週末のデパートというのは、大抵何処も混雑している。元々人混みが苦手なリョーマにとって、その混
雑は少しばかり遠慮したい時はあるものの、こうして桃城と日用品を買い求め、賑やかな店内を散策気
分で眺めて歩くのは、不思議と優しい気持ちも溢れてくる満ち足りた穏やかさがあった。
人工の照明に照らし出されている光。数々のテナント。週末の所為か店内は家族連れが多く目立つ。店内を駆け、母親に注意されている子供。抱っこされている赤ん坊。歩くことを覚えたてなのだろう幼
児が、辿々しい足取りで歩くのを、倖せそうに両手を握って歩いている夫婦。
今までなら、さして気にもとめなかった子供の姿が、視界に多く感じられるのは、あと数ヶ月後には自
分も同じ立場になるからなのか、リョーマにも判らなかった。けれどあんな風に、見ているだけで優しく
なれる光景を作り出したいと、リョーマは思う。思いながら、無意識に白い指が腹部を撫でているのに、
リョーマは気付かないでいた。
「あと何か買うものあったか?」
ゆっくり歩調のリョーマに合わせ、桃城も散策気分で周囲を見渡し、ゆったり歩いている。それは喧騒
に包まれた店内で、ひどく穏やかな光景だろう。そして他人から見れば、実に微笑ましい夫婦に映った
だろう。桃城とリョーマは何処からみても、倖せな新婚夫婦だ。
「ん?あとは平気」
現在プロテニス選手として世界で頭角を現し、グランドスラムの常連になりつつある桃城は、転戦を繰
り返す中。一体どういう時間のやりくりをしているのか、リョーマが甚だ謎だと思う程、こまめに帰国して
くる。こんな調子で試合に影響しないのだろうか?そう思って訊いてみたところで、返ってくる答えは、『リマは俺の安定剤で、栄養源だからな』と、呆れるものだった。
「疲れないか?」
隣を歩く愛妻に、気遣わしげに声を掛けながら、桃城は労るようにネコッ毛の柔髪を梳き上げる。その
仕草に、リョーマは擽ったそうに薄い肩を竦めた。
元々リョーマは人混みが苦手だから、週末のデパートなど、できれば連れ出したい代物ではなかった。とはいえ、当のリョーマが買い物に行くというのであれば、それも気分転換の一環である以上、桃城
が拒める理由は何処にもない。それは些か散歩というには、出向く場所が不似合いな面は存在するも
のの、自宅マンションから徒歩にして30分余りの距離は、確かに散歩としては、理想的な時間で距離
だろう。何より次の試合までの、極短い期間の合間を縫い帰国している桃城にとって、愛妻であるリョー
マとのんびり過ごせる休日は、それだけで満ちたりた倖せをくれるものだった。
「桃先輩、心配性」
気遣わしげに髪を梳き、覗き込むように見詰めてくる桃城に、リョーマは楽しげにクスクス笑う。繊細に
縁取られた白皙の貌が、清楚な花のように笑うのに、桃城は莫迦みたいに倖せだと実感する。
桃城は中学時代から、リョーマに対し過保護だった。それは中学一年の夏休み前までという、極短期
間の関わりしか持てなかった中でも、容易に周囲に知れ渡ってしまう程のものだった。その感情が、一
体何を基準にして過保護だったのか、当の桃城がその感情を自覚したのは、リョーマが全国大会優勝
後、不意に姿を喪失させた時だった。
探したのだと、桃城は言った。不意に消えてしまった後輩の姿を、探して探して探して。莫迦みたいに
求めたのだと、桃城が気弱とも思える科白を吐いたのは、たった一度。リョーマが渡米前、桃城の前に
姿を現した時だった。
痛い程抱き締められ、待っているからと、聴いたこともないような切ない低い声で囁かれて。初めて聴
くその声と口調に、どれ程心配させたのか、リョーマはあの時初めて、悟ったのだ。
「心配に決まってるだろう?」
桃城は、眼に見える心配をしない。見えるカタチでの心配が、リョーマに自覚のない負い目を抱かせ
てしまう可能性があるから、桃城はリョーマに対し、眼に見えるカタチでの心配は、容易に曝さない。
眼に見える部分での心配程度、桃城には心配の範疇でさえないのだから、リョーマに言わせればタチ
が悪いと言うことになる。
「医師にも、普段通りの生活が一番って言われてるの。適度な運動だって必要だし。病気じゃないんだ
から、安静にしてる必要なんて、何処にもないんだからね」
だから30分程度の散歩は、むしろ却ってした方がいいのだ。こんなこと、一緒に検診に付き添ってく
る桃城には、判りきっているだろうに。医師の説明は充分納得しているものでも、どうやら感情が追いつ
かないらしいと、労るように気遣ってくる桃城に、リョーマは溜め息を吐いた。
大体プロ選手として活躍している桃城の一体何処に、検診ごとに帰国してくる時間的余裕があるのか、リョーマには、そっちの方が気掛かりで不思議だった。愛されているとは思うものの、桃城の躯も心配してしまうのだ。
紳士的スポーツと言われるテニスは、けれどそんな簡単なものではないことを、リョーマは知り尽くし
ている。一試合の運動量は半端ではない。ましてそれに見合う精神値が、何より必要不可欠なスポーツだ。
「そうは言ってもなぁ」
散歩なら、むしろ近所の公園でも充分にこと足りる筈だ。
青春台は治安の良さを発揮して、公園と呼ぶには些か不釣り合いな、むしろ森林公園と言った方が似
合っているかのように、広大な敷地面積を要する公園を持っている。其処は週末には家族連れやアベ
ックがハイキングに訪れる場所として、最近ではちょっと有名になっている。散歩というなら、むしろそっ
ちの方が似合うだろうにと、桃城はリョーマの気紛れじみた行動に、だから却って心配を煽られてしまう
のだ。
「こうして桃先輩と日用品買いにくるのって、楽しいよ?」
それは夫婦でなければ、共有する日用品を買いにくるなんていうことはないからだ。だから少々の混
雑の中でも、リョーマは桃城と一緒にデパートに来たかったのだ。
少しずつ少しずつ、二人だけのものが増えていき、今では二人以外の物も、少しずつ少しずつ増えて
いる。それが眼に見えるカタチになっているから尚更楽しく、倖せだった。
「この子もね、パパとこうして出掛けるの、楽しいって」
悪戯気に笑い、ソッと腹部に手を当てるリョーマのその部分は、他の生命が宿っている証拠に、少し
だけ大きくなっている。その優しげな横顔が、もう母親の表情を滲ませている自覚は、けれどリョーマに
は皆無だ。
淡いパステルピンクのマタニティードレスは、細身のリョーマによく似合っている。それはリョーマの妊
娠が判明した時、桃城が大量に買って着た服の一枚だった。
今のリョーマは、妊娠初期の悪阻も通り過ぎ、安定期に入っているから、安静にしている必要は何処
にもない。むしろ不必要に安静にして産道に脂肪が付けば、分娩困難に発展する危険性が発生する。
その場合正常に育った胎児が、分娩時低酸素血症を引き起こし、脳性麻痺などの重篤に陥る場合もあ
るから、むしろ妊婦に、適度な運動は必要なものだった。
「楽しいか?」
細く白いリョーマの指が、ひどく優しい仕草で腹部を撫でている。その上に自分の手を起き柔らかく笑
う桃城は、ひどく倖せな表情をしている。けれど端からみれば、充分莫迦夫婦な自覚は、残念なことに
二人にはなかった。此処に未だ付き合いの途切れることのない英二あたりが居たら、『莫迦夫婦だ』と、指をさして呆れて笑っただろう。
「なぁリマ、疲れてないんなら、ちょっと行きたい場所あるんだけどな」
「ダメ」
「リマ〜〜〜」
愛妻の即答に、桃城はガックリ脱力する。
「だって桃先輩の行きたい場所なんて、子供売り場だし」
妊娠の事実が発覚した時、桃城は転戦最中で国外に居た。
一体何処にそんな余力があるのかとリョーマが疑う程、毎日欠かさず掛かってくる国際電話の向こうで、妊娠の事実を告げた時、桃城は途方もなく喜んでくれた。
変容した性別の為、子供は望めないだろうと言われ、女性にとって、それもこれから愛する桃城と結
婚するというリョーマにとって、それは死刑宣告に等しかった。
だからリョーマは桃城との結婚に、らしくない躊躇いを見せていたが、それも杞憂に終わったと判った
のは、結婚式からさして時間の経たない、冬の終わりだった。
そして事態を聞き、転戦後帰国した桃城が帰国土産に買ってきたものは、リョーマや南次郎さえ呆れ
る程の、リョーマの為の大量のマタニティードレスと、未だ見ぬ我が子への、オモチャの山だった。
「だって、楽しいだろう?」
「楽しかったんだ」
「楽しかったぞ〜〜そりゃ勿論」
子供は望めないかもしれないと宣告された時。リョーマが一体どれ程影で泣いたのだろうかと思えば、妊娠の事実は、桃城にとって、単純な喜びではなかった。
リョーマが見せない部分で泣いていたことを知っていたから、桃城は単純に我が子がリョーマの胎内
に宿った以上のものを喜んだ。だからこそ、これから出会うもう一人の家族の為に、オモチャを選ぶのは
楽しかった。
柔らかい笑顔で楽しげに話す桃城に、リョーマも淡い笑みを見せると、二人の足は、これから生まれ
てくるもう一人の家族の為の場所へと向かった。
□
「リマ、エスカレーターはダメだそ」
目的回数は二つ上に有る。リョーマは当然のようにエスカレーターに足を向けたが、乗る寸前で桃城
にソッと背後から引き止められた。
「なぁに?」
後に続く人達に迷惑だろうと背後を振り返れば、少しだけ困った顔をしている桃城が視界に映るのに、リョーマはまろい瞳をキョトンと瞬かせ、小首を傾げた。
「桃先輩?」
「エレベーター」
あっちと、節のある長い指先が指し示す方角には、4台の箱の乗り物があるのをリョーマは知っている。この駅ビルは、リョーマと桃城が中学時代から、青春台の駅ビルとして存在している場所だ。時折外
観を修繕し、店内も改装しているとはいえ、エレベーターのある場所は、昔から変わらない。
「嫌い」
「リマ、でもエスカレーターはよくないぞ」
桃城が少しだけ困った顔をしているのは、足許が動いていく不安定さは、妊婦にはよくないだろうとい
う部分と、リョーマは昔からエレベーターが好きではないと知っているからで、だから言ってもきっと聞き
入れられないだうなと、判っている所為だ。
「エレベーター嫌いなの、知ってるくせに」
密閉された空間と、上下に移動する瞬間の、あの独特の安定感のない浮遊感がリョーマは昔から苦
手だった。何より遮断された空間が、最もな理由なのかもしれない。
「知ってるけどな。でもなぁ」
それこそ理屈じゃないんだ判ってくれと、桃城は内心深々溜め息を吐き出しているのを、リョーマは気
付いてはいないだろう。
確かに二階上だから、エレベーターより、エスカレーターの方が早いのは判っている。けれどエスカレ
ーターの不安定な足場に、リョーマを乗せたくなかったのだ。たとえそれが自分の我が儘だとしてもだ。
ましてエスカレーターに乗る人間の脇を走り上がっていく人間の多さと、そのマナーの悪さも判っている
から、桃城はついいらぬ心配をしてしまうのだ。
「だったら桃先輩が、ちゃんと支えてくれてたら、大丈夫でしょ?」
桃城の心配性は今更なものの、今からこれでは先が大変だと、リョーマは可笑しくなる。それでも、桃
城が眼に見える部分でしてくる心配など、見せない部分でする心配の足許にも及ばないことを知ってい
るから、リョーマは大切にされている実感を深めていくばかりで、その優しさに、時折泣き出したくなるの
だと、きっと桃城は知らないだろう。
「ハイハイ、奥さんには逆らえませんよ」
柔らかい苦笑を漏らすと、桃城はリョーマの手をそっと握り、エスカレーターに足を向けた。
所詮桃城はリョーマに甘い。許容出来る範囲のリョーマの願いに、否を唱えることなどできないのだ。
それが判っているから、リョーマも桃城に甘えられる部分では、躊躇いなどないのは、それこそ昔からだ
った。
□
「なぁなぁリマ、これ可愛くないか?」
「………桃先輩、この子は男の子か女の子か、未だ判らないんだからね」
大仰に溜め息を吐き出し、リョーマは少しばかり呆れた様子で、『困ったパパだね』と、胎内に宿る生
命に、ソッと話しかける。
リョーマの呆れた視線の前で、桃城は乳幼児服売り場のショーウィンドーを喜々して眺めている。
レースとフリルがヒラヒラに連なっている幼児用の服を、それは楽しげに眺めている桃城に、もうリョー
マは苦笑しかできない。
愛され誕生を望まれている我が子。一時期は諦めた重さが、今確かなものとなって胎内に在るのに、
リョーマは優しく腹部を撫でている。
身重とはよく言ったものだと思う。他人の生命を身の裡で養う確かさは、それこそ身が重い。
妊娠の可能性は薄いだろうと言われた時。桃城との結婚を一度は諦めた。桃城の生命を繋ぐ存在を生
み出せない片輪な躯などいらないと思った。それでも結婚に踏み切ったのは、桃城の真摯な愛情と、
桃城とはもう二度と離れたくないと思ったからだ。そして冬も終わる頃、体調の悪さに受診しをして、妊
娠を知った。
「リマに似たら、男でも女でも美人だよなぁ」
発達した医療の中では、医師に訊けば、男か女かは教えてくれはするだろうが、産婦人科学会の倫
理規定で、それは未だ論議が為されている部分だ。出産前に、性別を告知するのに賛成しない医師も
少なくはない。それはやはりどれだけ医科学が発達した現代でも、受精から出産に至までの神秘性は、科学だけでは推し量れるない部分があるからだ。
だから桃城とリョーマの二人も、出産前に於ける性別を知りたいとは望まなかった。男の子でも女の
子でも、二人にとっては大切な我が子には変わりないからだ。
「……って、思ってたんだ…」
桃城の科白に、リョーマがついつい溜め息を吐いても、罪はないだろう。それは裏を返せば、中学時
代の姿さえ、美人だと言われているのと大差ないからだ。
「今も昔も、綺麗だからな、リマは」
「……莫迦…」
臆面なく告げる桃城に、リョーマはらしくなく頬が紅潮するのが判った。こんな部分が桃城の曲者性質
なのだ。それも素だから始末に悪い。だからプロになった現在、桃城に女性ファンが数多いこともよく知
っていた。
「ベッドなんかは、もちっと経ってからだろうしな」
「……桃先輩、今から買うつもりな訳?」
「あのヌイグルミ、可愛いよな」
「だからね、桃先輩」
「女の子だったら、リマと二人でピンクハウスってのも、いいよな」
「あんな機能的じゃない服、絶対着ない」
ショーウィンドウを眺めている旦那の脳内妄想に、リョーマは呆れた表情を滲ませる。
「ああそうだ、本屋に寄って、タマゴクラブ買ってかないとな」「………桃先輩、私の言うこと、聴いてる?」
絶対耳に届いてないだろうと、リョーマは繊眉を顰め、脱力する。今からこれでは、子供が生まれた時。どれほど親バカになるのか想像もできない。
「聴いてるに決まってるだろう?」
リョーマの声を、聞き逃す耳など持っていないと、桃城は笑うと、傍らで呆れている愛妻をソッと引き寄
せる。
「なぁリマ」
「なぁに?」
そっと引き寄せられ、可愛く飾り立てられた服が並んでいるショーウィンドーを眺めれば、その向こう側
から、倖せそうに笑う自分の姿が透かして見えた。何処から見ても倖せな新婚夫婦の図だと思えば、ち
ょっとだけ気恥ずかしかった。
「俺は、妬くからな?」
「ハァ?」
唐突な桃城の科白に、リョーマは一瞬意味が判らず、キョトンと桃城を見上げれば、桃城は悪戯気に
笑っている。それは戦場に等しいコートの中では、決して見ることのできない貌だ。
荒野のような隔絶された空間に立つ時。桃城は野生的な精悍さが全面に出る。けれど極限られた人
間の前では、こんな少年のような貌もするのだと思えば、大多数の人間が知ることのできない桃城の
表情を一番知ってる自分に、リョーマはバカみたいな倖せを感じてしまう。それは極一般的な独占欲で、桃城を愛しているからだ。
「子供ばっか、かまったら」
悪戯気に笑うと、柔らかくリョーマの腹部を撫でる。男親は、母親のように、他人の生命を胎内で育む
ことはできない。だからこうして触れ、語り掛けることが、子供に伝えられる、愛情表現なのだろう。だか
ら桃城はよくこうしてリョーマの腹部を撫でては、その内側に眠る、未だ見ぬ我が子に語り掛けることが
多かった。
「桃先輩、案外バカ?」
けれどそんな桃城に、リョーマも大差ない感情を抱いていることを、けれど桃城は知らないから、お互
い様ということになる。
「桃先輩こそね」
この子生まれたら、絶対親バカ丸出しでしょ?
そう笑うリョーマに、桃城は苦笑すると、
「でもな、俺の一番は、何処までいってもリマだよ」
子供が生まれたら、世界で二番目に好きだと話してやろうと、決めているのだ。いつかパパとママが
出会って愛して家族になったように。お前も大好きな人をちゃんと見付けられるよと。
「私も…」
一瞬泣き笑いの表情を刻み付けると、リョーマは腹部を撫でる桃城の指に細い指を重ねた。
『遼、此処がね、桃先輩と、私が出会った場所』
桜が舞う春爛漫の季節。門を潜った場所で出会った優しい人達。いつか話して聴かせてあげる。
そっとそっと、秘密を解くように。中学時代の写真を見せて。自分達の馴れ初めを。優しい人達との出会いを。
与えられた沢山のものは、この場所で見付けたのだと。
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