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My Fair Lady episode4 |
冷やかに研ぎ澄まされた凍り付くような石の球体。深夜の闇の中に輪郭を溶かし込みながら、昏い造 形物のように浮き上がる屋敷は、広大な領地を治めているだけに、端から見れば鬱蒼とした建物にし か見えないだろう。けれどその内部は、格式と風格が感じられる外観とは真逆に位置して、真夜中でも 賑やかだ。 「そろそろ、ですかね」 微苦笑に、小さい溜め息が重なる。腕の中で眠っている愛妻を起こさないように注意しながら、銀製 の懐中時計で時刻を確認すると、セバスチャンは酷薄な口唇に苦笑を浮かべた。 シエルのみならず、周囲の人間の溜め息を誘う親バカぶりは、けれど自覚の一つや二つ程度、セバ スチャンにもちゃんとあるのだ。ただ自覚の有無とその先の行動が、自重という部分に巧く連動して辿り 付かないだけの話しだ。 「マイ・レイディ」 腕の中のシエルに視線を移し、セバスチャンが穏やかな笑みを覗かせる。胸元から白いシーツの上 に流れるブルネットの柔らかい髪を掬いあげ、口唇を寄せる。 シルクのようになめにかで光沢のあるブ ルネットの柔髪は、社交界でも羨望の的だ。 「子供達が生まれてから、毎晩連敗していますからねぇ」 仄かに薫る甘やかな香りは、セバスチャンがシエルの為にと厳選して購入しているシャンプーやリン スの香りだ。それは華美になることはなく、甘い香りが仄かに薫る上品なものだ。 ブルネットの髪に縁取られた白い面差しは、二児の母親とは思えないくらい幼い寝顔を曝している。 それがセバスチャンにらしくない感慨を与えているのだと、シエルは知らない。 生まれ変わる都度、決まった命数しか生きられなかった幼い魂。それが今は明確な温もりを伝えてく る。それも悪魔の妻となり、その悪魔の子供を生んでいるとなれば、セバスチャンの感慨が深いのも当 然だろう。けれどこんな風にシエルの幼い寝顔を眺めていると、らしくない不安に駆られる時があるのも 事実だった。 どれだけ輪廻の流れに逆らおうと抗ってみても、シエルの命数は常に十代半ばと決まっていた。それ は悪魔であるセバスチャンの力を持ってしても、変えられない自然の理だった。どれだけ高位な悪魔で も、たとえそれが地球一つを破壊できてしまう魔力を備えていたとしても、自然の理には抗えない。過 去が取り戻せないのと意味は同じで、時間は決して巻き戻らない。積み重ねてきた過去、常にシエル の傍らに在り続けたそれは、セバスチャンが延々と繰り返し味わってきた絶望と同義語だった。 「……絶望に、慣れ過ぎてしまいましたかね……」 警戒心の欠片もない無防備な寝顔。瀟洒な輪郭をそっと包み込めば、触れる体温にらしくない程の愛 しさが湧く。 シエルを失う都度、抗えない理に、幾度とない絶望を味わってきた。どれだけの魔力を持っていたとし ても、たった独り、全てを犠牲にしても欲しいと願った魂一つ守れない。そんな絶望に慣れ過ぎてしまっ た所為か、穏やかな時間は、時折無性に胸の奥に軋むような痛みを落としていく。下らない感傷だと理 解してなお、感情の何処かが、再びシエルを失う可能性を否定しきれてはいなかったからだ。凝り固ま った過去の絶望が、時折息苦しいほど軋む圧迫感を伝えてくる。勿論シエルの前で、そんなものを欠片 も見せたりはしなかったけれど。だからこそより過剰に、子供達を溺愛してしまうのかもしれない。 「シエル……」 本来の性別を切断し、無理矢理真逆の性別に変化させた。あの時はああしなければ、シエルは今腕 の中にはいなかっただろう。悪魔の魔力を持ってしても、それはある意味賭けに近かった。シエルを助 ける為には、遺伝子から弄らなければ、助けられなかった。 「……身勝手な言い訳だと、言われましたが……」 その結果散々に泣かせ、一時期は堕胎まで決意させた。その存在が今は腕の中で穏やかに寝てい るとなれば、倖せと同じ位置で、セバスチャンがらしくない不安を感じるのは当然の結果なのかもしれな い。それも身勝手な言い訳だと自覚しているから、尚更だろう。 「どんな強行手段に出ても、もう二度と、貴女を失うのはゴメンだったんですよ」 マイ・レイディ。シエルには見せることのない切なげな笑みを覗かせると、セバスチャンは瀟洒な輪郭 に口吻を落とし、そっとベッドを抜け出した。そんな時だ。今の今まで無防備に眠っていた筈のシエルが、微かに身動ぎを繰り返す。 「……今夜も連敗ですかねぇ」 苦笑し、ベッドサイドに並んで置かれた二台のベビーベッドに視線を移せば、愛娘がもぞもぞと身動ぎ しているのが見て取れる。 「マリー、あとちょっと、いい子で寝ていて下さいね」 シエルと似通った目鼻立ちを持つ愛娘のマリーウェザーは、シエルの主治医であり、叔母でもあるマ ダムレッドや、劉や葬儀屋という、シエルに極近い人間達から見れば、将来シエルと瓜双子になるだろ うと言われているくらい、生まれて二ヶ月で母親にそっくりな顔立ちをしていた。父親のセバスチャンか ら見ても、マリーはシエルとよく似ている。対してマリーの隣に置かれたベビーベッドで眠る双子のセシ ルは、誰から見ても父親であるセバスチャンと瓜双子だったから、双子の兄妹は、両親双方の血筋を綺 麗に受け継いだことになる。尤も、愛娘のマリーは、母親ではなく父親であるセバスチャンのワインレッ ドの瞳を受け継ぎ、愛息のセシルは母親と同じサファイアの瞳を受け継いでいたから、マドムレッド達か ら言わせれば、まさに双子の兄妹は、セバスチャンとシエルの間の子ということになる。バカップルだ、 バカップルだと思っていたけど、本当にバカップルねぇと、マダムレッドなどは呆れているくらいだ。 セバスチャンはベビーベッドでもぞもぞと小さい手足を動かしてぐずる兆しを見せ始めた愛娘に笑みを 向けると、そっと小さい頬を包み込んだ。そうして寝室を出て行こうとした矢先、 「ワァァァン……!」 「……マリー……」 背後から咎めるように聞こえた愛娘の泣き声に、セバスチャンはがっくりと肩を落として項垂れた。 深夜の静寂を思い切り無視して大泣きする愛娘に、ついうっかり扉に額を預け、遠い眼をしてしまった 程だ。 「……今夜も連敗決定ですねぇ……」 授乳時期の母親は、昼夜無関係に泣く赤ん坊の所為で、生活リズムが狂いがちだ。その為寝不足に なり、育児ノイローゼに陥る母親も少なくは無い。過度に子供の成長に敏感になり過ぎる初産の母親程 その兆候は強い。ミルクの量一つにも拘り、何かと過度に神経質になってしまう。生憎シエルにそんな 兆候は欠片もなかったものの、毎晩の授乳で寝不足なのは否めない事実だったから、毎晩時間を見計 らっては、母乳の変わりに調整ミルクを作ろうとして、寸前の所でタイミングよく泣き出す愛娘に、ことご とく失敗しているセバスチャンだった。 「マリー……私に何か恨みでもありますか?」 苦笑しながら、二ヶ月の赤ん坊に問い掛けるセバスチャンの姿は、劉や葬儀屋に見られれば、間違い なく親バカと指を差して笑われるだろう姿だ。それも半分は本気の科白が混じっているとなれば尚更だ。 毎晩決まった時刻に空腹を訴える、ある意味で規則正しい時刻に授乳できるのは、真夜中であれば 幸いなものの、毎晩ミルクを作ろうとする矢先、まるでタイミングを見計らったように泣き出すマリーは、 流石悪魔の娘なのかもしれない。 「殆ど、嫌がらせの領域ですねぇ」 半分本気の科白を零しながら、愛娘を抱き上げるセバスチャンの手付きは、育児に慣れた父親のもの でしかない。社交界では母親ですら自分の子供にミルクなど飲ませないから、育児に慣れた父親という のは、珍しいを通り越して希少価値だ。 「……ん……マリー……」 「寝ていていいですよ。今ミルクを作ってきますから」 娘の泣き声に起こされる形で、シエルが上半身を起こした。眠い目を擦りながら、それでもベビーベッ ドに視線を向けるシエルに、父親に抱っこされて少しばかり泣き声のトーンを下げたマリーをベッドへと 戻し、セバスチャンが枕元に腰掛ける。 「……そういう訳にいくか……」 相変わらず小生意気な反駁はするものの、今一つ意識の焦点が定まっていないのか、シエルは旦那 の胸板に小さい頭を凭れると、そのまま睡魔に襲われそうな意識を覚醒させる為、眠い目を擦り擦りし ている。その仕草がセバスチャンの笑みを誘ってしまうのだと、勿論シエルは知らない。 「いきますよ。夜くらいミルクでも構わないと思いますよ?マダムもそうお仰っていたでしょう?」 大事な子供達に他社の製品など使わせられるかとばかりに、セバスチャンが躍起になって開発に勤 しんだ調整ミルクは、世間での評判も上場だった。けれど当のシエルはそれを使うことを頑なに拒み、 毎晩睡魔と格闘しては、二人の子供に母乳を与え続けている。 「免疫を考えれば、なるべく母乳がいいんだろう?」 再びミルクを催促するように泣き出したマリーに、シエルがベビーベッドに近寄れば、ベッドの中では 空腹を訴え、小さい手足をバタ付かせてている愛娘がいる。 「流石のお前でも、母乳が持つ免疫機能までは、ミルクに取り入れることはできないだろう?」 安全管理は、品質管理と同義語だ。他社の製品はそれらの要素に欠けるから、生まれて来る子供達 には使用できない。立て板に水の調子で理路整然と語っては、周囲の溜め息を誘ったセバスチャンは、ファントム社のあらゆる権限を行使して、ベビー用品の開発に勤しむ親バカぶりを発揮した。調剤ミル クもベビーベッドも、セバスチャンが開発に勤しんだ内の一つにすぎない。それらの手続きの為、シエル が決済した書類は多岐に渡り、それは生半可な量ではなかった。 「母乳に含まれる免疫は、初乳が大切なんですよ」 火が付いたように泣くマリーを抱いて、ベッドに腰掛けたシエルの隣で、セバスチャンがやれやれと苦 笑する。 「マリー、毎晩私が奥さんに連敗しているのは、貴女の所為ですよ」 小さい手足を一杯に動かして、軟らかい顔を歪めて大泣きしている愛娘に、セバスチャンが柔らい笑 みを覗かせる。宥めるようにそっと頬を撫でれば、更に泣き声が高くなるのに、セバスチャンが少しばか り困ったような表情を浮かべた。 「やっぱり奥さんのミルクでないと、不満なんですかね」 「まったくお前は……」 眠いから夜はミルクにすると言う母親を窘めるのなら判る。けれど母乳を与えたいからと、睡魔と格闘 して起きている自分に、連敗していると苦笑する旦那は、そうそう世間にはいない筈だ。それをして劉や 葬儀屋からはバカップルだと呆れられているものの、シエルに言わせれば、子供達を母乳で育てたいと いうのは、極当たり前のことだと思っていたから、この辺りの二人の意思疎通は、常に平行線を辿って いる。 「ですが奥さん。普通貴族のご婦人がたは、ご自分で母乳を与えて我が子を育てたりは致しませんよ」 その為に、大抵貴族の屋敷では乳母という存在が在るのだ。今では貴族という上流階級のみならず、富裕層の中流階級にもその風潮は存在する。だから我が子可愛さの為、毎晩寝不足になりながら、 母乳を与えて子育てをしている貴婦人は、英国中探してもシエルくらいのものかもしれない。 「胸の形が崩れるなんていう理由で、自分の子供にミルクもやれないなんて、何処か間違ってる。僕は 自分の子供を、他人の手で育てられるなんて、絶対に嫌だからな。そんなこと言い出したら、離婚して やる」 紆余曲折の後に生んだ子供達だ。乳母など雇って、誰かの手で育てられるなど、考えたくもなかった。その程度の覚悟がなければ、悪魔と結婚もしなければ、悪魔の子供など生まなかった。 「私もですよ。貴女が生んでくれた子供達を、他人の手に任せるつもりは毛頭ありません」 堕胎まで覚悟させたシエルが生んでくれた子供達だ。他人の手になど、触れさせたくもないというの が、セバスチャンの素直な本音だ。尤も、足しげく通ってくる劉や葬儀屋、フィニアン達使用人といった 相手は話しは別だ。触るなと言った所で、通用する相手では無い。毎日誰かしらが、入れ替わり立ち代 わり子供達の相手をしている。そうやって少しずつ愛情を覚えていくんだから、それはそれで必要なの よと言ったのはマダムレッドだ。そしてそんなマダムレッドの所には、現在赤い髪の赤ん坊が在る。 「まったく、毎晩毎晩、怪獣みたいだな」 顔を真っ赤にしてわんわんと大泣きしている赤ん坊。小さい手足を一杯に動かして、ミルクを催促して 泣く姿に、シエルが愛しげに瞳を細めた。その横顔に、セバスチャンが柔らかい苦笑を滲ませる。 「?何だ?」 「いいえ、母親の表情だと思ったんですよ」 キョトンと不思議そうに小首を傾げた拍子に、長いブルネットの髪が柔らかく揺れる。その無防備さは 少女のものだと思うのに、腕の中の愛娘に注がれる眼差しは、何処までも母親の表情しか映してはい ない。それがセバスチャンをも倖せにするのだと、シエルは知らない。 「?母親なんだから、当たり前だろう?」 一体何を言い出すんだとばかりにシエルが眉を顰めれば、セバスチャンが緩い笑みを滲ませる。 「自覚がないくらい、奥さんは母親なんだなって思っただけですよ」 「お前の科白も、時折判らないな」 母親なんだから当たり前だと言い切ってしまえる程度に、シエルは子供達をとても大切にしている。 一時期は悲壮な決意で堕胎まで覚悟した子供達だ。元気に泣いていること自体が、シエルには嬉しい のかもしれない。それはちゃんと生きている証拠だからだ。 「マリーは小さいくせに、ミルクの飲みは、セシルよりすごいですからね」 ふにゃふにゃと泣いている軟らかい赤ん坊は、小さいくせに怪獣のように母親のミルクを飲む。その飲 みっぷりは、いっそ感心してしまう程、双子の兄のセシルより豪気だ。 「それにしても、この泣き声で起きないセシルも、随分神経が太いな」 マリーの双子の兄に当たるセシルはと言えば、ベビーベッドの中ですやすやと穏やかな寝息を立てて いる。屋敷中に響き渡りそうな威勢で泣くマリーも然る事ながら、そんな泣き声で起きないセシルも、相 当神経が太い。 「まぁ、一度に二人は無理ですから、丁度いいとは思いますが」 将来大物になるかもしれませんよ?そんな風に笑えば、人間と悪魔の間の子なんだから当然だと、 シエルが自覚のない親バカな科白を口にする。 「ほら、マリー」 ドレスの素材やデザイン、ブランドには殆ど興味のないシエルの日常を彩っているのは、全てセバス チャンの好みと言っても差し支えないだろう。今もシエルは白いレースがふんだんに使用されたネグリ ジェを着ている。授乳には些か適さないデザインのドレスは完全にセバスチャンの好みで、シエルは大 きく開いた胸元の切り返しを少し下げると、清潔な布で乳首を拭い、マリーに乳房をあてがった。 「やはり授乳用のドレスというのも、考慮した方が宜しいですねぇ」 「……もういい加減にしろお前は」 また碌でもない書類の決済をさせるつもりかと、シエルが辟易した様子で溜め息を吐けば、セバスチ ャンが真面目くさった様子で口を開いた。 「そうは言いましても、授乳用に胸元で切り返しのきいたドレスというものは在りませんし、開発したら、それはそれでファントム社の株は上がる思いますよ」 そうなれば実際授乳時期の母親が助かるのは間違いがないのだし。 「……開発している間に、子供達の授乳期間は終わるな」 めっきり本気の旦那の視線に、シエルが半瞬遠い眼をして、胸元に吸い付いてミルクを飲んでいるマ リーに視線を移す。 今の今まで大泣きしていたのが嘘のように、マリーはシエルの胸元に力強く吸い付いて、満足そうに ミルクを飲んでいる。そんな愛娘の姿に、倖せそうに瞳を細めると、シエルが小さい頭をそっと撫でてや る。 もしかしたら失っていたかもしれない生命。夜中に叩き起こされることも、子供達を失っていた可能性 を考えれば、愛しさしか湧かない。着飾って社交界に出向く女達は、こんな手軽な倖せを自ら放棄して しまっているのだから、随分憐れだと思うシエルだった。 「何言ってるんですか」 「何だ?」 「マリーとセシルの授乳が終わったとしても、次の子には役立つじゃないですか」 愛妻の胸元に吸い付く愛娘の小さい躯をそっと撫でながら、セバスチャンはシエルを呆れさせることに 成功していた。 「……はぁ……?」 当たり前のように口にされた科白に、シエルが半瞬、眼を点にする。真面目くさったセバスチャンの科 白には、冗談ごとの色合いは欠片も感じられないから、きっと本気の科白に違いない。 「次の子ってお前……」 子供達が生まれて未だ二ヶ月だというのに、悪魔で親バカな旦那は、もう次の子供のことを考えてい る。そんなセバスチャンに、シエルは本気で頭を抱えたい心境で、深々と溜め息を吐き出した。 世界各地に転がる伝承の悪魔が、親バカで子煩悩など聴いたこともない。絶対世間様に対する嫌が らせとチャレンジだと、シエルが半ば遠い眼をしてしまったとしても、罪はないだろう。 大体、と思う。大体自分の妊娠を知っていても何も言わず、一時期は本気で堕胎まで考えたと言うの に、互いの気持ちを伝え合った翌日からは、周囲が呆れる程あからさまな独占欲を見せつけ、数日間 は部屋から部屋の移動も歩かせてはもらえなかったくらいだ。そうして生まれた悪魔の子供は、何の因 果がクリスマスが誕生日だという、中々に笑えない日付に誕生している。それから二ヶ月余り。セバス チャンの頭の中には次の子供のことまで視野に入っているのに、シエルは心底呆れた様子で溜め息を 吐き出した。 「マダムレッドの言ったとおりだな。男っていうのはせっかちだ」 「子供は二人より三人、三人より四人。多い方がいいじゃないですか」 「……マリーとセシルが生まれたばかりで、そんな先のことことまで考えられるか」 悪魔に愛情なんて存在しない。そんな風に考えていた過去がフト懐かしいと、シエルが遠い眼をする。人生設計をする悪魔なんて、聴いたこともない。この分では計画出産云々を本気で言い出しかねない 悪魔の夫に、シエルが辟易とした様子で、腕の中のマリーを見詰め、次には口許に柔らかい笑みを浮 かべた。 「私との子供は、もう欲しくはありまんか?」 力強く母親の胸元に吸い付いている愛娘を眺め、セバスチャンが緩い笑みを滲ませるのに、シエルが 大仰に溜め息を吐き出した。 「そんなこと言ってないだろう?」 「では生んで下さいますか?」 「覚悟がなきゃ、悪魔の妻なんてやってないって前にも言ったぞ?愛してなきゃお前の子供なんて生ん でない」 「マイ・レイディ」 シエルの即答に満足そうに笑うと、セバスチャンが薄い背を流れる長い髪を愛しげに梳いていく。 「でも二人の子育てが落ち着くまで、次の子供のことは考えてない」 それでなくても、何もかもが初めての経験だったから、我ながらよく乗り切ったと思うシエルだった。 セバスチャンによって遺伝子を弄られ女にされて、それから好き勝手に犯されて妊娠までさせられて。 愛してなきゃ、今頃は自ら生命を絶っていても可笑しくはなかったくらいだ。 「でしたら、開発には長期計画で時間を掛けて、色々試作品を作りましょう」 「……人の話しを聴いてるか?」 都合のいいように解釈された科白に、シエルが半ば落涙する。尤も、セバスチャン相手に何を言って も無駄なことも判りきっているから、シエルも本気でセバスチャンの行動を止めようとは思っていなかっ た。それをして周囲からはバカップルと呆れられている二人だ。 「この部屋は適温に保ってますが、夜間の授乳には、部屋をすぐに暖められる暖房機も必要ですし。冬 の夜の授乳は、子供に寒い思いをさせない配慮も必要ですからね」 悪魔の魔力で室温は赤ん坊に丁度いい適温に保たれているが、普通の屋敷ではそうもいかない。そ の為の暖房機具も必要だろう。 「……お前の頭は、色々なものを飛び越えすぎだ。少しは現実を見てものを言え」 季節は真冬だというのに、どうやらセバスチャンの頭の中は春らしい。ついそんなことを思ってしまう旦 那の科白に、シエルはやれやれと溜め息を吐き出し、そっと愛娘の頭を撫でてやる。そろそろ空腹も満 たされたのか、マリーは母親の腕の中で、うとうとし始めている。 「まぁ確かに、真冬の、それも夜中の授乳は、室内が冷えきっているからな」 セバスチャンの魔力により、室内の温度は適温に保たれ、肌寒さ一つ感じないものの、これが世間の 屋敷ならそうはいかない。真冬の、それも夜中の授乳は、母親ばかりか赤ん坊も寒いだろう。それはそ れで正論だとは思うが、だから開発しましょうと言うのは、色々なものを飛び越えた発想だ。世間には根 回しだとか、段階というものが存在するのだ。 「母親だけではなく、子供の授乳時のケットも必要でしょうね。部屋をすぐに暖められる暖房機具も必要 でしょうし。こうして見ると、子供達が生まれてみなければ判らない経験は沢山ありますねぇ」 夜中の授乳は、寝ていた赤ん坊の体温も逃がすことになりかねない。母親が寒い中で授乳するよう では、赤ん坊も寒い思いをするのだ。それはいただけないと、セバスチャンは思案気な表情を刻み付け、愛娘を見詰めた。 「……取り敢えず、今は間に合ってるだろう?」 室内が適温に保たれている今、暖房機具や子供達のアフガンなど、即席で用意しなくてはならないも のは一切ない。けれどこれが明日にでもなれば、デスクには書類が山積みにされるだろう。契約だ何だ と煩かった割に、子供達のことに関しては、セバスチャンは肝心な根回し一つにも大雑把だ。 「次の子供の為にも、長期計画でよりよいものを考案しましょう」 「……好きにしてくれ」 莞爾とした笑みを向けられ、シエルはがっくりと項垂れた。どうせ何を言っても好きなように解釈する悪 魔だ。言うだけ無駄なら、好きなように行動させてしまうのが一番の得策だ。そのくらいの開き直りがな ければ、悪魔の妻などやってはいられないというのが、シエルの素直な本音だ。そんな両親のバカップ ルのような会話も素知らぬ顔で、空腹が満たされた愛娘は、何やらむにゃむにゃと口を鳴し、小さい手 でシエルの長い髪を握り締めて眠り始めている。 「おやおや、お腹一杯になりましたか?」 満足そうに瞼を重くさせ始めた愛娘に瞳を細めると、セバスチャンが腕を伸ばして、マリーを抱っこしよ うとしては、失敗する。 「ちょっ……マリー…」 「マリーは、奥さんの髪がお気に入りですね」 シルクのように滑らかで光沢のあるシエルの髪は、闇に沈み込むような色をしているくせに、それは 陽射の中で見ると、金色に輝いて見えるのだ。それが楽しいのか、マリーはよく母親であるシエルの髪 を握り締めては、キャァキャァと笑うことが多かった。今もそうだ。眠りながら大好きな母親の髪を握り締 めている。 「ネコじゃらしと同じ作用じゃないのか?」 揺れる髪が面白いだけの作用だろうとシエルは疑ってもいなかったものの、抱き上げれば機嫌よく笑 って髪を引っ張るマリーの仕草は、いつものことだ。 「楽しみですねぇ」 ミルクを飲んで満足そうにしている我が子を愛しげに見詰め、セバスチャンがクスリと小さい笑みを滲 ませる。 「何だ?」 「マリーは奥さんにそっくりの美人ですし、私がきっちり髪の手入れはして差し上げるので、奥さんとマリ ーと、二人揃ってお揃いのドレスを着て下さいね」 「……妄想甚だしいな」 「何を言ってるんですか。それこそ男親の夢ですよ。奥さんがウェディングで使用したガーターを、マリー に付けるのが私の夢ですから」 ウェディングの際、花婿が花嫁のドレスの中に潜り込み、口だけを使って左足のガーターを取り外すガ ーター・トスは、格式を重んじる貴族のウェディングでは決して行われる類いではなかったものの、何故 か二人の結婚式ではそれが当たり前のように行われた。そして残った右足のガーターは大切に保管し ておき、子供が生まれた際にヘアバンドとして使用すれば、赤ん坊は倖せになれると言われている。そ の為セバスチャンはシエルが使用したガーターを、大切に保管しているのだ。 「悪魔のくせに、人間界に染まりきっているな……」 どれだけの年月をこの世界で生きていたのか甚だ不明なものの、セバスチャンは世俗的ことをよく知 っている。それは博識と呼ばれるものから、心底呆れ返るものまで様々だ。 「さぁマリー。お腹一杯になったんですから、こっちにいらっしゃい」 ブルネットの髪を握り締める紅葉のような小さい手をそっと開くと、小さい温もりを腕の中に抱き留め、 あい気を促す為に、小さい背を撫でるようにそっと叩いていく。そうするとマリーは小さいあい気を吐き出 した。 「セシル」 聞き分けがいいんだか、妹が済んだらと思っているのか、マリーの双子の兄のセシルは、マリーの大 泣きにも眼を覚まさない、中々に根性も神経もすわった子供だ。そして妹が満腹になったのを見計らっ たようにぐずり出す辺り、状況把握能力が優れているなと、まったく見当違いな感心を寄せているシエ ルも、セバスチャンに負けない程度には親バカだ。 「……状況把握能力が勝っている訳ではないと思いますよ?」 そしてそんな愛妻の内心など丸判りのセバスチャンは、人のことが言えない愛妻の親バカぶりに、少 しだけ呆れた。 「僕とお前の子供で、優れてない訳ないだろう?」 「奥さんにとってのその科白は、あまり褒め言葉にはなりませんよ」 めっきり真顔のシエルの科白に、セバスチャンがやれやれと言った様子で溜め息を吐き出した。 状況把握能力は、裏社会を管理するファントムハイヴ家の跡取り息子には、無いより有った方がいい のは当然だろう。それはセシルに限らず、社会で生き残るには必要な機能だ。けれどどうにもシエルの 科白から感じ取れるそれは、伯爵家の跡取り息子としての能力より、裏社会の探偵としての推理力に 集約されている言葉にしか聞こえないから、セバスチャンにしてみれば、あまり褒められたことではなか った。 王室の穢汚を引き継ぐ家系とはいえ、元々セバスチャンはシエルをそんな穢汚には近付けたくはなか ったくらいだから、当然子供にも近付けたくはないと言うのが、素直な本音だ。けれどシエルの子供だ。 いずれは深淵に魅せられてしまうことも、セバスチャンは正確に理解している。 「この子はいずれはファントムハイヴ家を引き継ぐ子供だ。その程度なかったら困るだろう?」 ぐずりだした息子を腕に抱きながら、シエルがセバスチャンと大差ない親バカな科白を口にする。 「奥さんがお仰っているのは、表の仕事より裏の仕事。それも推理に集約されいるから、タチが悪いん ですよ」 「……悪かったな…」 苦笑し告げられるには些か腹のたつ科白だ。シエルは少しばかり憮然となると、ぐずりだしたセシル に乳首をあてがった。豊満とは言いがたいシエルの胸は、けれど形良く張り出した瑞々しさがある。そ の胸元に顔を埋めて満足そうに母親のミルクを飲んでいる息子に、セバスチャンが複雑そうな視線を向けた。 「……お前……セシルがミルクを飲む都度、その顔はやめないか」 「それは仕方ありませんね。息子の初めての恋人は母親だと申しますし」 「……お前は〜〜マリーが僕のミルクを飲んでても、何も言わないじゃないか」 まるで恋敵ですとばかりに子供っぽい言外を滲ませる旦那に、シエルは眉間に皺を寄せる。子供が 生まれたら多少は鬱陶しい生き物になるかもしれないと覚悟はしていたものの、此処まで鬱陶しい生き 物になるとは思わなかった。これでは旦那が一番手の掛かる大きい子供だ。 「私から見ても、セシルは似ていますからね。息子に奥さんを盗られた気分になるのは、仕方ありませ ん」 誰の眼から似ていると言われるように、セシルは父親であるセバスチャンの血筋を色濃く受け継ぎ、 目鼻立ちも黒髪もよく似ている。その子供が愛妻の胸元に吸い付いているとなれば、らしくない嫉妬の 一つや二つ、覚えて当然だと思うセバスチャンだった。 「大体その論法でいけば、娘の初めての恋人は、父親らしいぞ」 「母子愛着形成は、娘より息子の方が高いそうですよ。母親の執着も息子の方に注がれやすいそうで すし」 「……お前は〜〜子供相手に本気で妬くな」 どうやら半分は本気で妬いているらしいセバスチャンに、シエルはがっくりと肩を落とした。 手の掛かる大きい子供は始末に悪い。それもミルクを与えれば済む訳ではないから尚更だ。 「奥さんが慰めて下されば、いい子になりますよ」 「何がいい子だ……」 にっこりと音が響きそうな威勢で笑うセバスチャンに、シエルが心底呆れた溜め息を吐き出した。熟睡 モードになった娘を抱っこして言う科白ではないだろう。 「私にも奥さんのミルクを飲ませて下さいね」 「毎晩毎晩、飲ませてやってるだろう?一番構ってやってるのもお前だ」 もういい加減このバカな旦那をどうにかしてくれ。シエルは自棄くそ気味に口を開くと、次には胸元に 吸い付いている我が子に視線を落とした。 「子供達の方が聞き分けがいいな」 少しは見習ってマテを覚えろ。そんな風に笑えば、セバスチャンは莞爾と笑い、口を開いた。 「そこは元々、私の場所ですから。今は子供達にちょっと貸しているだけですよ」 「……お前が躍起になって調整ミルクを開発したのは、それが本音じゃないだろうな…」 「さぁ?どうでしょう?」 意味深な笑みを向ければ、シエルが嫌そうに眉を寄せる。それが可愛いやら可愛いやら、セバスチャ ンは莞爾と笑うと、そっとセシルの頭を撫でてやる。 「貴女が生んでくれた子供達ですから。少しでもよりよい環境を整えたかったんですよ。貴女にも負担は かけたくなかったですし」 「だったら毎晩下らないことを言うな」 「でもそこは私の場所だと言うのは、事実ですから仕方ありませんね」 「……」 しれっと口にされるにはあまりと言えばあんまりな科白に、シエルは反駁する気にもなれなかった。こ こで反駁すれば、セバスチャンに都合がいい状況を与えるだけだ。 「私が毎晩乳腺マッサージをして差し上げているから、母乳の出もよろしいと思いませんか?」 「お前は〜〜」 恥ずかしい科白をシレッと口にされ、反射的にクッションを投げ付けようとして、寸前の所で思いとどま った。自分の腕にはセシルが、セバスチャンの腕にはマリーが在るのだ。迂闊なことは何もできない。 「それこそ奥さんの大好きな事実ですよ」 既に殆どピロトークでしかない会話は、子供達が生まれてからほぼ毎晩繰り返されている繰り言にす ぎない。子供達が生まれたことで、より濃密になってしまった夜の時間だ。 「まったく……子供達の次にはいつだって構ってやってるんだから、おとなしく待ってないと、今夜はお 預けだ」 寝不足は、何も真夜中の授乳だけの問題ではないのだ。いつだって聞き分けのない子供の駄々と大 差ない旦那の相手が、一番手が掛かるのだ。 「その分、いつだって最高に気持ちよくして差し上げてるじゃありませんか。子供達を出産してから、より 敏感になりましたからね、奥さんは」 「もう、うるさい!ちょっとは黙って待ってろ」 ああ言えばこう言う。いくら子供達が未だ二ヶ月で、言語を理解する力はないと言っても、恥ずかしい ことには変わりない。まして今は授乳中だ。 「ちゃんと構って下されば、いい子で待ってますよ」 「まったく、やっぱりお前が一番手のかかる子供じゃないか」 にっこりと音が響きそうな威勢で笑う旦那に、シエルは呆れて笑いながら、セバスチャンの黒髪を軽く 引っ張った。 |