| Silent Night |
濃紺の闇の中、音もなく静かに舞い降りてくる白い結晶。それはまるで、水鳥の羽根のような軽やか さや、誕生日の夜、セバスチャンが見せてくれた白薔薇の花びらがフワリと漂う儚さと同じで、掌中に触 れれば、一瞬で消えてしまいそうな夢のように綺麗な光景だった。 「触れたら、夢みたいに消えるんだろうな」 窓ガラスにピッタリと張り付くように外を眺めるシエルは、流石に深夜に近い時間帯、雪の降るテラス に出るような愚は冒さなかったが、それでも窓ガラスに張り付く恰好は、決して褒められた行為ではな かっただろう。セバスチャンが見たら、盛大に呆れた溜め息を吐き出して、小言の一つや二つ言われる んだろうなと、シエルはもうすぐ訪れるセバスチャンの小言を想像しては、悪戯を思い付いた子供のよう な笑みを口端に飾った。 「坊ちゃん」 そしてそれは正鵠を射ていたのか、ナイトティーを運んで来たセバスチャンは、窓ガラスに張り付くよう に外を眺めているシエルの姿に、盛大に呆れた溜め息を吐き出した。 滅多に自ら照明を落とすことのないシエルの部屋から照明が消えている段階で、セバスチャンに言わ せれば怪しさ満点だった。大抵の場合、シエルが自ら照明を落とす時は、状況が限定されているからだ。 それは何かに急き立てられるかのように肉を番いたがる時だったり、押し潰されそうな哀しみを擦り替 える為に、やはり求められる時だったり、理由は幾重か存在するものの、大抵その後に待ち構えている 状況はいつも同じだ。 そんな時のシエルは狂女のように番いたかる。幾度も極め、極めた側から切れ目のない絶頂に上り 詰める。そんな時、シエルの内側で一体何が起き、葛藤しているのか、セバスチャンに判るものは一切 ない。それでも、免罪符も知らない生き物が擦り替える行為とはいえ、求めてくるのが自分だけだと知 っているから、セバスチャンは未だ安心していられた。 「もうナイトティーのお時間ですよ。折角シャワーも浴びられた暖まったのに、ベッドにも入らず、そんな恰 好で外を見ていると、風邪を罹きますよ」 シエルの部屋には執務室と大差ないデスクが置かれ、その上には書類が綺麗に束ねられている。 それを見咎め苦笑すると、セバスチャンはそっと書類を端に寄せ、デスクの中央に赤い液体の入ったス タカンを置いた。甘やかな芳香が室内に満ちる。 「今夜はロシアンティーか」 クルリと振り替えるとデスクの椅子に腰掛け、シエルはスカタンに添えられているロングスプーンでグ ラスを掻き回す。そうすると甘やかな薫りが鼻孔を緩やかに擽っていく。それだけのことで、室内が暖か く感じられるから不思議だ。 「雪が降る夜にはピッタリかと思いまして」 その名の通り、冬が長く、寒いロシア地方の飲み物であるロシアンティーは、シエルの冬の飲み物の 好物の一つだ。 雪が降る夜には最適かと淹れたものの、今のシエルの状態を考えれば、最適以上の効果をもたらし てくれるだろう。極少量とはいえロシアの酒を使用しているから、冷えた躯にも即効性の効果がある筈 だ。 「今夜はブルーベリージャムの代わりに、ストロベリージャムで甘みをお付けしてみました」 「暖かいな」 両手でグラスの上部を包み込むように持っていると、じんわりとした熱が掌中を通じ、躯に浸透してい くのが判る。 ウォッカの原産地であるロシアだけに、ロシアンティーも使用するジャムを少量のウォッカで溶いて紅 茶に混ぜて飲む飲み物だ。本場ではジャムを舐めながら飲むらしいが、英国流にアレンジされたロシア ンティーは、ジャムをウォッカやシュガーシロップで溶かして混ぜるのが一般的だ。 湯気の立つ表面を眺め、舌を火傷させないようにゆっくりと口に含めば、まろやかな味が口内で溶け る。それは躯の芯から暖めてくれる心地好さだった。 「お酒の所為ではありませんよ。こんなに冷えているのにも気付かなかったんですから」 まるでシエルの内心を読んだかのように苦笑すると、セバスチャンは白い手袋越しで、ブルネットの柔 髪にそっと触れ、サラリと梳き上げていく。 「一体いつから、眺めていたんですか?」 寒さが苦手なシエルのことだ。てっきりシャワーも浴びた後の時間は、横着にもベッドの中で、読書を 満喫しているとばかり思っていた。それが部屋に訪れて見れば、昼間と大差ない恰好で、窓に張り付 いて外を眺めているのには、正直呆れた。 幼い主の性格を考えれば、それも可能性の一つとして予想していなかったかと言えば、答えは否だ。 可能性の一つとして予想はしていたものの、寒いのが苦手なくせに、こんな時に限って、窓に張り付い て雪など眺めていなくてもいいだろうにと、セバスチャンが内心で嘆息してしまったとしても、罪はないだ ろう。 「お前が呆れる程長い時間じゃないぞ。最初はおとなしく本を読んでたんだ」 「言い訳なさっている時点で、アウトですね」 「なんだそのアウトって言うのは」 セバスチャンのシレッとした科白に、シエルが憮然となって、ロシアンティーを啜った。 「言葉どおりですよ。アナタが反駁もせずに私に言い訳している時点で、後ろめたさと同じでしょうから」 「……何で執事のお前に後ろめたさなんて感じなきゃいけない」 「ニューイヤーの時に言いましたよ?自業自得の結果があるだけだって。迂闊な行動は漏れなく風邪を 背負い込むのと意味は同じですから」 「あれは!お前が一晩中お前が僕を離さなかったからだろう?フィニアン達が居ないのを幸いに、三日 間ベッドの中で過ごさせたのは何処の誰だ!」 姫始めだ何だと、愚にも付かない理由を並び立てられ、ニューイヤーから三日間、ベッドから殆ど出な い怠惰な生活を送った。それもこれも一体何処の誰の所為だと、憤然やる方ない様子でシエルが睥睨 を向ければ、けれどセバスチャンは莞爾とした笑みで笑うばかりで、長い指先が手袋越しに、瀟洒な輪 郭をサラリと撫でていく。その些細な感触に、シエルは背筋を顫わせる。 「それは、全部坊ちゃんの所為、ですよ」 判っているでしょう?そんな風に意味深に囁き、ほっそりした頤を掬い上げる。瀟洒な輪郭をペロリと 舐め上げれば、シエルの口唇から甘い吐息が零れ落ちていく。 「嗚呼、未だ冷たいですね」 「イヌかお前は」 顫える背を悟られたくなくて、サファイアの瞳に睥睨を刻めば、それさえ綺麗に見透かす笑みを向けら れ、シエルが苦く舌打ちする。 頬を舐め上げていく舌の感触は今更だ。それこそ毎夜の情事で、断りもなく縦横無尽に肌の上を滑る 舌だ。そんものを毎夜甘受していれば馴れて当然だろう。それでもこんな些細な仕草一つに反応する肉 体の脆さは、まさしく内側から作り替えられていく雌のものだと、シエルは無自覚に口唇を噛み締める。 「劉様に言わせれば、ネコ科の獰猛な黒豹らしいですよ?」 そんなシエルに気付かないフリをして、セバスチャンはピチャリと濡れた音を立て滑らかな頬を一舐め すると、耳朶に口唇を寄せ、ほっそりした細首に痕を残すように薄い肌を吸い上げる。そうすればシエル の反応はより顕著になる。 「んぁ……」 「本当に敏感になりましたね」 「黒豹でも大鴉でも、獰猛で猛禽ってことには意味は変わらないな」 獣か鳥かの違いだろう?と、あちこち痕を残したがる悪魔の好きにさせてやりながら、シエルは苦笑と も自嘲とも判別の付かない曖昧な笑みを滲ませる。 執着も所有意識など欠片もないくせに、時折勘違いしそうになる痕をセバスチャンは残したがる。それ がシエルには不思議でならない。 その痕を見付ける度に、自分がどんな気持ちを味わうのか、この悪魔は知らないのだろう。それが癪 に触るし、胸が軋む。 「それで?」 「何だ?」 耳朶の後ろに幾重かの所有印を刻まれながら、温くなり初めてロシアンティーを口に含み、シエルは セバスチャンの疑問符に小首を傾げた。 「その恰好の理由ですよ。言い訳と申し上げたのは、その恰好も一理あってですよ。就寝前の読書は 坊ちゃんの息抜きですから。それも横着にもベッドに寝転がって。その恰好は不自然ですよ」 「横着は一言余計だ」 それが仕事だ何だと忙しい毎日を送る楽しみだと反駁するが、セバスチャンに言わせれば、それは悪 癖の一言に尽きることもシエルは自覚していた。だからといって、改めるつもりはサラサラなかったのだ けれど。 「深夜の散歩は、お前の専売特許だろう?」 「この雪の中は、関心しませんよ」 シエルの恰好を見た時から予想はしていたものの、雪の中というのは些か賛成できなかった。 「雪だからだろう?雪見だ」 「ダメですよ。風邪を召したら辛いのは坊ちゃんご自身なんですよ?」 「お前が居るのに何で風邪を罹くんだ?」 心底不思議そうに小首を傾げるシエルに、セバスチャンは呆れた様子でやれやれと溜め息を深くする。 悪魔の魔力に底はないが、何にも有効で、万能という訳では決してないのだ。絶対の領域など、神に さえ存在しないのだから。その辺りの秤がシエルには今一つ理解しにくいらしい。そのくせ魔力と引き 換えの代価は明瞭なのだから始末に悪い。 「確かに、空気は操作して寒さなど感じない様にしていますが、全てに於いて、万事が万事ではないん ですよ」 その証拠に、どうしても髪などは冷えてしまう。 「髪くらいどうってことはないだろう?帰って来たらすぐにシャワーでも浴びれば問題ない」 「ダメです」 「最初に深夜の散歩に連れ出したのはお前だろう?」 連れてかなかったら、此処で気が済むまで、窓に張り付いて雪見してやると、脅しにもならない脅しを 掛けるシエルに、セバスチャンは心底呆れた様子でワインレッドの双眸を点にして、深々溜め息を吐き 出した。 「判りました。言い出したら頑固ですからね、坊ちゃんは」 困ったお子様ですねと溜め息を吐きながら、次の瞬間には黒いコートを羽織ったセバスチャンが、軽い 仕草で華奢な躯を抱き上げた。 「雪の中、飛んでいきますか?」 「寒くなければ、それでも構わないぞ」 「……寒いのが苦手なくせに、我が儘ですね」 まさか即答されるとは思わず、シエルの年相応な子供っぽさに、セバスチャンは緩い微苦笑を滲ませ る。 「場所の指定はありますか?」 「判らないか?」 優雅な仕草で、おとなしくお姫様抱っこされているシエルは、セバスチャンのネクタイを引っ張りながら、意味深な笑みを滲ませる。 「畏まりました」 シエルの言葉にされない内心を察するのは可能だ。シエルと深夜の散歩に行ったのは二回だけだか らだ。 一度目はタワーブリッジに、二度目はシエルの誕生日に、ウェストミンスター宮殿に付属する時計台 に連れて行った。其処から考え合わせれば、二者択一で出せる回答は自ずと決まる。 「それでは参りましょう。しっかり掴まっていて下さい」 「空間転移も二度目だと、馴れが出るな」 そんな軽口に紛らせながら、細い腕がセバスチャンの首筋に回った。 地より余程天に近い場所。あの夜のように、天空には無機質な光もなければ、遥か彼方から気の遠く なるような時間を掛け、地球に届けられる光もない。 「寒くないですか?」 膝の上に乗るほっそりした躯は、一体何が詰まっているのか疑いたくなてしまう程に、体重を感じさせ ない。風に揺れるブルネットの柔髪をサラリと梳けば、やはり髪はどうしても冷えてしまうのは否めない のかもしれない。 「そんなに心配するな。何の為のお前だ」 セバスチャンの膝の上。雪の降る夜だからと、念には念とばかりにセバスチャンの胸元に引き寄せら れ、雛鳥のようにコートに包まれている。コトンと小作りな頭を幅広い肩口に預け眼下を見下ろせば、辺 り一面判別も付かない程、白く覆われているのが判る。 「凄いな……」 ロンドン中を覆い尽くす雪。本来照明の役割を果たすガス燈も、雪明かりで仄白く染まる雪には勝て ないのか、あの夜は米粒程度には見えていた光が今も見えない。 「怖いくらいだ……」 足許を覗き込めば、昏い夜空から音もなく降ってくる白い雪に交じり、自分の意識まで落ちていきそう で、不意に眩暈に誘われる気さえする。 「天と地の境界が不明瞭になりやすい場所ですから、あまり覗き込むと、眩暈がするかもしれませんよ」 ブルネットの柔髪を弄びながら、セバスチャンがシエルの内心を見透かしたような科白を口にすれば、 シエルは「もうしてる」と答えただけで、再び地上を見ている。その一途さに、セバスチャンは何とも言え ない表情で端正な貌を歪めた。 寒いのが苦手なシエルが、一体何を酔興にも雪を見たいなどと言い出したのか?ただの気紛れなら 問題はないが、大抵の場合、シエル自身がまったく意識していない疵や何かが、その背後にはあるの だ。それがセバスチャンばかりか、劉や葬儀屋の危惧になっているのだと、シエルに自覚は皆無だ。 「雪って、怖いくらいに明るいな…」 ガス燈の明かりなど問題にならないくらい、都市全体を覆い尽くす白い結晶。そのくせ昏い闇の中に 沈み込みそうに溶け込んでいる異様さ。建物の凹凸さえ降り積もる雪に判別が付かない。 「そのくせ静かで…」 「それが怖いですか?」 喧騒も何もかも覆い尽くしていく雪。明るさが賑やかな印象に繋がらない雪は、夜の闇に包まれる都 市を音もなく飲み込むように覆い尽くしていく。そのくせ耳に痛いくらいの静寂をもたらしてくる無音の世 界を作り出す。それがきっとシエルには怖いんだろうと、セバスチャンは肩に凭れる小さい頭を引き寄せ る。 「何だ?」 「怖いなら、こうしている方がよろしいかと思いまして」 「したいのはお前だろう?いちいち愚にもならない理由なんて言うなって言ったぞ」 悪魔がいちいち理由を羅列するなと、シエルはされるがままにされながら、小さい吐息を吐き出した。 それがセバスチャンの真意だとは微塵も思わないが、理由を羅列するあたり、人間界に長く居た証拠 だと、シエルは不意に胸を突き上げてくる軋むような痛みに、顔を顰めた。 「どうされました?」 サラリと癖のない髪を梳くのは、セバスチャンの癖のようなものだろう。今も髪を梳きながら、シエルの 些細な変化を見逃さない。けれどそんなセバスチャンの問いには答えず、シエルは静かに口を開いた。 「飲み込まれそうだな」 「そうですね。人間の悪意も何もかも、覆い尽すように、雪は飲み込んでいきますね」 「浄化の雪か?悪魔がらしくないことを言うんだな」 「いえ、そうなると私どもも、少々困る事態になりますから」 「ああ……」 セバスチャンの科白に、シエルは泣き出しそうに柳眉を歪め、「そうだな…」と一言呟き、繊細な貌が 俯いた。 「坊ちゃん?」 「…お前は、人間に寄生してるようなものだからな…」 そういえば、赤い髪の死神を迎えに来た死神には、害獣扱いされていたなと、不意に思い出す。 寄生と一言で言っても、実際悪魔が人間にどういった形で寄生しているのか、シエルに判るものは一 切ない。魂を代価に契約していると言っても、その魂が死後にどういう扱われ方をして、悪魔にとって何 がどう有益に働くのかさえ、シエルには判らないのだ。まさに死んでみなければ判らない。そういうこと だ。 「寄生という言い方は正しくはありませんが…。神も私達も、人間の信仰や恐怖というものがなければ、 直接この世界に関与することは不可能でしょうから」 単純な理ですと緩い笑みを覗かせるセバスチャンに、シエルは繊眉を歪め、セバスチャンの腕の中で 小首を傾げた。 「お前の科白は、いつも判らないことばかりだな…」 「言ったでしょう?醜悪で愚かで、それでいて莫迦莫迦しい程、エネルギーが費やされている」 「だからそれの何処が、お前の存在に関わるって?」 お前といい、劉や葬儀屋といい、もう少し言葉をコミュニケーションツールとしてちゃんと使えと、シエル は憮然となりながら、足許の光景に視線を移した。 「悪意であれ善意であれ。是非は別にして、そういった感情が私達異界の住人を押しとどめているんで すよ。神の存在も同じです。私とは対極に在る存在ですが、信仰がなければ存在できない。その為の代価が救済で、引き換えが信仰心でしょう。私達悪魔は利害によってアナタ方人間と契約を結ぶ。アナ タ方がいなければ、この世界に存在する必要もなくなってしまう。どちらにしろ、生命活動に直結してい る人間の欲望が、私達の糧ですから」 尤も、そんな状況に陥ったことはないから、安易な断言はできなかったが。 「だから人間の魂が引き換えなのか?」 「ええ」 「なんだかよく判らないな……」 説明されても、それは悪魔の原理同様、一向に理解できない。 「坊ちゃんにはあまり関係ない話しですから、難しく考える必要はないですよ」 セバスチャンが薄い笑みとともに囁けば、その科白にシエルは泣き出しそうな表情でセバスチャンを 凝視し、その胸倉を掴み取った。 「坊ちゃん?こんな場所で暴れないで下さいよ」 威勢良く胸元を引っ張られ、半瞬セバスチャンの躯が揺らいだ。 「僕はお前の獲物だ!お前だって僕の下僕だ!関係ない訳あるか!」 「坊ちゃん……?」 「お前は……」 不意に涙が零れそうになり、シエルは漏れそうになる嗚咽を喉奥で怺えると、セバスチャンの胸元に 顔を押し付けた。 「お前は…いつだってそうだ……」 「そうですか?」 慄える薄く細い肩をしっかりと包み込み、ブルネットの髪を梳き上げながら、穏やかな声が囁きを落と す。そんな当たり前のように施される仕草に、シエルは訳も判らず叫び上げたい感情に囚われ、ギリッ と口唇を噛み締めた。 「鳴呼、そんなに噛み締めてはいけませんよ。血が出てるじゃないですか?」 「どうせ関係ないんだろう?」 気配を察したセバスチャンに問答無用で頤を掬い上げられ、シエルがその手を振り払う。 「坊ちゃん」 周囲の静寂な空気を振動させるシエルの哀しみ。それは誕生日の夜と同じものだ。 シエルが哀しんでいるのは容易に判る。けれどその理由となると、セバスチャンには判りづらい。それ をして、劉や葬儀屋には、肝心な部分になると、お互いを見失うのはどっちも一緒だということになる。 「関係ないって言うなら、気紛れに優しくなんかするな。命令以外は、消えていればいいじゃないか!契 約さえ遂行できれば、悪魔の美学とやらは、完璧なんだろう?」 だったら命令が在る時だけ都合よく呼べば済む筈だ。どうせ右目には契約書が埋め込まれ、逃げるこ となどできないのだから。 「何がお仰りたいんですか?」 その瞬間、酷薄な口唇から冷ややかな声が淡如に刻まれ、シエルは今まで聴いたこともない、底冷 えするようなセバスチャンの声に、ゾッと背筋を慄わせた。 莞爾とした微笑みが綺麗に消え失せ、セバスチャンを取り巻く気配が冷然さを増す。 自分の前では滅多に見せない無機質な視線が無感動に凝視してくるのに、シエルは言葉を失った。 「お前の好きな正論だろう?僕のこの右目にお前の埋め込んだ契約書がある限り、悪魔からは逃げら れないんだ。用件のある時だけ僕が呼んだって同じだろう?」 眼帯を毟り取れば、サファイアの瞳に上書き保存された、悪魔の赤と交じり合ったアメジストの瞳が存 在する。機能などないくせに、今にも零れ落ちそうな程見開かれ、透明な滴が零れ落ちそうになってい る。 「お前に言わせれば、僕は関係ないんだろう?それで充分じゃないか」 努めて平静を装うとすると、却って押しこめられた感情が理性を凌駕し、涙が零れ落ちそうになる。 何がそんなに一体哀しいのか?その根幹に位置する哀しみ自体、シエルも理屈で理解している訳で はなかった。ただ、関係ないと突き放されたことが、所詮契約という絆でしかないのだと痛感させられ、 胸が軋んだだけった。けれど押し潰されそうな哀しみは、あの誕生日の夜。要らないとさえ思って貰え なかったケーキを発見した時の痛みと今は同じだ。それだけは嫌という程理解していた。 「言いましたよね?」 細い頤を強引に掬い上げると、セバスチャンはシエルの双眸を覗き込む。無機質なワインレッドの眸 は底冷えするかのような冷ややかさに支配され、シエルは思わず視線を逸らした。 セバスチャンを怖いと感じたことはない。たとえ悪魔でもだ。怖かったら、肌を重ねることなど到底でき ない。けれど今初めて、この悪魔を怖いた思った。それが少しばかりシエルにはショックだった。 異界の王。今のセバスチャンが纏う気は、まさにそれだ。異界の王ななど会ったこともなかったが、シ エルは純粋にそう思った。 「私を怒らせるなと」 掬い上げた指先に力を込めれば、締め殺せてしまいそうな細首が圧迫され、酸素を求めるかのように、薄い口唇が半開きになる。 生理的な涙を浮かべるオッド・アイの瞳を覗き込み、冷ややかな微笑みがシエルを凝視する。底冷え するかのような微笑みに、シエルの瞳が壊れそうに見開かれる。 「怖いですか?」 嘲笑とも自嘲とも判別の付かない曖昧な微笑みを刻み付けると、セバスチャンは無防備になっている 口唇にきつく押し当て、酸素さえ貪る貪婪さで、塞ぎに掛かる。 自分でも一体何がこんなに苛立つのか、セバスチャン自身明確に理解してはいなかった。らしくない 程身の裡から突き上げて来る感情に、強固な筈の理性が脆く剥ぎ取られていく気分だった。 「んんっ……!んっ…!」 咄嗟に逃げようとして傾ぐ躯をきつく抱き留められ、舌を絡め取られて吸い上げられる。 「ん…んぅ……っ!」 狭い口内を玩弄する生温い軟体は、それ自体に意思が宿るかのように縦横無尽に蠢いて、逃れよう と抗う動きの一切を封じられる。 「んぁ…、んんんっ……っ」 凌辱と大差ない遣り様で嬲られ、白い喉元が上下する。毎夜繰り返される繰り言じみた口吻とはまっ たく異なる、優しさの欠片もない行為に、シエルの喉奥からすすり歔きが零れ落ちた頃、セバスチャン は漸くシエルの口唇を開放した。 「判りましたか?」 怒らせるなと言ったのに悪いのはアナタですよと、今まで見せていたのとは打って変わり、セバスチャ ンが穏やかな微笑みを向ければ、押さえ付けられていた首を無自覚に撫で擦り、シエルは押し黙った まま俯いた。 「……何で……お前が怒るんだ……」 ぽつんと呟くシエルの声に、セバスチャンが俯いた顔を覗き込む。 「関係ないって言ったのは、お前じゃないか…」 怒りたいのはこっちだと、胸の奥から突き上げて来る言い様のない衝動じみた感情に、喉が詰まる。 「本当に……」 些細な言葉の一体何がシエルに刺となった疵を負わせたのか判らないものの、どうやら自分の不用 意な言葉がシエルを傷つけたらしいと、セバスチャンは吐息を漏らすと、 「本当にまったく、困ったお子様ですね」 やれやれと俯く頤を今度は優しく掬い上げると、雪の中で露になっている右目に口唇を落とし、囁いた。 「悪魔の美学が理解できないなら、しなくて結構ですよ。これも性分ですし、此処まで来ると、寄生云々 を抜きにして、存在理由みたいなものですから」 契約に従うことが悪魔の美学。美学を追及することこそ、人間の言葉を借りるなら信念ということにな る。シエルと交した契約は、シエルが目的を果たすまで、殺さずに守り抜くこと。 それを考えれば、確かにシエルが言う通り、呼ばれた時に契約に従っても差し支えはないだろう。 けれど、それでは自分が納得しないのだと、莫迦みたいに変容した自分の中身に、セバスチャンは自 嘲を刻み付ける。 「関係ないというのがお嫌でしたら、こう言えばよろしいでしょうか?」 巻き込みたくない。 「?」 低い自嘲じみた言葉に、シエルは瞬きを忘れ、ワインレッドの眸を見凝め、 「いつだってお前の科白は、判らないことばっかりだ…」 ポツリと呟いた。 「アナタと付き合っていると、本当に精神なんて一つじゃないって思い知らされますね」 悪意さえ、生命活動に直結している人間の精神の一つだ。善意より余程形を成しやすい悪意は、悪 魔にとっては絶好の糧だ。けれどそんな穢汚を、シエルに近付けたくはないと思う自分の精神の変容に、セバスチャンは苦笑を禁じえない。悪魔という自分との契約を抜きにしても、シエルは裏社会の王と して、誰より深淵に近い場所に在るのだから。まるで深淵がシエルを選んだかのように。 「お前と僕との関係なんて、巧く一致した利害の結果だけでしかないんだから…」 巻き込むも何もないだろうにと、囁かれた科白にシエルは大きく吐息を吐き出した。 利害の一致はみても、利害の中身は共有できない。理解など更に遠いものだろう。誰もが自分を中心 に物事を図る。真実だって立ち位置によって、意味も見え方も変わるのだ。利害も所詮は個人の都合と 思惑のうちでしかない。それはヒトも悪魔も、恐らく神とやらも、差異はないだろう。所詮は個人の事情、 それだけだ。 「そうですよ。巧く一致した利害の結果、アナタと私は契約を結んだ。それは切っても切れないものだと 思いませんか?」 それは個人の感情によって移ろう愛情という脆弱なものより、余程強固な絆の筈だと、セバスチャン は疑ってもいなかった。それがやがては毒のように互いを蝕むものだとは知らずに。 「………切れるんじゃないのか?」 「無理ですよ。アナタはこの瞳を持っている」 サラリと長い前髪を梳き上げ、右の瞼にそっと触れれば、シエルが反射的に肩を竦めた。 「この瞳がある限り、アナタは私から逃れられない。そして私も、アナタの命令には逆らえない」 血統の正しさを受け継いだ綺麗なサファイアの瞳。そしてその綺麗な瞳に上書きされた、悪魔の契約 を示すアメジストの邪眼。赤い瞳を持つ悪魔との取引だからなのか、蒼瞳に重ねられた色は、綺麗なア メジストだ。 「契約…」 だけなんだとは、決して口には出せない言葉だった。 悪魔が情など持ち合わせている筈もない。長い時間を生きる暇潰しか、それさえも糧の一部か判らない が、利害は一致しても、共有できるものは一切ない。それがシエルに胸が軋む程の切なさと痛みを覚 えさせていく。 「言ったでしょう?これからも一緒に居られることを喜んだ方が、遥かに建設的だと」 「……そうだな…」 けれどそれだけではもう満足できなくなってしまった己の精神の有り様もまた、シエルは気付いている。 「本当に……」 コテンと擬音を響かせ、小作りな頭がセバスチャンの肩口に深く凭れ、 「精神なんて、一つじゃないな……」 溜め息のような、諦めたような、曖昧な吐息が口を付く。 契約から始まった関係が、自分の中だけで変容するなど考えたこともなかったというのに…。変容し ていく精神は、きっととめられないんだろうなと自嘲すると、シエルはゆっくりと虚を見詰めた。 「こうしてると、取り残された気分だ……」 「坊ちゃん?」 小作りな頭をおとなしく胸元に凭れたまま、視線だけでシエルは眼下を見下ろしている。そのシエル の視線を同じように見詰め、セバスチャンは苦笑する。 胸の内の何かを語る時、シエルの言葉がひどく断片的になることを、セバスチャンはよく理解している からだ。 「月と似てるな」 「月、ですか?」 「冷ややかに研ぎ澄まされていて、それでいて無音の世界だ。闇の底に飲み込まれて行く都市から、 僕達だけ取り残されたみたいだと思わないか?怖いくらい静かで」 「雪や雨は、消音効果がありますからね」 深夜の静寂さえ飲み込んで覆い尽くしていく白い結晶。天と地の境目も判らないくらい、輪郭さえ溶か し込んだ都市が足許に広がっている。 それはセバスチャンをしても綺麗で、それでいて異様な光景にも思えた。 「それでも、雪の降る音が聞こえるんだから、不思議だな」 ゆっくりと降り積もっていく白い欠片。重さなど微塵も感じさせない粉雪。不意に思い付いて手袋を外 して片腕を虚に差し出せば、フワリと羽根のように舞い落ちた雪は、ゆっくりと体温によって溶けていく。 「坊ちゃん、冷えますよ」 オイタはダメですよ。 暫くシエルの様子を眺めていたセバスチャンは、降ってくる雪を求めるように差し出された腕を引っ込 めないシエルに、まるで子供を窘める仕草で細い腕を引き寄せると、細い指先に口唇を押し当てる。 「鳴呼、ほら冷えているじゃないですか」 「数分でそんなに冷えるか」 「冷えていますよ。寒さが苦手なくせに、こういう部分は鈍いというか、困ったものですね」 「主人に向かって、随分な口のききようだな」 指先に触れる口唇の温度が心地好いと感じるのは、冷えているからなのか、それともキスの延長線 で心地好いのか、それはシエルにも謎だった。 「事実ですよ。寒さも自覚できない程冷えているのが判らないんですから」 ピチャリと指先を舐めれば、ビクリと顫える薄い肩に、セバスチャンがクスリと小さい笑みを滲ませる。 「お前の言うように、浄化の意味もあるのかもしれないな……」 眼下から天空に視線を向ければ、いつもより若干明度の白い空。濃紺な闇とは異なる色を持つ雪の 降る夜独特の空は、重い雲が垂れこめているというのに、不思議とそんなものを感じさせない。 天地の境界線も不明瞭なくらい、静かに降る白い結晶。こうして眺めていれば、自分の躯が吸い込ま れるような不思議な感覚に見回れる。 雪とともに落ちていくような、それでいて涯てなく昇っているような、そんな不可思議さが付き纏う。 「雪に何もかも飲み込まれて、本当は世界に存在してるのが僕達だけだったら、お前はどうする?」 内側からも外側からも壊れていく世界。物質が豊かになればなるだけ、人間の悪意や憎悪は根を生 やす。そんな醜いありとあらゆるものを、雪が浄化しているのだとしたら? 「それはそれで、究極のロマンだという気もしますが。けれど糧となる人間がいなくなったら、私もいずれ は朽ちていくでしょう」 寄生する人間もいなくなったら、おそらく信仰を失った神も死に絶えるだろう。善悪が鏡像のように表 裏一体である以上、その作用に於いて、どちらかだけが生き残ることは有り得ない。そして人間のよう に土に還ることもなく、何一つ残らず塵となる。 「そうなったら、お前と心中するようなもんだな」 誰もいなくなった朽ち果てた世界に二人だけ。そしてやがて自分達も朽ちて逝く。そう考えた時、どう しようもない甘美と陶酔が胸の奥を締め付けていく衝動に、シエルは自分で瞠然となった。 「坊ちゃん?どうなさいました?」 不意に愕然となった様子のシエルにセバスチャンが攅眉し声を掛けても、シエルは自分の思考に囚 われているのか、半瞬でセバスチャンの声に反応はしなかった。 「坊ちゃん?」 サラリと前髪を梳き上げ、そっと視界を塞ぐと、瀟洒な輪郭を舐め取るように口吻しながら、囁きを落と す。 「あっ……、何でも…」 ぴちゃりと濡れた感触が頬に触れるのに、シエルはビクリと肩を揺らし、視線がセバスチャンに伸びた。 「どうなさいました?気分でも悪くなりましたか?」 「別に…何でもない…」 視界を塞ぐ優しい癖。塞がれた視界でも、気遣う口調はよく判る。 有り得ない未来に、背筋が顫える。 取り残された世界に二人だけ。そうなればいいのにと、心の奥で呟かれた声。 「雪が世界を覆い尽くして、世界に二人だけで取り残されたら、アナタも私と一緒に滅びてしまいますが、その時はご一緒願えますか?」 マイロードと、耳を擽る低く甘い声は、セバスチャンも心の何処かで、そんな夢を抱いているからなの かもしれない。 ダレも存在しない世界に、二人だけ。 「今だって同じようなものだろう?僕はお前の獲物で、魂も躯も、お前にくれてやったんだから」 だからこの秘めたる気持ちだけは明け渡せないと、シエルは塞がれた視界で泣き出しそうに笑った。 「魂も躯も頂きましたが、未だ頂いていないものがあると申し上げたのを、忘れていますね?」 それは誕生日の夜。情交に紛らせ告げた科白だったものの、シエルは気付いてもいない様子で、セ バスチャンは大仰に溜め息を吐き出すと、塞いだ視界からそっと指を外した。 「そろそろ戻りましょうか?これ以上はお躯に毒ですよ」 寒さは感じないように空気をコントロールしているとはいえ、深夜の散歩の疲れが明日に持ち越さない 筈もない。 「そうだな……」 未だこのまま雪を眺めていたいようにも思えるものの、流石に時間を考えれば、それは無理だろう。時 間はとっくに日付変更線を通り過ぎている。 「屋敷に戻ったら、ウィスキーを少量にしたアイリッシュ・コーヒーか、ブランデーティーでもお淹れしましょ う。躯が暖まって、よく眠れますよ。それともシンプルにカモミールのミルクティーでもお淹れしましょうか?」 「そんなもので誤魔化す必要ないだろう?ウイスキーやブランデーよりてっとり早く躯を暖めて、それで いてよく眠れる睡眠薬が此処に在るんだから」 意味深に笑うと、細い両腕がセバスチャンの首に回る。 「酒なんかよりよっぽど躯の内側から熱くなって、酔うことができるんだから、そっちの方が効果的だろう?」 「二日酔いになってもしりませんよ?」 首に回ってきた細い両腕を眺め、それから正面で笑うシエルに小さく溜め息を吐き出すと、セバスチャ ンは睦言を囁くように、低く甘い声で囁くきを漏らす。 「欲しいから欲しいってう感情を隠さないのが僕の美徳だって、そう言ったのはお前だろう?」 そんなセバスチャンの科白に華奢な細腰を顫わせながら、シエルはねだるうにセバスチャンの首筋に 歯を立てる。 「それでは、帰りもしょうか?此処で酔うわけにはいきませんから」 痛感など微塵も感じさせない甘噛みに苦笑すると、ほっそりした躯を抱き抱え、セバスチャンは時計台 の縁に立ち上がった。 まるで平地に立つかのように揺らぎ一つ感じ去らない身動きは、シエルに振動 一つ与えない。 「もし本当に……」 音なき音を奏でる白い欠片。終末の雪に覆われ閉ざされていく世界。そこから取り残されて二人だけ で在ることができるなら。 そんな下らない願いを叶えて見せろと言ったら、美学を追及するこの悪魔は一体どうするんだろうか? そんな埒もない莫迦みたいな願いを口にしかけて、シエルは泣きそうな自嘲を刻み付けた。 「なんでしょう?」 「…何でもない…」 有り得ない未来。悪魔との契約によって、死んだら魂は悪魔のもの。そうしたらきっと簡単に切り捨て られて、忘れられる。長い時間を生きてきた悪魔にとって、人間の時間など瞬き程度のものだろう。そん な短い時間、関わった人間を覚えている生き物でもないだろう。そうやって契約者を乗り換えて、悪魔 は不死に近い時間を生きるのだろうから。 まるで遺伝子のようだなと、シエルは思う。 遺伝子の乗り物に過ぎない肉体という器。契約者を乗り換えていくことによって、人間に寄生し生きて いく悪魔。その違いに差異など見付けられない。 「坊ちゃん?」 「酔わせてくれるんだろう?」 「ええ、たっぷり酔わせて差し上げますよ。乾いていればいる程、酔いの回りは早いですから」 覚悟して下さいと笑うと、セバスチャンはシエルを抱き抱えたまま、薄く開かれた口唇に顔を伏せた。 「んっ……」 沈黙を奏でる白い世界。雪に閉ざされて行く都市。終末の雪にも似て、閉ざされていく世界に二人き り。 啄むように互いの口唇を重ねながら、今は未だこれで満足していようと、シエルはセバスチャンのキス に酔わされていった。 |