Bitter and Sweet












 去年のクリスマス商戦から試験的にスイーツ業界にも参入したシエルの目下の狙いは、あと僅かで終
わりを告げるバレンタイン商戦だった。
 スイーツの本場であるフランスから招いたパティシエが作り出すオリジナルスイーツは、ファントム社の
バレンタイン企画の目玉商品として期間限定で販売された。その中間報告書を読んでいたシエルは、予
想以上の成果にひとまずは及第点だなと満足すると、円形の小さいテーブルの上に報告書を放り出した。 華奢な躯をソファーに深々凭れれば、緊張していた訳ではなかったものの、躯の何処かが地好く弛緩
していくのが判る。
 クリスマス商戦からニューイヤー、そしてバレンタインと、短期間で次々と企画・立案されていくプランに、自分でも気付かない疲労を溜め込んでいたんだろうなと、シエルはデスクの上の時計に視線を向けた。
 あと僅かで日付変更線を越える時刻は、真夜中と呼んで差し支えない時間だろう。昼間は何かと騒が
しい屋敷も深夜となれば話は別で、昼間の喧騒とは真逆に位置する沈黙が流れている。
 静まり返った屋敷の中に、人の気配は感じられない。何かと騒々しい使用人達はとっくに夢の中の住
人だろう。そして招きもしないのに当たり前の顔をして訪ねて来る訪問者達は、互いに酒でも飲んでいる
か、それとも寝ているかのどちらかだろう。
 第一あの二人は有るんだか無いんだか甚だ謎な理由を羅列しては、招きもしないのに訪れて来るのだ。最近では申し合わせでもしているのか、二人セットで訪れて来るから始末に悪い。今日もバレンタイン
だからと理由にもならない理由を引っ提げ、訪ねて来た。それもファントム社が目玉商品として売り出して
いる限定スイーツを手土産にだ。
 一体どういう神経をしているんだと思うものの、肝心な部分では癪になる程大人の分別とやらを持ち合
わせている二人だ。嫌味にならないギリギリのラインでシエルを構うことにも長けていたから、シエルは憮
然となりながらも、劉と葬儀屋の二人を無下にすることはできなかった。それは言葉に置き換えることなく
時折見え隠れする気遣いに、大切にされていることを知っているからだ。
 普段どれだけ下らない言動や行動をしていようと、肝心な部分で二人はちゃんと大人だ。どれだけの軽
口に紛らせようと、自分の役割や役目というものをよく心得ている。それは裏社会の王たるシエルに近い
場所に在だるけに、必要があれば即座に身動きがとれる位置は常に確保しているということだ。見誤らな
い距離感の上で遊ぶ余裕があるのだということ程度良く判っていたから、理由にもならない理由を羅列し
て顔を見せに来る二人を、シエルも遠ざけることはしなかった。
「まったく、あの二人も何を考えているんだか…」
 見えないフリも、聞こえないフリも不必要なくらい得意なくせに、言葉を尽くせばそれ以上に言外を読み
取る術に長けている二人だ。本気で嫌がれば、それこそ気配さえ察知できないくらい、綺麗に姿を消して
見せるだろう。その辺りの気配というか空気というか、醸し出す何かが、二人はセバスチャンと良く似てい
る。言えば思い切り否定されるだろうが、手の内を見せない手管を持っているという意味に於いては、三
人はとてもよく似ている。 
 そして今日がバレンタインということを考えれば、当然婚約者であるエリザベスが訪れない筈もなく、昼
過ぎに訪ねてきたエリザベスは、春を先取りした若草色のドレスを身に付け、無邪気な笑みとともに、シ
エルの前に赤い円形の缶を差し出した。
 その是非は別にして、エリザベスは物怖じしない少女だ。怪しいとしか言い様のない風体をしている葬
儀屋に対しても、初対面から馴染んで楽しげにしていた少女だ。それは裏を返せば、侯爵令嬢という立場
に驕慢していない証拠だろうが、けれどそれも善し悪しだと、シエルなどは思ってしまう。
 良いも悪いも、エリザベスは人に馴染みすぎるのだ。あれも一つの才だとは思うが、どう見ても異様な
風体の葬儀屋に、ああも気安い口調を掛けられる侯爵令嬢というのも如何なものか?と、婚約者の思わ
ぬ世渡りの秘訣を見た思いで、シエルは深々と溜め息を吐き出した。
 そんなシエルの内心など理解していないだろうエリザベスは、シエルには嫌という程見覚えのある円形
の赤い缶を目の前に差し出し、シエルの眉間に深い皺が刻まれていくのも構わずに、無邪気な笑顔とと
もに、ハート型のチョコレートを差し出した。あまつさえ、『あーん』という言葉を乗せてだ。
 素直な性格のエリザベスは、些か無邪気すぎる我が儘さはあるものの、本気で言えば、それがちゃん
と伝わる相手だ。ああ見えて中々に鋭い一面を持っているのは、ファントムハイヴ家の血を引く母親から
受け継いだ血筋より、もっと単純に女が持つ鋭さだろう。どれだけ幼くても、女は女だというのが劉の弁だ
ったが、その部分はシエルにも否定できなかった。
 我が儘で無邪気。総じて素直。子供の特権を履き違えない分別を持ち合わせている相手は、けれど今
日に限って、我が儘だった。それをして劉や葬儀屋などは、『今日ばかりは女の子の特権だから、我が儘
を笑って聞き入れるのも男の甲斐性というものだよ』と、完全に他人様の意見を口にしていたが、シエル
に納得できるかと言えば話は別だ。
「劉といい葬儀屋といいリジーといい、一体何を考えてるんだ」
 劉と葬儀屋同様、エリザベスが手土産に持ってきたのは、ファントム社のバレンタイン企画のチョコレー
トの一つだ。
 他社の製品じゃ伯爵に悪いと思ってと、ちっとも悪そうな表情など覗かせず言ってのけた葬儀屋と劉の
真意は、どうせ事態を楽しんでいるに違いない。だったら精々売り上げに貢献してくれというのがシエル
の内心だったが、婚約者まで申し合わせたようにご同様の行動をとるとなると、些か頭痛ものだった。
 エリザベスの理由は少女らしく、見た目が一番可愛らしかったからということらしい。経営者としては喜
ぶべきだろうが、『あーん』と笑ってチョコレートを食べることを強要されれば、バレンタインなんか嫌いだと
、シエルが内心で悪口雑言を吐き出してしまったとしても、罪はないだろう。
 昼間のことを思い出し、些か疲れたよに溜め息を吐き出すと、シエルの視線が部屋の隅に在る暖炉へ
と伸びた。
 薪の爆ぜる音に揺れる炎。それらがびとく心地好い温もりの在処を伝えて来る。それは凍える冬の空
気を柔らかく暖めていく実質的な効果ととともに、耳から入り込む柔らかい音は、躯をゆったりと暖めてい
く効果を持っている。冬にだけ聴くことのできる独特の音が、シエルは嫌いではなかった。
 そしてその暖炉の前には、何故かちゃっかりと迷いネコの姿が在った。小さい躯に顔を薄めるように丸
まっている愛らしい姿に、ついつい柔らかい笑みが零れ落ちる。
 劉や葬儀屋に訊かれれば、飼っている訳じゃないと思い切り否定するが、迷いネコを自室に上げている
時点で、説得力などゼロ以下だ。
 最初はセバスチャンが、その後はフィニアン達が総出で構い倒した結果、この屋敷は安全な場所だと仔
ネコに認識させたも同然だろうう。人間に懐くイヌなどと比較すれば、ネコは遥かに警戒心が強い生き物
だ。まして迷いネコなら尚更だろう。それが居着いてしまうのだから、セバスチャンやフィニアン達の可愛
がり具合が知れるというものだ。それをして劉や葬儀屋には家族のようだと言われている仔ネコだ。
 そんな迷いネコの愛らしい姿に瞳を細めながら、サイドドテーブルに腕を伸ばす。テーブルの上には瀟
洒なガラスの小皿が置かれていて、中にはセバスチャン特製のトリュフが幾つか盛られている。その中の
一つを無造作に摘み上げると、シエルは口の中へと放り込んだ。
「カシスジャムか」
 コーティングされたチョコレートの中には、カシスジャムが織り混ぜられた生チョコレートになっている。
仄かな酸味が舌に乗るカシスの味は、甘いチョコレートと相性がいいのだろう。口の中でまろやかに溶け
ていく。
 トリュフの中身は他にも数種類。中にはリキュールの入ったものや、子供受けするだろうキャラメル入り
のもの。仄かな苦みが貴婦人に受けているらしい洋酒入りのもの。ミルクやビータの生チョコレートのみの
ものと、数種類が販売されている。無論それは今まで販売されてきた製菓の類いで、スイーツは別物だ
ったが、バレンタイン商戦に手を抜く気などさらさらなかったシエルは、製菓でもしっかり売り上げを伸ばし
ていた。
 良いも悪いも大衆というのは飽きるのが早い。同じものばかりを見せていては即座に切り捨てられる。
特に子供はそれが顕著で、手を変えた程度の玩具ではすぐに飽きられる。切り捨てられない有用な改良
は常に必要課題だ。その為の手間をシエルは決して怠らない。
 それが短期間で、ファントム社を英国屈指の製菓・玩具メーカーとして確立させた錬金の才で、たかが
十歳の子供に経営などできる筈もないと、当時シエルを見下していた大人達を驚愕させる情報収集・分
析能力だった。情報が持つ価値というものを、シエルは決して見誤らない。
 望む望まないに関わらず、生まれながらに才を持つ人種いう者は存在するのだ。その才の前には、ど
れだけの足掻きも無駄になる。シエルには表にも裏にも通じる才が在った。それがどれだけ当人に自覚
がなかったとしても、望むべきものではなかったとしてもだ。
「あいつも悪魔のくせに、一体何処でスイーツ作りなんて覚えてくるんだ?」
 シエルの疑問も最もなものだったが、けれどシエルはその疑問を直接セバスチャンに尋ねたことはなか
った。それは尋ねても巧く誤魔化されるだろうという確信にも似た予感があったからで、逆に説明されても、過去のセバスチャンの主人に、要らぬ嫉妬じみた感情を抱いてしまう自分の愚かさをも正確に理解し
ていたからだ。
 人とは異なる時間を生きる悪魔だ。契約してきた人間が自分だけではないこと程度、シエルもよく判っ
ていた。だからこそ訊きたくは無かったのだ。聴けば男の過去を気に病む女のように、見えない相手に醜
い感情を抱いてしまうだろうから。
 仕えた相手、その性別から年齢、容姿まで。どんな風に仕え、そして関係してきたのか。自分を抱くよう
に抱いてきたのだろうセバスチャンの腕の中で、一体どれだけの人間が喘ぎ、そして魂を差し出してきた
のか。考え出したらキリがない。それこそ空転する取り留めのない思考に、心の方が疲れきってしまう。
だから本来なら、こんな思考はとっとと切り換えることにも慣れてしまっていた筈だ。それが今夜に限って
くだくだと下らない所で立ち止まっているのは、要はバレンタインだからだろう。
「これじゃぁ、ミイラ取りがミイラだ」
 女々しいなと自嘲すると、シエルは二つ目のチョコレートを口の中へ放り込んだ。今度はビターの生チョ
コレートだったようで、ほろ苦い甘さが溶けていく。
 バレンタイン商戦用に様々な企画やキャッチコピーを取り揃えたが、自分で掴まってしまっては意味もな
い。
 死んだら魂は悪魔のもの。その引き換えに悪魔を手に入れた。その契約の延長線で、互いに快楽を貪
る道具として、躯をも差し出した。
 契約だけの関係の筈が、気付けば莫迦莫迦しい程、底のない想いに囚われてしまった。それは快楽を
優先する躯の反応に感情までが連動し、引き摺られた結果にも思える。
 躯と心はリンクしている。均衡が安定している時もあれば、どちらかに引き摺られ、均衡を失う時もある。
だから躯の反応に心が引き摺られることもあるのかもしれない。けれど全てが全て、躯の反応に引き摺ら
れた結果だと思う程、シエルは無知な子供ではなかった。
 貪り溺れる快楽の淵。セバスチャンへの底の見えない想いがその結果だとしても、真偽は常に自分の
中にしか存在しない。そのことをシエルは正確に理解している。
「だからこの気持ちだけは、お前にはやらない」
 契約者を乗り換え生きていく不死の存在。優しい言葉や柔らかい気遣いの一体何処までが悪魔の美
学で、何処からが本音か。或いはその全てが計算され尽くした美学の上に成り立っているのか。シエル
に計れるものは一切ない。それもまた真偽がセバスチャンの中にしか存在しないからだ。
 計算され尽くした言葉や態度。柔らかい気遣いや、こまやかな心遣い。それまでもが悪魔の美学の上にプログラムされているのだとしたら。
「それこそコンピューターと大差ないな」
 プログラムされた感情が選択の上に成り立っているのだとしたら、それこそヒトのようなものだろう。
「あいつの存在を種別で括っても、意味はないんだろうけど」
 悪魔だろうと神だろうと。それは人間の側から見た場合の話だ。それこそ事実に張り付く真実と同じくら
いに、意味がない。
「悪魔から見たら、人間はどんな風に映っているんだろうな」
 獲物か餌か。そのどちらをも含む玩具か。悪魔の美学を語られても判らないこと夥しいが、その中身に
感情が在るのか計るとなると、到底手に負える代物ではなかった。もしかしたら、本音なんて何処にもな
いのかもしれない。
 自律した意思。選択の上に成り立つ感情。実際それらがなければ、ヒト形を伴った機械と大差なくなっ
てしまうだろう。例え悪魔だとしても。
「碌でもないな……」
 悪魔に抱かれ、変容していく内側。器の性別に相反する雌の中身。変容していくのが快楽に溺れていく
肉体だけなら未だ救われた。救われないのは、躯に引き摺られて感情まで連動してしまうからだ。
「本当に、精神なんて一つじゃないから始末に悪い…」
 ロンドンを白く染め替えていく雪の夜。そう苦笑したのはセバスチャンだったから、悪魔にも悪魔なりの
精神の理があるのかもしれない。そして精神という心のカテゴリーが一つだけだったら、もっとうんとラクだ
った筈だ。
 シエルがそう苦笑した時、静かに扉をノックする音が響いた。ぐだぐだと取り留めのない思考に立ち止ま
っていた内心を見透かされないよう思考を切り換えると、シエルはいつものように口を開く。そうするとや
はり何もかも見透かしたような静かな笑みを滲ませ、セバスチャンが入ってきた。
 薄昏い廊下。背後の濃紺な闇に、輪郭さえ溶け込むかのようなたたずまいは、闇が形を伴ったかのよう
に違和感がない。真っ黒い燕尾服に漆黒の髪。色素を刷いたかのようなワインレッドの双眸が、柔らかい
笑みを刻み付ける。
「坊ちゃん、そろそろお休みのお時間ですよ」
「ああ、今中間報告書を読んでいた所だ」
「これで春からは本格的に始動できそうですね」
 テーブルの上に放り出されていた報告書に視線を移すと、セバスチャンはワゴンの上から瀟洒なグラス
を取り出した。
 深夜に近い時間帯、シエルにナイトティーを運ぶのも執事の仕事だ。そして大抵の場合、そこから情事
に縺れ込むのも二人の日課のようなものだった。尤も、セバスチャンに言わせれば、悪癖の一言に尽きる
シエルの読書熱にチカラが入っていた場合、本を取り上げる所から二人の情事のようなものだったけれど。
「今夜は紅茶じゃないのか?」
 差し出されたグラスを受け取りながら、シエルは初めて見る飲み物にキョトンと小首を傾げた。その拍子
に擬音を響かせ、ブルネットの柔髪がサラリと揺れる。
 幼い主の無防備な仕草に莞爾とした笑みを滲ませると、セバスチャンは意味ありげに口を開いた。
「折角のバレンタインですから、私からの贈り物ですよ。スイーツの売り上げも上々の様ですし」
 シエルが突然、スイーツ業界にも参入すると言い出したのは、情後のピロトークの最中だった。
前後の文脈を一切無視したかのような唐突なその発言は、翌日のスイーツのリクエストを受け付けてい
た時だったから、一体どんなスイッチがシエルの中で入ったんだと、脱力したことをセバスチャンは今でも
しっかり覚えている。
 些かワーカーホリックな一面がある幼い主人に、下らない天啓でも下ったのか、或いは単なる思い付き
か、それ以外の要素でもあったのか。その辺りを推し量ることは不可能だったが、何も情後にそんな思い
付きを口にしなくてもいいだろうにと、セバスチャンが心底呆れたことをシエルは知らない。そしてそれは
有能と評されるセバスチャンだけではなく、劉や葬儀屋が呆れる程度に、シエルは表の事業も裏の仕事
にも、些かワーカーホリックな傾向にあった。けれどだからこそ、先代当主である父親の後を受け継いだ
シエルは、ファントム社を数年で英国屈指の企業に発展させることが可能だったのだ。それも一重に、シ
エルが持つ錬金の才の賜物だろう。
「それとこの飲み物と、一体何処がどう繋がるんだ?」
 差し出されたグラスとセバスチャンとを交互に眺め、サファイアとアメジストのオッド・アイの視線がグラス
に戻る。
 瀟洒なグラスはどう見てもカクテルグラスだ。積極的に客人を招いて夜会など開かない屋敷でのもっぱ
らの飲み物は紅茶が殆どで、カクテルグラスを使用する必要はなかったから、キッチン棚の奥の奥にでも
このグラスは放置されていた筈だ。それをわざわざ引っ張り出してきたのだから、これがただのカクテル
である筈がない。その程度のことが判らないシエルではなかったから、差し出されたグラスに大仰な溜め息を吐き出した。
 こんな時のセバスチャンの思い付きは、碌でもないと決まっている。そんな部分がますます劉や葬儀屋
に似通っていると思うものの、セバスチャンに自覚はないのか、あっさりと下らない思い付きを行動に移す
時がある。これも悪魔の美学かと思えば、その美学はますます理解不能だ。
「チョコレートカクテルですよ」
「チョコレート?これがか?」
 セバスチャンの科白に、オッド・アイが不思議そうに瞬いた。興味と好奇心を半々に同居させたような眼
差しがグラスを覗き込み、そっと顔を近付ける。けれどグラスからはチョコレート特有の甘やかな香りは微
塵も感じられず、シエルは訝しげな表情を作った。
「ホットチョコレートじゃないんですよ」
 思い切り残念そうな年相応な表情に、カクテルって言ったでしょう?と、セバスチャンが小さい笑みを滲
ませる。
「チョコレートを湯煎に掛けて作る訳じゃありませんから、香りはしませんよ。使用しているのは、カカオリ
キュールです」
「フーン、カカオリキュールねぇ」
 とどのつまりは香り付のフレーバーだ。それは純粋な意味でチョコレートではなかったから、シエルは少
しばかり残念そうにグラスを眺めた。
 色合いだけを見るなら、それこそ薄く淹れたミルクティーのようにも見えるし、カフェ・オレのようにも見え
た。グラスの縁にはアクセントなのかチェリーが飾られている。
 ナイトティーと言って出された紅茶の中には、ブランデーやウィスキーが適量混ぜられた紅茶もあったが、カクテルなど出されたのは初めてのことだ。一体何の気紛れかと思うものの、莞爾としたセバスチャン
の笑みを見れば、何を企んでいるのか判らなくても、何か企んでいることは明瞭だった。
 獲物に対する執着などないだろうに、この悪魔は時折勘違いしそうになる気遣いを垣間見せる。口を開
けば契約と悪魔の美学しか語らないくせに、詐欺師のように口が巧い。これも狡猾な悪魔の性質だろう
かと思えば、苦い想いが身の裡から迫り上がってくるようで、シエルはそれを飲み下すように、カクテルを
口に含んだ。
「お味は如何ですか?」
「思っていたより甘いな」
 カクテルとはいえ子供の自分に淹れるのだから、酒も適量控えたのだろう。バレンタインのチョコレート
替わりだと出されただけあって、舌に乗る味は滑らかで、口の中で仄かに薫るカカオの香りは、確かにチ
ョコレート特有の風味があった。
「ベースにテキーラを使用していますが、カカオの豊潤な風味と綺麗に溶け合って、口当たりはよい筈で
すよ」
 その分後から悪酔いしますけどねと、セバスチャンが意味深な笑みを覗かせたことに、けれどシエルは
気付かなかった。
「それで?」
「それで、とは?」
 窺うように見上げてくるシエルに意味深な笑みを見せると、セバスチャンはほっそりした足許に恭しく跪
いた。
「お前が僕にこんなものを出すのは初めてだろう?バレンタインに託けて、何しようとしてる?」
 折角のバレンタインだからと、昼間出されたスイーツはホットトリュで、それはエリザベス達の舌にもあっ
たらしく、三人とも喜んでいた。少なくとも劉と葬儀屋の訪問の目的の半分は、セバスチャンのスイーツだ
と、シエルは疑っていなかった。そして夕食後、部屋で残りの仕事を片付けるおやつに出されたのは軽く
摘めるチョコレートだった。今日一日チョコレート三昧だった自分に、最後にカクテルを出してくる辺り、セバ
スチャンは立派に詐欺師だと思うシエルだった。
「名前をお聴きになりたいですか?」
「名前?」
 右足をそっと掬い上げられ、慣れた温度が足先に触れる。前戯と大差ない愛撫のような口吻に、ゆっく
りと肉の奥から性感が引き摺り出されていく。その生温い感触に抗うこともせず、シエルは足許で悪戯を
仕掛けている執事を見下ろして、甘い吐息を吐き出した。
「聴かせたいの、間違いじゃないのか?」
 戯れのように足先を弄ばれ、薄い口唇がくすくすと自堕落な笑みを滲ませる。潮が満ちる様にも酷似し
て、ゆっくりと、けれど確実に引き摺り出されていく幼い性感。けれど瀟洒な面差しに不意に覗く切なげな
貌が、雄の嗜虐を魅了するのだと、シエルは欠片も気付いてはいなかった。
 名前を聴く聴かないに関わらず、その先に待つ行為はいつだってたった一つだ。バレンタインなんていう
理由を羅列する必要もないくらい、それは毎夜繰り返されている情交でしかない。
 恋情の存在しない、契約の延長線にある肉の交わり。契約を遂行することが美学だと言う悪魔に、愛情
など最も遠いものだろう。そのくせ莫迦みたいにシチュエーションに凝るあたり、腹立たしいこと夥しい。そ
れは言い換えれば、セバスチャンが過去にどれだけの人間と関係してきたかの証明にしかならないから
だ。
「聴かせたかったら、聴いてやる」
 細腰の奥に澱んでいく熱。性急にならない愛撫に足先を小刻みに顫わせながら、シエルは反駁とも軽
口とも判別の付かない曖昧さで口を開き、薄い笑みを滲ませる。
 ねっとり指先を含んでいる悪魔の何処までが美学で、何処までがセバスチャン自身の性欲なのか、シ
エルに判るものは一切ない。それが胸の奥を鈍く軋ませていく。
 基本的に真偽なんていう代物は、個人の中にしか存在しない。それが例え世界的な遺産であったとし
ても、興味がなければそれまでだ。だから嘘も本当も個人の中の判断基準の材料の一つにすぎない。
是か非か、必要か無用か、好きか嫌いか。その程度だ。だからセバスチャンの言葉の全てが嘘だとも思
わないが、本音だとも思えない。そういう意味で、真偽に絶対性は存在しない。個々の思惑、その程度だ。それがこんな時はひどく淋しく感じれる。けれど次に口にされた科白に、シエルは心底呆れる羽目に
陥った。
「シルク・ストッキングと言うんですよ、そのカクテルは」
「………」
 呆れる程優美な微笑みを向けられ、シエルは半瞬遠い目をした。碌でもないと思っていたが、本気で碌でもない回答に、軽い眩暈さえ感じられた。
 これも悪魔の美学の一部だと説明されても、到底理解などできる筈もない。実は莫迦なんじゃないのか?不謹慎にもそんな感想まで抱いたくらいだ。
「坊ちゃんのこの靭やかで滑らかな足のような名前だ思いませんか?」
 そう囁きながら、薄い室内着の上から無防備な内股をサラリと撫でれば、反射的に細い下肢が閉じられる。そこをやんわりと押し広げられ、シエルが戸惑った様子で見下ろしてくるのに、セバスチャンが満足そうに笑った。それがシエルの癪に触ったのだろう。勝ち気な眼差しが憮然となって、セバスチャンを眇めた。
「そんな下らない発想しているのは、英国中探したって、お前くらいだ」  
 羽根のように柔らかい仕草で内股を撫でられ、そのもどかしいような刺激に、肉の奥が切なさで疼いて
いく。
「そうとは限りませんよ?貴方の足は、シルクのように滑らかで綺麗ですからね」
 脂肪の乗らない華奢な躯は、女性のような肉感的さはなかったが、成長途中の未成熟さは、少年特有
の靭やかな強さと、相反する脆さとを合わせ持っている。そのアンバランスさがシエルの魅力に化けてい
る。そしてそれが莫迦な男達を容易に勘違いさせてしまうのだと、シエルだけが気付かない。
「何処でそんな科白を覚えてくるんだ、このエロ悪魔!」
 聴いてるこっちの方が恥ずかしいぞと、顫える躯を誤魔化すように憮然となれば、セバスチャンはクスリ
と笑い、小刻みに顫えるシエルの足先を舐め上げる。その淫靡な光景と濡れた感触に、細腰の奥が陶酔
にも似た痺れに疼いていく。
「んっ……っ」
 焦燥と官能の両方を器用に引き摺り出すセバスチャンの遣り様に、薄く開かれた口唇から甘い吐息が
零れ落ちる。咄嗟に何かを怺えるように、細い指先がソファーに爪を立てた。
「おやおや、敏感ですね。こんな足先にキスをしただけで感じるなんて」
 小刻みに顫える足先に口唇を寄せ、見せ付けるようにねっとりと舌で絡め取れば、ほっそりした下肢が
ビクンと過剰に反応する。それを面白そうに眺め、ゆっくりと舌先を移動させる。その都度ビクビクと足先を
顫わせる反応を確かめながら、薄い足の甲に口唇を寄せ、薄い皮膚を吸い上げた。
「んぁ……」
 その瞬間、電流のような弱い刺激が背筋を這い上がっていく生温い感触に、シエルは喘ぎにも似た嬌
声を滲ませる。
「私は貴方の忠実な下僕。これはその証しですよ」
 足の甲へのキスの意味を知っていますか?セバスチャンは意味深に笑い掛けると上体を起こし、今にも
手の中からグラスを落としそうに顫えているシエルの上気した貌を覗き込んだ。
「何…で……」
 繰り言のように繰り返されるセックスの最中、セバスチャンはいつだって癪になる程理性的だ。高まって
いく情感に熱い息を吐き出し、どれだけ嫌がっても最後には腰を掴み取られて射精されるが、そんな時で
さえセバスチャンは何処か理性的な気がした。
 汗を滲ませ雄の表情を見せつけるくせに、セバスチャンの一部がひどく冷静に自分を見下ろしているこ
とも判っていた。それが所詮は契約の延長線の関係でしかないのだと如実に語られている気がして、躯
を重ねる快楽に溺れながら怖かった。けれど今夜は違う気がして、肉の奥が否応なく疼くのが判る。
「言ったでしょう?バレンタインだからですよ」
 幼い性感を引き摺り出され、快楽に溺れ始めた面差し。そのくせシエルの一部がひどく哀しんでいる気
がして、セバスチャンはそっと瀟洒な輪郭を包み込んだ。
「お前にバレンタインなんて……」 
「お前にバレンタインなんて……」
「誕生日に言いましたよ?長く人間界にいれば、その分、貴方方が大切にしている祝い事の一つや二つ
覚えると」
 尤も、昔はバレンタインなんてなかったから、こんな下らない思い付きをしたのもシエルが初めてだ。今
までの契約者には、精々、誕生日とクリスマスを祝ってやった程度だ。
「詐欺師の経験の結果なんて、聴いても面白くない」
「坊ちゃんだけですよ、こんなことは」
「そんな科白言ってる時点でアウトだ。一体何人に言ってきた科白だ」
 この詐欺師と悪態を吐けば、セバスチャンがクスリと小さい笑みを滲ませる。
「酔わせて溺れさせようと思ったのは、坊ちゃんだけですよ」
「……悪魔は口が巧いのが基本だからな」
「…なんですか、その基本というのは。人間界の伝書で、私の定義を語られても困りものですね」
 人間の世界に根付く定義は、所詮は人間の側から見たもので、それこそ御伽話以上の効力など持って
はいない。それは神も悪魔も死神も差異はない。
「口が巧いのは事実だろう?」
 それでなければ、狡猾な悪魔など勤まらないだろう。人間に寄生し契約を結び、その魂を代価に差し出
させるのだから。悪魔だろうと詐欺師だろうと、相手を言いくるめる時点で、シエルにとっては意味は同じ
だ。
「でしたら、坊ちゃんも商談と睦言は、言葉がお上手ですね」
「……なんだその睦言っていうのは」
 嘘は吐かないが、それこそ商談では当たり前のように詭弁で相手を言いくるめることに長けているシエ
ルだ。その程度の小手先の技が使えなくては、到底ファントム社をたった数年で英国屈指の企業には発
展させられなかっただろう。だからその程度の自覚はあったが、睦言と言われると話は別だ。
「セックス最中の坊ちゃんは、躯が雄弁に言葉を語りますから」
「なっ……!」
 ニッコリと音が響きそうな笑みを向けられ、シエルは途端に憤然やる方ない様子で絶句した。あからさ
まな物言いに、けれど否定は到底できない。この局面での否定は、墓穴と同義語だからだ。       「貴方はココより、躯の方が余程正直ですからね」
 手袋越しの指先でソッと口唇に触れられ、華奢な躯がぴくりと竦む。そんな素直な反応に柔らかい笑み
を刻み付けると、セバスチャンは取り上げたグラスに口を付け、そしてシエルの口唇に押し当てた。
「んぅ…っ?、んんっ…、…っ!」
 酷薄な口唇をきつく押し当てられ、伸し掛かる体躯を押し返そうと、反射的に腕が伸びる。けれど更に強
引に口唇を押し開いてくる舌先に呆気なく抵抗は奪われ、細い指先が燕尾服に皺を刻む。
「んんっ…、んゃ……っ」
 口唇を強引に押し開かれ、生温い液体が流れ込んでくるのに、シエルは噎返りそうになりながら、白い
喉元を上下させる。
「はぁっ……、んんぅ……っ」
 悪酔いしそうな、なめらかな甘さと、濃厚な口吻。一体何処までがセバスチャンの本気か判らないが、
バレンタインという理由は恐らく事実だろう。尤も、自分だけだという言葉の信憑性は、シエルには欠片も
推し量ることはできなかったけれど。
「坊ちゃん」
「やっ…、やだぁ…っ」
 耳朶を甘噛み囁かれ、室内着の内側に潜り込んできた指先にサラリと内股を撫でられ、そのまま緩く押
し開かれていく。 
「嫌じゃないでしょう?イッた訳でもないのに、もうこんなに」
「離し……っ、だめぇ……っ!」
 濡れてますよと、くつくつ喉の奥で笑い囁かれ、下着の上から緩やかに幼い自身を包まれれば、鋭い
刺激に細腰が跳ね上がり、薄い背がセバスチャンの腕の中で靭やかに撓った。
「躯は正直だと申し上げたでしょう?」
 幼いシエル自身を下着越しにやんわりと弄ってやれば、先走りの蜜がとろとろと溢れてくる。濃厚なキ
ス一つで達しそうになっているシエルの性感の幼さと快楽に脆い躯に、セバスチャンは苦笑を禁じ得ない。 
「莫迦な男なら勘違いして、坊ちゃんはそのまま餌食ですよ」
 薄い吐息を滲ませるシエルの無自覚な色香。華奢で幼い躯に相反し、成長途中特有の未成熟な色香。青い果実を連想させるそれは、シエルの魅力の一つに化けている。莫迦な男なら勘違いして、躯ばか
りか精神まで壊されてしまうだろう。
「んくぅ…っ、そっ、な…知らな…」
 ソフアーの上で伸し掛かられ、咄嗟に閉じようとした下肢は、けれど気付けばセバスチャンの体躯を挟
み込む恰好で肩幅まで開かれている。
「私以外の前でそんな無防備な表情を見せていると、犯されますよ」
「……お前だって……似た様な……」
 この状況は違うのか?と、性感を引き摺り出された婬らな貌が、睥睨を向ける。けれどたった一人の男
に慣らされた躯は、この先に訪れる快楽を期待して、白い肌は薔薇色に色付き始めていた。
「似ていますが、違いますよ。嫌なら貴方は私を容易に退けることは可能なんですから」
 命令すれば済むだけの話ですよと笑えば、シエルは苦い舌打ちを吐き出した。
「坊ちゃんから、バレンタインのチョコレートはなしですか?」
「…何で…僕がお前に……」
「私は悪魔ですから、当然見返りは要求しますよ」
 当然でしょう?と、白い手袋を嵌めた指先が前髪を梳き上げれば、そんな些細な仕草にも快楽に弱い躯
はぴくりと揺れ、甘い吐息が零れ落ちる。
「カクテルなんて作ってきたのは、お前の勝手だ」
「それ以外にも、今回は貢献したじゃありませんか」
 ぴちゃりと淫猥な音を立て首筋を舐め上げられ、同時に下着の内側に潜り込んできた指先にやんわり
自身を包まれる。その生温い刺激に、シエルは細腰を大きく顫わせる。
「ぁあんっ……、やだぁ…っ」
 焦らすような繊細な愛撫に、否応なく細腰が浮き上がる。浅ましい程従順に反応する躯はシエルの意
思を綺麗に無視して、最奥までセバスチャンの手を許してしまっていた。
「坊ちゃん」
 促すように囁かれ、シエルがすすり歔きにも似た吐息とともに口を開いた。
「あっ、んんっ…、チョコレート…な、んて…」
 用意してないと、襲い掛かってくる快楽を逃そうと嫌々と首を振れば、セバスチャンの笑みが深くなった
のが気配で感じ取れる。
「残念ですね、今回は坊ちゃんの我が儘にお付き合いして、レシピまで考案して差し上げたのに」
 情後のピロトークで唐突に口にされた科白は、スイーツ業界への参入云々より余程凶悪的で、そのレシピを考案しろという、甚だ執事の仕事の範疇外の内容だった。どちらかというと、スイーツ業界に参入するというのは思い付きでも、レシピを考案させてやろうというのは計画的だったようにも思える。そんな内心が見え隠れするシエルの科白に、流石のセバスチャンも心底呆れた程だ。少なくとも情後のピロトークで口にする科白ではなかった筈だ。
 表だろうが裏だろうが、仕事となると些かワーカーホリックな傾向に在るシエルだ。情後にそんな下らない思い付きをしたとしても仕方ないだろう。けれどそのレシピを考案しろとなれば話は別だ。
「お前の得意分野なんだから……」
 いいだろうと反駁すれば更に下肢を開かれ、双丘の狭間に手を差し込まれる結果に繋がった。
「やっ……っ!」
「鳴呼、チョコレートなら、此処にあるじゃないですか」
 閉じ合わせることのできない下肢の間に掌を差し込めば、手袋越しでも判る程、最奥は顕著な反応を示
している。そんな反応にクスリと小さい笑みを浮かべると、セバスチャンはガラスの小皿に入れてあったチ
コレートを優雅な仕草で摘み上げた。