を欲しがり、淫蜜に
濡れ喘ぐ。愛情など欠片もないくせに、取り敢えずは気遣ってみせるのだから、桃城も大概始末に悪い
男だ。けれどそんな卑怯な悪党だと判っていても、ズルズル爛れた関係を続けてしまう魅力が、桃城に
は有る。
愛情はなくても、与えられる愛撫に躯は歓喜し、快感に溺れる。いっそ道具に等しい関係だと割り切っ
てしまえれば、気分はラクなものだろう。見返りなど桃城に求めても無駄だと、聡明な彼女は気付いて
いるし、元々見返りは求めないからと言っのは、橘 杏の方だった。でなければ、桃城が中学生時代か
ら知り合っている彼女に、誘われたからとはいえ、簡単に手を出すことは有り得なかった。中学生当時
から、彼女を想っている友人を知っていれば尚更だ。
だから最初、杏からそう切り出された時。桃城は驚き、呆れ、冗談に誤魔化し笑った。結局それでも
済し崩しに関係は続けられている。そんな関係の中、見返りなど求めたら、桃城はあっさり離れていくこ
とを杏は判っている。判っているから、彼女は桃城とのセックスの時間。愛情を匂わせる言葉を吐いたこ
とはなかった。一度でも吐いたら、桃城は簡単に関係を切り捨てていく。それが判るから、杏は何も言
えなかった。
そのくせ関係している間の桃城は、癪になる程エスコートは完璧だから、やはりタチが悪い狡い男な
のだと思い知る。そんな桃城だから、離れられないのかもしれない。
隣で絶頂の余韻に顫える杏を抱擁するでもなく、桃城は後始末をすませると、絨毯の上に無造作に放り出したローブを羽織り、ベッドから出て行った。
桃城が声を掛けてくる時、予約を入れるホテルはどれもが一流ランクのものだ。それはそれだけ、桃
城が金銭的余裕のある、テニスプレーヤーであるのを示している。そして桃城がランクの高いホテルを
選ぶ理由は、金銭的以上にもう一つの理由が存在しているのを、杏は知っていた。
一流ランクのホテルは、スタッフも一流に教育されているから、煩い詮索をされないですむ。それが桃
城の最大の理由だろう。そしてそれが、日本テニス界を背負う桃城の知名度の問題ではなく、勝手な
理由で呼び出す相手への気遣いが圧倒的だということも、杏はちゃんと気付いている。
愛情がないくせに、ただの道具としてしか女を扱えないくせに、それでも見せる気遣いに、だから桃城
は狡い男なのだと杏は思う。けれどだからこそ、女は桃城を許してしまうのだろう。過去桃城が付き合ってきた女達が、桃城を許したように。杏も桃城を許してしまうのだ。
大きく切り取られたような広い窓。桃城がカーテンを開けば、其処には眠りを知らない、都会の不夜城
が綺麗に映し出されていた。遠くには、お台場の観覧車も見える。
ベッドサイドの仄かな光源だけが灯る室内に、シュッとマッチを擦り付ける音が響く。半瞬後、桃城の
口許の先で、赤い火が灯る。マッチ独特の硝煙の匂い。何故手軽なライターではないのか、いつも不思
議に思うものの、杏が尋ねたことはなかった。尋ねても応えて貰えないだろう予感が、杏を一歩、桃城
から遠ざけている。
口許の先に灯る赤い火。ユラリと漂う紫煙。窓際に佇む桃城の横顔から、杏が推し量れるものは何も
ない。そんな時の桃城は、杏にとっては見知らぬ他人にすり変わる。境界線の此方と向こうに佇む姿は、まるで無言の拒絶だ。本当はいつだって、こうして境界線の此方と向こうに居るのかもしれないと、こ
んな時、杏は痛烈に思い知らされる気がした。
所詮、たった一歩の内側にさえ入り込めないのだ。不明瞭な境界線は躯を重ねた途端。個に別れる
固体同様。明瞭にその姿を浮き彫りにする。此処から先は立ち入るなという無言の拒絶が、窓際に佇
む桃城からは見て取れてしまうから、杏は皮肉なものだと自嘲する。
其処に愛情がないとはいえ、躯を重ねた途端、明瞭になってしまう境界線。躯を重ねることがなかっ
たら、幼い少女時代の初恋のまま、桃城の姿を記憶にとどめておけただろうに。
「……辛いね…」
お互いに……。
小さい小さい声で、杏が呟いた。けれどその声は、桃城に届くことはない。桃城は表情を消した貌で、
静かに夜景を見下ろしているだけだ。
淡い光だけが灯る、沈黙を落とした室内は、情後だとは思えない静けさに包まれている。
二人の情事の時間は、突然切っ先のその先が失われるように、こうして終わりを告げるのも毎回のこと
だ。恋人同志ではないのだ。情後の睦言も甘い目蕩みも、杏には一切与えてもらえないものだった。
沈黙した室内には、桃城が吐き出す紫煙だけがゆったり横たわり、漂い消えていく。それは杏に、毎回
一つの光景を鮮明に思い出させるものだった。
遠く夢のような高い空に漂い消えていった煙。桜が咲くには未だ早い季節。そこがあたかも、還る場
所であるかのように、ユラユラ漂い消えて逝った、リョーマの最期の火。
薄い紗のような雲に紛れ、徐々に消えていったリョーマの煙。それを桃城は微動だにせず、見詰めて
いた。そんな桃城の姿に、誰もが掛ける言葉を持たなかった。安易な慰めは、却って桃城を悲しませる
ことを、判っていたからだ。
泣かない瞳。何故泣かないのだろうかと思った当時の自分は、悲しみの何一つを知らない子供だった
のだと杏は思う。桃城は泣かなかった訳じゃない。泣くことを忘れてしまう程、心が悲しみに押し潰され
ていたのだから。悲しすぎて、感情が麻痺してしまっていたのだろう。魂の半身ともいえる、大切な大切
な存在を永久に失って。
「…サイテー」
情後だというのに、今の今まで番っていた熱さなど欠片も覗かせず、無表情に紫煙を燻らせ、眺望絶
佳の夜景を見下ろす桃城に、杏が少しだけ呆れた声で呟いた。
「どした?」
「相変わらず、サイテーって言ったのよ」
胸元をケットで隠しながら上半身を起こし、杏は桃城を眺めた。その視線に、桃城は初めて表情を見
せた。けれど桃城に、杏が呟いた言葉の意味は伝わっていなかったらしい。桃城の表情に、杏は薄く白
い肩を小さく竦めた。こういう部分がポーズではなく素でぬけているから、女はついつい桃城を可愛いと
思ってしまうのだ。可愛いと思ってしまうから、甘やかしてしまう。そして許してしまうのだ。桃城の心は、決して手に入らないという、諦めに近い感情の中で。
「セックスの後、すぐに煙草吸うのなんて、マナー違反だって言うのよ」
杏の科白に、桃城は幅広い肩を竦め、苦笑する。
「自覚あるなら、やめなさいよ」
腹が立つ程、苦笑が似合う男なんて狡い男だと、杏は苦々しげになる。女の前で、こんなマナー違反
をやらかして、それでも自覚のある苦笑をこうも綺麗にする男なんて、昔からタチの悪い男と、相場は決
まっている。
「まぁ、今だけな」
「余計最悪よ」
少しばかり憂えが窺える横顔。酷薄な口唇の先に灯る赤い火。ユラリと吐き出される煙。
「吸わない人間にも、煙草の煙で肺癌確率は跳ね上がるんだって知ってる?」
「そりゃ、常に一緒にいる人間って意味でだろう?」
紫煙を吐き出すのと同じように、桃城は何でもないように、そんな科白を舌に乗せる。
ひどいことを言っている自覚はあった。その証拠に、燻る紫煙の向こうで、杏はひどく傷ついた表情をし
ている。
「似非フェミニストね」
桃城はいつもそうだ。そう多くない情後。決まってこうして窓際に立ち、夜景を見下ろし、桃城はマルボ
ロを燻らせる。
3年前、酒が入ったのも手伝って、誘ったのは杏からだった。誘った時、鳩が豆鉄砲を食らったような
眼をしていた桃城を思い出す。あの時から、桃城は情後の時だけ煙草を吸っていた。プロの選手にとっ
て、喫煙は好ましいことではないだろうと咎めた時。自嘲と共に吐き出された科白は、杏にはひどく悲し
いものだった。
『セックスの後じゃなきゃ、吸わないさ』
情事直後の女に、男が言う科白ではなかった。杏でなければ、怒って喚き立てられるか、水でも引っ
掛けられただろう科白だ。以来桃城は必ず情後に煙草を吸う。それはまるで、儀式のようだと杏は思う。もしかしたら、それは桃城には、確かに儀式なのだろう。一時の享楽から、現実に戻る為の。戦場へ
と戻る為の。その時杏は、はっきり理解したのだ。桃城がリョーマと会う手段は、テニスしかないことを。
戦場に等しい切っ先のようなコートの上に立つ以外。桃城はリョーマに会えないのだ。
「今日は、やけに喋るじゃないか?」
互いの関係を恋愛と勘違いする程、杏は莫迦な女じゃないことを、桃城は長い付き合いで判っていた。
だから情後、杏はいつだって、無駄口は叩くだけ意味がないとでも言うかのように、シャワーを浴び、
桃城の前で異性を意識させる女というものは綺麗に洗い流し、そして『またね』と細い手をヒラヒラさせ、
帰っていく。その潔さに、甘えている自覚もあった。それが今日に限り、杏は饒舌になっている。それが
桃城には不思議だった。
尤も、聡明で頭の回転の早い杏が、何故こんな下らない関係を欲しているのか、それ自体不思議だっ
たから、桃城は肝心な部分で、他人の機微を取り零していくのかもしれない。
「そぅ?」
桃城の科白に、杏はそれが無意識だったのだろう。少しばかり驚いたように瞳を見開き、次には自嘲
するように瞳を伏せた。
「そいや、井上さんは元気か?」
紫煙を燻らせながら、桃城は思い出したように、口にする。
「相変わらず、デスクに居ない、編集長みたいね」
桃城がリョーマを失い、プロの道を選び、世界に旅立っていったのは中学卒業と同時だった。そして桃
城がプロの世界で頭角を顕し始めたのは、10代の終わりだった。気付けば桃城は押しも押されもせぬ、トッププレーヤーになっていた。
杏がそんな桃城と再会したのは3年程前で、井上が月刊プロテニス編集部の編集長に就任した、記
念パーティーの会場内でだった。
「井上さん、らしいな」
紫煙を燻らせ笑う姿。その一瞬だけ。杏には良く見知った桃城の表情になる。それは既視感ととても
良く似た感触で、杏の脳裏に、中学生当時の桃城の姿と重なった。
井上は、桃城や手塚、跡部という、今はプロの一線で活躍する彼等が、まだほんの幼い中学生当時
から、テニスに掛けた情熱の深さを、唯一知り得ていた記者だった。
テニス後進国の中で、テニスでプロになるいうのは、生半可な努力では決して適わない。けれど井上
は、そんな彼等の夢を、一度も疑ったことはない記者だった。彼もまた、学生時代はテニスをしてきた人
間で、リョーマの父親である、南次郎の現役時代の熱烈なファンだった。
熱意だけではプロにはなれないのは、何もスポーツに限ったことではないだろう。生憎井上には、プロ
のコートに立つ程の実力はなかった。けれど記者としての才能は、あったのかもしれない。だからなの
だろう。桃城達もどの記者より井上を信用し、取材を受けた。井上はどんな記者より、彼等のことを、彼
等の言葉で、読者に伝えられる記者だった。それは他の記者にはない、テニスという夢を知る人間の、
温度差なのかもしれない。
最初こそ、井上のその情熱が判らなかった周囲も、手塚や跡部、桃城という人間が、世界を舞台に頭
角を顕してきた時。井上の先見を思い知ることになった。実際月間プロテニスは、テニス雑誌の老舗と
して、また世界で活躍する桃城達が一番数多く取材を受ける雑誌とて、テニスファンの間では定着し、
業績を伸ばしてきた。それは一重に井上の功績といっても間違いはないだろう。月間プロテニスの母体
である出版社が、その功績を認め、また桃城達が一番信頼を寄せる記者としての井上を評価し、井上
は月間プロテニス編集部の編集長に就任した。けれど編集長になっても気さくな人柄は変わることなく、今も井上と桃城達は、良好な関係を保っている。若い記者を育てる立場にある井上は、けれど何かあ
ると現場に出て行ってしまう編集長としても、今では有名になりつつある。
桃城と杏が再会したのは、井上の編集長就任記念パーティーの会場内だ。
桃城は元々の精悍な造作に加え、鋭角な影を刻み付け、若さと年相応の落ち着きを同居させていた。
そのくせ年齢を掴ませない明け透けな部分も相変わらずで、杏は当時ひどく安堵したのを覚えている。
リョーマを失ってしまってから再会までの長い間。杏にとって桃城の動向を知る術は、画面の向こうで試
合をしている桃城がすべてだったからだ。
ずっとずっと、心配していたのだ。何より掛け替えのない大切な存在を喪失なってしまった桃城を。
だから、3年前のあの時。桃城が変わらずにいてくれたことが、杏には嬉しかった。そして、間違えた。
間違えたというより、桃城という人間を見誤っていたのだと、思い知らされた。変わらない筈がない。
大切な大切な存在を失って。自らの生命を差し出すように、桃城はリョーマを愛していたのだから。
「ねぇ」
柔らかさと、苦さを織り交ぜた想起は、簡単に起きる。
過去と現在をどれだけ埋め合わせようと探しても、変わっていく流れは、誰にも止められない。
「なんでいつも、マルボロなの?」
ユラユラ漂う紫煙。酷薄な口許に灯る赤燈は、桃城を現実に立ち返らせる為の境界線だ。
「ん?」
「いつも、同じじゃない」
桃城がこうして煙草を吸うのは、決まって同じ銘柄のものだ。ただ気紛れに吸うだけなら、銘柄にこだ
わる必要もないだろう。何故ライターではなく、硝煙の匂いのするマッチを好むのか不思議であるのと同
じように、何故桃城がいつも決まって同じマルボロを吸うのか、杏には不思議だった。
「あいつがな」
桃城は逡巡し、そして次に深い自嘲を滲ませた。それは杏には想いも掛けない科白だった。
「エッ?」
「越前がな、好きだったんだよ」
「……煙草が?」
桃城の口から出た意外な科白に、杏は怪訝に攅眉する。
有り得ないことだと思う。リョーマは中学生当時のあの時。既に稀代と言われた逸材だった。そんなリョ
ーマが、スポーツ選手にとっての喫煙が肺活量を落とし、身体能力を低下させると知らない筈がない。
「シガレットチョコがな」
「シガレット…チョコ?」
脈絡のない科白に益々困惑し、杏は窓際に佇む桃城を凝視する。情後の余韻一つ残さない沈黙に閉
ざされた薄暗い室内の光量は、ベッドサイドの淡い明かりと、桃城の口許に有る赤燈だけだ。極僅かな
赤火から覗く桃城の横顔は、窓の外に広がる夜景を通り越し、過去を慈しんでいるのが気配で判った。
「お前、知らない?」
「知ってるけど」
それがどうして桃城の喫煙に繋がるのか、杏には判らなかった。
誤魔化されているのかと思うものの、桃城が本気で誤魔化すなら、もっと納得する誤魔化しかたがある。『この銘柄が好き』だと言えば済むことの筈だからだ。
「親父さんが吸ってるのが、やっぱマルボロなんだよ。あの親父さん、パチンコ巧くてな、よく色々貰って
くる中に、シガレットチョコが有ったんだよ。越前はそれをよく食ってたから」
「南次郎さん?」
「ああ、越前の、親父さん」
一人息子を失った南次郎夫婦は、それでもしっかり生きている。
母親は相変わらず国際法務を主流に弁護士として企業に管理職として所属しているし、南次郎はJTA
の理事として、日本にテニスを根付かせる努力を影からしてくれている。その合間を縫い、見合い写真
なんで持ってフラリと遊びにくるのが、今は楽しいらしいと桃城は笑う。それは杏からみたら、とても遠い
笑みだ。
「あいつ親父さんには全然素直じゃなくって、クソ親父ってのが口癖だったけどな。親父さんがパチンコで交換してくるシガレットチョコは妙に好きで、食ってたな。まぁあいつ、甘い物大好物な奴だからな」
それが判っているから、南次郎もシガレットチョコは自分が愛煙しているマルボロを交換してきていた
のだろうけれど。
甘い物が大好きで、胸焼け起こしそうなパフェを、それは美味しそうにペロリと完食してしまう程、リョ
ーマは甘い物が大好きだった。素直じゃなかったリョーマが、父親の愛煙しているシガレットチョコをよく
口に咥えていた姿が、可笑しかった。まったくお前も素直じゃないなと笑っては、リョーマを怒らせた。
懐かしい、懐かしい、愛しい想い出。過去になど、簡単にできる筈もない。リョーマを失い、未だたった
15年しか経っていないのだ。
たった15年。『お前もいい加減あいつを忘れて嫁さん探せよ』南次郎はそう苦笑し見合い写真を持っ
てくるが、当の南次郎さえ、その写真が一度も開かれることなく返却されているのを知っている。
「やっぱり、桃城君。サイアクよ」
せめてそれがリョーマの好きだったシガレットチョコと同じマルボロでなければ、多少なりとも救われた
のかもしれない。
「仕方ないだろう?」
仕方ない。リョーマを失って未だ15年だ。たったそれっぽっちの時間で、過去になど到底できない。
「仕方ないのかしら」
性欲処理だけで抱く女の匂いを消すのに、リョーマが好んでいたシガレットチョコと同じ銘柄の煙草を
吸う。最低以外のなにものでもないだろうに。
「こういう時に、使う言葉だろう?」
たった15年。過去にもできないのだから、仕方ない。生きているのすら、時折不思議になると言うの
に。それでも、託された言葉があるから、リョーマが何より願ってくれた言葉があるから、生きている。
いつか自分が属するこの世界から、リョーマがいる世界へと行った時。少しでも誇れるように。ただそれ
だけの為に。
「狡い男よね」
「あいつも、よくそう言ってたよ」
狡い男、詐欺師、タラシ。
リョーマはよくそう言って軽口を叩き、叩きながら、笑った。
「…不思議だな」
「桃城君と、こんな風に越前君の話しできるとは、思わなかった」
まるで生きているかのように。そこに在るかのように。
緊張もなく、ただそうなのだと流れの中で話せるとは、思わなかった。だから杏にとっても、それは多少
なりともの衝動で持って、受け止められていた。
「そうだな」
苦笑を深める貌。口許の赤燈が熱を放出する度、桃城の周囲にリョーマの気配が満ちる気がした。
「ねぇ桃城君、私、貴方が思ってる程、頭のいい女でもないのよ」
杏は苦笑し、放り出したままになっていたローブを纏うと、桃城の正面に立った。
「でも、莫迦な女にも、なりたくはないの」
「莫迦な女だったら、俺とはこうしていられないだろうな」
杏の科白の意味は、桃城にも判るつもりだった。何より凝視してくる眼差しの奥に、脆弱な光はない。
この光こそ、杏の聡明さで、頭の良さなのだと、きっと彼女は気付いていないのだろう。
□
「じゃあね」
白々朝が開ける頃、杏は静かに寝室の扉を開いた。桃城は、何本目かのマルボロを吸っている。
静かに窓際のソファに腰掛けている視線だけが、寝室の扉を開いて出て行く杏に向けられた。
「それでも、私が桃城君を、日本の何処かで心配してるのだけは、忘れないでね」
静かに笑う杏の笑みに、桃城は半瞬瞠然となり、次に深い笑みを漏らし、
「なぁ?お前実はやっぱ、莫迦だろう?」
「失礼ね」
「莫迦みたいに、優しいのな。結構、タチ悪いぞ」
「だったら桃城君は、タチの悪い男よ」
こうして許してしまう要素を持っている男なんて、悪い男と相場は決まっている。
「倖せに、なれよ」
「なるわよ、私は」
それが桃城なりの賛辞だと、気付かない杏ではなかったから、精々ふてぶてしく生きてやろうと、杏
は笑う。
「仕事して、気が向いたら結婚して。普通に生きてくわよ。女の方が、逞しいって昔から言うし」
「そうだな」
杏の物言いに気負いはない。それが極自然で頼もしさすら感じてしまうから、桃城は紫煙を燻らせ、
ただ笑った
「それじゃぁね」
「ああ」
ヒラヒラ細い手首を振って、杏は室内から出て行った。
「なぁ越前」
白々明けていく空。一日の始まりを告げる太陽が、東の空からゆっくり顔を覗かせる頃。不夜城は眠
りに落ちていく。
「俺は、ひどい男、なんだろうな」
紫煙を燻らせ、桃城は自嘲する。
女に愛情を感じたことはない。ただ性欲処理の目的しか持てない。それでも、女を求めてしまうひどい
男だという自覚程度、持ち合わせていた。
「越前」
紫煙を燻らせ、桃城は残り僅かになったソレを灰皿に押し付けると、ゆっくり眸を閉ざした。
『なんだよお前、そんなん好きなのか?』
『親父がパチンコの景品で、取ってくるんスよ。結構旨いっスよ』
『こう持つと、結構様になんじゃねぇ?』
『ガキ』
『お前なぁ、俺を先輩だと思ってないだろう?』
『思ってる訳ないでしょ?あんた俺の恋人なんだから』
『お前って、時折大胆の告白仕掛けてくるよな』
『後輩の方がいいなら、刺し殺してやりますよ』
『バーカ』
『今度俺が、取ってきてやるよ』
『パチンコ?』
『期待しないで待ってます』
淡い日溜の中で笑ったリョーマの笑顔が、今も鮮やかに、桃城の胸を締め付けていく。
たった15年。そんなちっぽけな時間で、到底過去になどできる筈もない。
たった一人、唯一大切な存在を。
「越前………」
「花より、桃城君は、きっとこっちの方が喜ぶと思って、持ってきたの。覚えてた私に感謝してね」
魂の入っていない入れ物。けれど生きている人間にとって、カタチは必要だったから、リョーマ同様海
へと散骨された桃城の骨の欠片は、桃城家の墓と、リョーマの墓標のある越前家の寺に、リョーマの骨
の欠片と一緒に埋葬された。
「越前君と同じ名前の男の子庇って車に轢かれちゃうなんて、桃城君らしすぎるわよ」
車道に飛び出した『リョーマ』という男の子を庇い、桃城は亡くなった。くしくもそれは、リョーマの誕生
日のことだった。リョーマの誕生日には必ず帰国し、花束を置いていく桃城は、その帰り道に亡くなった。 そして今日は桃城の誕生日だった。
「私は、ふてぶてしく生きてるわよ」
倖せになれよと言ってくれたように。
「誕生日、おめでとう」
桃城が毎年リョーマの誕生日に、花束を持って墓標を訪れていた理由が、杏には漸く判った気がした。
「これから仕事なの。じゃあね」
墓標の前にしゃがみ込んでいた姿が、スッと綺麗な動作で立ち上がる。夏の熱い陽射の中。杏はゆ
っくり歩き出した。
越前家が預かる寺の境内の隅に、リョーマと桃城の眠る墓標は在る。艶やかな御影石に刻まれた名
前は二つ。その墓標の前には、マルボロのシガレットチョコの箱が一つ、置かれていた。
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