いつか誰かまた求めるはず
愛されるはず
そうなったら倖せでいて。
貴方だけは、倖せでいて。




















最後の願い









 桃城の悲しみなど素知らぬ顔で、リョーマの瞳と良く似た空は、綺麗で夢のような遠い蒼をしていた。
 穏やかな小春日和の中。例年より開花の早かった桜が一斉に花開き、周囲は宛ら煙景を描き出している。
 闇の中で見れば、春の朧夜を照らし出す、真白い月のように見えるソレは、陽射しの中にハラハラ慢舞する様は、何処か雪のような儚かさを醸し出している。けれどそれはよくよく見れば雪のような白さはなく、淡い紅が陽射しに透けて見えた。けれどその儚さは何処か雪と酷似し、手に触れればスゥと溶けて行きそうな感覚を呼び起こさせる。
 其処に在るだけで、たとえようもなく美しいもの。淡い陽射に、時間さえ刻む速度を狂わせてしまう穏やかさが、其処には在った。きっとそんな穏やかな光景が、人々に郷愁を思い起こさせ、一時の感傷を呼び起こすのかもしれない。
 もしも、本当にこの桜の下で時間の刻みが遅れるのなら、リョーマはこんなに早く逝く事はなかった筈だと、桃城は桜の下にひっそり作られた、黒い御影石を凝視していた。
 サラサラと流れるように、淡い薄紅の花片が、墓標に降って行く。名残の雪の感触さえ抱かせるそれは、音もなく風に浚われ、桃城の視界を埋めて行った。
「越前………」
 陽射に透ける淡い紅の花片。黒い御影石で作られた墓標に降るそれを見詰め、桃城は、噛み締めるように、リョーマの名を呟いた。
「越前…」
 幾度繰り返したかもう判らない大切な名前を、桃城は繰り言のように繰り返す。
 死んだら何一つ遺こしたくはないと、生前から言い募っていたと言うリョーマの遺骨は、此処にはない。肉も血も、綺麗に火葬され遺こされた白い骨は、リョーマの遺言により、海へと散骨されている。それでも、遺こされた者には縋るべきカタチは必要な事も、リョーマの父親である南次郎はとてもよく理解していて、こうして預かる境内の、テニスコートの良く見える、桜に守られた場所に、小さい墓石を作っていた。
 古来から桜は鬼が好むとも言われる神木だ。その桜に、リョーマの墓は守られている。
それでも、其処に魂はない。それはただのカタチを成す抜け殻に等しい、入れ物に過ぎないだろう。


『桃先輩』

 不意に桃城の耳元で、大切な存在の声が聞こえた気がして、桃城は慌てて周囲を見渡した。けれど其処に当然リョーマの姿が在る筈はなかった。


『ぁんっ……桃先輩…もっとぉ…犯してよ…深く…』

 小生意気な声と科白が愛しかった。誰にも見せない秘めたる貌を見せてくれた幼い姿。
腕の中、急速に情欲に混融していく淫らな貌。そのくせに、何度抱いても誰の手垢も付いていない気分にさせられて、だから夢中で穢がす事に没頭していた行為だったようにも思える。その都度リョーマは呆れて笑っていた。


『俺のこんな姿知ってるの、桃先輩だけなのに。綺麗なものなんて本当はなんにもない俺の醜い部分ばっか、あんた欲しがるよね?もっと綺麗な部分を、欲しがれば救われるのに。
それでも、未だ足りない?』



 開かせた下肢の間に顔を埋めれば、リョーマは隠す事なく有られない嬌声を上げ、絶頂に達した。曝け出された姿こそ、リョーマの何よりの表現だと、気付かない訳ではなかった。
それでも、幾度抱いても足りない気がして、ガキの恋愛に夢中になった。


『綺麗な冗談でしょ?だからこれは、嘘、なんだよ』

 初夏に訪れた夏の海。水平線の彼方を見詰め歩いた海辺。砂浜に刻まれた互いの足跡に笑った。あの時既にリョーマは、何かを悟っていたのだろうか?桃城には判らなかった。


『俺は、上に行くよ』

 凛とした声と姿。決して揺るがない、冷ややかな眼差し。
リョーマは何処まで、自分の行く末というものを、判っていたのだろうか?自分は何一つ気付いてやる事はできなかったと言うのに。安易な日常に埋没し、告げられた言葉の意味一つ、汲み取る事はできなかった。


『お前、今欲しいものって何だ?』

『欲しいもの?』


 週刊誌に乗っていた下らない心理テストを求め、口にした科白に返された言葉は、意味不明なものばかりだった。
 あの時、告げられた答えの意味に、もっとちゃんと気付いていれば。
「気付いていれば……」
 どうしたと言うのだろうか?こうして後悔ばかりを抱く事はなく、それが免罪符にでもできたと、言うつもりなのだろうか?己の下らない後悔に、桃城は自嘲する。


『ハサミ』

『………?何だよそりゃ?お前ハサミ持ってるだろ?』


 穏やかに晴れた日曜日。珍しくもテニスをする事なく、ただ閑舒に過ごした時間。それは、リョーマの部屋で過ごした時の記憶だ。
 リョーマの愛猫のカルピンを膝に抱き、戯れ、リョーマはベッドに寝転がり、有り触れた日常で交わした言葉だ。

『ただのハサミじゃないよ』

『何だよ?何か新製品でたか?』

『モイラのハサミ』

『何だそれ?何処のメーカーだよ』

『あんた本当、この分野、苦手だね』


 タラシの詐欺師のくせに、そんな小生意気な科白さえ、愛しかった。愛しくて、その言葉に隠された背後の意味など、何一つ、読み取ってやる事はできなかった。


『モイラの、アトロポスのハサミ』
          
 その意味を知ったのは、自宅に帰ってからの事だ。 
運命の三女神の一人。寿命を司る女神の持つハサミ。その意味を知った時ですら、一体どうしてリョーマがそんなものを欲しがったのか、判らずにいたし、考えもしなかった。それはきっとリョーマなりの、答えだったのだ。先のない時間に対しての、不安や何もかもを抱き込んだ。それなのに、何一つ気付いてやる事はできなかった後悔が、桃城の心臓と胃の腑の狭間に、冷たい氷の塊でも抱かされたように、冷たく凝って根を生やしている。
 気付いたからと言って、現代の医学でも治せないものを、どうこうできる術など、桃城には当然ない。それは遺こされた者が抱く痛みで、後悔だ。実際、他人が誰かに何かをしてやれる事は、思う程有る訳ではない。むしろそんなものは、ゼロに等しいだろう。
「俺は本当に、何一つ、気付いてやれなかったんだな。お前、幾らでも語ってたのに」
 御影石の墓標に腕を伸ばし、壊れ物を扱う丁重さで、桃城は触れた。少しだけヒヤリと冷たい感触を指にもたらすその温度は、何処かリョーマの素肌と似ている気がしたし、何一つ似ていない気がした。
 リョーマは此処には居ない。今カタチをなしているものは、此処に在るだけの抜け殻で、魂の入れ物ですらない。
「何処に行けば、お前に逢える?」
 ゆっくりと、墓標を撫でて行くる節の有る長い指。
魂の存在しない無機質な抜け殻。何処に行けば逢えるのかと、フト思う。


『桃先輩、本当に、莫迦』

 それはもう幾度となく聞き慣れた、リョーマの声で言葉だった。
 冷ややかに熱する熱さを閉じ込めた眼差し。リョーマをリョーマとして構成する要素の中。
もっとも綺麗にリョーマを映す色素の薄い綺麗な蒼眸。それはどうやら母方の遺伝らしいが、リョーマはさした興味などないらしく、特殊な遺伝形態を持つ瞳の色を、さして気にしてはいなかった。
 判っている事と言えば、まるで晴れ渡った秋の空のように、綺麗で遠い色をしている。それだけだ。
 それこそリョーマに言わせれば、テニスをするのに瞳の色など、伸長程にも気にもならない。そう言う事だった。
「何処に行けば、お前に逢える?」
 触れた冷たい墓標。怺える術なく、零れ出した涙で滲む視界には、薄紅の花片さえ、儚い雪に見えた。
 触れれば溶けて行く淡さと儚さ。そのくせに、夜には凛然と咲き誇る月の花。その二面性が、桃城にリョーマの二面性を思い起こさせた。
 昼間は小生意気な態度のくせに、夜の闇の中抱く幼い姿は、これ以上ない程妖冶で淫らな貌を持っていた。


『娼婦も処女も大好きなくせに』

 一歩も引かないテニス同様、情事の最中でも挑発を止めないリョーマに、何度脱力したか判らない。

『堕ちた娼婦こそ、高貴なんだって知ってる?』

 闇に浮かぶ、白すぎる裸体。

『俺を、堕とす気、ない?』

 酷薄な口唇に、姚冶な気配を滲ませ、ねだるように伸びてきた腕の細さと白さ。とても昼間の小生意気な部分からは、想像も出来ないリョーマの夜の表情だった。
 一体何処に行けば、リョーマに逢えるのだろうか?滲む視界に墓標を凝視すれば、リョーマの声が聞える気がした。

『俺は、此処にいるから……いるから…』

 だからあんたは、自分の道を、ちゃんと歩いて行って。


 途切れたリョーマの科白の先に続く言葉を、判りたくはないと、桃城は華奢な躯を抱き締めた。抱き締めれば、元々華奢だった躯が、薄さを増している実感までできて、泣き出したい程だった。
 それでも、泣く事など出来ないと、ただリョーマを抱き締めていた。抱き締めていなければ、すぐに喪失してしまいそうで、怖かったのかもしれない。そんな桃城に、リョーマが言う言葉も決まっていた。

『あんた…本当に莫迦だね…』

 吐息で囁かれるように小さい声。少しだけ慄えていたソレ。

『桃先輩は、俺の事なんて忘れて、笑って生きて』

 まるで繰り言のように、リョーマはそんな言葉ばかりを、言っていた。




「何でたよ……」
 触れた指先に伝わる少しだけ冷ややかな感触。咲き乱れる桜の下で、桃城は声を押し殺して泣いていた。
「どうして……ッ」
 どうして、彼でなくてはならなかったのだろうか?自問自答してみた所で、桃城の内部で、答えなど出る筈もない。
 リョーマの行方が忽然と消え、その理由を知った時から、それは桃城が幾度となく、自問自答繰り返してきた言葉だ。それこそ繰り言のように、繰り返してきた。
 どうして、自分ではなかったのだろうか?
どうして、これから世界へと羽ばたいて行く筈のリョーマでなくては、いけなかったのだろう?


『神様?』

『そんな都合のいい人、一体何処に居るんです?』

『神と悪魔の違いに、どれ程の落差が有ると思います?神は救済により信仰を得る。悪魔は利害により契約を結ぶ。その差程度ですよ。無償のものなんて、本当は何処にもないんです』


 それさえ、先進国の人間の傲慢な発言だと理解していたリョーマの科白だ。信仰に縋るしか術のない国の方が、世界には圧倒的に多いのだ。死を繰り返し近付く神の顔が有るとするのなら、それは一体どういう形をとるのだろうか?


『だから、あんたは、俺の事はちゃんと忘れて』

 罪悪も負い目も何もかも、負う事はないのだと。でなければ、もう此処に面会には来るなとまで言われた。その強靭さは、一体何処から生まれて来ると言うのだろうか?

『あんたの事さえ、いつ判らなくなるか、判らないのに?』

 泣き出しそうに笑った笑みに、ただ抱き締めてやる事しかできなかった。後悔なんて言う言葉は、免罪符にもなりはしない事を、桃城は嫌と言う程、痛感した。

『覚えているから。忘れても、ちゃんとちゃんと、覚えているから』

 記憶なんて、きっとそんなもんだよ?
泣きながら笑った痛々しい笑み。忘れたと思っても、思い出せなくても、大切なものはちゃんと心の一番深い部分に、しまわれている筈だから。

『だから桃先輩は、ちゃんと俺の事は、忘れて生きて……』

 リョーマはそう笑って、笑って泣いた。





「越前…越前……越前…………」
 莫迦みたいに、その名前ばかりを繰り返す。気付けばその名を呼び続け、一晩過ぎてしまった事も、今では珍しくはなくなっている。一晩中、床に座り込んで、ただその名前を繰り返して。返される筈のない名前を莫迦みたいに繰り返す。
 それは何処か修復作業に似ているのかもしれない。名前を呼ぶ事で、桃城の内側の何処かが、安定を保っているのだろう。
「越前……越前…」 
 冷ややかな墓標に、桃城はギリッと爪を立てた。それはまるで、必死になって、ナニかに堪えている姿だった。
 リョーマが何より綺麗に回帰される場所。それは先へ行けば行く程、切っ先さながら細く険しくなる戦場のような道だ。けれどリョーマはその道を歩く事を決めていた。
 頭を垂れないその姿は、まさしく眠れる獅子だった。
綺麗な細い指先に隠されていた鉄爪の在処。その鉄爪を躊躇いなく降り下ろす場所こそ、リョーマの回帰されるべき場所だったと言うのに。
 研ぎ澄まされた切っ先の双眸が、何より綺麗な深みを増す場所。リョーマをリョーマとして立たせる場所は、コート以外には有り得なかった筈だ。


『桃先輩』

 訪れる都度、変化していった声。

『桃せんぱい』

 徐々に幼い舌足らずなものに変化して。それはやがて、加速度を付け、急速に変化していった。

『ももせんぱい』

 それでも、最後まで。リョーマが覚えていた名前は、その名前なのだと、葬儀の時南次郎から聞かされた。
 繰り言のように、リョーマが覚え、繰り返していた名前。その一瞬だけ、表情を見せていた幼い貌。






「よぉ、青少年」
 掛けられた声に桃城が顔を上げれば、其処には相変わらず飄々とした態を崩さない、南次郎が立っていた。その飄々さから、彼の内側を推し量る事は簡単な事ではなかったが、此処数日で、随分憔悴しきっている南次郎の姿が、その内側を少しだけ桃城に伝えていた。
 南次郎が、悲しくない筈はないだろう。大切に育てた一人息子が、親の自分達より先に、永久に喪失なわれてしまったのだから。南次郎達の悲しみに比べれば、自分の悲しみなど足許にも及ばないだろう事を、桃城は判っている。
「なんてぇ顔してんだ」
 桜の樹の下に作られた小さい墓標。魂の入らない抜け殻の前には、連日訪れるリョーマの友人達が、色とりどりの花束を添えていく。そして、誰もが早すぎた死に、泣いて帰って行く。
 葬儀から2週間。南次郎から見ても、桃城は随分印象が様変わりする程だった。明るい笑顔が盾と変わらぬ作為的な部分だと判ってはいたが、その盾は、今ではもう何一つの効力は持たないだろう。それ程、桃城は憔悴しきっている。
 今の桃城から、明るいものなど何一つ滲んでいる事はなく、面差しが様変わりする程殺げた頬は鋭角になり、何処か近寄りがたい雰囲気を滲ませている。
「お前がそんな顔してんの、あいつが一番心配するって、判ってんだろうに」
 アメリカに居た当時には、見る事の少なくなっていたリョーマの笑顔。けれど日本に戻ってきてから、随分リョーマは表情を豊かにさせていた。
 ちょっと注意していれば、父親の南次郎には、すぐに気付いた事だ。リョーマが、桃城に感情を預けている事は。
 最初こそ、同性同士のその関係に、賛成しなかった南次郎は、けれどその関係を、当の桃城が誰より慎重に扱っているのを理解して、二人の関係は黙殺してきていた。
 もし最初に引き離していれば、桃城が此処まで疵を負う事はなかっただろうか?そう考えて、南次郎は自嘲する。簡単に引き離せる関係ではなかった事くらい、判っていた。リョーマが最後の最期まで覚えていた名前。最期のその瞬間まで、手放さなかった名。求めた存在は、桃城ただ一人だけだったのだから。


『ももせんぱい』

 他の何を忘れても、リョーマが最期まで忘れずに覚えていた言葉で名前だ。

『桃先輩…桃先輩…桃先輩…桃先輩………ッ!』


 光の差さない夜の闇に埋もれ、リョーマが気が触れたように、その名前だけを繰り返し泣いていた事を、南次郎は知っていた。
 床に蹲り、立てた膝の間に顔を伏せ、ただ繰り言のように繰り返していた名前で言葉。
たった一つ。リョーマの内側を守っていた者。
「生きて行くのに必要なもんって、案外少ないって、越前失って、判りましたよ」
 生きて行くのに本当に必要なもの。失えないのもの。墓場まで、持ち込んでいく程、大切なものは、案外少ないものなのだと、リョーマを失い、桃城は実感していた。
「ガキが何甘い事言ってやがる」
 リョーマは、決してそんな絶望を桃城に味あわせたかった訳ではない。だからこそ、姿を消す事を選んだのだ。それでも見付け出され、泣いた事を知っている。


『親父、あの人がもし……』

 託された言葉は、願いで祈りだった。

『あの人、本当に莫迦だから』

 生きていてほしいのだと、託されたもの。

『俺が、未だ俺でいられるうちにしか、言えないから』

 それがどれ程、強靭な覚悟が必要な言葉だったのか、南次郎は息子の強さに、その時は笑う事に成功したものの、影でどうにもならない運命に、泣くしかなかった。


『俺さ、こんな事、今じゃないと言えないけど。親父と母さんの子供で、倖せだったよ』


 『侍』と賛辞を送られた自分の名によって、リョーマがアメリカで散々傷付けられた事を南次郎は知っている。周囲から張り付けられたラベルやレッテルの多さに、居場所を失っていたリョーマの姿。

『知ってるからさ。俺の為の帰国だって』

 失われて行く居場所。失われて行く笑顔。どれもリョーマのマイナスにしかならないから、南次郎は帰国を決意した。テニスは楽しいものなのだと思い出してほしくて、リョーマの意志は無視して、恩師の居る青学に放り込んだ。





「お前が立ち直りそうになかったら、渡してくれって、頼まれてた」
 そう言って、南次郎が桃城の目の前に差し出したものは、数冊の日記帳と、古びたテニスボールだった。
「これ…?」
 差し出された数冊に渡る日記帳と、見覚えのあるテニスボールに、桃城は瞠然となる。
「枷だって、言ってたぞ」
 枷の言葉に込められた願いを、どうか読み取ってほしいと、南次郎は託されたものを桃城に手渡した。
「これ……」
 渡されたテニスボール。見覚えが有る筈だった。それは十年近く前、桃城がリョーマに手渡した代物だ。其処には、汚い字で、『ももしろたけし』と書かれている。
「あいつな、思い出したって、言ってたぞ」
 何処にしまったのか忘れてはいたが、棄てては居なかったテニスボールは、リョーマの幼い頃の日本での思い出と直結している筈だった。
 桃城と付き合う過程で思い出したと、リョーマは物置をひっくり返し、それを探し出していた。
けれど直接、その事を、桃城には告げてはいなかったのだと南次郎が知ったのは、その枷を託された時だ。
 書かれた名前は間違えようもなく、アメリカに渡るリョーマに、桃城が渡したものだった。
 幼稚園を卒業し、小学生になるその年に、リョーマは渡米した。幼稚園で一緒だった所為か、桃城は小学校に上がっても、何かとリョーマと遊んでいたから、リョーマが、下手をしたら二度と会えない場所に行ってしまうと判った時。桃城はリョーマにテニスボールを託したのだ。
 忘れないでほしいと、汚い字で名前を書いた。尤も、小学校に入学してから、行動範囲も交遊関係も広がった桃城は、そう大した時間も掛からずリョーマの事は忘れていたから、リョーマが桃城を忘れていても、それはお互い様だろう。けれど青学で再び出会った時。桃城は案外早い時期に、リョーマの事は思い出していた。
「裏、見てみろ」
 南次郎は顎でしゃくるように、桃城に告げる。桃城は汚い子供の字で掛かれ自分の名前とは反対側のボールの面を見て、瞠然となった。息を吸い込む音が、異様に聴覚を打った。
 ハラハラ舞う淡雪のような花片の中、時間が停止する。
「………越前………ッッ!」
 桃城の喉の奥から呻くように、リョーマの名前がし干り出されて行く。瞠然となった眼差しから、新たな涙が溢れて行く。



 世界へ




「越前………!」
 桃城の視界が、無自覚に流れる涙で滲んで行く。ポタリと、ボールで雫が跳ね、手元を濡らした。
「そいつを良く読んで、お前もいつまでも泣いてんなよ。リョーマは最期の最期まで、お前の事ばっか、心配してたんだからな」
 南次郎の言葉には、欠片の嘘も含まれてはいなかった。
リョーマは、遺こして行く桃城の事ばかりを心配していた。最期には何一つ覚えてはいなかったといのうに、それでも全力で何処かへ向かおうとさえしていた。
 一体何処へ行きたかったのだろうか?食事さえ摂る事を忘れた躯で。それでも、リョーマは点滴さえ引き抜いて、必死に何処かへと、向かおうとしていた。
 鎖骨下に挿れられていた特殊な点滴ルートを綺麗に引き抜き、血を流しながら、リョーマは必死に何処かに向かおうとしていた。ベッドから降りても立ち上がる事すらできない躯で、リノリウムの床の上を這いずって、回帰しようとした場所。
 一体何処に行こうとしていたのか?南次郎にはそれが嫌と言う程判っていた。
 幾分か幼くなった綺麗な貌を涙で濡らし、点滴を引き抜き、流れる血に塗れながら、まるで回帰しようとするかのように、何処かへと必死に向かおうとしていた姿が、南次郎の脳裏に、生々しく想起される。


『もも……せ…んぱ…い…もも…せんぱ…』

 辿々しい言葉が出せたあの時は、それこそ奇跡のようなものだったと言うのに。その言葉の意味さえ覚えてはいなかっただろうに。必死に絞り出すように紡がれた言葉。リョーマが遺こした言葉は、結局それが最期だった。



「越前…越前……どうして……」
 幾度となく繰り返してきた問い。けれどそれは決して、答えなど出る筈のない問いだった。
「あいつの事が本当に大事で大切なら、あいつがどうしたら喜ぶか、考えて生きてけ。あいつは、忘れてほしいって言ってたからな」
 忘れられていいと、泣き出しそうな表情をして言っていたリョーマの内心。自分は忘れてしまうのだからと、桃城だけ覚えて引き摺る事はないと、言っていたその強靭さは、一体何処から生まれてくるのか、南次郎にも判らなかった。判っている事と言えば、リョーマが真剣に桃城を想い、桃城が真剣にリョーマを愛していた。そんな程度の事ばかりだ。
「あいつが最期に託した言葉を、よく聴くんだな」
 リョーマが祈り願った枷。親である南次郎達にさえ、リョーマは何一つのものも、遺こしてはいなかった。
 それだけを言うと、南次郎は元来た道を戻って行く。
淡い花片が、頭上から風に流され、降って来る。南次郎は途中で背後を振り返り、息を飲んで、泣き笑いに笑った。
 陽射の中に舞う薄紅の欠片。噛み締めるように、手渡したものを愛しげに見詰めている桃城を抱き締める腕が見えた。
 フト、色素の薄い蒼い双眸と視線が合った。あった気がした。


『忘れて…忘れられていいから…』

 結局、最後の最期まで、意地っ張りだった。最後の最期まで、嘘付きだった。誰より、覚えていてほしかっただろうに。



「お前、本当に最後の最期まで、そいつの心配ばっかだな」
 泣き笑いに笑うと、南次郎は背を向けた。
春の穏やかな昼下がり。それは桜が見せた、綺麗な幻なのかもしれない。












 桃城は、南次郎から手渡された日記帳の表紙を、撫でようになぞって触れて行く。
表紙は、綺麗な青空の写真だった。木漏れ日と、切り取ったように浮かぶ蒼。夢のように遠くて美しい色は、リョーマの色素の薄い眼差しより、幾分か濃い色を映し出していた。
 3冊程渡された日記帳はどれもが同じもので、表紙を捲ったページの右下に、見慣れた文字が、小さくナンバーが掻かれているだけだった。
 桃城は、厚い表紙を、可笑しい程慎重に捲り、本分に続く前に挟み込まれている淡いブルーの色上質紙に書かれている文字に、瞠然となった。
「越前……」
 噛み締める声が、嗚咽に変わった。


 越前リョーマへ


 見慣れた文字で書かれた最初のページの意味が、桃城には痛い程良く判る。
過ぎて行く時間は、それはリョーマにとっては、日々命を削り出す事と同じで、それは記憶を、手放していく事と同義語だった。
 最初こそ極緩やかに描かれたカーブだった記憶障害は、過ぎて行く時間の中、加速度を付け、失われ始めて行った。


『桃先輩…桃先輩…』

 ただ一度だけ、縋るように抱き付いて来た細い躯。
怖くはい筈がない。記憶を失うと言う事は、結局自分の存在すら、失ってしまう事と大差ないだろう。
 今の医学ではどうにもならなかった。その中で日記を付け始めたリョーマだから、それは読む都度、書く都度、それがいつも新しい自分の可能性が在る事を、判っていたから、書いたのだろう。『越前リョーマへ』と。



「なんで…お前…こんな……こんなに……ッッ!」
 忘れない努力を、見えない部分でしていたのかと思えば、どうして最期の最期まで、ちゃんと付いていてやらなかったのか、学校など免罪符にしてしまったのか、リョーマの言葉に頷いて、日常を送っていたのか、桃城は腹が煮えた。
 もっと大人であったならと、桃城は思う。もっと大人であったなら、せめて最期の最期くらい、付いていてやれたのかもしれないのに。きっとリョーマは、誰より自分に最期を見送られ逝く事など、望まなかっただろうけれど。
「越前…」
 戻ってきてくれと、愚にもならない願いを掛ける。
「頼むから…頼むから越前……」
 カタチを成す為に其処に在る墓標。けれど其処にリョーマは居ない。どれ程泣き叫んでも、何一つ答えてはくれない。小生意気な声も。甘い吐息も。何もかも。
 散る花片。生命有るものは、いつか終焉を迎えるというかのように。死ぬ為に走り続けて行くスタートライン。生命の終着点は、まさしく『死』そのものだ。
 嫌な実感の仕方だと、フト思う。
リョーマが永久に喪失なわれてしまっても、変わらず日常は続いていて、遺こされた者は、行き続けていく。リアルな死は、リアルな生そのものなのだと、リョーマの日記が語って来る気がした。
 いつか、いつかと思う。この悲しみは、時間が癒してしまうのだろうか?覚えている事も出来ず。風化と言う形を成すのだろうか?何事もなかったかのように、笑える日が、きてしまうのだろうか?リョーマと言う綺麗な生き物を、過去のものにして。
 桃城の指が、ゆっくりページを捲っていく。カサついた紙の音が、少しだけ響いた。
 其処に書かれているのは、最初は見慣れたリョーマの文字だった。けれどそれは時間を追うごとに少しずつ乱れていった。


『桃先輩』

『桃先ぱい』

『桃せんぱい』

『ももせんぱい』

 時間を重ねるごとに、乱れていく文字と比例して、漢字が少なくなっている。確実に、字数の多いものが、平仮名になっていた。



「お前……」
 この日記を書き続け、一体リョーマは何を思っていただろうかと考えれば、胸が軋む。
 毎日毎日毎日毎日。書かれていた桃城の名前。桃城の名前だけが、途切れる寸前まで、書かれていた。一人ずつ、日記から名前が消え、最後の最後まで残った名前は、桃城の名前ばかりだ。最後の方になればなるだけ、リョーマの文字は、桃城の名前を覚えるかのように、それしか書かれてはいなかった。
 賢明に、必死に、きっと恐怖さえ抱きながら、リョーマは努力していたのだろう。足掻いてすら、望みなど抱けない病に、それでも最期まで抗って。
「ゴメンな…ゴメン…」
 涙で濡れた声が、繰り返される。
一体どれ程怖かっただろうか?確実に身を喰う病の淵。途切れて行く記憶。必死に繋ぎ止め様として、それでも、握った指の隙間から流れて行く砂のように、零れて行く記憶。
 怖くなかった筈など、決してなかったと言うのに。
日記帳は、3冊目の途中で終わっていた。其処までが、リョーマの文字を書ける、限界だったのだろう。
 桃城は、途中から白紙になっているページをパラパラと捲り、最後のページで手を止めた。
「……お前………」
 呻くように、声が漏れた。
三冊目の最後のページに書かれた文字は、病が始まった当初のものなのだろ。しっかりした文字で、書かれた言葉が残っていた。
 それは夫々に向けた言葉だった。父親の南次郎から始まり、母親、同居する従兄弟、愛猫のカルピン、青学テニス部の仲間達へ。そして。最後の最後に書かれていた言葉。



  桃先輩、ありがとう。
  
  いつか誰かまた求めるはず
  愛されるはず。
  そうなったら、倖せでいて。
  誰かを愛して、倖せに笑って、
  誰より何より、倖せに生きて。
           
  沢山の倖せをありがとう。
  俺は、倖せだったよ。



 そして最後のページに貼られていたのは、全国大会で優勝した時の集合写真だった。
仲間に囲まれ笑っているリョーマの笑顔が、其処には綺麗に写し出されていた。
「越前……」 
 写真の上で、雫が跳ねる。
 託された言葉。一体どれ程、深く愛されていたのかと思う。これ程強く思いを傾けられていた事も知らずに、最期の最期は傍に居る事もできなかった。
 桃城は暫く、その場で声殺して泣いていた。
リアルな死の延長線で認識するリアルな生。儚く脆い生命の輪廻。
 蹲るかのように泣く桃城の頭上に、薄紅の花片が、柔らかく降って行く。天に伸びる枝に、咲き誇る花。その花の間から、切り取ったように見え隠れする遠い蒼。
 ゆったりと流れていく日常の時間。遺こされた者は、生きていくのが義務なのだと、リョーマの日記に、語られた気がした。
 リョーマが最期の最期まで、祈る程深く、願ってくれたものを、読み違える桃城ではなかった。それが最初の最後の枷で願いなのだと。祈りや願いが遠いのだと知っている。けれど。
「判ったよ、越前」
 桃城は涙を拭うと顔を上げ、手の中に有るテニスボールを握り締めた。
 幼いリョーマが渡米すると知った時、手渡したボールは、彼の返信付きで手元に戻ってきた。
「俺は、世界へ行けると思うか?」
 綺麗で夢のような遠い蒼に、問い掛ける。


『あんたなら、大丈夫でしょ?最初から諦めるなんて、あんたらくしないっスよ』

 リョーマの声が、聞こえた気がした。



「そうだな…俺は、負けない」
 託された言葉。祈りより深い願い。
「俺は、生きていくから」
 白い紗のような雲が棚引く遠い蒼。とても綺麗で、リョーマの瞳を思い出させるソレ。
「お前、ソコに居るもんな?」
 果てなく続く綺麗な蒼の何処かから、きっとリョーマは見ていてくれるだろう。
 だったら自分は、その時リョーマと同じ場所に行った時。胸を張れるように、誇れるように生きていかなければならないと、桃城は高い空を見上げ、腕を伸ばした。



『桃先輩』

 綺麗な蒼い空からは、確かにリョーマの声が聞こえていた。



























ああ、俺ってば、やっぱもう限界だったんだな。
いつかお前の元に行った時。胸を張れるようにって、これでも随分頑張ったんだけどな。

お前が死んでから、俺留学したんだぜ?
其処でプロになって、手塚部長や、お前、覚えてるか?
氷帝の跡部さんもプロになってさ、試合して勝ったんだぜ?
スゲーだろ?

いつかさ、いつかお前の元に行った時。ちゃんとお前に誇れるように。
んじゃないと、お前に何言われるか判らないしさ。
これでも、俺にしたら、かなり頑張ったと思わねぇ?

プロになったその年に、聴いて驚け。ウィンブルドンに出場したんだぜ?スゲーだろ?
結果はまぁ最初からそうそう巧く行くもんじゃなかったけどよ。いい経験したって思えた。
そんで5年後には、手塚部長や、跡部さん破って、グランドスラム制覇したんだぜ?
俺それだけは、お前に自慢してやろって、思ってたんだぜ。

でなぁ、かなり頑張ったんだけどな。
やっぱもう限界だったらしいわ。お前が居ないって事に。

お前散々忘れろ忘れろ言ったけどな、結局お前忘れる事なんてできなくてさ。
違う人間愛する事も、結局できなかったよ。

お前忘れろってうるさいからさ、結婚とか考えた時期も有ったんだけどな。
親父さんなんて、見合い散々持ってきたりしてな。
でも結局、俺の根っこの部分には、越前リョーマっていう存在が張り付いてて、結婚なんてできなかったんだよな。

お前居なくてさ、俺随分頑張って生きたと思わねぇ?
25年だぜ、25年。
お前失ってから、随分頑張って生きたよな俺。
でもゴメンな。もう限界だったらしいわ。

プロ引退して、親父さんに、だったら後輩育成しろとか言われて、その気になってたんだけどな。
でもこういうのも、俺らしくて、いっそ笑えねぇ?
お前と同じ名前の子供助けて、車に轢かれちまうなんてよ。
          
なぁ?
もういいだろ?
俺随分頑張って生きたしさ。
お前の元に逝っても、いいだろ?

お前意地悪してねぇで、迎え来いよ。
行く場所判らねぇじゃないか。
俺は、初心者なんだからよ。



桃先輩
あんた本当に莫迦………。



頭上に広がる一面の蒼。遠く綺麗な夢のような色。
ああなんだ、お前其処に居たのか?
ああ、良かった。お前、笑ってるな。
本当に良かった。
最期の最期、付いててやれなかったからさ。
怖い思いさせたまま、逝かせちまったかなって、気になってたんだぜ?
そう言えば、お前絶対『独り善がり』とか言うんたろうけどさ。でもずっと気になってたんだぜ?

なぁ?
もういいだろ?
俺さ、もう限界だから。
プロになって、グランドスラムも制覇して。ちゃんと引退して。もういいだろ?
お前の場所に逝っても。
お前に誇れる程度には、頑張って生きたからさ。
だから………………………………………………。





「…越前………………………」