バレンタインを目前に控えた2月上旬。9歳になった愛娘であるリアの可愛いおねだりに、リョーマが
子供でも作れる簡単バレンタインチョコレートのレシピを考えている最中、それは不意に見付かった。
落ち着いた淡いパステルトーンの水色で統一されている夫婦の広い寝室。その一角に、一見すると
キャビネットに見える、マホガニー調の書棚が収まっている。
両開きのガラス戸から見える部分には、今では料理が趣味の一つとなってしまったリョーマの料理関
係の本と、桃城がプロになった時期から現在まで、その活躍が記された新聞やテニス関連の雑誌記事
から、丁重にスクラップされた幾種類ものファイルが綺麗に並んでいる。
そして桃城とリョーマの愛読書は推理小説だったから、新書判から文庫本まで、作家も出版社も無関
係に、それはいっそ関心する統一性のなさで、書棚に並べられている。
文庫本と新書判サイズの分類程度はされているものの、他の分類は一切が無秩序に並べられてい
る中、きちんと背表紙にラベリングされているのは、桃城のスクラップファイルのみだ。
「確かこのあたりに、しまった筈なんだけど」
キャビネットタイプの書棚は、両開きのガラス戸部分から下は、小物を収納する為の二段の引き出し
が作られている。そして更にその下には、中が見えない両開きの扉が作られ、リョーマはその扉の中を
漁っていた。
去年までの愛娘のバレンタインの行動を想起すれば、期間限定で発売されるバレンタイン用チョコレ
ートを、自分用に買って食べていたような可愛らしさだった。
けれど今年は違った。好きな男の子でもできたのか、今朝になって不意に手作りチョコレートを作りた
いと突然言い出し、父親である桃城を嘆かせた。二人に増えた愛娘を、目に入れても痛くない程可愛が
っている桃城は、相変わらず親バカ発言をしては、長男である遼(ハルカ)に呆れられている。
そしてリョーマはと言えば、母親としては娘の性格を知っているだけに、少しばかり驚きを隠せなかっ
たというのが正直な本音だ。
「でも、あの子も、そういう年頃なのかな」
母親としては嬉しい反面、何処か一抹の淋しさも感じ、リョーマは扉の奥を漁りながら、フト物思いに
耽った。
母親であるリョーマの血筋を色濃く受け継いだリアは、近所でも評判の綺麗で可愛い女の子だった。
だから尚更、桃城の愛娘に向ける可愛がりは尋常ではなく、それは時折、妻であるリョーマさえ妬いて
しまう程度には、桃城はリアを眼に入れても痛くない可愛がりようだった。
その娘が今は二人に増え、桃城の愛情は分散されるどころか増す一方で、その愛娘の一人がバレン
タインに手作りでチョコレートを贈りたい相手ができたとなれば、桃城の騒ぎは大変なものだった。それ
こそ天地がひっくりかえったように騒ぐ旦那を宥めるのも鬱陶しくなり、リョーマは可愛い愛娘のおねだり
の為、子供用のチョコレート作りの本があった筈だと、寝室の書棚を漁っていたのだ。
そんな時だ。本と小物とか並ぶ扉の奥、ひっそり眠るように置かれている白く小さい箱を見つけた途
端、本を漁っていたリョーマの動きがピタリと止る。
色素の薄い空色の眸が、少しばかり驚いた様子で見開かれ、ほっそりした腕が小箱に伸びた。
「コレ……」
小箱を手に取った瞬間、リョーマは感慨深げな吐息を漏らした。
書棚の奥。まるで隠すようにひっそり置かれた白く小さい箱。それは手にすれば手掌に乗ってしまう程
に小さい箱だ。
艶のある安っぽい光沢を放つそれは、長い年月で色褪せはしているものの、当時の面影を失うことな
く、リョーマの記憶に懐かしい光景を呼び起こす。
「こんな所に、しまっちゃってたんだっけ……」
淡い吐息を一つ零すと、リョーマは箱をソッと開いた。箱の中にしまわれていたのは、宝石を入れる為
にある、小さい深紅の天鵞絨袋だ。そして更にそれを紐解けば、中から姿を現わしたのは、瀟洒な銀色
のリングだ。
それは小指用のピンキーリングで、中央には、ハートマークの淡いピンクのガラス玉が輝いている。
それはリョーマが中学三年当時、クラスで流行っていたもので、今でも交流のある優しい友人の晶か
ら、問答無用で右の小指に嵌められた代物だった。
「晶も、全然連絡ないけど、どうしてるんだろう?」
今でも付き合いがある中学時代の友人は、月に一度は近況連絡を入れてくる。年月を感じさせない気安さは、それが晶の気遣いであることを、気付かないリョーマではなかった。
リョーマが中学三年から高校卒業までを過ごした『桜ノ宮女学院』は、私立の名門と言われた女学院だったものの、中身は何処にでもある女子中、女子校のノリで、友人の晶は同級生に人気が高かったものの、後輩からは更に人気が高かった。
さしてボーイッシュな造作はしていなかったというのに、醸し出す雰囲気が何処かタラシめいていた晶は、けれど語学が堪能で、大学の国際科を卒業した後は海外で通訳などの仕事をして、十年前に結婚した女性だ。
旦那は理解ある男性らしく、愛妻が仕事で飛び回っているのをむしろ喜んで受け取めているらしく、夫
婦共働きでもうけた一人息子を可愛がりながら、晶はパワフルに仕事をしている。
「アッ…もしかしてリアのチョコレート渡したい相手って」
晶の一人息子は、奇しくもリアと丁度同じ歳だ。
「フーン。晶の子かぁ」
母親に似て利発そうな男の子は、晶の血筋を受け継いだのか、日本語と英語が堪能だ。けれど母親
の血筋をより色濃く受け継いでいるのか、黙っていれば完璧に利発そうなお坊ちゃまで通るというのに、その行動はリアと同類項で括れてしまう行動派だ。それをして母親の晶は今時の子は行動的でなき
ゃと笑っている始末だ。
中学当時の淡い思い出を辿るように、白皙の貌に綺麗な微笑みが浮かぶ。
ひっそり息づく思い出のように、今でも色褪せることなく輝いているリングを手に取ると、右手の小指に
それを嵌めてみる。それは当時とまったく変わらないサイズで、違和感の欠片もなく指に嵌まった。
「指の細さが変わらないって、桃先輩には怒られそうだけど」
虚に翳して眺めれば、それは室内に入り込む淡い陽射に照らし出され、宝石のようにキラキラ輝いてい
る。
銀色に加工した細身のリングは、中央に小さいハート型の淡いピンクのガラスが嵌まっているだけの、オモチャ程度の値打ちしかない代物だ。けれどリョーマには大切な思い出だった。
晶から問答無用で嵌められたピンキーリングは、既に桃城という恋人が居たリョーマにしてみれば、
当然嵌められる代物ではなかった。何よりリョーマには、桃城から贈られた蒼いガラスの指輪が在った
のだから。ましてそのリングが流行した意味合いを考えれば、尚更リョーマに嵌められるものではなか
ったものの、晶は何を思ってかリョーマにそれを贈った。当時晶の真意が判らなかったリョーマは、けれ
ど後になってその理由を知ったのだ。
「ママ〜〜まぁだぁ〜〜?」
「マーマ」
無邪気な声が二つ聞え視線を移せば、二人の愛娘がチョコンと顔を覗かせている。
自分が半陰陽という、医学的にも症例の少ない病気なのだとリョーマが知ったのは、中学一年の全
国大会優勝から僅か数日後のことだった。そして様々な経緯の後、桃城と付き合い結婚に至り、けれ
ど半陰陽という病気ゆえに、子供は不可能だろうと主治医から言われていた。だから桃城との結婚に
躊躇いが生じていたリョーマは、けれど気付けば四人の子供の母親になっていた。
ハネムーンベビーではなかったものの、今年中学二年になる長男の遼は、結婚式後数ヶ月後に妊娠
した子供だ。そして四歳離れて長女のリアを授かった。
子供を望むのは無理だろうと言われていたリョーマと桃城にしてみれば、二人の子供を授かったのさ
え奇跡だと思えたから、流石にこれ以上子供はできないだろうと思っていた矢先、まるでリアの望みが
言霊になったかのように、二卵性双生児の次男次女を授かった。
長女のリアはリョーマと瓜二つの顔立ちで、次女のリサは、どちらかと言えば父親である桃城の血筋
を色濃く受け継いだのか、リアとはまた別の意味で整った綺麗な顔立ちをしている。そして次男の亮(マコト)は、長男の遼が母親のリョーマに似たのとは正反対に、双子の妹のリサ同様、父親である桃城
に似通って、端整な造作をした男の子だ。
四人が四人とも両親双方のよい部分を色濃く受け継いだ所為か、近所でも評判の美男美女姉妹で、
誰もが色々な意味でモテていた。
「ママ、なにしてるの?」
母親が虚に腕を伸ばし、何かを眺めているのを目敏く見つけたリアは、母親の傍に駆け寄り、興味津
々で問い掛ける。
「ママ?」
そして春には4歳になる次女のリサは、チョコチョコ歩いて、母親の膝の上に抱っこをせがんで座り込
んだ。
「リア、リサ階段歩かせちゃダメって言ってるでしょ?」
「だいじょうぶだもん。ちゃんとリアがお手て繋いであげたもん。ね?」
母親のメッと咎める口調に、けれどリアは何処吹く風で、エヘンと胸を張って威張っている。そんな愛
娘に、リョーマは緩い吐息を吐き出した。
「もぉ、パパは何してるの?」
確かリサと亮を桃城に任せて二階に上がってきた筈だというのに、肝心の桃城は一体何処で何をし
ているのか?
「パパはお兄ちゃんにつかまって、亮ちゃんといっしょに、テニス談義してる」
ニッコリ笑って口を開く無邪気さに、リアは一体何処まで、『談義』なんていう言葉の意味を知っている
のか、リョーマは深々溜め息を吐いた。所詮カエルの子はカエルなのだ。
「リサも、一人で階段上っちゃダメ」
膝の上に乗っかって、抱っこをせがんできた次女のリサを優しく抱くと、リョーマは言い聞かせるように
柔らかい髪を撫でてやる。そうすればリサはキョトンと小首を傾げ、ニッコリ笑って口を開いた。
「おねぇちゃんと、いっしょにきたもん」
母親に抱っこされ、ご満悦のリサは、けれど面差し同様、口八丁な部分も父親に似たのか、意味が判
っているのか謎な部分で、母親に無邪気に反駁する。上に歳の離れた兄と姉がいる所為か、双子の子
供達は言葉が達者だ。
リアも面差しだけは自分と似ているものの、最強で最凶な性格だ。姉妹揃ってそんな性格では、将来
男泣かせ決定だと、リョーマが内心深い溜め息を吐きだしたことを、けれど幼い姉妹は知らない。
「ママ、それなぁに?」
リョーマとよく似た髪質のリアは、柔らかい髪を背中で揺らし、小首を傾げて不思議そうに問い掛ける。
母親の正面にチョコンと正座して、不思議そうに母親の右手の小指に嵌められたリングを凝視してい
る。好奇心に満ちた瞳は、綺麗なリングに釘付けだ。
父親と母親の躾の賜物で、リアはしっかりした行儀が身に付いている。それをしてリョーマにはネコ被
りということになるものの、父親の桃城には二人の娘は何をやっても可愛くて仕方ないらしい。
「これはね、晶から貰った指輪」
「晶おばさん?」
キョトンと不思議そうに見上げてくるリアに、リョーマはフワリと柔らかい笑みを零した。
「でもママは、パパからもらった指輪があるのに?」
女の子は男の子より随分マセていて、母親であるリョーマが、桃城から貰ったガラスの蒼い指輪を、
今でも大切にしていることをリアはちゃんと知っている。
中学三年時、それは夏祭りの夜店で桃城が買ってくれた、何のへんてつもない蒼いガラスの指輪だ。
けれどリョーマは娘に、それはママがパパから貰った、大切な魔法の指輪なのだと、秘密を打ち明ける
ようにこっそり笑ったのは、リアが幼稚園の時のことで、丁度近所の夏祭りに出掛けるときだった。
だからリョーマが桃城と出掛ける特別な時、必ずその指輪を嵌めていることをリアは知っている。リョー
マにとって、それは結婚指輪や婚約指輪と同じくらい、大切なものだった。
「ん〜〜これはちょっと別。パパから貰ったものじゃないし」
だからといって、必要ないものではなく、中学時代の大切な思い出の一つだ。それを何故こんな場所
にしまっていたのか、リョーマは思い出せない。
「なんで小指なの?この指じゃないの?」
母親が嵌めている結婚指輪は、左手の薬指だ。おマセな年頃のリアにとって、女性が嵌める指輪は、薬指だけだと思っているらしい。
「これはね、リアとリサが、もっと大きくなったら、意味が判るかなぁ?」
「エ〜〜〜おしえて」
母親の何処か秘密めいた楽しげな口調に、リアは頬を膨らませると、母親に抱き付いた。
「これはね、リアがもっと大きくなったら、欲しいって思うものかもしれないけど」
秘密を打ち明けるように、女同士の内緒話を話すように、リョーマは二人の愛娘に笑い掛ける。その
面差しは何処か少女めいていて、桃城がいた間違いなく抱き付くものだっただろう。
「この指輪はね、ステキな男の子に会えますようにっていう、お呪いの指輪なの」
当時クラスで流行していたピンキーリングは、理想の男の子に会えますようにという、女の子特有の
可愛らしい願いを掲げた、お呪いじみた指輪だった。けれどその時、既に桃城という恋人がいたリョーマ
に、そんなリングは不必要だった。
クラスの女子の半数が、教師に隠れてこっそり持ち歩いて、あるいは女学院を一歩出たら嵌めていた
指輪は、けれどリョーマに必要ないことは誰もが知っていたから、リョーマに一緒に指輪を買わない?
そんな風に誘ってくる女子もいなかった。当時から桃城とリョーマの仲は、女学院でも有名だったのだ。
「おまじない?」
「そう、おまじない」
姉と母親の内緒話のような会話に、妹のリサは母親の膝に抱っこされたままおとなしく聴いているも
のの、母親の小指で光る淡いピンクのガラス玉が気になるのか、紅葉のような小さい手を伸ばして触っ
ている。
「SOMEDAY MY PRINCE WILL COME 」
流暢な英語を綴ると判る?とリアに問い掛ければ、幼稚園時から英語教育をしてきたリアは半瞬考え、コクンと小さく頷いた。
「えっと…『いつか、王子様が』」
「正解。女の子はね、いつか自分だけの、たった一人の王子様に会えますようにって、お願いするの」
柔らかい微笑みを、白皙の面に綺麗に刻み付けた時だった。
「SOMEDAY MY PRINCESS WILL COME 」
滑るように流暢な英語は、アクセントの細部にまで癖がない。桃城がプロテニスプレーヤーとして世界
という舞台で活躍した時、一体いつ英語の勉強などしていたのか甚だリョーマには謎なくらい、桃城は
流暢な英語を話した。それも場所場所を弁え、形式ばったものから、ジョークまで。巧みに話術を操るこ
とができた桃城の英語力は、世界という舞台で活躍するには必須条件で、その話術は常にコミュニケ
ーションをとるには必要不可欠と言えた。
「桃先輩」
不意に気配もなく現れた桃城に、リョーマが喫驚した表情で寝室の入り口に視線を移せば、桃城がな
んともいえない複雑な貌で、愛妻と二人の愛娘を眺めている。
「俺は、大事な奥さんに会えるように、そう願ってたぞ」
それは祈りにも似た気持ちで、桃城が願い続けてきたことだ。リョーマが中学一年の夏休み。全国大
会の二日後不意に消息を絶ち、探して探して、大切な後輩を探し回って。そうしてリョーマから半陰陽と
いう事実を聴き、その手術を受ける為に渡米するのだと聞かされた時、桃城は僅かな逡巡も覗かせるこ
となく、待っているから戻ってきてくれ、そう言ったのだ。
そしてリョーマが戻ってくるまでの二年余りの月日を、桃城はそうと願いながら、過ごしてきたのだ。
戻ってきたリョーマに、少しでも誇れる自分で在るよう、テニスの腕を磨きながら。 桃城は驚いた表情
を刻む愛妻を静邃に見詰めると、リョーマの元まで歩いて行き、そうして驚いたままのリョーマの前で腰
を落した。
「桃先輩って、今も昔も本当に詐欺師」
流暢に綴られた言葉に、リョーマが柔らかい笑みを見せれば、桃城は愛娘のリアを膝の上に抱き上げ、愛妻の右の小指に嵌められたリングに視線を落した。
「懐かしいな、それ。何処に在ったんだ?」
それは桃城も一度だけ見たことのあるピンキーリングで、デートの時に友人に問答無用で嵌められた
と聴いた時、リョーマの友人の晶の悪戯に腹を立てるより盛大に呆れた程で、けれど後にその意味を知
った時、桃城は心底から晶に頭を下げた。
「あそこにね。なんでだろ。置いてあったの」
「ああ」
リョーマが指差した扉の奥には、アルバムも一緒に並べられ、それで桃城はすぐに納得がいったらし
い様子で頷いた。
「思い出、だからだろう?」
「?」
「アルバムと一緒に、置いてあっただろう?」
それは決して雑な扱いで置いてあった訳ではない筈だと、リョーマが忘れてしまっているだろう事実を、桃城はなんでもないことのように指摘し、そうして深い笑みを刻み付けた。
大切な思い出だからこそ、アルバムと一緒に保管してあったのだろう、桃城はそう笑う。
「アッ………」
確信に満ちた桃城の科白に、リョーマは不意にその当時を思い出し、膝に抱え上げた次女のリサが、
淡く光るリングが気に入ったのか、しきりに悪戯しているのに視線を落し、アルバムと共にしまったのを
思い出す。
「だろう?」
当時の記憶を思い出したらしい愛妻の表情に、桃城はやはり確信めいた笑みを漏らせば、父親の膝
の上で、愛娘は爆弾発言を落した。
「ねぇパパ。リアにも買って」
「何ぃ〜〜〜?」
愛娘の無邪気な科白に、けれど半瞬で桃城は顔色を変えた。近所でも評判の愛娘が、初等部でモテ
ていることを知らない桃城ではなかった。そしてそんな愛娘を、絶対嫁にはやらないと公言しては、懐か
しい面々に盛大に呆れられている桃城だったから、リアからそんな科白が飛び出したら、顔色を変える
のは当然だろう。
「リサも〜〜〜」
意味などよく判っていないだろう次女のリサは、それでも母親の指に嵌められたリングが気に入ったら
しく、頂戴とねだってはリョーマを困らせている。
「だって、ステキな王子様にあえるための、おまじないの指輪でしょ?リアもほしい〜〜ねぇパパ〜〜」
「リアにもリサにも、王子様はいらないんだ」
娘二人の可愛いおねだりに、けれど桃城が猛然と子供じみた反駁をすれば、リョーマが深々溜め息を
吐いた。
「パパはリアの花嫁姿が見たくないんだ〜〜〜パパとバージンロード歩いてあげるのに〜〜」
「バージンロードだと〜〜?」
「桃先輩、娘相手に本気にならないでよ」
どうせ意味など判ってない、耳年増の娘の科白だ。
「そんなこと言ったってリマ、バージーンロードなんて言ってる娘に、心穏やかでいられるか?」
「いいんじゃない?だって私達の結婚式の時、少なくとも私はバージンじゃなかったし?」
「……リマ〜〜〜」
愛妻のシレッとした科白に、桃城は情けなげな声を上げた。
「嘘じゃないし」
だからといって、事実を告げればいいという訳じゃないんだぞ〜と、桃城は膝の上に抱き上げた愛娘を
抱き締める。
自分がリョーマと出会い、少女から女にしたように、二人の愛娘もいずれ見ず知らずの男のモノになる
のかと、桃城は盛大に落涙する。
「でも父さんは、喜々として私と腕組んで、バージンロード歩いたじゃない?」
プロとして活躍を始めた桃城の結婚式は、桃城の頑なな主張でもって、リョーマの誕生日である12
月24日に行われた。
それはプロとして活躍している桃城には質素すぎる程のもので、マスコミをシャットアウトし、ごく親し
い人達だけを招いて教会で行われた結婚式で、リョーマは純白のウェディングドレスを纏い、父親であ
る南次郎とバージーロードを歩いた。
「親父さんは、偉大だよ」
自分がリョーマのバージンを奪ってしまったのは付き合い出して二ヶ月あまりの月日しか経っていな
い七月の誕生日で、無断外泊させてしまったリョーマと共に、翌日南次郎に殴られる覚悟で越前家の
門を潜った時、けれど南次郎は鷹揚に笑い、リョーマには聞こえない小声で『責任はとってもらうぞ』そう
告げただけだった。
自分がもし南次郎の立場だったら、あんな風に鷹揚としていられるだろうか?そう思えば、到底自信
はない桃城だ。
「SOMEDAY MY PRINCE WILL COME 。いつかステキな王子様と会う為には、忘れちゃいけないことが
あるの」
覚えておいてねと、リョーマは二人の愛娘に優しい視線を向けた。
「リマ?」
ひどく柔らかい表情を曝した愛妻に、桃城も不思議そうに瀟洒な面差しを凝視する。リョーマの表情は
母親の慈愛に満ちながら、何処か少女めいた気配を滲ませている。
「リアもリサも、誰かのお姫様なんだって、忘れないようにね」
いつか王子様が。そう願う気持ちは女の子特有の夢だろう。けれどそれは同時に、男の子から見れ
ば、いつかお姫様がということにもなるから、二人の愛娘にはそれを忘れてほしくはなかった。
「ママがパパと会って、リアとリサや、遼と亮に出会えたように。二人ともいつかステキな王子様に会え
るから」
「リマ」
「ねぇ?桃先輩」
なんとも言えない様子で見詰めてくる桃城の視線に、リョーマは柔らかい笑みで見詰め返す。
「本当?ママ」
「本当。リアにもちゃんといつか王子様が現れるから」
「……現れてほしくないけどな…」
「桃先輩、子供」
ボソリと呟く桃城に、リョーマは柔らかい笑みを覗かせる。娘二人には格別に甘い桃城だ。二人の娘
が嫁ぐ時がきたら、本当に泣き出してしまうのかもしれない。
「リサにもねぇ」
小指のリングを興味津々でいじっているリサに、リョーマは笑い掛けると、リサはキョトンと母親を見詰
め、無邪気な笑顔を見せた。
「俺はステキなお姫様の前に、とりあえずお腹空いたから、おやつ欲しいんだけど」
「ママ〜〜おやつ」
両親と妹二名の会話に、何処か呆れた様子で遼が口を開けば、兄に手を握られ、リサとは二卵性双
生児の次男の亮が、母親におやつをねだって笑った。
長男長女が母親であるリョーマの血筋を色濃く受け継いだ反動か、双子の次男次女はどちらかとい
えば父親である桃城に似て生まれ付いた。その所為か次男は笑顔がひどく父親である桃城に似てい
た。性格も似ていれば、将来詐欺師決定だと、リョーマが内心思っていることを、けれど桃城は知らない。
「アッ、もうそんな時間?」
寝室の時計を見れば、時刻は三時ちょっと前を差していている。家族全員が揃っている日は、リョーマ
の手作りお菓子でお茶をするのがこの家の日課だ。
時間に終われる現代社会では、離散しがちな家族の絆を深める為に、そして精神的余裕を持つ為に、揃ってお茶をして他愛ない会話をするのが絶対必要だとリョーマは疑っていなかったから、午後のお
茶の時間は、桃城とリョーマが夫婦になった時から続けられている。
それが世界という厳しい舞台で活躍している桃城にとって、どれだけ安らいだ時間を提供していたのか?リョーマはその深さに気付いてはいなかったのだけれど。
「ママ、リアのお願いしたチョコレートの本は?」
「あとでちゃんと探しておいてあげるから」
「そういえばリア。お前一体誰にチョコレートなんてあげるつもりなんだ?」
「パパには教えてあげないも〜〜ん」
せめてその男の名前くらい聴かせろと、桃城は愚にもないことを言い募っては、愛妻と長男に溜め息
を吐かせている。
「親父、鬱陶しい」
春には中学二年になる桃城家長男の遼は、去年の春。両親の母校である青春学園中等部に入学し
た際、母親の身の上におこった事実を話して聞かされていた。聴かされた母親の秘密は、聴いた時は
衝動しか沸かず、遼には実感もなかった。
リョーマが元は男として育ったと聴いても、遼にとってリョーマは母親でしかないから、ピンとこなくても
仕方ないだろう。けれど後に、かつてリョーマと桃城の所属していたテニス部顧問の竜崎や、常日頃か
ら家に出入りしている大人達に事情を訊けば、誰もが当時の桃城とリョーマのことを優しく話してくれて、やっとなんとなく漠然と、事情が飲み込めてきた遼だった。
そして聴けば聴くだけ、父親には適わない気分になってくる。母親を愛し、支えた父親は、口に出して
言ってはやらないが、遼にとっては十分誇れる父親だった。
世間に知名度の在るという有無に関わらず、プロという厳しい世界で名を高めたことでもなく。母親を
愛したことが、遼にとっては父親には適わないと思う部分だったからだ。そして絶対父親と同じ世界とい
う場所に立ってやると、遼はリョーマから受け継いだ鉄爪を研いでいる。
「SOMEDAY MY PRINCESS WILL COM……」
「どした、遼?」
「なんでもない」
そんな時ばかり目敏く耳聡い父親は、ボソリと漏らした科白を聞き逃すことなく、何処か意味深に笑っ
ているからムカツクんだと、遼は舌打ちする。
「まっ、お前も本当に大切にしたいって思うダレかが現れれば、ちゃんと判るさ」
自分がリョーマを愛したように。きっと遼も亮も、誰かを愛し、誰かの王子様になるのだろう。けれど息
子は未々テニスに夢中で、色恋とは無縁だと思う桃城だった。
「ホラ、リサ、亮、いくぞ〜〜」
愛妻の膝の上で甘えきっているリサを抱き上げ、片手で自分と面差しのよく似た次男の亮の手を繋げ
ば、二人は父親に構われ無邪気に笑っている。
「今度晶がきた時、見せてあげようかな?」
リョーマはキラキラ輝く指輪を眺め、そして再び白い箱に納めると、アルバムと一緒に大切にしまった。
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