柔らかなボウイングの音で、眠りからまどろみに引き上げられる。ゆるゆると瞼を上げて、また閉じて。
ゆったりとした音の、その速さで転がる意識は、懐かしいいつかに似ていた。
 そのくすぐったさに小さく身動ぎすると、体にかかっていたものの存在が少し主張して、ほんの少しだ
け五感を尖らせた。微かな嗅ぎ慣れた体臭に、ふんわりとした上質のウールの黒は、決して呑み込む
ためではなく、優しく包むため。
「お目覚めですか?」
「ああ……」
 先程までのバイオリンとは打って変わって、言葉は刺々しかった。理由は、言い訳さえできないであ
ろうこの状況が何よりもそれになる。たかがバイオリンの練習如きに執事の手は要らないと言って、こ
の部屋を追い出したのがまだ陽も高い時間だった。一曲浚えば、下半身の疲労が少し過ぎて、今は少
しだけ、とソファに横になれば、日差しも和らいでいた、というわけだ。
 シエルは起き上がった時にかけ直した背広の袷をきゅっと握って、次の言葉を待った。
「熱でもあるんですか?」
「な……んで」
「いつものあなたなら、昨日私が無理させた所為だ、くらい仰るでしょう?」
 実際その通りなのだが、寝起きの発熱と何かに逆上せた熱とで、どこかふらふらと、思考も体も定ま
らなかった。セバスチャンが頬や額に代わる代わる触れてくるから、そのまま、そちらに体重をかけた。
「お前が、柄にもないものを弾いてるからだ」
「そうですか?」
「ああ。悪魔のくせにミーハーだったんだな」
 シエルの最後の評に、セバスチャンは苦笑するしかなかった。彼が弾いていたのは、つい先月 発表
されたばかりの曲だ。後年、英国楽壇中興の祖とされる作曲家のものだが、この頃はまだ無名で、音
楽関係者でも知る人間は多くはない。とんと興味のなさそうなシエルが知っているのは、招かれたサロ
ンで演奏しているのを聞いた為だ。その時のホステスがその曲が甚く気に入ったらしく、その一回のサ
ロンで何回か聴かされ、流石のシエルも、記憶に残っていたのだ。
「"愛の挨拶"というものなのだそうですよ」
「ふぅん」
 あの優しい時間は、そういう名前だったのだ。しっくりきたけれど、それは、この男が与えたいと思っ
ているものなのだろうか。そんな、彼が作るスイーツのような甘い時間を?
「――え?」
 ふわりと頬に当てられた唇。それは確かに触れただけだった。
「あなたにはこういった方がお解かりになりやすいのではないかと思いまして」
「な――ッわ、解らない! 何考えてるんだ」
「あなたのことだけを」
 真っ赤にして絶句するシエルに、本意を曖昧にぼかすような笑みを浮かべ、シエルに貸したままだっ
た背広を取り上げ、羽織った。
「さ、ディナーまではきちんと練習なさってくださいね。ちゃんとお出来になられましたら、スイーツもお出
しいたしますから」
 そう言って、また笑む執事に、恋人の由無し事など、もう聞けるはずもなかった。




TOPLAND SECRETの楢伽奈うたこ様より頂きました、ステキSSです。ありがとうございました!
愛の挨拶、エルガーがバイオリンを、最愛の妻がピアノを弾いて演奏したんですよね、確か。
別々の楽器で一つの曲を演奏する。セバスとシエルの関係もそうなのかもしれません。
ステキなSSをありがとうござていました。