Lacrimosa
act1











 滔滔と流れていく凪いだ水面は芒洋として、何処までも蒼い薄闇だけが音もなく静かに続いている。
それは途切れもせず、涯も見えない。煙景に霞む蒼闇だけが支配する空間は、天空で輝く月の光が静
かに水面に差し込み、殆ど振動もなく流れるゴンドラに合わせ、時折光の輪郭を歪めて柔らかく揺れる。
 天と地の境界線など綺麗に消失したかのような空間は、濃淡の差はあれ、殆ど蒼一色といって差し
支えないだろう。それが白い靄に霞んでいる光景は、空間をより幻想めいて見せている。 現実なのか、異界なのか、或いはその狭間なのか。シエルに判るものは一切ない。けれど不思議と微塵の恐怖
も感じられず、心は静かに満たされている。それが可笑しくて、シエルは薄い笑みを静かに浮かべた。
 ここが地獄へと続く悲嘆の川のアケローン川なのか、忘却の川のレテなのか、号泣の川のコキュート
スなのか、それともロンドンを流れる川の何処かなのか、シエルには判らない。尤も、場所が特定され
たからといって、今のシエルには何の影響も及ぼさない。それはこれから身の上に起きることは、ただ
一つしかないからだ。
 契約完了に伴い、契約した悪魔に魂をくれてやること。今のシエルに残されていることはそれだけだ。
その最終地点に向かう旅路に、今更場所など訊いても何の意味も持たないことを、聡明なシエルはよく
判っている。尤も、ここが伝承などで語り継がれる、地獄へと続くアケローン川だとしたら、こいつは渡し
守のカロンだなと、シエルは小さい苦笑を重ねた。
「坊ちゃん、どうなさいました?」
 片腕で器用にオールを操りながら、セバスチャンが穏やかに笑って訪ねた。
執事として仕えていた3年という月日は、長くはないが、短くもないだろう。その年月の中で、シエルの
こんなに静かな笑みを、セバスチャンは見たことがなかった。
 全てを終え、満ち足りた安らぎの中に身を置くような、今のシエルはそんな笑みを浮かべている。それ
がセバスチャンに、言い様のない感情を覚えさせる。
 聡明なシエルには、判っている筈だ。ここから先に待ち受けているものは、魂を代価に契約した悪魔
に、魂を差し出す最終的な意味での契約完了が待っているのだと。それは人間としての生を終えるとい
う、死という意味合いからは程遠いものだ。
 信仰を拒否して悪魔と契約した魂に、一切の救いは存在しない。悪魔と契約した魂というものは、死
神の審査も受ける資格を失い、悪魔に掠め取られた魂という意味を持っているからだ。
 死神に狩らることさえなく、地獄へも煉獄へも逝くことのできない、一切の免罪から切り離された存在。それが悪魔と契約した人間の魂の逝き場だ。いつ訪れるかも判らない、世界の終焉とやらの顛末に
待つ、神の国での転生も叶わず、ただひたすら、悪魔の贄になるしかないのだ。その程度のことは、幼
くしてファントム社のオーナーとして才覚を現し、そして悪魔の自分でさえ驚かせる洞察力を持つシエル
に判らない筈もないだろう。だというのに静かに笑うシエルに、セバスチャンは内心で驚きを隠せない。
こんな契約者は、今までいなかったからだ。ましてそれが幼い子供となれば、尚更だ。
「いや……何でもない」
 地獄へと続く川の渡し守。セバスチャンはそんな可愛い存在ではないだろう。詠唱破棄で魔力を使用
する悪魔は、おそらく悪魔の中でも、高位の存在の筈だ。魔力と呪文がセットだと言うことを考えれば、
導き出される答えは、自ずと見える。
 天使と同種の羽根を持つ悪魔など、在るとすれば稀少価値の筈だ。その悪魔が最後の最期まで執
事で在り続けようとする美学とやらには、感心すると同時に、正直呆れた。
 あの時、偏った正義を振り翳した天使と対峙した時。悪魔の本性に戻れば、片腕を失うこともなかった
だろうに。一体何に拘っていたのか?
 主人の心証を害するから眼を閉じていてほしい。そんな風にセバスチャンは言ったが、正直言ってしま
えば、セバスチャンの悪魔の本性を見たかったというのか、シエルの素直な本音だ。 契約した、たか
が非力な人間の子供一人に、何を遠慮しているのか?肝心な部分で、この悪魔は莫迦みたいな気遣
いを見せる。今更セバスチャンの本性を見た程度で、憶するとでも思っていたのか?どうせ自分は悪魔
の獲物で、晩餐の一部だ。そんな獲物に何を気遣っているのか、シエルにはセバスチャンの行動がま
ったく理解できなかった。
 瞳を閉ざした分だけ五感は敏感に作用し、聴覚は僅かな音をも聞き逃すことなく拾い上げ、全身でセ
バスチャンの気配を追っていた。あの時耳に届いた言葉は、はっきりと覚えている。


『無様で、醜悪で、えげつない』


 周囲の空気を一瞬で圧縮するような威圧さと、それに相応しい、抑揚を欠いた淡如な声。聞き覚えの
ある羽音。視界を閉ざしていても、それは容易に判った。闇色の羽根が、セバスチャンの周囲を覆って
いるだろう。無様で醜悪でえげつない本性を守るように。そう確信できたのは、セバスチャンと契約した
時も漆黒の羽根が周囲を包み、その本性を隠していたからだ。
 一面を覆う漆黒の羽根。その羽根に牙と爪を隠し、選択を突き付けてきた狡猾な悪魔。きっと今もセ
バスチャンの周囲にはあの日と同じ、黒い羽根が舞っているだろう。そう想像することは、シエルには容
易だった。一瞬脳裏には、あの契約の日が鮮明に甦ったくらいだ。
 辺り一面を覆い尽くした、ビロードのような漆黒の羽根。


『ひとたび信仰を拒否すれば、神の門をくぐることは、もはや叶わぬ』 


 抑揚を失った声。漆黒の羽根に、牙と爪を隠して嗤っていた悪魔。天使と対峙するセバスチャンの声
によって、契約のシーンが鮮明に甦った。
 静かで、それでいてカツリとなる靴の音。その音が徐々に大きく、高くなっていった。そしてセバスチャ
ンの気配に紛れ、空気を振動させる威勢で伝わってきた、アッシュの驚愕に満ちた純粋な恐怖。天使を
も恐れさせる悪魔の本性。
 人間の不浄を嫌い、偏った正義を振り翳し、虫けら同然に人間を焼き尽くしてきた天使が、侮っていた
悪魔の本性に恐怖を覚えている。
 アッシュの恐怖に紛れ、伝わってきたセバスチャンの気配は、けれど自分にとっては、微塵も恐怖を
抱くものではなかった。
 いつもいつも、慇懃無礼な程の嫌味ったらしい冷ややかな微笑みを見せるくせに、眼を閉じていてほ
しい。そんな願いを掲げてきた莫迦な悪魔の視線は、これ以上ない程静かで優しく、それでいて人間み
たいに切なげだった。
「莫迦だな……」
 冷ややかなワインレッドの色に重なる、ネコの眼のような双眸。今まで見せられたセバスチャンの悪
魔性はその程度だったから、セバスチャンの悪魔の本性を見た天使に、莫迦みたいな嫉妬が湧いた。
 見せろと命令しても、それだけは決して見せてはもらえないだろう。それが判るから、セバスチャンの
悪魔の本性を見た天使に、胸が灼け付く嫉妬を覚えさえする。そんな自分の内心に、シエルは薄い自
嘲を重ねた。
 瞳を閉ざした一瞬、口唇に触れた冷たい感触。ほんの一瞬、一体何かと意識する間もなく、離れてい
った酷薄な感触。
 あの感触を思い出し、シエルはそっと口唇をなぞった。
キスと言う程、明確な何かがあった訳ではなかった。あの局面で喫驚して瞳を開かないか、試されたの
かもしれない。第一悪魔があの状況でキスなどする筈もない。悪魔にそんな習慣はないだろう。
「坊ちゃん、何ですか?さっきからぶつぶつと」
 凪いだ川面は、さほどオールを必要とはしない。既にここまでくれば、黙っていてもゴンドラは目的地
に到着する。
「何でもない」
 薄い自嘲を滲ませると、シエルは月明りに細い左手を透かして掲げた。
ブルーダイヤの代わりに嵌められた蒼い花の指輪。何の変鉄もない、誰かの戯れで作られた花の指輪
を、けれどシエルは素直に綺麗だと思った。
 もう自分は伯爵でも、裏社会の番人でもなく、ただのシエル・ファントムハイヴという一人の人間なの
だと実感できた。
「僕は、シエル・ファントムハイヴ。そう、ただの、シエル・ファントムハイヴだ」
 月明りに透ける蒼い花の指輪。今まで連綿と受け継がれてきたブルーダイヤに固執し続け、それを壊
したエリザベスを傷付けてしまったこともあったけれど、こんな風に他愛ない花の指輪が自分の最期を
飾る指輪だと思えば、それはそれで可笑しいと思う反面、これで全ての重荷は下りたのだと実感できた。
「ええ、貴方はもう伯爵でもなければ、裏社会の番人でもない。ただの私の坊ちゃんです」
「バーカ、ただの獲物だろう?」
 「私の魂」お前あの時、本音を言っただろう?そんな風に軽口を叩けば、セバスチャンは切なそうに静
かな笑みを垣間見せた。その静かな笑みに、一体何が悪魔にそんな表情をさせているのか、シエルは
不思議そうに小首を傾げた。
「さぁ、参りましょう。貴方と私の、最期の場所に」
「ここは……?」
 これから起こることが一つしかない以上、場所など訊いても意味はないと判っている。けれど、どうや
ら人間と言うのは、最期まで好奇心に塗れた生き物らしいと、シエルは僅かに自嘲する。
「死の島、ですよ」
 振動もなく静かに白い砂浜に打ち上げられたゴンドラから、そっと壊れ物を扱う丁重さでシエルを抱き
上げると、セバスチャンは柔らかい砂を踏み締め、歩き出した。
 月明りに光る白い砂。それは地上の砂より余程粒子は細かく、軽やかで、歩く都度にセバスチャンの
靴跡を残していく。
「死の島?」
 川なのか海なのか判らないものの、月明りが照らす蒼い水面に立ち込める霧。そこに蜃気楼のように
浮かび上がる岩山。昏い造形物のように、不意に川の中途に出現した岩山は、よく見れば古城らしき
建物が聳え立ち、背後に緑が溢れているのが見て取れた。
「私の城、でもありますが」
「お前の城?」
 蒼い闇と月明りだけが支配する無音の世界は、綺麗な反面、それはびとく淋しい光景に見えた。
「ええ、私の城、ですよ」
 けれどこの島まで、契約者を連れてきたことはない。シエルはどう思っているか判らないものの、自分
が契約者をここに連れてきたこともなければ、契約を最期まで執行することは、本当に稀だ。
 悪魔と契約をするということが、どういう意味を持つのか。大抵の人間は途中で悟り、死の恐怖に堪え
られず、逃げ出すか、逆にセバスチャンを殺そうと無駄な足掻きを見せたりと、悪魔が契約するに相応し
い人間ではなかった。だから契約不履行を理由に、契約を破棄して魂を喰ってきた。シエルも過去契約
してきた人間達と同じ末路を辿ると思っていた。けれどシエルは良い意味でも、悪い意味でも、セバス
チャンの予想を裏切った。 何のチカラも持たない、非力な人間の子供だ。聡明だと言っても、魂を引き
換えに悪魔と契約する意味など、あの時シエルは理解していないだろうと思っていた。だからその意味
を悟った時、過去の契約者と変わらない行動に出るだろうとも予測していた。けれどシエルは違った。
 悪魔と契約するという意味を正確に理解し、コマとして扱うことに躊躇いを見せない高潔さがあった。
決して朽ち果てない、何人にも崩されないプライドの高さ。だからこそ最期にこの場所に連れてきた。
それが悪魔として獲物であるシエルに対する、セバスチャンなりの最高位の敬意だったからだ。
「綺麗な場所だな」
 聳え立つ岩山は鬱蒼としていたものの、一歩中に入れば、折り重なり繁る緑に月明りが差し込み、幻
想めいた光景を作り上げている。崩れ落ちた廃墟のような場所の、おそらく中庭だろう。そこはそういう
設計で作られたのだろう。中庭の中央に月明りが集まるようになっていて、白い光が眩しいくらいだ。
「そうですか?」
 まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかったから、シエルの感性には驚かされる。これから悪魔
に魂を喰われるというのに、綺麗はないだろうと、セバスチャンは少しばかり遠い眼をした。
「ああ、綺麗だ」
 無様で醜悪で、えげつない悪魔の城とは思えないな。そんな風に笑えば、セバスチャンは嫌そうに眉
を寄せた。
「眼はちゃんと閉じていたぞ。耳も塞げとは、お前は言ってなかったからな」
「そうでしたね」
 こんな時でもシエルはシエルだ。憶することなく軽口を叩く。この魂を自分はこれから晩餐として喰うの
だと思えば、満たされる空腹に、恍惚とした絶頂の悦楽にも似た思いが沸き起こる。そして同時に、らし
くない躊躇いと切なさが湧いた。
 もう二度と、この魂には触れられない。晩餐として喰ってしまえば、シエルという生き物に触れることは、二度と叶わない。小生意気な科白を聴くことは、二度とないのだ。
 らしくない。過去の契約者は此処に連れてくる以前に、契約途中で破棄してきたと言うのに。たかが
非力な人間の子供一人に情が湧いたなど。こんなことは、悪魔として資格だ。
 セバスチャンは自嘲すると、シエルをそっと腕から離し、石で作られたベンチに降ろした。
 大して重さなど感じさせない、むしろいっそ何が詰まっているのか疑いたくなってしまうような小柄な躯
は、けれど腕から離せば、軽くなった分。まるでシエルの存在を忘れるなと言うかのように、セバスチャ
ンの右腕にシエルの重さを残していく。「さぁ、坊ちゃん」
「ここが、最期の場所か」
 そっと下ろされた、ひんやりと冷たい石のベンチ。月明りが照らす幻想めいた光景で晩餐をするという
のは、案外悪魔というのはロマンティストだなと、シエルは苦笑する。
 口を開けば、主人を主人とも思っていない慇懃無礼な態度に、冷ややかな笑みしか見せなかったとい
うのに、悪魔の城がこれ程幻想めいた佇まいを持っていることに、シエルは少しだけ驚いた。まるで黄
昏色だと、フト思う。
 夜というには語弊があるだろう。濃淡の有無は別にして、蒼一色に包まれた空間は、月の光が静か
に差し込み、繁る緑に光を落としている。けれどその光景は、地上で見る陽射より柔らかい。
「ええ」
 まっすぐ見詰めてくるサファイアの瞳に、セバスチャンは内心で苦笑する。
 向けられた視線には、躊躇いも澱みも、まして恐怖などという揺らぎは、一切感じられない。その魂の
有り様が、セバスチャンには何より愛しかった。
「鳥が狙っている」
 セバスチャンの使い魔なのか、崩れ落ちた廃墟の一角に止まるカラスが、まるで獲物を狙うように見
下ろしてくるのに、シエルは自分の魂が喰われた後の、遺こされた器の扱われ方が判った気がした。
 魂は悪魔に、不要になった器はカラスに。ある意味で平等だ。残された肉体は鋭い嘴で内臓まで暴
かれ、残骸となり、やがては朽ちていくだろう。
「そうですね」
「魂を取った残りは、くれてやれ」
 魂を喰われた後、遺こされた肉体がどう扱われようと、正直、シエルにとっては、知ったことではなか
った。精々セバスチャンの使い魔の餌にでもなれば、今まで自分に仕えてきた悪魔の糧の一つ程度に
はなれるのかもしれない。
「流石は坊ちゃん、お優しい」
 この潔さと静謐さこそ、自分が求め続けたシエルの魂だった。契約を交わしたあの日から。
「痛いか?」     
 魂を喰う。その言葉はあまりに抽象的すぎて、人間のシエルに実感として理解することはできなかっ
た。何よりセバスチャンの言う魂の定義が判らない。少なくとも人間のシエルに、魂というカタチは見え
ない。それでも判ることがあるとすれば、それは悪魔であるセバスチャンにとって、それは糧となる。
その程度のことだ。
 自分達人間が動植物を糧にするのと意味は同じで、この目の前の悪魔にとって、糧は人間、それだ
けのことだ。憶する必要は何もない。何よりセバスチャンはこれ以上ない程忠実に、最後の最期まで、
執事として傍にいてくれた。
 あの惨劇の夜。心も躯も丸裸にされた自分に、残されたものは一切なかった。
英国社会の伯爵という名誉も、自分を愛してくれた父も母も。あの時自分の掌中に残されたものは、憎
しみという、救いのない感情だけだった。
 まるでべったりと心に闇が張り付き、腐っていくような。あの時シエルを支えていた糧は、憎しみが全
てだった。けれど違ったのだと気付かされたのは、フランスでこの悪魔に置き去りにされた時だ。
 一人で立っていたつもりになっていた。けれど違う。盤上にはいつも最強のナイトが存在していた。
それは言い換えれば、シエルには最初から、セバスチャンと言うナイトしか存在していなかったというこ
とだ。
 自分が持っていたコマは最初から最期まで、悪魔であり執事である、セバスチャンというナイトだけだ
ったのだと、あの時、暗い夜の海を見凝めながら、シエルは気付かされた。
 近くにありすぎて気付けなかった最強のコマ。いつだって自分の傍に在たのは、セバスチャンという悪
魔だ。たとえそれが契約だとしても。
 悪魔は気紛れな生き物だ。非力な子供など、あの時、フランスに置き去りにして、放り出されても可笑
しくはなかった。けれどセバスチャンは戻ってきた。自分はこの悪魔に喰われる価値のある、セバスチャ
ンの望む魂の形になれただろか?最強のコマに差し出せるものなど、この身一つだ。
「そうですね、少しは。なるべく優しく致しますが」
 らしくないシエルの科白に、セバスチャンは静かに苦笑する。けれど次のシエルの科白に、セバスチ
ャンはシエルという人間の本質的な強さを思い知らされる羽目に陥った。
「いや、思い切り痛くしてくれ。生きていたという痛みを、魂にしっかりと刻み付けてくれ」
 正面に佇むセバスチャンをまっすぐ凝視すれば、セバスチャンは僅かに息を飲み、次には優雅な仕草
で膝を折った。
「イエス、マイロード」
 最後の最期まで、貴方の傍に。繰り言のように繰り返してきた言葉だ。それを言うのも、これで終わり
だ。そう思うと、らしくない感傷が胸をよぎる。空腹が満たされるというのに、胸の一部に言い様のない
空虚感が湧く。
 そんなセバスチャンを見下ろしながら、シエルは静かに笑った。
契約者を渡りながら、この世に生き続けていく悪魔は、こんな城で一人で生きているのか?孤独を孤独
とも理解できない程、長い間一人で。そう思うと、淋しくはないのだろうか?そんな下らない感傷が胸に
湧いて、シエルは小さく苦笑する。そんな下らない感傷を、悪魔が持っている筈もない。
 自分を喰ったら、非力な獲物のことなどすぐに忘れて、セバスチャンは次の契約者を探すだろう、空腹
を満たす為に。人間が食事をするのと同じように、悪魔にとっての晩餐を求めて。
 それでいいと、シエルは静かに笑った。生きていたという生命の証し。痛みに堪えられず、自らの生命
を終わらせてしまう人間も居るというのに、痛みは人間の生存本能に直結しているのだという。だからこ
そ、思い切り痛くしてほしかった。たとえ悪魔に魂を喰われてしまうとしても、憎しみだけしか糧がなかっ
たとしても、自分は確かにこの悪魔と一緒にいて生きていたのだと、魂に刻み付けてほしかった。今ま
で自分を守ってくれたナイトの為に。
 差し出せるものなど、この身一つ。だからこそ、この莫迦みたいに優しい悪魔の望む魂の形で在りた
かった。片腕を失いながら、最後の最期まで、執事であろうとするこの莫迦みたいに優しい悪魔に。孤
独を孤独とも理解できない、可愛そうな悪魔に。
 揺らぎ一つないシエルの静かな表情に、セバスチャンは失った腕の代わりに口唇で白い手袋を外す
と、シエルの頬にそっと触れた。
 初めて素手で触れたシエルの頬は、空気が冷たい所為か、少しだけ冷たく感じられた。そっと瀟洒な
輪郭を撫でれば、シエルは身動ぎ一つなく、まっすぐ凝視してくる。
「僕はお前の大好きな、ネコの肉球じゃないぞ…」
 触るというより、愛撫の意図をもって触れてくる指先。そっと頬を包み、まるで輪郭を確かめるように触
れてくる指先の温度は、初めて触れるセバスチャンの生身の体温だ。
 無機質な爬虫類の感触にも似て、それは何処かひんやりとして心地好かった。
「ネコと貴方とを、同じに扱ったことはありませんよ」
 この局面でその科白かと、セバスチャンは苦笑する。喰われる恐怖ではなく、それはシエルの本音だ
と判るから、最期までシエルらしい勝ち気さに、セバスチャンは少しばかり肩を竦めた。 
「セバスチャン、お前には感謝している」
「坊ちゃん?」
 瞬きを忘れたかのように、まっすぐ見詰めてくるサフィアブルーの瞳。そこには命乞いだとか、恐怖だと
か、駆け引きだとか、無駄な感情は浮かんではいなかった。
「僕は、お前がいたから最後まで真っ当できた。お前は最強のナイトだった。だから、感謝している」
「これから貴方を食う悪魔に、感謝ですか?」
「可笑しいか?でも最期に、これだけは言いたかったんだ」
 静謐な瞳で見詰めれば、セバスチャンは何とも言えない貌を滲ませている。
「僕は、お前の望む魂の形に戻れたか?」
「ええ、だから貴方は、此処にいるのですよ」
「そうか」
 よかった。そんな安堵が笑みに重なった。
「さっさとやれ、思い切り痛く」
「御意」
 莫迦みたいに丁重に、そのくせ愛撫の意図を持っている、いやらしい悪魔の指先。頬から口唇を撫で、それからそっと眼帯の内側に指先を差し込まれたかと思うと、外すというより、服を脱がすような仕草
で、眼帯を外された。
 ゆっくりと近付いてくる影。ワインレッドから、幾度となく眼にしてきた、ネコの眼のように変容を遂げた
悪魔の双眸。それは何処か恍惚として、快楽に溺れたように見えた。そんなセバスチャンの表情は初
めてで、シエルは今まさに魂を喰われるというのに、初めて眼にするセバスチャンの表情に、何故かホ
ッとした。
 こいつでもこんな表情ができるんだな。そんな下らないことが内心を掠めた。
この悪魔の望む魂の形で喰われる。過去の契約者も、こんな表情で喰ったきたのだろ。そしてきっと最
後の最期、悪魔の本性の片鱗に触れたのかもしれない。その時、やはり過去の契約者は自分と同じよ
うに、喜んだだろか、恐怖しただろうか?孤独を孤独とも理解できない、この莫迦な悪魔の本性に触れ
ることができて。
 今まで傍にいてくれた最強のナイトの糧に。それが今の自分の願いだと言ったら、この悪魔は笑うん
だろうなと、シエルは内心で自嘲する。
「では、坊ちゃん」
 そっと右眼に触れた舌先。僅かな痛み、この期に及んでタチが悪いくらいに、莫迦みたいに優しく、柔
らかい。
 人間が他の生き物を糧に生きるように、この悪魔にとっては単純に食事だ。優しくする必要など何処
にもないだろうに。それでも優しく触れてくる痛みに、シエルはこの莫迦悪魔。そんな風に笑った。
 どうかこの悪魔が孤独に気付かないように。さっさとお前は次の契約者でも探して、僕のことなんて忘
れてしまえ。
 それが僕の最期の願いだ。
「………セバスチャン……」
 有能で万能で忠実な執事。盤上でたった一つ存在していた最強のナイト。最初から最期まで、自分が
持っていたコマは、この莫迦みたいに優しい悪魔だけだった。
 好きだったと気付くのが今なんて、本当に碌でもない。
喰われることで一つになれる。この悪魔が消滅する時に、置き去りにされることもない。セバスチャンの
血肉になり、いつまでも存在し続ける。それが下らない感傷だと理解してなお、今喰われることが救い
だと言ったら、セバスチャンは呆れるだろうなと、遠のく意識の中で、シエルは静かに笑った。