| 未来予想図 scene5 |
青島が、事件現場の芝浦のマンションに到着した時、呼び出しを受けた時刻からは、40分 が経過していた。 日の出の遅い、冬の早朝に起きた殺人事件は、3月を目前に控えた2月の空に、漸く太陽 が上り、コンクリートに雄大な影を描いて現れた時刻だ。その厳しい冬の空の下、青島はマ ンション付近でタクーシを降りると、本来なら、深閑な筈の冬に早朝に、マンション周囲の住 宅街が、喧騒に覆われているのが判った。 マンションの前には、既に警視庁の機捜車輛、鑑識班を乗せた大型機動車が到着し、何台 ものパトーカがマンショ周囲に横付けされている。その捜査車輛の中には、赤灯の隣に青灯 が並ぶ、機捜官の車輛も有った。その周囲では、制服警官が現場保存とやじ馬整理に往生 している。 「青島さん、早くからお疲れ様です」 マンション前で、見慣れた制服警官が青島の姿を見付けると、サッと綺麗な敬礼をする。 「お互い、朝から大変だね」 眼鏡を掛けた、一見警察官には向かない風貌の森下に、青島も声を返すと、 「っで、何階?」 「4階です。本店の三係、四係が到着してます」 「ゲッ、てぇと、新城さん?」 一課管理官より遅く到着する所轄の捜査員は、青島位のものだろう。それを自覚している 青島だから、新城の不機嫌な表情がフト脳裏に浮かび、肩を竦めた。 「ハイ、青島さんは在ないのかって、言ってましたよ」 「アチャ〜〜参ったな」 ポリポリと髪を掻く癖を覗かせ乍ら、大して困った表情を見せずに口を開き、 「4階ね」 森下に片手を上げると、青島はマンションの中へと、消えて行った。 現場になったマンションは、芝浦の住宅街に立つ、10階立ての瀟洒なマンションだった。 エントランスを潜ると、青島はエレベーターを利用せず、奥に有る階段を上った。呼び出しか ら時間が経っているだけに、持ち込む器材の多い鑑識班が、鑑識を終了し、エレベーターを 利用するか判らない。その為、青島は階段を使って目的階数に向かった。 4階に着くと、赤い文字で『KEEP OUT』と書かれた見慣れた黄色いビニールテープが眼 に入った。マンションの一室で死体が発見されただけに、現場の玄関扉は大きく開かれ、周 辺では一課の捜査員が右往左往している様が視界に入る。これで今朝のマンション周辺住 人は、全員寝不足だろうなと、青島は何気に思った。 朝早くから赤灯を鳴らして現着した無数のPCに、安眠を叩き起こされた周辺住人は、野次 馬に参加し、マンション前の整理をしていた森下達を、往生させていた。 「先輩〜〜遅いですよ、全く。何やってたんですか?!呼び出しから、一時間も経ってるじゃな いですか〜〜」 青島の姿を見付けた真下が、叫び乍ら近寄って来るのに、青島は思い切り苦い面をし、 「未だ40分しか経ってないだろうが。第一電話受けた時、言った筈だぞ、自宅に居る訳じゃ ないから、時間掛かるって」 「そんなの言い訳になりませんよ」 真下にしては珍しく、反駁する。 「そういう事だな」 真下の後ろから、一課三係々長の有田が現れ、眼鏡越しから厳しい視線を投げてくる。 「おはようございます、有田さん」 殺人現場に、これ以上不釣り合いな言葉もないだろう青島の台詞に、言われた有田は青 島のらしさに、苦笑する。その後ろから、 「遅いッ!所轄が何やってるんだ」 青島の予想通り、不機嫌を背負った新城が、眉間に深い皺を寄せ、立っていた。 室井弐号と言われて久しい新城は、近頃その皺すら室井に似てきたと、湾岸署では有名だ った。その新城の横で、一課長の島津が、やはり苦い表情をして立っている。 「被害者は、此処の住人、妹尾隆、29歳だ。竹芝に在る総合商社、セリエ・エンタープライズ の商社マンだ」 新城の横で、不意に島津が口を開く。 「セリエ・エンタープライズって、國吉財閥が本体の、コングロマリットの一つ、ですよね」 その台詞に、青島は僅かに攅眉する。 「そうだ。事の慎重さが、少しは判ったか?」 島津の台詞を受けた青島が、その総合商社の本体まで知っている事に内心驚きつつ、新 城は凛然と青島に問い掛けた。 「まぁ、何となく……」 ポリポリと髪を掻くと、青島は事の厄介さに気付いた。気付き、深々溜め息を吐く。 「管理官」 大きく開かれた現場の玄関扉の奥から、鑑識課の一人が新城を呼んだ。 「一緒に来い」 新城は顎を杓ると、青島と真下に着いてくる様に凛冽に言い放ち、靴にビニール製のカバ ーを着け、現場室内に脚を踏み入れた。 室内は、殺人現場と言う印象を失わせない、散乱ふりだった。 2DKの室内の奥に、被害 者の遺体は在った。 寝室に利用していたのだろう室内には、シングルベッドの横で、仰向けに倒れている遺体 が在った。その遺体は、凄惨な苦悶の表情を現したまま、暖房の切れているマンションの自 室で、堅く冷たく硬直していた。 「首筋に索溝が有ります、絞殺です。関東監察医務院に運び、司法解剖に回します。鑑定処 分許可状は、現在請求中です。医務院には、連絡済み。向こうは、田所部長が執刀すると の事です」 被害者の遺体を検視していた刑事調査官が、抑揚ない淡々とした口調で話すと、床に片膝 を付き、被害者の首筋を示す。 示されたソコには、絞殺を現す、くっきりとした索溝が着い ていた。 本来、刑事ドラマの様に、監察医が事件現場で検視する事は、殆どの場合はない。検視は、検察官が、医師の立ち会いの元で行われなければならないが、何万件と多発する犯罪に、検察官の手は現場検視にまで手が回らず、代行されるのが、刑事調査官になる。調査官 と言うより、検死官と言った方が通りやすいだろう。日本はアメリカの様に、検屍官は存在し ないが、刑事調査官が検察官の代行として、検視を行うのが、慣例になっている。 刑事調査官は、10年以上の捜査経験を持ち、所定の法医学の研修を終えた者が任命され る。階級は警視以上だが、警部が任命される事もある。 現在妹尾隆の検死をしているのは、加賀と言う、警視の階級を持つ刑事調査官だった。 刑事訴訟法の定められる様に、捜査の指揮権を持つ、都道府県の公安委員会が定める警 部以上の者が、刑事調査官になっている。刑事調査官は、手際よく遺体を検死すると、鑑定 処分許可状を請求したのだろう。 「判った」 島津が頷くと、鑑識課の人間が遺体に青いビニールシートを掛け、担架で外へと運び出す。 被害者が倒れていた位置に、フローリングの床に白いチョークが書かれている。床は幾重 もの細い傷が引っ掻かれた跡の様に残っていた。 「遺体の爪は、剥がれかけていました。惨い殺し方です」 刑事調査官は、白いチョークで書かれた床に、視線を落としたままだ。 「それが唯一の抵抗か……」 ポツリと、青島が呟いた。 犯人の目的は、何なのだろうか?散乱した室内は、強盗の印象を青島達に与えていた。 青島は、グルリと室内を見渡した。見渡した時、脳裏に何かが掠める印象が有った。脳髄を ナニかが刺激する、嫌な感触だった。だったが、ソレはアッと思った時には、指の隙間から零 れ落ちていく水や砂の流れに似て、掴まえる前に四散してしまった。けれど、それは青島の 身の裡に、言い様のない夾雑物を植え付けて行く。行くが、ソレがナニかは未だ判らない。 判らない事が苦々しく、思い出せそうで思い出せず、喉元まで出掛った言葉が言語として発 生されない不快感さに酷似していた。自分を刺激する夾雑物は、一体何なのだろうか?半 瞬考えたが、判らなかった。 室内に対する違和感を感じたが、ソレが何かまでは判らない。自分に判る事なら、鑑識の 人間はとうに気付いた筈だ。 鑑識班は、どんな些細な事も見落とさない。現場に掃除機まで持ち込み、微小な衣類の繊 維まで持ち帰り、顕微鏡などで分析、解析するのだ。 指紋はアルミ粉を振り検出するだけでなく、布や紙に付いた指紋は、特殊な試薬により分 析される。足形等は、セメントの様な白い液体で固めて足形を取る。 洗浄した血液も、ルミノール反応により検出される。衣類等に付いた極微量の体液も見逃 さない。髪の毛や体毛などからは、性別や年齢、血液型やDNAまでもが判別、分析する事 が出来る。鑑識班は、現場捜査員の様に、被疑者検挙の為の聞き込みや取り調べはしない が、事件発生の一報と同時に現場に急行し、現場に残された指紋や足跡、被疑者の残留さ せた証拠資料を採取する。鑑識捜査が終了するまでは、譬え機捜でも、現場に立ち入る事 は出来ないのだ。そんな綿密な鑑識捜査の入った現場に、自分が思い当たる違和感の原 因が、青島は判らなかった。けれど確かな違和感に、自然表情は攅眉し、厳しい面をしてい たらしい。 「先輩、どうしました?」 青島の隣に佇んでいた真下が、攅眉する青島に、怪訝に問い掛けると、新城と島津も青島 を視た。 「何だ、どうかしたのか?」 遺体の在った床から青島に視線を向ると、新城も真下同様、怪訝に青島を視た。新城の横 で、島津も青島を視ている。 「否、何スかね、ちょっと。それより、事件の通報者は、誰なんスか?」 「同じセリエの商社マン、小泉敏昭、29歳だ。今有田が湾岸署で、参考人調書をとっている」 「参考人……」 「第一発見者を疑え、捜査の鉄則だろう」 青島の呟きに、新城が口を開く。その新城の台詞に、青島は幅広い肩を竦めて応えた。 場を全く顧みなかった新城の口から出た台詞に、島津はコッソリ嘆息を吐き出している。 室井に似てきたと言うのは、眉間の皺ばかりではないらしい。内面的な部分から、確実に 変化してきている。内心コッソリ溜め息を吐き出す島津だから、その新城の内面の変化を、 正確に読み取っていると言う事なのだろう。 所轄の暴走刑事の悪名高い青島の、ひいては湾岸署の影響によって、犯罪捜査現場の 現実に気付かされてしまったキャリアを、島津は二人視てきている。気付かされてしまった現 実の前に、けれど二人のキャリアは毅然とした凛冽さで、真っ正面を見据えている。その強さ は、僥倖なのだろうか?フト、島津は憐憫にかられた内心に、苦笑した。 「早朝から同僚のマンションに来ていた理由が裏付けされれば、問題はない」 眼鏡の奥から鋭利な視線を放射し、島津が言う。 ノンキャリ警察官の最高ポストとされる、警視庁捜査一課長の島津の眼と声は、犯罪捜査 の厳しさを知り尽くした、現実的なものだった。 「これから湾岸署で、捜査会議だ」 端然とした新城の声に、青島は言葉なく頷いた。その貌は確かに、殺人と言う、凶悪犯罪と 対峙する、刑事の眼をしていた。 現場室内を出る時、青島は一旦背後を振り返る。普段湾岸署では、物柔らかい眼差しの印 象が強い青島の双眸は、今は淡々とした鋭利な視線を放ち、改めて室内をグルリと見渡して いる。 寝室には、マホガニーのデスクと書棚。CDコンポとシングルのベッド。デスクの上にはパソ コンが置かれている。フローリングの床は雑誌やクッション、ボールペンや領収書の類いが 投げ出され、散々たる散乱ぶりを披露している。その床を視た時、やはり奇妙な違和感が青 島の胸を刺した。刺したが、やはり答えは出なかった。奇妙で得体のしれない夾雑物が、身 の裡に残滓された気がした。 特捜本部となる7階の会議室に行く前に、青島は一旦刑事課に顔を出した。其処には、早 朝の殺人事件で招集の掛った強行犯係の係長の魚住や、現在は現役を退き、刑事課の指 導員として席を置いている和久の姿も在った。当然、刑事課長の袴田の姿も在る。署から突 然呼び出しを受けたのだろう袴田は、到着したばかりなのか、慌てて制服に着替えている最 中だった。 「真下お前、現着したの、俺だけじゃないか」 昨夜当直だった真下は、後数時間で何事もなく終わる筈の当直を、最後の最後で最悪な 事件の乱入により、帰宅し安眠する機会を失ったのだ。その真下が応援に呼び出す刑事と 言えば、強行犯係では青島しか存在しない。 「無茶言わないで下さい。先輩しか、呼び出せるのいないじゃないですか」 恋人との残り数時間の逢瀬を、無機質な、とは全面的には言えないアニメソングの機械音 に呼び出され、現着してみれば、湾岸署からの刑事は昨夜当直の真下だけと言う顛末に、 些かの渋面を隠せない青島だった。 「何の為の課長代理なんだよ、魚住係長も呼び出せるだろうが」 この場合。強行犯係の刑事になって日の浅い雪乃は、早朝の殺人現場の応援に呼び出さ れるメンバーとしては、青島の頭からは除外されている。そうなると、消去法で考えた場合。 残るは当然、刑事課強行犯係長の魚住しか在なかった。 「いいじゃないの、呼び出さなきゃ出さないで、文句言うの君じゃない」 真下と青島の会話に、着替えを終えた袴田が口を挟むと、 「何がいいんスか。俺恋人の所に居たんスよ。俺がフラれたら、真下、お前の所為だかんな」 「何言ってるの。呼び出されて、事件より恋人とっちゃったら、それこそ激昂する人じゃない、 青島君の大切な恋人は」 何時刑事課に来たのか?青島と真下の背後から、気配一つなくすみれが現れ、揶う様に 言うと、クルリと青島は背後を振り返り、恨めしげな視線をすみれに投げる。 「おはよう、朝早くから、大変ね」 青島の不機嫌な視線にも全く動じずに、すみれは莞爾とした笑みを返す。 「本気で不機嫌な訳じゃないんだから、いい加減、真下君苛めるのやめなさいよね。だから ガキって言われるのよ」 「ダレに?」 「ァッ、言っていいんだ」 ンフフッと、すみれは意味深な笑みを刻み付け、不意に青島の首にだらしなく締められてい る、ゴールドの混じったネクタイを手に取った。 知らない人間が見たら、到底刑事に見られる確立の少ない青島が、何時も身に着けてい るのは、赤や青と言う、半ば原色に近い色合いのネクタイだ。それもだらしなく締めている所 がまた恰好良く見栄えのする青島だから、その服装と印象からして、刑事に見られる確立は、初対面の人間なら果てしなく0に近い。その青島が、今朝に限ってキャリアタイプのネクタイ を締めている。ソレもすみれにしては、見覚えのあり過ぎる位、あり過ぎるネクタイだから、青 島がネクタイを使用しても、咎める事すらせずに、室井はソレを許してしまったのだろう。だか らきっと今朝の室井は、青島のネクタイをしている筈だと、すみれは思った。正解なら、一昨 日青島が締めていた、赤や青と言う原色よりは、比較的穏やかと言う表現の出来る範囲の、 淡いワインレッドのネクタイを締めている筈だ。それを確かめる術がないのが残念だとすら、 すみれは内心思ってしまっていた。 そんなすみれの目敏さと、常日頃の洞察力に、青島は舌を巻く。 「……よく出来てるねぇ、人間観察」 確か一昨日の夜にも言った台詞だと、思い出す。 同僚のネクタイの種類まで、記憶しているすみれの洞察力に、青島は素直に感心したが、す みれに言わせれば判って当然の事でしかないから、二人の意識の違いは落差があった。 湾岸署から警視庁ひろしと言えど、キャリアの室井と、所轄の刑事の青島の、人に言えな い秘密の関係を知るのはすみれだけだから、彼女にしてみれば、一昨日の夜。室井に散々 甘えてきた青島を知るのは、容易だった。 自分のネクタイを、だらしなく首に締める青島を、室井が咎めたとは、全く思わぬすみれだった。冷冽な官僚然とした印象からは、到底想像すら出来ない室井の一部を垣間見て、目一 杯、年下の恋人を甘やかし、甘やかす事でまた甘えているのだろうと、すみれは内心の嘆息 を吐き出した。そして甘えるだけの関係を、築いている二人ではない事を、すみれは切ない 位の想いを込め、知っている。二人が互いの存在のみに溺れてしまわぬ様に、自戒している事を、すみれは知っているのだ。 だから青島が、口ではどんな事を言っても、その思考は既に事件に向かっている事を。 現場に飛び出す年下の恋人を、室井が内心の淋しさを隠して送り出した事を、すみれは適格 に感じていた。けれど、当然その根深い想いを、すみれが知る筈はなかった。 「言ったでしょ?これでも刑事だからって。そうやって弱い者苛めしてると、言いつけるよ」 手にとったネクタイをグイッと引き寄せると、 「年上の恋人にタップリ甘やかされてきたんだろうから、きっちり捜査しなさいよ」 耳元で、含み笑う。 「真下君も、一応は青島君の上司なんだから」 「すみれさん、一応ってないんじゃないですか?」 すみれの台詞に、真下は恨めしげにすみれを見やる。 「青島君の手下って、有名じゃない」 シレッと、すみれは言うと、 「それで青島さん、殺人なんですか?」 やはり何時刑事課に来たのは判らない雪乃が、特捜本部に出向く準備に手を動かし乍ら、 視線だけを青島に向ける。 「絞殺」 雪乃の質問に、青島は端的に告げる。 「監察医務院で、司法解剖中です」 真下が雪乃に、青島の端的すぎる言葉に補足する。 「現在、第一発見者が、参考人調書とられてます」 真下が視線で斜め後ろを示すと、第一取調室が、使用中の札になり、扉が少しだけ開いて いる。 「本店3係の有田さんが、とってます」 「んで、参考人は?」 冷えるなぁ〜〜と言い乍ら、指導員の和久が刑事課に現れ、全てを聞き知ったかの様な口 調で、微塵の違和感も感じさせずに問い掛けける。 現役を引退し、現在は指導員として湾岸署刑事課に復帰した和久は、事実上。捜査員の一人として、刑事課の頭数に数えられてしまっている。その事実を、刑事課の面々は、忘れている節が多大だった。 長年刑事畑を歩いてきた和久は、誰もが尊敬を寄せる老刑事だ。異動の多い組織の中、 殆ど所轄の捜査員として過ごした和久は、所轄にしか出来得ない捜査方法の巧みさを持っ ている。それに伴うパイプも在る。その所轄独自の組織捜査を、青島に教えたのは、和久に 違いないのだろうが、きっと和久は教えたつもりはないだろう。 それは言葉などではなく、共に捜査して行く過程で、青島が和久から得た、所轄の組織捜 査だからだ。だから青島は、自らが正しいと信じた正義には、子供の様に貪欲で、純粋だっ た。自らが正しいと信じた正義を貫く為には、何処までも恐れ知らずで我が儘だった。それは 自分の正義を信じる心の律法を失わない強さと勇気があったからだ。自らの正義が正しいと 信じる事の出来る、精神の強さがあったからだ。 そして信じた正義を貫き、結果を弾き出す実力も兼ね備えていた青島だから、湾岸署の面 々は、青島の正しいと信じた正義には力を貸した。それが青島の言う、所轄の組織捜査なの だろう。けれどそれは自らの正義に対する責任を、常に心に持ってきた青島だからこそ、常 に結果に結び付いてきたのだ。 犯罪捜査に、偶然など存在しない。だから青島は常に、客観的な多角的視野と眼を持ち、 犯罪捜査と言う、厳しい現実を捉え、経験してきたのだ。それは青島を確実に刑事として成 長させた。正しいと信じた正義を貫く為の権力の必要性を、青島に解いたのは室井だった。 正しい事をしたかったら偉くなれと言ったのは和久だった。けれど、その意味を青島に悟ら せたのは、室井という、青島が愛し、青島を愛した、年上の恋人だった。だから青島は常に 足掻く程、もがく程、刑事として成長する事を己に課した。それが青島の愛情の深さなのだと、知らぬ室井ではないから、青島の愛情の前に、室井は何時も自戒しているのだ。そしてそ んな二人を視てきているすみれに、切なさを抱かせる。 長年所轄の捜査員として、犯罪捜査に身を置いてきた和久だからこそ、青島に階級を上げ る必要を、告げる事が出来たのだろう。 昨年の副総監誘拐事件の時、和久と吉田副総監との、室井と青島の二人と変わらぬ繋が りを知ったのは、和久が告げたのは、青島だけだった。けれど、それは後に青島が口を滑ら せ、刑事課の人間に広がった。だから今では二人の繋がりを知らない刑事課捜査員は在な いのかもしれない。いないからこそ、容易に変わらぬ組織への革新を求める青島と室井の、 二人の成し遂げようとしているのだろう現実の前に、誰もが言葉を失ったのは、当然な事な のかもしれない。 指導員の和久を、捜査員の頭数に数えなければならない程、湾岸署は忙しい。4月に真下 の本店二課異動が決定している現在、刑事課補充人数に、頭が痛い袴田だった。そして確 実に、今年中にはもう一人刑事が在なくなる。階級をあげ、本店一課に異動する。それを考 えると、尚更胃と頭が痛む袴田だった。革新の前に、捜査員を増員してくれと、袴田が叫び 出したとしても、罪は無いのかもしれない。 「被害者はセリエ・エンタープライズの商社マン、妹尾隆29歳」 セリエ・エンタープライズって、竹芝に在る、本体が國吉財閥の……?」 その瞬間、すみれの声は、少しばかり狼狽していた。その口調に、青島は怪訝な表情をし た。 被害者の勤務先が、管轄内の商社だとしても、その本体の財団まで記憶している事は稀 だ。新聞の社会欄を詳しく呼んでいれば判るかもしれないが、コングロマリットを記憶してい るケースは、極めて稀だ。 青島が、その総合商社の本体財団をしっていたのは、多分に実家の内情あっての事だ。 青島は、見えないが、日本でも有数の財閥の子息だ。経営畑に向き過ぎている姉が経営に 乗り出したのを幸いに、勝手に出奔してしまった口なのだから。だから青島がそのセリエとい う商社の本体の財閥を知っていたのは、多分に私的な関わりだ。けれど何故すみれはその 事を知っているのか? コングロマリットな多角経営の企業は、その本体とする財団名を使用しない事も多いから、 すみれの知る理由は何なのか?今のすみれの狼狽した声に、青島は嫌な予感を覚えた。 青島は、厄介な事件になる可能性を秘めた殺人事件に、不意に今朝方別れた、年上の恋 人を思い出す。 官舎の通り沿いから見上げたリビングの窓に、室井は在った。秀麗な面差しが、一瞬だけ 淋しげに視えたのは、気の所為なのだろうかと、理知深い、年上の恋人を思い出す。思い出 せば、それはきっと、思い違いではないだろうと、青島は感じていた。 孤独に慣れ過ぎ、傷 を負ってもその傷を認識出来ない孤独に、高潔に佇む事を自らに課していた室井だから、青 島の愛情の前に、孤独と引き換えに、淋しいと言う感情を抱く様になった。その室井の内心 を、青島は気付いている。 孤独という高潔さと引き換えに、年上の恋人に『淋しい』と言う感情を植え付けたのは、青 島本人だからだ。だからアノ一瞬、年上の恋人が垣間見せた表情は、淋しさの類いのものな のだろうと思った。 そしてこの事件の厄介さを認識しているのは、恐らく青島以外には和久位のものだろう。 だろうから、和久はその商社名を聞いた瞬間。その面差しは、厳しい位に刑事の面になって いた。なり乍ら、やはりらしくないすみれの動揺に、攅眉している。 「第一発見者は、同じく同僚の小泉敏昭29歳です」 「エッ……!?」 「すみれさん?」 真下の告げた、第一発見者の名に、瞬時にすみれの表情が青褪めた。 「小泉…敏昭……?」 疑問符を付け反芻すると、次には・顔が第一取調室に視線を投げ付けた。 普段はきっちり閉じられている取調室が僅かに開き、内側の明かりが漏れている。その事が、取り調べを行っている事を意味している。 「そうです」 すみれの様子に、ただならぬ何かを感じたのは、青島と和久だけではない。告げた真下も、課長席の袴田も、彼等の前の席に在た魚住も、らしくないすみれの様子に気付いていた。 「すみれさん?」 隣の青島が、覗き込む様に白皙の貌を覗き込む。動揺した眼差しは、取調室に釘付けにな っている。 「すみれさん……知ってる人…ですか……?」 躊躇いがちに、雪乃が訊く。 すみれの瀟洒な指先が、無意識にだろう、右腕に爪を立てている。その事にも、すみれは気 付いてはいない。それが雪乃に不安を与えていた。 雪乃にとってのすみれは、常に強い先輩であり、同性の友人だった。右腕の傷を克服し、 その傷と向き合う事の出来る、強い女性刑事だった。そのすみれが、動揺し、狼狽を曝して いる事に、雪乃は強い不安を募らせる。 「どうして……」 慄然と慄える声が、動揺を色濃く現し、零れ落ちた。 忘れた筈の右腕の傷が、刺す痛みを肉の下から齎す感触に、すみれはなお強く、その傷を 抉る様に、左の指先が爪を立てた。白皙の貌は動揺を色濃く現し青褪めている。繊細に縁 取られた双眸は、なお深い狼狽を映し、長い睫毛が小刻みに慄えているのが、青島には視 える気がした。すみれのただならぬ様子に、誰もが心根の奥深くに、一抹の不安を感じ取っ ていた。 年下の恋人が事件に呼び出され、登庁までの数時間。ベッドに潜り込んではみたものの、 寝付ける筈のない眠りに端から執着せず、年下の恋人の為と言い訳し、寝室に常備してあ る外国産煙草を1本吸い、室井は通常より早い時刻に登庁した。 恋人の温もりが残るベッドと、慣れ過ぎた香りは、室井にとっては年下の恋人の体臭と同 義語で、ソレは一昨夜から続いた激しい情事の名残を室井に思い出させた。久し振りの情事 に、年下の恋人に、昇進試験のディベートと称し、情事に誘ったのは室井だった。 室井より4歳年下の恋人は、忙しない呼吸を繰り返し、丹念な愛撫と、それ以上に深い愛 情で、室井を耽溺させる事に余念がない。まるで十代の恋愛の様に、性急に求め合う情事 に、けれど咬み付く様な貪婪な接吻は、肌を重ねる事を覚えたばかりの十代の、欲情ばかり が先走る、青臭いものではなかった。なかったから、何時だって、室井は青島の眼前にその 身を曝す事に、躊躇いは持たなかった。過去、確かに持っていた筈の羞恥は、今の室井にと って、不必要なものでしかなかった。なかったから、室井は何時だって躊躇い無く年下の恋 人を求めた。 青島に求められる想いと同じ深さで、何時だって室井は青島を求めてきた。荒々しく求め合 い乍ら、何処までも深い愛情が其処には在った。貪婪に肉を貪り繋げ乍ら、其処に在ったの は、何処までも幽邃で、真摯なまでの愛情だった。 情欲に歪んだ年上の恋人が愛しかった。愛しいからこそ、何時も青島の前で、欲しいと言う 感情を隠さない。隠さないから、言葉を惜しむ事ははない室井だった。 愛している、欲しい。 以前の室井なら、死んでも言わなかっただろう台詞を、けれど今の室井は青島に告げる事に 、半瞬の躊躇いもなかった。 本来なら、行政官としての手腕を求められる官僚の室井が、刑事警察分野を長く歩いてき た事事態が、組織の中では異例な筈だ。そして長年凶悪犯罪と対峙してきた室井だからこ そ、言葉の行き違いで犯罪に走る被疑者達を、幾度も眼にしてきていた。視てきたからこそ、室井は信じなかった。言葉を必要としない、愛情というものの存在を。 愛しているなら、愛していると、欲しいなら欲しいと、言葉を持たずに愛する者同志、心が通 じるなど、そんな甘い考えを、室井は信じてはいなかった。いなかったからこそ、室井は青島 に告げる言葉に、逡巡は持たなかった。どれだけ愛し合う者でも、否、愛し合う者達だからこ そ、言葉は必要なのだと、青島を愛し、実感もした室井なのだ。 そんな室井だからこそ、年下の恋人を求める事にも躊躇いはなく、その躊躇いの無さが、 時折年下の恋人を脱力させてもいるタチの悪さに繋がると、判っていてやる室井は、確信犯 だ。そして脱力する青島を視、幸せを感じている室井だからこそ、よりタチが悪いと、青島の 泣き言を受けている室井だった。 年下の恋人の、取り繕った理性さは、何時だって室井を求める情欲が、端整な双眸には色 濃く現れていた。その情欲の深さは、同時に青島の愛情の深さと変わりない事を、室井は知 っている。 自分を求める情欲が、性欲の捌け口である筈がない事位、数え切れぬ回数、肌を重ねて きた室井だから、青島の愛情を疑う事はなかった。なかったから、その視線に身を曝す事に、やはり躊躇いは感じない室井だった。そしてきっとその時の自分は、青島と寸分の違いも なく、年下の恋人を、情欲の籠った眼差しで見詰めてきたのだろうと、自覚している。 愛し合い、抱き合う行為というのは、そういう意味なのだろうと、室井は思った。 愛する男に愛され、理想を共有し、上を目指す事で、孤独の意味を知った室井だから、今 の室井に真の意味での孤独は有り得なかった。 以前の自分は孤独だったのだろうと、室井は過去を振り返る。青島が良く言っていた台詞 だ。孤独に慣れ過ぎて、孤独の意味を知らないと、傷を負った自覚もない位、組織に傷つけ られていると。当時の室井には、その意味は全然理解出来なかった。理解しようと思う必要 もない事だった。けれど、今の室井には、その意味を教えてくれる恋人が在る。 だから今の室井に、孤独はなかった。けれど、孤独と引き換えに得たのは、切ない位の淋 しさだった。その淋しさは、やはり愛情の深さの裏返しでもあるから、その淋しさをも青島と共 有したいと、切望している室井だった。だから今朝方別れた年下の恋人の、一瞬振り返った 眼差しに、同じ色を見付けた時、室井は幸せさえ、感じていたのだ。 そして現在。警視庁刑事部参事官室には、室井しか登庁してはいなかった。 参事官になってからの室井は、極力朝早い登庁は控えていた。でなければ、参事官付の室 井の部下達は、もっと早い登庁を強いられる結果に繋がる。それが判っているから、余程の 事が無い限り、朝早い登庁はしない室井だったが、今朝ばかりは、年下の恋人の余韻が残 るベッドに潜り込んでいると、激しかった情熱的な情事を思い出し、耽溺しそうになってしまっ たから、自戒を込め、室井は早い登庁をしていた。 警視庁ビルと言えば、大抵の人間が誰もが想像出来る。Aラインの外観を誇る白亜のビル は、通信塔を屋根に付き出した18階建てのビルだ。 正面玄関をくぐると左手には受け付けカウンターが有り、更に奥へ進と、ホールになってい る。ホールは、二階まで吹き抜けになっている。それ以上の詳細な内部構造は、テロに備え て非公開になっている。その白亜のビルの5階、6階を、刑事部が占めていた。警察組織一 有名な警視庁捜査一課は、その6階に位置している。 東向きで眼下に桜田通りを見下ろし、法曹会館や、法曹関係が入っている合同庁舎6号館 の向こうには、日比谷公園が広がる眺望絶佳が見下ろせる。刑事部参事官室は、その眺望 絶佳の6階に位置していた。当然、窓は防弾ガラスに守られている。けれどその防弾ガラス の向こうを、優游と眺めた事は、殆どない室井だった。 刑事部参事官室は、二つの部屋からなっている。 廊下に面した扉を開けると、一見しただけならオフィスと変わらぬ、パソコンやワープロ、コピ ー幾等が置かれた、室井の部下達の部屋が有り、その奥が、参事官たる室井の執務室に なっていた。 定刻より早く登庁した室井は、上がってきている報告書に眼を通し、その間に、時間は定 刻になっていた。上司より遅く登庁した部下達は、僅かばかり恐縮してはいたが、室井が自 分の時間で動く事を心得ているから、珈琲を運んできた女性秘書も、 「おはようございます」 莞爾とした笑みと共に、書類に視線を落としている室井の前に、音を立てない見事な所作 で、珈琲カップをデスクに置いた。 「ありがとう」 書類から怜悧な眼差しを上げ、眼前に佇む秘書に礼を言い、室井は徐にカップに口を付け た。その姿に、秘書はやはり莞爾とした笑みを浮かべ一礼すると、執務室を後にした。 カップに一口口を付け、二口目を口にした時。その苦い珈琲独特の味と香りに、室井はフト 思い出してしまっていた。 青島が自分の為に淹れてくれる珈琲の方が、数倍美味しいと言う事に。 青島に珈琲の淹れ方を教えたのは室井だから、その珈琲の味は、室井の淹れる珈琲と同 じ、もしくは似ている筈だ。けれど、青島が室井の為に淹れる珈琲の方が、より自分の好み になっている事実に、今更気付いた室井だった。 秘書が珈琲を淹れるのは何時もの事だ。朝や昼、夕方と、秘書は珈琲を淹れてくる。その 味に、今朝まで別段の頓着はなかった筈の室井は、けれどそれは極めてプルースト効果だ と思い当たった。その理由と言えば、一昨夜。青島が湾岸署の珈琲を改良したと言っていた からだと、思い出す。 余程今朝、青島が呼び出された事が淋しかったのだろうか?フト室井は、内心自嘲する。 自分が愛した男は、所轄の捜査員だ。事件に呼び出しを受ければ、別れたくないと泣き言言 いつつ、自分を置いて行く後ろ目さたと、別れがたさに強い抱擁で抱き締め、事件に向かっ て走って行く、現場の捜査員だ。そう言う男を、自分は愛したのだと、室井は苦笑する。 切なさや淋しささえ愛しいと感じる程、誰かを愛する時がくるなど、過去の自分なら想像出 来なかった。嘗て愛した女性でさえ、こんな想いは抱かなかった。淋しさが同義語で愛しいと 思える程、誰かを深く愛した事はなかった。泣き出したくなる程の衝動を秘めた切なさで、人 を愛した事などなかった筈だ。けれど今は泣き出したい衝動すら、何処か甘やかな気配を湛 えた切なさだったから、アノ時の自分は、本当の意味で、人を愛してはいなかったのだろうか?考えても、当然答えが出る筈はなかった。それは室井にとって、遠い記憶でしかないからだ。 室井は内心の自嘲を珈琲で飲み下すと、突然、デスクの上の内線電話が鳴った。それは 刑事部長からの内線である事を、点滅するライトが告げていた。 点滅ライトをタップリ5秒は凝視すると、室井は受話器を取り上げつつ、嫌な予感に無意識 に眉間の皺が深くなっていた。 僅かに開かれた取調室の扉が、刑事課に在る捜査員達が見守る中、外側へと大きく開か れた。全員が、参考人が現れるのを、固唾を飲んで凝視している。その不躾な視線に、近隣 所轄から『空き地署』と呼ばれている、放任がモットーの湾岸署らしいと、内心有田が苦笑し ている事を、誰も知らない。 「何してるんだ。捜査会議の時間だぞ」 内心の苦笑を微塵も表面に現さないのは、犯罪捜査に当たる刑事の基本姿勢だ。その見 本の様に、有田は端然とした声で、不躾な視線の主達を一喝する。 「…合わせて…」 やはりらしくないすみれの声音は、彼女を知る者が見れば、慄えているのが僅かに判る。 「何だ?」 有田は、すみれの言葉が判らなかった。無遠慮なまでに不躾な視線を放ってくる刑事課の 面々の中。女性刑事のすみれだけがその光彩を種を異にしているのに気付き、攅眉する。 「小泉敏昭に、合わせて下さい」 すみれの声は、次には驚く程淡如になっていた。有田相手には正攻法で言わなければ通 用しない事を、すみれは知っている。 「駄目だ。現在参考人聴取中だ。それに君は、盗犯係の刑事の筈だ」 すみれの様子から何かを感じた有田は、一言に却下する。けれどすみれは引き下がらない。 「未だ、終わらないんスか?」 自分が現場到着したすぐ後、有田は小泉敏昭を連れ、湾岸署に来ていた筈だ。今はそれ から一時間は経っているから、参考人供述調書作成には時間がかかり過ぎると、青島は有 田を視た。 「爾後確認する事がある」 「だったら、取調室って事は、ないんじゃないっスか?」 「今から出るんだ」 端的な有田の声に、青島は怪訝気な表情を浮かべた。 「新城管理官には、参考人聴取の報告は上げてある。詳しい事は、捜査会議で聴くんだ。 私はこれから、爾後確認に行く。恩田刑事、参考人とどんな関係か知らないが、捜査に私情 介入は許されない。判っているな」 眼鏡越しの有田の眼は、淡々黙々とした気配を放ち、その視線は、長年犯罪捜査で事件と 対峙してきた、端然とした厳しさを孕んだ眼、だった。 その視線の前に身を曝し、すみれは自分の心の動揺がゆっくりと氷解して行くのが判った。 それは、厳しいばかりの有田の眼が、和久と同じ光を帯びていたからかもしれない。その眼 は、刑事として、犯罪と言う、人間の愚考と真剣に向きあう、和久と同じ眼をしていたからな のだろうと、すみれはまっすぐ有田を凝視する。凝視し、言葉なく、けれど力感強く頷いた。陶器の様な瓊顔に浮かぶ一対の眼は、勝ち気な活眼を湛え、有田を偶視していた。 その時。有田の背後から、3係の刑事と共に、男が現れた。男は青島より若干身長は低い が、体躯は似ている立ち姿が、其処に現れた。 青島とよく似た体躯ではあるけれど、荒削りと言う言葉が似合う彫り深い端整な面差しの 青島とは違い、小泉敏昭は穏やかで繊細なラインに縁取られた面差しをしていた。その貌は 些か青褪めてはいたが、落ち着いた物腰をしていた。いた様に、青島達には見受けられた。 不躾な視線が、小泉敏昭の肌身に纏わり付いた。その無遠慮な視線に、小泉は視線の方 向に眼を向た。瞬間。黒眸が傾駭と同時に瞠然となった。なり、 「すみれ………?」 無意識に、小泉敏昭の口から、驚駭の声音が零れ落ちた。 「……敏昭…」 端然さを見せていたすみれが、意識の外で動揺を現した声を漏らした。その声と漏れ出た 名に、刑事課の面々はすみれと参考人の小泉を交互に見詰め、再び視線がすみれの小作 りな貌に注がれた。有田も僅かに視線を動かし、今まで事情聴取していた参考人と、湾岸署 のワイルド・キャットの異名も高い、すみれを視た。けれどその姿勢は、何処までも淡然な姿 を崩さない。 「行きましょう」 一瞬の間の後、有田は小泉に促す様に声を掛けると、小泉敏昭はすみれに視線を向たま ま、刑事課を後にした。 その視線に、二人がただの関係でない事を、誰もが悟った。すみれは半ば呆然とした態で、刑事課の入り口を視ている。 視線の先で小泉敏昭が消えた時、すみれは長い溜め息を吐き出し、椅子に腰を落とした。 腰掛けたすみれは、無自覚に左手が右腕をギュッと握り締めているのに気付かない。その 仕草に青島は攅眉し、皆の視線がすみれに集中する。けれど、誰もが掛ける言葉を持たな かった。 刹那の間の後、 「私の……」 半瞬の逡巡を口唇に乗せ、すみれは独語に呟く声で、ポツリと呟いた。 近隣所轄から空き地署と名高い湾岸署が警視庁管轄下となり、青島が配属されて以来。 その所轄は、平穏と言う二文字とは、縁遠い所轄になってしまっていた。 有田は、室井が管理官に就任する少し前に、一課3係々長になった。湾岸署管内で頻発 する事件は、何故か室井指揮する3係・4係が出向く事が多かった。多かったので、有田も 湾岸署は通い慣れてしまった場所だった。 若者の観光メッカと言われる台場を管轄に受け持つ湾岸署は、比べれば強行犯係の事件 件数より、盗犯係の事件の方が頻発している。人が集まれば当然犯罪も多発する。若者の 集う台場だからこそ、スリや置引等の窃盗事件が多い。それに付随する形の傷害事件が多 い強行犯の仕事は、けれど時折起こる殺人などの凶悪犯罪は、度を越した形で齎らされる 事が概ねだった。 それは真下が銃弾に倒れ、生死の境を彷徨い、キャリアたる一課管理官が、所轄の刑事と 二人揃って暴走し、結果。組織への造反行為で査問委員会に掛けられ、昨年初冬には、副 総監誘拐事件が起こった。その事件の被疑者確保時、青島は刺され、やはり生死の境を彷 徨った。凶悪犯罪の多発する新宿・渋谷・池袋と言った凶悪事件とは、性格の違う事件が頻 発する。それが湾岸署だった。だから有田も、湾岸署は、自然通い慣れてしまった場所だっ た。自分がそうなのだから、湾岸署と一番関わっただろう室井は、もっと通い慣れてしまった 場所に違いない。違いない筈だと、有田は昨年初冬の誘拐事件で降格処分を免れ、刑事部 参事官に残留している室井の姿を思い出す。 厄介な事件の匂いがした。それは長年の経験則とでも言うのだろうか?有田は、経験則に 基づく勘を端緒にはするが、全面的信用を寄せる事は決してないタイプの刑事だ。 元より、勘は言葉に出来ない、瞭然さを持たぬからこそ、勘と言うのだ。けれどそれは当て 推量では決してないから、経験則が培われなければ、それは勘とは言わない。そして有田も、室井でさえ、現場捜査員の勘や直観を取り上げ、端緒とする事があった。けれどそれは端 緒を開くと言う言葉の範囲を出る事はなく、現場捜査員に求められるのは、やはり情報収集 能力や、分析能力、事案を客観的に視る事の出来る能力だった。けれど、今回の事件は、 その有田の嗅覚を、厄介だと認識させるナニかが感じられたのだ。感じたソレを、有田自身 が訝しんだ。けれど心の何処かで可笑しいと感じ乍ら、此処が湾岸署で、青島と言う、暴走 刑事が所属する所轄だからなのかもしれないと思ってしまう辺り、有田も立派に室井の影響 を受けていた一人かもしれない。そしてフト、隣を一歩送れて歩く、小泉敏昭を思った。 湾岸署の女刑事の恩田すみれと知人関係にあるらしい。 今度の事件がどう動くのか?考えると、内心深々嘆息を付く。付き、やはり厄介な事件にな るのだろうかと言う感触を、拭えない有田だった。 「私の……」 半瞬の躊躇いの後、独語に呟く声で口唇を開いたすみれは、瓊顔は僅かに俯き、半眼閉 ざされた眼差しは、無意識に肉に爪を立てる左腕と、爪立てる痛みではなく、肉の底から突 き上げてくる鈍い痛みを訴える、右腕を視ていた。 「小泉敏昭は…」 其処ですみれは顔を上げ、自分を心配気に覗き込んでくる同僚をグルリと見渡し、その視 線が隣に佇み、攅眉している端整な貌で止まった。止まったソレは、力ない笑みを浮かべて いる。いる事に、青島はより深く攅眉し、次の言葉を待った。 すみれのそんな笑みを、視た事はない青島達だった。怒りや嘆きを映す表情を、幾度となく 視きた同僚達は、すみれのそんな力ない笑みを始めて眼にした。した事で、却って不安が増 した。増したから、誰もが固唾を飲み、次の言葉を待っていた。 半瞬が長い、そう感じられた。 「小泉敏昭は、私の婚約者だったの……」 ポツンと呟かれた言葉に、誰もが絶句した。すみれの台詞に、雪乃は一昨日の、当直時の 会話を思い出していた。 昔の自分は、未々子供だったと、そう言っていたすみれの台詞を思い出し、雪乃は何とも 言えない胸中を味わっていた。 すみれが言っていた子供と言う意味は何だったのか?雪乃には未だ判らなかった。けれど、今回の事件が、すみれを苦しめている事だけは痛烈に理解出来ていた。それでも、すみれ は笑っている。微苦笑に酷似する笑みだった。その笑みに、雪乃は胸が痛んだ。
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