愛妻の誕生日と愛息の誕生日、そして夫婦の結婚記念日というアニバーサリーが重なる12月24日
を目前に控え、その日桃城は、淡く優しい色彩に彩られた夫婦の寝室とは赴きが違う和室で、一人眠
っていた。
外観だけを見るなら洒落た西洋建築の桃城家は、けれど室内には二つの和室が存在し、中でも現在
桃城が寝ている場所は、年間を通しても利用頻度は極端に低いものの、桃城が帰国している間、気分
を変えて夫婦で寝泊まりする時がある癒しの空間だった。そして時には親子四人で枕を並べて眠る時
もある。
和室は磨き抜かれた飴色の木目が落ち着いたたたずまいを醸し出し、壁と同色の剥き出しの床板が
床の間を飾っている。あとは全面青い草の匂いがする畳が敷かれ、その空間には雑音を配するテレビ
などは一切置かれてはいなかった。
廊下に面する出入り口も障子戸で、中央には情緒豊かな丸窓が織り込まれている。家族の癒しの空
間とも言えるその室内に、桃城は今別の意味で一人眠っていた。
畳の上に敷かれた布団の上、珍しくも精悍な面差しに濃い翳りを浮かべている桃城は、リョーマの前
で穏やかな寝息を立てている。
「良かった」
中学時代からトレードマークになっている桃城の髪形は、
常なら整髪剤で綺麗に整えれている。けれど今は額に前髪が落ち掛かり、リョーマはそれをソッと細い
指先で梳き上げると額に手を翳し、ホッと安心したように淡い笑みを覗かせた。
「熱もないし」
昨夜急に熱発した桃城は、最初流行り始めたインフルエンザかと思われたものの、昼間『特別だよ〜
〜〜』と往診してくれた英二により、ただの風邪だと判明した。
海外で転戦している桃城は、当然ワクチンの類いを接種しているものの、ワクチンが確実に薬効を発
揮するとは限らない。だから急激に熱発し、関節の痛みを訴えた桃城に、リョーマはインフルエンザかと
慌てたのだ。
知り合ってから二十年近く、桃城がこんな風に寝込んだ記憶は皆無に近い。以前桃城がプロを目指し
留学する前、やはり風邪で寝込んだことはあったものの、知り合ってから今日まで、元気が取り柄の桃
城は、熱を出して寝込んだことは多いものではなかったから、自分の前で静かに寝息を立てている桃城
に、リョーマは少しばかり不思議なものを見る思いだった。
「早く、元気になってよ」
マスコミやファンに見せる盾と同義語の笑顔が失せ、少しばかり濃い翳りを滲ませ眠る桃城は、驚く
程静かな野生味を帯びていてる。それはリョーマにはもう見慣れてしまったものでも、初めて夜を共に迎
えた時には少しばかり驚いた寝顔だった。
明け透けな笑顔と本質の落差が、寝顔に綺麗に現れていた大人びた造作。夏の早朝に見た桃城の
寝顔に、リョーマは不覚にも泣き出したい程の倖せを感じたのだから。
けれどやはり桃城は元気な笑顔が似合っていると、リョーマは珍しくもダウンした旦那を、莫迦みたい
に倖せそうに眺めている。白く細い指先が、額に落ちている前髪を梳いていく。
「遼が拗ねて、大変なんだから」
顔を合わせれば父親である桃城に悪態を吐いてばかりの生意気盛りの愛息は、けれど桃城とリョー
マの血統の正しさを引き継いで、桃城が呆れる程のテニスバカだ。
生まれた時からブラウン管の向こうで活躍する父親を見て育ってきた遼にとって、父親である桃城は
目下倒すべき野望と目標になっている。
いつか絶対倒してやる!そんな言葉をラケットと共に桃城に突き付ける愛息は、それが桃城の望んだ
言葉だと知らずに育っている。
そんな遼だったから、父親である桃城が寝込むなど予想外で、昨夜桃城が急に熱発したのを見た時、ひどく驚いた様子で心配そうに部屋を覗き込んでいた。けれど今日往診に来てくれた英二にただの風
邪だから安静第一と聴いた途端、心配は失せたのか、相変わらず悪態を叩いては、父親とテニスをす
る日を待っている。
「リアは部屋に来たがるし」
目に入れても痛くないどころか、既に目に入れてしまっていると言われて久しい愛娘は、兄同様父親
が寝込むのを目の当たりに心配そうにしていたものの、それでも一日で熱を下げ回復している父親に安
心したのか、ラケットを持ってチョコンと和室の畳に座り、今にも桃城にスマッシュを打ちそうになってい
る瞬間、部屋に来たリョーマに慌てて止められた。
「遼は元気になったら倒してやるって言ってるけど、リアには寝首掛かれる可能性大だよ、どうする?桃
先輩」
父親である桃城の好みで、自宅にいてさえフリルとレースとリボンに埋没した生活を送っている愛娘
のリアは、けれど兄である遼に負けず劣らずのテニスバカで、寝込んだ父親相手にスマッシュを打ち込
もうとする凶悪さだ。
子供の論法でいけば、熱が解がったんだから、テニスの相手してという他愛ないものだったのだろう
けれどあそこでリョーマが来なかったら、間違いなく桃城は愛娘のボールに当てられていたのは確実だ。
流石に桃城とリョーマの血筋を引いている愛娘は、スマッシュの威力は、そこいらの五歳児の女の子
のものではなかった。
可愛らしい笑顔で破壊的なスマッシュを打ち込む得意技は、かつて桃城がリョーマに護身用としてラ
ケットとボールを持ち歩いてくれと懇願した姿に育つだろうことを容易に想像させる。
「早く元気になってくれないと、桃先輩が一番手の掛かる子供なんだから」
転戦を繰り返し留守がちな所為で、帰国すれば子供より子供な桃城は、二人の子供達ばかりか、縁
の途切れない優しい人達を盛大に呆れさせている手の掛かる子供だった。
リョーマはクスクス綺麗に笑うと、熱の所為で乾いた桃城の口唇にほっそりした指を滑らせる。
風邪を引いている桃城にキスはできないから、身の裡から湧く疼くような衝動を、リョーマは僅かな自制
心で押さえ付ける羽目に陥っていた。
そんな時だった。
「パパ〜〜」
「お母さん、腹減った」
無邪気な笑顔で室内に入ってきたリアとは対照的に、時折夫婦で過ごす癒しとも言える空間で、母親
が父親に倖せそうな笑みを向けていたのを見誤らない遼は、大仰に溜め息を吐き出し空腹を訴えた。
そんな仕草が桃城とそっくりだと、母親の苦笑を誘っていることを、けれど遼は知らない。
「ママ、パパまだ起きないの?」
兄と共にお風呂に入った様子のリアは、お気に入りのさくらんぼ柄のパジャマと、お揃いのガーディガ
ンを羽織り、リョーマの隣にチョコンと座り込むと、父親を覗き込み、そうして母親の顔を見上げた。
「熱はすっかり解がったけど、未だリアと一緒にテニスはできないかなぁ?」
チョコンと隣に座り込んだ愛娘にリョーマが笑い掛ければ、リアは「パパだらしな〜〜い」と、桃城が聴
いたら情けなく泣き出しそうな無邪気な笑顔を滲ませた。
そんなリアの様子に、リョーマは苦笑を禁じ得ない。父親の心配もさることながら、早く一緒にテニスを
したいらしい愛娘の言動は、親子揃ってテニスバカな証拠だろう。
「遼、リアお風呂に入れてくれたの?」
「いつまで経っても、お母さん戻ってくる様子ないし」
父親の様子を見に行った母親は、結局いつまで経っても部屋から出てくる様子はなかったから、遼は
溜め息を吐きつつ時間潰しも手伝って、妹と二人で風呂に入っていた。けれど結局風呂から出ても母親
は父親にベッタリだったから、遼が勘弁してくれと溜め息を吐いたのは言うまでもない。
父親が母親にベッタリな手の掛かる子供同様、母親も父親にベッタリな万年新婚莫迦夫婦だ。
「ありがとう」
万年新婚夫婦と呼ばれているタチの悪い自覚がリョーマにはあったから、こうして愛息に甘えてしまう
ことも最近では増えている。
子供に甘えているとは思うものの、何より桃城のことが優先してしまうあたり、二人が周囲からバカ夫
婦と呼ばれている所以だ。
桃城に言わせれば、一番大事なのは愛妻であるリョーマで、二番目はリョーマに愛されている自分自
身。だから子供は三番目だと臆面もなく言ってしまうあたり、桃城も十分タチの悪い親だった。それでも
遼とリアの二人が、桃城とリョーマから注がれる愛情を疑ったことはない。
「パパはごはんたべないの?」
ペチペチと父親の頬をいじっている愛娘は、リョーマの顔を覗き込むと、キョトンと小首を傾げ問い掛け
た。
「今はよく寝てるから、起きたらね」
「エ〜〜つまんない〜〜」
パパ早く起きてよ〜〜と駄々を捏ねるリアに少し苦笑すると、リョーマは小さい躯を膝の上に抱え上げ、白い額に掛かる前髪を優しく梳き上げ、少しだけ諭すように口を開いた。
「よく寝てるから、起こさないの。それとリア、このお部屋には来ちゃダメって言ったでしょ?」
けれどそんな母親の科白に、大きく溜め息を吐いたのは遼だった。
「でも親父は昨夜その科白を、お母さんにも言ったよね?」
ついでに言えば、もう六歳になり体重も増えた愛娘を抱き抱えるのは、今の母親の体調を考えれば負
担が掛かり過ぎるから、絶対にダメだと念押ししていたくらいだ。そして更にタチの悪いことに、母親が
無茶をしないように見張っておけと、息子に厳命したのだ桃城は。
「仕方ないでしょ?」
ママはパパの奥さんだからと、理由になるんだかならないんだか判らない科白を口にする母親に、友
人から聴くよそ様の家庭事情と、自分の家庭環境は違い過ぎると、遼がガックリ脱力したとしても、罪
はないだろう。
それはそうだろう。普通結婚して十年、二人も子供がいれば、何かと家庭は子供を中心に回るからだ。けれど自分の家は両親揃って互いを中心に回している。まして子供にママはパパの奥さんだからと、
胸を張って見当違いの科白を口にする母親はそう多くない筈だ。
自他共に認める万年新婚バカ夫婦は十分タチが悪いと、遼はこれから増す一方だろう自分の苦労性
の将来に溜め息を吐いた。 それでも両親から愛されているのだということは十二分に判りきっている
から、適わないと思う遼だった。
「だったらリアは、パパのまなむすめだもん」
「リア……」
母親同様、エヘンと胸を張って意味など判っていない科白を口にする妹に、更に脱力を強いられる遼
だった。
「意味違うでしょ?」
「おなじだもん」
「ママはパパの奥さんだけど、リアは娘」
「……お母さん……」
六歳児の娘と何を言い合っているのか?遼は額に指を当てた。どれだけの女性ファンに囲まれた父
親を前にしても、揺るぎない余裕を崩さない母親は、けれど平然と六歳児の娘には妬くのだから始末が
悪い。
「そんな風に言い合ってると、親父起きちゃうよ?それに俺腹減ったし」
ここで父親が起きれば事態は更にややこしくなることを遼はよく判っていた。伊達に彼等の息子を九
年もしている訳ではないのだ。父親の八つ当たりはきっと自分に向いてくるに違いないのだ。
ここで父親が目覚めれば、部屋にいる母親に抱き付きながら、なんでいるんだ?と情けない声を上げ
るのは眼に見えている。母親の今の体調を考えれば、父親の心配がそこにしか向かないのは判りきっ
ている。
「ご飯にしないとね」
少しだけ名残惜しげに桃城の額に手を翳すと、リョーマは膝の上に抱っこしているりあ下ろし、立ち上
がる。
「ママ、ごはんなぁに?」
「リアの好きな、クリームシチューとイタリアンサラダと、南瓜の春巻」
「パパざんねん〜〜パパも大好きなのに」
母親の足許に戯れつきながら、リアがシチューと踊りながらキッチンへと向かえば遼が後を追う。そん
な仲のよい二人の子供の姿に小さい笑みを漏らすと、リョーマは桃城に視線を移し、穏やかに眠ってい
る寝顔を少しだけ名残惜しげに眺めると、静かに室内を後にした。
□
「リマ〜〜〜腹減った〜〜〜」
濃紺の綿のパジャマに黒いカーディガンを引っ掛けた桃城は、空腹に耐え兼ねた様子でキッチンへと
顔を覗かせ、リョーマを盛大に呆れさせた。
「桃先輩、開口一番がそれ?」
子供達を学校、幼稚園へと送り出し、桃城の様子を覗きに行こうと思っていた矢先の科白に、一昨日
の夜、急の熱発に心配を掛けた愛妻への開口一番の科白がソレか?と、リョーマは呆れて吐息を吐き
出した。
「遼とリアは?」
「寝ぼけてるの?学校と幼稚園に決まってるでしょ?もうすぐ二学期も終わりなんだから」
世間ではクリスマス商戦が開始され、つい二週間前には英二と不二が色とりどりの電飾を持ってきて、庭の樹木にツリーの飾り付けをしていったばかりだ。それは夜になれば少しの間点灯され、庭を綺麗なイルミネーションで飾ってくれる。そして室内には、やはり英二と不二が数年前に持ち込んだツリーが、子供達と英二と不二の手により綺麗に、それでいて賑やかに飾り付けられ、室内をクリスマスカラーに染めている。
それは英二が、リョーマ達がこの場所に家を構えた時から欠かさず毎年してきているものだったが、
その真意は未だ見えない。
英二に言わせれば庭が広くて勿体ないからという単純な回答が返ってくるものの、天真爛漫な笑顔
でテニス部内のムードメーカーだった英二の、心の奥に在る繊細さを知らないリョーマと桃城ではなかっ
たから、英二の科白を額面通りに受け取ってはいなかった。尤も、賑やかなことが誰より好きな英二だ
から、もしかしたら難しい考えはなかったのかもしれないけれど。
そしてそんな師走の寒い、けれど心地好い朝、二人の子供達は青春学園初等部と幼稚園に、元気に
登校通園していった。
リアなど幼稚園からの迎えのバスに乗ってすら、元気に手を振っていたくらい、活発だった。
子供には何かと物騒な社会事象の中、比較的地域が密接し、都市防犯のモデルケースにもなってい
る青春台は、朝夕登校時の児童を見守る人の眼は多いから、その点は安心だった。尤も未だ幼稚園の
リアは、保護者の送迎かスクールバスのどちらかでの通園帰宅が義務づけられているから、リョーマは
幼稚園バスが迎えにくる近所まで、寝ている桃城を起こさないよう、愛娘を送っていったばかりだった。
「そいや今日は日曜じゃないんだっけな」
土曜の夜に急に熱発し、昨日の日曜は一日寝込んでいた為、感覚的に一日日付が飛んでいる感覚
があったから、愛妻の何処か呆れたような科白に、桃城は漸く今日が月曜日で、週の始まりだと思い
出す。
「あ〜〜テニスできなかったなぁ」
昨日は子供達二人と思う存分テニスをする約束をしていた。それが果たされなくて、子供達を寂しがら
せなかっただうかと、桃城はキッチンの椅子に腰かけながら、らしくない溜め息を吐いた。
「パパだらしな〜〜いってリアは言ってたけど?」
「リマ〜〜〜」
「リアの科白」
途端に情けない表情を曝す桃城に、リョーマはクスリと小さい笑みを覗かせる。
「桃先輩、何食べたい?」
「ん〜〜あっさりトーストとハムエッグ」
「トーストはあっさりでも、ハムエッグはあっさりじゃないと思うけど?」
それでも旦那の科白は判っていたのだろう。リョーマは冷蔵庫の中から既に卵とハムを取り出して、
キッチンのテーブルの上には、切り分けた食パンと、手作りジャムが並んでいた。
「桃先輩って昔から、風邪罹いても食欲だけは落ちなかったよね」
実際桃城が風邪で熱を出した記憶は、リョーマにはさして多い回数ではなかったものの、その記憶の
中の桃城は、いつも風邪を罹いても食欲だけは落ちなかった。それが結果的に、回復力を早めていた
のだろう。けれど転戦を繰り返す桃城が、国外で熱を出して寝込んでいないかはリョーマにも判らなかっ
た。
毎晩欠かさず国際電話を掛けてくる桃城は、風邪を引いていたとしても、絶対声には出さないだろう
からだ。だからいつだってリョーマは遠い異国で一人で戦っている桃城を心配し、気遣っている。いるか
らこそ、帰国すれば際限もなく甘やかしてしまいたくなるし、甘えたくなってしまうのだ。
「用意しておくから、顔でも洗ってきて」
「そうだな〜もう熱もないし、寝てる必要ないしな」
昨日の昼には、英二に処方してもらった内服薬のおかげで解熱していたものの、愛妻の厳命により布
団の中に押し込められていた桃城は、すでに体力を持て余している。
「寝てる必要はないけど、今日一日テニスは禁止」
無理をすれば、すぐに風邪はぶり返すに決まっている。栄養価の高い食事を摂って、心身ともに休養
するのが何より大切なのだ。本来風邪を治療する薬はないのだから。そして頑丈で丈夫な桃城が、風
邪を罹くということは、一年の最後の月で、何かと疲れが溜まっていた証拠だろうから、何もせず、少し
は休養することも必要なことだった。
「遼に文句言われるな」
『妥当親父』と口にする愛息の相手をするのが、帰国する桃城の楽しみの一つでもあった。帰国する
都度鮮やかな成長を見せる遼のテニスは、かつてのリョーマのテニスとよく似ている。まだまだ荒削り
な部分ばかりが目立つ愛息のテニスは、けれどあと数年経てば、当時のリョーマと同等のものにはな
るのかもしれない。
「口ではなんだかんだ言っても、遼は拗ねてたけどね」
桃城が愛息のテニスの成長を見るのが楽しみの一つなら、遼にとっても父親と対戦するのは何よりの
楽しみだったから、父親が珍しくも風邪でダウンしているのを見て、怒るより、呆れるより、拗ねていた。
「だから早く直して、あの子たちの相手してあげてね」
両親双方の血を引いて、二人の子供達は勉強よりテニスが好きで、それが少しばかりリョーマには困
りものだったけれど、過去の自分を振り返れば、決して子供達を責められる資格はないことも、リョーマ
はよく判っていた。
自分も子供時代はテニステニスで、勉強など二の次三の次になっていた。そして父親である桃城も、
勉強よりテニスの人間だった。
「そうだよな。リアにパパ嫌いなんて言われたら、情けないからなぁ」
キッチンから漂ってくる香ばしい香りに、桃城は倖せそうに破顔し、愛娘の少しばかり拗ねた調子で頬
を膨らませ、悪態を聴くのも倖せんかもしれないなと、親ばかぶりを発揮していた。
□
「そいや昨日は、色々な手が在ったな」
結局、トースト二枚とハムエッグ、ボイルした野菜サラダと愛妻特性の野菜ジュースを綺麗に平らげた
桃城は、皿を洗っている細い躯を背後からやんわり抱き締めると、思い出したように口を開いた。
「手?」
背後から緩く抱き締めてくる温もりに、リョーマは皿を洗いながら、桃城の科白に小首を傾げ、反芻す
る。
二人きりの時間、桃城はよくこうして背後からリョーマを抱き竦める仕草をして、そして二人きりだから
こそ、そのまま昼間という時間帯を無視して、情交に耽溺してしまうことも少なくはない二人だった。
「ちっこい手だったり、優しい手だったりな」
デコピンしてったのは、遼だったのかリアだったのか今一つ見当は付かないものの、どれもが優しい
温もりを持っていた。
「あの二人は〜〜」
ダメって言ったのにと、リョーマが柔らかい苦笑を刻み付ける。所詮口では悪態を吐いても、父親が大
好きな子供達だから、母親の言い付けを守らず、夜中にこっそり父親の眠る和室に顔を覗きに行ったの
だろう。
「ちっこい手が、濡れたタオル置いてったりしてな」
代わる代わる触れていった温もりに、桃城は子供時代を思い出していた。
滅多に罹かない風邪を引いた時、母親がそうして額に手を翳してくれた。その些細な温もりがひどく優
しくて、どんな薬より特効薬だと思った。その温もりを、今度はリョーマばかりか子供達にも与えてもらっ
たことが、桃城に懐かしい記憶を呼び起こさせた。
「リアったら」
「でも一番頻回に触れてったのは、この手だけどな」
皿を洗うリョーマの細い手首を掬い上げると、桃城は左手薬指に光る結婚指輪に口唇を落とした。
その途端、腕の中で細い躯が顫えるのが判り、桃城は緩い苦笑を刻み付ける。
「遼に厳命しておいたんだけどな」
「仕方ないでしょ?」
「一番大事にしなきゃいけないのは、リマなんだぞ」
期日未到来の約束手形。夏の暑い昼下がり、南次郎が孫娘に笑った科白は結局予想が的中し、リョ
ーマは三人目の子供を宿していたから、桃城に風邪を移されて困るのは、子供達より何より、リョーマ
自身だった。
「だったら、早く風邪を直してよ、この子達の為にも」
腹部を優しく撫でてていく節だった指に、リョーマははんなり笑みを刻み付けると、
「ハイ、イチャつき終わり。風邪移したくないんだったら、おとなしくしてて」
ペチンと、腹部を撫でる手背を軽く叩いた。
「リマ〜〜〜」
「当然でしょ?」
情けない泣き声を出す桃城に、リョーマはクルリと背後を振り返りピッと人差し指を突き出した。
「遼に厳命したくらいなんだから」
「奥さん冷たい」
「冷たくて結構。私が風邪引いたら、誰が家事するの?」
それこそ主婦が倒れたら、家庭はすぐに立ち行かなくなるのが必世間の常だ。女性の社会進出が盛
んになっても、家庭環境はすぐには好転しない。何処の家も妻であり母親が中心に家事をこなしている
のだ。
「当分家にいるから、俺がするけどな」
「桃先輩!」
「ハイハイ判ってます。妊娠中の奥さんに、風邪移す訳にはいかないからな」
「桃先輩、リアより子供」
「俺はいいの」
「何それ?」
愛妻に手を焼かせる、手の掛かる子供の自覚がある桃城は、甘やかし上手の甘え上手で、女から見
れば悪い男の部類に入るだろう。けれどそれも自分の前だけだと判っているから、リョーマは安心して
いられるのだ。桃城は自他共に認めるテニス界きっての愛妻家だ。
「リマの旦那さんだから」
「………」
それは昨夜、リョーマが愛娘に言った科白と同じもので、周囲から自分達が万年新婚夫婦と言われ
ている理由がなんとなく判った気分だった。尤もそれは周囲が聴いたら、今更認識したのかと、呆れて
溜め息の一つや二つ、零すだろうものだったのだけれど。
「まぁたまには、寝込んでみるのもいいかもしれないな」
閑舒な気配に満たされたリビングのソファーに腰掛けながら、桃城はそんなふざけたことを思った。
「遼とリアが、手に終えなくなるからダメ」
朝食の洗い物を済ませたリョーマは、リビングで暢気に腰掛けて、ふざけた言葉を吐いている桃城に
少しだけ呆れ、正面のソファーに腰を落とす。マタニティードレスの裾が、フワリと揺れる。
「それでなくても、リアは桃先輩にスマッシュ決めようとしてたんだからね」
「……ゲッ…」
六歳児の愛娘は、流石にリョーマと桃城の血筋を引いている所為だろう。六歳児とは思えない達者な
テニスをする。近所でも評判の可愛い娘として有名なリアは、けれど可愛い外見とは相反し、かつての
リョーマとよく似た、勝ち気で挑発的なテニスをしているから、流石に無防備に寝込んでいる至近距離
でスマッシュを打たれたら、流石の桃城も堪ったものではなかった。子供だからこそ、手加減がきかな
いのだ。
「だから、風邪なんて罹いてる暇はないんだから」
そう笑うと、リョーマは視線を外へと向けた。
冷ややかに澄んだ冬の空気は、けれどその分、空は高く蒼く澄み渡り、穏やかな陽射が降り注いでい
る。絶好のテニス日和だと思えば、子供達がテニスをしたいと桃城にせがむ様子が窺えて、緩い笑み
が零れ落ちた。
「でも、たまにはこうしてのんびりできる日は、貴重かもしれない」
帰国すればしたで、何かと忙しい桃城だ。たまには風邪を理由に、こうしてのんびり過ごすのもいいだ
ろう。どうせ明日になればトレーニングも開始して、子供達にもテニスの相手をせがまれるのは眼に見
えている。
「そいやリマ、本当に大丈夫なのか?」
「菊丸先輩達にも同じこと言ったけど。大丈夫って、言ったでしょ?」
それは未だ桃城が帰国前、英二と不二が遊びにきていた時訊かれた科白で、そして同時に、タイム
リーにも電話を寄こしてきた桃城にも同時に訊かれた科白だった。そしてリョーマが返した答えも同じも
のだった。
「あの子達も楽しみにしてるし」
遼が生まれた時分から、毎年12月24日はリョーマと遼の誕生日と、二人の結婚記念日とクリスマス
イブのパーティーがこの家で行われ、キッチンに立つのもリョーマばかりか不二や英二、海堂と、分担を
決め楽しく料理をしているから、今更その楽しさを妊娠という形で奪われたくはなかった。
「それに、この子達もね」
安定期に入った下腹部は、妊婦特有の張りがあって辛い時もあるけれど、元気に成長している胎児
に、リョーマはさして悪阻で苦しむこともなく、日々を過ごしている。
「そっか」
二人分の重さを胎内に宿しているというのは一体どんな気持ちだろうか?それは桃城が推し量った所
で、到底理解できる代物ではなかったものの、遼とリアを妊娠している最中のリョーマにもそれは感じた
感慨だった。
遼を妊娠中に尋ねた時も、リョーマはひどく倖せそうに笑っただけで、明確な言葉はなかったものの、
その倖せそうな笑みが何よりの答えだろうと桃城には思えたのだ。
生命を宿し育てる偉大さは、どれだけ望んでも男には到底不可能な作業で、下腹部を優しく撫でてい
るリョーマに、桃城も倖せそうな笑みを滲ませる。
「だからね、早く風邪治してよ、桃先輩」
のんびり寛ぐ休日も悪くはないけれど、やはり桃城には何よりテニスが似合うと思うリョーマだった。
「四人のお父さんなんだから」
春には生まれてくる双子達。その子もきっと自分達に似てテニスは好きだろうか?
「本当に、風邪なんて罹いてられないな」
家族を養う重さは、愛されている重さだと、桃城は久し振りに訪れた休日に、愛妻と寛ぐ倖せを満喫し
ていた。
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