未来予想図 番外編 エピソード02




                  
               
         

 薄暗いバーの片隅で、警察庁長官官房国際部国際第二課長である一倉正和は、深い溜め息を吐き出していた。
 ソコは、若いカップルが訪れ、都内の夜景を瞰視し、愛を語らうスカイラウンジではない。寧ろ赴きや気配、場所は、正反対に位置しているだろう。
 都会の一角の地下に在るそのバーは、大人の男が酒との会話を愉しむ為に訪れる、洗練された大人の男の品格を備えたバーだ。
 ソコは一倉の気に入りの店だ。
 寡黙に淡々と酒を作るだけの、頑固職人の様なマスターに惚れ込んで訪れる客は、殆どが口込みで訪れ、その魅力に足を運ぶ様になる。
 客の会話に口を挟む事はせず、ただ寡黙に酒と向き合うマスターの人柄に惚れ込み、足しげく通う常連客は、少なくはない。今も一倉の前では、光の軌道を描いてシャッフルを振るうマスターが在った。
 一倉は一人酒を飲みたい時、決まって此処に訪れる。
訪れる事を知っているのは、現在その両脇で酔い潰れている、一倉の同期生の室井と、東大からの後輩である新城しか知らない。
 そして一倉は、海より深い溜め息を吐き出していた。
自分の理性が恨めしい。そう思う瞬間だった。
「コラ、お前達」
 右側に新城、左側に室井に挟まれたこの状況を、青島や新城の恋人のすみれ辺りが見たら、『両手に花』とでも言うのだろうが、二人共綺麗にカウンターに突っ伏しているこの状況では話しにならない。酒の席では、酔った者勝ちだと言う言葉を痛感した一倉だった。
「室井、何寝てる、起きろ」  
 カウンターに置かれている、室井の眼前のクリスタルグラスの中身は、カラになっている。
 一体何杯呑んだんだ?と、一倉は珍しい者でも視る様に、カウンターに突っ伏している室井を眺めた。
 元々秋田出身の室井は、親族に酒造りの銘家を持ち、幼少時から酒に慣らされてきた人間だから、一倉が呆れる程酒に強かった。
 線が細く、肉の薄い印象の室井とは裏腹に、警察大学校時代。同期生と呑みに行けば、最後まで素面で、早々に潰れてしまった人間の面倒を見ていたのは室井だったし、当の室井は、誰より杯を重ねていた。
 その室井が、今は大した杯も重ねず、カウンターに突っ伏しているのには、理由が有った。
 青島だ。
一倉は、直感する。
「別れちまえ、いい機会だ」
 寝顔からは、その内心など推し量る事など出来ない繊細に縁取られた輪郭を見下ろし、一倉はボソリと呟いた。
 刹那。眠ているとばかり思っていた室井の横顔が微かに動き、酒を呑んで少しばかり紅潮した白皙の貌と、潤む眼差しがチロリと瞥見し、眇る眼差しが一倉を見上げてきた。その視線に、
「お前の為だ」
 その視線に応える様に、一倉はグラスの中の琥珀の液体を流し込み、呟いた。
「お前が支える必要は、もうなくなった筈だ」
 一倉は、室井の組織革新の理想を知っていた。
そしてそれを青島と成し遂げようとしている事も、ほぼ正確に理解している。だから青島に、刑事警察での階級権力の必要性を解き、求めたのが室井だとも知っていた。
 青島自身。室井を愛し、歪んだ体制組織の中。高潔に佇む官僚の室井を理解したいと、組織革新の夢を二人で求め、走り出した時から、青島は室井が組織を革新出来るだけの力を持った時。自分は刑事警察の中枢に在る必要性を、痛感した筈だった。だから階級を上げる必要に気付いた。階級を上げると言う事は、階級権力を身に付ける事と同義語だ。そして身に付けただけの権力の行使権をも、学ぶ必要が有った。
 その事実に、誰より青島は努力したのだろう。それだけは一倉にも判る。
 そして同時に、自分が組織を革新出来るだけの力を持った時。青島に刑事警察を革新出来るだけの中枢に在て欲しいと願っている室井の内心にも、気付いていた。
 伊達に室井の親友を張っている訳ではないのだ、一倉とて。そして一倉は、すみれ以外に、青島と室井の関係を知る唯一の人間でもあった。
「あいつは、何処までも猟犬だ。官僚のお前を理解する事は、出来ないな」
 琥珀の液体を一挙に飲み干すと、カッと灼け付く熱さが、心地好く胃の腑を包む。
 マスターにグラスを渡すと、もう何杯目か判らぬグラスが、新たに追加された。   
 確かに青島は、一倉の目からみても、刑事として驚く程に成長していた。ソレは一倉ばかりか周囲の認める所だ。けれど、だからこそ。官僚である室井を理解する事の困難さが在る筈だと、一倉は室井に告げていた。
「傷付くのは、お前だけだ」
 今でも、一倉は青島が室井の出世の妨げになると確信している。
 どれだけ刑事として優秀でも、組織にとって有益と言うのはまた別問題だ。そして優秀な歩兵だからこそ、青島はこれから先も、今回の様な事件にぶち当たる可能性は大きく、その都度、室井が巻き込まれる事も判っている。
 組織にとって、歩兵は従順で、兵隊個人の意志など持たぬ人間の方がいいのだ。
 それは室井の求める革新とは正反対の組織理論だ。そしてその縦割り構造の弊害を発言する室井は、既に官僚間では驚異と畏怖の対象にもなりつつあった。今回の事件を立件した事で、それはより強固になった筈である。官僚世界もまた、明敏果断すぎる人間は、警戒されるのだ。
「私じゃないさ…」
 カウンターに頭を擡げたまま、室井は一倉が眼にした事もない様な、何処か艶冶な気配を横たえ、薄い笑みを刻み付けている。
 酷薄な口唇が酒の熱に浮かされ、今は唐紅に色付いている様が、ひどく妖冶な気分を一倉に齎した。
「傷付くのは、何時も青島だ。私と知り合って、組織革新の共犯者になった時から、何時も傷付いてきたのは青島だ。私じゃない」
 真下が銃弾に倒れ暴走し、査問委員会で処分を言い渡されたのは青島だけだ。        
 官僚間の馴れ合いで、自分は訓告処分だけだった。そして三ヵ月一課に残留し、キャリアの出世コースの警備局に異動した。
 副総監誘拐事件の時もそうだ。生死の境を彷徨う重傷を負ったのも青島だ。自分と愛し合う事で、より深く犯罪捜査の現場に関わり、組織の歪みを理解しようと足掻き、自分を理解しようと求めてくれる。その時から、青島は急速に成長した。今も成長し続けている。それが愛しく切なく、残酷な願いを孕んでいる事を知っているから、自分と関わらなければ、青島は傷付かずに済んだ筈だと、室井は深い自嘲を刻み付けた。
 何時も傷付けて来たのは自分で、傷付いてきたのは青島だと、室井は疑ってはいないのだ。
「あいつが聴いたら、怒りそうな台詞だな」       
 室井の台詞に、一倉は苦笑する。
「そうだな」
 クスリと、苦笑とも自嘲とも付かぬ曖昧な笑みが、零れ落ちる。その笑みを視ると、一倉は知らず胸がザワ付くのを感じた。
「青島は、成長しつづける。見切りを着けられるのは、私の方だろうな」
 その刹那。秀麗に縁取られた輪郭の背後から、不意に哀しげな自嘲が零れ落ちる。
 何とも印象的な自嘲だと、一倉は思う。
「官僚だからか?」
「革新の為には権力が必要な事位、青島だって理解してる」
 寧ろ辛辣に組織を客観的に視る事の出来る青島だからこそ、それはより顕著に理解している筈だった。。
「その為に執る手段が私達は違う。その違いに、青島が何時まで堪えられるか……」 
 政治取り引きには応じない事で、室井は官僚の正義を貫こうとしている。そして真実を追求しようと足掻いている。
 犯罪を出世カードの一枚として扱う事など出来ない室井は、けれど出世の為には、眼を瞑り、口を閉ざす機会はこれから増える。正義だけでは官僚世界は渡ってはいけないその歪みを、青島とて正確に理解している筈だ。 
 そして青島も刑事警察の中枢に立とうとすれば、その過程で、妥協し、口を閉ざし、眼を瞑らなければならない、組織幹部の汚い政治事案に巻き込まれて行くだろう。
 杓子定規では決して回らないのが組織だ。そして組織には常にスケープゴートと言う贄が必要でもあるのだ。組織が機能する為には、不安低要因が必要なのも事実だ。それは体制組織になれば尚更だ。だから一倉は室井の不穏当な発言が上を刺激し、そのスケープゴートに利用されない事を願わずにはいられない。 そして今夜の室井の、らしくない気配に、一倉は内心攅眉している。
 らしくない饒舌さは、不安からくるものなのか?
警察官射殺事件に、公安関係者が関わっていたロシアコネクションを壊滅させた安堵感から来るものなのか?或いは、酒による気安さが手伝ってのものなのか?今夜の室井は、一倉が珍しがる程度には、饒舌だった。
 一倉の問いに、けれど室井は紅脣に意味深な笑みを艶冶に飾り立てるだけだった。
 何とも言えない忍び笑いに、一倉はドキリとなる。   
何時から室井はこんな表情をする様になったのかと思えば、それは青島と知り合ってからの筈で、だとしたら青島にとって、室井のこんな表情は珍しくはないのだろうと思えた。
「秋になったら、青島は3係主任刑事になる。青島はただの猟犬じゃない。猟犬だけでは我慢出来なくなったから、猟犬を束ねる側に回った」
「一年で主任刑事か。優秀って事だな」
 青島が一課に異動したのは昨年の秋だ。考えたら、その間、青島は組織の汚染部を次々焼き切ってきた事になる。
「一課再生か?」
 刑事警察の聖域と言われる警視庁捜査一課も、歪みと無縁ではない。
「甘くないぞ。あいつが潰される確立も、0じゃない」
「そうだとしたら・・・」
 其処で室井は一端言葉を区切り、その刹那に垣間見せた眼差しの深さは、怜悧で清冽なものだった。
「そうだとしたら、其処までの人間だ」
 その台詞に、絶句したのは一倉だった。
「あいつの何処に、其処まで肩入れするものを見付けたんだ?」 
 それは予てからの素朴な疑問だ。
「さぁな」
 けれど室井はやはり曖昧な笑みを覗かせるだけで、言葉にはしない。まるでそれは、自分だけが知っていればいいのだとでも言うかの様な笑みだった。その笑みに、一倉は苦笑する。 
「あいつがお前の組織革新の共犯者になるなら、俺は裏方に回ってやる」
 警察大学校時代から、室井の頑固さは有名だった。
組織を革新する共犯者を見付け、二人で走り出してしまっている以上。何を言っても止まる性格ではない事を、一倉は心得ていた。
 室井にとって、青島は組織革新の共犯者であり、恋人であり、きっと人生の共犯者そのものなのかもしれない。
「警察庁長官にでもなるつもりか?」
 クスクスと笑う様はひどく姚冶で、一倉は今夜だけで、室井の知らなかった側面を発見する事になった。こんな表情を室井から引き出す事に成功した青島は、ある意味で、大した男なのかもしれないとも思う。
 一倉は、室井の台詞に笑うと、グラスの中身を一挙に飲み干した。
「オイ、新城」
 傍らの新城はと言えば、完全に潰れていた。
「こいつも、秋から大変だな」
 珍しく酔い潰れている新城を眺め、一倉は酷薄な口唇に弧を描く。
「外事課に喧嘩仕掛けた様なもんだからな。秋からその警備局外事課に異動じゃ、最初はやりづらいだろう」
 スゥッと、周囲の空気を動かす気配を見せず、カウンターに突っ伏していた姿態を綺麗に起こすと、ギムレットを注文する。
 刹那にカウンターにコトリとも音を立てずに置かれたカクテルグラスに口を付ける。ジンをベースに作るライムのカクテルは、口内に青い感触で喉を過ぎて行く。
「お前にしては珍しく、上の思惑通り動いたじゃないか?これで目出度く秋から、真下警視監が警備局長だ。お前の大事な青島の、一番嫌いな権力勢力図が、書き替えられる事に、よく手を貸したな」
「私も官僚だと、言ったろう?」
 ククッと自嘲する面差しから、室井の内心は読み取れない。
「自分にとって、より有利に動いてもらっただけだ」
 池神の息の掛かった警備局長は、室井や青島達によって、失脚させられた。
「こいつも、思い切った事、したからな。一皮剥けたな」
 クツクツ笑うと、一倉はマティーニを口に含む。
 大阪府警捜査一課と、警視庁捜査一課の合同捜査など、前代未聞だった。
 当然。警視庁刑事部長には拒絶された合同捜査本部も、副総監の後押しにより実現し、新城が本部長となり、湾岸署に特捜本部が設置された。
 府警本部刑事部長の室井は、最初こそ参事官の久我山に現場指揮官を託していたが、事の重大さに自ら湾岸署に赴き、最後には新城と二人、青島を含めれば三人で、暴走した様なものだった。
「たまにはいいじゃないか」
「お前の求める警察の在り方がアレか?」
「嫌じゃないだろう?」
「嫌じゃないから、困ってるんだ」
 警察組織の再生など、以前なら絵空ごとだと失笑した。
けれど今なら信じられる。信じられる気にさせられてしまったというのが、正直な本音だろう。
「刑事警察の再生っか……」
 ポツリと、一倉は呟くと、不意に思い出した様に視線を移す。仄かな明かりが照らす室内は薄暗い。その薄明りに照らし出された横顔は、何処までも清涼で静謐だ。その横顔からは、室井の内心など読み取れる筈もなかった。
「真偽は己で見極めろ。すべてに換えても悔やまぬように、自ら運命を開いて摂理と成せ。お前、一課に異動する青島に、そう言ったんだってな」
 一倉の台詞に、室井はチロリと隣を瞥見すると、
「諦めてほしくなかった。自らの信念も律法も」
「お前の守りたいものは、青島の正義なのか?」
 以前にも訊いた台詞だと、一倉は思い出す。思い出せば、やはり室井は意味深な笑みを、綺麗な造作に飾り立てているだけだった。
「私は私の正義の為、上に行く」
 そう話す室井の表情は、その刹那だけ少しばかり苦しそうだった。
「青島を、信用出来ないか?」
「信用してる。だから何時か離れる日が来る事も、判ってる」
 ただそれだけだと、小作りで秀麗な貌に、淡い笑みを刻み付けた。 
 そして何時か離れるだろうその日が、一日でも、一分一秒でも遅く来る事を、室井は祈っている。願っている。
 此処急速に刑事としての面差しを深める青島だから、何時か繋いだ自分の腕を離す時が来るだろう事を、室井は恫喝に慄え乍ら、疑ってはいなかった。
 そしてそんな室井の不安を知っているから、青島は何時までも『愛している』と言い続けたかった。言い続けたかったから、その努力を怠る訳にはいかなかった。それだけだったのだ。
青島の刑事としての成長は、自らの正義の実現と同時に、室井へと帰結しているのだ。
「そうか…」
 一倉は、溜め息を吐く。きっと室井は判ってはいないのだ。
青島の室井を見詰める眼差しの深さを。決して綺麗事だけでは渡って行く事の出来ない組織の中に佇み乍ら、必死になって室井を理解しようと足掻いている青島を。
 らしくないと、一倉は内心自嘲する。
青島の事は、今だって室井の出世には妨げになると思っている筈なのに、何処かで二人の夢の辿り着く先を見届けたいと、思っている自分を意識する。それは決して不快な気分ではなかった。心地好い酒に酔い尽くす気分が感じられ、一倉は笑う。
「そう言えば、今回の件で、青島の秘密の恋人は、大阪地検特捜部の、美人検事って、一課じゃもっぱらの噂だそうだな」
 ククッと、幅広い肩を揺らし笑うと、瞬間。室井は嫌そうに
攅眉する。何処か拗ねた様な気配まで滲ませている室井に、一倉は尚笑う。
 室井は、実は表情が豊かだったのだと、一倉は初めて知った。知り、全て青島の影響なのだろうと思えば、理不尽な嫉妬さえ感じてしまう。らしくないと自嘲し、傍らで一倉は意味ありげに怜悧で秀麗な貌を眺め、
「美人は美人でも、検事じゃないがな。あいつがバカみたいに大切に隠してる秘密の恋人は」
「お前に美人って言われても、嬉しくないな」
 ボソリと、室井は呟いた。 
「青島の影響確実だな。お前の口からそんな台詞を聴ける日が来るとは思わなかった」
 感情も表情も実は誰も知らなかっただけで、室井は案外豊かだったのだ。そして冷冽に佇むだけだった室井から、本来の表情を引き出した青島は、確かに。大した男なのかもしれない。
「ホラ新城。そろそろ帰るぞ」
 東大時代の後輩で、弟の様に懐いて来る新城を、一倉はそれなりに気に入っていた。案外一倉は、面倒見がいい。だから気安く新城も一倉には懐いている。
「今じゃすっかり湾岸署は、キャリアキラーって言われてるらしいな」
 不意に思い出し、一倉は笑う。
 青島と室井の暴走は、今では湾岸署署員にとっては日常に等しい事柄でしかなく、真下と雪乃が恋人同士で、室井弐号と言われて久しい新城が、湾岸署のワイルドキャットと名高い恩田すみれの婚約者では、流石に周辺近隣の所轄から、キャリアキラーと言われてしまっても、大凡間違いではないだろう。
「もうじき新城も結婚か」
「式は当分先らしいぞ。あんがいこいつも独占欲強いからな。婚約位しとかないと、心配なんだろう。何かと」
 絶対、知らぬ者が聴けば、新城がすみれにゾッコンだと言う事実は、信じられないだろう。けれど新城は、すみれにゾッコンだった。
「恩田君か…」
 青島が湾岸署在職当時、二人揃って湾岸署の暴走刑事と言われたすみれだから、新城はこの先苦労するだろうと、室井も薄い笑みを浮かべた。今では湾岸署は、青島の代わりに柏木雪乃が加わり、刑事課紅二点の二人が暴走し、刑事課長の袴田や、署長の神田、副所長の秋山等の胃を、痛めさせている。
「お前の趣味も判らんが、こいつの趣味も判らないな」
 青島と恩田と言う暴走刑事を恋人に持つなど、正気ではないと、一倉は幅広い肩を竦めて見せた。
「スルメみたいだぞ」
「スルメ?」
「噛めば噛むだけ、味が出る」
「室井〜〜」
 クスクスと笑う室井の綺麗な横顔に、流石の一倉もその台詞に脱力する。
 こんな時、室井はつくづく強いと思わずにはいらない一倉だった。
「そろそろ帰るか?」
「アア、そうだな。お前明日大阪に戻るのか?」
「午前中、副総監に挨拶したらな」
「青島には?」
 逢わないのか?と、言外に滲ませると、室井は半瞬だけ、切なそうな表情をして、その表情を裏切らぬ、何処か泣き笑いの微笑みを浮かべた。それは静謐に瞬き、饒舌な様を現している。いる様に、一倉には感じられた。
 白皙の面差しに浮かぶその笑みはあまりに切なく、切ないから綺麗で、一倉の胸をハッとさせる。
 このまま凝視していると、その怜悧な輪郭から視線が外せなくなる。そう思ったから、一倉は慌てて視線を剥ぐと、隣で潰れている後輩キャリアを揺り動かした。
「ホラ、帰るぞ。新城」
「ん〜〜〜一倉さん。もう帰るんですか?」
 揺り動かされ、漸く寝ぼけ眼を開いた新城は、すぐに一倉の肩に寄り掛かってしまう。寄り掛かり、軽い寝息を寝ててしまう。
「仕方無い奴だな」
 こんな新城を視るのは、室井にとっては初めてだが、一倉は慣れた様子で小柄な姿態を抱き抱えた。
「こいつ、案外酒に弱くってな」
「……その弱い新城を、お前は結構引き回してる感じがするな」
 一倉に面倒を見られる事を極自然に受け入れ、肩に寄り掛かっている新城と、そんな新城に呆れ乍らも、世話を役く一倉と、確かに面白い取り合わせなのかもしれない。
「ストレス発散は必要だろう?男がこの年齢になったら、秘密の場所の一つや二つは、持っとくもんだ。まぁお前の隠れ宿は、飯田橋のマンションか?」
 ククッと笑う一倉に、室井は薄い笑みを漏らした。
結局、青島に渡され、最初こそ使用する機会などないだろうと思っていた年下の恋人のマンションの合鍵を、室井は異動してから数回は使用していた。対して、青島が持つ室井の大阪の国家公務員官舎の合鍵は、一度も使用された事がない。
「今日は俺が奢ってやるよ」
 一倉は、新城を肩に寄り掛からせ、器用にスーツから財布を引き出し札を抜くと、受付カウンターに渡した。
 一倉を酔い潰れた新城を抱き抱え、室井は淡々と、地下のバーから地上へと続く唯一の階段を、ゆっくりと上って行く。二人にその時、会話はない。







「漸くお帰りですか」
 地上に続く狭い路地の様な階段を昇り終え、ネオン輝く広い場所に出た時。地下のバーに続く階段の在る壁に寄り掛かった青島が、細身のスーツを身に纏い、咥え煙草で柔らかい笑みと共に、三人を眺めていた。
 突然掛けられた声に、無自覚に華奢な姿態がビクリと揺れる。
「青島……どうして」
 此処が判ったのか?室井が戸惑う視線を青島に向けると、
「一課の刑事、舐めてもらっちゃ困ります。っても、俺も常連ですから、この店」
 端整で精悍な輪郭に、物柔らかい笑みを湛えると、咥え煙草を携帯灰皿に押しつけ火を消し、ソレをスーツのポケットにしまいこむ。
 室井は呆然と立ち尽くし、信じられない者を視るかの様に、青島を凝視している。けれどその眼差しは、哀しげに歪んで瞬いている。
 その瞬間、室井の視界から、青島以外のすべてが消える。
音も消え失せ、眼前に端然と佇んでいる青島から、視線が逸せなくなる。
 呆然と見開かれた眼差しは、ただ哀しげに歪んで青島を視ている。
「室井さん」
 何一つ変わらぬ声。室井を呼ぶ少し甘さを含んだ響きに、室井は弾かれた様に青島を視た。
 自分は未だ、青島の恋人である資格があるのだろか?
哀しませ、傷付け、それでも未だ、その資格があるのだろうか?
 青島は、優游と室井を視ている。その眼差しに、澱みも曇りも何一つない。ないから尚、室井は泣き出したくなっていた。
 今二人は、分岐点に立ち尽くしていた。
 春の淡い日差しの様な恋を終え、真夏の激情に抱き合う、火傷しそうな激しい恋愛を終え、秋の澄み渡る蒼穹に似た、透明で静謐な恋の季節を向かえ、その次の季節に足を踏み込まなくてはならないのだろうか? 夜空の向こうに垣間見るものは、一体何なのだろうか?
新しい夜明けだろうか?
 二人は今、分岐点に立ち尽くしていた。


      








          
「まったく、ね」
 幅広い肩を少し竦めると、青島は室井の細い手首を引き寄せる。
「何する」
 往来でと、室井は焦って振りほどこうとして、けれど見掛け以上に力の入っている青島の指先は、そのまま彼の内心を綺麗に物語っているかの様で、室井は不意に切なげに青島を凝視する。
「そうやって何時も何時も、一人で答え出して、ケリつけるの。あんたの悪い癖だって、何度も言ってるでしょ?」
 何で判らないのと、青島は嘆息を吐き出した。
その青島の台詞の前に、室井は少しばかり戸惑い狼狽する。
「青島、俺は新城を送っていくから、室井は任せたぞ」
「ウチの管理官。案外酒に弱いんスね。すみれさん大酒呑みだからなぁ。新城さん、大変っスね」
 そう笑い、一倉を見送ると、
「あんたは、こっち」
 室井の手首を離す事なく、青島は室井を引きずっていく。
「ちょっ。青島。何処いく」
「何処なんて、決まってるでしょ?あんたが東京来た時の宿泊所が、俺ん家以外、何処にあるってんです」
 細いからだを半ば引きずる様に歩く青島は、大通りでタクシーを広い、飯田橋の自宅マンションに帰り着いた。







 青島のマンションの、寝室ではなくリビングのフローリングにクッションを敷き、向かい合って座る。    
「明日、あんたが大阪帰る前に、どうしても伝えたかった」
 室井を凝視する眼差しには澱みや歪みは微塵もなく、物柔らかい光彩が室井を包み込むその視線の前に身を曝し、室井は戸惑う自分を意識した。
「何だ…?」
 らしくない程、喉が乾いていた。漸く絞りだす様にした声は、掠れている。
「愛してる」
 極自然に紡がれた台詞に、室井は半瞬戸惑う意識の所為で、告げられた台詞に眼を瞬かせてしまう。
「愛してる。だから俺は逃げたりしない。諦めたりしない。あんたを守りたいから、俺は成長したい。あんたを支えられるだけの男になりたい。認められるだけの男になりたい」
「……青島……」
 それが青島の素直な気持ちなのだと、室井には痛い程に判る。虚勢も何もない、青島自身の言葉だった。だったから、室井は自分を見詰めてくる真摯な眼差しの前に、泣き出したい衝動に見回れ、必死になって、泣くまいとしていた。
「愛してる。だから俺は強くなれる。室井さんが、在るからだよ」 
 フワリと、空気が動く。気付けば華奢な躯は、青島の腕に柔らかく包まれていた。
「あんたと同じ夢を見ていきたい」
「私は……」
 揺れる眼差しが青島を見上げれば、コツンと額を合わせ、子供を宥める様な仕草を青島は見せた。    
「室井さんは官僚だから、時には手持ちの事件もカードの一つとして扱わなきゃならない。だけど気付いた犯罪を見過ごすあんたじゃない事位、今じゃ誰だって知ってる。大阪府警の捜査員だって、もうあんたの事、判った筈だよ。室井さんは官僚だけど、ただの官僚じゃない。警察官なんだって」
「買いかぶりだ」
 多分に涙腺が怪しくなってきた室井は、青島の肩口に顔を埋めてしまう。
「政治取引をしない事で、官僚としての正義を守ろうとしてるんだって、今ならね。俺はそんな室井さんが恋人で、誇りに思うよ」
「私達じゃ、何も生み出す事はないぞ」
「結婚ばかりが人生の幸せじゃないっしょ?そんな事、俺はとっくに気付いてるよ」
 室井を愛し始めた時から、青島は人を愛すると言う意味を、初めて理解した気がしたのだ。そしてそれは月日を重ねれば重ねるだけ、切ない程、実感出来た。
「俺は、室井さんを愛してるんだから」
 穏やかな笑みは、静かな気配に横たわり、室井の身の裡を綺麗に打った。
綺麗な言葉だと思う。綺麗な感情だと思う。とても優しく切ない愛情なのだと室井は思った。思った時。埋めた肩から顔を上げ、
「愛してる、私も、愛してる」
 愛しているから、互いに誇れる存在でありたかったのだと、室井は改めて思い出す。溺れてしまうだけではない、誇れる存在で在りたかった。そんな簡単な事さえ思い出せずにいたのかと、室井は青島の首筋にほっそりとした腕を回すと、
「もう、離れられないよ、今更」
 長い腕が、柔らかい抱擁から一変し、骨が軋む程に力強いソレへと変わる。
何処かくぐもった言葉は、青島の心根の奥の想いを、室井の眼前に綺麗に現していた。不安だったのは、自分だけではなかったのだと。
「離れない」
 真摯な響きが、滑る様に室井の口から零れ落ちた。
力強い抱擁に抱き竦められ、室井は青島の背に爪を立てる。瞬間。欲望が二人を包んだ。
 真摯な愛情と、肉の奥から突き抜けてくる欲望に、二人は少しばかり戸惑い、そしてとうに熱くなっていた肌を重ねた。
ゆっくりと、熱く甘い吐息が、室内を満たして行く。
 何時しか、夜空は白々とした朝の気配を湛えて訪れる。
 今日、室井は大阪府警に帰る。そして青島は、警視庁捜査一課へと戻る。
より深い真摯を探す為に。より深い正義を貫く為に。二人で歩いて行く為に。
 夜空ノムコウにあったのは、何だったのか? 二人が間違える筈はなかった。