深 海 魚
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 緩やかな光の軌道を描き、初夏に色付き始めた緑が、鮮やかに飛んで行く眩しい季節。もうすぐ入梅になり、それが終われば、再びあの暑い季節が巡ってくる。
 冷ややかな熱を灯す緊張感のある興奮と、熱さを増していく季節は、きっと何よりソコが
先のない戦場で、崖っぷちなのだと痛感できる季節だ。退路などなく、先に進むしかない、研ぎ澄まされた切っ先の上。夏は彼等にとってそういう季節で、もう目前に、それは迫っ
ていた。
 鮮やかな光を放ち緑が飛ぶ季節。それはこれから益々色が増し、等分に熱さも増して
行く。それは同時に、切っ先の上を歩いて行くことを意味している。その怖さを知る者は、
今の青学テニス部には余りに少ない。その怖さも歩く意味も知っていた多数のレギュラー
陣は、笑顔で春先中等部を卒業し、今は隣接している高等部テニス部でレギュラーとなり、桃城やリョーマ達同様、全国を目指している。そして手塚は渡米し、リョーマより一足早
く、プロを目指し世界へと旅立っていった。その隣に立っていたのは、相変わらず華美に
身を置く跡部だったから、リョーマは二人は最後の最後まで好敵手なのだろうと思えた。
 緑が眩しい季節ともなれば、夕暮れはかなり遅くなるから、テニス部の練習は夏に近付
くにつれ、益々激しさを増していた。その過程で、全国を目指すテニス部の練習に付いて
いけない新入部員は、日々脱落者数を増していった。憧れだけでは務まらないのが全国
区というもので、その名に恥じない猛練習は当然だった。甘い夢だけで、全国を勝ち抜い
て行ける筈もないのだ。だから憧れだけでテニス部に入部した者は、早々に脱落していっ
た。その脱落者数は、五月も下旬という、新入部員を向かえ一ヶ月半の段階で、運動部、文芸部を通し、テニス部は一位独走状態だった。
 文武両道、全力で学び、全力で遊べという、創立者の校風を今もしっかり受け継いでい
る青春学園は、初等部から大学部まで、その部活の種類の幅広さでも有名だった。生徒
独自の自治区が確立しているのもその特徴の一つだ。
 学校という場所は、子供にとって一つの社会で、大多数の人間が生活をする社会とは
また違う領域が存在する。子供は子供なりの律法や正義でものを考え行動する。その中
で道徳や、個人価値レベルの常識を更に培っていく。だから学校という場所の責務は重
いのだと考えるのが青学の教育方針の一つの指針でもあった。学校という場所は、勉強
だけを教え、学力だけを重視すればいいというものではないという考え方でも有ったから、生徒間の問題は生徒間で考え、行動できる力を身に付けさせることにも力を注いでい
た。学力だけで、社会は生きていけない。社会に適合できる力を生徒に教え、伸ばしてい
くのも学校の責任だと考えていたから、青学は生徒の自主性を重んじる傾向が強い。
 その教育方針と自由な校風からなのだろう、青学の部活は運動部から文芸部まで、幅
広い種類が存在していた。青学が有名なのは、幼等部から大学部までの一環したエスカ
レーター式の教育方針だけではなく、生徒の個人性を重視する自由な校風から発せられ
る、部活の幅の広さにもあった。
 全国大会という入れ物の大きさも手伝って、部活といえば何かと運動部が目立つ傾向
の中。青学の部活は文芸部も各方面からの評価を受けている部活も数多く存在していた。
 運動部も去年テニス部が全国大会優勝校ということでテニス部が抜きんでて目立って
はいたが、サッカー部、バスケ部等も、全国大会出場の常連校だった。ただ昔から甲子
園とは縁遠いらしく、野球部は今一つパッとしないのは、南次郎の在校当時から変わりな
い様子だった。
 そんな中、去年全国大会優勝したテニス部は、当然周囲から今年も勝つことを期待され
る。手塚から部長職を受け継いだ桃城に、優勝に対する気負いはないものの、まったく無
視していられる状況ではないのも確かだったから、地区予選が開始された今、朝夕の練
習は日々激しさを増していくばかりだ。取り分け去年の三年生の実力が、青学だけに限ら
ず抜きんでていたのは昨年度全国大会出場校共通だったらしく、何処も去年と比較して、
選手層の薄さが痛手だった。
 そんな中、部長職を引き継いだ桃城が現在頭を痛めていることと言えば、新入部員をど
うやって育てて行くかということと同時に、テニスの確かな実力を誇り、それだけではない
ものを秘めていた去年の手塚達レギュラー陣達とは違う、今年最上級生になり、レギュラ
ーに選抜された荒井達同級生達をどう導いて行くかということだった。
 全国という入れ物の経験のない荒井達は、地区予選に勝ち進んでいるとはいえ、やは
り萎縮してしまうのは仕方ないだろう。それは経験を積めば、場の空気には慣れて行くだ
ろうが、やはり其処には実力に裏付けされた自信が必要不可欠だったから、桃城の目下
の課題は、新入部員を育て、次代の選手層を固めると同時に、初めてレギュラーになった
同級生達を育てることでもあった。何よりリョーマは、テニスの実力は周囲も認める天の
才を与えられてしまっているものの、リーダとしての資質が欠けているのは否めない事実
だったから、桃城は次代の部長をも育てなければならなかった。
 リョーマのテニスの才は天からのもので、その才故だろう。まるでその代償のように、リ
ョーマは一極集中だ。桃城のようにコート以外で他人のテニスを育て、伸ばすのには向
かない。リョーマのテニスは、それこそ生きて行く為のテニスでもあったからだ。当人にそ
の自覚は皆無だとしても、リョーマはテニスを失ったら生きては行けない。リョーマにとっ
て、テニスは呼吸するのと変わりない程、身近なものだ。それこそ、意識なくされる、生命
維持に必要不可欠なガス交換と変わりない程、極自然に存在するものだ。だから桃城は
勝たなくてはならなかった。それは南次郎が出した、交換条件でもあったからだ。


『手を離すなら、理由も言い訳も一切しないで、今すぐ離れろ』


 その時初めて、桃城は南次郎の腹の底に潜む、刃と牙を垣間見た。それはリョーマに
は未だ持つことのない鋭利な刃で、獲物を引き裂く牙だった。到底太刀打ち出来ないそ
れに、桃城は初めて南次郎の恐ろしさを味わったのだ。身震いしたと言っても、語弊では
ないだろう。
 不世出と謳われた伝説の選手が持つ気迫。正面から見据えられれば、襟首を持ち上げ
られた気分にもなる。身の裡に眠れる獅子を飼っているとはいえ、南次郎から見れば、リ
ョーマは未々子ネコなのには違いない。リョーマのテニスの才が驚異的で、極一部で『小
さき魔物』と呼ばれ始めたとしても、南次郎と比べれば、それは未々子ネコの領域だ。リョ
ーマには未だ刃や牙はない。精々が鉄爪がある程度だ。それでも、リョーマは確かに歩
き始め、世間はその天の才に気付き始めている。それがいずれ、リョーマを傷付けていか
ないようにと、桃城には願うことしかできない。もっともっと、その才が、リョーマに優しいも
のであるように。決してリョーマは、そんなものを望んではいないだろうけれど。



「サイテー」
 リョーマは柳眉を歪めボソリと呟くと、自分の存在を忘れたかのように沈黙を落している
男の背を凝視し、読むこともなく、開いて眺めていたテニス雑誌を放り出すと、白いシャツ
の上からスゥッと口唇を寄せた。
 学園指定の白いシャツの下、アンダーシャツを着ない桃城の褐色の素肌の上には、部
室で散々『秘密の恋人に付けられました』と公言して憚らなかった、爪跡や噛み跡が色濃
く残されている。それがリョーマの情欲を煽って行く。
「越前〜〜〜」
 前触れなく、背後から突然シャツの上から触れられた慣れた感触に、桃城は意識を一
挙に現実に引き戻された。引き戻されれば、膝の上には、既にリョーマの室内で桃城が
居る時は、其処が指定席だと思っているとしか思えないリョーマの愛猫のカルピンが甘え
た様子でちょこんと座っていて、桃城を見上げ、ユラユラ尻尾を揺らしていた。思考が内界
に向かう直前まで、カルピンの相手をしていた桃城の手には、カルピンお気に入りの、黄
色いネコじゃらしが持たれている。
「あんた、女房子供ほっぽっといて、何一人考えこんでんの?」
 リョーマの室内に居る時。桃城の指定席は、リョーマのベッドの縁に背を預けた場所に
有る。だから今ベッドの上に寝転がっているリョーマに、桃城は背を見せている態勢にな
っている。それは去年二人が知り合い、リョーマが始めて桃城をこの部屋に通した時から、変わらない位置関係になっていた。
「お前、俺が何も考えないとでも思ってるのか?」
 リョーマにはきっと見透かされてしまっただろうなと、桃城はリョーマには見えない位置
で、苦笑を深めた。
「どうせ、ロクなことじゃないでしょ」
 白いシャツの上から肩口に歯を立てると、桃城が小さく痛みに呻くのが判り、リョーマは
ひっそりと笑った。表情を崩さない桃城が、痛みに呻くなど、滅多に見られるものではなか
った。そんな些細なことが、ひどく嬉しく感じた。
「もうすぐ、六月のランキング戦のことも、考えなきゃいけないんだぞ」
「嘘つき」
 細い腕が桃城の背後から伸び、スルリと桃城の胸元に回る。
「そんな単純なこと、考えてなかったくせに」
「コラ越前。お前の所為で、俺は痛くもない腹、勘ぐられるんだぞ」
「痛い腹でしょ?」
「誰の所為だ、誰の?」
「秘密の恋人の、所為なんじゃないの?」
 リョーマはクスクス可笑しそうに笑うと、肩口に立てた歯を、今度は首筋に舐め上げるの
に変化させて行く。褐色の肌の上を淫らに這う口唇は、時折ピチャリと淫靡な音を響かせ、歯を立て吸い上げていく。そうすれば、其処には鬱血の跡が残る。それを眺め、リョーマ
は満足そうに笑った。そんなリョーマの仕草を、桃城はやれやれと苦笑を深めているだけ
で、咎めることをしない。
「あんたにこうして跡付けてるの、秘密の恋人なんでしょ?」
 どうせ俺は日陰者だし、リョーマはつい二週間前に吐いた科白を口に乗せ、愉しげに笑
う。それは桃城の家を訪れた時、リョーマが口にした科白で、桃城はだから脱力するしか
なかった。リョーマの機嫌が悪いのはあの日からで、その理由は明確すぎるものだった
から、言い訳など到底出来ないのだ。
「タヌキ、ママって案外、焼き餅焼きだぞ」
 大仰に溜め息を吐き出した桃城は、膝の上で尻尾を振り、愛嬌のある鳴き声を上げて
いるカルピンを抱き上げた。桃城の腕に抱き上げられたカルピンは、親に甘える子供のよ
うに、前足で桃城の胸元に抱き付くような恰好をしている。
「あんたの秘密の恋人は、小生意気な美人の別嬪で、ついでに焼き餅やきだっていうの、菊丸先輩の科白だったけど?だから堀尾達が煩いから、そう言っときましたよ」
 桃城の胸元に抱き上げられたカルピンの頭を、背後から胸元に回った細い指先が撫で
て行くのに、カルピンは益々甘ったれた鳴き声を上げている。それは南次郎が見たら、盛
大に呆れ、指を差して大笑いする構図だろう。どう見ても、親子の肖像だ。
「越前〜〜〜〜」
 今度こそ桃城は本気で脱力し、ガックリと頭を垂れた。
人間スピーカーと言われる堀尾にそんなことを吹き込めば、明日には校内中に桃城の秘
密の恋人の輪郭は誇張して流れているだろう。今まで桃城の『秘密の恋人』説は、桃城
自身の口から語られることはあっても、その性格的な要素を語ったことは一度としてなか
ったから、そんなものがリョーマの口から告げられたというだけで、ことは簡単に転がり落
ちていくのは火を見るより明らかだ。
「それとも、あんたの秘密の恋人は、俺だって公言しても言い訳?」
「ったく。俺は隠せとか、話すなとか、なんも言ってないぞ」
 背後から回った腕を引き寄せれば、軽い躯は簡単に桃城の腕の中に落ちてくる。
リョーマ自身に抵抗が一切ない為、軽い躯は桃城が呆気にとられる程簡単に、ベッドの
上から、桃城の腕の中へと落ちてくる。小作りな頭が腕の中に落ちて来るのに、慌てた
のは桃城の方だ。桃城の上に居たカルピンは、一声鳴いてトンッと桃城の脇に飛び退くと、窓際に置かれたクッションの上に戻って丸くなった。
「危ねぇな、お前は」
 フワリと柔らかく揺れる綺麗な黒髪は、女のような甘い香りなどない筈だというのに、い
つも桃城に甘い香りと感触をもたらしてくる。リョーマが今使用しているシャンプーは、桃城
が持ち込んだものだから、甘い香りなどしないのは判りきっている。けれど桃城にとって
サラリと揺れる髪の質は、リョーマというだけで、何処か甘い匂が纏い付くかのよう感触
が常に漂っている。それは薫といっても、差し支えないものだ。
 細すぎる軽い躯を丁重に受け止めながら、理不尽を言う桃城に、リョーマは呆れて笑った。
「誰が危ないんスか?」
 腕を引き寄せたのは桃城で、其処が無重力空間でもない限り、重力に従い下に落ちる
のは当然の理屈だ。
 それでもリョーマに驚きはない。ベッドからフローリングの床の落差など大したのではな
かったし、受け身がとれない程、反射神経は鈍くない。まして桃城が自分を落す筈がない
と判っていたから、リョーマは桃城の腕に抱き留められるのを待っていれば良かった。
「軽すぎる」
 引き寄せはしたものの、簡単に落ちてくるとは思っていなかったのだろう。桃城は焦っ
たという声のトーンで、膝の上に頭を擡げ、笑っているリョーマを見下ろした。
「あんたのバカ力で引っ張られれば、落ちるに決まってるでしょ。そういうの、理不尽って
言うんじゃないの?」
「嘘付け」
 見上げてくる色素の薄い蒼瞳には、帰り間際、部室で垣間見せたような、リョーマの身
の裡を無自覚に露呈するような不安定さは感じられない。
 リョーマに関しては異様に感覚の鋭くなる、桃城の視えてしまう『眼』に映る不安定さは
感じられない。けれどその反面、コートに立てば誰をも魅了する、研ぎ澄まされた冷やや
かさも今は感じられなかった。
 昨年の全国大会で無敗記録を持つリョーマに対し、極一部のマスコミがリョーマに対し
贈った賛辞は、桃城に内心腹の煮える苦々しい舌打ちをさせ、雑誌を力任せにひしゃげさ
せるものだった。
 『小さき魔物』『幼い獣』当人の意思を無視して与えられた天の才に対し贈られたそれは、確かにリョーマの内側に眠る猛禽の鉄爪を見事に言い当てたものではあったが、リョーマに優しいものではなかっただろう。だから桃城はそんな記事が掲載された雑誌を、腹立ち紛れにひしゃげてしまった程だったが、リョーマには何の感慨もなかったらしい。それはある意味、リョーマには慣れてしまったものだったからだろう。
 コートという戦場の切っ先の上。隔絶された空間で、躊躇いもなく振り下ろされる猛禽の鉄爪。研ぎ澄まされた冷ややかな眼差しが、リョーマを構成する要素をより強く、その存在をソコと位置付けている。けれど今はそれがない。桃城を見上げる眼差しは、何処までも曖昧な色をしている。その曖昧さが、桃城に焦燥を抱かせることを、リョーマはきっと知らないだろう。
「俺がたった一人の男に女にされて喘いでますって、公言しても言い訳?あんたの秘密
の恋人が、俺だって」
 桃城の膝の上に落されている小作りな頭。投げ出された下肢がゆっくり動き、細い片腕が伸びる。鋭利な打球を打つとは思えない瀟洒な指先が、此処最近鋭角になっていく精悍な輪郭を嬲るように撫でていくのに、桃城は半瞬顔を歪めた。
「俺がいつ話すなって言った?」
 頬を嬲るように撫でていく指先は、けれど何処までも曖昧な生温い緩やかさを纏ってい
る。その指先を掬い上げると、桃城は口唇に押し当てた。瞬間、リョーマの口唇から、甘
い吐息が漏れるのが判る。
「そういうの、卑怯って言うんじゃないの?」
 桃城の科白に、リョーマは可笑しそうにクスクス笑っている。その笑みは、娼婦のような
タチの悪さと、子供のような無心さが、綺麗に混融するアンバランスなものだった。
 誰にでも喧嘩を売るような娼婦のタチと、桃城にしか開かれることのない貞淑な処女の
ようなアンバランスさは、確かにリョーマの魅力に化けている。内側から少しずつ、ゆっくり
削り出されて行く脆弱な強さは、いつか壊れてしまうような脆さを時折垣間見せる。それ
は益々研ぎ澄まされ、切っ先を細くする壊れそうな透明さだ。それは桃城に、いつか砕け
散る一瞬さえ、予感させるものだった。
「越前………」
 月の光で磨き上げられていく透明な強さ。テニスに対し脆さなど見せないリョーマが見
せる脆弱な部分。その意味を、推し量れない桃城ではなかった。けれど相反し、壊れて行
きそうな生き物が、腕の中、急速に情欲に色付き変容していくのに、桃城は焦燥を深め、
リョーマを呼んだ。それは何処か乾いた声をしていた。
「越前、頼むから」
 急速に色付く綺麗な眼。熱を浮かせ色付く吐息。腕の中、愉悦に漬かり込んでいく幼い
躯。それは桃城の罪のカタチと在処を指し示すものでもあった。それは常なら、無意識の
領域に隔離されているものでも、こんなリョーマを眼にすれば、意識しない訳にはいかな
かった。けれど其処に後悔は微塵もない。
「頼むから、不安になるなよ」
 幼い躯を開き、男を咥え込む快楽を教え込み、誰の手垢もついていなかった肌に、情欲
の色香を与えてしまった。けれど罪悪と後悔は、桃城の内側で比例してはいなかった。
むしろ日々解離していると言っても、間違いではないだろう。
 未成熟な躯を開けば、それだけリョーマに負担が掛かる。だから尚更愛しく、大切にした
いと思えば、リョーマはことごとくそれを無駄にする。リョーマは桃城の理性を薄く薄く殺い
でいくことに、薄昏い快感を覚えるのだ。
「自信、ないの?」 
 焦燥に精悍な面差しを歪める桃城に、リョーマは小首を傾げ、淡い笑みを覗かせる。
それは雄を知らない処女の可憐さなどではなく、何も知らない憐れな子供のような笑みを
していて、桃城の胸を軋ませていく。
「っんなもの、有る訳ないだろうが」
「詐欺師」
 精悍な貌から漏れ落ちる深い深い苦笑が、リョーマの胸の何処かに静かに落ちる。
年齢には不釣り合いな苦笑が似合うのは、やはり最低的に悪い男だと思うリョーマだった。悪い男だと思えば、不意に莫迦みたいに笑い出したくなる。
 太陽のようなと形容される桃城の笑顔の内側など、所詮見掛けの安易さに告白してくる
女に判る筈もないと、リョーマはひっそりとした笑みを刻み付ける。それはリョーマだけが
見ることを許された、桃城の笑みの在処を知る優越だった。今までなら、リョーマはこんな
優越など、知らずにすんだのだ。
「悪党、その余裕癪癪なのが、気にいらない」
 それこそ女達に散々甘やかされ出来上がった余裕だから、尚更だ。どれだけの女と付
き合い、甘やかされてきった結果なのか、推し量れるものはリョーマにはない。判ってい
るのは、桃城に『女』を教えたのは桃城の従姉妹で、彼女は子供だった桃城の背後にダ
レかを重ね、幼い子供に忘れられないものを植え付けた。そんな相手を桃城は今も大切
にしている。それがリョーマには気に入らない。女に甘やかされ、初めての女を甘やかし
ているのが垣間見えるから、余計にリョーマには腹がたった。自分を壊れ物みたいに扱う
くせに爪が甘いと内心舌打ちする。その機嫌の悪さが、桃城の『秘密の恋人』説を裏付け
させる結果を生む情事の跡だった。桃城もそれを知っているから、リョーマを咎めたりはで
きなかった。むしろそれまで、桃城がどれだけの人数の女に告白されてきても、淡々と笑
っていたリョーマからは想像もできない嫉妬のカタチだ。
「あんたって本当、始末に悪い男」
 伸ばした指先の内側を、ゆっくり手首に向かい伝い降りていく慣れた口唇の感触に、白
皙の貌が急速に色付いていく。色素の薄い蒼眸に、官能の色が綺麗に浮かび上がり、そ
れは桃城を魅了する。
「ねぇ?桃先輩」
 リストバンドをずらされ、手首の内側の一点に痛感を感じた瞬間、淡い跡が薄く残された。リョーマに、見える位置でのキスマークなど残さない桃城が、それは初めて付けたもの
だったが、その跡も左手首ではリストバンドに隠され、それは誰の眼にも触れることはな
いだろう。その無用な気遣いに、リョーマは呆れた。こういう眼に見える部分で、桃城は
無駄な気遣いをしては、リョーマを呆れさせる。それは時には意図している部分もあるし、
無自覚な部分もある。今はどっちだろうかと、リョーマは面白そうに桃城を見上げた。
「俺を女にしたのは、あんたなんだから」
「………お前もちっと、言葉選ぶとかしないか?」
「事実でしょ?一年前、俺はこの部屋で、あんたに犯されたんだから」
「お前なぁ、事実を捩じ曲げて、物騒な科白を吐くな」
 リョーマの物言いに、桃城はガックリと項垂れる。今の今まで見せていた何処か不安定
な気配が、今はリョーマから消えている。反対に現れたのは、挑発を滲ませ男を誘いこむ
ような、何処か娼婦の気配だ。それは確かに、桃城がリョーマに植え付けてしまった『女』
の淫らさだ。
「この部屋で、あんたに犯されて女にされたのは事実でしょ?」
 死海に等しい胎内に吐き出され、死んでいく桃城の生命の残骸。吐き出され、内股を伝
い流れるその残骸に、快楽と等分に分け与えられる恐ろしさの在処を、きっと桃城が知る
ことは、永久にないだろう。
「犯されたってのは語弊だろうが。どっちかってと、俺的には、手を出させられたが正解だ
ぞ」
 大切に、それこそ周囲が呆れる程、大切にしてきた。大切だから逆に手が出せない矛
盾を孕みながら、一定の距離を置き交遊関係を続けてきたそれを、焦燥に塗れながら、
距離を縮める為、一歩を踏み出したのは、リョーマだった。
 幼い躯を開く罪悪と、痛みを与えてしまう怖さに、一年前の桃城は、できる限り情欲を抑
えていたつもりだった。取り敢えず付き合っているという盾を前に、ケダモノさながら、リョ
ーマを襲いたくはなかったからだ。けれどそんな桃城の忍耐を、あっさり無駄にしたのはリ
ョーマの方だ。
 取り敢えず付き合ってもいいという境界線は、きっとあの時、互いの手により取り外され
たものだろう。そして踏み出した一歩は、未だ底が見えない。
「それでも、俺に手ぇ出しのは、ア・ン・タ」
 誘ったのは自分だ。キスしか仕掛けてこない桃城に焦れ、少しばかりの焦燥に駆られ、
桃城を挑発した自覚はリョーマにも有る。そして痛みを超えた場所で味わう官能の深さに
襲われ、愉悦に崩壊する心地好さを教えられてしまった。それでも未だ当時は、退路は
有るつもりになっていた。それが崖っ縁に立ち尽くすものなど気付かずに。振り返れば、
断崖絶壁に立っていた。何かにちゃんと答えを出した時、その背後にはまた違う道が現
れるのかもしれない。それは逃げ道などという優しいものではなく、もっときっと辛辣なも
のだと、漠然とリョーマには判っていた。どちらにしろ、退路などもう何処にもない。
「怖かったぞ」
 緑が飛ぶ淡い陽光が差し込む室内で、組み敷いた細い躯。
部活の着替えなどで見ているから、リョーマの細さは判っているつもりだった。けれど実際
組み敷いてしまったら、予想外の細さに、壊してしまいそうな恐ろしささえ抱いた。それは
今も桃城の内部に持ち越され、リョーマを呆れさせている。
「勝手に怖がってれば?」
 気遣われることが何より嫌いだと知っているくせに、関係を重ねれば重ねた分だけ、桃
城は無駄に優しくなっていく。それが桃城の慣れた手練手管だと判ってしまうから、リョー
マは尚更気に入らなかった。無駄な優しさを与えられるくらいなら、痛みの方が幾らもマ
シだと思えた。だからリョーマは時折、どうにもならない痛みを欲しがっては、桃城を怖が
らせる。
「俺を女にして、男咥えこむこと教えたくせに、本当に莫迦」
「………咥えこむってお前……」
 もう少し、もう少しでいいから、穏便な表現を選んでくれと、桃城が脱力してしまったとし
ても、罪はないだろう。
「足開かれて、下の口に咥えるのは、上と同じだから。それとも突っ込まれるとか、押し込
まれるとかの方が好み?」
 脱力する桃城を楽しげに眺め、リョーマは更に追い討ちを掛けるのも忘れない。
「お前……事実を端的に告げれば正論って訳じゃないんだぞ」
「何それ?難しい言葉並べてみたって、することとやってることに落差はないでしょ?どれ
だけの綺麗事並べたって、どんな表現したって、あんたと俺のセックスの意味は変わらな
いんだから。あんたって本当、綺麗なものに包み込むその癖、直してよ。少なくとも、俺の
前でしないで」
「アホ、直せるか」
 それこそそれは、リョーマの前だけでしか桃城はしないのだから、直せるものは何処に
もない。
「ねぇ?自信ないの?」
 ねだるように、残る片腕が桃城に向かって伸びる。
最初は、ただの好奇心だったかもしれないし、年相応の興味も入り交じっていたのかもし
れない。キスしかしてこなかった桃城の忍耐を苦々しく思い、セックスなんてただ気持ち
良くなる為の手っとり早い手段の一つで、それは幾重か存在する中の一つの方法だと桃
城を挑発して。性欲処理と変わりないと笑っては、桃城を哀しませながら溺れていった。
ちょっといけない関係を結んでしまっただけの先輩後輩なら、互いを巧く道具として使いあ
える関係だったら、苦しまずにすんだ。テニスだけを、求めていられた。
 人肌の温もりの穏やか差に包まれる安堵など知らなければ、もっとうんと強く立っていら
れた。無機質な強さを身に纏い、戦場の上に立っていられた筈だ。強さは優しさなのだと
教えられることもなければ、切なさに胸を焦がすこともなかった。
「お前こそ、不安になるなよ」
 リョーマに不安を与えない自信はあるつもりだった。過去にどれだけの関係を、どれだけ
の人間と紡いできたとしても、リョーマと引き換えられるものは桃城には何一つなかった。
大切にして、それこそ宝物同様の扱いをして腕に包んでしまえれば、もっと安心していら
れる筈だった。けれどそんなことをリョーマは何一つ望まないことも判っているから、桃城
は未来を見据え、歩き出すしかなかったのだ。リョーマと同じ光景が見たいなら、そんな
子供の絵空ごとを信じて願って、夢物語にしない為には、歩いて行くしかなかった。
「不安になんて、なってないよ」
 桃城の科白に、珍しくも深い苦笑がリョーマの口唇から漏れる。少なくとも、桃城が告白
される度、終わるものを予感し怯えていたら、神経は擦り切れてしまう。第一桃城から、そ
んな下らない不安など、リョーマは一度として与えられたことはない。不安は常にもっと違
う場所から訪れてくるものだ。
「壊れものみたいに扱って、それこそ宝物みたいにガラスケースに収まってれば、きっと
あんたは安心するんだろうけど」
 それでも桃城は、そんな莫迦な男ではないのも判っている。無機質な宝物みたいに大
切にしまい込むだけで満足しているなら、リョーマとの関係は、とっくに終わっている筈だ
からだ。
「俺は、宝物じゃないよ」
「判ってるよ」
 宝物でいてくれたら、心はもっとラクだったに違いない。
けれど綺麗なだけで、無機質な光を放つ宝石だったら、きっと此処まで大切にはできなか
っただろう。意思を持って走り、研ぎ澄まされていくばかりの切っ先の上に凛然と立つ姿
は、紛れなく、リョーマがリョーマとして回帰される場所だ。
「俺に男を教えたのはあんたなんだって、ちゃんと覚えといてよ」
 男を教えられ、恋を教えられた。『恋』という言葉は知っていても、中身は何一つ知らな
かった自分に、恋うる感情を教えた罪は重いと、リョーマは引き起こされた腕の中、綺麗
に笑って見せた。
「繋ぐ心だってさ」
 途切れない糸のように、紡ぎ出されていく戀。知らなければ、心は安息でいられた筈だ。胸が軋み捩れる焦燥など知らず、テニスだけを信じ、無心に強さだけを求めていられた
筈だった。いつか訪れるだろう喪失の予感に怯えることもなく、脆い足場など、意識しなく
てすんだ筈だった。
「リョーマ……」
 クスクス切なげに笑うリョーマに、桃城は堪らず柔らかい髪を掻き乱し、少しばかり乱暴
に小作りな頭を肩口に引き寄せた。
「ねぇ、俺は、知ってるから」
 願って手に入るものも、辿り着ける場所など何処にもない。いつかこの恋が、錆び付い
てしまっても。暗闇の中を泳いでも辿り着きたい場所は、一つしかない。それはきっと、桃
城がそとうと願ってくれる場所ではないけれど。
「お前、本当、莫迦だなぁ」
 ネコッ毛の柔髪をグシャグシャと掻き回し、桃城は肩口に引き寄せた頭を更に引き寄せ、しみじみ溜め息を吐き出した。
「桃先輩」
 引き寄せられた肩口に甘やかに白い歯を立て、リョーマは桃城を見上げた。
「しよ」
「疲れてないのか?」
 全国大会優勝を目指すテニス部の練習は、日々激しさを増して行く。主力選手であり、
手塚から『青学の柱』という重責を引き継いだリョーマの負担は、桃城が肩代わりできな
い重さを持っている。疲れてない筈はなかった。それでなくても、昨夜もリョーマは激しく
求めてきたのだから。
「疲れた時程、欲しくなるもんでしょ」
 あんたは違うの?
リョーマはクスクス笑うと、褐色の首筋に顔を埋め、ピチャリと淫靡な音を立て、自分とは
比べようもないしっかりした骨格を持つ桃城の首筋を往復する。
 疲れた時程、互いの腕で癒されてしまいたいと思うのは、恋人同志なら当然のものだろ
う。与えるだけでも、与えられるだけでも成り立たない関係の中、疲れた時程、それはど
うにもらない衝動さえ伴い、欲しくなる。
「俺の中に、入りたいでしょ?」
 淫靡な笑みを張り付かせ、リョーマの細い腕が、桃城の股間に伸びた。
「越前〜〜〜」
 リョーマの挑発に、桃城は項垂れると、少しだけ乱暴に細い躯をフローリングの床に引
き倒した。
「挑発して、知らないぞ」
 疲れたの意味が判らない桃城ではなかったから、苦笑しつつ、組み敷いた躯の上に慎
重に伸し掛かった。躯より何より、リョーマが疲れたのは精神だろう。肉体的な疲れなら、
リョーマが求めてくるのは、最終的に番うものでも、経過が違うのを桃城は知っていた。
「だからあんた最低の莫迦って言うの。いつ俺が手加減してなんて、言った?」
 与えられるなら、柔らかい優しさより、誰にも与えていない痛みを願う自分の歪んだ独
占欲の在処を、桃城はきっと知らないのだろうと、リョーマは薄昏い愉悦に溶け込む笑み
を漏らした。
「俺は人形でも、宝物でもないんだから」
「判ってるさ、だから心配なんだよ」
「俺を、あんたで犯して」
 冷たいフローリングの床の上に引き倒され、気遣いながらのし掛かってくる桃城に、リョ
ーマは生温く下肢を開き、恋しい男を挟み込んで、切なげに腕を伸ばした。


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