| 一人歩く道 |
「オーイ、越前〜〜起きろよ」 聞き慣れた桃城の声に、漸く寝ぼけていた思考回路がつながるように、リョーマはケットの中でモソモソ動き出した。 「っはよっス」 窓ガラスを開け、眼下に呆れ顔で佇む桃城に、リョーマは一応挨拶すると、帰って来る言葉もいつも同じだ。 「ったく、お前は。早く降りて来いよ」 リョーマの寝起きの悪さは、一緒に過ごす朝の回数が増えれば増えるだけ判る。目覚まし程度で、起きる程、リョーマの寝起きは良くはない。何せ自分の前で、『煩い』と目覚まし時計をフローリングの床に投げ付けた事も有る程だ。そして理不尽にも、起さなかった自分が悪いと、桃城は青い目覚まし時計を買わされたから、リョーマの寝起きの悪さなど、今更だった。 「ウィ〜〜ス」 未だ半分寝ている声で、リョーマは告げると、窓を閉めた。 実はあの呆れた顔が見たくて、起きない部分も有るのだと、きっと桃城は知らないだろうと思えば、簡単に起きてなどやらないと思うリョーマだった。 「毎回お前は本当に」 「煩いっスよ、桃先輩」 玄関を飛び出せば、門の前で自転車に跨がっている桃城の呆れた声に出迎えられ、リョーマは威勢良く反動を付け、後部に飛び乗った。 「オイ〜〜〜いきなり乗るな」 華奢な身が、重力抵抗など無視した動作で、綺麗にストンと桃城の背後に収まった。 「だらしないね」 「お前なぁ〜〜いつもこうして迎えに来てくれる優しい先輩に向かって」 「フーン、先輩なんだ」 桃城の言葉尻を掴み意味深に笑えば、桃城の苦笑が、背後からで判った。 ゆっくりと漕ぎ出すペダル。それは徐々にスピードを増し、周囲の景色がゆっくりと流れていく。 自転車に跨がり桃城を見下ろせば、桃城の視線の先には、一体何が見えているのかと思えた。 いつもいつも、莫迦みたいに慎重に自分を扱う桃城は、半歩後ろの距離から、一体何を見ているのだろうか?こうして桃城の背後に立っても、同じものなどきっと見えない。 判る事と言えば、続く遠い空がとても綺麗で、朝の凛とした気配は心地好い、その程度だ。 いつもいつも、こうして自転車一つ漕ぐ時でさえ、慎重にペダルを踏んでいるその慎重さに、 「あんたって、本当タラシ」 「何だよ急に」 「別に」 こうして、いつまで居られるのか、悩んでも仕方ないのかもしれない。けれど、もう自分は十分に、この悪党を失う怖さを知ってしまったから、考えずにはいられない。 遠く続く綺麗な蒼。こんな光景を、いつまでも一緒に見ていたい。そんな下らない感傷が、リョーマの胸を過ぎって行った。 ”ピピピピピ…………” 無機質な電子音に、リョーマは覚醒を促されて行く。 バチンと、桃城に理不尽を言って買って貰った青い目覚まし時計をパチンと叩くと、ムクリと起き上がる。 「ホァラ〜〜」 目覚ましの音で目が覚めてしまったのだろうカルピンが、何処か寝ぼけた鳴き声で、リョーマの元に飛び乗ってくる。 「カルピン、重いよ」 トサッと胸に飛び込んできた愛猫を受け止め、リョーマは少しだけ憮然とした。 目覚ましの時刻は、未だ一時間早い起床時間でセットされてしまっていた。習い性で何も考える事なく無意識にセットしてしまった起床時間は、桃城と過ごした時間を思い出させる。 そんな時だ、外で自転車の急ブレーキの音がするのに、リョーマは慌てて飛び起き、窓を開けた。 「桃先輩ッ!」 叫んで、叫んだ次には、苦笑する。 有り得ない事だ。桃城は今はアメリカだ。たとえ見送りにいかなくても、彼はちゃんと旅立って行った。流れて行く雲に紛れて飛ぶ鉄の塊に、桃城が乗っている確証など何処にもなかったが、テニススクールのコートから、頭上を飛び行く飛行機を見送った。 未来の為に別れて行く別離に、感傷的な見送りなど必要ないと思えたから、桃城はリョーマに見送りを求めた事もなければ、リョーマは見送るとも言わなかった。 何とも二人らしい態度に、周囲は呆れと同時に、それだけ真剣なのだろう姿に、彼等の強靭さを思い知った。 「まだまだだね」 少しだけ落胆した表情は、無自覚なのだろう。リョーマは苦笑すると、空を見上げた。 遠く続く綺麗な蒼。この空は、世界の何処へも続いているから、きっとアメリカで、桃城もこの空を見上げているだろう。そんな下らない感傷が、胸を過ぎり、リョーマはゆっくり窓を閉めた。 「ホァラ〜〜?」 飛び起きたリョーマに、不思議そうに足下でカルピンが鳴くのに、リョーマは小さい温もりを抱き上げ、 「パパ居ないと、淋しい?」 自分でも呆れる科白を吐き出し、リョーマは更に笑った。 何かに付け、親子の構図だと南次郎が笑うから、つい可笑しい科白が口を付いたのかもしれない。 『本当、素っ気ないな』 苦笑を孕んで穏やかに呟かれた声に、リョーマはヒラヒラ手を振って別れていたのは、関係が始まった当初だけだった。 その素っ気なさの意味を、桃城は随分早い時期に読みとって、以来、言われた事はない。素っ気なくしていたのは、そうしなければ、離れたくなくなるからだと、桃城が気付いたのは早かった。流石青学一の曲者だ。 「それでも、簡単に俺を置いて行くんだから」 理不尽な科白だとは判っている。一年の落差に歯噛みするのは、決まってこういう時だ。 「本当、悪党」 クローゼットに掛ける事はく、壁に吊してある桃城の学ランに、リョーマは悪態を吐き出した。 「すみません」 不意に掛けられた声に、リョーマは脚を止める。 「テニスコートは、何処ですか?」 早く咲いた桜は、入学式まで持つ事はなく、新入生は葉桜に迎えられた。それでも、名門と言われる青学に入学した事に、何一つの変わりはない。 何処かで交じわした覚えの有る会話に、リョーマはまじまじと新入生を眺めた。 「あの……?」 新入生は、リョーマの澄んだ瞳に凝視され、気後れしたのか少しだけ後ずさる。 「テニスコートは、あっち」 三年前の春、こうして桃城に嘘を付かれた会話に、リョーマは無自覚に笑った。 「ありがとうございました」 一礼して走り出した小さい姿に、リョーマは過去の自分を重ねて笑う。 小さい姿。相反し揺れる大きいテニスバッグ。自分もああだったのだろうか? リョーマはもう青学のジャージを着る事はない。けれど放課後テニススクールに直行するから、今でも愛用しているのはテニスバックで、スクールバッグなど持った事はなかった。だから今の一年生も、間違えたのだろう。 「ねぇ、桃先輩?」 追いつくから。そして追い越すから。再会する時、互いに誇れる自分で在りたい。そう願い、一時の別れを選んだ。だから誇れる努力を、怠るつもりはなかった。 「あんた今何してる?」 問えば『テニスしかないだろ』そんな答えが聞こえそうで、リョーマは笑うと、歩き出した。 全ては此処から、この場所から始まっていた。今なら、そう思えた。 |