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見掛けの飄々とした姿とは相反し、思うより余程優雅で繊細な仕草で、差し出されたナイトティーを受 け取った劉は、舌に乗る円やかな味を堪能しながら口を開いた。 「まるで殺されるのを待っているかのような言い草だったねぇ」 「劉様?」 間延びした口調は、その中身とは真逆に位置して、まるで他愛ない世間話しでもするかのように語尾 が軽い。うっかりすれば聞き逃してしまうくらい、語られた中身と、間延びした語尾は相反している。 「安全と危険を計る秤があの子の中には存在しないって言うのは判ってたけど、そのルーツが、受け継 いだ血の業と最終目標とワンセットだとは思わなかったねぇ」 口の中で溶ける滑らかな紅茶を味わいながら、それでいて気配だけは研ぎ澄まされた切っ先のように 冷ややかな部分を曝している姿に、セバスチャンは肩を竦めた。 口調は何処までも間延びしているくせに、滲み出す気配は得体が知れない。それはシエルの前では 決して曝すことのない、劉の本質的な部分だ。 シエルの前で曝す姿と言えば、飄々とした態、それだけで、本質である冷ややかな牙や爪はもとより、奥底に隠し持つ冷ややかな熱一つを気配にも滲ませない。それこそこの男の真骨頂だろうと、時折感 心しているのだと言ったら、恐らく泣いて嫌がるだろうなと、セバスチャンは内心で笑った。 「私に怒っても仕方ありませんよ」 仕方ない人ですねぇと苦笑すると、セバスチャンはやれやれと大仰に溜め息を吐き出した。 正確には、怒っているというより、完全に八つ当たりの領域だ。確かに心中では憤懣やる方ない様子で はあるだろうが、自分に向けられるこれは、子供の理屈と大差ない程度に八つ当たりだと、セバスチャ ンはシエルに注がれる劉の有り様に少しだけ感心した。 決してシエルには向けられることのない切っ先。剥き出しにされることのない身の裡の温度。そういっ たシエルへの対し方が、セバスチャンは案外と気に入っている。 ストッパーしての役割は今二つくらい信用はできないものの、盾としては恐らく上々だろう。シエルの 為に生命程度は差し出してくれそうな相手を、セバスチャンは劉と葬儀屋しか心当たりがなかった。 悪魔の自分が居れば、危険という意味ではシエルに危害を加える人間に容赦はないが、心の問題と なると話しは別だ。シエルのような人間には、間口は広いにこしたことはないから、劉や葬儀屋のような 人間がシエルの周囲に居ることは、別段悪いことでもないだろう。 「八つ当たりくらい、させてくれてもいいだろう?執事君はあの子の執事なんだから」 「執事は、八つ当たりの為に存在する訳ではありません」 劉のめっきり本気の科白に、セバスチャンは心底呆れた。 「それでも我があの子に八つ当たりなんてしたら、黙ってはいないだろう?」 「劉様にそんな甲斐性がおありなら、試してみるのも楽しいと思いますが?」 莞爾と笑うセバスチャンに、劉は半瞬らしくない程眼を円くして、次には肩を竦めて自嘲を刻んだ。 「甲斐性って言葉は、もっと違う方向性の響きだけどねぇ」 「そうでしょうか?それも充分甲斐性には違いないと思いますよ。紛らせるばかりが守り方ではありませ んから。それでなくても坊ちゃんは、関わる事案以外には、人の機微には些か疎い面がありますし」 人間の心理というのは、どれだけ研究を重ねても理解できないプログラムだ。その点、シエルは事案 に関わった時だけ、やたらと人の心の有り様に反応する。敏感に察知するというより、恐らくそれも推理 の一端から導き出された答えの一部なのかもしれないし、その場に流れる空気を読む術に長けている のかもしれないが、どちらも厄介なのには違いない。有形無形に関わらず、シエルの内側に、当人さえ 自覚できない疵を残していく。人の心の問題は、プムグラムされていない分だけ厄介だ。 「いつか死ぬのなら、思い残すことがないほうがいい。あの歳でそう割り切れる経験をしてることの方が 問題だって、あの子はまったく気付いていないからね」 「ですから、私に怒っても、八つ当たりされても、何も解決しません。直接坊ちゃんにお仰って下さい」 「愚痴くらい相手してくれてもいいだろう?」 「私は坊ちゃんの執事ですが?」 何か大きく履き違えている気もするが、素直に愚痴っている自覚がある有り様に、セバスチャンは苦 笑する。 「珍しいですね。劉様のような方は、私相手に愚痴など言わないと思っていましたが」 「それは執事君の認識不足だよ。我は自分が価値を認めた者には、素直になることに決めているんだ。 だからあの子にもそうだろう?」 ぬけぬけと笑う劉に、セバスチャンは半瞬だけ遠い眼をした。これだから自分の回りには詐欺師しか いないと、シエルが憮然となる結果を生んでいるのだ。そうと理解していて、シレッとしている劉も劉だ。 「あの子はもっと我が儘になっていいんだって、執事君がちゃんと教えてあげないとダメなんじゃないか い?」 「今でも充分、我が儘だと思いますが」 「眼に見えるあからさまな我が儘なんて、あの子が無自覚に抱く我が儘な願いに比べれば、ないも同じ じゃないかい?精々あの子の我が儘は、スイーツだとか、スコットランドヤードに侵入して、関係調書を コピーしてこいとか、その程度だろう?誰の眼にも見える我が儘なんて、我が儘のうちに入らないよ。特 にあの子の我が儘はね」 「……スコットランドヤードへの侵入は、普通我が儘の範疇ではすみませんが」 見つかれば、それこそ家名に疵が付きかねない。権力で握り潰すことは容易でも、それでも疵は残る。シエルが抱える自覚のない疵と同じように。 「執事君相手なら、我が儘な範疇だよ。実際飄々とコピーしてきた訳だし。あの我が儘な王子様くらい 甘ったれなら、いっそあの子もラクだったんだろうけどね」 尤もソーマレベルで甘ったれなら、裏社会の秩序たる家名を引き継ぐことはおろか、決して語られるこ とのない過去から、シエルは生き延びることはできなかっただろう。その程度理解は、劉には容易だ。 「それは、嘘ですね」 「どうしてだい?」 「坊ちゃんがソーマ様と同じレベルでしたら、劉様はおとなしく裏社会に身を置いてはいらっしゃらないで しょうから」 劉の本質を考えれば、自ら価値を認めた者へ注ぎ込む力は、求められればそれなりだろうが、価値を 認めるに足る要素は、恐らく広大な筈だ。シエルに価値を認めなければ、おとなしく英国裏社会に身を 置いてはいないだろうし、自らで更にその裏を築くことも、恐らく劉には容易いだろう。 「おやおや、そういうのは過大評価って言うんだよ」 「私はこれでも、人を見る目には少々自信がありますから」 くすりと、セバスチャンが冷ややかな笑みを刻み付ける。 「我も人を見る目には少々自信があるんだよ。例えば先刻あの甘ったれな王子様が粉々にしてしまった アヴィランドのティーセットが、どうして我の前にあるのかとか」 ソーマが勢いに任せて粉々に砕いた、セバスチャンがシエルの為にと取り寄せたアヴィランドノのティ ーセットが、今は疵一つなく淡い湯気を立ち上ぼらせ、室内に芳香を漂わせている。けれど劉はそれが 不思議だとは思わなかった。むしろそんな内心の方が余程不思議だと、劉は静かに自嘲する。 「スペアを注文していたんですよ」 「必要ないだろう?この屋敷にスペアなんて」 「どうしてでしょうか?」 「あの子は別段そういうものには執着しない性格だからね。このティーセットを取り寄せたのも執事君の 趣味だろうし」 「趣味と言われると、些か変態ちっくですね」 「おや、自分をよく知っているね」 「……劉様の眼には、そういう認識なんですね」 それはそれでどうなんだと、セバスチャンは深々溜め息を吐き出した。半分は嘘だろうが、半分は本 気が感じられる。 「まぁ幾らドジなメイドが居にるしろ、あの子に関わるものは執事君が触らせないだろう?だとしたらスペ アなんて、必要ないと思うんだよね」 間延びした口調とは裏腹に、まっすぐセバスチャンを凝視する劉の視線は、彼の持つ本質を映すかの ように静かで、それでいて切っ先のように容赦がない。 「でしたらこれは、どうしたんだと思われますか?」 「さぁてね。タチの悪いトリックか、種も仕掛けもないマジックか。まぁ我にはその辺りはどうでもいいんだ よ。執事君があの子を完璧にフォローできる得体の知れない人種だっていうのは、よく判ってるし」 「どうにも褒められている気がしませんね」 「おやそうかい?我はこれでも充分、執事君のことは信頼しているし、買っているんだよ。だからこうして 愚痴を言ってるんだし」 苦笑とも自嘲とも、そのどちらでもないような静かな笑みを見せると、劉は少しばかり温くなってしまっ たナイトティーに口を付けた。 まるで自分の内心など綺麗に見透かしたかのように淹れられたお茶はあっさりとして、それでいて仄 かにブランディーの香りが効いている。それは執事としての気遣いだろうが、その気遣いがらしくない程 度に自分はセバスチャンに内心を見透かされていたのかと、劉は内心で小さい自嘲を滲ませる。 「先代の仇討ちって言ってくれれば、未だ救われたんだけどね」 その権利がシエルにはある。両親ばかりか親族一同を目の前で殺害された子供だ。普通に考えれば、仇討ちと言うのが妥当の筈だ。けれとシエルは違う。 「重い残すことがないように気晴らしの為。ゲームっていうのは、とどのつまり単純化された言葉だから ね、あの子にとっては。難しいことでもなくて、ごく当たり前のことだから、始末に悪いよ」 その分、より現実味が増す言葉でもある。他愛ない子供が口にすれば、それは子供らしい無邪気さで 済むが、シエルは違う。 英国の裏社会という巨大なチカラを使役する裏社会の秩序。裏社会を統治する王として君臨するシエ ルの才は、最早裏社会で疑う人間はいない筈だ。勿論英国中に広がるネットワークを、シエル一人で 管理できる筈もないから、劉のような東洋人街の管理者や、情報屋を統治する葬儀屋という存在がい る。そのブロック単位でシエルの下にある者は、シエルという生き物が持つ力を侮ってはいなかった。 見た目で人を判断しないと言うのは、裏社会では極当たり前のことだったから、むしろシエルの力を外 見通りにしか理解しないのは、ある意味で頭の堅い表社会の貴族達だろう。 そしてファントムハイヴ社をたった数年で英国一の玩具・製菓メーカーとして知れ渡らせたシエルの錬 金の才は、最近では畏怖の対象となっている。 表と裏。表裏一体の狭間に立つ生き物。どちらの世界でも生き残ることが実力と同一視される世界で は、生き残ること自体がゲームと意味は同じだ。シエルにとって、人生さえゲームの一部に組み込まれ ているのかもしれない。 単純な生き死に。生まれたら死ぬのは道理だとシエルは言っていた。あれは恐らく素直な本音だろう。絶望を見過ぎてしまった幼い生き物にとって、人の生き死には、ただそれだけのことだ。けれどそれ だけではないから、恐らく自らを劣りにしてまで、そのゲームに執着もしているのかもしれないと、劉とセ バスチャンは同時に、何とも言えない表情で視線を交わした。 「面白い方ですね、劉様も」 「何だい急に」 白い手袋を嵌めた指を口許に寄せて笑うセバスチャンの視線は冷ややかで、それでいて本当に不思 議そうな表情をしている。それが面白くて、劉は穏やかに笑った。 「それだけ坊ちゃんを大切にしていて、私のような存在が傍にいて、思う部分がないところがですよ」 「執事君が得体の知れないのなんて、今に始まったことじゃないしね」 「私から見れば、劉様も充分得体が知れないですよ」 大体普通の人間は、あのばか高いハロルド邸の塀を軽々と飛び越える真似などできないし、ビルの 屋上に飛び上がる脚力などないだろう。 「中国四千年の歴史の賜物というものだよ」 「まぁ、そういうことにしておきますが」 「思う部分なんて幾らでもあるよ。でもそれを差し引いてもね、あの子が、あの疵を埋める程夢中になれ る何かに巡り合えればいいと思っているし、本当はあの子の為には、風化も必要なことだと思ってるよ」 見えない疵をあちこちに残し、それでも事実からは眼を背けないまっすぐな瞳。 「真実なんて一つじゃないって、言えちゃう子だからね」 推理小説マニアのくせに、探偵に対する挑戦だよねぇと、劉は笑う。 「嫌がらせに、今度名探偵って呼んであげちゃおうかなって思うくらいだよ」 裏社会の秩序と言えば聞こえはいいが、シエルがしていることの大部分は、要は探偵の理と大差な い。 「……それはやめて下さい。私に八つ当たりが来ますので」 その時のシエルの盛大に嫌がりそうな表情が予想できて、劉は可笑しそうに笑っているが、その場合 の八つ当たりは、もれなく全てが自分に回ってくることをセバスチャンは正確に理解している。その場合 の八つ当たりは、何もスイーツの量だとか種類だとか、そんなものとは限らない。ある意味変化球か、 直球勝負か、そういうことだ。 「いいんじゃないかい?内心執事君だって嬉しいだろう?あの子の八つ当たり。目に見える部分の我が 儘しか言わない子だから、八つ当たりできる相手がいるのは」 「劉様の保険にしないで下さい」 「あの子の保険になれるなら、別に我でも葬儀屋でもいいんだけど、そうもいかないだろう?色々と」 心を注ぎ込む程、明確な相手。埋まらない喪失を心に抱く幼い生き物。そのくせその疵一つ理解でき ず、深淵の上に立つ切っ先の意思。シエルの意思を明確に語る俯かない瞳が綺麗だと言ったら、きっと 盛大に莫迦にされるだろう。 「埋まらない喪失は、ある意味、坊ちゃんを坊ちゃんとして構成している要素に近いですからね」 その埋まらない喪失こそ、ある意味シエルがシエルとして立っている意味に近いのかもしれない。 悪魔を召喚する程、明確な殺意に塗れていた幼い子供。人間に対する憎悪に灼け爛れた心を知ってい るくせに、当たり前の表情をして立っている強靭さ。それはまるで代価のように、シエルの内側から削り 出されて行く、脆さと引き換えの強さに思えて仕方ない。 研ぎ澄まされれば研ぎ澄まされる程、その先端は細く脆くなっていく。退路を持たない線上の駒。 シエルが立つ深淵とは、そういう場所だ。 「思う部分は色々あるし、執事君は得体が知れないけど、以前も言ったように、あの子の誰より近くに在 るからね。物理的にも精神的にも」 「精神的には、判りませんね」 「裏切れる程あの子の内側に入り込んでいる自覚はあるくせに、殊勝じゃないかい?現段階で、今の あの子に疵を上書きできるのは、執事君くらいだよ」 残念だけどねぇと、劉は少しも残念そうな表情など滲ませず、くつくつと肩を揺らした。 「我はね、自分が認めた執事君に、取り敢えずはあの子が大事にされてて、それなりに笑っててくれれ ば、今のところは満足なんだよ」 「取り敢えず、ですか?」 「そう、取り敢えず」 相手の精度に合わせた劉の軽口は、要は計りと意味は同じだ。そしてそんな持って回った軽口に紛 れ味無劉の本音を見過ごすセバスチャンではなかった。 「裏切れる程あの子の隣にいる執事君は、最終局面で裏切りそうだからね」 「それはまた随分、ひどいお仰りようですね」 契約で縛られているシエルとの関係は、そう易々と裏切れるものではなかったから、劉が何を見てそ う判断しているのかセバスチャンには謎だ。勿論劉は自分が悪魔だと知る由もないから見た目の判断 なのには違いないが、それでもセバスチャンには一体自分の何処がシエルを裏切るように見えるのか、理解出来なかった。 幼い生き物を簡単に失えない程度には、自分はもうシエルに魅せられている。そして人間に魅せられ た悪魔の末路も、大抵は決まっている。 「裏切りっていうのは、何も真逆に走るのがそうとは限らないよ。あの子に唯一疵を与えられる相手なら 尚更ね。あの子の傍を離れる自体が、あの子には裏切りになる筈だから。それが例えどんな結果だっ たとしてもね」 それが例えば、シエルにとって最良の結果だとしても。 「恋なんて知らなかったあの子にそんなものを刷り込んで、快楽に溺れさせてる張本人なんだから、責 任をとるのが男ってものだよ、執事君」 執事君とあの子の関係なんて、見ていればすぐに判るよと笑われ、セバスチャンは肩を竦めた。 「それだけ判っていらして、私が坊ちゃんと関係しているのを容認しているのは、随分寛容ですね」 決して表沙汰にできないシエルとの関係が、劉にバレていることなどセバスチャンには判りきっていた。劉や葬儀屋が滞在していたとしても、二人とも互いに溺れるように、セックスに耽っていたからだ。 シエルの嬌声が聴こえているとも思わないし、他人にシエルの嬌声を聴かせる程、自分の心は広くな い自覚がセバスチャンにはあったから、万が一にもシエルの艶やかな嬌声が聴かれている可能性は考 えてもいない。それでもシエルに対して心を砕いている人間が見れば、判るものもあるのだろう、色々と。 「仕方ないよ、あの子が執事君がいいって言うんだから。選ぶのはあの子であって我じゃないし。何処 から始まった関係にせよ、それが例え釣り橋現象でしかない、勘違いの恋情だとしても、それを決める のはあの子だからねぇ」 「本当に坊ちゃんに溺れてますね」 あっさり口にされた科白に、セバスチャンは少しばかり驚いた様子で劉を凝視する。 人間のくせに底など決して見せない男は、いつか自分がシエルという契約者を裏切ると決め付けてい る節がある。そのくせ邪魔もせず、淡々とシエルを見ている寡黙さは、いっそ驚嘆に値する。 「あの子は色々と自覚することが下手だし、自分を許すことが得意な子じゃないけど、執事君に対する ストレートさは、見ていれば判るよ。八つ当たりされる程度に、心を許されてる証拠なんだから、我から 見れば嫉妬の対象だよ」 「色々買い被りすぎですよ」 まっすぐ凝視してくる漆黒の双眸は、感情の揺らぎ一つ感じさせない無機質さだ。 「だからね、あの子を泣かせたりしたら、許さないよ」 にっこりと音が響きそうな笑みは、そのくせ滲み出す気配は、真冬に相応しい、氷を刻み付けたような 冷ややかさを纏っている。だからこそ、シエルに注がれる劉の熱の有り様がよく判る。 「まぁ、執事君に言う科白じゃないけどね」 「私は坊ちゃんの忠実な下僕(しもべ)。坊ちゃんの為に剣となり盾となる存在ですから」 「判ってないな執事君は」 ダメダメと、劉が人差し指をすぅっと突き出し、セバスチャンの目の前で左右に振った。 「あの子は自分の為に誰かが傷つくのを極端に怖がってるって」 「怖がっている?」 劉の科白に、セバスチャンが半瞬だけ考え込む仕草を見せた。とある伯爵婦人が血液疾患の娘の為 に、同じ血液型の少女達を生け贄に捧げていた事件をシエルが解決した時、シエルは今と似たような 科白を言っていたのを思い出す。直接的に劉と同じ科白を言った訳ではなかったものの、人の生き死に に関して、シエルは何か思う部分があるのか、忘れたならいいと言っていたのを思い出す。あの時はう っかり聞き逃してしまったものの、あれはシエルの何らかのサインだったのかもしれない。 「勿論過去のトラウマも有るんだろうけど、それだけでもないかもしれないしね」 両親とその親族が殺害されたのは、シエルが未だ10歳の時だ。誰かが自分の傍から傷つき失われ ることをシエルが極端に怖がったとしても、それは当然だろう。シエル自身自覚しているかは別にして、 後遺症とはそういうものだ。 「我は直接先代当主に会ったことはないけど、葬儀屋が旧知の仲らしくてね、面白いことを言っていたよ」 「葬儀屋が、ですか?」 シエルが裏社会を引き継いだ時、確かに色々手を加え、新たなシステムを導入した。劉はその時東 洋人街の管理を任せたが、葬儀屋はあの場所で表の顔として葬儀屋を営業していたから、シエルの父 親と既知でも不思議ではないのかもしれない。 「あの子のあの才はね、生まれながらのものだっていうのは、正解らしいよ。まるで探偵の業としか思 えない洞察力や推理の構築は、何も今に始まったことじゃないらしいって葬儀屋が言ってたから。裏社 会の住人にとって、伯爵が深淵に望まれた子供だって言うのは見ていれば判る単純な事実だけど、あ の子の父親自体が、それをちゃんと認識していたらしいんだよね」 一体どういう意味なんだろうねと、劉は薄い笑みを覗かせる。推理小説が好きだから推理が得意では ないこと程度判っていたが、あの恐ろしい程研ぎ澄まされた推理のルーツがそれ以前に遡るとは、流 石のセバスチャンでも思ってもいなかった。 「あとね、あの子の初恋はマダム・レッドだって」 報われない想いの果に、稀代の殺人鬼になったシエルの叔母。劉は半瞬、何かを思い出すような遠 い眼をした。 「随分可愛らしい子供だったみたいだからね。マダムも随分可愛がっていたみたいだし、実の叔母が初 恋なんて、ちょっとオマセな子だったんだねぇ」 マダム・レッドと劉は、ただの顔見知りという訳ではなかっただろうと推し量るのは容易だ。そこに愛情 は介在しなくても可能だった関係なのは確かだ。 「まぁ。そのようですね」 嫉妬させるつもりなのか、あるいは葬儀屋から聴いた話しをしているだけなのか、劉の真意は判らな かったものの、シエルの初恋がマダム・レッドだったことは、あの赤い髪の死神から聴いて知っていた。 「両親があんな形で殺害されて、大好きだった叔母にも去られて、だからあの子は余計に、自分の為に 誰かが傷つくことが怖いんだよ。だから盾でも剣でも構わないけど、あの子を守るなら、自分も守れない と困るんだよ」 その瞬間、劉の視線が底冷えする冷気を滲ませ凝視してくるのに、セバスチャンは静かに苦笑する。 「あの子を裏切るのは簡単なんだって、ちゃんと覚えててくれればそれで今はいいよ」 いいよと言う権利も何も自分にはないと理解してなお、セバスチャンとシエルを見ていると、時折その 関係に怖くなる時があるのだと、セバスチャンもシエルも知らないんだろうなと、劉は内心で肩を竦めた。 「心得ました」 「あの子と一緒に死んで上げるのは構わないけど、遺いて逝ったら、あの子は今度こそ壊れると思うよ」 意味深に苦笑する劉に、セバスチャンはひどく自分には不釣り合いな科白を聴いた気がして、冷やや かな視線が劉を凝視する。 「私が坊ちゃんを連れて行ったら、劉様は許して下さらないと思いますが」 「最悪、修復不可能なくらい壊れてくあの子を見ているくらいなら、一緒に連れて逝ってあげるのが責任 のとり方だと思うんだよねぇ」 「……劉様、一体何のお話しをしておいでですか?」 本気か嘘か判らないが、劉の科白は根拠など何もないくせに、何かを暗示しているようで、それがひ どくセバスチャンを不快にさせる。 「執事君を信頼しているから、あの子をよろしくって話しだよ」 ちゃんとお嫁にもらってあげないとねぇと軽口を叩く劉は、もう普段の飄々とした、底を掴ませない笑顔 を見せているばかりで、セバスチャンはその真意を計りかねた。 嘘か冗談か。冗談だとしたら性質の悪い冗談だから、シエルに対することで、劉がそんな冗談を言う ことはないだろう。だとしたら本気の科白かといえば、不確定な未来を視ることは人間にできることでは ないから、それも違うだろう。要は何かの印象だろうと推し量るのは容易でも、自分の何がそう見えるの か、セバスチャンに判るものは一切なかった。 「私はあくまで執事ですから、私の手管が届く範囲で、坊ちゃんをお守りするだけですよ」 人間に魅せられた悪魔の末路。真っ赤な血溜まりの中から深紅の花を咲かせるくらいでは、悪魔の 享楽は満足しない。真っ赤な血溜まりから、真っ白い花を咲かせてこそ、悪魔の享楽は満足できる。 そしてその花に魅せられてしまった悪魔の末路は、決まっている。 愛情と執着の境目のない感情に駆られ、その爪で相手を引き裂きかねない。悪魔は何処までも貪欲 な生き物だ。いずれシエルを自分の爪で引き裂きかねない。それが劉には見えているのかもしれない。 「これでも簡単に坊ちゃんを失えないくらい、溺れていますから」 だから誰かに渡すつもりは毛頭ありませんよと、セバスチャンは冷ややかでいて、劉が呆れるほど、 莞爾とした笑みを刻み付けた。 『鳴呼……本当に人間というのは、侮れない……』 「セバスチャン!」 『泣かないで下さい…折角のお顔が台無しですよ』 「莫迦!お前悪魔だろう!」 『最期に見る貴方の顔は、笑顔が良かったのに……』 「セバスチャン!嫌だっっ!」 『大丈夫、貴方は何も失わない…。全部私が持って行きますから。貴方は何も悲しまなくていい……』 「坊ちゃん……」 愛しています…。 告げたら貴方は絶対信じないでしょう? どうしてたかが非力な人間の子供に、私が召喚できたのか、今なら判るんですよ。全ては私が望んだ こと。この瞬間に。 『鳴呼、何とも面白い不条理ですね』 回帰するパラドックスのように。 「セバスチャンっっ!」 「私は…いつでも…貴方のお傍に……坊ちゃん……」 肉体が滅んでも、意識だけは貴方の傍に。貴方を連れて逝く勇気は私にはないので。 「さぁ…眼を閉じて……」 これが私にできる、最期の魔法ですから。 貴方は私を忘れなさい。そうして笑って倖せに生きて。他の誰かを愛すればいい。あの可愛い婚約者で も、他の誰でも。貴方を倖せにしてくれるダレかと、貴方は私など忘れて、倖せになりなさい。 「シエル……」 それが最初で最期の、私の願い。 |