朦朧とした闇の中、視界をさえぎる炎のベール、それを背景に踊る火の粉。意識の彼方で鳴る木の爆 ぜる鋭音。声が聞こえる。自分の声だ。何度も口から零れる言葉。はっきりとしない自我の中、言葉は霞 となって認識される前に消えていく。 走る炎の中を。何かを探して。 奔る過去の記憶。灼熱の炎に包まれて。 幾度も思い出す光景。扉を開けたその先に、炎の海に浮かぶ人影を見た。 急激に澄んでいく視界。頭の奥に引っ張られていく感覚の後、シエル・ファントムハイヴは目を覚ました。 まったく、悪夢とは最悪だ。 シエルは枕に顔をうずめて歯を食いしばった。心臓が興奮状態のまま強く 脈打っている。熱い息を吐きながら、高揚が治まるのを待つ。 すると、柔らかい布の感触が己のこめかみをぬぐった。 「セバス、チャン?」 「悪い夢でもご覧になりましたか?」 シエルは執事の手を払って起き上った。悪夢まで嗅ぎつけてくるとは、まるでハゲタカのようだな、と心 中で罵る。いや、カラスか。 「もう大丈夫だ。下がれ」 夜の闇に浮かぶ悪魔の顔が、笑みに歪んだ。魔石のように光る相貌が、己の顔を見据えている。 「そういわれましても。坊ちゃんが寝付くまで帰れません」 「何が面白い。そうやって笑っているお前はロクなことを考えてないだろ」 悪魔のする、善人のような作り笑いほど危険なものはない。その毒を潜ませた果実を手に取るだけで侵 される。 「面白いですよ。夢に襲われる生き物は人間だけですから。私にはそれがどんなものか知りませんので、 とても興味深い。どんな強者でも、72の悪魔を従えた王でさえ、悪夢に脅かされるのでしょう?」 セバスチャンの指がシエルの髪を弄ぶ。それを鬱陶しくよけながら、シエルは嫌な笑みを浮かべたその 顔を睨みつけた。 「恐怖があるからこそ人間だ。たとえ意識にさえなくとも、心理の根底には恐怖がある。なければただの 化け物だ」 「ほう?でも私にも怖いものはありますよ」 意外な答えに、シエルは目を見開いた。 悪戯を思いついた悪鬼のごとく目を光らせて 「それはとても、興味深いな」 主のいざないに薄く笑い返したセバスチャンは、左手の手袋をはずしてシエルの貌に手を伸ばす。 「契約までして手に入れたディナーが、どこぞと知れぬ輩に盗み食いをされてしまうのが恐ろしい。だから こうして御側にお仕えし、眼を光らせているのですが」 蝋人形のごとく冷めきった指が、シエルの右瞼に触れる。飼猫を愛撫するかのように、優しく粘りついた 感触が、契約書の刻み込まれた瞳を刺激していた。 シエルは期待はずれの答えに、弓の眉をひそませて 「……それは『恐怖』というより『不安』だろう。僕の言った『恐怖』はそんなものじゃない」 「そう言わずに……私は怖いんですよ、こんなにも脆くて強がりで愛おしい貴方が、私の元から消えてし まうことが」 蜜のようになめらかな笑みのまま恐怖を語られてもいささか信憑性に欠ける。 シエルはこの悪魔をどう 掃おうかと眉根を寄せた。 月明かりがふと消える。 乾いた唇を熱が撫でる。息もつけぬ間に、柔らかい感触が攻め立てるように唇をついばみ続ける。 悪魔のくせに。 優しさを演じるなど生意気だ。 執事のくせに。 愛を主人に語るなど図々しい。 嫌に人間味を持った舌が領域を割ってきた頃、シエルは顔をそむけて拒絶した。 「何のつもりか知らないが、僕はもう寝る。下がれ」 「これはこれは、嫌われてしまいましたね。悪夢の気晴らしに、とでも思ったのですが」 青白い狐火のような月光が、悪魔の笑みに歪んだ貌を照らす。セバスチャンはベッドから身を離すと、 静かに、洗練された動作で一礼した。 「おやすみなさいませ、坊ちゃん」 紳士よりも紳士的な礼を鼻先であしらって、シエルは横になる。 扉の閉まる音がした。静寂が降りる。 瞼の闇の中、シエルは自身に言い聞かせた。嫌悪的な暗示を。 悪夢などただの幻だ。過去などただの記憶だ。そんなもので脅えてどうする。僕が相手にしようとしている ものはそんな偶像じゃないだろう。 意識を割って睡魔が焔をちらつかせる。 そして深い眠りの闇に落ちていくのだ。彼の隷が、眩しい朝の光をこの身に運ぶまで。 そうしてまた一日がすぎていく。
Fin
初セバシエです。砂糖一杯分の甘みもなくて申し訳ないです…… 心理描写とかまだまだ未熟です…セバシエって奥が深い……。セバシエシリアスを書ける方は本当に尊敬しますっ |