何処にいるの? こんなに、探しているのに? もう疲れちゃったよ 未だ探し足りない? 初夏の蒼く澄んだ空。積碧な樹々。 緑の多い青春学園は、至る所に樹木が在って、テニスコートの周辺にも、眩しい緑が植えられている。それは夏の厳しい暑さの中で練習する部員の、一時の憩いの場に提供される事が多い。 そんな緑に囲まれたコートの周辺に群がる人垣を後方から眺め、桃城は少しだけ呆れた顔をして、ゆっくりとその人垣を掻き分ける為に、歩き出した。 今日はその姿がコートに在てくれるだろうか?そう祈る。 小生意気な口調で、綺麗なフォームで、誰にも真似のできないその天性の才で、笑ってテニスをしていてくれる事を切実に願って。バカみたいに最近願う事といったら、その言葉しか、その名前しか出てこない。 毎回放課後が怖いと思う。その瞬間を見定める時が、何より怖い。恐怖と言うものは、あまり感じる方ではなかったし、通り過ぎて来た過去を想起しても、そうそう怖いという思いをしてきた事はなかった。なかったと考えれば、随分恵まれていたのだろうと今更思う。 何一つの不自由もなく、こうして金ばかりかかる私立の中学でお気楽にテニスをしていられてしまう程度に、自分は恵まれた環境で育っていたから、純粋な恐怖など味わった事はない。現実的に起こっている惨事は、常にブラウン管の向うの出来事で、感じる怖さはきっと怖さと言うよりも、多分惨事に対する悲しみの定義なのだろうし、子供の思考回路の中で捉え考えられる程度の理論に対しての矛盾、そんな程度のものだっただろう。だから純粋な恐怖を感じた事はなかった。 けれど今は足下が喪失してしまう程怖い。怖いと言う事の怖さを初めて自分の身に置き換え実感できた。 今までなら、その恐怖はテニスができなくなる、そういう程度の事が優先されて来た。 日々もたらされる情報の、ブラウン管の向うの惨事を悲しんではみても、所詮恐怖の意味など知らなかった自分は、テニスが出来なくなる日の怖さを気楽に怖いと断定していた。 恐怖や、凍り付き竦む心根の奥の悲しみや苦しみなど、想像もした事はなかったと、自らの胸の痛みと苦しみに向き合って、嫌と言う程に痛感した。 心の奥が苦しい程痛む恐怖は、味わった事などなかった。 テニスが出来なくなる。そういう日常的な問題ではなく、精神が引き裂かれそうに痛む恐怖に直面する事は、きっとこれから先、ないだろうと思えた。その恐怖さえ、自らの精神安定を求める随分勝手なものでしかない。所詮人間は誰だって物差しの中、自己を中心にもってくるものだと、嫌と言う程実感させられる。この恐怖さえ、自ら傷つく事を最小限度にしたいという保身の結果だ。彼はその保身さえ、もうできない程、恐怖の淵に、取り残されてしまったと言うのに。未だ自分は保身を計るのかと思えば、嫌悪さえ湧いた。彼が負ってしまった痛みや疵に比べれば、こんな事はきっと痛みではない。苦しみではない。疵にさえならない。 「今日も…暑いな……」 見上げた空。周囲の緑が眩しく映る。 蒼く透き通ったソレは、いつだって想起すれば、研ぎ澄まされた冷ややかな薄い色彩をしている双眸だった。 コートまで辿り着くのに、奇妙に時間がかってしまうのは、下らない精神値の問題だと判っている。気が重いとか言うのではなく、心が苦しい。多分そういう言葉が適格なのだろう。 目指す場所に、目的の人物が在ればそれでいい。けれど居なかった場合、罪悪ばかりが胸の奥を抉って行くから、心が苦しくやり切れない。それさえ身勝手な自業自得の賜物で、決して曝してはならない醜態を、その人の前で曝してしまった結果でしかないから、誰彼がどれ程同情と憐れみを向けてくれたとしても、癒される事など何一つない。彼に付けてしまった消えない疵は、今だって血を流し続けている。それを考えれば、癒しなど自分に向けられるものではない事くらい、嫌でも判る。 そして今一番そういう言葉が必要な人間は、癒しと救いからは随分遠い場所に位置している。 憐れみと同情の延長線上に、決して癒しや救いなど存在はしない。いっそ綺麗に忘れてしまえれば、確かに忘却と言う救いは訪れてくれるのかもしれない。忘却さえできず、ただ恐怖の淵に取り残してきてしまった彼を忘れてしまえれば、随分自分は楽に呼吸ができるだろう。反対に、自分と言う存在を抹消できてしまえば、彼だって簡単に立ち直ってくれる筈だ。想いの淵と言うのは、まるで抜き身の諸刃、脆弱で切っ先ばかりが研ぎ澄まされている諸刃を連想される。 『桃先輩』 アノ、小生意気に語り掛けてくる笑みを二度と手にする事は叶わなくても、笑っていてくれれば安心できる。自分に向けられる事はないだろう笑みが、いずれ誰かに向けられるとしても、大切にされていれば安心だった。その対象が自分ではないというちっぽけな事実など、この際どうでもいい。そんな事を差し引いても、彼が笑っていればそれでいい。 大概損な性格をしている自覚はあった。 もう少し、ガキはガキらしく誰彼に八つ当たりできる性格であれば、周囲はもう少し楽だろうと判っていても、仕方がない。労りと慰めと、きっとそれらはやはり憐れみの延長線上に存在する幾重かの優しい感情の一つで、きっと彼等も苦しめている。きっと当事者である自分より、自分達より、見ているしかできない人間は辛い筈だ。 もう自分の声は届かない小さい姿。時折誰の声も届かなくなるリョーマに、無力を強いられる。それは自分より、きっと見ているしか出来ない彼等に、より負担を強いているだろう。 桃城は、ゆっくりと勤めて平静な表情を取り繕って、コートへと足を向ける。 人垣を掻き分けて行く都度、毎回毎回ご苦労な事だと思う。このクソ暑い最中。学園生徒けではない見覚えのある制服やら、見覚えのまったくない制服やらが、ズラリとテニスコートを囲む金網の周辺に群がっている。 夏の大会に向けての偵察が、此処最近エスカレートしている。大体偵察行動というものは、もっと陰に属して行われる筈で、こんな太陽の中、堂々と敵陣を覗き見て、データを取る事ではない筈だった。けれど此処最近エスカレートする他校の偵察は、そんな事も無関係に、堂々とカメラとノートを構え、コート周辺に張り付いている。 毎回暑い中、ご苦労な事だと、桃城は内心盛大に毒づいた。 「桃城」 澱んだ思考の中、不意に掛けられた何処か躊躇いを孕んだ声に、振り返る。まったく気付かなかった人物が二人、其処には居た。 「神尾と、千石…さん」 取って付けたように『さん』と付け加える桃城に、千石は相変らず底の判らない笑みを向けてくる。 「別に、ムリして千石さんなんて、呼ばなくていいよ」 冬服から夏服に変わった制服は、何処も似たり寄ったりで、白いシャツに黒いズボンだ。 山吹中の制服は、珍しくも昔の仁侠映画のように白い学ランで、この偵察団体の中に冬服で居たら、嫌でも眼に付く。 「二人して、偵察っスか?」 「ン〜〜どうしてるかと思ってねぇ。そしたら其処でばったり不動峰と会って」 今ではもう桃城とリョーマと言う二人だけの問題では収まらない事情になってしまった問題は、青学テニス部だけではなく、近しい近隣関係の幾重かの人間は、その事情を知っていた。その幾人かの人間の内の二人だった。 「別に、変わらないっスよ」 良くもなく、悪くもなく。平行線を辿っている。悪くならない変わりに、良くもなってはいなかった。良い事なのかと言えば、悪化するよりはいい、そういう事らしい医者の見解だった。 「フーン」 千石は、桃城を凝視する。 辛いだろうと思えば、けれどそんな慰めが追い詰める事を知っているから、別段興味なさげに嘯く事が精々になる。 随分自分はこの青学のクワセ者を気に入っていたのだと千石は思った。 都大会で対戦したから、桃城のクワセ者の一面を知っている千石だった。 左足を痙攣させながらも、試合で進化し、ジャックナイフを完成させたクワセ者。そして続いて亜久津と対戦したリョーマの天性のテニスの資質に、魅入られた。 以前青学に偵察に来た時、思い切りボールをぶつけられ、以来その小生意気さが気に入っていたが、リョーマの勝ち気さは決して虚勢ではない。天性の才は、亜久津との対戦で堪能させてもらった。小柄な姿態に切れ味の利いた鋭いショット。何とも愉しげに相手を挑発し、試合していた小柄な姿が印象的だった。 そしてよくよく注意してみていれば、そのリョーマの横には常に桃城が在る事が判った。 一見すれば、不釣り合いな組み合わせに見えた。 片方は表面だけなら太陽のようなと言う形容が似合う笑顔を持っていたし、片方は小生意気なルーキー。とてもソリが会う事はないように見えるのに、注意してみていれば、容易に判る立ち位置だった。 小生意気に笑う笑みが、桃城にだけはひどく柔らかい一瞬が在る。それはよくよく注意して見ていなければ判らない程度だろう。けれど確かにそういう一瞬が在る。そして桃城は、ひどく大切に大事にしている事が簡単に判る。きっと周囲の者も、知っている人間は知っているのだろう。二人の微妙だろうライン関係と言うものは。 気に入ったという表現が、きっと一番正確だろうと思う。 どちらも気に入った。特に天性の才を持つ小生意気なリョーマを気に入った。だからこそその隣に位置している桃城が気になったし、気に入ったのだろうとも思えた。 きっと桃城も判っているのだろうと思う。あれだけ大切にしている存在の周辺に時折うろつく自分の事を。尤も、リョーマに自分の存在は認識されていない節が多大ではあるが、桃城と対戦した相手、程度の認識は今はされている筈だった。だから『知らない』と、以前のように即答はされないだろう。彼が戻って来ている時は。 「桃城」 千石の隣で、気遣う様子で神尾が口を開く。 何をどう言えばいいのか彷徨う口調に、次の言葉が失われる。 今目の前に立っている桃城は、レギュラージャージを着てはいない。その意味を知っているから、言葉が繋げなくなる。 他のレギュラー面子は、レギュラージャージを着ているから、桃色がブルーのトレーナーを着ている意味を考えれば、他人事とは言え、胸の痛む事実ではある。 以前ちょっとした出来事で、ストリートテニス場でダブルスを組んだ時着ていた桃城のトレーナーは黄色だった。けれど今は黄色でもない。その意味を、自分は知っている。手にしているラケットも、以前とは違う。 「バーカ」 閉ざされた言葉に、桃城は苦笑する。 直接的に対戦した事はない。神尾と対戦したのは海堂で、その海堂の脚力に匹敵する神尾のテニスを、桃城は知っている。以前ストリートテニスでちょっとした出来事でダブルスを組んで以来。何かと気が会う一人になっていた。テニスを離れた場所で遊んだ事もあるし、ラリーをした事もある。 「まぁ、可も不可もなく、って所だよ」 事情を知る二人。多分この偵察している人間の中。自分達の抱える事情を知っているのは、この二人だけだろう。 そしてゆっくりとコートに視線を向ける。その時ひどく緊張している自分を桃城は知っていた。 青学テニス部の所有しているコートは広い。抱える部員数も他の体育会系より多いテニス部で、レギュラーはたった8人だ。遠目からでもレギュラーと判別できるジャージ、その中に、求める小柄な姿はなかった。 「……居ねえな……」 「呼び戻しておいで」 哀しげに顰められた横顔と声に、掛ける声などこれだけだと、千石は肩を叩いた。 淵を彷徨う人間を呼び戻して来られるのは、皮肉にもその真実の声は届かない相手だけだと言う整然とした矛盾。 「今日は、晴れてるからいいけど」 雨なら大変だな、神尾の声が途切れた。 「桃城」 コートの入り口で、立ち止まっている桃城に、手塚の声が掛けられる。いつまら、此処で『校庭二十周』と言われる所だろうが、今はない。静かな声が、桃城を呼んだ。 「んじゃ二人とも、しっかり偵察してってくれ」 「元気じゃねぇか」 しっかり偵察しろとは随分な台詞に、神尾は苦笑する。 空元気で虚勢を張れる程度には元気、そんな事は判っていた。 「クワセ者君だからねぇ」 駆け出す背に、千石が呟いた。 |
「……越前は…」 手塚の元にはレギュラーが揃っていた。桃城が手塚の元に着た時点で、堀尾達一年生トリオが桃城の半歩後ろに立ち尽くす。 「お前の仕事だ」 手塚が、リョーマの赤いラケットを差し出した。 自分でも、随分残酷な事を言っている自覚は手塚にもあった。けれど、今この時点で、どんな事になろうと、リョーマを呼び戻してこられる人間は皮肉にも桃城だけだったから、告げるしかなかった。 「すみませんッッ!」 赤いラケットを受け取った瞬間。背後から響いた声に、振り返る。 「ちょっと眼ぇ離した隙に、越前の奴消えちゃって」 同じクラスで同じ部活の堀尾が、桃城に済まなそうに頭を下げた。 「お前の所為じゃねぇだろ」 クシャリと、髪を掻き回してやる。そうすると幾分ホッとしている事が判る。 一年で実力でレギュラーの座を勝ち取ったリョーマの同級生。リョーマの待遇は、ある意味で特別待遇だ。本来なら9月期まで、一年生がランキング戦に出る事はない。けれどその慣例を壊したのはリョーマの存在だった。実力主義のテニス部とはいえ、天才と謡われる手塚と不二でさえ、ランキング戦に出たのは一年生の9月期からだった。それだけリョーマの実力が彼等二人の一年生当時を凌駕しているのかと言えば、それは部長の手塚の配慮だろう。 依怙贔屓ではなく、実力のある者は等しくその機会を与える。実力主義のテニス部の部長らしいやり方だった。 「お前達の所為じゃないから」 ダレかに今のリョーマの状態に責任が在るとするなら、それは自分以外の何者でもない。堀尾達は彼等なりに、リョーマを心配しているのだろう、純粋に友人として。 なんだかんだ口では言っても、リョーマは堀尾達といつも一緒に居た。個人主義で帰国子女のリョーマを、或る意味彼等三人は、特別視した事はないのだ。だからリョーマにしてみても、気安く付き合ってこれたのだろう。多少なりともの無責任な称賛と羨望はあっても、妬みはない。ただ純粋にリョーマのテニスに対しての賛辞を贈る。だからリョーマは三人と居る事ができるのだろう。 クシャリと掻き回した短い髪。リョーマのものとは随分と違う。こんな風に掻き回せば、『鬱陶しい』と言われるだけだ。それでも、一度も振り払われた事のない腕だった。 「あいつ、今日どうだった?」 「普通でした」 普通、この言い方は正しくないなと告げながら堀尾は思った。何事もなく授業を受け、余人で中庭で弁当も食べた。別段変わった様子はなかった。 『桃先輩ッッ!』 今でも三人には、リョーマの初めて聴いた悲鳴が耳に残っている。それはリョーマと一緒にいた不二も同じ事だった。 『嫌だっ!』 閉ざされた硝子の扉。いつまでも叩き続けていた手。血が出る程。 『桃先輩ッ!』 抑え付けられて、それでも血に濡れた悲鳴を叫んで、最後には鎮静剤を投与された。 どうしてあんなにもリョーマが取り乱したのか、堀尾達は知らない。子供の彼等は、きっと想像もしない。 夕暮れ時の繁華街。響くブレーキ音に幾重もの悲鳴。コンクリートに広がる赤。 仲のよい先輩と後輩で、だからなのだろうか? 堀尾達には、判らない。けれど、リョーマがどれ程桃城を身近にしていたのか、それだけは判った。その関係の深い意味までは知らなくても。 「部活も一緒に来て、コートに出た時までは。一緒だったんですけど」 レギュラと他の部員は練習メニューが異なるから、部活に出たらいつも一緒と言う訳にはいかない。 「俺が一緒にアップしてたんだけど」 英二が、ポツリと口を開いた。 『オチビちゃん』と、英二は気安くリョーマを呼び、弟のようにひどく可愛がっていた。 5人兄弟の末っ子で、だからリョーマを弟のように扱っては、時折肘鉄を食らっていた。それさえ楽しげにしていた英二だから、今の状態にはひどく気遣っていた。 それでも、リョーマは消えてしまう。 柔軟を組んでいる時は変わらなかった。会話も受け答えも途切れる事なく続けられて。 けれどアップし、ちょっと眼を離した隙だった。小さい姿はコートから消えていた。気配もなく、最初から、ソコに居た事の痕跡一つ残っていないように。 「俺、探して来ます」 手渡された赤いラケット。自分のソレを放り出してまで、消えてしまった。 「場所、判るのか?」 乾が相変らず底の見えないメガネで話しかけた。 「多分…今日は天気いいんで」 巧く言葉が見つからない気がした。曖昧な物言いだが、それでも適格な言葉はコレしか思い付かない。『天気がいいから』。 「そうか」 きっと桃城のそんな曖昧の言動でも、判るのだろう手塚は、言葉少なく頷いた。 「んじゃ俺呼んできます」 赤いラケットを抱え、走って行く。 入り口で見慣れた二人組みに声を掛けられ、ヒラヒラと手を振って校内に消えて行く。 「皮肉だよね…」 駆け出す後輩の背を眺め、不二は呟いた。 今も悲鳴は血に濡れ耳の奥にこびりついている。 「拒絶する相手だけが、現実に立ち返らせる手段なんて」 人形のような何も映さない瞳で、今何処に在るだろうか? 「それでも俺達にできる事は、見ているやる事だけだ」 所詮自分達は部外者で、当時者ではない。 「優しいね、手塚はさ」 見ているしかできない。けれど見ている事しかできない事が、どれ程苦痛か?自分は今でも手放せない。アノ悲鳴を。 「僕にはムリだな」 潰したくなる、何も映さないアノ瞳を。 人形の方が、きっと幾らもマシに語ってくる。その存在の在処を。 「拒絶する相手にしか反応しないって言うのは、結局越前には最後まで桃城だけだって言う事の裏返しだ」 それが苦痛を伴う修復作業だとしても。どれ程の痛みと苦痛に泣き叫んでも、立ち戻るのはいつだって、桃城という存在だけなのだから。立ち戻って行く場所のように、回帰して行く。 「だから俺達は、見ているだけでいい」 ポンッと、不二の頭に手を乗せる。 「辛いのは、俺達じゃない」 「ウン…そうだね……」 「判ったら、練習に戻るぞ」 クシャリと、手塚らしからぬ表現で不二の髪を掻き回すと、端然とコートに向かって歩いて行く。 「適わないな…」 その強さ。 リョーマのテニスが南次郎のコピーだと端然と告げる程、手塚はリョーマのテニスに期待している。それはきっと今でも変わりないだろう。だからこそ、怪我を押してまでリョーマにコピーで在る事の意味を気付かせた。そんな手塚が、痛んでいない筈はない。それでも自分達にできる事は見ている事なのだと言う強さは、到底真似できない事に思えた。 天気がいいから、きっとソコに在るだろうと思った。 4階建て校舎の最上階。昼をソコで食べる以外、この時間帯に人の出入りはない。ないから時折其処で在っていた。 屋上に続く踊り場。一挙に駆け上げって来た息を整えると、桃城はゆっくり重い扉を開いた。 ソロリと足音を立てずに外に出る。コンクリートの白が、夏の太陽に眼に痛い程反射する。 外に出て視線を動かすと、白い壁に凭れてリョーマは座っているリョーマが見つかった。 蒼い空を見上げている瞳。けれどその瞳に表情がない事を桃城は知っている。力尽きて座り込んでいるヒトのように、一切の力が入っていない小さい躯が、壁に凭れて座り込んでいる。 小さい肩に羽織られている大きい見慣れたジャージ。小さいリョーマの躯には、一回り以上大きいレギュラジュージ。脱力している手に握られている見慣れたラケットは、自分のものだ。 『ハードヒッターの桃先輩には、あってんじゃないっスか?』 練習後の帰り道。日課になってしまっているファーストフードでの会話だった。 ラケットを他人に触れさせる事は滅多にない。だから桃城が気軽にラケットを預ける相手は限定される。それはリョーマも変わりなかった。新しく買い換えたラケットを見せたら、物珍しげにリョーマが触っていたのを思い出す。 朽ち捨てられた人形のように、今のリョーマには気配がない。ただソコに在るだけなのだ。何も映してはいない人形のような瞳で、ただ無心に蒼い空を見上げている。けれどそれさえその蒼を映し出してはいないだろう。きっと今のリョーマより、人形の方が気配が在る。 色素の薄い蒼い瞳。良く見なければ気付かない程度の蒼さは、けれど見ては空のようだと言っては、呆れられた。大抵が情後に告げている言葉だから、いい加減言葉遊びノリになっている。けれどその反面、その蒼い双瞳は、月の光で研ぎ澄まされた冷ややかな切っ先さながらの水晶のようにも見える時がある。 試合最中のリョーマの双眸がそうだ。 何より印象的で、リョーマを構成する幾重もの要素を、より強くソコに在るのだと位置付けている双眸の強さ。対戦相手を魅了する印象を何より深める双眸の活力が、けれど今は綺麗に消え失せている。 続く空を見詰める瞳には、思考など欠片もない。ただ見ている。映している。瞳に映っているたげで、リョーマは実際空を見てはいないだろう。 ハラリと、夏の日差しの中に吹く風に、柔らかい髪が揺れる。身動ぎしない小さい躯。片手で覆えてしまう程、小作りな白皙の貌。瞬き一つしない眼が、桃城の胸を鷲掴み、引き裂いて行く。 コートに来て、英二とアップする間では普通だったというのだから、こうしている時間は長くはない。放っておいたら、いつ戻ってくるだろうか?そう思うが、いつまでも夏の日差しに曝しておくわけにはいかない。 ソッと、怯えさせないように近寄って、腰を屈めて覗き込む。やはりソコに感情はない。 ただ続く蒼さを閉じ込めた瞳が、何も映さず無心に天を見上げているだけだ。 「……越前……」 そっとそっと、願いを込めて呼び掛ける。 怯えないでほしいと思いながら、怯えさせてしまう事も嫌と言う程判っている。だから極力小さい声で、呼び掛けた。瞬間。小さい躯が、ビクンと慄え強張るのが判った。反応は顕著だ。 「……アッ……」 覗き込まれている事に、瞬きを忘れた瞳の奥に、怯えが走り抜けて行くのが桃城には判った。 ゆっくりと視線が戻って来た事にホッとする反面、その時の拒絶の悲鳴が桃城には痛かった。 「な…んで………」 怯えた声が、桃城を見上げて呟かれる。 「ホラ、いつまでこんな所に居るつもりだ?」 赤いラケットを差し出して、細過ぎる手首を掴んだ瞬間。 鋭い拒絶に手を振り払われた。 「なんで……なんであんたが来るの…?」 そんな時ばかり、鋭い月のような瞳が桃城を射抜いて行く。 「お前が消えちまうからだろうが」 英二先輩、心配してたぞ、そう努めて平静を装い笑うと、リョーマは鋭く立ち上がった。 周囲を見渡し、どうして自分が屋上に居るのか判らないと言った様子で、桃城を鋭く凝視する。 「なんであんたが迎えに来るの?」 リョーマには、全く判らなかった。 こんな時、自分を迎えに来るのは呆れた顔をした桃城で、桃城に良く似たこの男じゃなかった。 「何でってもなぁ」 ポリポリと蟀谷を掻く仕草が、リョーマの勘に触った。 「桃先輩じゃないのに…ッ!」 鋭い拒絶の悲鳴が、響いた。 「言ってもお前信じてくれねぇし」 何度言っても、拒絶される。リョーマにとっての桃城武という存在は、もうこの世に存在しない。 「桃先輩じゃないのに、桃先輩みたいな顔して、アノ人のジャージきて、アノ人の居た場所にいて、何で?」 誰もが疑問もなく受け入れている桃城と言う存在が、リョーマには判らなかった。 桃城のレギュラージャージを着て現れたこの見知らぬ男は、桃城と良く似た笑顔で近付いて来た。よく見れば、手には桃城と同じラケットを持って。だからどちらも剥ぎ取って、以来桃城のジャケットは自分が着ていたし、ラケットは使用しなくても持ち歩いていた。 「だから俺が桃城武だって言っても、お前信じないだろ?」 夏の陽射しの中。静かな声が、落ちる。 もう何度となく繰り返された。返す言葉も同じだった。その都度距離はこうして遠去かって行く。 こんな時ばかり表情を現す月の瞳。空を映しながら、鋭い切っ先の光を宿す。そのアンバランスな脆弱さに、砕ける散る一瞬を想像しては、背筋が寒くなる。切れ端を掴むような今のリョーマの不安定さは、いつか砕け散ってしまう脆弱さを予感させる。ブラウン管の向うではない隣に位置する恐怖は、身動きできない程、容赦なく足下を竦ませて行く。 不安定な精神値を露出させるように、削り出されて行く蒼眸。強度など何一つない硝子のような瞳は、その存在をソコと位置付ける力感を代償に、増々深みを増して行く。何も映さない人形のような瞳ですら、惹き付けられてしまう程。けれど反面。こうして拒絶だろうと感情を露に曝す瞳がやはり綺麗なのだと、魅入ってしまう。 ……笑っていて…。 掲げる願いなんてその程度なのに、遠去かる距離を代償にしてもいい。誰かの傍で構わない。笑ってテニスをしていてほしい。そんな程度の些細な願いの筈なのに、叶わない事ばかりだ。 自分の存在を拒絶し否定する事で、恐怖の淵から立ち戻ってくれればいい。 自分の痛みなど、リョーマの負った疵に比べれば、付いてないのと同じだ。 泣く事さえ忘れてしまった瞳を視るくらいなら、否定されても言い。引っ張たいてでもいい、泣かせてやろうかとも思う。鋭い拒絶に、その身に慣した切っ先を抉る程衝き立てて、泣かせてやろうかと思う。 感情を忘れてしまうくらいなら、どれ程憎まれ恨まれてもいい。遠去かる距離に未練などない。笑っていてくれさえすれば。そんな些細な願いの一つ、何故叶わないのだろうか? 「あんたが桃先輩の筈ないッ!」 鋭い断言に、少しだけ桃城の顔が哀しげに歪んだ。 「誰が認めても、俺はあんたを認めない。アノ人の居場所に、立ち入るな」 失われて行く居場所。それがリョーマには怖い。 誰もが平然と受け入れて、本来居る筈の桃城の居場所が失われて行く。そんな事を、許せる筈もない。 「あんたこれ以上、俺に近付いたら、殺すよ」 冷ややかに研ぎ澄まされた眸。空を閉じ込めた綺麗な蒼は、月のように鋭く桃城を凝視した。 凛冽と放たれた言の葉。突き付けられる鋭利な双眸。 笑っていて……。 叶わないなら憎まれてもいい。自分の居場所に立ち戻ってほしい。誰かの隣で構わない。誰かの腕の中で構わない。笑ってテニスをしていてほしい。その程度の些細な願いが何故叶わない? 凛冽に輝く月の光が、閉じ込めた空の瞳を削り出して行く強さと引き換えなのだと。いずれ砕けてしまう前に。強度を失ってしまう前に。脆弱な不安定さが、全てになってしまう前に。誰でもいい、連れ出してほしい。 「いいぜ殺されても。お前になら」 砕け散るその一瞬を見なくて済むのなら。命と引き換えに、取り戻せるなら、簡単な事だ。 「フーン」 酷薄な笑みを刻み付けて、リョーマは笑った。 「あんた殺して桃先輩還って来るなら、あんたなんて、とっくに殺してる」 泣きそうに歪んだ瞳。流れない涙。 「桃先輩じゃないのに、俺のアノ人じゃないのに」 奪われて行く場所。眼に見える立ち位置が奪われて行く。桃城の居た筈の場所。居るべき場所が、急速に失われ行く。 どうして誰もが平気な顔して、この男を受け入れているのだろう?アノ人じゃ、ないのに……。 こうして誰彼の記憶からも失われてしまったら、完全に消えてしまう。もう居場所さえ、失われているのに。 「泣くなよ」 不意に桃城の腕が伸び、髪に触れる。瞬間。過剰な反応で鋭く振り払われた。 「アノ人じゃないのに、俺に触るな」 涙一つ流れない歪んだ瞳。 リョーマは桃城の手を払いのけると、フワリと自分には一回り以上大きいジャージをはためから、駆け出していった。 バタンと、鋭い音が桃城の耳を打った。 これでリョーマは部活に参加するだろう。どうして自分が屋上に居たのか? 考えなくていい。脆弱な強さが砕けてしまうような思考は、切り捨てていい。そう願う。 桃城武と言う存在なんて、簡単に切り捨てていい。だから、笑って過ごしてほしい。リョーマの笑顔と引き換えるなら、切り捨てられても構わない。ただそう願う。 誰かでいい、誰でもいい。救い出してやってほしい、取り残されてしまった淵から。 「誰でもいい……」 絞り出すように告げられた言葉。 夏の陽射し、蒼い空。リョーマの透き通った蒼眸より尚深い蒼に、願いを掛ける。 人形のように空ろな瞳が、空の蒼に溶けてしまう前に。 不安定な精神を、脆弱な強さで支えていられるうちに。 そんな無力な願いを掲げる事しかできない自分に、どうにもならない子供な自分に、アノ綺麗な恋人は救い出してやる事はできないから。 「誰か…」 救い出してやって。 |