![]() |
「オッチビ〜〜〜」 相変わらず、天真爛漫を絵に描いた様な英二の笑顔だった。けれど実際、その笑顔の内側は随分繊細で、だから他人との距離感が独特なものを英二は持っている。 桃城と大差ない笑顔の盾。ネコ化の小動物を連想させる剽悍とした身のこなしで飛び跳ねる英二と、誰にでも気安い笑顔開放的な余裕を持たせる桃城とは、二人共何処か他人との距離のとりかたが独特で、だから桃城にとって一番気安い先輩と言うなら、英二なのだろう。それは何処か似た者同志と言う事なのかもしれない。 「遅いぞ」 リョーマと桃城がコートに入った時。既に英二は大石と柔軟をしていた。けれど二人の姿を見つけると、英二は、ちょっとタンマと言い、大石の元からコート二人に駆け寄った。そんな身軽な動きに、大石は苦笑する。 ネコのようだと言われる英二の動きは、確かにネコそのものだ。そして性格もネコに似ていると、大石は駆け出した英二の背を、苦笑と共に見送った。 「よく言いいますよ。英二先輩だって、俺と半歩違いじゃないスか」 リョーマが入学してくるまで、自分と英二の朝の部活参加時間は、大差ないものだった。リョーマを迎えに行く事で、桃城方が、その分英二より多少時間が掛かる程度の違いで、大幅なな時間差はない筈だと、桃城は確信していた。 「それでも、俺の方が、早かったもんね」 英二は笑うと、桃城の隣に佇んでいるリョーマに素早く抱き付いた。瞬間、 「オチビ?」 英二の声が疑問符を付け、リョーマを呼び、抱き付いた顔を覗き込んだ。 「オチビ、顔色悪いぞ」 英二の口から出る『オチビ』という言葉は、既にリョーマを現す固有名詞になっている。 それはテニス部員にも浸透したものだった。英二にとってのオチビはイコールでリョーマを指している。 「そうなんスよ。迎えに行ったら、こいつ顔色悪くて、無理すんなって言ったんですけどね」 白い帽子を被っているリョーマの表情は、隣に佇む桃城には見えない。判るのは、白い面差しに、帽子を被り、できた影だけではない翳りが、リョーマの貌に滲んでいる。そんな事だった。 「別に、大丈夫っスよ」 仲の良い二人の会話。きっと桃城が一番気安いのは、英二だろうと言う事は、入学して僅かな時間で、リョーマには判った事だ。桃城が親しげに名前で呼ぶ先輩は、英二だけだったからだ。 「オチビ、無理すんじゃないよ。俺らは躯が資本なんだから」 戯れに抱き締めた瞬間、強張った華奢な躯。桃城同様、気安い笑顔を浮かべながら、ネコ化の小動物そのものと例えられるだけあって、抱き締めた瞬間、強張ったリョーマに気付かない程、鈍くはなかった。 リョーマはスキンシップが苦手な事は、極近しい者には判っている事だ。 隔絶される内と外。試合最中、選手は観客と切り離されたコートで、一人で戦わなければ ならない。自らの孤独に勝てなければ、勝利はない。だから余計、勝利した時は、拍手と 共に出迎え、戯れとスキンシップで抱き付いてくる仲間に、嫌悪など湧く筈もない。それは 躯で表現できる喜びの言葉だと、知っているからだ。けれどリョーマは違う。何処かで接触を避けている節は、入学当時から見受けられた。抱き付けば、時には手酷い鉄拳が飛んで来る時もあった程だ。けれど今は違う。違う事が、英二には不思議だった。 半瞬怪訝な顔をして小作りな顔を覗き込んではみても、英二に伝わるものは何一つない。リョーマは英二に気取られた瞬間、怯えも恐怖も綺麗に内側に隠し、無表情を決め込んだ。それがリョーマの唯一の自衛だった。 過去に何があり、どんな悪夢に恫喝され、精神を壊してしまいそうでも。誰にも、何より桃城に、悟られる事の方が、今のリョーマには怖かった。 「俺、そんなやわじゃ、ないっスよ」 発狂しそうな恐怖と痛み。夜毎日毎、訪れる悪夢。発狂してしまう方が、余程楽な手段だと理解して、それでも完全に狂う事などできなかった。 そんなリョーマを救ったのはテニスで、傷付けられた疵から、絶望から、リョーマは自力で立ち直り、立上がり、再びラケットを握り、歩き出した。精神がやわでは、できない事だった。 「だからだよ」 「だからだにゃ」 桃城と英二の声が、揃って同じ事を刻んだ。 息の合う二人に、リョーマはやはり仲が良いんだなと思えば、少しだけ言い様のない胸の痛みを覚えた。 「何スか?」 「強いからだよ」 ポンッと、桃城の腕が、白い帽子に伸びた。 「何?」 触れてきた指先は、けれど桃城の体温を伝えて来る事はない。 「お前は、強いから、時折怖いって思うよ」 何処か危ういバランスで自らを支えていると、感じる時がある。 切っ先の上に立つかのような不安定さ。リョーマのテニスを知り、試合最中の彼を見ていれば、冷ややかな熱を生み出す双眸の強さが、何よりリョーマを綺麗に見せているのだと判る。リョーマを構成する要素の中。リョーマをリョーマとして其処と位置付けているものは、冷ややかな熱を生み出す、水晶とも、冴えた冬の月をも連想させる双眸の強さだろう。けれどと、桃城は思う。 冷たい熱を生み出す空の瞳、けれどそれは時折、危うく揺らぐ事がある。言葉にできる形はない。けれど桃城には判るのだ。判ると言う事実だけが、明確に突き付けられてくるような確信さ。だからこそ、告白の時、言葉に出さずにはいられなかった。 『お前、何か危なっかしいな』 危ないと感じる要素を、形にできる明確さはない。 それでも、切っ先の上に立ち尽くし、不安定に歩いているかのようなリョーマを感じれば、桃城は心配せずにはいられない。 スピードとテクニックで構成されているリョーマの勝ち続ける為のテニス。テニスはダイレクトに精神面が影響するスポーツだ。自らに勝たなければ、勝利はない。だからリョーマの精神が決して脆弱なものではないとは判る。それでも、切り出されて行く脆弱な強さがあるのだと、思わずにはいれない。 リョーマの強さは、彼の何処一番大切な部分を犠牲にして、脆弱な上に成り立つものに思えて仕方ない。だから危ういと、感じるのかもしれない。それさえ、思うだけで、判ると言うだけの、本意的なものかもしれないけれど。 「桃先輩、過保護すぎ」 誰より何より、桃城には知られたくない事実。嫌いではないと返した言葉に、笑った深い笑みが、今でも離れない。 慣れた筈の絶望。けれど本当の絶望を味わうのは、きっとこれからだと漠然と判る恐怖。それでも、決して知られる訳にはいかなかったから、リョーマは軽口を叩く様に呆れて笑って見せた。 「桃先輩、早く打とう」 言うと、リョーマは桃城と英二にクルリと背を向け、走り出す。 「桃も、大変だにゃ」 軽口を叩く英二は、けれど視線は決して笑ってはいなかった。走り去って行く小さい背を眺め、やはり怪訝な顔をしている。 「あいつ、どっか危なっかしいんスよね」 英二の一つも笑わない視線に気付き、桃城は口を開くと、リョーマの後を追った。 そんな二人を、英二は何処気遣う様子で眺めていた。 西の空を茜に染め、雄大な太陽がその姿を半分隠している時間帯。 残暑の厳しい夏の終わりとはいえ、9月も上旬の時期になると、夕暮れは随分早くなっている。 暑い夏の季節がゆっくり終わって行くのが、こんな時、初めて実感できると、不二は細面の造作に、うっすら滲んだ汗をタオルで拭いながら、オレンジと紫暗という微妙にラインで染まる空を眺めた。 色素の薄い柔らかい印象を生み出す栗毛の髪を揺らして行く風は、真夏のものから秋の匂いを滲ませている。暦などと言う既存のものより、こうして体感する感触で、季節は感じ摂れるものだ。 全国大会出場を果たし、奇しくも決勝で負けはしたが、それでも準優勝という好成績を残し、彼等の夏は終わった。 うだる夏の暑さが、ゆっくり秋の清涼なものに変わっていると、漸く気付く事ができる程度に、彼等は今まで真夏の余韻を引き摺っていた。 全国大会準優勝という成績に酔ったら来年はないと、相変わらずテニス部の練習は大会前と何一つの変わりはない。 「英二?」 不二は、今の今まで共にラリーをしていた英二が、珍しく神妙な表情をしている事に気付き、声を掛けた。 「不二さ、オチビ、可笑しいと思わなかった?」 「アア、朝からずっと、顔色悪いね、あの子」 全国大会の成績を来年に引継ぎ、偶発的な成績と言われない為には、日々鍛練しかないというのは誰もが判る事で、だから彼等は努力を惜しむ事はなく練習をこなしているが、不二も英二の科白の意味には、朝から気付いていた。 不二は英二の科白に、ペットボトルに口を付けながら、ゆっくり視線を移す。移した視線の先には、桃城と打ち合うリョーマが居た。 「何か今日は特に、桃と一緒に居るね」 朝練の時も思った事だ。 確かにいつも桃城とリョーマは一緒に居る事が多い。リョーマが部活に姿を現す時間が遅い時など、それが顕著に現れる。 リョーマのクラスメートの堀尾や、他の一年生トリオに訊くより遥かに正確に、桃城はリョーマの居場所を把握していた。だから二人が一緒に居る事は、今ではテニス部の面子には見慣れてしまった光景の一部だ。寧ろ二人が一緒に居ない時など、却って奇妙な違和感を覚えてしまう程に、テニス部員の間で、桃城とリョーマは一緒に居る存在だという認識は浸透していた。尤も、彼等の先輩であり、他の部員よりレギュラーとして、接する時間が多い英二や不二には、桃城とリョーマの関係が、ただの先輩後輩から一歩進んだものだと言う事は、言葉に出される事はなかったが、判っている事だった。 だからリョーマが桃城と一緒に居る事は、何ら不思議ではない。けれど今日は、それが少しだけ不自然に見えた。尤も、不自然と言うには、些か語弊が有るのかもしれないけれど。 「不二も、そう思う?」 「ん〜〜何かねぇ」 言葉として、形にできる明確さはない、微妙な違和感。 練習参加時、大抵二人は一緒に柔軟をこなし、軽く打ち合い、そんな頃には大抵手塚や大石が現れ、練習メニューが言い渡されるから、其処から先、一緒に居る事は案外と少ない。けれど今日は部長の手塚と、副部長の大石は、顧問の竜崎とミーティングをしている為、レギュラーは空いているコートで、打ち合いをしていた。 「変、だったんだよなぁ」 「ああ、朝言ってた事?」 「ん〜〜オチビ確かにスキンシップは苦手だけど、戯れ付いたからって、小生意気に払い除けた事はあっても、強張った事ってなかったんだよなぁ」 朝練参加時の事を思い出し、英二はやはり怪訝な表情で、桃城と打ち合っているリョーマに焦点を絞っている。 英二から話しを聴いた時、やはり不二も英二同様の感想を持った。けれどその意味は到底判りえるものではなかった。 リョーマがスキンシップが苦手な事は判っている。けれど小生意気な科白で問答無用で払い除ける事はあっても、強張る事など、一度としてなかった。 リョーマに戯れついているのは大半が英二で、構い倒し、呆れる程の過保護さで、大切にしているのは桃城だった。それを見守っている中で、リョーマが強張ってしまう事など、なかった事だ。 その理由が、リョーマの身の裡の一体何処に有るのかこうして外側から窺ってみても、見えてくるものなど何一つない。 「大会も終わって、一息付いてって訳じゃないんだろうし」 けれどそれは、到底有り得ない事に思えた。 日本に帰国し、全国大会という大舞台に出場し、全戦全勝したリョーマの事だ。ましてテニスは精神面がダイレクトに影響するスポーツだから、今更大会が終わって何か気に病む事はないように思えた。プライベートまでは判らないが、入部当時から全国大会を通じて垣間見えたリョーマというものは、テニスが全てという感触を覚えたから、到底テニスより気に病む事はないように思えるのだ。 「暫く、様子を見るしかないと思うけどね。顔色悪いし、少し体調崩してる可能性もあるし」 「そうだね」 二人の会話が一区切りした時、竜崎とのミーティングが終わったのだろう、手塚と大石が姿を現し、手塚の端然とした号令により、本格的な練習が開始された。 太陽は完全にその姿を地平線の彼方に隠し、周囲は夜の帳に包まれている。 残暑の厳しい季節も、周囲から聞こえてくる清涼な虫の音に、真夏から秋に移っている事を、今更気付く桃城だった。 「お前、やっぱ顔色悪いぞ」 練習終了後、桃城は自転車を漕ぎながら、何気ない口調で、リョーマに問い掛けた。 放課後の練習時顔を合わせた時、リョーマの顔色は朝と変わらず、血色のないものだった。だから桃城は、心配せずにはいられない。 「だから、何でもないっスよ。練習だって、ちゃんとしてたじゃないスか」 全国区のテニス部の練習は、大会が終了しても何一つ変わる事はなく、もうすぐランキング戦も開始される。そしてそのランキング戦から先、部長が手塚から桃城へと引き継がれる事が今は決定していた。 私立の名門である青春学園は、エスカレーター式の為、中学三年と言っても、受験受験と目の色を変える事はない。だから三年生は、中学卒業ギリギリまで、部活をしている事が多い。だから実質的には三学期引退でも、部内の形式上の引退は、どの部も、2学期と後半となっていた。その為10月から桃城が部を預かる事になる。これから桃城はその引継ぎ作業やら何やらで、忙しくなる。こうして帰る事も少なくなるのかもしれないと、フト思うリョーマだった。 「そうは言っても、実際お前、顔色悪いからな」 心配される事をリョーマが嫌う事は心得ている。リョーマは、どんな練習をこなしても、疲れた様子など覗かせた事は今までなかった事だ。そのリョーマが、今朝から顔色が一向に冴えない。その顔色の悪さで、よくきつい練習をこなしたと思う桃城は、やはり心配を口に出さずにはいられないから、己の未熟さを思い知る事になる。 「桃先輩、心配しすぎ」 適格に見抜いてくる桃城の眼が怖かった。だから本当なら打ち合いなどしたくはなかったと言うのが、リョーマの素直な吐露だった。けれど実際、放課後の練習に参加し、そうとできない己の無意識の中で変化してしまった部分に、誰より驚愕し、愕然としたのはリョーマ自身だった。 テニスは言葉以上に雄弁に自分の身の裡を語ってしまうから、誰より自分の内心を見抜く事に長けている桃城と打ち合いなどしたら、容易くその内心などよまれてしまうから、本当なら、こうして軽口を叩いていても、隙など見せられない。だから一緒に打ち合いなどしていたら、賢明に誤魔化し、虚勢を張っている内側を、簡単に見透かされてしまう恐怖があったから、桃城と打ち合いなど、極力避けたかった。 けれどそうとできない己の無意識化の変化を、驚愕と共に感じたのは、放課後の練習に参加した時だった。 見慣れた部員達が、誰もがその内面に雄の部分を隠しているのかと思えば、恐ろしくなった。 悲鳴も哀願も一切無視し、雄の劣情だけで力で下肢を開き、激痛に絶叫して暴れる躯を押え付け、何度も何度も犯していった彼等は、父親の南次郎がコーチを勤めるテニスクラブの人間だった。全米ジュニア大会連続優勝という実力と才能を持ったリョーマが、相手にできる人間は、同年代には殆ど存在せず、だから彼等はいつもリョーマが気安く試合をできる存在だった。その彼等は、リョーマの信頼を壊していった。 だからなのだろうと、リョーマは思う。 だから、怖かった。昨日までは、そんな事を感じる事もなかった。日本に来て、ゆっくり忘れていける筈だった悪夢は、リョーマ自身が自覚していたより遥かに、身の裡に深い疵を負わせていた。 柔らかく触れてくる幾重かの手。その裏側に卑しいものなど何一つ無いと判っているのに、触れられると、意識より何より先に肌が強張ってしまう。僅かに触れる体温に、身慄いする自身を自覚して、だからリョーマは桃城と居るしかなかった。 誰と居るより安心できる。告白され、嫌悪など湧かないのは桃城だけだ。こうして肩に触れ、布越しに判る体温に、安心するような事は、今まで誰にも感じた事はない。 「あんま無理すんじゃねぇぞ」 周囲ばかりか、自分自身にも何処か無関心な印象を受けるリョーマの事だ。念を押して、押し過ぎると言う事はないように思う桃城だった。 「大丈夫っスよ」 あんた心配し過ぎ。そう軽口を叩きながら、軋む痛みと切なさに、リョーマはやはり朝同様、何処か泣き出しそうな顔をしている事を、けれど桃城は知らないだろう。 無自覚に、桃城の肩に触れる腕の先、指先の先に、力が籠る。 「どした?」 不意に肩を掴むリョーマの指先に力が籠った事が、桃城にはダイレクトに伝わって、少しだけ怪訝に桃城は背後を振り返った。 「落ちそうだから」 「安全運転してるぞ」 「だったら、前見て漕いで下さいよ」 振り返った視線の先、リョーマの表情をハッキリ視る事は、桃城には適わなかった。 振り返った途端、危ないと言う言葉に、前を見ざるおえなくなったからだ。 リョーマは虚勢を張り、桃城に悟られまいと必死になり、桃城は顔色の冴えないリョーマを気遣いながら、暫く二人は他愛ない軽口を叩いていた。 自転車が簡素な住宅街を漕いで行く中。前方にリョーマの家が見え始める。 「すげーな」 「何?」 感嘆、とは微妙に違う桃城の声に、リョーマは不思議そうに問い掛ける。 「ホラ、見ろよ、スゲーでかい赤い月だぜ」 リョーマの家の屋根に、その姿を掛けるような形で、満月に近い赤い月が、切り取る雄大さで、その姿を曝している。 「何かこぉ、赤い月って、何か起こりそうな気ぃするよな」 太陽の微妙な影響で、赤く見える月は、天空に上がれば、磨き抜かれた白さになる。 それでも、血を連想する赤い月は、桃城には、幼い時分より、薄気味悪いものに思えた。尤も、中学生になった今では、そんな事を信じているわけではないが、視覚からダイレクトに入り込む色や物は、理論的な部分き抜きにして、印象が良くはないのは確かだ。 「……ヒッ……」 桃城の科白に視線を移し、移した時。双眸の奥に、一瞬の痛感をもたらす程、生々しい赤く雄大な月を見た瞬間、リョーマの姿態は瞬時に強張り、掠れた悲鳴じみた声を漏らし、無自覚に桃城の肩に、爪を食い込ませた。 一瞬、眼の奥の奥に鋭利な激痛が走り抜けた気がして、グラリと視界が揺らいだ。 夜の闇と赤い月は、リョーマにとっては犯された時間を象徴するものでしかなかった。 だからリョーマは、あの事件当時は夜の闇を酷く怖がった時がある。それでも、自ら克服し、夜の闇にも、月にも怯える事はなくなっていた筈だった。けれどと、リョーマは掠れて行きそうな意識を、賢明に保たせる。此処で、崩れてしまう訳にはいかなかった。 強引に、幾重もの手により力で開かれて行く下肢。押さえ付けられた男達の腕の感触が、突然手首の上に甦り、リョーマは悲鳴を噛み殺した。桃城に悟られたくはないという思いだけが、今リョーマを立たせている。 それでも、無自覚に慄える躯は、止められはしなかった。 引き裂かれた激痛に上げた絶叫が、身の裡側から突き上げてくるようで、耳を塞いでしまいたかった。 肌が総毛立ち、鳥肌を立てる。血の気が一挙に下がり、脳貧血状態になる。意識が闇の中に吸い込まれて行きそうで、そんな時、左手首が痛烈な痛みを訴えて来た。決して人目に曝す事のない手首。 肩に力を込めながら、その指先から、不意に急速に力を失って行く瞬間を感じた桃城は、咄嗟に自転車を停めた。 「越前」 自転車を停めた位置は、リョーマの家のすぐ側だった。 自転車を停め飛び下りると、桃城は崩れて行きそうな華奢な躯を支えてやる。覗き込んだ白皙の貌は、更に顔色を失っている。支える為に抱き締めた腕の中、リョーマが慄えているのが判る。 「越前?大丈夫か?」 何がリョーマを強張らせ、怯えさせているのか、桃城には判らない。判る事と言えば、リョーマが極端に、何かを怖がっている。そんな事だけだ。 勝ち気な小生意気さが全面に出るリョーマの、それは桃城が初めて視る姿だった。 見た目の華奢な印象以上に、腕にした躯は酷く小さく、触れれば壊してしまいそうな危うさすら湧いた。 体調が良くないとばかり思っていたリョーマの顔色の悪さは、ただ単純に体調が悪いだけだと思っていた。けれどもしかしたら、単純に体調が悪い、その一言ではないのかもしれない。 「お前、具合が悪いだけじゃないな」 リョーマの家はもう目の前だ。このまま背負ってでも、運んでやった方がいいだろうと判断した桃城だったが、リョーマは頑なに数歩の距離で辿り着く家に帰る事を嫌がった。 「何でも…ただ急に気持ち悪くなっただけだから…」 やっぱ少し体調悪かったのかもと誤魔化す笑いをしてみせたが、そんな笑いが、桃城に通用する筈もない事は、リョーマ自身が一番判っている。 桃城は、適格に見透かす眼を持っている。隠したい事実程正確に、桃城は見透かして行く。誰にでも優しい笑顔の桃城の内面は、ひどく冷静に他人を視る眼を持っている事をリョーマは知っていた。 状況把握能力が発達している桃城は、冷静に事態を見抜き、それぞれに応じた対処ができる。それが、桃城の資質だろう。太陽のようなと形容される笑顔に、大抵の人間は誤魔化されるが、桃城の笑顔は、盾と変わりのない物だ。眼に見える程、他人と距離を取りより、余程笑顔は単純に人を欺く事が可能だ。そんな桃城を知っているから、桃城の視線の前に、その身を曝す事が怖かった。誰より早く正確に、桃城は自分の身の上に起こった変えようのない事実を、感じ取ってしまうだろうから。 「大丈夫って言い張ってたお前のその科白が、通用すると思うなよ」 誤魔化されないと、笑顔を消し去った桃城の貌は、ひどく真剣にリョーマを見ている。 笑顔と飄々とした態で、きっと桃城は簡単に周囲を欺いてきたのだろうと、リョーマは真剣な顔をして覗き込んでくる桃城を見て、可笑しくなった。なって、クスリと小さい笑みを酷薄な口唇に刻み付ける。 「何、笑ってんだ?」 小生意気な見慣れた笑みなら、心配などしない。今リョーマが浮かべた笑みは、何処か自棄になったようなものが滲んでいるよに感じられたから、桃城は心配してしまうし、不安を煽られた。 「……可笑しいから…」 本当に莫迦莫迦しい程に可笑しい。隠して隠して、どれ程隠し続けても、きっと桃城は一瞬にして事実を突き止めてしまうだろう。隠し続ける無駄を知りながら、それでも隠し続けて生きたいと、穢れたこの身の事実が露呈するなら、一分でも一秒でも先で有ってほしいと願うその愚かさが、リョーマには可笑しかった。 こんなに誰かを想う事など、出来ないと思っていたのだ。 誰かと交わす想いなど、持てないと思っていた。それなのに、二律背反もいい所だ。 想いを交わしたいと思った桃城への感情が、逆に過去の恐怖を思い出させてしまう。 知られたくはないと痛烈に願った結果、なのだろう。その矛盾に、もう嗤うしか、術は残されていないと思えた。 喰われて行く時間は、過去だけではなく、未来すら喰い、破壊し尽くされて行く。足許が急激に喪失して行く寒々しいその予感に、リョーマは桃城の前で、初めて泣き笑の表情を見せた。 桃城は、離れていくだろう。所詮誰かと想いを交わす事のできる程、綺麗なものなど何一つ残されてはいないのだ。 凌辱の限り徹底して犯され、記憶の中にこびりついているのは、幾人もの嘲笑と淫猥な下卑た声。そして蒼い闇夜に、切り取った様に浮かぶ、赤い月だけだ。 犯されていた最中、リョーマの頭上にあった石の球体。犯され尽くしたリョーマが、発狂寸前の意識の最後まで持って行ったもの。だからリョーマは月を恐れた。 「越前……?」 危ういナニかを、刻み付けているリョーマの笑み。何よりリョーマをソコと位置付けている筈の双眸は、今は一切活力など浮かべてはいない。ばかりか、泣き出しそうな表情に、桃城はたまらず小さい躯を抱き締めた。 守りたいと願った。時折垣間見る笑顔が綺麗で愛しいと感じたから、守りたいと願った。その笑顔を。その在処を。それなのに、腕の中、泣き笑いの貌を浮かべるリョーマを、守れないと感じるのは一体何故だろうか?桃城には判らなかった。 リョーマは、必死に何かを守っている。それが桃城には何か判らない。けれど、何かを必死に、賢明に、守っている事だけが痛烈に感じ取れる。 何故こんなにも頑なに、リョーマは帰宅を拒むのだろう? 自宅はもう目の前だ。それでもリョーマは嫌がり、自分達は近所の家の壁にしゃがみ込んでいる。 誰も通行人が通らないが、通ったら怪しい光景だろうと、桃城は血の気の失せたリョーマの顔を覗き込みながら、意識の片隅で自嘲が漏れた。 「…桃先輩…」 いっそ全てをぶちまけた方が、楽な気がした。 切り取ったように浮かぶ赤い月は、あの日の生々しい血の色を浮かべ、自宅の背後に居座っている。誰かと想いも躯も交わせる程、綺麗な躯じゃないと、嘲笑されているかの様で、リョーマは見上げた桃城に告げようと開き掛けた口を、閉ざした。閉ざし、血が滲む程。口唇を噛み締めた。 告げられたら楽だろう。けれど言える筈もない。そんな勇気、初めから、有りはしなかった。有れば、過去に喰われる事もないのかもしれないと、リョーマは泣き出しそうな自嘲を浮かべた。 こうして抱き締められて、それでも嫌悪も恐怖も感じない優しい腕を、いずれ失うと判っていても、今は未だ失いたくはなかった。 「お前…何隠してる?」 血が滲む程噛み締めた口唇にソッと指を伸ばせば、一瞬だけ、怯えたのが判る。 「本当…あんたって……」 曲者と、嗤う。 もう既に悟られている。隠し続ける事など、できない気がした。 「大丈夫だから…」 「って顔じゃ、ねぇだろ」 届かないのだろうか?フトそう思う。心配も不安も何もかも。守りたいと願う願いなど届かなくて構わない。けれど、心配程度、届いて欲しいと思う。 大切だから心配なのだと。その程度の事は、伝わってほしい。リョーマに心配する事程、負担を掛ける事は判っていて、そう願う。 「無理すんな」 「程度の無理は、しないとね」 「お前、まだガキなんだからな」 「だったら、桃先輩もね」 たった一つの年齢差。永遠に続く落差。 「赤い月ってさ……」 不意にリョーマが桃城の腕の中で身動ぎ、立ち上がる。 蒼い闇に浮かぶ小さい躯。力を失った眼差しが、頭上に浮かぶ月を見上げているのに、桃城も倣って立ち上がる。 「誰かの悲鳴が、聞こえてきそうで、気味悪いな……」 悲鳴と哀願と絶叫を知っている赤い月。悪夢を忘れさせないというかのように、生々しい血の色を伴う石の球体。誰かを想う資格など、穢れた躯を持つ身で望むなと、リョーマはそう言われている気がした。 「泣いちまえ」 今にも泣き出しそうなナニかを、血が滲む程口唇を噛み締め堪えているリョーマを凝視し、桃城の長い腕が、隣に立ち尽くす小作りな頭を少しだけ乱暴に引き寄せた。 一体何を、頑なに守っているのかと思う。この小さい華奢な躯の内側に、何を守り、隠し、望んでいるのか、実はリョーマと言う人間の何一つも知らなかったのだと、桃城は思い至る。未々ガキなのだと、自に対し、腹が煮えた。 「桃先輩、過保護すぎ」 切なさに、身の裡の何処かが、軋む音を立てている気がした。それでも、確かに進歩で成長だろう。こうして抱き寄せられて、恐怖も嫌悪も感じない。柔らかい安堵を伝えてくる。失う時の事を考えれば、尚更怖い。 「俺、大丈夫っスよ」 桃城の胸の中で顔を上げ、リョーマは笑った。 「お前のその言葉が信用できるんだったら、俺は今すぐ、青学の曲者をやめるようだな」 卑怯な言葉は百も承知だ。 「明日お前、朝練休め」 「ヤダ」 「時期部長命令」 「横暴は、嫌われるっスよ」 「お前以外なら、問題ないな」 「俺だったら?」 「それでも、お前明日は朝練中止」 「………俺明日、歩いてくんスか?」 「……もしかしてソコか?」 歩くのが面倒といいうのが本当の理由ではない事くらい、判っている。それが何かと言う事が、判らないだけだ。 「んじゃ見学してるから、迎えに来て下さい」 「我が儘だな」 「俺が我が儘じゃなくなったら、桃先輩大変じゃん」 「ったく、仕方ないな。だったら迎えに来てやっから」 大仰に溜め息を吐くと、桃城は柔らかい髪を掻き混ぜた。 「桃先輩……」 部屋の扉を締めた瞬間、リョーマは崩れように座り込んだ。 あれから、たった数歩の距離を、桃城はリョーマを一人で帰す事を由とはせず、結局歩いて送られた。 必死になって内心を隠し、けれどそれさえ桃城には簡単に悟られて、それでも桃城は深い追及をしてはこない気遣いで、少しだけ心配そうな顔をしていた。何か有ったら電話でもメールでも寄越せと言って、帰って行った。 「桃先輩……」 空に浮かぶ赤い月。犯されている最中、引き裂かれた絶叫を飲み込んで、素知らぬ顔で浮かんでいた。 「助けて……」 堪える限界も頂点を越していたのか、リョーマは崩れた躯を両腕で抱き締めると、桃城の名を呟き繰り返していた。 照明一つ付けない暗い室内に、リョーマの嗚咽が響く。 濃い影が、蹲って泣いていた。 「…助けて……」 テニスをしていなければ、何かに集中していなければ、悪夢を思い出してしまうから、倒れてしまっても、テニスに固執していたかった。 「桃先輩……」 激痛の走った左手首。リストバンドに隠されている細い手首の下、生温い液体が流れ伝ってくる感触が、リョーマには生々しかった。 生命の脈動と同じ赤い月。悪夢の象徴の赤い月は、窓の外、リョーマの慟哭も素知らぬ顔で、その姿を蒼い夜空に、浮かばせていた。
next page/back
|