| 沈黙の夜に眠る祈り
未来予想図番外編3
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過去から未来へと続く洞窟をぬけると
想いでが 花びらのように降り積もっている こんな静かな夜は 愛するダレかを抱き締めて眠ろう 「ハァ〜〜スゲェなぁ〜〜」 警視庁へと帰る道すがら、グルリと周囲を囲んで咲き乱れる薄紅の花に、青島は感嘆の声を上げる。 堀端に面して爛漫と咲き誇る桜の花は、そよぐ春の風と淡い陽射しの中、綺麗に花びらを舞わせている。 煙花と言う言葉が似合う花も、桜くらいだろう。 春霞みに咲き誇り、周囲を淡くけぶらせる花。まるでその場所だけが、ゆったりとした時間を刻むようで、青島はその光景に見蕩れていた。 昨年秋から捜査一課3係主任刑事になった青島は、捜査現場で捜査員を束ね、指揮する難しさと直面していた。都内で発生する凶悪犯罪を扱う一課だけに、事件を追い続け、季節など忘れてしまう。だからこんなふうにフトした光景に、季節を思い出させられて、青島が暫し足を止めてしまっても、無理はないのかもしれない。きっと漸く、季節を感じる余裕、みたいなものが、生まれたのかもしれない。 「こりゃ本当に、天女の憧憬だな」 その台詞は、年上の恋人が言った台詞だ。 穏やかな陽射しの中。音もなくヒラヒラと遊ぶように花弁を降らせる白い花は、まるで天女が緩やかに舞い降りて来る光景を連想させる。そう笑ったのは、青島が愛する年上の恋人の室井の台詞だった。 その年上の恋人も、今は大阪府警本部刑事部長として、自分以上に組織の歪みや矛盾に傷ついて、それでも骨を軋ませ高潔に歩き続けている。 前例と慣例ばかりが優先される旧態依然な組織の中で、現場捜査員が自らの矜持と正義を失う事なく、真実を追求できる環境を整備する事が、行政官である官僚の役割であると、室井は発言し続けている。それが保身と既得権が最優先される因習的な組織の中では、同じキャリアからの反発と同時に、畏怖と驚異の対象にもなっている。それで傷ついても、室井は自らの正義を放棄する事はない。 そんな年上の恋人を知っているから、青島は足掻く事をやめられない。どれ程苦しくても、自らの信じる正義を放棄できない。それが青島の心の律法だからだ。 迷い足掻き苦悩を孕み、けれど青島の視線は曇る事はない。深い眼差しをまっすぐヒタリと眼前に固定し、凶悪犯罪と対峙している。自らの正義を追求する為迷う事が、勇気と強さに必要な事なのだと、青島の愛する年上の恋人は知っている。 そんな年上の恋人を失望させたくはないから、青島は今日もまっすぐ澱みなく歩いている。 天女の憧憬をもたらす花に眼を奪われても、青島の精神の眼差しは常に犯罪と言う社会病理に向けられている。けれど緊張ばかりしていては、凶悪犯罪に立ち向かう刑事は続けてはいられないから、刹那の安らぎも必要だった。それは今のようにフトした日常の中に埋没している時間だったり、気配だったり、それはとても優しい気分になれるから、厳しい現実に立ち向かっていけるのだろう。 「さぁてと」 今日は休暇明けの在庁で、昼時の時間に、警視庁近所にあるコンビニに、買い物に出かけた帰りだった。このまま事件が発生しなければ、今夜はマンションに帰る事ができる。 青島は伸びをすると、歩き出す。その頭上に、ハラハラと優しく白い花が降っていく。 「お疲れ様でした」 府警を出ると、立ち番の警察官が、ピシリと綺麗な敬礼で、室井に声をかける。 既に府警内部で、刑事部長である室井の顔を知らない者は存在しない。刑事部長だと知り、そして部下にも礼儀を返す室井の事を知っているからこそ、立ち番の警察官は、室井に綺麗な敬礼と声で挨拶をする。そんな立ち番の警察官に目礼で応えると、室井は綺麗な姿勢で歩いて行く。 薄く細い背は、けれどステージモデル並の澱みなさで、一本芯の入ったしなやかさで歩いて行く。 府警を出ると、室井は官舎へ帰る為に利用している地下鉄への道を歩いて行く。 地下鉄への距離は僅かだ。珍しく定時より一時間の残業で退庁した室井は、ゆっくりと歩いて行く。 春の柔らかく生温い感触が、肌身に心地好かった。その心地好さに、先月訪れた年下の恋人の奥深い笑みを思い出す。 笑顔の眩しい年下の恋人の印象は、けれど知れば知る程奥深い完成された笑みが在る事を、もう室井は知っている。知ってしまった。 所轄の刑事だった頃、無茶で無鉄砲で、組織の仕組みなど何一つ知らない青臭い正義を振り回す刑事だと思っていた年下の恋人は、けれどいつだって傷ついていた。迷っていた。そして苦悩と向き合い、足掻いていた。 それが愛情に変わったのはいつだったか、もう想い出させない気がした。けれど愛情を自覚した時は、覚えている。きっと自覚した時より随分以前に、その想いは走り出していた事だけは判るから…。 「桜か……」 ツラツラと、年下の恋人の事を思い出していた。そんな時間は、室井にとってはひどく珍しい事だった。 いつも事件の事を考えている気がするのに、思い出して我に返れば、考えているのは年下の恋人の事のような気がした。 蒼い闇に舞う白い花。見上げれば、周囲は桜の樹が数多く点在している事に気付く。 そういえば、警視庁周辺は、堀端周辺をグルリと桜が囲っていた事を思い出す。そして青島も、その桜を視ているのかと思えば、やはり今夜は年下の恋人の事を考えてしまう自分を意識する。 可笑しいと想い、春の霞夜に酔わされている気分になる。 苦笑し、周囲に穏やかに向けられた視線は何気なく足下へと移り、気付けば足下は、白い花弁が敷き詰められている。 まるで雪のようだと思う。そして故郷の秋田を思い出す。 冬が長い東北地方は、当然春の訪れが遅く、桜が咲くと春の訪れを喜んだものだ。そのくせに、一斉に咲き誇る白い花をみれば、雪を思い出すのだ。 冷たい雪は、降っていれば寒いばかりなのに、こうして桜を見て雪を思い出すのは、降り積もる白い花が、雪と似ているからなのかもしれない。雪は故郷へと続く記憶だからだろう。白くて汚れなくて、地上の汚いものすべてを浄化していくようで、雪は綺麗でだった。 蒼い天からハラハラと風に泳いで降ってくる白い花は、フト雪に思えた。 地上の汚いものすべてを浄化するように降り積もる白い雪。それと酷似する白い花。 穏やかで優しい春の花は、真冬から春を運ぶ便りのようだ。 「らしくないな…」 室井は、自分のらしくない感傷に苦笑する。 完全に、春の宵闇に酔った気分だった。けれどそんな気分も悪くなく、甘受したくなるのは、一体何故なのか?判らなかった。 蒼い闇に静かな夜。こんな夜は、珍しかった。 いつも事件に追われてばかりいるから、フトした時間に感傷に囚われるのだろう。 けれどこんな夜も必要だった。優しい気分に浸れる春の夜。青島はどうしているだろうかと思う。 音なき音を奏でて舞う白い花。静謐な沈黙に守られた夜。 ダレかの為に、生き方を返る事はできない。ダレかの為に、自らの正義を諦める事はできない。不器用な生き方だと言われる。けれどこれが自分だった。安穏とした官僚の世界に埋没する事は、もうできない。年下の恋人を愛し、刑事警察の正義や真実に気付いてしまった時から、もう後戻りはできない。 けれど、恋人同志の関係だけに、溺れる事もできない。優しく甘い関係が欲しい訳じゃなかった。緩やかな抱擁や睦言が欲しいわけでもなかった。 欲しいものは、対等に抱き合う腕。対等に愛し合える魂。 だから、ダレかの為に、生き方を変える事はできない。けれど、こんな静かな夜は……。 「奇跡的だなぁ〜〜」 警視庁を出たのが定時の6時を僅かに回った時間。今日一日は、捜査一課の乗り出す凶悪犯罪は発生しなかった。こんな事は、むしろ奇跡的確率だ。 青島は、ツラツラと歩く。頭上から降ってくる白い花を愉しげに見上げながら、優游としている。 「室井さん、どうしてるかな〜〜」 清廉な年上の恋人。室井も警視庁時代、この桜を見ていただろうか? 春爛漫に燦然と咲き誇る春象徴の花。蒼い闇に、毅然と佇み咲く花は、年上の恋人を連想させる。 綺麗で澱みなくて、凛とした端然さを崩さない。そんな室井と煌々と咲く花は、朧夜に輝く皓月のようでもあった。 ハラハラ慢舞する花は、蒼い闇夜に光を放ち、降り積もる。 静かで穏やかな夜。けれど不夜城の東京は眠りを知らない。そして人が事件を呼び起こす。まるで諍いは人を魅了するのだと嘲笑するように。自分もいつ、事件発生で呼び出されるか判らない。けれど今は穏やかな時間を過ごしている。 自分が事件を貪欲に追いかければ追いかけるだけ、年上の恋人を心配させる事は判っている。無茶で無鉄砲で、暴走刑事と呼ばれて久しい自分の事だ。けれど室井は何も言わない。何も言わず、心を痛め、自分を見守ってくれている。その精神の強さが愛しかった。 ともに現場に出ている方が、楽なのだ。現場に出ていれば、捜査していられるからだ。けれど官僚である室井は、そうできない。出世すればするだけ、官僚は現場から遠ざかる。現場好きな室井の出世を望むと言う事は、室井をそれだけ現場から遠ざける事だ。けれど室井には出世してほしかった。彼自身の官僚の正義を貫く為に。そして自分もまた、自らの正義を貫く為には、出世する事が必要な事も、青島は正確に理解していた。 出世し、階級を上げ、あげただけの階級権力を身につけ、正しく権力を執行する。言葉にすれば簡単な事でも、実際には簡単な事など何一つありはしない、困難な事だ。けれどそんな事すら、自分は気付けずにいた。そんな単純な事すら、知らなかった。知らずに年上の恋人を幾度も傷つけてきた。だから自分は出世する必要があった。自らの正義を貫く為に。より深い真実を追求する為に。室井を理解する為に。 だけど、ダレかの為に、自分の信念を変える事はできない。律法を覆す事はできない。正義と真実を追求する事は、諦められない。 それが愛するダレかを泣かせる結果になったとしても。 けれど、こんな穏やかで静かな夜は……。 ダレかの為に、生き方は変えられない。 ダレかの為に、信念はまげられない。 ダレかの為に、自分を欺くことはできない。 愛情に溺れてしまえば楽なことは、百も承知している。 甘い睦言より、優しい抱擁より、欲しいのは、対等に向き合える真摯な魂、ソレだけだ。 愛する言葉より。求められる愛より。性急に湧き出る肉欲より。 だから、ダレかの為に、生きる事はできない。 自分の生きる途を、見極めて歩く事しかできない。 そして歩く途が、交錯している事を、望む事しかできない。 けれど、こんな静かな夜は……愛するダレかの為に、祈ろうか? こんな静かで穏やかな夜は、記憶の中に息づく愛する人を抱き締めて眠ろう。 愛するダレかの為にすら、生き方を変えられない自分だから。 愛する人の為に、祈りをこめよう。 今一時は、倖せであるように……。 |