年齢は未々十分子供の領域とはいえ、実力主義の世界に自らの意志で乗り込んだ以上、鬱陶しい程周囲に群がるマスメディアに対しての記者会見と言うのも一応の義務と言う事で、リョーマは設けられた会見場所で、流暢なまでの英語で淡々と話した。元々が帰国子女の彼であったから、英語に苦労する事はなく、記者も驚く流暢さで、彼を知る者が見れば、相変わらずニコリともしない憮然さを混在させ、それでもそれが出来る程度には人間が出来てきたと笑われ、漸く開放され機上の人となり、数十時間の旅路の果て。
リョーマは漸く都内のマンションに辿り着いていた。
それなりにセキュリティーの利いたマンションに住んでいる為、セキュリティーボックスに、指定のセキュリティナンバーを打ち込み、一見すればそうとは見えない瀟洒な強化硝子の扉をくぐると、マンションホールへと歩いて行く。ホールの奥には、数台のエレベーターが設置されていた。
深夜に近い時間帯の所為か、マンションの住人に会う事はなく、リョーマはエレベーターホールまで辿り着いた。尤も、昔から他人との関係形成が苦手なリョーマにしてみれば、マンションの部屋の隣に誰が住んでいるのか知りはしないから、会ったとしても、誰かなど判りはしないだろう。リョーマ自身、宝の持ち腐れ状態で、年に数回しか日本には帰国しないから、知りようなど、有りはしない。
数台在るエレベーターは、どれもが1階に停止していて、リョーマは手近なエレベーターに乗ると、目的回数を押した。
小さい箱がゆっくり上昇する一瞬の浮遊感は、疲れた躯には唐突な心地好い眠気を与えて来る。リョーマはこの一瞬が、案外と好きだ。下界の無意味な喧騒と切り離される瞬間の隔絶さ。其処から先は、誰もが気安い顔をして、入ってくる事はできない境界線のようで、安堵感が全身に広がる。入って来る事の出来る極少数の人間達は、自らがそうと位置付けた人間達ばかりで、無駄な労力を強いられる事もないから、好きだった。
それは気安さの上に成り立つ幾許かの安心と安堵で、やはり労力なく付き合える数少ない人間達は気心が知れて、楽だった。何より、必要最低限の言葉で、会話が通じるのはありがたい。綺麗な言葉で装飾する会話の作業と言うのは、リョーマにとっては苦痛以外の何ものでもないらしく、その点から考えても、気心の知れている人間との会話は、神経も使わない分、素直に楽だ。
ゆっくり上昇する時間は、永遠のような心地好い浮遊感をもたらしてはくるが、それは瞬き程度の一瞬で、大した振動も立てないエレベーターは、無機質な音が目的回数に付いた事を、知らせて開いた。
ゆっくり開く扉。リョーマは滑る様に一歩を踏み出し、久し振りに足を踏み入れるマンションに、奇妙にも感慨をしてみせる。
年に数回の割合でしか帰国しないくせに、実家ではなく、こうして都内にマンションを借りている理由は幾つか羅列できる。それは実際交通を考えての事と、それ以外の要素が有るからだ。その後者の要素を考えて、連れ込み宿の様だと、相変わらず見たくれだけは太陽のような笑顔をしている今は居ない相手の事を考え、肩を竦めた。
リョーマにとってのHOMEと言うなら、今はもうこの場所を指し示すのだろう。
両親の揃う都内の家ではなく、誰かと築く為に、そう多くない割合でしか帰国しない為に借りているこのマンションが、リョーマにとっては実質の意味での『家』だった。それは今は隣に居ない誰かにとってもそうだろうかと考え、薄く細い肩を竦めて苦い笑みを漏らした。
さして大きくはないテニスバック一つ抱えただけの姿。芯が入ったように綺麗な立ち姿で滑るように歩く様は、ステージモデルのようにも見える。
外観も今時流行の瀟洒なシティホテルのようだが、内部構造もさした違いはない。エレベーターから目的の部屋までは、オレンジの小さい光が等間隔に灯っていて、何となく落ち着いた雰囲気を帰えって来る者に与えている。こうして落ち着いて安堵感が胸に染みるから、帰ってきたと、改めて実感出来る。
足音を吸収する為に使用されている素材なのか、最近の流行なのか理由は定かではないが、リノリウムの床はリョーマの足音を綺麗に吸収して行く為、深夜に近い時間帯、足音を立てずに済んだ。エレベーターから大した距離も歩かず、リョーマは目的の黒い扉の前に辿り着いた。
空港に到着した時点で、無造作にズボンのポケットに入れ代えたキーを取り出しカギ穴に差し込めば、それは不用心にも、鍵が掛けられていない事を証明し、ドアノブが回った。
そんな人物には、生憎心当たりは一人しか居なかったから、リョーマは小さい溜め息を吐き出すと、音もなく扉を開いた。 何を好き好んで、こうして現れて居るのか、考えてもリョーマには判らない事ばかりだ。
『オチビの、好きにしていいんだよ』
きっと初めて目にする笑わない眼で、彼はそう言った。
明るい笑顔の内側が、実際相反する繊細な、何処か一歩踏み込んだ脆さを持っている彼を知っていた。けれど目の前で、笑わない眼で告げてくる顔は、見知らぬ他人のようだった。
見知らぬ他人。明るい笑顔と、欲しい時に素直な快楽を与えてくれる先輩。それ以上の物など、実際どれ程の回数肌を重ね、それ以上の時間を重ねてみた所で、感慨など湧かなかった。だから実際、笑わない眼の奥に走り抜けた真摯な影に気付かないフリをして、リョーマは笑ったたけだった。
好きにするもしないも、束縛しあう関係を築いた覚えはなかった。だから好きにした。好きにした結果。今でもこうしてタイミングを計ったように現れる人物の意図が、リョーマには判らない。
ゆっくりノブを回し、黒塗りの扉を開ければ、案の定、扉を開いた玄関には、見慣れた靴が無造作に脱がれていて、リョーマはガクリと脱力を深めた。そして少しだけ、変わっていない事に安堵を覚え、小さく笑った。
合鍵を、渡した覚えはなかったから、きっと何だかんだと理由を付け、泊まり込んだ時にでも、眠ってしまった自分にこっそり内緒で、近所で手早く作ってきたのだろう。そういうちょっとした卒の無さで、手早く目的を果たしてしまう所など、桃城と英二はとても良く似ているように思えた。伊達に仲が良く、気が合っていたわけではないのかもしれない。
きっと鍵を変えてみた所で、無駄な事も判っているので、リョーマは細い肩を竦め苦笑すると、さして広くない3LDKのマンションのキッチンを横切り、リビングへと足を進めた。
室内は深閑として、人の気配は感じられない。リビングに足を踏み入れた瞬間、リョーマは無自覚に息を吸い込んだ。
照明一つない室内。リョーマの正面には、室内照明が灯されていない為、外の華やいだ夜景が、くっきりと映し出されていた。
隔絶された境界線のような大きく切り取られた窓のこちらと向こう側。触れられそうで、触れられない綺麗な夜景。
羅列できる幾重かの言い訳の中。このマンションを選んだのには、交通の弁というのがもっともらしい言い訳だったけれど、『家』として自立する為に選んだというのは嘘ではなかったが、本音は同棲に近い部分を持っていた。だから表札は二つ出ている。
その為に、この場所に建築された新築マンションを購入した。都内の夜景がとても綺麗に見える場所は、時折前触れなくフラリと現れる英二のお気に入りで、大抵英二はこうして室内の照明を付ける事はなく、大きく切り取られた窓に片頬を預ける恰好で外を眺めている。
桃城もよく夜景を見下ろしては、何を見ているのか窺い知れない眼をして、外を見ている。そんな時の桃城に、リョーマは近付く事が出来ない。できないから、少しは慣れた場所で立っていれば、すぐに気付いて、手招きされる。そうして漸く、安堵して吐息を吐き出す事が出来る。
窓の向こう側を見ている英二は、意識的なのか、無意識なのか、綺麗に気配を消して見せる。それはそのまま、身軽で剽悍なネコのようなアクロバティックプレイを得意とする、英二のテニスを現しているかのようだった。
その静かな横顔からは、過去、中学生時代の、気安い笑顔を浮かべる英二を知っていても、瞬時にその開放的な笑顔を思い浮かべる事は、リョーマには少しだけ困難だった。
一体、その視線の先に何が見えているのだろうか?フトそう思うが、尋ねた事はなかった。尋ねても、在り来たりな言葉しか返ってこない事が、判っていたからだ。
『夜景がやけに綺麗だから』
そんな下らない且つ、疲れる冗談を聴く程、無駄な事はない。
きっとこの静かな横顔が、英二の本質なのだろう。歳を重ねた分だけ鋭角になった横顔には、相変わらず、その意味を最後まで訊く事のなかった、カットバンが貼られている。
中学生当時は、桃城と揃って部内のムードメーカで、誰に対しても構えさせない開放的な笑顔をしていた。けれどその本質は、実際は寂しがり屋で繊細な面を多大に持っている英二を、リョーマは知っていた。と言うより、知らされたと言う言葉の方が、きっと正確だろう。
『オチビの好きにして、いいんだよ』
初めて目にした、笑わない眼。感情の在処を掴ませない抑揚を欠いた声と貌。そして少しだけ淋しげに笑った。この局面で、こんな表情を隠し玉のようにとっておいた英二に、リョーマは呆れと同時に、何故か悔しさが湧いた。
選べとは言わず、好きにしていいと言われた。その言葉がどれ程卑怯な言い訳だったのか、きっと英二は今も知りはしないのだろう。
『オチビの事は、沢山傷つけてきたから』
それが肌を重ねる行為を意味しているなら、やはり英二は呆れる程莫迦で、桃城と大差ない大莫迦だろう。それがさも当然の免罪符のように語る声に、大笑いしたい程だった。
「………住居不法侵入ですよ、菊丸先輩」
一体その視線の先に何を見ているのか、静かな横顔から、それを推し量る事は出来ないし、する気もなかった。判ったからと言って、何が変わるわけでもない。同じ物を視界に映しても、感じ方など人夫々で、それは人の数だけ存在するものだ。それは今此処に居ない桃城も同様で、子供のように、同じものが見たいなど、願った事はない。
皆それぞれ好き勝手に何かを見て、何かを感じ、生きている。その程度の事だ。何が見え、どう感じていようが、こうして立つ位置に、さした影響などありはしない。
リョーマはクスリと笑うと、背にしたテニスバックをフローリングの床に下ろした。
窓に片頬を預け、薄グリーンの500mlのカクテル瓶を片手にしている英二は、少しだけ物憂げだ。けれどリョーマが声を掛けたら、薄布一枚引き捲った背後から、別者が現れるかのような笑顔が現れる。そんな英二の笑顔に、リョーマ小さく苦笑する。そんな仕草も、何処か見慣れてしまったものだ。
「旦那が別口で居ないのみはからって会いに来たんだから、もうちょっと色よい返事、してくれたっていいじゃん」
ちょっと拗ねた調子の英二は、手にした瓶に一口口を付けた。英二の拗ねた笑みは半分以上が演技だ。それが判っているから、リョーマは少しだけ半眼交睫し、酷薄な口唇に、抑揚のない笑みを刻み付けた。
大学生になったというのに、拗ねた表情と声は、中学生当時のものと何一つ変わりない。きっと変われないように、振る舞っていてくれるのだろうと、リョーマにも判る。混乱、しないように。些かのその方向性のずれた気遣いに、けれどリョーマは敢えて口を挟む事はしなかった。
「最近じゃ、否定しないんだ」
リョーマの足許に置かれた、彼の愛用のテニスバックを視ると、英二は笑う。とても海外遠征していた人間の荷物ではなかったからだ。
物に執着しないリョーマにしても、荷物が少なすぎた。尤も、今は宅急便という便利な手段が有るから、それを利用していないとは限らないのだけれど。
「すればするだけ、面白がる先輩達、多いスからね」
『旦那』と言うのは英二で、未だ『彼氏』と呼ぶのは、実家の人を食ったような父親の南次郎だ。
どっちもどっちで御免被りたいが、反駁は、けれど更に彼等に肴を提供するようなものだから、最近ではリョーマも学習したのか、この手合いの科白には、黙殺と言う手段に出ていた。
尤も、軽口に誤魔化しながら、英二はリョーマにとってのその存在を、無自覚なのだろうが、少しだけ辛そうに口にするから、リョーマもまた、知らないふりをするしかなかった。
気付いて口にした所で、時間は巻き戻らないから、意味などないだろう。
そう言えば、いつから英二は桃城の事を、自分に対して使う時『旦那』と呼ぶようになっただろうか?もう過去の事過ぎて覚えてもいない。呼ばれた当時は随分反駁を重ねた覚えも有ると言うのに、やはり慣れは耐性が付く代物らしい。
「オーストラリアン・オープン、優勝おめでとう」
何も言わず、英二を眺めているリョーマに、英二はそう笑うと、もう片方に隠し持っていたブルーの瓶を放り投げて寄越した。それは綺麗な放物線を描き、リョーマの手の中に収まった。
「未々これからっスよ」
放り投げ寄越されたカクテル瓶を受け取り開けると、リョーマはその甘い微炭酸に少しだけ攅眉し、喉を鳴らした。
リョーマがプロデビューを飾ったのは、テニスは知らなくても、その大会名は誰もが知っているという、『ウィンブルドン』だった。
プロになったリョーマは、ATPシリーズの最下層からチャレンジし、連戦連勝という驚異的な記録を作り、若干二ヵ月で全英オープン予選に必要なATPエントリーランキングを確保し、予選を通過。本線で負け無しの連勝で、優勝という稀代の選手の名を、世界に知れ渡らせた。
全英オープンと言えば、テニスに興味のない人間でも、その名前は知っていると言われる程にメジャーな世界大会だ。
大人でも厳しいスタナミと精神力を要求されるその世界大会で、プロになったばかりの子供が予選から勝ち上がり優秀するというのは、今まで例がなかった訳ではなかったとはいえ、それは決してありがちな事でもなかった。それはそのまま、リョーマの才能を世界に知れ渡らせるのには、十分なものだっただろう。
それからのリョーマは、水を得た魚のように様々な大会で連勝し、記録を更新し続けている。
一時期は、父親の成し遂げられなかった夢を実現するヒーローのようなマスメディアの取材も、今ではリョーマの背後に、父親である『サムライ南次郎』を視る事はなくなっていた。
今リョーマの名前が世界的に知れ渡っているのは、他の誰のものでもなく、リョーマ自身の努力の結果だった。
リョーマと前後しプロデビューを果たしている手塚や千石、亜久津や跡部、そして桃城は、日本を代表する選手になっていた。彼等は共に、今回のオーストラリア・オープン戦に出場し、奇しくも優勝こそ逃しはしたが、ベスト8に入り、成績を残している。
「旦那は?」
抑揚のない、少しだけ苦笑を帯びた笑みを見せるリョーマを眺め、英二はリョーマの前に立った。
一体いつから、リョーマはこんな苦笑を覚えたのだろうか?それがリョーマを莫迦のように大事にしている誰かとそっくりだと気付かないあたり、いかにもリョーマらしく、そして胸が軋む。もうとっくに、遠のいた距離の筈だった。
影響される程に近い距離。ひどく似た苦笑を浮かべる二人に、リョーマの背後に桃城が見える気がして、英二はいたたまれない衝動を意識する。
忘れた筈だった。諦めた筈だった。追いかけられないと自ら断念した時点で、リョーマを想う資格はなくなったのだと。けれどこんな風に苦笑するリョーマを見れば、時折いたたまれない衝動を感じずにはいられない。
「野暮用っスよ」
実際、桃城が何処に行っているのか、リョーマは知らない。けれど大凡の見当は付いていた。
空港に到着した瞬間、タイミングを見計らったように鳴った携帯で、それは判った。だから、英二が此処に居るのだろう。 雑踏の中、片手を上げ消えていった後ろ姿。一度も振り返らず、ヒラヒラ手を振っただけで綺麗に雑踏に交じってしまうのも、彼の特技かもしれないなと、リョーマは思う。一度も振り向かない背。その潔さに、駆け出したい衝動が襲った事など、きっと桃城は知らないだろうと、リョーマは更に苦笑を刻む。
「そっか」
中学三年になると同時に、リョーマはアメリカにテニス留学した。桃城も海堂も卒業してしまったテニス部は、既に全国に行ける実力を持った選手はいなく、青学テニス部は衰退していく事が判りきっていたからだ。
リョーマ程の実力を持っていれば、もう中学の全国大会程度で、満足していられる筈もない事は、周囲の誰もが判っていた。テニス部を見捨てると言えば、見捨てたのかもしれない。けれど誰にもリョーマの行動を責める権利など、持ち合わせてはいなかった。何よりも、世界がリョーマを求めていた。
リョーマは元々二重国籍で、長年アメリカ生活をしていただけに、留学するというより、戻ると言うニュアンスの方が、しっくりいっただろう。USTAに所属し、ITFのジュニア国際大会に出場するようになったのはその時からで、ITFジュニアランキング1位を当然のような顔をして、保持し続けていた。だからこうして英二がリョーマに会うのは、酷く久し振りで、時折誰にも告げる事なく帰国するリョーマと会うのは、年に3回もない。
見下ろせば、相変わらず綺麗な空色の双眸がまっすぐ英二を見上げている。
綺麗な生き物だと、不意に思う。
この綺麗な生き物が、なまめいた喘ぎを漏らし、自分の腕の中に居た事も、以前は有ったのだ。けれど今のリョーマは、ただ綺麗なだけの生き物ではなくなっている。
まっすぐ伸びる視線には、以前のような迷いや戸惑いは欠片も見受けられず、ただ綺麗な色素の薄い蒼い双眸が、眼前に佇む英二を見上げている。
「相変わらず、オチビってオチビ」
少しだけ腰を屈め、白皙の貌を覗き込む。
中学卒業してから数年。リョーマもそれなりに伸長は伸びた。それでも、周囲も同時に伸びて行くから、身長差は、対して中学時代と変わりのないもので落ち着いている。
テニスに伸長は関係ないだろうが、この華奢な細さでよく毎回試合に勝っているものだと、感心する。
「っにしても、残念だにゃ」
クルリと、英二はリョーマに背を向けると、慣れた様子でキッチンへと向かって行く。
「何がっスか?」
キッチンに消える英二を咎める事もなく、リョーマはリビングのソファーにストンと腰を落とすと、程よくスプリングの利いたソファーが鈍い音を立て、細い躯を受け止めた。
「ン〜〜?オチビ全豪オープン優勝おめでとう&桃、敗退記念パーティーやろうって、思ってたのにな」
キッチンの向こうとこっちでの会話。行動だけを見ていれば、どちらが家主か判らないだろう。それ程、英二はリョーマのマンションのキッチンを、使い慣れている。下手をしたら、リョーマ以上に使い慣れているのかもしれない。
「それは、GS達成してからにして下さい」
空港に降りた時、帰ってきたんだなと、その凍える寒さで実感した。けれど今は適温に調整された暖房のおかげで、室内は春の気候だ。ご丁寧に、英二は薄いピンク色のチューリップまで花瓶に差して、リビングのテーブルに飾っている。
一体何の冗談だと思ったが、英二は昔から、こういう、冗談か本気か判断に迷う事が大好きな人間だったから、口を挟む事はしなかった。
結局、英二の軽口の言動と笑顔の裏に潜む真摯な眼差しの意味を読みあぐねていたのは、過去から今も何一つ変わりないと、リョーマはこっそり溜め息を吐き出した。現に、今も英二の来訪の意味を、リョーマは欠片も読取れてはいなかった。
内心こっそり溜め息を吐くと、リョーマは羽織っていたコートを脱ぎ、薄いシャツ一枚の恰好になる。リビングのテーブルの上に無造作に置かれているテレビのリモコンに手を伸ばし、スイッチを入れ、リョーマは呆れた。
画面の向こうで、録画されたリョーマの会見模様が映し出されていた。
「好きだね、マスコミも、もう連日オチビを画面越しで見てたよ」
「………やめて下さい。気色悪い」
何が悲しくて、無愛想丸だしの自分の記者会見など、見たいものか。それ程リョーマは自己愛が強くもなければ、自虐趣味も持ち合わせてはいなかった。誰の為でもなく、自ら高みを目指して歩き始めた道だ。会見など、付属品にも程遠い。
リョーマはブチッと音を立て、テレビを切った。
「録画してあるよ、視る?」
「………どれっスか?」
消してやると、リョーマは立上がり掛けてやめた。それこそ無駄な労力だ。
「オチビってば、相変わらず無愛想で、笑えるよ。もう少し、愛想よくすれば、可愛いのに」
「顔でテニスする訳じゃないっスよ」
リョーマの憮然とした声にキッチンで笑うと、暫くして、静かな声が落ちた。
「オチビなら、楽勝って気ぃするけどね」
明るい笑顔が不意に落ち、文脈を無視して話される会話。
静かな声が、キッチンに響く。
「簡単に、言わないで下さいよ」
プロになったからには、目指すのはGS達成だ。それは別段リョーマでなくても、プロなら誰もが目標にするだろう。リョーマにとって南次郎を超えると言う事は、今ではそういう事を意味していた。
父親の名声は幼い時分より知っていたつもりだったが、いざ自分がその世界に足を踏み入れた時。リョーマはその父親の偉大さを痛感した。知っていたつもりで、実際は何一つ知らないに等しかったのだと、痛感させられた。所詮子供だったのだ。
伊達で名声は決して得られない。その世界の厳しさを、リョーマは身を持って思い知った。だから今南次郎を超えるとしたら、それは一年間でGS達成というのがリョーマの目標だった。そして誰もがリョーマを南次郎とは無関係に認めた時。リョーマは南次郎を超える事が出来るのだろう。今は未だ、甘んじなければならない事は、沢山有り過ぎた。
「オチビも桃も手塚も、どうせ明後日には、デ杯に向けて、インド行っちゃうんだろうし」
GSの一試合で優勝した程度で、リョーマが満足などしない事は、英二にも判りきっていた事だ。そして自分は、桃城のように、足掻く事をしなかった。その結果が、此処にきて、どうしようもない苛立ちとなって現れる時がある。
追いかけていたら、足掻いていたら。無理矢理にでも、掴んだ手を離さなかったら。どれもがガキの繰り言と同じだ。
リョーマは望んではいなかった。誰かに追いかけてほしいと願った事も、ないだろう。
リョーマのテニスは、勝ち続ける為の自らの為のテニスだ。誰彼の為と言う、綺麗な言葉に誤魔化す事は、中学生当時からなかった。団体戦である全国大会ですら、テニス部の為ではなく、自らの為のもの。その潔さに、誰もが惹かれたのだろう。そして、だからこそリョーマは当時から強かった。テニス部の為とか、仲間の為とか、それはリョーマにとっては不必要な部分だったから、リョーマは常に自らの高みしか目指してはいなかった。そう考えれば、中学生で、既にプロの精神値を備えていた事になる。
「そういう菊丸先輩だって、大学テニス選抜だってあるし、全日本だってあるし。色々じゃないスか」
結局、元青学レギュラーで、プロプレーヤーになったのは、リョーマと桃城と手塚の三人だけだった。裏を返せば三人以外、同年代からは抜きん出た実力は持っていたとしても、それが仕事で生活手段として糧としてテニスをするには、実力不足と言う事になるのかもしれない。
天才と言われた不二は、今は青春学園大学部に進学はしても、テニス部に所属はしていないし、乾や海堂も同様だった。
今でもテニスをしてるのは、菊丸で、高校まではダブルスのパートーナーをしていた大石は、実家の税理士事務所継ぐ為に、東大に入り、法学部に在籍し、テニスは時折遊び程度にする程度に収まっている。ゆくゆくは官庁入りし、財務省に入り、パイプを作ってから退庁し、税理士事務所を継ぐ事になるのだろう。大石の父親自身、国税局査察部勤務の官僚だったから、それは当然の事なのかもしれない。あの世界は、何事もパイプがものを言う世界だ。
「それでもさ、オチビ達とは違うよ」
それでも、テニスをやめられなかったのは、どれ程の距離が開いてしまっても、テニスという部分で、繋がっていたいという、未練があったからなのかもしれない。
「別に、テニスって事には、変わりないじゃないスか」
生活の手段としてテニスを選ぶか、大学生活のクラブで選ぶか、その差は歴然として雲泥の差が有りはしても、テニスが好きでなければ勤まらないのはどれも同じだ。
英二程の実力があれば、実業団入りしても問題はないように思えた。けれどきっと英二は大学でテニスはやめてしまうだろう事も、リョーマには漠然と判っていた。
「それより、菊丸先輩、不法侵入してるんスから、当然食い物の用意くらい、してるんですよね」
「勿論、任せなさい」
上機嫌の英二の科白に、リョーマは苦笑する。
□
「菊丸先輩、好きっスね」
英二の用意した夕食というには遅すぎる時間帯の食事は、朝からマンションに不法侵入を図り、煮込んでいたというビーフシチューに、切り分けられたフランスパンとサラダと、デザートにシャンパンのシャーベットと言う、リョーマの期待以上のものだった。桃城の分も含め三人分有った筈のものは、綺麗に平らげられ、既に時間は完全に深夜の領域に入っている。
「綺麗じゃん、夜景って」
リョーマが帰宅した時同様、英二は大きく切り取られた窓に片頬を預け、下界を見下ろしている。
「昼間はゴミゴミしてて、綺麗なものなんて何一つないって思うのに。夜は不思議と綺麗じゃん」
流れるテールランプにビルのライト。夜を知らない不夜城に輝く人口の明かり。其処には、月の光さえ入り込む余地はない。
人を象る人口の明かり。明るい灯の分だけ、其処に生命がある証し。だからやけいは綺麗なのだろうかと、英二はらしくもない感傷に微苦笑すると、カラリと窓を開き、ベランダに出た。
「ちょ…菊丸先輩。寒いっスよ」
適温に調整されている室内は、窓が開けられた事により急速に冷えて行く。地上より高い位置に有る部屋には、入り込む風も地上より低く冷たい。
「ちょ…」
寒いと訴えるリョーマに、英二は仕方ないにゃと笑うと、窓を閉め、ベランダに寄り掛かり、何やら上着のポケットからごそごそ取り出し始めた。
寒さの苦手なリョーマにしてみれば、何を好き好んで寒空に出るのか英二の行動の意味は知れなかった。リョーマにしてみれば『物好き』の一言で済んでしまう。だから英二の行動を咎めはしたものの、自ら外に出て呼び戻す気力はないのか、ソファーに座ったまま、英二の行動を眺めている。
リョーマに背を向け、ベランダに寄り掛かり、夜景を見下ろしているのだろう英二の周囲に、蒼い闇の中、白い煙がたなびいて流れているのに、リョーマは始めて英二が彼が上着のポケットから取り出したものの存在を知った。
それはリョーマが初めて視る英二の仕草だった。まるで見知らぬ他人のような顔をしてる英二に、半瞬胸が痛んだ。
気さくで気安くて、開放的な笑顔で、他人に余裕を作らせる。それは桃城ととても良く似ていた。似ていると思えば、隣に居ない事に、淋しさが湧く。
居場所を特定させる言動一つ残さず、相変わらずの笑顔で片手を上げ、雑踏に消えて行った悪党。誰の為に消えたのか、考えなくても判る事だ。
「ったく……」
リョーマは下品に舌打ちすると立上がり、窓の外へと足を向けた。
□
「菊丸先輩、煙草なんて吸うんスね」
吐き出す紫煙が、蒼い闇夜の中、白い尾を引き流れて行く。実家では父親の南次郎が吸ってはいても、リョーマ自身喫煙した事はなかったし、桃城も吸ってはいなかったから、煙草の銘柄など判らない。喫煙はそれだけ肺活量を落とす事になる。ハードなプレイを要求されるテニスに、喫煙は以ての外だ。
プレーヤーにとって、喫煙のリスクの高さを、長年テニスをしている英二が知らない筈はないだろうから、リョーマにとって、英二が喫煙している事は、以外に思えた。
「まぁたまにね。オチビは中入ってな。この家灰皿ないから」
テニス選手は腕が命だ。寒さで腕をやられては話にならないし、数日後にはデ杯予選に出立するリョーマに、風邪を引かせる訳にはいかない。今のリョーマは、青学当時のように、中学全国大会出場の一学校の選手ではなく、日本代表選抜選手なのだ。それを思えば、届かない距離に軋む切なさが湧く。
このまま……。
このまま何処かに連れ去って、閉じ込めてしまおうか?そんな出来もしない事を考えて、英二は笑った。
綺麗な生き物。誰よりも、何よりも。けれどリョーマが一番綺麗な瞬間を知っているから、英二にはそんな莫迦げた事はできない。
試合最中。痛い程の緊張の中。ピンと両端から引き絞られた一本の糸のような冴えたる緊張感に身を委ねている姿が、綺麗だと知っている。切っ先のような研ぎ澄まされた冷ややかな熱を宿す一対の眼。獲物を見据える猛禽の鉄爪。靭やかな強さと、孤独の中に憶する事なく佇む凛然さ。きっとリョーマを構成する要素の中で、一番綺麗な瞬間はそれだ。
切っ先の冷ややかさと、研ぎ澄まされた熱。どれも触れれば一瞬で切断されてしまいそうな緊張感に佇む姿が、何より潔くて綺麗だ。
『まだまだだね』
困ったような顔でも見せくれたら、諦めなかったのかもしれない。
けれど、動揺も狼狽も躊躇いなど何一つ浮かべる事なく、リョーマは、酷薄な笑みを飾り立てた。
『俺は、愛してるとか、好きとか、面倒だから』
まっすぐな眸を逸らす事もなくそう言って、華奢な愛しい人は、彼を当然のように待ち受ける腕に向かって走っていった。
テニスをしているとは思えぬ綺麗で細い指に隠されている鉄爪が、振り下ろされた瞬間。少しだけ気遣う様子で眺めていた後輩。リョーマが入部する前までは、確かに自分が一番彼とは親しかった。
リョーマがまっすぐ迷う事もなく走っていく前方で、気遣いつつ、桃城は腕を差し伸ばしていた。
「今度くる時まで、灰皿用意しときますよ」
「ん〜〜〜いいよ」
生温く吐き出される紫煙。闇の中、白い尾を引き流れて消えていく。
英二はベランダに持たれたまま、何処かを眺めている。
「ないと不便でしょ?外で吸われて、風邪引かれても困るし」
「ん〜〜〜〜〜」
「菊丸先輩?」
曖昧な生返事を繰り返す英二に、リョーマは怪訝な表情をして、頭一つ分以上高い顔を見上げた。
伸びた筈の伸長も、周囲もやはり伸びていて、実際その差は何一つ縮まってはいないと、リョーマは隣を見上げれば、その横顔は、まっすぐにリョーマを見下ろしていた。
「オチビさ」
携帯灰皿を取り出し紫煙を掻き消すと、英二は生真面目な顔で、リョーマを覗き込んだ。
「?何スか?」
こんな英二の生真面目な顔は、あの日を彷彿とさせる。
笑わない眼。相反し、口唇だけが象る微笑み。
「未だ、面倒?」
あの日と同じく空色の双眸を覗き込めば、リョーマは少しだけ困ったような表情を浮かべ、英二を眺めた。
「残念」
見たかった表情だと、英二は思う。自分がリョーマに対し、そんな表情をさせられなかった事が、少しだけ残念に思えた。あの時、欠片でも困った顔の一つでも見せてくれたら、決して離しはしなかっただろうに。
「面倒っスよ」
困った貌は、半瞬後にはサラリとした科白と共に、隠される。
「桃と暮らしてて?」
「あの人は、間違えないから」
「それってば惚気?」
「事実っスよ。ねぇ英二先輩、秘密を教えてあげましょうか?」
リョーマは意味深に笑うと、英二のネコのような丸い眼を、覗き込んだ。
でも此処じゃ寒いから中でねと笑うと、さっさと室内へと戻って行く。
まるで境界線だと、不意に思う。隔絶される窓の向こうと此方。中に入っていいのか、時折ひどく躊躇う自分を、英二は自覚している。それは後ろめたさだと、英二自身嫌と言う程、判っていた。
□
「俺はね、菊丸先輩や不二先輩に犯されて、半分可笑しくなって、それでも快楽欲しくてあんた達と関係してても、桃先輩は、莫迦な事は何一つ言わなかったよ」
リビングのソファーに腰掛けて、リョーマはコーヒーミルから淹れた珈琲を口に含み、淡々と話している。英二は、窓に背を凭れ、ソファに腰掛けているリョーマを眺めていた。
酷薄な口唇から紡ぎ出されて行く言葉の幾重かを、英二は少しだけ辛そうにして聴いていた。
実際、関係が始まった発端は、確かに力づくが前にでた結果だ。それは言い訳にもならない雄の欲望だった。幾重もの言葉を言い訳に羅列して見せた所で、事実は何一つ変わりはしない。
「オチビ……」
「ああ、別に今更、咎めてる訳でも、責めてる訳でもないっスから」
辛そうに呼ばれた名に、リョーマはさした感慨は覚えなかった。
リョーマにとっては既に過去の光景の一部で、今にはさした影響もなかったからだ。けれどそれが英二には淋しい事だと、きっとリョーマは気付かないのだろう。
桃城とよく似た苦笑を浮かべるようになったリョーマに、英二は桃城程度にも影響を与える事はできなかったのだと、痛感させられるから尚更辛い。
けれどリョーマは英二の思惑など無関係に、薄い笑みを刻み付けると再び口を開いた。
リョーマの薄い笑みの内側を、推し量る事はできない。計算の上でか、無意識か、その内部は何一つ掴めない。
「あの人は、俺が欲しい時に、欲しいだけの快楽を与えてくれたよ」
一切、無駄睦言など告げず、何でもない顔をして。欲しい時に、欲しいだけの快楽を与えてくれた。
「桃の方が、巧かったって?」
敢えて軽口を叩かなくては、到底、聴いてはいられない。まるで過去に報復されている気分だ。
「それはどうかな?あの人女遊びもしてて、俺だけじゃなかったし。それなりにこなした場数って、実際影響されるし反映されるから」
「やっぱ桃の方が巧いって聞こえる」
「そうかもね」
「オチビ、サイテー」
「俺に快楽教えたのは、あの人が一番最初だし」
「それで桃も、良く嫉妬しなかったな」
実際、リョーマが複数と関係していて、自分がその一人でしかない事を自覚して、当時の英二はそれは言葉に吐き出される事はなかったが、かなり嫉妬に苦しめられた。それを思えば、桃城は随分根気のいった苦行だっただろう。
「だからだよ」
莫迦な事は何一つ言わなかった。好きだとも、愛しているとも。だから今でも一緒に居られる。
「何かさ、それって、報われない気ぃする」
「菊丸先輩らしくなっいスよ」
「だって、やっぱさ、大事なのは気持ちじゃん」
リョーマの気持ちを無視して犯した事実に、随分都合のいい事を言っていると、英二は内心自らの科白に嗤った。
「だから気持ちよくイケれば、いいじゃないスか」
「………オチビさ、訊きたかったんだけど。ずっとそう思ってたわけ?」
抱けば抱くだけ、遠のく感触が拭えなかった中学生時代。
綺麗な綺麗な生き物は、抱けば素直に快楽に啼いて、けれどそれだけだった。
好きだと告げれば、抑揚を欠いた眼差しが、さも面白い見せ物でも見つけたと言うかのように、歪んで嗤った。
「別に、愛情なんてなくったって、セックスは気持ちよくなれるてっとり早いストレス解消で、ただの手段の一つだから」
「それで、秘密って?」
秘密というなら、リョーマにとって、その行為の意味が、違ったと言う事なのだろうか?
「好きとか愛してるとか嫌いとか、そういうのって、面倒でしょ?案外労力使うし。気持ちよくなれるなら、誰とでも何でもよかった」
珈琲に口を付け、リョーマは何を思い出したのか、クスリと小さい笑みを漏らした。落とした視線の先に、何を見ているのか、英二には判らない。静かな小さい笑み、それだけだったが、随分遠のいた精神的距離を、嫌でも突き付けてくるものが滲んでいる。
「ねぇ菊丸先輩。俺はね、テニスは確かに巧かったんだと思う。だけどそれだけだった。テニスしか知らない子供だったんだよ」
幼い時から、テニスだけを繰り返してきた。
父親の名に押し潰されそうになった時。それでも自分を立たせているのはテニスしかなく、自分の居場所を証明できるのも、テニスしかなかった。
「俺に快楽押しつけて、犯されて可笑しくなって、それでもセックスは気持ちいいって気付いて菊丸先輩や不二先輩と関係して。それで桃先輩が言った事って、莫迦みたいな一言だったよ」
少しだけ歪んだ笑みの向こう側。背の高い桃城の背後に映っていた蒼い空。
「それでも、それが俺だってさ」
テニスしか知らなかった子供が、大人の真似をして、気持ちよさだけ求めるセックスを繰り返して。けれどそれがお前なら仕方ないなと、桃城は少しだけ歪んだ笑みを見せた。
「あの人は、俺に好きだとも、誰かと寝るのは止めろとも言わなかった。何も、求めてこなかったよ」
差し伸ばされた腕は、いつだって其処にあったけれど、何一つ見返りを求められはしなかった。
「だから、オチビは桃を選んだ?」
「まぁ、桃先輩の作戦勝ち」
1から10まで、リョーマの性格を把握していた桃城の勝ち。
「好きとか愛してるとか、今でもよく判らないけどね。でも不思議とあの人以外と寝る気はしない」
それは、愛しているという言葉と、とてもよく似ている気がした。
「それじゃ、俺が慰めてって言っても、無駄か」
「口説いてみれば?」
案外人妻もいいんじゃない?
窓際に立つ英二に、リョーマは悪戯気な笑みを覗かせる。それは中学生時代のリョーマの笑みを思い出させるものだった。
「オチビってさ、案外サイテーで、人でなし」
桃城以外と寝る気はしないと言ったその口で、口説いてみろと言うのだから、大概良い性格をしている。これでは桃城は大変だろうと思えば、やはり自分は何一つ桃城に適う事はないのだと思い知る。
「今頃、気付いたんスか?」
逸らさないまっすぐな眸が、明確に感情の在処を語っている。
「オチビさ、俺も秘密をあげる」
英二は、ゆっくり歩いて来ると、リョーマの目の前で立ち止まり、スッと膝を折った。
「あの時は、巧く言えなかったけど」
拙い恋心だけで動いていたあの時が、今では懐かしく、そしてもう巻き戻らない時間を思う。軋む程に胸が痛むし、切なさが沸き起こる。
払われないようにと願いながら、英二の腕が、そっとリョーマの頬を包み込んだ。昔と変わらず細面の綺麗な顔立ち。
外も内も綺麗で、そして今では汚れた綺麗な部分も身に付けている。それも桃城によって教えられたのだろう。
「愛してるよ」
静かな声が、落ちる。
それでもリョーマは顔色一つ変えない。変えず、まっすぐ英二を見上げている。
きっとこれから別の人を愛していくだろう。けれどそれは何処かリョーマと似た人を選んでしまうだろうし、きっとリョーマの事は永遠に忘れられない。身の裡の一番深い場所に、きっとしまわれて、眠り続けて行く。
「綺麗な冗談ですね、菊丸先輩?」
払われないでと願った英二の腕を、リョーマが払う事はなく、綺麗な笑みで英二を見上げ、そしてやはり可笑ししそうに笑った。
「俺はね、両端から腕を引っ張らて、痛みに呻く声を聴いた程度で引っ張る腕を離すような、そんな生温い優しさなんて、求めてはいなかったんだよ」
苦痛と快楽なんて、所詮同じものだ。苦痛を通り越した深い部分でしか、本当の快楽など得られはしない。生温いだけのセックスは、気持ちはいいが、すぐに飽きてしまう。
「桃先輩程、悪党なら、良かったんですよ」
どれ程痛みに呻いても、見返り一つ求めない辛辣さで、桃城は結局リョーマの腕を離しはしなかった。
「愛してるなんて綺麗な冗談。俺は今更欲しくはないよ」
くれるものなら快楽だけで十分だ。余分な感情など煩わしいだけだ。それ以上の関係に、持ち越すつもりなど到底ない。
「それでも、忘れないでよ」
願わくば。愛していたと言う事を。
たとえ強引に奪ってしまった結果でも、確かに拙い心で、愛していた。今でも、愛しているのだと思う。
包んだ頬を引き寄せれば、リョーマは酷薄に笑い、音もなく人差し指を口唇の前に突き出した。
「追いかけて欲しいなんて、願った事もないし、言葉に出した事もないけど。それでも足掻いて追いついてきたあの人に、今俺が出来る事は、きっとこんな程度の事だから」
それは桃城の知らない、リョーマの告白だ。
「ひどいなオチビ……」
桃城に言えと、そういう気分になる。言う相手が間違っている。
「言葉で言うのは簡単だって、知ってます?」
言葉ではなく、見返りもなく。ただ差し出されていた腕の在処。その強靭さに気付いたのは、そう早くはなかった。
「今からでも、間に合うかな?」
中学生当時から、桃城は見極めていたのだろう。己の未来の道というものを。
拙い恋心に浮かれ綺麗な生き物を抱いて、英二が有頂天になっていた時には、既に答えなど出していたのだろう。これから先、リョーマと歩いて行く為の道を。目先の事で浮かれていた自分とは大違いだと英二は思う。そう言えば、桃城は手塚も認める。青学の曲者だったのだ。
「それはね」
互いの口唇の境界線を示すように差し出されたリョーマの人差し指が、ゆっくり英二の口唇に触れて行く。
「俺が決める事じゃ、ないから」
桃城は、過去何一つ言わなかった。留学するとも、プロになるとも。
誰の為でもなく、自らの為に勝ち続けているリョーマのテニスを知っているから、桃城は決してテニスをリョーマを得る為の手段になど、使う事など考えもしなかったのだろう。
「適わないな…」
綺麗で靭やかな生き物。研ぎ澄まされた猛禽の鉄爪を持つ、愛しい存在。必要があれば、桃城にさえ、その鉄爪を引くだろう躊躇いのなさは、彼が常に戦場に居る事を意味している。
強靭で靭やかな精神は、戦場で磨かれていくものだろうし、きっと孤独の中に立ち尽くす事でしか、磨かれる事はないだろう。だからこそ綺麗で少しだけ冷たい。
「本当にさ」
リョーマや桃城にとって、まさしく試合は戦場に等しい場所だ。プロデビューを果たして二年目。リョーマは順当にランキングを上げている。大学で、呑気にクラブテニスをしている自分とは違って当然だと、英二は口唇に触れるリョーマの指を掬い上げると、目線を合わせた。
色素の薄い綺麗な蒼い眸。その視線の中に、自分の姿を見つけては浮かれていた過去がひどく懐かしいと思えた。凝視される視界に立つ程、自分は一体何処が成長しただろうか?
「好きにすればいいなんて、言わなけりゃ良かったな」
サラリと揺れる前髪を梳き上げる。中学生当時と変わらぬ長さの髪。手にする感触も何一つ変わりない。変わったのは、自分達の立つ位置と距離、その程度だ。
「それでも俺は俺だから。好きにしましたよ」
快楽と等分のナニかをきっと与えられていた事は知っている。それはひどく柔らかい部分だっただろう。けれど自分は、そんな生温さでは、満足などできなかった。
言葉もなく、見返り一つ求めず差し出された腕が、実は一番肉を喰う激しさを持っていた事を、英二は知らない。
テニスし知らない子供だった。テニスがあれば、困る事はないと思っていた。けれど実際、生きていく為には、テニスだけでは、どうにもならない事の方が多いのだと、思い知った。
子供だったのだ。テニスだけを信じていればよかった子供。それが一番安易で楽な方法で手段だった。
「好きって感情だけじゃどうにもならないのは、テニスも恋愛も大した違いはないっスよ」
「オチビ、強くなったね」
サラリと髪を梳き上げた手が、ゆっくり頬へと戻る。
「弱くなりましたよ」
要らない感情も知って。それでも、もう手放す事もできなくて。
「でも俺は、今が一番安定してる気がする」
定着と安定は意味が違う。固定したまま進化も成長も訪れない永遠より、安定したままその形を更に強く作り替えていく強さを求め、歩いて行く。
「そっか」
「そうっス」
ゆっくり離れて行く英二の腕を眺め、
「ありがと、菊丸先輩」
リョーマはひどく静かに、英二を見詰めた。
躊躇いもなく、まっすぐ凝視してくる視線に、英二は泣きそうに笑った。
「……オチビ」
脳裏に鮮明に映る華奢な姿と、光景がダブル。
まだまだねと告げ、まっすぐ走っていった後ろ姿。あの時、とっくに終わっていた関係。
リョーマは未練の欠片も残してはいない。
「俺はあの人と、世界を見るから」
今は居ない桃城への告白。一生告げてやる気はなかった。
見返りもなく差し出されていた腕の持ち主だ。今更言葉など邪魔なだけだろう。
けれどこうして、誰かに告げて置きたかったのだ。誓いのように。狡いやり方だとは百も承知している。
「菊丸先輩、忘れてるかもしれないけど」
世界を見るなら、桃城と見たいと、いつから願っただろうか?
揺るぎなく、半歩後ろに立つ強さを秘めているあの男と共に。それでも、変わった関係でも、遠のいた距離でも、変わらないものは存在し続ける。それは英二が願い、求めた形とは幾重も違ったものではあったけれど。
「菊丸先輩が俺の先輩だって事は、変わりないんスよ」
愛とか恋とか、好きとか嫌いとか。そんな言葉など不必要に変わりのない立場。角度によって見え方は違えど、明確に見える、近しい距離。
「それはさ、永遠に変わりないんだから」
それだけは変わらない、永遠の距離。
近くもならない変わりに、遠のく事もない。
□
リビングの時計が午前2時半を告げた時だった。
「俺さ、帰るよ」
「泊まっていっても、構わないっスよ」
「オチビ、少し自覚しなよ」
「自覚してます」
「桃、報われないなぁ」
英二の科白に、リョーマは小さい笑みを漏らした。
「コレさ」
差し出した金の鍵。リョーマに内緒でこっそり作った合鍵。
「持ってて、いいっスよ」
「オチビやっぱ自覚ないじゃん」
「莫迦だね、菊丸先輩」
楽しげに笑う顔に、英二は起こる気力もなかった。
こうして帰る決心をして、それでも衝動的に、抱き締めたくなる。
「合鍵ってね、内側に入ってこられる人間の数だけ、用意されてるんスよ」
「オチビ……」
意図的でもなければ、計算でもないリョーマの科白は、天性の人タラシの要素ばっちりだと、英二は泣き笑いに笑った。
「嫌なら、俺はとっくに鍵なんて変えてますよ」
「そっか」
「そうっス」
「俺もさ、精々頑張るから」
「大丈夫っスよ。誰だって、自分の為に生きてるんスから」
桃城と世界を見たいと願っても、結局それは自分の為だ。
所詮人は自分の為にしか生きられないようにできている。
綺麗で醜い小さい願い。歪んで大きく捩じくれた綺麗な望み。誰もが単純に胸の内側に持っている。
「オチビはさ、やっぱ強くなったよ」
好き勝手に生きているけれど、そう認識し、言葉に出せる人間は、思う程多くはないだろう。ましてリョーマの年齢なら、尚更だ。
「桃先輩と世界見たいって程度には、弱くなりましたよ」
一人で見ると思っていた。隣で佇む誰かと見るとは思ってはいなかったし、願った事もない。けれど今は心底から願う。
孤独の意味を理解した時から、始まった孤独。前に進む為に歩き出した道の険しさ。孤独を感じても、それでも淋しく凍えないのは、互いに孤独の中に生きている存在を知っているからだ。
依存するのでもなく、寄り掛かるのでもなく。支えあえる相手でありたい。今はそう願う。
「おやすみ、オチビ」
手にした扉を小さく開いて一歩を踏み出し、最後に振り返る。また明日も会うかのように、別れを告げて。
「おやすみ、菊丸先輩」
ゆっくり遠のく背を眺め、リョーマは反対だなと肩を竦めた。芽吹く緑の木漏れ日の中。英二に背を向けたのはリョーマの方だ。けれど今は英二がリョーマに背を見せている。
もしかしたら、もう二度と、会う事はないのかもしれない。それでも、永遠に変わりない距離は存在し続けていると言う事を、英二には忘れてほしくはないと思った。
数回の携帯コールで通話に切り換えれば、何処か凍えた桃城の声が、耳に心地好く響いた。
「莫迦だね」
雑踏の中に消えていった背。微塵も躊躇いなく消えて見せたくせに、いつだってこうして側に居る。
『越前、お前なぁ』
「今何処に居るの?」
『当ててみろよ』
「莫迦」
呆れて薄く笑うと、リョーマは切り取られた窓を威勢良く開き、眼下を見下ろした。
眠りを知らない不夜城も、流石にこの時間帯では闇の中に埋没し、浅い眠りを貪り始めている。
蒼い天には輝く石の球体。見下ろした眼下には、豆粒程の小ささで、けれど見間違えようもなく、見慣れた桃城が立っていた。
「俺に一人寝させたくなかったら、さっさと上がってきなよね」
笑うと、リョーマは携帯を切った。
弱さも強さも共に支えて、世界を見るのだ、二人で。
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