姫始め










 結局、キッチンでの行為を含め、一体何回達したのか、リョーマにも判らなかった。ただどうにも気怠いでは済まない下肢の感覚のなさに、リョーマは眉間に皺を刻み付ける。
「俺は、だから最初に言っただろ?」
 腕の中、リョーマがおとなしくしているのは、決して情後の余韻に浸るというムードではない事を感じ取って、桃城は苦笑する。それでも薄く細い肩は、抗い一つ無く桃城の腕の中に収まっている。それが倖せで、少しだけ可笑しいと、桃城はやはり柔らかい鷹揚な微苦笑を刻み付けた。
「硝子ケースに入れたい程大事な人間、此処まで酷使しないね、普通」
 それでも口調程に抗わないのは、桃城の腕の中が、居心地の良い場所だと、リョーマの意識より何より、躯が覚えてしまっているから、逃げる事もできなかった。たとえ此処で、『こんな悪党から逃げ出してやる』と足掻いた所で、無駄な徒労に終わるだろう。所詮下肢が動かない。それ以前に、意思の伝達を、肉体は簡単に無視を決め込む事は、嫌と言う程判っている。
「ましてテーブルの上なんて。躯痛くて、あんた本当にサイテー」 
 上目で睥睨した所で、情後の熱が失せてもいない眼差しで眇めてみた所で、桃城には効き目など何一つありはしない。
「欲しいのはお互い様、なんだろ?」
 サラリと、濡れた前髪を梳き上げる。幾度幼い肉体を開いたのか、実の所、桃城にも回数的な記憶はひどく曖昧になっている。判っているのは、酷使した事実だけだった。
 テーブルで求め合い、ベッドに移動しどれ程睦んだのか、リョーマ自身にも記憶は皆無だ。
それから流石に精液で全身を濡らしているリョーマを放置できる筈もなく、桃城はごねるリョーマを抱き抱え手早くシャワーを浴び、戻ってきたのがつい先刻だ。汚れたシーツは洗濯機に放り込み、自動設定で勝手に洗濯されてくるだろう。
「俺、明日あの場所で食事しないっスからね」
 散々喘がされたテーブルの上で食事が出来る程、リョーマの神経は流石に太くはなかったらしい。
「それに、明日行かないから」
「オイオイ」
 幾分眠そうになってきた声に、桃城は慌ててリョーマを覗き込めば、無防備になっている姿は、年相応に幼い表情を覗かせていた。
「躯痛いし、歩くの無理」
「だから言っただろ」
「それでも、結局する事してたら、同罪でしょ」
 小さい欠伸を一つ漏らすと、リョーマはゴソゴソ桃城の腕の中で小さく身動いだ。どうやら眠るのによい場所を確保する為に、桃城の胸元に頭を凭れて移動しているらしかった。
「お前〜〜」
「精々、菊丸先輩のオモチャになってきて下さい」
 桃城同様、気安い笑顔の英二が、意図的の計算ずくで、悪戯を仕掛けてくると言ったのは、桃城の方だ。リョーマにしてみれば、精々遊ばれてこいという気分だった。
「あんた大体、今まで付き合ってきた女とも、あんな無理してたわけ?」
 コテンと擬音を響かせ、リョーマの小さい頭が桃城の胸板に凭れ交睫する。そうしていると、急速に眠気が襲って来る気がした。実際、泥沼に漬かり込む程の心地好さが全身を支配している現状では、睡魔を払う気力など、リョーマには当然ない。
「っんな事あるか。お前だからだよ」
 既に半分睡魔に身を委ねてしまったリョーマを察し、桃城は柔らかく口端に笑みを刻んだ。
「フーン……俺…だから…なんだ…」
 徐々に声が途切れて行く。ひどく眠そうな声だった。
「お前、だからだよ」
 遠のく意識に、多少でも届いているだろうかと、桃城は繰り返しリョーマの髪を梳いている。それはリョーマにとっても、今更咎めても改まらない、桃城の癖になってしまった仕草の一つだ。
 子供扱いをされていると腹を立てる事もある反面。随分心地好いものを与えても貰うから、リョーマは今では無言に付している。
 だから今のリョーマの表情は、首を撫でられ喉を鳴らし、心地好さげに眼を細めるネコそのものだ。それがまたリョーマの愛猫のカルピンを連想させるから、尚更桃城には可笑しかった。やはりペットは買い主に似るというのは、定説ではなく、真実なのかもしれない。
「硝子ケースに入れたい程、大事な俺に…よくそんな事…」
「だから、お前だからだって」
「姫始めなんて…」
 もう二度としないと、寝息交じりの子供じみた声が漏れた。もう半分以上、意識は睡魔に吸い込まれている。随分無理をさせた自覚の有る桃城だから、その眠りを妨げようとは思わなかった。尤も、今までも、桃城がリョーマの眠りを妨げた事など、一度もない。それは昼休み屋上で寝る時も同様だ。
「お前なんて、本当」
「……何……?」
「大事にしてもし足りない」
 吐息で吐き出すような声に、リョーマはクスクス笑う。
声というより吐息まじりの音に近い言葉に、その重みが判る気がした。
「無理と無茶しか…しないくせに…」
「いつか眼にいれちまいそうだよ」
「………判らないよ…」
 ああもうダメだなと、意識の向こうで睡魔が手招きしているのが、リョーマには見える気がした。睡魔に形など当然ありはしないが、眠気が何より優先される今のリョーマの状況では、言葉にするなら、きっとそんなものなのかもしれない。
「眼にいれても痛くないっての、通り越してるって事だよ」
 だから周囲に呆れられる程、桃城はリョーマに対して過保護だ。ましてそんな言葉を吐き出せてしまうから、始末に終えない。自覚のしている過保護程、タチの悪い事はない。
 リョーマの腕が言葉の代わりのように、桃城の肩に力なく触れた。桃城が覗き込めば、完全にリョーマは眠りの世界に入っている。
「ったく、可愛い顔して。こんな時だけは、年相応だよな」
 幾度となく見てきたリョーマの寝顔。その寝顔は、年相応のものを持っていて、意味もなく、桃城を何度と無く安堵させてきた。
 年不相応なリョーマのテニスが、傷付けられてきた結果、磨かれ形にされたものだと判っているから、せめて眠りの時程度、年相応の顔をしていてほしいと願う桃城の願いを、リョーマは其処まで知らないだろう。
 ただ笑っていてほしいわけではない桃城の願いの深さや在処。それでも、桃城は知らなくていいと思っていた。もう大抵の手の内は、リョーマに見抜かれてしまっているから、リョーマの知らない願いの一つ程度、持っていたいのかもしれない。
「俺はお前と、明日を見ていくよ」
 See you tomorrowと告げたリョーマの吐露を、判らない桃城ではない。その言葉に隠された願いを、気付かない桃城ではなかったから、先刻の痛々しさに塗れた自分を呼ぶ声に、胸が痛んだ。
「お前…」
 あんな風に、呼んでいるのだろうか?誰も居ない場所で。
情欲より何よりも、痛々しいものばかりを滲ませて。触れれば崩れてしまいそうな、強度の一つもない気配を宿して。その身の内側に刻み付けるかのように。
 見知らぬ誰かの痛みなど知りようもないし、知りたいとも思わないが、リョーマが自分の知らない場所で、痛みを抱いているのだとしたら堪えられない。それでも、リョーマの迷いの意味を知っているから、桃城は安易に腕を差し出す事はできなかった。それはリョーマが自ら見つ出す事でしか晴れない迷いで、答えだからだ。
「その程度の努力は惜しまないって、お前はいつになったら信じてくれんだろうな?」
 力の抜けきっている指先を掬い上げても、リョーマは起きる気配一つ見せない。完全に熟睡している。その幼い無防備な寝顔に、桃城は救われる気がした。
「俺を、枷にはするなよ」
 綺麗な生き物の内側の極一部が、ひどく脆弱で、だから時折痛々しいまでの気配を滲ませる事を、桃城は知っている。
 強度など何一つないくせに、冷ややかな熱を灯す切っ先のような双眸が、リョーマを構成する要素の中、その姿を一番綺麗に見せているし、華奢な姿態を覆す程、脆弱には見せない。
けれど、桃城だけが知る局所的なリョーマのひどく弱い部分は、崩れてしまいそうな、透明な静謐感に満たされている。それが時折痛々しい影となって、桃城の前に出現する。
 切羽詰まったかのような眼差しをしている時がある。そんな自覚は当然リョーマにはないのだろう。けれどまるで追われるかのような眼差しをして、迷いを顕にしている事がある。確かに、世界を目指すのなら、選択は早い方がよいのだろう。
 以前のリョーマなら、迷わなかった筈だ。その迷いの原因が自分なのだとしたら、それはリョーマにとっての枷と同じだ。 思考領域を限定してしまうような枷になど、なるつもりつはなかった。枷になるくらいなら、この手を離す事など簡単な筈だった。それでも。
「足掻いてみようって程度には、もうお前を失えないよ、俺は」
 可能性の欠片でも有るのなら。失うより余程簡単な筈だ、足掻く程度の事は。足掻く事で願いが叶うのなら。居もしないダレかに頼むより余程、堅実だろう。
 願う事は簡単な事だ。けれど叶える為に努力する事は難しい。その困難を乗り越えなければ、到底願いなど成就されない。
 そんな程度の事は、判っていた。誰に指摘されるまでもなく。桃城には判っている事だった。
「See you tomorrow」
 無垢な無防備さを曝けだして熟睡しているリョーマの、乱れた前髪を梳き上げると、桃城は白すぎる額に口唇を落とした。