太陽が西の空を雄大なオレンジ色に染める時刻になると、押し潰されそうに強烈な陽射しは急速に翳
りを見せ始め、夏至から一ヶ月以上立った季節は、加速度を付け夕暮れが早まっていく。それと同時に
気温も変化し、真昼より幾分涼しい風が、リビングのレースのカーテンを揺らして通り過ぎていく。
八月も半ばを過ぎると、真昼の押し潰されそうな陽射しは相変わらずなものの、夕暮れになると季節
はグッと秋めいて、空模様がその変化を如実に物語る。
夏が終わると意識するのは、きっとこんな綺麗な夏の夕暮れを眺めている時なのかもしれないと、リョ
ーマは子供用の布団の上で、穏やかな寝息を立てている我が子に笑みながら、ゆっくり団扇を動かしていた。
「リマ〜〜〜冷房いれてないのか?」
てっきり冷房が入っていると思ったリビングに足踏み入れた途端、思いがけずも緩く吹き抜けていく自
然の風に、桃城は髪から雫を滴らせながら、窓際で寛いでいる愛妻を不思議そうに眺めた。
シャワーを浴びたばかりの桃城の躯からは未だ湯気が上り、首には無造作にタオルが巻かれている。
「子供の躯にあんまり冷房あてたくないから、切っちゃったの。寝室は冷房いれてあるから、桃先輩そっ
ちいって休んでて」
トレーニングを終え、浴室に直行した旦那には申し訳ないと思うものの、子供に冷房がよくないのは判
りきっていたから、リョーマは適度に室内が冷えた時、冷房を切ってしまっていた。
それでなくても夏の終わりを意識させる夕暮れは、昼間とは違い、案外と涼しい風が吹いているのだ。尤も、年々上昇する気温は、昼間なら軽く30度を超えるから、昼間は冷房をいれなければ、それはそ
れで熱中症の危険を招くことになる。
熱中症は、外での活動時間が長時間に及ぶと発症すると誤解されているものの、その約6割は屋内
で発症している。それを考えれば、昼間は却って冷房で室内を適温に保つ必要があったから、リョーマ
は昼間は緩く冷房を活用していた。
「そっか」
愛妻の科白に緩い笑みを浮かべると、桃城はリョーマの隣に腰を落とし、穏やかな寝息を立てている
遼(ハルカ)の寝顔を愛しげに眺め、そして愛妻の綺麗な横顔を眺めた。
中学生時代のリョーマは、テニス以外の局面では暑さが苦手で、遊びにいくリョーマの部屋は、桃城
にとっては寒いくらい、冷房で冷やされていた。けれど今は違う。子供の躯に長時間の冷房はよくない
からと冷房を切り、昼寝をしている我が子に団扇を扇いでいる。その横顔は、すっかり母親のものだ。
「桃先輩、疲れてるでしょ?夕飯まで部屋で休んでて」
帰国しても、プロテニス選手である桃城は、一時もトレーニングを欠かせる立場ではなかったから、リョ
ーマは桃城を気遣うことをいつも忘れない。
「ん〜〜〜」
そして桃城はそんなリョーマが何より愛しかったから、雫の滴る髪をそのままに、隣で我が子に愛しげ
に微笑んでいる愛妻の細い肩を抱き寄せた。
「なぁに?」
そうすればリョーマは、桃城の内心など見透かしているのだろう。綺麗な笑みを桃城に向け、仕方な
いんだからと、堅い胸板に華奢な背を預けた。
所詮甘やかしたいだけ自分を甘やかす反面、甘えたがりな桃城を、リョーマはよく心得ていた。
「こうして親子水入らずってのもいいなって」
転戦に継ぐ転戦と、グランドスラム出場と、目まぐるしく変化する環境に、自分でも思っていなかった疲
れを意識するのは、こうして家族の元に帰った時だ。
愛妻と愛息との穏やかな時間は、何より疲れを癒してくれる。そして明日への活力となる。家族の為
に頑張ろうと思う世の父親や夫の気持ちが最近は痛い程よく判る桃城だった。
「桃先輩、遼と同じ」
「そりゃ俺は、テニス界きっての愛妻家だからなぁ」
「そのくせひどく甘えただし?」
テニス界きっての愛妻家は、きっとテニス界きっての甘えただろうと思うリョーマのそれは、さして間違
いのあるものではなかった。
転戦を繰り返している桃城は、帰国すれば盛大にリョーマを甘やかす反面、リョーマに甘える男だった
から、リョーマに言わせれば、息子の遼と変わらない甘えただということになる。けれど世間のファンは
そんな桃城を知らないのだと思えば、自分に甘えてくる桃城が、ひどく愛しかった。
「ねぇ、休まなくていいの?」
「ん〜〜?今はこうしてたい気分なんだよなぁ」
少しばかり暑い夏の夕暮れ時。それでも夫婦揃って愛息の寝顔を眺めている倖せな時間。ゆったり
流れていく時間が掛け替えのないものなのだと、桃城に教えてくれたのはリョーマであり、一人息子の
遼だった。
「今日一日、遼どうしてた?」
小さい子供用の布団に寝ている愛息は、とても穏やかで愛らしい寝顔を見せている。瀟洒な面差しと
肌の白さは、間違えようもなく、愛妻であるリョーマの血筋を色濃く引き継いでいる。けれどその眼差し
は桃城の血筋を受け継いで、リョーマのように、色素の薄い空色をしていることなかった。幼児のくせに
挑戦的な勝ち気さを見せる愛息の眼は、漆黒のような黒瞳だ。
知らない者が見れば、未だ女の子と間違われてしまう器量よしな外見をしている遼は、けれど負けん
気の強さは両親双方から譲り受けた勝ち気さだろう。幼児には大きすぎるラケットを持て余しながら、父
親である桃城に、挑戦的に挑むことを忘れない。
そんな愛息の柔らかい頬をツンツンとつついて桃城が笑えば、リョーマがペシンと軽く桃城の甲をはた
いた。
「寝た子、起こさないで」
それでなくても、昼間ははしゃいで、昼寝も中々したがらなかったのだから。
「ラケット片手に、ボールと格闘してはしゃいでた。パパはって何度も訊かれたし」
数ヶ月後には3歳になる遼は、カエルの子はカエルなのだろう。玩具で遊ぶより先に、ラケットとテニ
スボールを玩具にすることを覚えた子供だったから、庭先でラケットとボールで遊んでいた。それも性格
的にはリョーマに似たのか、一極集中の思考回路は、それが遊びでも夢中になって、なかなかラケット
を手放さない一面が見受けられた。
「妥当親父とか言ってくれると、父親としちゃ、嬉しいんだけどな」
自分より愛妻に顔立ちも性格も似た息子は、赤ん坊当時はよく女の子と間違われた程、綺麗な顔立
ちをしていた。それは今も変わりないものの、成長するに従い、面差しや性格傾向がかつてのリョーマ
と似通ってくる気がしたから、もしかしたらいずれそんな科白を言ってくれるだろうか?桃城はフトそんな
気分に陥り、子供を持って、当時の南次郎の気持ちが判ってきた。
男親にとって、目標にされることは、それだけで嬉しいのだ。だから当時の南次郎は、よくリョーマにち
ょっかいを掛けては、不興を買っていた。いつか遼もそんな風になってくれるだろうか?そんな気持ちで
笑えば、リョーマがひどく優しい眼差しで見ているのに気付いた。
「この子にテニス押しつけるつもりはないけど、でも言ってくれるんじゃない?桃先輩の子なんだし」
「俺達の子供だもんなぁ」
「カエルの子はカエルとも言うけどね」
それは父親である南次郎の科白だ。玩具より先に、ラケットとボールを玩具にすることを覚えた遼は、
リョーマの幼い頃と似通っているらしい。それは桃城にとってさえ想像の範囲内で、簡単に予想がつい
てしまうものだった。
かつてのリョーマも、遼と変わらず、ラケットとボールを玩具にしてい遊んでいた。だから逆に子供が好
む玩具を与えても、見向きもしなかった。
遼はそんな部分がリョーマと似ていると、南次郎が時折思い出し笑いに紛れ込ませ、感慨深げな眼
差しで初孫を見ているのを、リョーマも桃城も知っていた。
「ライバルと戦える日が、待ち遠しいね、桃先輩」
母親である倫子が、それはかつて南次郎に告げた科白とまったく同じものだと、けれどリョーマは知ら
ない。
世界ランキング1位を目前に、突然テニス界を引退した南次郎に、それは倫子が穏やかに笑いながら
告げた科白と同じものだ。
「こいつは、どんなテニスを見せてくれるんだろうな?」
握られた手の中に掴んでいる未来。一体どんな未来が愛息には待っているのか?そう考えれば、もう
随分自分達夫婦は遠い場所まで歩いてきたなと思う桃城だった。
「父親の顔してる」
「ん?」
「親バカの顔」
「リマもそうだけどな」
「そぅ?」
小首を傾げ、キョトンとしているリョーマに、桃城は細い躯を緩く抱き締める。
「ママの表情してる」
「拗ねてる?」
「ん〜〜〜息子に奥さん取られた気分」
お約束の科白と共に笑う桃城に、リョーマも釣られて笑う。温い暑さが付き纏う夏の終わり。オレンジ
に染まる空と雲。夕暮れの庭で、静かに鳴く蝉の声。
羽化からたった数日の命しかない短さを、それでも賢明に生きている蝉の声は、昼間は降るように響
いていた。
きっと今月の終わりには、そんな蝉達の声も聞こえなくなって、一抹の郷愁を誘う蜩の声と月鈴子の
声が、庭先には聞こえてくるのだろう。
「夏が終わるね」
夏の終わりは一年を通し、何より惜しみたくなる季節を感じさせる。夏だったのだと意識するのは、き
っとこんな夕暮れの中に見出だしてしまう、次の季節を感じる時なのかもしれない。
特にリョーマにとって、夏の終わりは特別な意味を持っているから、尚更なのかもしれない。
桃城と別れ、性別を変える手術をする為、アメリカへと渡った夏の終わり。全国大会が終わって、二学
期が始まり、それは少し経ってからのことだった。
「長い隠れんぼ、だった気がするけどな」
コトンと小さい擬音を付け、胸板に華奢な背を凭れてきた愛妻の内心など、桃城にはお見通しだった。
それは桃城にとっても、夏は特別な意味を持っていたからだ。
大切にしていた後輩が、突然姿を喪失させ、行方も掴めなくなった夏の終わり。あのどうにも表現しが
たい衝撃と喪失感を、桃城は今も胸の奥深くに持っている。
だから恋人同志として付き合いだした当初、桃城はいたく心配したのだ。またリョーマが突然姿を喪
失させてしまわないか。それでもリョーマの行動を制限してしまうような執着を、桃城欠片も表情には出
さなかった。
ただリョーマが姿を消した喪失感を、そうと見せない部分で心の奥深くに持ち続け、リョーマを心配し
続けていた。そしてリョーマも、言葉に出さず寄せられた心配の在処を、嫌という程知っていた。
「……私は…人魚姫の気分だったけどね」
「リマ……」
王子の愛を得られなければ、海の泡となって消えるしかなかった、可愛そうな海の姫。だからリョーマ
は自らの足で立つ強さを何より欲していたことをもまた、桃城は知っていた。
「ガラスの靴が欲しいわけでも、諸刃の短剣が欲しいわけでも、なかったけどね」
それはどちらも代償でしかない。世の中は得てしてそんなものでできているのは知っている。けれど
桃城との関係だけは、そんな代償行為で叶ってしまう、脆弱なだけの関係を築きたくなかったのだ。
だからリョーマが欲したのは、自らの足で立つ強さだった。
小綺麗なヒールもミュールも、安定したスニーカーも必要なく、リョーマが欲したのは、熱砂の上に裸
足で立つ、二本の足、それだけだ。
「俺よりリマは、十分強いからなぁ」
サラサラ流れていく愛妻の柔髪。団扇を持つ細く白い指先。一体どれだけ影で泣いたのかと思えば、
二人で倖せになりたいと願った。
支えたいと思う程、傲慢ではないつもりだったから、桃城が祈る程深く願ったのは、二人で倖せになる
というものだった。 だから桃城がリョーマにプロポーズした科白は、倖せにするからというものではなく、二人で倖せになろうというものだった。そしてリョーマも、他人任せの望みを、桃城に求めたことはない。
感慨深く呟く桃城に、リョーマは淡い笑みを刻み付けている。一体何をして桃城が自分を強いというの
か判らないものの、桃城の科白には一切の揶揄はない。
「強いのは、桃先輩の方でしょう?」
待っていてくれると言った桃城の科白が、どれだけ当時の自分の精神的な支えになっていたのか?
まるで切れ端を掴むように、その言葉だけを支えにしていた当時の自分。
性別が変わってしまった自分を待ち、人込みの何かから当たり前の顔をして見付け出し、もう離さない
と告げてくれた強さ。抱き締められた腕の強さ。
強いのは桃城の方だとリ思えば、瀟洒な面差しが切なさを映した。
そんな時だ。穏やかな寝息を立てていた愛息の遼が、むずがるようにポッカリ瞼を開いた。
「……ママ……?」
「起きた?」
寝ぼけた様子で瞼をこすりながら、布団から起きだした愛息は、ボーとした様子で両親を見詰めてい
る。
そんな愛息を優しく抱き上げてやれば、遼はひどく甘えた様子で、母親の胸でむずがっている。
「寝起き悪いのは、リマに似てるよなぁ」
リョーマの寝起きの悪さは、中学生当時、テニス部員で知らない者は存在しない程、有名だった。
結婚してからはプロテニスプレーヤーの夫を持った所為か、改善されていたものの、付き合いだした当
初のリョーマは、やはり中学生当時と変わりなく、寝起きの悪さは最悪だった。
そして遼は桃城の姿を見付けると、寝惚けながらも、ムッとした表情になった。
「コ〜〜ラ遼。なんだ?その顔は」
愛妻の胸にあやされている愛息に、桃城はツンツンと柔らかい頬つつけば、遼は益々ムッとした表情
を刻み付けた。それが面白くて、ついつい息子にちょっかいをかけてしまう桃城だった。
「桃先輩、それじゃ父さんと同じ」
「俺親父さんの気持ちが、遼生まれてよく判ったぞ」
「私も母さんの気持ち、判ったけどね」
でもだからって寝た子起こして遊ばないでよと、リョーマが笑えば、遼は何かを探すように、キョロキョ
ロ室内を見渡した。
「ラケット?」
寝るまで離さなかった子供用のテニスラケットを求め彷徨う桃城譲りの瞳に、リョーマは笑い掛ける。
「てにす」
ムッとしたまま、けれどハッキリした口調で、遼は父親である桃城を凝視している。
「ったく、そういう眼は、リマにそっくりだな」
逆境に立たされた時程、リョーマは冷ややかな熱を灯す眼差しをして、凛然とコートに佇んでいた。
今の遼は幼い子供のくせに、当時のリョーマを思い起こさせる眼をしている。もっと年齢が上がれば、そ
れは益々リョーマを彷彿とさせていくだろう。
子供を持って初めて、血筋や遺伝というものの奥深さを痛感いる桃城だった。
「パパとテニスするか?」
愛妻の腕から愛息を抱き上げると、遼は嫌になる程、当時のリョーマと同じ笑みをしていた。
「する」
「桃先輩、休まなくていいの?」
それでなくても全米大会はもう時期なのだ。帰国してもプロである以上、桃城は厳しい練習メニューが
組まれているから、絶対に休息は必要なものだった。
「ちょっと庭で相手するだけだから、大丈夫だよ。なぁ?遼」
「……親バカ」
一人息子が生まれた時、南次郎と一緒になって大騒ぎした桃城は、今でも眼にいれても痛くない程
、一人息子をネコ可愛がりに可愛がって大変なのだ。これで遼が女の子だったら、桃城のネコ可愛がり
は更に事態は悪化していだろうと思うリョーマのそれは、間違いではなかった。
「はやく」
軽い動作で父親の腕から抜け出すと、遼は室内の片隅に置かれたラケットを片手に、駆け出していた。
「コラ遼、ちょっと待て」
数ヶ月後には3歳になる愛息の足は、思ったより早い。小回りがきく剽悍さで、アッと言う間に玄関へ
と走っていく。それでも玄関のカギを開けられる背丈はないから、玄関先から元気いい声が響いてくる
のに、リョーマと桃城は顔を見合わせた。
「あれで遼、桃先輩の帰り待ってたから」
だから中々昼寝をしたがらず、駄々をこねては、桃城の帰りを待っていたのだ。それでも子供には昼
寝は必要な休息で、パパ遅いと悪態口調で桃城を待っていた遼は、むずがりながらも、昼寝には遅い
時間に漸く眠ったのだ。
「桃先輩、夢中になって、遊んでないでよ?」
「俺は子供か?」
「何言ってるの、大きい子供でしょ?」
「んじゃ大きい子供は、奥さんの手料理待ちながら、可愛い一人息子と遊んできます」
「んっ…」
ニンマリ笑う桃城の表情は、子供のように悪戯めいて、リョーマの細い躯を引き寄せると、口唇を掠め
取っていった。
「もう、桃先輩」
「大きい子供だからなぁ」
悪戯めいて笑う桃城に、呆れたリョーマはされるままになっていた時だ。緩い放物線を描き、黄色いボ
ールが桃城の後頭部にヒットした。
「おそい〜〜〜!」
「遼、お前なんちゅー真似するんだ」
やっぱこんな局面で発揮される遼の勝ち気さは、リョーマと酷似していると思わずにはいられない桃
城だった。
「コラ遼。パパにボール当てちゃダメでしょ?」
それでも気配もなくリビングの入り口から桃城にボールを当てたコントロールは大してものだと、奇妙
な感心をするリョーマは、十分親バカだった。
「リマ〜〜〜なんかその感心の仕方、違くないか?」
確かにコントロールは上達しているし、3歳にしては、類い稀な才能なのには違いない。けれどだから
といって、息子のラケットの使い方は間違っていると、大仰に溜め息を吐く桃城に罪はないだろう。
「保険に私にラケットとボール持ち歩けって言って桃先輩の科白とは思えないけど?」
「そりゃリマになら、ラケットとボールとそのコントロールは三種の神器だっけどな」
リョーマが高校時代、待ち合わせ場所によっては何処の誰ともしれない男にナンパされるという事態
を目撃してしまって以来、桃城は町中でリョーマと待ち合わせをすることはなくなったものの、以来ことあ
るごとに、リョーマに保険としてラケットとボールを持ち歩いてくれと言っていた前科持ちだ。
性別は変わってもそのテニスの才は変わりなく、鋭いショットを打つリョーマを知っていてからの科白
だったものの、それはリョーマにとって、ラケットとボールは凶器と言っているのと同義語だった。
「パパ〜〜〜!」
「コラ遼、ラケットとボールは友達だろう?凶器に使うな」
焦れた愛息がスマッシュを打つ体制に入っているのを見咎め、桃城は白旗を上げるように、降参と両
腕を上げた。
「それじゃ桃先輩、遼と遊んできて」
「あそびじゃないもん」
母親の科白にムッとした様子で遼はリョーマを見上げると、
「しょうぶだもん」
父親に向かい、ラケットを突き出した。それは大きすぎるラケットと小さい躯でバランスを崩しているも
のの、中々サマになっている。
「やっぱ俺とリマの息子だよなぁ」
自分の腰程も背丈のない愛息を見下ろすと、節のある長い指で一人息子の髪をクシャクシャと掻き乱
す。そうすれば、遼はムッとなった。
「ホ〜〜ラ、行くぞ」
掬い上げるように小さい躯を抱き上げると、肩車よろしく息子を抱き上げ、桃城は笑いながらリビングを
出て行った。
久し振りに帰国した父親に、二歳児が甘えたいは当然だろう。父親の肩車に、遼は途端に機嫌を直し、キャアキャアとはしゃいだ笑い声をあげているのが、リョーマの耳に届いた。
「さぁてと、夕飯の支度しなくちゃね」
玄関から元気よく飛び出した愛息は、網戸になっている窓越しで、桃城とはしゃいでボール遊びの延
長のようなテニスをしている。そんな穏やかな光景を眺め、リョーマはキッチンへと向かった。
リズムを刻む、包丁の音。コトコト揺れる鍋。食欲を誘う香り。そのどれもが、一度は手放した夢だと、
リョーマは庭先から聞こえる元気のいい旦那と幼い息子の声に、柔らかい笑みを零した。
□
「桃先輩?それなぁに?」
渡米を明日に控えた桃城が、突然何かを思い出したように、近所まで買い物にいくと愛息を連れて出
掛けて行ったのは30分前のことだ。
何か買い物のし忘れでもあっただろうかと、渡米に必要な荷物の中身を頭の中で反芻し、何も忘れ物
はなかったように思うのにと、リョーマが小首を傾げた頃、桃城は帰ってきた。手には小さい箱が一つだ
け。大事そうに抱えられている。
「この前のリマ見て、思いついたんだ」
「この前?」
「遼の昼寝中、団扇扇いでただろう?」
桃城が大事そうに抱えている小さすぎる箱の中身が、告げられた科白との関連性が思い付かず、リョ
ーマは不思議そうに小首を傾げたままだ。
まろく瞬く眼差しが、桃城の顔と、手の中にある箱とを交互に眺め、そして遼に視線を移した。
遼はスッカリ桃城にベッタリで、一日中テニスをしている。日中桃城がトレーニングで不在だと、あからさ
まに不機嫌になるのは、父親に甘えたい盛りの子供というより、単純にテニスをしてくれる相手を欲して
いるようにも見えたものの、桃城と喜々として出掛けて行った愛息の姿を見るに付け、遼はなんだかん
だ言っても、父親が大好きなのだとリョーマは苦笑する。
男親にとって、息子に目標にされることは嬉しいものなのだと、桃城が語った科白が胸をよぎる。
だったら南次郎もそうだったのだろうか?
飄々とした父親の、内心を推し量ることどリョーマには不可能だったものの、その父親か、影でどれだ
け胸を痛めてきたのかなら判るつもりだった。
「それでな、ちょっと懐かしいもの思い付いたんだよなぁ」
なぁ?と気を合わせて愛息に笑い掛ければ、遼も「なぁ」と桃城の口調を真似ているから、リョーマは
やれやれと淡い笑みを漏らした。
「それでなぁに?」
「ホレ」
手にした小さい箱を、リビングのテーブルにそっと置き開くと、中から現れたのは、確かに懐かしい品
物だった。
「風鈴?」
瀟洒なガラス細工のような風鈴は二連になっていて、上の大きい風鈴には、夏の風物である青と、ピ
ンクがかった紫の朝顔が、涼しやかに描かれて、下の小さい風鈴には、可愛らしい赤い金魚が描かれ
ていた。
「遼が選んだんだ」
「どうしたの突然?」
「ん〜〜?なんかあんなリマの姿みてたらな、無性に懐かしい感じがしてさ。冷房切って、風取り込ん
でただろう?だったら風鈴があったらもっと涼しい感じがするなってな」
団扇で我が子に風を送っていた愛妻の横顔は母親のもので、ひどく懐かしい感じがした。それはかつ
て自分も母親に、無償の愛情を注がれていたのを思い出したからだ。だったら自分も愛する家族に何か
残したいと思ったのは、ただ単純なものだった。
自然の風を取り込みながら、優しく微笑み、昼寝中の息子に風を送っていたリョーマの姿。窓の外に
見えた夕暮れの空。翳る陽射しにそよぐ緑。短い命を終える瞬間まで、鳴き続けていく蝉の声。それは
一枚の風景画のように、綺麗な光景を映し出し、一抹の郷愁を呼び起こす。
だから思い出したのかもしれないなと、桃城は風鈴をリョーマに翳して見せた。
チリンと綺麗な音を奏でる風鈴の音。子供のころ、夏の最中より余程夏を意識したのは、夏の終わりが
垣間見える今時分だった。
今のように世の中が物騒でなかったころ、日暮れまで友人達と遊び回り、夏休みの終わりに漸く宿題
の存在を思い出していた季節。夕暮れの風に運ばれてきた懐かしい香りや色。
包丁の音や味噌汁の匂い。いい加減帰ってきなさいと苦笑していた母親の声や、友人達の賑やかな
声。優しい夏の光景の中、何処からともなく風に紛れて聞こえてきた涼しやかな音。
それは無性に夏の終わりを意識させ、もの淋しい気分に陥った。それでいて何処か懐かしい音色を伴
っていたのは、思いがけずも風鈴の音が、あまりに優しく涼しい音を奏でていたからなのかもしれない。
夏に涼しい気配を紛れこませていく風鈴の音は、次の季節の訪れを連想させるから、何処かもの淋し
い懐かしさを運んできたのかもしれないなと、桃城は当時を思い出す。
そして大事な一人息子にも、そんな掛け替えのない思い出を覚えていてほしくて、風鈴を買った。
明確に記憶に残らなくても、そうしたちょっとした音や香りで、人は容易にその時を思い出せるのだ。
そんな何気ないものを、桃城はきっと一人息子である遼に残したかったのだろう。
「ありがとう、遼、桃先輩」
リョーマも、桃城の言葉にされない言外が判ったのだろう。満足そうに笑っている愛息の小さい頭を撫
でてやると、桃城から綺麗な風鈴を受け取った。
「懐かしい」
卒園を機に渡米し、中学入学と同時に帰国したリョーマには、桃城程は風鈴に纏わる思い出はない。
それでも涼しやかな音が夕暮れに響けば、それは否応なく身の裡の何処かに、郷愁を呼び起こしてい
く威力を持っている。
全国大会出場に向け、遅くまで部活をしていた中学生当時。夏の夕暮れ時、何処からともなく響いて
くる風鈴の音や、食欲を刺激する夕食時の匂い。それは何処までも懐かしい記憶で、桃城の自転車の
背後で、いつも聴いたり嗅いでいたりしたものだ。
雄大な夏の夕暮れ時。それはリョーマには何処までも優しい黄昏の記憶だ。けれどそれは生涯色褪
せることはなく、リョーマの身の裡で、夏の夕暮れのように、優しいオレンジ色をしているだろう。
「何処に飾ろっか?」
息子の前で膝を折り、目線を合わせて優しく問い掛ければ、遼は母親の言葉にん〜〜と小首を傾げ
た。そんな愛息の仕草がいちいちリョーマに似ていて、桃城の口許に優しい笑みが浮かんでいる。
「アソコ」
少しばかり小首を傾げ考えこんで、室内に視線を移した遼が指し示した場所は、網戸になっているリ
ビングの縁側だった。
白いレースのカーテンを、静かに揺らす夕暮れの風。遼が選んだ場所は、いつも気に入って昼寝をし
ている場所だ。
「自分の部屋とか言わない所が、遼の偉いところだよな」
遼の答えに、満足そうに笑った桃城は、親バカを発揮する。幼児である遼に子供部屋が与えられてい
る筈はないから、それはイコールで、桃城とリョーマの寝室ということになる。けれど遼はその場所を選
ばなかった。
「じゃぁあそこね。桃先輩」
つるしてねと、リョーマが風鈴を渡せば、その横から小さい腕が、背伸びをして伸ばされた。
「ボクの〜〜」
「ん?遼やるか?」
背伸びをして腕を伸ばしてくる愛息に、桃城が視線を移せば、遼が幼い両腕を差し出している。
「んじゃ肩車な」
「桃先輩、明日からまたアメリカなんだから、無理しないでよ」
「遼はちっこいからな」
愛妻の心配に笑顔で応えると、桃城は小さい躯を抱きあげた。もう数ヶ月後には3歳になる我が子は、世間の同年齢の子供より幾分、体重面は軽いだろうなと思う桃城のそれは、間違いではなかった。
けれど桃城とリョーマの二人は、別段それを心配してはいなかった。
世間の母親の中には、育児書を手放せない母親も多々存在する。
様々な見地から総合的に割り出される統計的発達に、我が子が少しでも達していないと、神経質に
なりすぎる母親は結構いるのだ。そしてノイローゼに陥り、虐待に走るケースも最近では珍しくなくなっ
ている。けれどリョーマも桃城も、それは子供個人の程度問題だと認識しているから、世間という見ず知
らずのダレかと、我が子を比較する必要を感じてはいなかった。
実際遼は多少体重は軽くても、情緒や言語、精神の発達に何一つの問題はなかったからだ。むしろ
言語面に関しては、世間の子供より余程発達していた。
人は言語を媒介に思考を巡らせる。言語を媒介にしっかり思考が確立されるのは、もう少し先の年齢
になる。けれど遼は違ったから、喋りも達者だ。
小児科医を志している英二に言わせれば、体重の軽さはリョーマ譲りということになる。それは南次
郎と倫子の二人が、証言していることでもあった。
リョーマが遼くらいの年齢だった頃、体重も軽くて華奢だった。けれど食欲や何かは世間の子供と何
一つの変わりはなかったから、別に心配はしなかったと聴いたのだ。
そしてませた喋りは、桃城譲りだというのが、英二達の意見だった。
けれど遼は父親の科白に、多少なりとも何か感じる部分があるのだろう。少しばかりむくれた表情にな
っていた。今でもどうにかすると、女の子に間違われてしまう遼は、どうやらそれが子供心にもコンプレ
ックスらしい。
「本当、可愛いな」
肩車をして笑えば、遼はムッと頬を膨らませる。そして思わぬ反撃に出た。
「コラ遼、ちょっ、コラやめろって」
「遼、危ないから暴れないの」
父親の頭をグシャグシャと掻き乱す遼に、桃城は慌て、リョーマはそんな親子を微笑ましげに眺めな
がら、桃城の肩車に抱えれた頭を優しく撫でていく。
「暴れると落としちゃうだろう?」
「ハイ遼」
風鈴を渡すと、可愛らしい笑顔で笑いながら、遼は母親から風鈴を受け取って、
「パパ、何処?」
チリンと涼しやかな音を奏でながら、小さい手元で風鈴が鳴った。
「リマ〜〜〜此処にするか?」
「丁度此処から見られるから、いいと思うけど。でもちょっと待って」
リビングの軒先には、ちょっとした雨の日には洗濯が干せるようにという配慮で、洗濯棒を通してある。その一部にフックを固定すると、リョーマは遼を促した。
「遼、此処につるしてくれる?」
「ハーイ」
「ったく、リマには素直だよなぁ」
元気良く返事をする愛息に、自分の息子だからそれは仕方ないかと、桃城は苦笑する。
自分がテニス界きっての愛妻家と言われているのは知っているし、当然自覚も有り余っている。そんな
自分の息子だから、遼が母親であるリョーマに素直なのは、仕方ないだろうなと桃城は疑っていないの
だから親バカだ。
「ママ」
これでいいの?と隣に佇む母親に視線を移せば、リョーマは淡い笑みを覗かせた。
「綺麗だね」
風に揺れる夏の風物。けれどそれは次の季節の訪れでもある。夕暮れに映える綺麗な風の音は、心
の何処かを優しく刺激していく。
「遼、明日からパパいないから、ママのこと頼むな」
愛息を肩車から降ろすと、桃城は愛息を覗き込み、愛妻譲りの柔らかい髪を掻き乱した。
転戦に継ぐ転戦で、愛妻にも愛息にも常に淋しい思いをさせている自覚があったから、桃城は託す気持
ちを込め、風鈴を買ってきたのだ。
真剣な表情をした父親の科白に込められた気持ちが。遼も子供ながらに判ったのだろう。小首を傾げ
ながら、コクリと頷いた。
「オーシ、それでこそ男の子だぞ」
もう少し成長すれば、きっと中学生当時のリョーマのように、小生意気な科白を吐くんだろうなと思え
ば、そんな未来が楽しみな桃城だった。
「頑張ってね、桃先輩」
応援しているからねと、リョーマが桃城の頬に口吻を落とせば、それを見ていた遼が途端にムッとし、
「ボクも〜〜」
母親の足下に纏わり付いては小さい両腕を伸ばし、キスをねだった。
「遼も、ママと一緒に、パパの応援するもんね」
桃城の前では少しばかり負けん気の強さが発揮される遼も、実際テレビ画面越しで父親の活躍を眼
にすれば、リョーマと変わらぬ応援をしているのだ。それこそキャアキャア騒いで大変な程だ。
「愛されるお父さんは、家族の為に頑張らないとな」
桃城は緩く笑うと、愛妻と愛息を抱き締めた。
風のカタチを綺麗に響かせる風鈴の音。夏の終わりを予感させる涼やかな音色が、夕暮れの光景に綺
麗に響いていた。
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