月の契約









Do not judge,or you too will be judged.
For in the same way you judge others,
you will be judged,and with the measure you use,
it will be msasuewd to you.



THE GOSPEL ACCORDING TO MATTHEW
CHAPTER 7-1/7-2








 大英帝国の世紀末を象徴する稀代の連続殺人鬼。ロンドン中を恐怖に陥れた殺人鬼は、切り裂きジ
ャックと言う通り名どおり、ただ殺害を目的としている訳ではなく、死体を切り刻むという、悪魔のような
異常性を示していた。それも決まって、労働階級層が密集するイーストエンドのホワイトチャペルに集中
し、その中で娼婦として生活の糧を得ている女ばかりに照準を合わせている。
 殺害され無残に切り刻まれた死体は、けれどただ切り刻まれただけではない凄惨さがあったが、け
れどその残酷さ故に、警察はマスコミに詳細を語ることはできなかった。詳細を漏らせば、更にロンドン
中をパニックに陥れてしまうことが判っていたからだ。
 殺された上に切り刻まれ、揚げ句に臓器が抜き取られていた。こんなことが知れれば、ロンドン市民
は集団ヒステリーに陥り、意味もない暴動さえ起こりかねない。それに乗じ、政治犯等が何をやりだす
か判らない危うさも存在していた。それを危惧した警察により、事件の委細まで語られることはなかった。
 連続殺人(シリアルキラー)という言葉自体が未確立だった19世紀後半の英国では、猟奇殺人に対
応する警察の機動力は混迷を極め、捜査方針も未熟で乱雑なものだった。当然プロファイリングという
考え方を持っている筈もなく、先例となる指針も持たなかった為、解決の見通しはゼロ以下と言えた。
 いつの時代も捜査というのは、推論に対する疑問と、それに対する答えと消去法の繰り返しだ。推論
の上に更なる推論を重ねて行く作業だ。情報は無いより在るには限るが、洪水のように溢れかえる情
報は、却って捜査を混乱させ、答えに辿り着くまでに時間がかかり、結果的に事件は迷宮入りになりや
すい。過剰に供給される情報の中から、端緒に結び付く情報を見分けるのは困難と言える。まして半ば
集団ヒステリーに陥っている切り裂きジャック事件については、何千という情報が寄せられ、ロンドン警
視庁での対応は既にお手上げ状態だった。
 殺害が目的というより、臓器を抜き取ること自体を目的としたかのような一面を覗かせる切り裂きジャ
ック事件は、狂信的な人間の業だとでもいうかのように、秘密結社や悪魔崇拝者達の呪術的儀式の生
け贄という見方が強まる一方、臓器を抜き取る手際の良さは、むしろ解剖学に精通している医師、医学
生。葬儀屋の死体処置係という現実的な見方も出ていた。それでも、動機なき殺人者というのは得体
が知れない分掴み所がなく、目撃証言が得られない状況では、警察捜査にも限界があった。あまつさ
え行き詰まった捜査本部の中では、被害者の眼球を撮影してみるという、愚にも付かない論議もなされ
ていたくらいだ。
 瞳がカメラの役割を果たすなら、殺人鬼の姿も見ているだろうという発想らしい。そして秘密裏にそん
な狂気の沙汰も行われていたらしいと、懇意にしている葬儀屋から話しを聴いたシエルは、その発想の
稚拙さと乱暴さに嫌悪を覚えた。それは死者への冒涜に他ならないからだ。
 形とあの性格はどうであれ、葬儀屋としての有能ぶりは警察から評価されているから、齎される情報
は常に正確だ。その葬儀屋が言うのだら、悍ましさと紙一重の捜査もなされたのだろう。それでも結局、殺人鬼の正体は不明なままだ。
 急激な産業革命により、上流階級と貧困層である労働階級の格差は広がる一方で、事件の発生して
いるホワイトチャペルだけを数えても、娼婦の数は約1200人、売春宿は60を超えるとロンドン市警は
推定している。その中から、次の被害者を割り出すのは、砂漠の中でダイヤモンドを探すようなものだ。
 そんな最中、事態を憂慮した女王から、速やかに事件を解決するよう、シエルの元に命が下った。
 王室から見れば眼下の足許に存在する被害者など、失ったからといって、一切痛手にはならなかった
だろう。まして相手は娼婦だ。けれど一向に事件の端緒一つ見つけられない警察に対し、世論の反発
が増すとなれば、話しは別だ。速やかな事件解決は、結果的に信頼回復に繋がる。誰が解決しようと、
警察が解決したと発表すれば済むことだからだ。『裏社会の秩序』は、その為の番犬だ。
 そして事態は思ってもいなかった方向へと動き出し、残酷な現実をシエルの眼前に叩き付ける結果に
繋がった。連続殺人鬼が、まさか実の叔母であるマダム・レッドと、その執事である死神だったとは、シ
エルにも予想外の事態だった。
 ただ一人、事態を冷静に眺めていたのは、全てを見通していたセバスチャンだけだ。セバスチャンは
シエルの元に命が下り、幼い主人の駒として調査を始めた時から、恐らく事件の全容は見えていただ
ろう。そして自分が幼い主人の手足であり駒であると正確に理解している有能な悪魔は、だからこそ主
人の命なしには動かない。
 有能な駒を生かすも殺すも、それは使う側の能力次第だと、残酷な現実の前に、それはシエルが痛
感したことの一つだ。駒が優秀であればあるだけ、使う側の技能が求められるのは当然の結果だ。
この先被害者が増えたとしても、セバスャンは事態を冷静に眺めていただろう。シエルがセバスチャン
の投げ掛けたピースに気付くまで。
 人間には不可能と繰り返し語られた言葉に細心を払っていれば、叔母にこれ以上無益な殺人を起こ
させずに済んだだろうか?それはもう永遠に訊けない問いで答えだ。
 執事であった死神の裏切りにより、マダム・レッドは足許に転がっている。
「……マダム・レッド…」
 力のない静かな声が、薄い口唇から零れ落ちる。
社交界の花と称えられた華やかな女性には不釣り合いな哀しい末路。男爵婦人であり女医でもある彼
女にとって、路上で転がる最期など、本来なら有り得ない末路だ。
 自業自得の結果とはいえ、肉親だと思えば胸が痛む。彼女を駆り立てた要素の一つが、まったく自分
に無関係だと言えない分、それはシエルに鈍い痛みをもたらした。
「僕が貴女を、苦しめていたのか?」
 母親と瓜二つだと言われた容貌を持つ自分が、叔母であるマダム・レッドを苦しめてきたのか?それ
はシエルにも判らないことだった。身の裡に渦巻く怨嗟を形にした殺人行為に対する、それは言い訳の
為の言い訳の可能性もあるからだ。けれど死神の鎌により切り付けられた走馬灯は嘘を付かない。
 極端に走った殺人行為の引き金は、娼婦達の生命を顧みない無責任な発言だっただろうが、労働階
級に住まう女達にとって、それは現実的な選択でもあったのだろう。
 価値観の基底は、帰属社会により変化する。元より、価値観に対する判定を下せる人間は存在しな
い。発生した犯罪に対し、社会の意思として断罪する法律が存在する、ただそれだけだ。
 明日のことより、今日の糧を得ることが先決なその日その日を生きることで精一杯の女達にとって、葬
り去らなければならない生命を顧みる余裕は何処にもなかったのだろう。それが聡明な彼女に判らない
ない筈はなかっただろうから、身の裡の怨嗟が勝ったということなのかもしれない。特に増悪という負の
感情は強く衝動的で根が深く、生まれた意思が形を持ちやすいようにできている。
 母親と、その妹であるマダム・レッドにどんなやり取りがあったのかは想像もできない。けれど語られ
た怨嗟の中身は理解できた。叔母は父親を好きだったのだろう。その相手が母親である姉を選んだ。
それが聡明な叔母の、最初の躓きだったのかもしれない。結婚しても、初恋の相手を忘れられなかった。それが叔母の不幸に拍車をかけた。
 女医になる頭脳を持っていた女性だから、理論に対する理は理解できていた筈だ。無益な殺人から
は何も生まれない。それでも衝動をやり過ごすことができなかった根深い怨嗟は、一体何だったのか?
 横たわる冷たい骸。彼女の好きだった赤い服を覆い隠す生命の脈動は、あの時と同じ腐臭に満ちて
いる。両親、親族一同が殺害されたあの日の記憶を、血の色は容易に呼び起こす。
「貴女も、僕を遺いて逝くんだな……」
 闇の中に燃え盛る炎。自分を呼ぶ両親の悲鳴。漂う腐臭。そして、血の海の中から不意に現れた異
界の住人。
 代々裏社会の秩序を保つ事で繁栄してきたファントムハイヴ家だ。異界の住人と契約していたとして
も、不思議ではなかった。両親を失い、また自分も死に直面した恐怖。陥れられた怨嗟が引き金により、ファントムハイヴ家の血に付いている悪魔を呼び起こした可能性を、シエルは否定してはいなかった。
 幼い子供の恨憤一つで、悪魔を召喚することはできない。そんなことができるなら、悪魔崇拝者達は
今頃世界を変えるチカラを手にしているだろう。
 捧げられた犠牲と享楽を引き換えに。
額面通りの意味は理解できるが、セバスチャンの語る中身は背後に意図が見え隠れして、根深いもの
を連想させる。嘘を吐かない反面、手の内も曝さない狡猾さ。だからこそ悪魔なのだと思い知らされる。
それでも、主人を裏切る死神より遥かに信頼していると、シエルの視線は死神と対峙している悪魔に伸
びた。
「お前は、僕を見取るんだろう?」
 だから死神の鎌になど消滅させられるなと、細く白い指先が、今は剥き出しに曝されている右眼に伸
びた。
 遺伝により受け継がれたサファイアのような瞳とは対照的に、悪魔と交わした契約書が埋め込まれた
右眼は、あの瞬間から、エメラルドのような淡い翠に色を変え、金銀妖瞳になっている。それはこの身
が、悪魔の契約人なのだという証しだ。
 悪魔と交わした契約書そのものの右眼は、眼球としての機能は失ったが、引き換えに有能な駒を手
にいれた。それは瞳と同じか、それ以上の機能を果たす。
「お前だけは、僕に嘘を吐くな」
 姦計によって殺害された両親と親族。華やかな姿の背後に、殺意と怨嗟を隠し続けていた叔母。
人の嘘には慣れていたものの、残酷な現実はシエルの幼い心を疲弊させるには充分すぎた。
「…セバスチャン…」
 願うように口にされた名前は、誓約のカタチそのものだ。
マダム・レッドが生み出した意思が、稀代の殺人鬼という姿をしているとしたら、悪魔と交わした契約は、願いの在処そのものだ。
 視線の先で、死神の鎌を躱している端正な悪魔は、いっそ優雅とさえいえる端然さで月の下に佇んで、幼い主の命を実行している。その姿に、シエルが何ともいえない貌をする。
 永遠に等しい生を生きるだろう悪魔にとって、非力な人間の子供と過ごす時間など、きっと一瞬の時
間だろう。自分が死んで彼が契約どおり魂を手にしたら、自分の存在など、もう彼の記憶にも残らない
かもしれない。そのくせ非力な子供の願いを忠実に守っている悪魔に、シエルは泣き出しそうな笑みを
刻み付けると、セバスチャンの姿を見詰めていた。













 貴族の屋敷が密集する華やかなウェストタウンとは真逆に位置して、労働階級層の人間が生活する
空間は、殺人鬼を恐れ、誰もが夜間は出歩かなくなっている。その所為で、未だ殺害されたメアリー・ケ
リーの遺体は発見されることもなく、異界の住人の対峙も目撃者は存在しない。
 切り裂きジャックの最後の犠牲者となるメアリー・ケリーの殺害は特に怨念に満ちて切り刻まれて、マ
ダム・レッドの断末魔が形にされているかのような凄惨さだった。辛うじてそれが人間と判断できるのは、傷付けられずに残された眼球があったからだと、後の報道で語られることになるが、今は惨たらしい
殺害を他人は知らない。
「人間の業の深さには、死神も悪魔も適いませんね」
 悪意も殺意も、傾けられる負の感情そのものが、いわば人間の生命活動に直結している愚かしさ。
それが幼い主を苦しめていると判っているが、その愚かしさこそが、悪魔や死神という、異界の住人を
招き入れる要因にもなっている。
「業って言葉好きヨ。無知で愚かで卑しい人間に相応で」
 セバスチャンの独語を哄笑すると、グレルの視線は、眼下で心配そうな表情でセバスチャンを見詰め
ているシエルに伸びた。
「あのガキも、所詮あの女の血を引く子供。下らない業を、幼い躯一杯に詰め込んでるんでしょうね」
 曰く付きの名家の子供。それも悪魔と契約するような子供だ。自覚の有無は別にして、非力なだけで
はない怨念を、幼い躯の内側に抱え込んでいるのは容易に知れる。
「あのちっこい躯の内側に、一体どんな怨念を抱え込んでいるのか。アナタも見たくない?セバスちゃん」
 なんなら死亡者リストにあのガキの名前を載せてやってもいいワよと、グレルが浅陋な笑みを滲ませ
るのに、セバスチャンはその瞬間、心底呆れた笑みを覗かせた。
「貴方の方が、人間が言う所の悪魔に似合っていますよ。第一死亡者リストは、あくまで死が決定して
いる人間の名簿。いわば死者の戸籍です。それを預かる死神が、リストを私物化して、デスノートにでも
するつもりですか?」
「大丈夫ヨ。引き換えがあれば大抵のことはネ。そんなことは、アナタ達悪魔の方が得意でしょ?誰か
の代わりに、あのガキが死ぬ。それだけのことヨ。こっちは最終的に帳尻が合えばOKなんだから」
 どうせ悪魔と契約している子供だ。長生きできる筈もない。契約の代価は、死ぬまで続くように出来て
いる。そしてその引き換えの為、総じて契約者は誰もが短命だ。
「どうせ人間に悪魔と死神の区別なんてつく筈もないんだから。アナタがご執心のあのガキの断末魔も、是非見てみたいワ」
 真っ赤な口唇をいびつに歪めてグレルが笑うのに、けれどセバスチャンは優游とした態を崩すこともな
く、冷ややかな笑みを刻み付けている。
「貴方の欲求を満足させてやる義理はありませんね。主人の怨念も何もかも、私は存じていますから」
 闇を染める威勢で燃え盛っていた屋敷は、まるで創世に登場するバベルの塔の終焉さながらだった。
ただ一人生き長らえた幼い子供は、一族の怨念を一心に背負うことを義務づけられて、両親と親族の
血によって生き延びた。それが時折、憐れを誘う。
「犠牲と享楽とを引き換えに、主人と私は契約している。主人の願いを叶える為に」
 裏社会の秩序と言えば聞こえはいいが、所詮それは汚穢を引き受けるということだ。伯爵家の繁栄の
裏に流れている系譜は、難を逃れて生き延びた幼い子供にまで、それを背負わせる非情さを持ってい
る。それがシエル自らが望んだものだとしても、幼い子供にそんなものを背負わせている上流階級の茶
番に、セバスチャンは大笑いしたい気分だった。
 神が作り出した造形物である人間の魂を喰らう悪魔。人間は悪魔をそんな生き物だと思っているらし
いが、悪魔である自分から見れば、それに適合しているのは、まさしく人間だと思っている。
 自堕落に陥れ、人間の魂を引き換えるのは悪魔の業だが、何も餌のように喰う訳ではない。まして聖
書の世界のように、人間の世界を乗っ取ってなど有り得ない。何故なら、悪魔はそこまで勤勉ではない
からだ。人間の世界など乗っ取ってみた所で、旨味など何もない。目先の享楽を満足させればそれで
いいのだ。それがどんな形であったとしても。例えば執事に扮し、幼い主人の願いを叶える下僕であっ
たとしても。安心しきって指し伸ばされた細い腕を、崖淵で突き放して絶望の奈落に陥れる程度の享楽
しか悪魔は望まない。
 裏切れる程に、幼い主人の内側に入り込んだ。あとは裏切り絶望に平伏す姿を眺めて楽しむか、最
後の最期まで大切に守り育てるか。
「主人の願いは、途方もなく残酷なんですよ」
 シエルの自覚のない内側の願い。危険に曝されれば曝される程、いっそ綺麗に失われていく警戒心。いずれ綺麗に砕け散っていくだろう魂を壊してやる程、悪魔は勤勉ではないと、セバスチャンは薄い
笑みを張り付ける。
「だからつい意地悪にも、大切に守ってやろうかと思ってしまうんですよ」
 暢然という言葉は、シエルからは最も遠いものだろう。
繁栄と怨嗟と、表裏一体の系譜を持つ名家は、善悪の理そのものだ。その辺りが、ファントムハイヴ家
が裏社会の秩序と呼ばれる所以なのかもしれない。
 アルビノのように色素を映す赤い双眸が、月光の下で血を吸ったように鋭利に瞬くのに、グレルは半
瞬、息を詰まらせた。 優雅とさえ言える冷然な姿は、この悪魔の本質なのかもしれない。
「随分あのガキにご執心なのネ?妬けちゃうワ。無知で非力な人間のガキ一人に、悪魔がそこまで熱
をいれるなんてネ」
 まるで月を従えているかのように佇む姿は、何者をも消滅させられる死神の鎌を前にも揺らぎ一つ感
じられない。
「死神の鎌は、伊達じゃないのヨ?セバスちゃん」
 跪いたら消滅だけは許してア・ゲ・ルと嗤うグレルに、けれどセバスチャンは何処までも端然として揺
るぎない。それがグレルの癇に触った。
「存じてますよ。魂を狩る享楽を、鎌によって満たす冷酷な神。それが死神だということはね」
 でも私達悪魔は違うんですよと、月光のような凶眼が、まるで忍び笑いのように哄笑するのに、グレル
は半瞬、瞠然となった。
「真っ赤な血の海の中から、真っ白い花を咲かせるくらいの悪意でなければ、美しいとは思わないんで
すよ。貴方がマダムに囁いた悪意の種子など、目に見える浅はかさ。美しいとは欠片も思いませんね」
 自らの欲望と衝動を、判りやすい怨恨に置き換えた悪意など、所詮その程度だ。
「美徳が洗練されれば悪徳は深まり、醜悪は増す。どちらか一つでは決して存在できない。それはこの
世界そのものの様で、愚かで美しいじゃありませんか。悪意なんてものは、ほっといても勝手に増殖す
る人間の業です。むしろ私達悪魔は、真っ赤な血の中から、真っ白い花を咲かせる方を好んですよ。何
しろ悪魔は、享楽的な生き物ですから」
 道楽のようなものだと、酷薄な口唇が謎めいた微笑みを刻み付ける。
真っ白い花を真っ赤に染めることは容易でも、その逆は困難だ。だからこそ、享楽的で道楽なのだ。
「真っ赤な花に、更に赤い絵の具を上塗りしても、意味はないてしょう?」
「……とんだ忠義ね、セバスちゃん」
 根深い道楽だと、グレルはセバスチャンを凝視する。語られた言葉の中身は悪魔としての事実だろが、契約した非力な人間に対する執心は、それとは真逆に位置しているように見えたからだ。
「あのガキが、ちょっと可哀相になってきたわね」
 悪魔に守り育てられる花の末路。自分が陥れた人間の女のように、あの子供はラクには死ねないだ
ろう。目の前の悪魔は、裏切るだろうという予感がグレルには感じられたからだ。
「お喋りはおしまい。そろそろ本気で行くわよセバスちゃん」
 真っ赤な長い髪をバサリと掻き揚げ、ご丁寧に語尾にハートマークまで付け、グレルが死神の鎌を構
え直す。スイッチを押せば、馴染んだ振動が指先から躯全体を痺れさせる。
 悪魔などに出会ったのは初めてで、ましてそれが非力で脆弱な人間の子など仕えているから面白半
分に手を出してしまったが、そろそろ茶番も終わりにしないと、色々な部分で不都合が生じてくる。死神
のルールを無視して死者の戸籍をいじってしまった手前、管理課から小煩い同僚が飛んで来るのが容
易に想像出来るからだ。
 潔癖なくせに嫉妬深い男なんて最悪だと、グレルは眼鏡を掛けた、役人面した同僚を思い出す。
「アナタを殺して、あのガキもすぐに後を追わせて上げるワ。大切にしている花が無残に散らさせるのを
見られなくて、残念かもしれないけどネ」
 紅脣が歪な笑みを張り付け、愉しげに嗤たった瞬間、死神の鎌が振り上げられる。
 闇夜に響き渡る鈍い振動音は、消える間際の音叉と同じだ。数多の魂を狩ってきた鎌からは、神とい
う名が持つ崇高さは欠片も感じられない。感じ取れるものと言えば、人間が垂れ流す腐臭と同じものだ。
「神の名を持つというなら、もう少し清らかな香りがしてもいい筈ですけれど」
 本来死神というのは、死に逝く魂を静かに狩る者。言わば死者の導き手であり、魂が迷わないように
救い上げる存在の筈だ。それがこの死神から感じ取れるのは、人間が持つ悪意や害意と差異もない感
情の波ばかりで、いっそ人間的でさえあるから可笑しい。
「貴方は、貴方が殺したマダムと、さして変わらない匂いしかしませんね」
 闇の中に翻る漆黒の燕尾服。濃紺な闇夜と同一化したかのような漆黒さは、けれど不思議と切り取
ったように浮かび上がって見えた。それは眼下で異界の住人二人の対峙を見守っているシエルにも、
瞭然と判別の付くものだった。
「あんなガキから与えられた忌まわしい名前を持っているくせに、生意気ヨ、セバスちゃん」
 主人から与えられたその忌まわしい名を棄てて、アタシだけのものになるなら、お仕置は勘弁してあ
げるわヨと嗤うグレルに、酷薄な微笑みが冷ややかに閃いた。
 何者をも消滅させる死神の鎌を前に、けれど欠片の惶遽も恫喝も覗かせず、セバスチャンは背後の闇
に輪郭さえ溶し込みながら悠然と佇んでいる。その泰然さが、グレルには不思議だった。
 人間の死は再生の役割を果たすが、悪魔にとって魂の消滅と言えば、その言葉通り、無に還ることを
意味している。そんな鎌の前に、普通ならもう少し恫喝や何かを見せるだろうに、それがこの悪魔には
ことごとく通用しない。何か奥底の方に厳然としたものを隠し持っている気分にさせられるから、忌ま忌
ましいことこの上ない。
 そんなグレルの内心を見透かしたかのように静邃な微笑みを刻み付けると、セバスチャンは口は開い
た。
「ただ一言。主人が私を『セバスチャン』と呼んだ時から、その言葉こそ、新しき洗礼にして契約」
 端然とした低い声が、闇の中で静かに響く。淡如な口調に虚勢はなく、あるべき事実を語る淡々さし
か持っていない。
「その日から、私は「セバスチャン」ですよ」
 淵然とした微笑みが、闇の中で月の光を従えて閃いている。
 セバスチャン・ミカエリス。シエルから与えられた名前は、折しも17世紀に実在した宗教家であり、
エクソシストの名前と同じだ。悪魔祓師として名を馳せた結果だったのか、或いは別の天啓でも在った
のか?天使階級に対し、悪魔階級を提示した稀代のエクソシスト。
 契約した悪魔に、エクソシストの名前を与えたのはただの偶然だったのか、或いは作為だったのか。
シエル自身の自覚の在処は判らなかった。意図という程明瞭なものを、セバスチャンはシエルから感じ
取れなかったからだ。
 セバスチャン・ミカエリスが呈した、悪魔階級上級三隊の熾天使ですとでも言えば、シエルは驚いた
だろうか?きっと今なら、心底嫌そうに呆れて、そして泣き出しそうに怒るかもしれない。
 腐臭漂う血の海の中、立ち込める悪意の中に茫然自失と佇んでいた幼い主。
 悪意に染めるも、現実を認識させて壊すも、一時期の戯れに育てるも、それこそ見捨てるも。選択は
幾らでも存在していた。そして戯れに救った幼い魂に、迂闊にもうっかり掴まってしまったのは自分の方
だと、セバスチャンは自覚していた。
 内心で自嘲すると、端正な造作にひどく満足そうな微笑みを刻み付け、セバスチャンは口を開いた。
「月に誓ってね」
 事実を事実としてる告げる淡如さの背後には、グレルがマダム・レッドに狡智を与えてなお、得る事の
できなかった満足さが滲んでいる。
 自らの血に濡れ月下に佇む姿は、血腥さとは対極に位置して、何処か清冽な印象が在った。痛々し
さなど皆無で、むしろ燕尾服と白いシャツに飛び散った深紅の飛沫は、セバスチャンを悠々と見せてい
る。
「月に誓うなんて、不誠実な男ね」
 死神の鎌を持ちながら、グレルは端然と佇む悪魔を凝視する。瞬きを忘れた冷ややかな視線の前に
身を曝せば、官能に酷似した刺激が背筋を走り抜け、鎌を持つ陶酔と何処かでリンクする愉悦を感じた。
「満ち欠けを繰り返す、あんな石ころに誓うなんて」
 人間界で月は死の象徴らしいが、死神である自分から見れば、それは戯言以下の象徴だ。死が再生
と同義語である以上、人の生き死に象徴など意味もない。生まれたら死ぬのは道理、ただそれだけだ。自分は生きとしいける全ての魂を狩る死神。それもまた、ただの道理に過ぎない。
「アナタの瞳は、本当には何も愛していない穢れた瞳」
 神は救済により信仰を得る。悪魔は利害により契約を結ぶ。けれど実際、その真意にさほどの差異は
存在しない。存在するのは人間にとっての甲乙、ただそれだけだ。
 契約過程で、この悪魔は些か幼い人間に対する憐れみを感じているらしいが、色素が透けて見える
赤い双眸に、愛を語る眼差しは感じられない。少なくとも、グレルにはそう見て取れた。
「無垢な魂を卑しい手と唇で汚す悪魔」
 自分を凝視してくる視線は、揺らぎ一つ感じられない。肯定も否定もない眼差しの奥深さは、むしろこ
の悪魔の本質なのかもしれないと、グレルは赤く濡れた口唇に笑みを浮かべた。
 長きを生きているが、こんな面白い悪魔に出会ったことはない。悪魔は総じて享楽的だ。少なくとも、
その内心に何を持っているのか悟らせない為、そう見せるようにできている。けれどこの悪魔は違う。享
楽とは対極に位置しているように見える。
「生憎と」
 静邃な微笑みを刻み付けると、奥深い眼差しは地上で自分を見詰めている幼い主に伸びた。その視
線を感じ取ったのだろう。シエルがマダム・レッドの遺体の横で、僅かに表情を崩したのが見て取れた。
 両親の死を目の当たりにして生き長らえたシエルは、その両親が知謀により死したことを知っている
為、極端に嘘を嫌う傾向にある。悪魔である自分に嘘を吐くなと言う程、シエルは極端に嘘を嫌う。
 人間の持つ生命活動の特性なのだろうが、その狡猾さや奸知さは、時には悪魔でさえ呆れる程の愚
かしさに満ちている。それが人間の食物連鎖の連環だと知ってなお、そうと口にするシエルの潔癖さに、セバスチャンが痛ましさと憐れさを感じていることを、けれどシエルは知らない。
 肉親の謀により、再び生命の危険に曝された幼い主人が、これから先どんな道を辿るのか?それは
悪魔であるセバスチャンにも判らないことだった。判っていることと言えば、最期の最期、彼を見取るの
は自分だという単純な事実だけだ。たとえそれが、どんな死に方であるにせよ。
「私の主人は、月の不実を嘆くようなおとなしい性格はしていません。月の不実を嘆くより、自分で行動
するじゃじゃ馬です」
 だからこそ、悪魔を呼び出すことが出来たのだと、シエルは知らないだろう。捧げられた犠牲と引き換
えに長らえた生命。契約と引き換えの右目。尤も、契約の有無に関わらず、あの時の状況では、右目
は使い物にはならなかっただろうけれど。
「…セバスチャン……」
 悪魔と死に神の会話など、離れた場所に在るシエルに届くものではなかったが、理不尽なことを言わ
れているのは気配で判ったのだろう。繊細な貌が、僅かに攅眉する。
 魂を狩る死神の鎌に制限はないのか、悪魔さえ消滅させることが可能だとグレルは言った。そんな物
に傷付けられて、いくら不死の生命を持つ悪魔でも無事でいられるのか?遠目からでは確認できない
恫喝に、心根の奥が焦燥に締め付けられる。
 けれどそんなシエルの内心を見透かしているのだろう。シエルに向けられたセバスチャンの視線は、
幼い主を包み込む威力を持っていた。
「貴方は、知らないんですね」
 落ちてきそうで、落ちてこない石の球体。見えない引力で互いを引き合っている為、その距離を保って
いる。自分達の関係もそれと同じだと、セバスチャンは天上に浮かぶ石の球体をスッと示した。
「月は聖母に受胎告知したガブリエルの支配球。面白い符号だと思いませんか?」
「天使を語る悪魔なんてサイアクよ、セバスちゃん」
 原罪を贖い、磔刑にされた救世主と、人間界では語り継がれ、神々とやらの支配権を争っているが、
真実はもっと複雑な場所にある。
「私が言っているのは、満ち欠けの道理ですよ。一人で満ちても意味はないでしょう?そういうことです
よ」
 色素を映す赤い眸は、冷ややかなくせに何処か官能的な愉悦を放射してくる威力を持っている。それ
は自らの血に濡れている姿の所為か、語られた内容の所為か、或いは悪魔の手管か、グレルには判
らなかった。判っているのは、総じて血は官能を呼ぶ。その程度だ。
「満ちれば欠けるのは道理です。死神の貴方には判りませんか?二人で満ちて、また個に戻る。満ち
た後の個は欠けと同じ。単純な理です」
 一心に見詰めてくる蒼い瞳に、安心させるように視線を向ければ、その意図が通じたのか、華奢な躯
がホッとしたのが判る。
「欠けを埋める為に番って満ちる。その繰り返しは、生命の営みそのものですよ」
 そこに在るのが愛情だろうが、一時の慰めだろうが。
「魂を狩る事しかできない貴方方には、判らない道理かも知れませんが」
 冷ややかな哄笑に、グレルの貌が変容する。
「あのガキに随分入れ込んでるのね。悪魔がロマンチストなんて知らなかったわ」
 サイアクな気分よと、グレルが死神の鎌を構え直せば、セバスチャンは動じた様子も覗かせず、ただ
端然と佇んでいる。
「貴方が、勉強不足なだけですよ」
 月に誓って。言い換えれば、それは幼い主人に誓ってという言葉と同義語だ。
満ち欠けを繰り返す理と同じように、毎夜繰り返される仮初の行為。シエルの内側に何を残せているの
かは判らないが、抱けば抱く程、手放せなくなることだけは可笑しい程、瞭然としている。
「死神は神に付随する者。悪魔は神に対する者。救済だろうが契約だろうが、その本質に差異はありま
せん。神の対である私に、死神である貴方が適う筈もないでしょうに」
 それにと、その瞬間、セバスチャンは妖蠢な微笑みを刻み付けた。
「私達悪魔を殺すには、そんな物騒な代物は必要ないんですよ」
 死神の鎌など表面を傷付けることはできても、悪魔の魂を消滅させることは決してできない。
「そんなこと、聴いた事もないワよ、セバスちゃん。死神の鎌は、絶対ヨ」
 何物をも死に至らしめる特性は、死神の特権だ。殺せないものは存在しない。
 はったりだとグレルが笑えば、セバスチャンは酷薄な笑みを深めて口を開いた。
「確かめてみますか?私は死にませんよ。坊っちゃんが死ぬなと言ってますから」 
 契約の諸刃。引き換えは、何も人間に一方的なものばかりではないのだと、けれどそれは死神もシエ
ルも知らないことだ。悪魔を無に還すものは、死神の鎌でもなく、まして銀の銃弾でも十字架や聖水で
もない。悪魔を殺すことができるのは、もっと単純なものだと妖冶に笑うと、セバスチャンは死神にトドメ
を刺すべく、優雅に身を踊らせた。








『坊っちゃんが死ねと言えば、消滅えますよ』





Wohin und Woher?