Purgatory






 もし快楽を選ぶとしたら、快楽の後ろには面倒と悔恨とをもたらすものがついていることを知っておくがいい。






 まるで絵本から切り取ったかのように浮かぶ円い月。濃紺な闇の中で無音の世界を奏でる光は、周
囲の星々の輝きを掻き消して優游と浮かんでいる。
 数時間前まで雷鳴と激しい雨を降らしていた暗雲は何処かへと去り、今は皓月が静謐な輝きで地上
を照らしている。
 満月の光を長く見てはいけないと言うが、それは澄んだ光の中に、自らの深淵を垣間見てしまうから
なのかもしれないなと、劉は窓辺のソファーから垣間見える月を眺めて、ふとそんな風に思った。
 そんな矢先、不意に客室の扉が静かにノックされ、短い返事の後には、完璧に燕尾服を着こなしたセ
バスチャンが足音も立てずに訪れた。
「お客様のお持て成しもできず、大変、失礼致しました」
 磨き上げられた銀のトレイの上には、白磁にグリーンの色彩で描かれた美しい花が特徴的な、ヘレン
ドのティーセット一式が乗せられ、仄かな香りが室内にゆっくりと広がっていく。
「我は別に構わないよ。好きにやってるから。勝手したたるなんとやらってね」
 あてがわれた部屋のソファーで本を読んでいた劉は、まるでセバスチャンが訪れるのが判っていたか
のように落ち着いている。
「すっかりナイトティーの時間になってしまい、申し訳ありません」
 実際はナイトティーという時間さえ憚られる時刻は、完全に日付変更線を回っている時間帯だ。
 物事には優先順位が存在する以上、有能な執事とはいえ、全てに於いて万能では有り得ない。それ
は悪魔であるセバスチャンでも同じことだ。殺人事件と客人の持て成しを秤に掛ければ、答えは明瞭だ
った。けれど執事としてそれは如何なものか?と、悪魔らしくない勤勉さで以て、セバスチャンは劉の部
屋を訪れていた。
 客室を訪れるには大概非常識な時間だという自覚はあるが、劉は必ず起きているという確信がセバ
スチャンにはあった。
 死神が同僚とやらに引き取られ、切り裂きジャックと世間を騒がせていた事件は終焉を迎え、シエル
と共に街屋敷へと戻ってきた。その時、寝静まっている屋敷の中で、劉の部屋には人の気配があった。
 シエルが拒みさえしなければ、異界の力で空間を潜り抜け、幼い主の部屋へ直行することは可能だ
ったが、シエルはそれを頑なに拒んだ。
 『疲れた』と、今にも消え入りそうに呟きながら、それでもシエルはセバスチャンの力に頼ることを拒ん
だ。足許がフラ付き、やっと歩いているのが見て取れたが、『一人で立てる』と差し出した腕さえ拒んだ
シエルの科白が、覚悟の在処だと判るから、セバスチャンは何も言わず、シエルの半歩後ろを歩いて
町屋敷へと戻ってきた。その時劉には屋敷に入る所を見られていたことを、セバスチャンは気付いてい
た。 
「我のことより、伯爵に付いてた方がいいんじゃないかい?」
 それは誰より、この目の前の有能だと評される執事に必要なことだと感じたから、劉は読み掛けの本
を静かに閉じると、正面に佇むセバスチャンを見上げた。
 深夜も回ってからの帰宅。それも執事は燕尾服を羽織っておらず、遠目にも傷付いているのが見て取
れた。そして幼い伯爵は、その階級に相応しい恰好はしておらず、気力だけで歩いているのが見て取
れる程、足許は覚束無い様子だった。何が在ったのか詳細は判らないまでも、何か在ったことだけは明
瞭だったから、劉はセバスチャンが非常識な時間に関わらず、客室に訪れるだろうことを予想していた。
「坊っちゃんでしたら、眠りました」
 気力だけで屋敷に辿り着いた直後、そこまでが限界だったのだろう。シエルは消失するように意識を
手放した。
 倒れ込んできた躯は、一体何が詰まっているのか疑いたくなってしまう程に軽く薄い。抱けば華奢で
細い骨格の造りは判っていたが、今夜のシエルには薄く細い躯より何よりも、痛々しい憐れさが眼に付
いた。
 身内に裏切られ殺されそうになり、そうして元凶は目の前で異界の存在に切り捨てられた。それでも
気力だけで屋敷まで辿り着いたシエルの精神には、正直感心する。そして同時に、シエルの精神が正
常に機能していることが、セバスチャンを安堵させた。
 被害者の悲鳴に、憶することなく殺害現場へ飛び込んでいった瞬間、視界に飛び込んできただろう臓
物と解体された屍。半瞬遅れて視界を塞いだものの、それはシエルの視界に恐怖と嫌悪を伴い、突き
刺さった筈だ。何より周囲に充満する腐臭は、殺害現場に相応しい、あからさまな血の匂いを立ててい
た。
 かつて人間だっただろうと判別がつく程度にまで解体された死体は、腹部からは腸と臓器が引き摺り
出され、床の上に無造作にぶちまけられていた。四肢も切断寸前にまで解体され、筋肉は引き剥がさ
れていた。
 解体された屍を前に、嘔吐したシエルの精神機能の正常さは、恐怖や嫌悪と紙一重だった筈だ。
けれど幼い主の自覚のない願いの在処を判っているから、その反応にセバスチャンが安堵したことをシ
エルは知らないだろう。
「ああいうのは、失神したって言うんだよ」
 まるでシエルがセバスチャンの腕の中で意識を失ったことを見ていたかように苦笑すると、劉はセバ
スチャンが用意したナイトティーに口を付けた。
 豊潤なアッサムにラム酒を垂らした喉越しは、アフタヌーンティーとはまた違う味わいで、深夜に相応
しい紅茶だった。
「……劉様は、何処までご存じなんですか?」
 悪魔の自分をしても、この男は得体が知れず、掴み所がない。容易に手の内を曝さない飄々さは、け
れど悪意も害意も感じさせない穏やかさが感じられるから不思議だ。
「我は何も知らないよ。知る立場にも居ないしね。ただ、伯爵に何かあったことだけは判る、その程度だ
よ。まぁ後は、どうやら一連の殺人事件は終わったってことかな?」
 何がどう終焉を迎えたのか、劉は一言も尋ねない。尋ねないのは知り得ているからか。或いは言葉ど
おり、知る立場には居ないということなのか。掴み所のない劉の中身は、セバスチャンにも判らないこと
だった。けれど立ち入らない分別それ自体は、セバスチャンには好ましく思えた。
「これで少しは、伯爵の憂慮が減るといいんだろうけどね」
「女王ではなく、ですか?」
「心外だね。私が見知らぬ女の内心を察しなければいけない道理はないだろう?実際王室の人間が、
眼下の人間を気にするとも思えないしね」
 王室が気にすると言えば、上流階級である貴族達の王室体制への造反だろう。貴族と言えど、急速
な産業革命を遂げる社会の中で、その階級だけに胡座を掻いてはいられなくなっている。没落寸前の
貴族は幾らでも存在し、商家が頭角を現し、階級を金で買う時代が訪れている。そんな社会では、王室
に対する造反はいつ起こっても不思議ではない。その為、危険因子を取り除く必要が生じてくる。それ
を代々請け負ってきたのが、ファントムハイヴ家だった。
 時代に合わせ、変化する価値観と正義。それを統率してきたのが、裏社会の秩序と呼ばれ続けてき
たファントムハイヴ家だ。それはまさに光に対する、闇の系譜と意味は同じだ。
「裏社会の秩序とは、巧い言い方だと思うね。伯爵の系譜は、まさに王室体制と表裏一体だからね」
 それを十二歳の子供に背負わせている上流階級の茶番。その茶番に、錬金の天才が気付かない筈
もないだろうに、幼い伯爵は小さい躯に一族の系譜を背負い歩いている。それが憐れだと劉には思え
た。
「法は陽の当たる場所でしか、その効力は発揮出来ない。そして本当に法が必要なのは、その光の当
たらない世界だ。法のない場所では、正義も秩序も自由さえ存在できない。簡単な社会のシステムだ
ね。あの子は、裏の世界を統べる王だ。色々な意味に於いてね。眠れる獅子がどう育つか、我は楽し
みなんだよ」
 進化し続ける社会の中で、錬金の才を持つ子供は、社会の理など簡単に見透かしているだろう。だか
らこそ利を生み出し、伯爵家の栄華を彩ることが可能なのだ。その子供が、茶番としか思えない裏社会
の秩序を統べっているのには、何か言葉にされない目的があるとしか思えなかった。
「無知な楽園に自ら囚われた伯爵が、どう歩くか。我は興味が尽きないよ」
「……悪趣味の一歩手前ですよ、劉様」
 シエルの内側に直截に立ち入らない分別はあるものの、語られた言葉は辛辣だ。
「執事君は、そんなことは百も承知で、あの子の傍らに影のように付き従っているんだろう?単純に職
務としての一環か。或いは眼には見えない契約の類いかは知らないけれどね」
 芳香を楽しむ気配は何処までも閑舒なものの、口にされる言葉は得体が知れない。契約云々を持ち
出してくれば、それは尚更だ。
「もう随分あの子の深みに入り込んでいる自覚は、執事君にはあるだろう?」
「私はあくまで執事ですから。主人の内側には立ち入らないのが原則です」
 面白そうな劉の口調に、けれどセバスチャンは何処までも淡如に口を開いた。
 執事は使用人や屋敷、広大な領地の管理。そして主人の身の回りの世話までこなす、重要な従事職
だ。誰もが一石二鳥で出来る仕事でもなく、その職務は構造化された頭脳がなければ困難だろう。そ
れをセバスチャンは完璧にこなしている。有能というのであれば、英国中を探しても、恐らくセバスチャン
並の有能な執事はいないだろう。
 劉にはもう一人、若き伯爵に仕える執事に心当たりがないこともなかったが、目の前の執事程、異質
な完璧さはないだろう。目の前の執事は、存在自体が異質さを放っている。
「そうかな?少なくとも我には、君は伯爵にダメージを与えることのできる、唯一の存在のように見える
けどね」
 見えるというより、感じるという方が的確かもしれない。
是非は別にして、シエルはセバスチャンが傍らに在る時、警戒心が消え失せる。
「そして伯爵も、君の内側にもう随分入り込んでいるように思えるね」
 どうかな?と、窺う眼差しがセバスチャンの色素の透けたかのような双眸の中核へと入り込む。射る
ような冷ややかさは微塵もないが、焦点を絞ってくる視線は、興味本位の好奇心は欠片も含まれてい
ないのが判る。
「相手の内側に踏み込むって言うのは、同じくらい相手を心に棲まわせることと意味は同じじゃないかい?信頼や愛情、増悪は別にしてね。特に君達二人を見ていると、つくづくそう思えて仕方ない」
「劉様にとって、坊っちゃんはどうなんですか?」
「我かい?我はあの子を随分気に入っているから、こうして執事君に余計なことを言って睨まれたりして
いるんだけどね。あの子の内側に踏み込めているかっていうと、欠片も自信はないね。いっそ逆方向で
踏み込むことの方が、容易だと思えるよ」
 抑揚を欠いた冷ややかな視線が凝視してくるのに、けれど劉は鋭利な眼光に威圧されることもなく、
面白そうにセバスチャンを見ていた。
「裏切れる程ダレかの傍らに居るって言うのは、どんな心地だい?」
 優越か憐憫か独占欲か。感じる温度差に繰り返される満ち欠け。他人の内側に棲まう自分など、想
像しただけで恐ろしくなる。
「傷付けたい誘惑とかはないかい?自分だけが付けられる疵は、まるで刻印のようじゃないかい?」
 裏切ることのできる位置。接する社会の温度差により、感じ方は個人の自由だろうが、裏切れる程他
人の内側に入り込むのは容易ではないだろう。愛情という下らない絆だけでは、それは成り立たない気
が劉にはしているからだ。
「少なくとも執事君には自覚があるだろう?伯爵に深手を負わせられるという自覚程度は」
 目に見えない疵だからこそ容易には塞がらず、一度傷付けられたら立ち直るには時間がかかる。そし
て面白いくらい、シエルはそんなことには気付いてもいない。自分の立つ世界が、瞬時にも消え失せて
しまう脆弱な足場なのだと。
「私は坊っちゃんの忠実な駒。それ以上でもそれ以下でもありません。王の命で動くだけです」
 シエルの内側に入り込んでいる自覚程度なら、百も持ち合わせている。伊達に手の内で守っている
訳ではないのだ。それがシエルの魂と引き換えの契約関係だとしてもだ。
「人間は何処まで行っても所詮は人間。絶望の淵に立たされた時、垂らされた糸には縋るようにできて
いるものです」
 二年前のファントムハイヴ家の怪異は、社交界では口にすることは禁忌という暗黙の了解ができてい
る。裏社会を統べる家系だ。幼い子供一人を除いて全員死亡しているとなれば、裏に秘匿されている
事実を推察することは幾らでも可能だ。そして一人遺こされた子供が僅か10歳にして爵位を継ぎ、産
業革命に取り残されることなく伯爵家の繁栄を続けているとなれば、その怪異は深まるばかりだ。そし
て爵位を継いだ子供が、年若い執事を連れているとなれば、暇を持て余している上流階級の人間達が
口さがない噂を立てるのは当然の結果だろう。けれど表立っての浅ましい噂が流れないのは、その家
系故だ。
 怨嗟と栄華。表裏一体の脆い足場。爵位と引き換えに、シエル自らが囚われた無知の楽園。
「糸を垂らした張本人のように言うねぇ?」
 地獄の淵から救い出し、更に生き地獄へと堕とす蜘蛛の糸。劉はクスリと小さい笑みを滲ませると、
優雅な仕草でティーカップに口を付けた。
「生殺与奪の権限を持つ、まるで傲慢な神のようだよ」
「私はあくまで執事ですよ。坊っちゃんの命に忠実に動く下僕。時には剣に。時には盾に。必要に応じ
て動くだけです」
 幾重も存在していた選択肢の中、シエルを手の中で守り育てると決めたのは自分の意思だと、セバ
スチャンは冷ややかな月の光のような微笑みを刻み付け、劉を凝視する。
「糸を垂らすことが可能なら、幼い子供の内側に入り込むのも容易だろうねぇ?面白いかい?受け継が
れた血の系譜を持つ子供を守ることは」
 それは同じ位置で、幼い子供を壊し続けていくことと同じだと、何故か劉には思えて仕方ない。対極
に位置する合わせ鏡の鏡像。その作用と反作用の仕組みと、それは同じだと思えた。
 憐憫と優越。幾重かの征服欲と、幼い子供を掌中にする独占欲。整然とした矛盾が、セバスチャンの
内側にひしめいている気分にさせられ、劉は小さく苦笑する。
「裏切ることができる程、他人の中に棲まうなんて、まるで愛してるってことと同じようだと思わないかい?執事君」
 もう随分深みに互いの存在を受け入れてしまっている主従関係は、見ていて尽きない面白さはあるも
のの、時折憐れさをも感じさせられる。
「これだけは覚えておいた方が賢明だと思うから忠告するけどね。裏社会の幼い王を裏切ることができ
るのは君だけだ」
「…判ってますよ」
 切り込むようにまっすぐ向けられた視線の鋭利さに、セバスチャンはやはり劉は得体が知れないと内
心で苦笑する。並の人間とは思えない、底光りする何かを肌身は感じ取る。
「裏切ることのできる程、誰かの心に棲むつもりなら、それ相応の代価は必要だってことだよ」
 覚悟という代価は必要だろうねぇ?と、劉は意味深な微笑みを刻み付け、持ったままのティーカップを
ソーサーに戻した。
「あの子は幼いから、自分の気持ちなんて欠片も見えていないだろう?長く生きている執事君が大人の
分別で守ってやらないと、あの子は生き急ぐことになるだろうねぇ?」
 絶望を垣間見た人間は、絶望を忘れられない。足許に骸を築き上げ、最後にはその中に身を投じてし
まう誘惑に勝てないだろう。
「認識相違から個の繋がりというものは範囲を広げていくのが理だろう?我は我の見える部分で、あの
子を見ていくことにするよ」
 どんな子に育つか楽しみだねと、劉はひどく楽しげに窓の外に視線を向けた。
「私はあくまで執事。坊っちゃんの望むままに在るだけです」
 闇夜に浮かぶ石の球体。冴々とした光に包まれ、深夜の静寂に満ちている魔都ロンドン。
これからシエルを襲う絶望を、今は誰も知らない。


           
And that’s all……?