Black Doctor












 静まり帰った更衣室の扉を少しばかり乱暴に開くと、中には無機質なロッカーが整然と並んでいる。
緩い暖房の効いた室内に冬の冷気が入り込むことはないものの、無機質な印象からか、何処かひんや
りとした印象が付き纏う。
「鳴呼、まったく……。折角シエルの誕生日を一緒に迎える予定だったのに」
 白衣のポケットから懐中時計を取り出し時刻を確認すると、セバスチャンは深々と溜め息を吐き出した。
 時刻は0時を少し回った時刻で、本当なら今頃は、小さな恋人の為に焼いたケーキを前に、乾杯して
いる筈だった。それが今自分が在るのは職場の色気も何もない無機質なロッカーとあっては、八つ当た
りの一つや二つ、したくなっても当たり前なのかもしれない。
 第一と思う。第一、元はと言えば、非番の自分をさも当然のように呼び出した、赤い髪の同僚の所為
だ。
 赤い髪に赤いフレームのメガネ。躯は男でも、心は女DEATHと、血迷った科白を平然と口にする同
僚には、毎度のことながら辟易する。それでも心底ただの莫迦なら放置もできるが、同僚として見た場
合、解剖医としては一級品だから始末に悪い。外科医に匹敵するメス捌きをしていながら、何故外科に
進まなかったのか、不思議なくらいなのだから。脳外科でも循環器外科でも、選び放題だっただろうに。実際研修医時代に見せたメス捌きは、各課の教授連の目にもとまったくらいで、あちらこちらからの誘
いも多々あった筈だ。些か手腕と言動と見た目から、患者や家族に不信感を与えるかもしれないが、外
科医としての能力なら一級品だ。そんなことは症例をこなしていけば、その能力が評価され、不信感を
上回っただろうに。
「まったく……」
 それでも現在自分の同僚だという事実は変えられず、セバスチャンは苦く舌打ちすると、無造作に白
衣を脱ぎ捨て、ロッカーへと放り込む。バタンと音を立てロッカーの扉を閉めたと同時に、問題の赤い髪
の同僚が入ってくるのに、セバスチャンは嫌そうに眉を寄せた。
「今夜は助かったワ、セバスちゃん。流石の私も、二体一辺に、解剖はできないもの」
 そんなセバスチャンの内心を読んだかのように、グレルが顔を突き出し、にんまりと笑う。
 死体相手の解剖医という仕事がら、どんな凄惨な死体を前にしても表情を変えないセバスチャンは、
クールビューティーだの、死の大天使だの、歩く魔界医師だの、悪魔のメス捌きを持つ黒ドクターだの、
三つも四つも通り名がある男だ。特に見た目の良さも手伝って、看護師からは人気が高い。とは言って
も、ものが法医学教室だけに、生きた人間を相手にする看護師はここには存在しない。そして女性研修
医からも勿論人気が高いが、告白して泣かせた相手は、グレルの知る限り、両手と両足の指を使い、
更にそれを二周しても足りない程だ。その相手が自分相手に不快な表情を見せていることが、グレルに
は面白かった。
「今日私は非番だった筈ですが?」
 そもそも今日と明日はシエルの誕生日を一緒に過ごす為にと、随分前から同僚達に根回しをして、休
暇を確保した筈だった。
 大学の法医学教室というのは何処もそうだが、解剖医の人数が圧倒的に不足している。医師の間で
も死人相手の医療というのが、中々に理解されないという背景があるからだが、死体と向き合えば、そ
こから拾い上げなくてはならないものは無数に存在する。その存在の重要性に気付いた者だけが、お
そらく解剖医としてやっていけるのだろう。そして数少ない解剖医の中、連休を取るのも中々に難しい現
状が存在するから、セバスチャンは随分前に、同僚から上司まで、根回ししていたのだ。けれどそれが
グレルだけには通用しない。腐れ縁というか、それだけでは人に語れない後ろ暗さがあるからだが、戯
れに邪魔だけはするなと釘をさしていたにも関わらず、都合よく変死体がミディアムとなって発見されて
は、呼び出されても文句は言えない。
「関係各所に根回ししたみたいだけど、恨むなら今日変死体なんて発見しちゃった運の悪い一般市民
や、それを持ち込んだ警察や、変死体自身に言うのね」
 どれだけの文句を羅列しても、セバスチャンは変死体に文句など言えない。そんなことを言っている様
では、解剖医失格だからだ。見た目同様、中身もプライドの高いこの男が、そんなことを口に出せないこ
と程度、判りきっている。伊達に同僚ではないのだ。尤も、だからと言って、死者への哀悼があるかと言
えば、話しは別だ。そんな感情など、おそらくこの有能と評判の解剖医には存在しないだろう。
 捜査の第一次機関である警察や、二次機関である検察、裁判所の判事、そして弁護士と、セバスチ
ャンの解剖医としての腕には定評がある。異状死体の中でも、取り分けて事件性のある死体というの
は司法解剖が必要で、その場合、大学の法医学教室に搬送されてくるが、その中でも更に事件性の
強い死体鑑定の解剖には、敢えてセバスチャンが指名されることも少なくはない。それはセバスチャン
の解剖医としての緻密さと、それを纏め上げる鑑定書の作成が綿密だからだ。司法解剖は捜査の為の
解剖、要は公判の証拠として提出されるから、鑑定書は緻密であればあるほどいいのは疑いようもな
い事実だ。
 だから今日もグレルが呼び出しはしたものの、実際は現場を指揮する警部補のアバーラインが、セバ
スチャンを指名したという顛末が付く。けれどグレルもそこまでは言わない。そんなことは、セバスチャン
自身が一番よく判っているからだ。
「もっとも、セバスちゃんが変死体にそんなことが言えればだけど」
 フフンと笑うと、グレルは白衣を脱ぎ捨て、ロッカーへと放り込む。赤い髪を纏めていた黒いリボンをバ
サリと解くと、ストレートな長い髪が背に広がった。
「相変わらず、毒々しい赤い色ですね」
「アラそうお?美容師に綺麗な髪だって褒められるわよ。マダムレッドも似たり寄ったりの赤い髪だけど、彼女にも髪質だけは綺麗だって褒められてるのよ。手入れだってちゃんとしてるしぃ」
「髪質だけ、褒められてるんですね」  
 それはそうでしょうと、セバスチャンが冷やかに笑えば、グレルはさして気にした様子も覗かせず、白
い歯を見せて笑う。
「私もかなり残業しちゃったのよね〜〜。日勤だったんだから。ねぇ?これからどっか食事いかない?お
中空いちゃったワ〜〜」
 何も忙しかったのは、セバスチャンだけではないのだ。自分も日勤の終わりに持ち込まれた遺体の解
剖をしていたのだ。八つ当たりしたいのはお互い様だと、グレルが馴々しい仕草でセバスチャンの腕に
腕を絡めれば、セバスチャンはグレルを一瞥すると、その手をあっさりと振り払った。
「ウィリアムに恨まれたくはないので」
「ああ、今夜は徹夜じゃない?先日の事件の被疑者が送検されてきて取り調べしたらしいんだけど、警
察調書に何か不明点があるとか言ってたから」
 今頃担当捜査員を呼び付けて、こってり油でも絞ってるんじゃないの?そんなふうにグレルは笑う。
「あの堅物は、一体貴方の何処がよかったんでしょうね?」
 何を好き好んで、腕は一流なものの、それを差し引いても頭の中身がどうにかなってしまったような言
動を平然とするこの男が良かったのか、セバスチャンには理解できない。尤も、説明されても、理解する
気は毛頭なかったけれど。
 ウィリアムは、呆れる程尻軽な印象しかないグレルとは対照的に、堅物を絵に描いたような典型的な
官僚だ。そのウィリアムが何故グレルを選んだのか、セバスチャンにはまったく理解不能だった。
「あらやぁねぇ。遊びまくってたくせに、そんことも知らないの?ホワイトカラーの人間って、極度のストレ
スに曝されてるから、真逆に走りやすいのよ」
 だからじゃないの?平然と言うグレルに、セバスチャンは呆れた視線を向けた。
「それを言うなら、アナタはどうなのよ、セバスちゃん?看護師から研修医まで告白されまくって、適当
につまみ食いしてるくせに、何をとち狂って、あんな毛も生え揃わないようなガキに入れこんじゃったの
よ。そっちの方が謎ヨ〜〜」 
「貴方にシエルの良さを説明するつもりはありませんね」
「昔あのガキの家庭教師してたって言うじゃない?まさかその頃からなんて、冗談はなしヨ」
「その頃からですよ、勿論」
 ニッコリと笑えば、流石のグレルも心底呆れたらしく、目を点にしている。
シエルが未だ幼い頃、家庭教師として週に一度勉強を教えていた時期がある。それはほんの短い期間
ではあったものの、シエルは年不相応に聡明な子供で、取り立てて新しい何かを教える必要もなかっ
たくらいだ。だから教科書を開いての一般的な家庭教師をしたことはないが、シエルの日常を彩る友達
の話を聴いたり、その日の出来事や読んだ本の話。時には事象に関することなど、色々話した。思えば
あの頃からあの子供に惹かれていたのだと痛感したのは、離れた後のことだった。だからシエルの両
親が事件に巻き込まれ殺害された時、被害者の遺族としてシエルと再会した時は驚いた。
 両親の愛情に育まれ育っていた無邪気な子供は、両親を目の前で殺害され、驚く程、その面差しが
様変わりしていた。最近漸く以前のように感情を見せてくれるようになって安心していたのだ。それを邪
魔したのはお前だと、セバスチャンがひんやりとグレルを睥睨する。
「そのシエルとの誕生日の夜を邪魔した借りは、高くつきますよ」
 シエルの誕生日は12月14日、クリスマスイヴの丁度10日前だ。一緒に誕生日を迎えたいという言
葉の裏には、シエルの拭えない疵が見え隠れしている。両親の愛情に包まれ育っていた子供が、両親
を殺害されたのだ。いつも祝ってくれた両親かいない。それがどれだけシエルに重い疵を残したのか。
だからこそ一緒に誕生日を迎えたいという細やかな願い程度効いてやりたかったというのに、この莫迦
は全てを台無しにしてくれたと、セバスチャンが苦り切った舌打ちをする。
「どんな死体を前にしても、表情一つ動かさないセバスちゃんがねぇ」
 死者への哀悼や遺こされた遺族への憐れみ。そんな感情はセバスチャンの中にはないだろう。淡々
と解剖するメス捌きは、自分から見ても尋常ではない。死体を一目見た時から、まるで死因の全てを理
解しているように、セバスチャンは淡々と解剖していく。そのセバスチャンが、13歳になったばかりの子
供に夢中になっているのが、グレルには可笑しかった。人を好きになる感情なんて、あるとは思えなか
ったからだ。
「でもまだでしょ?」
 にんまりと笑うと、グレルはセバスチャンの表情を窺った。「未だ、あのガキに手を出してないでしょう?」
「何が言いたいんですか?」
「悪魔みたいなメス捌きして、感情なんて何処かに置き忘れてきたようなセバスちゃんが、未だあのガ
キに手を出してないなんて、笑うなって言う方が無理ヨ〜〜」
 セバスチャンにとって、生者も死者もさして意味のあるものではないし、大差内代物だろう。息をしてい
るか、していないか。心臓が動いているか、停止しているか。セバスチャンの中で区別されている死生
観は、その差程度の気がしていた。実際、シエルのこと以外には、その程度だろう。
 そのセバスチャンが、両親を殺された、たかが非力な子供に手も出せないことがグレルには可笑しく、
そして憐れだった。同時に、何処かで羨ましくもあった。 
「誰にでも下肢を開く貴方に、言われたくないですよ」
「アラ、でも具合は良かったんでしょ?アタシの躯」
 フフンと笑えば、セバスチャンの面差しが変容する。緩い暖房が入った室内の空気が、目に見えて下
がったからだ。
「あんなガキより、アタシの方が色々楽しませてあげられるわヨ」
 舌舐めずりする威勢で、ぬめった赤い舌が、ルージュを引いた口唇を舐めれば、セバスチャンの視線
が鋭利さを増した。
「なかったことには、できないのヨ」
 フフっと笑うグレルの笑みに、セバスチャンは忌ま忌ましげに舌打ちする。
 時間が巻き戻らないのと意味は同じで、リセットできる救いはない。シエルにも、自分にも。
「餓えた獣そのものだったものねぇ」
 そう笑うグレルの首に、黒い革製の手袋をしたセバスチャンの腕が不意に伸びる。
「このまま締め殺しても、隠蔽はできそうですね」
 手袋を嵌めた手で扼殺すれば、手袋痕は残るものの、指紋は検出されない。
「貴方もご存じでしょう?この英国には裏社会の番人が存在する。どんな世界でも金を積めば片が付く
ことは多い。貴方一人行方不明になったとしても、騒ぎ立てるのはウィリアムくらいでしょう」
 けれどウィリアムがどれだけ騒ぎ立てたとしても、更にその上から圧力が掛かれば、相手にもならな
い。政治とはそういうもので、そんなものは日常茶飯事に起きている。司法に携わる人間は、清廉潔白
でありながら、染まることなく上にいくことは不可能に近い。汚れなくては上には行けないのだ。組織と
いうシステムに帰属している以上、誰もが精練潔白ではいられない。その中でどれだけ強力なカードを
握り、必要時にカードを切ることができるか。それが根回しと言うもので、政治と言うものだ。司法という
システムも、政治とは無縁ではいられない。ある意味、司法だからこそ、無縁ではいられないのだ。
「あの莫迦正直の堅物も、いずれはその事実に気付くでしょうね」
 研ぎ澄まされた冷やかな笑みには、感情の欠片も感じられない。淡々と死体を切り裂く死体を見る視
線と大差ない。その視線の前に身を曝し、グレルが歪に顔を歪めた。けれど真っ赤なルージュを引いた
口唇は、哄笑するような笑みを浮かべている。
「流石死神と名高い貴方ですね。こんな時もその笑み、反吐が出ますね」
 自分が悪魔のメス捌きと言われるなら、まるで死神の鎌で狩るように死体の皮膚を切り裂いていくグ
レルの腕は、グレルが当直時等、必ず検案遺体が持ち込まれることから、死神と名高い。まずグレル
が当直や休み当番などで法医学教室に詰めていれば、必ず2体、3体の検案遺体が持ち込まれてくる。医療業界では、患者の急変や死亡に立て続けに当たる者は多いし、一度そういうことに当たりだすと、立て続けに当たりやすいが、グレルもその典型例だ。赤い髪に赤いフレーム眼鏡を掛けた死神。なん
とも反吐の出そうな通り名だ。悪趣味極まりない。
「それは悪魔って名高いアナタも一緒ヨ。一部で黒ドクターて言われてるの知ってるでしょ?生きてる人
間も死んでる人間も、アナタにはどっちも一緒なんだから」
 それは医師としては致命傷なものの、死体相手の解剖医には適任なのかもしれない。死者への思い
込みで解剖してしまえば、余計な先入観で他のものを見落としてまうが、どちらも区別がなかったら、先
入観も思い入れも生まれないだろう。解剖医はテレビや推理小説のように、実際現場に赴いて捜査な
どに参加しない。あくまで死体から死因を究明することが重要なのだ。そしてそこから見えてくるものが、セバスチャンには他の医師より抜きんでている。まるで死体の声を聴くかのように。
 死者がセバスチャンの耳元で死亡時の状況を語っているんじゃないかと思える程、セバスチャンの何
気ない一言が、捜査を押し進めていくと、浮上することが多い。悪魔のメス捌きで死者の声を語る。それ
がセバスチャンに対する噂だ。
「別にあのガキに言うつもりはないワヨ。あのガキって、見掛けの小生意気さどおり、下手すると噛み付
いてくるもの。私も裏社会の番人を相手にする程、莫迦じゃないワヨ」
「……よくご存じですね」
 シエルの家系は現代においても、連綿と受け継がれて来た血を持つ伯爵家だ。そしてその中身は、
代々当主にのみ受け継がれてきた業のようなものが存在する。その業の為か、ファントムハイヴ家当主
は短命だとも言われているが、英国裏社会を掌握し、管理し、その絶大なチカラを使役する、裏社会の
秩序だ。父親であるヴィンセントが殺害されたことにより、それがシエルに受け継がれた。
「蛇の道は蛇。死神の名は伊達じゃないのヨ」
 フフッと意味深に笑えば、セバスチャンがグレルから腕を離す。
「幾ら小生意気な性格してるとはいえ、未だ13のガキに何処まで裏社会の秩序なんて勤まるか判らな
いとは思うけど」
「私が生涯掛けて守りますから、余計な口も手も出さなくて結構ですよ」
 にっこりと笑うと、セバスチャンは白衣の変わりに、黒いロングコートをバサリと羽織る。
「出さないワヨ。アタシも未だ死にたくないし。ああ、でもアナタが解剖してくれるならちょっと考えるワ、
セバスちゃん」
 アナタが解剖してくれるなんて、ゾクゾクするワと、グレルが妖しげに笑えば、セバスチャンの視線が
冷やかさを増した。
「本気で捻り殺しますよ」
「事実だから仕方ないワヨ。アタシが変死体なんかで発見されたら間違いなくここに運ばれてくるし、間
違いなくアナタがアタシの解剖を担当することになるワヨ」
 逆も同じだから、その時はじっくれアナタの中身を覗いてあげるワ。そんなふうに笑うと、グレルも赤い
コートを羽織った。
「ああ、暇だからウィルを、揶揄いにでも行こうかしら」
 赤い髪をさらりと掻き上げると、赤い手袋を嵌める。上から下まで鬱陶しいくらい赤い色でコーディネー
トされた姿は、
常人には真似できない姿だ。
「明日は間違っても呼び出さないように、アバーライン警部補に言っておいて下さい」
「さぁ、それはどうかしらネ。変死体を作り出してる犯罪者に言ってもらわないと。それこそアナタの大事
な小さい裏社会の王子様から、直接裏に言ってもらっておくのね。莫迦はやるなって」
 さぁ、じゃぁアタシ帰るワヨ〜〜暢気な声が歩き出し、名にかを思い出したようにセバスチャンを振り返
る。
「一つ忠告してあげる」
「余計な口は出すなて、言った筈ですよ」
「大事にするのは勝手だけど、それが相手にとって有効かってこととは別問題ヨ、セバスちゃん。アナタ
ってつまみ食いは得意だけど、感情には不得手だから、一つだけ忠告してあげる。大切にしすぎると、
却ってあのガキを追い詰めるワヨ。子供には子供の独占欲が存在するし、子供だから我慢がきかない
って、覚えておいた方がいいワヨ」
「児童心理学が得意なんて、きいたことありませんね」
「アラ、単純な算出の結果ヨ〜〜。情報源はマダム・レッドだもの」
 マダムレッドは同じ大学病院に勤務する産科医で、そしてセバスチャンの年下の恋人であるシエルの
叔母でもある。情報は可笑しいくらいに筒抜けだ。
 フフンと笑うと、グレルはじゃぁ週明けに成果を聴かせてネ〜〜と、笑いながら去っていく。かつかつと
鳴るヒールの音が遠ざかっていくのに、セバスチャンが苦く舌打ちする。
「簡単に手が出せないくらい大切だから、始末が悪いんですよ」
 やれやれと溜め息を吐き出すと、セバスチャンは更衣室の扉を閉めた。










□ □ □









 凍り付きそうな冬の深夜。空気に氷を刻み込んだかのように澄み切った空気は、いっそ肌身に心地好
いくらいで、藍色の天空には、冴えた光を放つ月が、切り取ったように浮かんでいる。
 セバスチャンは地下駐車場に車を停めるとエレベーターで目的地まで上る。
ロンドンの中心にあるマンションは、大学病院からさした距離は離れてはいない。白く瀟洒な外観とは
対照的に、セキュリティーは最新の設備が導入されたマンションは、セバスチャンと同年齢の男性から
見れば、随分贅沢な代物だろうが、医師となれば別段珍しくもないだろう。
 マンションの玄関扉をそっと開くと、中から人の気配は感じられない。それでもセバスチャンの為に玄
関の淡い明かりが付いているのは、シエルが在る証拠だ。
 白と黒のゴシック様式を取り入れた廊下を過ぎれば、不意に視界が開け、広いダイニングになってい
る。照明が消された静まり返った室内の中、クリスマスツリーの電球だけが、一定間隔で点滅している。それはシエルの瞳とよく似た、綺麗な蒼色をしている。そしてカーテンが引かれない窓からは、魔都と
呼ばれるロンドンの不夜城が一望できる。
 先進国の首都は何処も眠りを知らない。C02削減など何処吹く風で、クリスマスのイルミネーションが
華やかに街を彩っている。そんな窓際のソファーに腰掛け、シエルは眠っている。ダイニングテーブルの
上には、セバスチャンが昼間用意したケーキと料理が並んでいるが、それには手も点けられていない。
そのことに少しばかり眉を寄せると、セバスチャンはシエルにそっと近付いた。
 緩く暖房の効いた室内は寒くはないだろうが、カーテンも引かない窓辺にいれば、話しは別だ。まして
シエルの恰好はと言えば、クローゼットから引っ張りだしてきたのだろう、自分の白いパジャマの上着だ
けを引っ掛けただけの姿で、薄く細い躯には二回りは大きいパジャマはぶかぶかで、膝から下が剥き
出しに曝されている。
「またそんな恰好をして……」
 それがどれだけ男を挑発しているのか、シエルに自覚はないだろう。だからこそ、シエルに迂闊には
手を出せない。
 セバスチャンはこっそ利他明記を吐くと手袋を外し、て瀟洒な輪郭にそっと触れる。そうすれば一体い
つからここにいたのは、シエルの頬は冷えきっている。
「夕飯は食べるように言った筈ですよ」
 小さく溜め息を吐くと、ブルネットの髪をサラリと梳き上げる。闇に沈み込むような色をしているくせに、
ブルネットの髪は陽射の中で見ると、不思議と金色がかって見えるから不思議だ。柔らかい髪質は幼
い頃と変わりなく、先へ行けば行く程、細くなっている。けれどそれは栄養が不足して髪が荒れている
訳ではなく、柔らかい髪質の所為だ。
「まったく…こんな無防備な寝顔、他の男の前で、見せていないでしょうね?」
 当人に自覚がないだけで、シエルは人を惹く。木の葉を隠すなら森の中と言うが、同じ論法で行けば
人を隠すなら人の中だ。けれどシエルは他人の中では浮いてしまう。容姿の綺麗さと相俟って、纏う雰
囲気が人を惹いてしまうからだ。そのくせ自在に気配を絶てる訳ではないだろうに、隠れたい時は容易
に人込みの中に紛れ込んでしまうから始末に悪い。
「閉じ込めてしまいたい程大事なんだって言っても、貴方には未だ判らないでしょうね……」
 無防備なシエルを前にすると、時折どうにも雄の衝動で奪ってしまいそうになる。それを理性の力で押
さえ付けているというのに、シエルにはそれが通用しない。だから何もかも見透かしたようなグレルの科
白は、あながち間違ってはいないのだ。だからこそ余計、癪に触った。
 サラサラと柔らかい感触を伝える髪が心地好く、幾度となく梳いていれば、ぼんやりと言った様子で、
シエルの瞳が開いていく。
 サファイアとアメジストのオッド・アイ。オッド・アイというだけでも稀少なものの、シエルの瞳は更に稀
少だ。右眼がアメジストのような綺麗な紫に。左眼はスター・サファイアのような深く澄んだ蒼。幼い時
は意識してもいなかったのだろう。シエルは右眼を隠すことなどなかったものの、学校に通う時分には
アメジストの瞳を気にして、眼帯で隠す様になったらしい。個人的にはアメジストの瞳は綺麗だと思うが、シエルにとってはまた別の意味を持っている様子で、セバスチャンは取り立ててそのことには追及し
なかった。だから最初、セバスチャンもシエルの右眼をすぐに見せては貰えなかった。シエルの幼少時
家庭教師をしていた時分、初めてそれを見せて貰った時、素直に綺麗だと想い言葉にすれば、両親や
極近しい人以外にそんなことを言われたのは初めてなのか、シエルは随分困惑し、そうして淡い笑み
で笑った。
 春の淡い陽射の中、同じくらい淡い笑みを見せたシエルの無邪気な笑顔をも今でもよく覚えている。
「……セバスチャ……?」
 眼を擦りながらぼんやりと言った様子で瞳を開いたシエルは、自分を覗き込んでいるセバスチャンに
気付くと、小首を傾げた。
「鳴呼、そんなふうに眼を擦ってはダメですよ。傷つけてしまいます」
 そっと細い指先を掬い上げると、その指に口唇を寄せる。
「こんなに冷えて、寝ていて下さいって言ったでしょう?」
 幾ら暖房が聴いている室内とは言っても、窓際に長時間いれば冷えて当然だから、シエルの細い指
先は、セバスチャンの予想以上に冷えていた。
「……お帰り……」
「バースデーパーティーは明日やるとして、今夜はもう寝ましょう」
 ケーキは明日食べれば問題はないし、料理も冷蔵庫に入れるなりして、明日温め直せば大丈夫なも
のばかりだ。
「……やだ…」
「そんな眠そうな表情をして、説得力がありませんよ」
 やれやれと大仰に溜め息を吐いて見せれば、シエルは不満気な顔をして、細い両腕をセバスチャン
の腕に絡めた。その勝ち気さに苦笑し、白い瞼に口唇を寄せる。
「お誕生日おめでとうございます、シエル」
 瞼から瀟洒な輪郭を描く頬。そこから薄い口唇へと甘やかなキスを繰り返せば、慣れた様子でシエル
が薄く口唇を開いた。
「セバスチャ……ん……」
 幾度か啄むキスを繰り返し、セバスチャンの舌がゆっくりと口内に分け入って来るのに、シエルがセバ
スチャンの胸元をギュッと握り締めた。その幼い反応を確かめながら、セバスチャンはシエルの快感を
引き摺り出すようにゆっくりと狭い口内に入り込む。
「んぅ……」
 甘さと恥じらいを秘めた吐息が漏れ響く。両頬をしっかりと包まれ、その片手が不意に後頭部に移動
し、僅かに頭を傾けられると、セバスチャンの舌がより深く侵入してくる。
「んンッ……ン…ッッ」
 歯列の後ろをやんわり撫でられ、セバスチャンの舌が狭い口内を縦横無尽に蠢き回る。まるで凌辱さ
れるような激しさで口内を貪られる感覚はシエルにとっては初めてで、恥じらいと同時に、僅かな怯え
が背筋に走る。
「んゃ…セバスチャ…ゃん……ッ」
 嫌々と小さい頭を揺すって口唇を離せば、けれどすぐに今まで以上の強さで貪られる。
「んンンッ……ッ」
 呻くような吐息が漏れる。ねっとりと貪られ、痺れる程吸い上げられれば、シエルの背筋を覚えのない
強烈な刺激が走り抜け、腰の奥を甘く疼かせていく。飲み込めない唾液が口角から溢れ、だらしなく首
筋を濡らした。
「シエル……」
 貪るように重ねた口唇を啄みながら、セバスチャンの舌が白い首筋を舐め上げる。その瞬間、深いキ
スの余韻に薄い胸を喘がせている薄い肩が、反射的にビクリと竦む。
「シエル」
 薄い耳朶をカリッと甘噛みに曝せば、シエルの口唇から甘い吐息が零れ落ちる。
 自分の黒いパジャマの上着だけを羽織った婬らな恰好。膝から下の白い下肢は剥き出しで、セバス
チャンの手がシエルの内股に伸びた。裾を捲り上げ、白い内股をやんわり開けば、反射的にシエルの
下肢が閉ざされる。
「セバスチャ…セバスチャン…まっ…待って……」
 今まで幾度誘っても躯の関係を持とうとしなかったセバスチャンの性急な行為に、シエルが焦ったよう
な声を漏らす。しがみついていた胸板を咄嗟に押し返せば、更にきつい力で抱き込まれ、内股を押し開
かれていく。
「やっ……ッ、やぁ…ッセバスチャン…ッ!」
 体温の低いセバスチャンの指先が性急に内股を弄ってくるのに、シエルが嫌々と小さい頭を揺すりた
て、細い腰が逃れようと無意識に動く。
「だめ…待ってぇ…いやぁ……ッ」
 今まで幾ら誘ってもセックスなど未だ早いとばかりに相手にもされなかったというのに、今夜に限って
性急なセバスチャンの態度は、嬉しい反面、シエルに未知への恐怖をもたらすには充分だった。いつも
は理性的で冷静なセバスチャンが見せる、欲情に逸っ双眸に、シエルは無自覚な怯えを見せた。
「お願……待って…セバスチャンッ」
 容姿の端正さや、医師としての社会的身分。大人の男として女からモテル要素を全て持っているよう
なセバスチャンは、おそらく自分が思っている以上にモテるだろう。叔母であるマダムレッドから漏れ聞
こえてくる話しだけでも、想像に容易い。
 好きだと言われても、セバスチャンの好きのラインが、巧く判らない。子供の自分など相手にしなくても、幾らでもセバスチャンに相応しい相手はいるだろう。まして自分は男だ。
 以前家庭教師をしていた教え子が両親を殺害された事件で再会した。もしかしたらセバスチャンの好
きだという言葉の背後には、そんな自分への憐れみがあるのかもしれない。だからこそセバスチャンを
繋ぎ止める手段として、躯を差し出すことしかシエルには思い付かなかった。何やら安手のドラマの中
の莫迦な女のようだと思ってはみても、実際その立場に立てば、そんなことくらいしか手段が見付から
なかった。けれどセバスチャンはそんな時、少しばかり困ったような表情で苦笑するだけで、決して抱い
てはくれなかった。けれど今は違う。いつも冷静なセバスチャンが見せる雄の表情に、シエルは素直に
怯えた。
「セバスチャン……ッ!」
 我が儘だとは思う。求められて嬉しくない筈がないものの、躯がどうしても強張ってしまうのは止めら
れない。
 セバスチャンはシエルの悲鳴にも似た叫びに我に返り、腕の中で引き攣る瀟洒な貌を見下ろした。
「……シエル……」
 怯えを浮かべたオッド・アイがまっすぐ凝視してくるのに、セバスチャンはらしくない様子で、ぐしゃぐし
ゃと黒髪を掻き乱した。
 大切だからこそ簡単に奪えない。そんなふうに思い自戒していたと言うのに、自分の大きいパジャマ
を着て帰りを待っていたシエルに、理性が切れてしまった。
「申し訳ありません、シエル…」
 そっと壊れ物を扱う慎重さで、腕の中の華奢な躯を離せば、今度はシエルが戸惑った表情でセバス
チャンを見上げた。
「セバスチャ……」
 そっと引き離された躯と失せた温もりに、シエルが細い腕をセバスチャンに伸ばした。
「ダメですよ、怖いでしょう?」
 伸びてくる腕をやんわりと押しとどめれば、シエルが無言で細首を振り乱す。
「違……」
 突然のことで慌てたのは本当だ。けれど怖かった訳ではないのだ。理性的なセバスチャンの一体何
処に隠れていたのかと思える野性的な表情に少しだけ怯えはしたものの、それは恐怖ではなかった。
「違う…怖くない…だから…」
 今までどれだけの挑発にも揺らがなかったセバスチャンの理性が、今夜不意に切れたことがシエルに
は驚きで、性急に求められるとは思ってもいなかったから慌てた。
「貴方は今夜客間で休んで下さい。バースデーは、改めて明日やりましょう」
「セバスチャン」
 今まで散々求めてきたのに、いざ求められたら拒んだことがセバスチャンの機嫌を損ね、怒らせただ
ろうか?
「違いますよ」
 そんなシエルの不安な内心を見てとって、セバスチャンが緩い吐息を吐き出した。
 奪うことは簡単だった。今までも、おそらくこれからも。例え嫌がったとしても、こんな華奢な躯を押さえ
込んでしまうことに労力は必要としない。欲しければ犯してしまうこともできる。けれど、それでは意味が
ないのだ。
 今夜漸く13歳になるシエルは、同年代の子供と比較しても小柄で華奢で、未成熟な印象が強い。
そんなシエルを、幾ら合意の上とは言え、奪ってしまうことには幾許かの躊躇いが生じる。それは成長
途中の躯にとって、負担を掛けるからだ。だからセバスチャンはもう少しだけ待とうと思っていたのだ。
せめてシエルの躯と心のバランスが巧くとれるまで。欲望を絞ることは簡単だ。性欲を処理するだけの
代替え程度、幾らでも存在する。後腐れのない相手を選んで処理してしまえば済む話しだ。それが今
夜は先刻のグレルとの会話と相俟って、何処かで理性が切れてしまった。
「怒ってなんていませんよ。ただちょっと自分に腹を立てているだけです」
 さらりと柔らかいブルネットの髪を梳き、不安気な瞳を向けてくるシエルを宥めるように頬を撫でれば、
シエルが物言いたげな視線を向けてくるのに、セバスチャンは気付かないフリをした。これ以上一緒に
いたら、シエルが泣いて嫌がったとしても、自分を抑えられる自信はなかったからだ。
「さぁ、もう眠いでしょう?お子様は寝る時間ですよ」
 長い前髪を掻き揚げ、白い額にキスを贈ると、セバスチャンはシエルを客間へ行くように促した。
「やだ……」
「我が儘言わないで下さい」
「セバスチャン…!」
 胸元にしがみつけば、困ったようなに苦笑するセバスチャンに、シエルは不安を煽られる。
 今まで散々求めるような言動も行動もしていたというのに、いざ求められたら拒んでしまった。嫌われ
て当然だと、シエルはセバスチャンのコートの胸元をぎゅっと握ったまま俯いて、口唇を噛み締めた。
 セバスチャンを待っている間、寒さなど微塵も感じなかった室内の空気が、嫌に冷えて肌身を刺す気
がした。
「シエル、さぁ、もうお休みなさい」
「違う…突然だったから…だから……」
 言葉にすると何もかも少しずつ違った形になってしまい、そのもどかしさにシエルは泣き出したい心境
でセバスチャンを見上げた。
「判ってますよ。だから今は無理をしなくていいんですよ」
「無理なんてしてない!」
「無理ですよ。男の生理を理解していない程、未だ貴方は幼い。そんなに優しくありませんよ、私は」
「セバスチャン!」
「ほら、もういい加減にして、明日は映画にでも行きましょうか?」
 胸元にしがみつく指をやんわりと解けば、シエルはひどく傷ついた表情をして、次には泣き出しそうに
歪に顔を歪めると、高ぶる感情を押し殺すように叫び上げた。
「セバスチャンの莫迦!」
 泣き出しそうに歪む貌。けれど決して流れない涙。綺麗なオッド・アイの表面に涙が溜まり、けれどそ
れは零れない。
「もういい!どうせ僕は子供で、セバスチャンを喜ばせることなんてできないんだから!」
 それがいつだってずっと引っ掛かっていた。大事にされているのは判る。けれとそれが以前仕えてい
た屋敷の子供だからだという想いがずっと拭えなかった。望めばどんな相手でも手にいれることは可能
だろうセバスチャンの相手が、子供の自分に勤まる筈もないと、シエルはずっと不安に思っていたから
だ。
 両親を殺害された可哀相な子供。もしかしたら、その程度の気持ちだったのかもしれない。セバスチャ
ンの気持ちと自分の気持ちが同じだという保証き何処にもない。他人の気持ちなど、所詮理解できない
のだから。
「シエル」
 違いますよと宥めようと伸びた腕は、けれど細い躯を抱き締め損ねた。
「親を殺された可哀相な子供だから、気紛れに構っただけなんだろう!」
「シエル!」
 その瞬間、シエルの頬が小さく鳴った。 
「セバスチャ……」
 瞬時には何をされたのか理解できず、シエルは音が鳴った頬を押え、軽く叩かれたのだと理解したの
は、数秒後だった。
「何で……どうして……!」
 思考が混乱して、セバスチャンを映す像が商店を曖昧にする。セバスチャンの前で泣いたのは、これ
で二度目だ。一度目は、両親を殺害された事件で再会したセバスチャンの前でだった。優しかった父と
母を目の前で無残に殺され、気が狂ってしまったと思う程、もう流す涙も枯れ果てたと思っていた涙が、
セバスチャンと再会して再び流れた。セバスチャンの腕であやされるように泣いた後、泣くことを忘れて
いた筈だというのに、今セバスチャンによって再び流される涙に、シエルはオッド・アイを歪に歪め、ソフ
ァーに引っ掛けていたコートを手に取ると、
「セバスチャンの莫迦!不能!」
 足早に室内を出て行った。
「待ちなさい」
 まさかシエルを叩くとは思ってもいなかった自分の理性の少なさに、セバスチャンも少なからず呆然と
していた。
 どんな凄惨な死体を前にしても、感情の揺らぎ一つ見せない、悪魔のメス捌きを持つと言われている
自分が、たかが13歳のシエルを前にすると、感情のコントロール一つできない。自分を知る人間が見
たら、おそらく唖然とするだろう。
「鳴呼、本当に、厄介な人ですね、貴方は」
 ぐしゃぐしゃと髪を乱暴に掻き乱すと、セバスチャンは足早に消えたシエルを玄関先で掴まえた。背後
から抱き締めると、逃がさないとでも言うかのように、抱き締める腕に力を込める。
「離せ!どうせ厄介なんだからほっといたらいいじゃないか!」
「そんな誤解させたまま、帰せる訳ないでしょう?」
 こんなに冷えてと、隠すようにコートの内側に引き摺り込む。
「不能を不能って言って、何処が悪い」
 抵抗するように暴れる躯は、けれど悔しいことに何一つセバスチャンには適わない。コートの内側に包
まれてしまえば、意識するより早く躯は簡単に弛緩する。それが情けないやら悔しいやらで、シエルは
俯き、口唇を噛み締めれば、セバスチャンが緩い苦笑を滲ませる。卵の先端のように細い頤を掬い上げ
れば、シエルがせその手を気丈に振り払う。
「僕じゃ役にたたないんだろう?だったら他の男でも女とでも姦ればいいじゃないか」
 子供の自分では、セバスチャンの相手などつとまらないことなど、初めから承知している。ちょっと優し
くされて、色々勘違いしてしまった。それが莫迦莫迦しくて、シエルが薄い口唇に自嘲を重ねた。
「本当に、嫌になるくらい厄介ですよ、貴方は」
 払われた腕で再度頤を掬えば、シエルが視線を逸らした。
「厄介なら、捨てておけばいい。拾ってくれなんて言ってない」
 厄介。その言葉にひどく傷つく自分が可笑しくて、笑おうとして失敗する。胸の奥を軋ませていく痛み
に、涙腺が緩む気がして、きつく掌中を握れば、薄い皮膚に爪が食い込んでいく。
「厄介ですよ。束縛できないくらい想いを寄せた相手なんて、貴方だけですよ、シエル」
 シエルの口から語られる、何気ない日常の風景。爵位を持つ貴族など、この現代に於ては希少価値
だと言うのに、ファントムハイヴ家は厳然とした伯爵家であり、両親亡き後、シエルはれっきとした当主
だ。そして英国一の玩具・製菓メーカーのオーナーでもある。
 元々シエルのIQは普通ではなかった。はっきりいって異常だった。計算が得意だとが、暗記がずばぬ
けているという有り触れたものではなく、事象を読み解く鋭い視座がシエルには幼い頃から備わってい
た。それは家庭教師をしていた自分のシエルに触れればすぐに判ることだったから、シエルが普通に学
校に通いながら、そこに物足りなさを感じていることもよく判っている。そのシエルの口から語られる数
少ない友人の話しなど聴かされれば、らしくない嫉妬に胸が灼けた程だ。たかがシエルの周囲を彩る
友人にまで嫉妬していては、いつか本気でシエルを何処かに監禁でもしてしまいそうで、自分の発想
の貧弱さに、セバスチャンは自分で呆れた程だ。
 それでも、シエルがシエルとして何気ない日常に立っていることがセバスチャンには何より大事なこと
でもあったから、到底自分に溺れさせるだけ溺れさせてしまうこともできなかった。そのじれんまに、時
折理性が切れそうになるものの、簡単に奪ってしまうことができない程、シエルが大切だった。
「恋愛なんて、下らないと思っていたと言うのに」
 それも自分より一回りも下の子供に恋をするなど、莫迦げている。けれど決して失えないのだ。抱いて
しまえばそれが実感してしまうから、簡単に抱きたくはなかったというのがセバスチャンの本音だ。
 一度抱いてしまえば、二度と離せない。シエルがどれだけ嫌だと拒んだとしても、傷つけても離せなく
なる。
 両親を失い心が弱くなっているシエルに付け込むような真似、したくはなかったのだ。シエルがシエル
の意思で、自分と向き合えるまで、待とうと思っていたというのに。それが今夜はシエルの誕生日の所
為か、諸々のものが吹き飛んでしまった。先刻グレルと交わした会話が一因あるのも事実だろう。
「私も随分純情な部分があったんですねぇ」
 うっかり自分で自分に感心してしまう程、シエルに対しては慎重だ。
「シエル」
 掬い上げた頤を上向かせれば、シエルは視線を逸らしたままだ。けれど気配が全身で自分を感じいる
のが判るから、セバスチャンはゆっくりと薄い口唇に口吻る。その瞬間、薄い肩がビクリと跳ねるのが布
越しに伝わった。
「逃げるなら、今のうちですよ」
「セバスチャン?」
 らしくない程、真摯な声に、シエルが怪訝に視線を戻した。
「チャンスは一度だけですよ。今なら未だ間に合う。貴方には可愛らしい婚約者もいるでしょう?彼女を
捨てて、私を選びますか?」
「エリザベスは」
 あれは親同士が決めた話しで、自分はエリザベスを異性として見たことは一度とてない。エリザベス
の真意を確かめたことはなかったけれど。
「私は貴方が思っている程、心は広くありませんよ?」
「僕だって、心なんて広くない」
 だからセバスチャンの過去が気にならないと言えば嘘になる。どんな相手と付き合って、どんなふうに
抱いて、どんなふうに別れたのか?
「セックスくらい、知ってる」
「……知ってるって、もう誰かと経験済みなんてことは……」
「莫迦言うな!」
 殺すぞお前!そんなふうに叫び上げれば、シエルはぱふんと擬音を響かせ、セバスチャンの胸板に
顔を埋めた。
 体臭らしい体臭など、セバスチャンからは感じない。かと言って、病院独特の消毒良くの匂いなど皆無
だ。淡々とした無機質な姿な相応しく、セバスチャンからは人間らしい体臭など感じない。
「私が貴方の初めての男ですか?」
 くすりと笑うと、小さい頭をそっと撫で、柔らかいブルネットの髪を梳き上げる。そうすればバスルーム
に置いてある柑橘系のシャンプーの香りが鼻孔を擽っていくのに、セバスチャンが華奢な躯をそっと抱
き寄せる。
「嫌らしい言い方するな」
 心底嬉しそうな口調に、一瞬腹が立った。何やら負けた気分で、物凄く悔しい。
「どう言っても同じでしょう?」
「お前が言うと、いやらしく聞こえる」
「これからうんといやらしいことするんですから、当たり前ですよ」
 シエル。
低く甘い声で囁きながら、さらりと髪を梳き上げ、そのまま薄い耳朶の縁を擽るように触れれば、ほっそ
りとした躯が腕の中で顫えた。
「もう嫌だって言っても、遅いですからね」
 埋めた顔を上向かせ頤を掬い上げれば、挑発的な視線が見凝めてくるのに、セバスチャンがワインレ
ッドの双眸を見開き、次に苦笑を滲ませる。
 昔から無邪気で無防備で愛らしい子供ではあったが、こうと決めたら梃子でも動かない勝ち気な面が
存在した。それが失われていないことが、ひどく嬉しかった。
「お前こそ、子供の僕に手を出すんだ。それ相応の覚悟くらいしておけよ」
 ほっそりした腕をセバスチャンの首に回すと、シエルは爪先立ちになって、酷薄な口唇に口吻た。