My Fair Lady

episode3act2

orangery




 明度の淡い陽射を透過し、光を散らす鮮やかな緑。そこかしこで光の乱反射を起こして周囲の色さえ緑に
染まる鮮やかな季節。甘い香りを運ぶ風に舞うドレス。舌足らずな愛らしい声がころころと笑いながら、何や
ら歌を唄っている。それだけを切り取って見れば、穏やかな光景だろう。
「マリー、おてんばもほどほどになさい!伯爵令嬢が木登りなんて」
 あまりと言えばあんまりな事態に、セバスチャンは愛娘のやんちゃぶりに、軽く眩暈を起こして落涙する。
 アフタヌーンティーに子供達を呼びに来れば、愛息のセシルは大樹の根元に寄り掛かっておとなしく絵本
を読んでいたものの、やんちゃでおてんばなマリーと言えば、父親であるセバスチャンの鼻先に靴を落し、
腰掛けた枝から小さい足を出しては、ぶらぶらと愉しげに揺らしている。
 ふわふわと風に舞うドレスの裾から覗く小さい脚。母親と同じ、絹糸のように綺麗なブルネットの髪が、ま
るて綿毛のようにふわふわと靡いている。その姿だけを見れば途方もない愛らしさだとは思うものの、伯爵
令嬢が当たり前のように木登りをしているのは如何なものかと、セバスチャンはがっくりと肩を落した。
「おとうしゃま、ぼくはとめたよ、いちおう」
 双子の妹の破天荒ぶりなど、セシルにしてみれば今更だったから、嘆かわしいと嘆く父親を尻目に、理路
整然と口を開いては、我関せずの姿勢で視線は手元の絵本に落ちている。
「一体誰に似たら、あんなおてんばになるんでしょう」
 流石のセバスチャンも、マリーのやんちゃぶりには半ばお手上げ状態だ。小言を言っても何処吹く風で、
ころころと愛らしい笑顔を振り撒いては、一向にそのおてんばはおさまらない。
「元気なベビーを生んで下さいって言ってたお前の願いどおり、元気に育ってるじゃないか」
 いい加減愛娘のやんちゃぶりには達観を決め込んでいるシエルは、がっくりと落涙している旦那の隣で楽
しげに笑っている。
「大体お前はマリーに夢を見過ぎだ。誰の子供だと思ってる?僕とお前の子供だぞ」
 男親の幻想など他愛ないと蹴散らして、シエルは木の上で愛らしい声で歌っているマリーを見上げた。
「下町の市民なら私も止めません。ですがあの子は伯爵令嬢ですよ?もう少しレディとしての自覚を持って
頂かないと、この先が大変です。奥さんと同じで、芸術には些か疎い面がありますから」
「ピアノもバイオリンも、一通りできるんだから問題ないだろう?あの子はあれで語学は堪能だし」
 母親であるシエルから受け継いだ聴覚の良さで、双子の子供達は絶対音感の持ち主だから、むしろ音楽
には、特に音を奏でる楽器には煩いくらいだ。耳が良すぎた反動で、僅かに音の狂いも聞き逃さないから、
マリーにとって、音楽は苦手な部類に入ってしまう。そしてだからこそ、語学が堪能なのだ。文法等は別に
して、語学の中にはヒアリングも重要だからだ。
「芸術は両家の子女の嗜みですよ。あの子は絵画にはとんと興味を示しませんから。まぁ、奥さんとは違っ
て、ダンスは好きなようですが」
 活発なマリーは躯を動かすダンスはむしろ得意で、教師からはまるで蝶が舞うように愛らしいと言われて
いるくらいだ。
「余計な世話だ。第一お前は、僕が他の男とダンスなんて踊るるのは許さないだろう?」
 その前科が、セバスチャンにはありすぎる。夜会でシエルにダンスを申し込んでは、セバスチャンの冷や
やかな双眸の前に玉砕していった男達の数は、数えたら両手を使い、更にそれを二乗しても足りないくらい
だ。
「当然です。何で私が他の男に、奥さんを触れさせないといけないんですか」
「だったら、問題ないじゃないか」
 どうせセバスチャンとしかダンスは踊らないのだ。多少踊れなくても問題はない。何よりシエルは子供達を
残して社交の場になど行くことは頑なに拒むから、余程のことがない限り、最近では公の場以外には出席
もしていない。
「……まんねんしんこんばかっぷるって、ほんとうなんだね」
 繰り広げられる両親の、どう聴いてもバカップル自慢をしているとしか思えない会話に、セシルは些かこの
先の気苦労を思いやり、劉や葬儀屋が言っている科白を思い出す。
 時折屋敷に訪れては遊んでくれる劉や葬儀屋は面白い大人達だが、その言葉に紛れる言葉の意味が、
セシルには今二つ程度判らなかった。けれど真横でこんな会話を聞かされたら、嫌でも実感できるというも
のだ。
「……一体誰にそんな言葉を教えられた?」
 そんな入れ知恵をする人物など限られているから、シエルは少しばかり憮然となりながら、未だ木の上で
愛らしい歌声を披露している愛娘に声を掛けた。
「マリー、降りてきなさい」
 何かと忙しいシエルは、けれど時間の許す限り、家族とのお茶の時間をとても大切にしている。
「セシルも。そんな木陰で本を読んでいると、眼を悪くする」
 枝を広げる大樹の根元は涼しい反面、木陰になっているから薄昏い。そんな場所で本を読んでいれば、
目が悪くなるのは必然だろう。
「奥さんも、あまり子供のことは言えないと思いますよ」
 愛息に腕を伸ばす愛妻に、セバスチャンは緩い苦笑を滲ませる。
就寝前の読書はシエルの日課で、その場合大抵は、室内の照明はベッドランプだけだったから、息子を窘
められるものではないだろう。
「……煩い…」
 そんな自分からさっさと本を取り上げ、子供達が寝ている室内で平気でことに及んでしまうお前に言われ
たくないと、シエルは白皙の面を少しばかり紅潮させ、差し出されたセシルの手を優しく握ってやる。
 セシルは母親の手をきゅっと握ったまま、本を閉じると立ち上がる。その小さい温もりに、シエルが淡い笑
みを見せた。
「マリー、置いていきますよ」
「おとうしゃまのいじわるっ!」
 未だ木の上のマリーに声を掛ければ、語彙だけは一人前の反駁が返ってくるのに、セバスチャンはがっく
りと肩を落した。
「流石語学が堪能なことはあるな」
 落涙している旦那を尻目に、シエルは見当違いの感心をして見せた。
ああ言えばこう言うという見本のように、マリーは幼いながら語彙は達者だ。自国語は当然として、フランス
語にドイツ語、スペイン語と、語学教師が驚く程度に、マリーは語学が堪能だ。
「ほら、早くいらっしゃい」
 セバスチャンが腕を差し出せば、けれどマリーは木の下からでも判る程度に、愛らしい貌をムゥッと歪めた。
「いや〜おかぁしゃま」
「お母様はダメですよ」
 愛娘に甘いセバスチャンは、けれどそれだけはダメですよと咎める口調で口にすれば、マリーはキョトンと
小首を傾げた。その仕草がシエルとそっくりで、セバスチャンは親子だなと、苦笑する。
「マリー」
 気の上の愛娘に向かい、おいでおいでとシエルが手を振れば、セバスチャンが慌てた様子でそれを咎め
た。
「何を考えてるんですか」
「あのままじゃ、降りてこないだろう?」
 愛娘にヒラヒラと振る腕をやんわりと咎めてくる心配性の旦那に、シエルは肩を竦めて笑って見せる。
「怒りますよ」
 自覚がない筈はないだろうに、それでも愛娘が可愛くて仕方ないのか、無防備に両腕を差し出すシエル
に、セバスチャンが少しばかり呆れて苦笑する。
「マリー早く降りてこないと、スイーツはないですよ」
 ほら早くいらっしゃい。セバスチャンが腕を差し出すと、マリーはムゥッと顔をさせたまま、けれどぴょんっと
言った軽やかな動作で、樹の上から飛び下りた。瞬間、フワリと舞うブルネットの髪と翻るドレスは、確かに
蝶のように軽やかで、重力抵抗一つ感じさせない。
「まったく、毎日毎日、賑やかですね」
 トサッと小さい擬音を響かせ腕に収まった愛娘に、セバスチャンがやれやれと言った様子で微苦笑を漏ら
した。
「マリー、毎日毎日、少しは学習なさい」
 めっと、愛妻そっくりな愛娘に怒った表情を見せれば、けれど父親の腕の中でマリーはコロコロと笑ってい
るばかりで、効力は一切なかった。
「判ってますか?貴女は伯爵令嬢なんですから、おてんばもほどほどになさい」
「おとうしゃま、きょうのおやつはなぁに?」
 セバスチャンの小言を完全にスルーして、マリーが愛らしい笑顔を覗かせるのに、セバスチャンが遠い眼
をした。
 都合のいい部分だけ聞き分ける聴覚は、絶対シエルに似ていると思うセバスチャンだった。
「マリー、少しはセバスチャンの言うことも聴かないと、後で拗ねるぞ」 
 悪魔らしくない悪魔は、シエルが手を灼く程度に親バカで、眼に入れても痛くない程溺愛している愛娘に
小言を聞き流されては、後々自分に八つ当たりが回ってくることをシエルは正確に理解している。まるで大
きい子供と大差ない旦那の八つ当たりは、子供以上に手がかかる。つまりは子供達より手のかかる我が
儘を言うのだ、夜になると。
「今日はオレンジケーキですよ」
「おれんじぃ?きのうもおれんじむーすだったのに?」
「……セバスチャン…」
 また当分オレンジ三昧の日々が続くことになるのかと、シエルが深々と溜め息を吐けば、セバスチャンは
優美な笑みを腕の中の愛娘に向け、次にはシエルに視線を移した。
「オレンジは、豊穣の果実なんですよ」
 ねぇ?マイ・レイディと微笑まれ、シエルが少しばかりげんなりした様子で肩を落し、そっと腹部に手を当
てる。
「ほうじょう?」
「たくさんっていういみ」
 妹の疑問符に、シエルの指を握ってご機嫌なセシルが即答する。微妙に意味合いは違うものの、セバス
チャンにもシエルにも、それはある意味で正鵠を射るものだった。
「たくさん?」
「ええ、沢山ね」
 キョトンと小首を傾げるマリーに、セバスチャンは愛妻と同じ柔らかい愛娘の髪を撫でてやりながら、二人
に報告がありますよと莞爾と笑った。