Komm, du suse Todesstunde 
来たれ汝甘い死のときよ

 


 永遠に続く孤独というものを、一体どれだけの人間が知っているだろうか?不老不死と言えば聞こえはい
いが、それは言い換えれば、死ぬこともできない、と言う意味だ。
 一人時間の流れに置いていかれ、幾重もの生命を見送くることしかできない果てのない絶望を、一体誰
が知るというのだろう?老いを恐れ、死を恐れ、人は永遠の命を望む。その愚かしさは、本当の孤独と絶望
を知らないからだ。
 冷えつくような孤独、底のない絶望。渇望する死とは裏腹に、腹の底が干からびていく餓え。それを満た
す為には食事が必要であり、それは人間の血でなければ補えない。血は生命の源と言うが、それはどん
な生命にとっても、それはたとえ自分みたいな化け物にとってさえ、確かに生命の源なのだ。
 遥か昔、帰り道さえ見失った故郷には、その代用となる生気溢れる薔薇があったが、人の世の薔薇は活
力にはならない。触れれば美しい花弁はあっと言う間にはらはらと萎れ、だからこそ自分たち吸血鬼は薔
薇には触れられない。むしろ人外の者に対する魔よけの役割を果たし、下手に触れれば枯らしてしまう可
能性があった。
 誰も彼も、愛を囁くその口で、結局は自分をあっさりと遺いて逝くのだ。そう、例え彼自身が人外の存在の
ような静雄だって、例外ではないのだ。自然の断りである『死』というものからは、逃れられない。だからこそ
人は永遠の命を望み、日夜その為の下らない研究を繰り返している。
 系譜の中でも取り分けて稀代とされ、法王庁にすらその名を轟かせている英国王室の特務機関に属する
最高峰のエクソシスト。それが養い子である彼――シズオ・ヘイワジマだ。
 伯爵の階位を受けているが、当人にその気はなく、片田舎のマナーハウスに引きこもり、勅命がない限り
は悠々時点の生活を送っている。勅命があってさえ、心底面倒そうな気乗りしない様子で現場に赴く。その
くせいざ異端の血を嗅ぎ分けると、水を得た魚みたいに、人外の膂力を発揮する。その人外の力は、異端
の力だ。
 軽々と大木を持ち上げる鋭い腕力で、城壁を崩すことも容易くできるし、脚力で飛ぶように跳躍することも
できる。対異端に特化した躯は、けれど彼自身が異端の力を持って生まれている。
 人と魔物の境界に佇み、ぎりぎり人間の部類に属している。というくらい、その膂力は人外だ。それを理
解しているからこそ、静雄は滅多に人前には姿を曝さない。だから特務機関とはいえ、他の者と列すること
はなく、静雄が心を許しているのは、溺愛している弟の幽と、あとは昔なじみの友人が数人、彼の直属の
上司であるトムと、後輩の女くらいだ。
 そのあまりの人外ぶりに、周囲は英国のお家芸である妖精の取り違え――チェンジリングを疑ったくらい
だ。けれどそれこそまさしく連綿と受け継がれてきた家系の証明みたいなものだった。
 最初彼と出会ったとき、あまりの人外ぶりに、何処か別の血でも混じっているのかと疑ったが、吸血鬼で
ある臨也に判らないはずがなく、彼は間違いなく人間の子供だった。
 彼との出会いは偶然だった。幾重もの人間を見送り、独り世界中を彷徨い、渡り歩いてきた。それなりに
気ままに暮らし、ときには恋の駆け引きのような遊びをして、気の遠くなるような孤独の中で、滅びることの
ない絶望を遣り過ごしてきた。それでも、時折飢餓のように襲い掛かってくる死に対する羨望と憧憬は、どう
したって払拭できなかった。
 死ぬこともできない躯に対する言いようのない孤独。人間が欲する不老不死の源のような忌まわしい血
が、自分の中には流れている。自分は死ぬこともできない絶望の中をあてもなく彷徨うことしかできないと
いうのに、人間は死なない、と言う一点だけに執着して、怪しげな不老不死の研究なんてしている。その研
究に、他のエクソシストが捕まえた怪異の連中が材料にされていることも知っている。
 ヴァンパイアである自分が捕まったら、その末路はどうなるか知れている。静雄の危惧もそこにあることも、知っている。けれど、たとえどんなことをされても、自分は死なない。銀の弾丸で打ち抜かれたとしても、
死ぬことはできない。そんなもので死ねるくらいなら、とっくに自分で実行している。
 生粋の血は、自分から銀の脅威をも取り去っている。通常、ワーウルフやヴァンパイア、妖精、魔物の類
は、銀に弱い。けれど中にはそれさえ効かない者もいるのだ。だから死なないし、死ねないのだ。それをど
れほど渇望しようとも。死は憧憬と羨望の果てにある、決して手の届かない異界と同じだった。まるで蜃気
楼だ。
 その中で、出会いこそ偶然だったが、その偶然さえ用意された運命だったんじゃないかと思えるほど、稀
代のエクソシストの血を持つ静雄は、臨也にとっては唯一の救いであり、希望であり、願いそのものだった
と言える。
 静雄に会うまでの臨也は、使い切ることのできない絶望の中を彷徨っていた。その絶望を埋めるため、虚
しいばかりの享楽に興じていた。まるで埋まらない欠けを必死になって埋めようと足掻き、もがいて、人から
人に渡り歩いて彷徨い、絶望を享楽に摩り替えていた。
  誰もがハッとするほど美しい瀟洒な容姿は、貴族社会に溶け込むことは容易だった。彼らは暇を持て余
し、怠惰な時間を満喫するだけの生き物だ。
 臨也は長い世紀を渡り歩いて生きてきただけに、物事の理に明るく、弁がたった。だからいつ何処でどん
な場所に居たとしても、臨也は人間の社会に溶け込むことが容易だった。まさしく人間は臨也にとって、保
護色と同義語に左右する。気配を殺してその中に埋没することも、逆に気配を押し出して存在を固定させる
ことも、臨也が苦労したことはない。
 ヴァンパイアである臨也には、人を魅了する魅力に溢れ、光の加減で色を変える独特の虹彩で人の深奥
を覗き込み、催眠をかけることは造作もない。そうして人間社会に溶け込み、恋の真似事みたいな真似をし
て、虚しい享楽に興じていた。その相手は、純真無垢な乙女だったり、暇と時間を持て余し、金を浪費する
貴族の奥方だったり。色物好みの貴族だったり様々だったが、臨也が愛した人間はいない。
 不老不死であるが為に、長い時間を一箇所に留まることはできず、あちらこちらを転々として、それに疲れ
てロンドンから、片田舎の森にでも引きこもろうか、と考えていた矢先に静雄に出会った。あの出会いは運
命だったのだと、使い古された言葉で今でも思う。
 当時静雄は、母親や弟、数人のメイド、フットマンと一緒に、マナーハウスから離れ、ロンドンのメイフェア
にある別宅に遊びに来ていた。彼は伯爵家の嫡子であり、当時はただの遊びたい盛りの好奇心旺盛な子
供だった。
 静雄は母親とロンドンに買い物に来ていたのだ。そのとき弟の幽は、静雄との年齢差を考えれば、おそら
く三、四歳だっただろう。
 産業革命真っ只中のイギリスの都市は、貧富の差が激しく、ロンドンは物騒極まりない場所になっていた。
 連日マナーハウスやロンドン市内の別宅で晩餐会が催される一方、その日食べる物にさえ困る貧しい人
間は後を絶たず、連日、強盗や殺人が発生していた。後に連続娼婦殺人事件として世紀を超えて有名に
なる切り裂きジャック事件も、産業の反映と同時に、社会情勢の不安定さを露呈した事件だった。
 ロンドンに遊びにきていた静雄達が襲われたのは、そんな物騒な時代だった。産業革命の真っ只中で、
幾つもの工場が立ち並ぶロンドンの空は、高い煙突から吐き出される煙で煤を刷いたよう重い色に染まっ
ている。食うや食わずやで、ぎりぎりの生活を強いられた市民の上に、胡坐を掻いている貴族が狙われて
いた。丁度静雄達はメイドとフットマンしか連れておらず、物騒なロンドンでは無防備な状態だった。
 結果、静雄の人外の力は母親や幼かった弟を守る為、初めてその兆しを見せた。
 押し入ってきた人間を力任せに投げ飛ばし、けちらした。圧倒的な力に戸惑い、動揺し、自分に一体何が
起こっているのか理解できない子供は容易にパニックに陥った。コントロールできない力を持て余して、犯
人に殴られ屋敷から連れ出された。強盗に失敗した腹いせに、人質にして、身代金を要求するつもりだった
のだろう。
 丁度その頃、臨也は田舎に向かう為、調達した馬車に乗って移動中だった。ヴァンパイアだけに変身能
力もあったが、長いことその力を使う必要もなかった為、移動手段はもっぱら馬車や鉄道だった。人間の中
に溶け込むには、人間と同じ生活をする必要があったからだ。そして不運にも、臨也はその犯人と鉢合わ
せすることになる。
 貴族の屋敷に押し入った犯人たちは、偶然通りかかった馬車を乗っ取り、そこに居合わせたのが臨也だ
った。特に抵抗するのも面倒で、なるように任せていたから、犯人達の要求には素直に従い、
御者に指示通り馬車を走らせるように命じ、臨也は彼らを観察していた。
 人数は三人。その中の一人が、まるで荷物のように子供を抱えていた。身なりから、貴族の子供だと推
察できたが、人質というには随分乱暴な扱いだった。尤も、人質は金を取るための道具にすぎないから、大
事に活かしておく必要はない。それを考えれば、殺さないだけましだったのかもしれない。
 外見から推察するに、子供は六歳か七歳くらいだった。幼い躯に荒縄を巻かれ、荷物のように馬車の床
に転がされている。市内から外れていく道は当然補整などされておらず、揺れる馬車の中を縄で巻かれた
子供は左右に転がっていた。そんな子供を見る臨也の視線はひんやりとして、無残にも浚われた子供に対
する興味や憐憫もまったくなかった。この子供に待っている未来は、死か、あるいは死ぬより過酷な現実だ
ろう。営利目的の誘拐の場合、生きて親元に帰されるケースは殆どない。温室育ちの貴族の子供が、厳し
い世間を生き残れるはずがない。臨也はそう思っていたし、特に助ける意味も見出せず、ただ揺れる馬車
の中で、荷物のように転がる子供を淡々と見ていた。
 そんなときだった。一際大きく馬車が揺れ、派手な音を立てる。そのとき子供は軽く呻き、ぼんやりと瞼が
開いていく。
 まろい子供の眼がゆるゆると開いていくのを見たとき、犯人たちは大袈裟なくらい慌てていた。たかが非
力な子供一人に一体何を怯えているんだ?と彼らを観察していた臨也は、床に転がる子供と眼が合った。
瞬間、鋭く吐息を飲み込んだ。
 寝ぼけ眼の子供の視線とあったとき、臨也の周囲から一切の音が消え、周囲を流れる光景も、大袈裟に
慌てる男達も、臨也の視界から消え去った。静雄以外の全ては色褪せたモノクロになり、揺れる馬車の振
動さえ消え失せる。狭い密室の中、臨也にとっては静雄だけが唯一生きた存在になった。
 薄茶の髪、意思の強そうな金茶の瞳。ぱたぱたと瞬いた視線がまっすぐ見詰めてきた。そのとき臨也に
は、すぐに理解できた。
 ――この子供は、俺を殺すことのできる子供だ……。
 根拠もなければ、確証もない。ただの勘に過ぎない。けれど確信できた。
 ――俺を殺せる子供……。
 それはまさしく運命の相手だった。何世紀も生き続け、絶望に溺れ、孤独に心が悴んで凍えてしまいそう
になって初めて見つけた、それは自分にとっては希望であり、救いであり、ヴァンパイアを殺せると言われ
る銀の弾丸さえ効かない臨也にとっての、唯一の相手。それは宝石と大差なく、臨也にとっての銀の弾に
等しい。
「やっと……」
 やっと見つけた…。やっと出会えた…。やっと、やっとだ。
 そう思ったとき、泣くことなど当に忘れてしまった赤い双眸から、ほろりと一筋の涙が伝った。それを子供
は不思議そうに見ている。物怖じもせずに、ただ不思議そうに瞬く瞳は、きょとんとしている。そしてそれか
ら、不思議そうな視線同様の声が漏れた。
「ないてるの?」
 どうして、ともココはどこ、とも、訊かず。子供は金茶の双瞳をまっすぐに向けてきた。自分の置かれた状
況を、子供がすぐに把握できる筈もなく、無防備な様子でキョトンとしている。そしてやっと自分の置かれた
状況を思い出したらしく、僅かに顔が歪む。
「……ぼく……?」
 そうして周囲の異様さにきょろきょろと見回して、浚われたときの記憶を思い出したのだろう。強張る犯人
達を見た途端、劈くような悲鳴が、狭い車内に響いた。まるで地の底から揺さぶりたてられるかのような、
悲しみに満ちた慟哭が狭い車内に反響する。
「あああああ……ッ!」
 発狂したような悲鳴を上げた瞬間、子供の自由を封じていた荒縄がぶちぶちと音を立て千切れ、子供は
自分の正面に座り、強張っている大人たちに小さい腕を振り上げた。
「こ、この化け物!」
 犯人たちが怯えていた理由が、そのときになって漸く判った。
誘拐してきた子供は、ただの子供ではなかったのだ。
 振り上げられた小さい手は、けれど非力なものとは無縁で、威勢のまま狭い場所の壁にぶち当たり、そ
れはそのまま止まることなく、馬車の壁に風穴を開けた。
 鋭い音を立て風穴が開き、御者が慌てて手綱を取ったが、馬が驚いて暴走しだす。それでも静雄の怒り
は収まらないのか、自分自身の力にもパニックを起こし、やみくもに暴れている。
「おかあさま、おかあさまは?カスカはっっ?」
  叫ぶ声は、高く舌足らずな子供の声だった。突然理不尽な力によって屋敷を襲われ、母親から引き離さ
れたのだろう。やみくもに暴れているところから察するに、人外の力はコントロールできていない。彼自身が
パニックを起こし、男達に力を振るっている。
「おかあさまは?カスカは?」
 子供はパニックに陥りながらも、自分を屋敷から連れ出した男達を見据えている。それはたかだか六、七
歳の子供の持つ視線ではなかった。
 有無を言わさない切っ先のような鋭さ。周囲を圧倒する膂力は、それこそ人外の物に近しい。それはある
意味、彼の血統の正しさを証明しているようなものだ。尤も、それが英国貴族の中にあって、正真正銘、ブ
ルーブラットの証明になるのかはまた別の話しだ。
「エクソシスト……」
 臨也は幼い子供を、呆然と凝視する。
 法王庁には表に出ない、法王の勅命にのみ動く特務機関が存在する。
 悪魔に吸血鬼、人狼、妖精。人間に害を為す、対異端に対する特化した力を持つ者達が集まる討伐集団
。彼らはありとあらゆる方法で、異端であるアンチキリストを葬り去る。その特務機関を模写した機関が、英
国王室には存在する。
 女王の勅命によってのみ動く機関。英国にはこの手の機関が幾つか存在する。彼らは常に裏社会を掌握
し、統治している。女王の番犬と呼ばれ、裏社会を掌握し、管理している伯爵家もあれば、対化け物を相手
にする特務機関も存在し、おそらくこの子供は、その家系だろうと、臨也は子供を凝視する。
「こんな子供が……」
 俄かには信じられなかった。長い間生きてきて、臨也も何人かのエクソシストと会ったことがあるが、誰も
臨也の正体を見破れる者はいなかった。それくらい臨也は当たり前の顔をして、人間社会に溶け込んでい
た。アンチキリストに対する機関とはいえ、万能ではない証拠だろう。女王直属の特務機関は、法王庁のそ
れとは違い、戦闘力や知識を比較すれば、歴史が浅い分だけ劣るのも止むを得ない。けれどこの子供は明
らかに違う、と臨也のヴァンパイアの血がざわざわと歓喜に打ち顫え、騒いでいる。
 けれど子供は臨也の歓喜を知らず、自分たちを襲った男達を見据えている。
 その視線と悲鳴は、お前たちが殺したのか?と問い掛けている。
自分の大切な家族を、お前達が奪ったのか?と。 
 そんな静雄の視線に、犯人達は怯えきっていた。
「お前達が!」
 ドンッ、と反響した鋭い音が、馬車に二つ目の風穴を開けた。
「ひぃっ」
 幼い拳は男達の頭上を掠め、ブルネットの髪がはらりと散る。
「おまえたちが、おかあさまとカスカをッ!」
 小さい足が、恐慄する男の腹に命中する。ぐええっ、と蛙が押し潰されたような醜悪な声を上げ、男が血
反吐を吐いて気絶する。残り二人が心底怯えきって、失禁しそうな様子で慄然となっている。おそらくは失
神寸前だろう。その男達にも静雄は容赦なく蹴りを入れる。二人目、三人目と、蹴りをいれ、気絶した男達
の胸倉を掴み揚げると、容赦なく揺さぶった。
「おかあさまとカスカを……」 
 殺したのか?とは訊けない問いだったのだろう。言葉に出してしまえば現実になってしまいそうで、きっと
怖かったのだろう。
 幼い子供は気絶した男達を射殺す視線で睨みつけ、再度拳を振るおうと小さい腕を振り上げた。けれどそ
れは男達に到達する前に静雄に制された。
「はなせ!」 
 やみくもに暴れる力は、ヴァンパイアの臨也をしても容易には抑えられない怒りに溢れ、抗っている。人外
に近しい膂力をコントロールできず、感情のままに暴走する静雄を、臨也は背後から抱き締めることで制止
させる。
「やめなさい」
「ぼく、僕は……」
「キミが手を汚すこともない」
 背後から抱き締めた躯から、見る見る間に怒りが萎み、次にはわんわんと泣き出した。そんな小さい躯を
、臨也は優しく擦ってやる。
「僕、僕もう……」
 戻れない!と血を吐くような声が慟哭に混じる。人外の力を持ってしまった。自分は突然化け物になって
しまったと信じているらしい静雄は、臨也の腕の中でわんわんと泣き喚く。それを臨也は静かに宥め、落ち
着くまで待ってやる。男達は気絶し、御者は一体どうしたらいいかと、オロオロして臨也の言葉を待っている。
 暫くして静雄はやっと落ち着いたのか、痛々しく泣き腫らした眼で臨也を初めてまともに見た。
 一体何処の誰なのか?と言う疑問が初めて静雄の中に湧いたのだろう。訝しげに見上げてくる金茶の双
瞳に、臨也は安心させるように、莞爾と笑い掛けてやる。
「俺はイザヤ、イザヤ・オリハラ」
「……よげんしゃの名前といっしょだ」
「ふふ、そうだね」 
 けれどその正体を知ったら、君はどうするんだろうね?
 預言者の名を掲げた自分の存在が、それとは対極に位置する化け物なのだと知ったら、エクソシストの血
を受け継ぐこの幼い子供は、自分を殺してくれるだろうか?
「君の名前は?」
「シズオ。シズオ・ヘイワジマ」
「そう。シズオだったら、じゃぁ、シズちゃんね」
「?」
「一緒に来るかい?」
 突然化け物になってしまった自分は、もう家族の下には戻れない。そう思っている静雄に付け込むのは容
易だった。
 人外の力を見ても驚かず、怯えず、優しく抱きしめ笑ってくれた自分を静雄が選ぶだろうという自信が、臨
也にはあった。そして静雄は臨也の思惑どおりになった。
 暫く躊躇った後、小さい手が臨也に差し出された。
握ってきた掌の小さい感触と、温かいぬくもりが、じんわりと躯に行き渡る。人と接触して初めて、温かいと
感じた。優しく握り返してやると、静雄は安心したように笑った。
 ――あの頃はあんなに可愛かったのになぁ……。
長い懐古に、意識がゆっくりと浮上するのを感じる。そろそろ静雄が戻ってくるのだろう。気配が随分と近付
いている。きっと不機嫌になって帰ってくるなと言うことが判るから、臨也は苦笑を禁じえない。そういう部分
が、静雄は昔から変わらない。
 親元に戻り、伯爵家の嫡子として教育されたのだろう。人前であからさまに不機嫌な表情を曝すことはな
いが、その分八つ当たりのように、静雄は臨也の前で素顔を曝す。それを嬉しいと感じたのはもうかなり前
だったが、それは今も変わらない。静雄の素顔を見る位置にいるのは、正直嬉しい。何せ手塩にかけて育
てたのだ。自分を殺す相手を。自虐的だとは思うが、当時の自分はそれくらいに疲れていた。今はもう少し、もう少しだけ、静雄との時間を楽しんでもいいか?と思える余裕がでてきた。けれどそれは諸刃の感情だ
ということにも気付いていた。
 静雄と過ごす時間は優しくて、つい忘れそうになってしまう、色々なことを。彼を育てた理由も意味も。愛し
合う行為も何もかも。これは代価だ、先の時間に対しての、いわば保険だ。
 カツン、と冷たい音が反響する。かつて地下墓地だった地下室は、底冷えするような、冷え冷えとした空
気に支配されている。
 ゆっくりと階段を降りてくる独特の音。その足音に荒々しさは感じられない。けれどピンと張った糸みたい
に冷えた空気が、静雄の機嫌の悪さを伝えてくる。そのあからさまな様子に、臨也はうっすらと笑みを浮か
べた。
 ――変わらないなぁ。
 手元で育てていたときから、静雄は感情の起伏が激しい子供だった。喜怒哀楽を小さい躯一杯で表現し
ていた。特に突然変異に等しい膂力に対しての戸惑いと恐れから、それを巧くコントロールできなかった時
期は、感情の起伏がすぐに膂力に顕れてしまい、静雄自身がたいそう狼狽していた。明らかに人とは違う
膂力に、人との接触を極端に恐れ、当時の静雄の遊び相手は、森の動物達だけだった。
 ウサギにキツネ、小鹿にリス。そういった小動物相手に苛立ちを募らせることもないから、静雄は彼らとは
よく遊んだ。暮らす森の、更に奥地に生息するクマも時折混じって遊んでいたくらいだ。
 幼い当時、人外に等しい静雄の力は、感情の起伏とワンセットだった。
 当時静雄を連れて移り住んだ土地は、市街地から離れた小さい屋敷だった。周囲を森に囲まれた場所は、何かとうってつけだった。特に力が顕現したばかりの静雄を周囲から隠すには、丁度よかった。静雄にはそこで少しずつ感情と力をコントロールする術を教えて行った。いずれ静雄は親元に戻す。それは臨也の願
いを叶えるためには必然であり、だからそれまでの間、臨也は自分の諸々の知識を静雄に分け与えた。い
ずれ親元に戻ったときに、貴族の嫡子として恥ずかしくない知識と所作は、どうしたって必要だったからだ。
 そして静雄を育て、泣いて嫌がる彼を親元に戻し、そしてエクソシストとして、父親の後を継いだ静雄に殺
してもらえると思った矢先、静雄は思いもかけない賭けを持ち出してきた。
「ちょっと甘やかしすぎたかな〜」 
 さっさとその役目をまっとうして、異端を排除するかと思えば、こうして傍に置いて生かしている。こんなこ
とが外部に漏れたら、静雄自身が責めを負うというのに、静雄は飄々と周囲を欺いている。昔はそんな子
供じゃなかったのに、と柔らかい気持ちで吐息する。胸の奥が擽ったくなるような、そんな気分だ。邂逅は
いつだって、臨也に相反する感情をもたらしてくる。優しく温かい、擽ったくなるような気持ちと、それと同じく
らいの切なさと痛み。
「一体何考えてるんだか……」
 ――死が二人を分かつまで一緒にいたら、なんて……。
 静雄が臨也に出した条件はたった一つだった。
「おい、イザヤ、手前どうしてこんなところで寝てんだよ」
 邂逅に浸っていると、不機嫌も露な声と同時に、ガン、と銀製の棺の蓋が威勢よく蹴り上げられる。その
瞬間、暗い棺に差し込めた光に、臨也は眩しそうに瞳を細めた。
「乱暴はダメだって、あれだけ教えたのに」
 イケナイ子。と言外に滲ませれば、静雄は下品に舌打ちする。
地下墓地の至るところに掲げられた蝋燭は淡い光を灯し、冷たい石の床の上に長身の静雄の影を描いて、
ゆらゆらと揺れている。
 光の差さない地下室の、更に密閉された棺の中で眠って一日は経ったろうか?明度が淡いとはいえ、突
然の光は瞳にきつい。けれど臨也が何より眩しいと感じたのは、孤高の王のような、鬣みたいな静雄の金
色の髪だった。
「舌打ちもダメ。貴族のやることじゃないよ」
 くすくす笑うと、更に静雄の機嫌が下降する。それが楽しくて笑みを深めれば、静雄は手にしていた獲物
を、無造作に冷たい石の上に放り出した。
「あーあ、大事な商売道具なのに。物は大切にしなさいって、教えたのに」
 サンクトゥスが刻まれた金色の十字架は、長身な静雄の身長を遥かに凌ぐ重量のあるものだ。先端が鋭
利に尖っており、対異端に対する武器だと判る。
 放り出されたそれが床に転がり、地響きを立てる。静雄は何でもないように軽々と持っているが、常人な
らそれだけで押し潰されてしまう重量のあるものだ。尤も、静雄にとって、それはさして武器としての意味は
ない。圧倒的な膂力を秘めている静雄にとって、武器は静雄の力それ自体が武器だった。
「こんなとこで、寝てんなよ、躯冷やすぞ」
 昨日ロンドンに出掛けるとき、臨也はベッドの中にいた。理由は簡単だ。それまでの時間、細くしなやか
な白い裸身を、たっぷりと貪っていたからだ。正確には、セックスした情後の甘ったるい雰囲気の中、二人
とも素肌を触りあって、べったりしていたからだ。そのとき無粋にも、勅命とやらに邪魔された。
 躊躇いがちなメイドの声に、機嫌が下降した静雄は、けれど密書を携えてきた相手が尊敬する上司のト
ムであると知り、機嫌は僅かに下降しただけですんだ。
 静雄の直属の上司であるトムは、静雄の性格と膂力をよく理解して、それを遺憾なく発揮させる場を作る
ことに優れている人物だ。女王は静雄を呼ぶときには、必ずトムが密書を届けてくる。トムを寄こせば、静雄
が必ず来ること知っているからだ。
 トムは勝手知ったる様子でドローイングルームに進み、メイドに接待され、紅茶とスィーツのもてなしを受け
た。そうして面倒くさそうに女王の元に赴く静雄を、臨也は横着にもベッドの中から手を振って見送った。
 静雄の住まいは、正確にはマナーハウスから奥に引っ込んだ小さい城だった。本宅までさした距離はなく、アプローチを歩いても十分、十五分程度で着ける距離だ。馬を走らせればすぐに着く。こじんまりした城は、かつて曽祖父が作らせたものらしい。広大な領地をもつ貴族だからこそできる道楽だ。
 地下墓地に置かれた銀製の棺に臨也が入るときは、何かしら疲れたときだと、静雄は正確に理解してい
る。普段は贅言ばかりだというのに、肝心なことになると臨也は決して胸の裡を明かさない。軽口はなりを
潜め、こうやって一人ひっそりと棺に入る。悪友に近い立場の闇医者に言わせれば、臨也のこれは、胎内
回帰願望に似ているという。そしてその都度、言葉にされない臨也の疵を垣間見る気分に陥って、静雄は
居たたまれなくなるのだ。
 吸血鬼の臨也にとって、体感的温度は意味をなさない。元々心臓が止まっているに等しい生き物だ。脈も
極端に遅く、体温だって人間より遥かに低い。だから体感温度、というものとは無関係だと静雄は知ってい
る。大抵の異端は皆そうだ。けれどだからといって、何も感じないとは思わない。
 胎内回帰願望に似ているというのなら、淋しさも痛みもちゃんとあるということだろう。だからこそ静雄はこ
んな場所で、臨也が一人寝ることを嫌う。躯が冷える、というのは比喩に他ならない。そのことを臨也も正確
に読み取って、そして綺麗に笑うのだ。
「ふふ、シズちゃん可愛いね〜」
「俺はもう成人した大人だぞ」
 だからこれ幸いに隠居した父親から、問答無用で爵位を譲り受けた。というよりは、引導を渡された、と言
ったほうがいくらか適格だろう。エクソシストとして絶大な力を持っていた父親をも上回ると周囲に言われた
膂力の所為で、早々に受け継ぐことになった爵位は、けれど弟の幽のほうが、その適正はあると静雄は思
っている。幽もエクソシストとして申し分ない力の持ち主だ。階位を継ぐに当る資質については申し分ない。
冷静沈着を絵に描いたような弟の方が、自分より遥かに伯爵としての適正がある。何より自分はもう臨也と
いう相手を選んでしまっているから、エクソシストとしては失格だ。第一本来なら、自分は臨也を養い親とし
て成長し、そして彼の孤独な魂に寄り添う相手になりたいのだから。けれど臨也は頑なにそれを拒む。挙
句に早く殺しなよ、と綺麗な笑みを浮かべて、残酷な言葉を紡ぐのだ。
「それでもさ、君は未々子供だよ。俺から見ればね」
「手前から見たら、誰だって子供だろうが」 
「まぁね」
 躊躇いもなく伸ばされた腕には、固い甲冑がつけられている。静雄にそんなものは不要だろうに、エクソ
シストの正装だとかで、静雄はいつも律儀に甲冑を身に付けている。
 胸部を追うハーフサイズの甲冑に、前腕と下腿を守る甲冑。そして黒いロングコート。そして胸元に下がる
銀の十字架。
「痛いよ」
 それ嫌い、と拒めば、静雄はそれを無視して臨也を抱き上げる。
「我慢しろ」
 痛みというものにひどく疎い異端の存在も、甲冑は嫌いらしい。
「大体手前、十字架は全然大丈夫なくせに、どうして甲冑嫌いな
んだよ」
 臨也は出会った当時から十字架に触れても何もなかった。それは臨也に限らず、大抵の異端がそうだっ
た。力の弱い魔物は、十字架に弱いらしいが、それは下層な魔物だということは、静雄にも判る。
「だってさ、シズちゃん全然信仰心ないじゃん?むしろゼロよりマイナス?」
 お姫様抱っこされるのにも、もう慣れた。静雄の肩口に顔を埋め、緩く首筋に腕を回す。こんな仕草も極自
然体でできるくらい、静雄と過ごす甘ったるい時間に慣れてしまった。こんな時間に慣れてしまえば、後が
辛いだけだというのに。それでも静雄から離れられないのは、一縷の望みに賭けているからだ。幼い頃に
出会った静雄は、予想通り、法王庁にもその名を知れ渡らせた、歴代最高峰のエクソシストだ。
「シズちゃんだって、エクソシストなら知ってるだろう?」
 むしろ知らなかったら、色々と問題になる。階位よって継ぐとは言え、エクソシストの資質同様、それと同じ
知識も必要だからだ。知識がなければ、異端は討伐できない。
「俺達アンチキリストが十字架を恐れるのは、そこに込められている信仰だって。信仰って形を集約したの
が十字架ってたけで、十字架そのものが怖いわけじゃない。信仰心ゼロの人間が十字架を持ってたって、
何の役にも立たないよ」
 だから本来静雄の商売道具であるバカでかい金色の十字架は、信仰心のない静雄が持っていても、意
味はない。尤も、あの重量で、先端が槍状になっているから、十字架としての意味合いより、対吸血鬼用の
槍としての意味に近いかも知れない。
「シズちゃん、信仰心ゼロだもんね」
 エクソシストのくせにと笑えば、静雄が苦虫を噛み潰したような顔になる。
「俺はあの時に、神様なんていねぇって悟ったんだよ」
「俺達アンチキリストはいるのに?」
「あ?手前は手前だろうが」
「……俺、シズちゃんのそういうところ嫌い」
「手前はイザヤって名前で、ヴァンパイアって言う種族ってだけだ」
「それさ、公言したらダメだよ?」
 まさかエクソシストが、それも女王の特務機関であるエクソシストの最高峰と呼ばれる静雄が、神なんて
欠片も信じていないと知れたら、問題になる。それこそ静雄が追われかねない。
「それほど俺はバカじゃねぇよ。手前との生活手放す気はねぇからな」
 誰かれ構わず吹聴するほど、莫迦だと思われていたら心外だ。臨也には未だに幼いときの印象が強いら
しく、何かと言っては子供扱いされる。けれどそれも仕方ないと、静雄は思っていた。
 一体どれだけの時間を孤独に生きてきたのか想像もできないが、臨也から見れば、誰だって子供だろう。
それは決して埋まらない臨也との溝だ。
「あのさ、シズちゃん」
「なんだよ」
「忘れてないよね?」
 肩口に埋めたまま、視線だけをちらっと上目で窺えば、静雄は意味深な笑みを深め、さぁな、と笑う。その
笑みが、酷く人タラシのように見え、今度は臨也が苦虫を噛み潰したような顔になる。
「何それ」
「死が二人を分かつまでって言っただろう?」 
 憮然となる臨也が可愛いやら可愛いやら。到底自分より遥かに生きてきた異端の生き物だとは思えない
可愛らしさだ。
 殺して、と臨也は言った。臨也に育てられ、ずっとこうして臨也といるのだと思っていたら、突然親元に帰
され、化け物みたいな力は、家系の証明だと称賛された。それから家督を継ぐための教育を徹底的に仕込
まれた。
 貴族のしきたり、受け継ぐ家系の歴史、英国の歴史、ラテン語に母国語その他語学、経済。そしてエクソ
シストとしての知識。
 それから成人して、正式に女王の特務機関のエクソシストという称号を与えられた矢先に、ロンドンで血
腥い猟奇事件が起こった。それは吸血鬼の起こしている事件とは程遠く、凶悪な魔物じみた事件だった。
けれど確かにそこに臨也がいた痕跡があった。他の誰にも、どんなエクソシストに判らなくても、臨也と一緒
に過ごしていた静雄には判った。そして再会した臨也は、静雄に綺麗な笑みを向け、君の敵だよ、殺しなよ、と銀鈴を転がすような声で言った。
 誰より孤独を理解し、絶望に溺れていた、死にたがりのヴァンパイア。
「人間が歳をとるのは、アッと言う間だよ?シズちゃん自体が化け物みたいな力を持ってるけど、だけど歳と
っても変わらないって保証はどこにもないんだよ?」
 静雄の膂力は家系的なものとはいえ、その力が年齢に左右されることなく、永続的に同質を保っていると
いう保証は何処にもない。むしろ肉体のメカニズムを越えた場所で発揮される膂力は、肉体を酷使している
から、力がいつまで続くか判らないという懸念もある。
 静雄は歴代のエクソシストの中でも、最高峰とされる存在だ。それだけに恐れられ、また彼を狙う魔物も
多い。力の衰えは、静雄の寿命とワンセットの可能性もある。そうなった場合、臨也はまた遺いて逝かれる
のだ、静雄にも。今までであった数多の生命が臨也を遺いて逝ったように。その恐怖と絶望は、決して静雄
には判らない。
「安心しろ、俺は独占欲は強いんだ、手前遺こして、逝ったりしねぇよ。手前は俺のもんだ」
 そうだろう?そう窺う眼差しに射竦められて、臨也の喉が鳴る。力強い独占欲は、臨也の渇いた心と躯を
満たしていく。そして急速に感じるのは、枯渇するほどの喉の渇きだった。からからに渇いて、細胞まで乾
上がりそうな餓えは、最早静雄でなければ満たされない。そして静雄の生命の源でなければ、受け付けれ
ない。どんな人間でも、臨也を満たすことはできない。
「ねぇ……」
「俺も腹減った」
 ねっとり見詰めてくる視線には、これ以上ないほどの、甘ったるい血の匂いが纏いついている。
 静雄は天蓋つきのキングサイズのベッドに痩身を放り出すと、銀色の装甲を脱ぎ捨てる。毛足の長いカー
ペットは、無造作に放り投げられた甲冑の音を吸収する。
 静雄は黒いシャッに黒いパンツ一枚の恰好になると、細い躯に圧し掛かった。
 腕に抱き締めた細い肢体は男のものだというのに、どんな女より甘く香る。白いシャツを引き裂く威勢で胸
元を露にすると、首筋に歯を立てる。
「あ、ん……それ、俺の……」
 がぶっ、と歯を立てられ、肌理の細かい薄く白い皮膚の上には、くっきりと歯型が残った。うっすら滲む血
を舐める静雄に、それは自分のすることだ、と臨也は半ば呆れ、金色の髪をくしゃりと掌で弄ぶ。昨日ロンド
ンに赴くぎりぎりまで睦んでいたというのに、こうして抱き合ってしまうと、餓えていたのだと実感する。
 躯が冷えると言った静雄の科白を、今更ながらに理解する。確かに自分は静雄の存在に餓え、凍えてい
た。静雄の存在が欲しくて欲しくて仕方なかったから、地下墓地に置いてある棺の中で、出会った頃の静
雄に会いに行った。邂逅と言う名の甘い時間。
 たかだか一日離れていただけでこの体たらくでは、これから先、自分は一体どうなってしまうのか?そう
考えると、と心根の何処かが引き連れる寒々しい感触が生々しく、凛冽する。
「泣くなよ……」
 すすり歔くような切ない気配が伝わってきて、静雄は抱き締めた痩身を更に腕に閉じ込めるように力をこ
める。
 臨也が何を考えていたのか、大体の予想はつく。けれど口にするのは得策ではないことも、短くない付き
合いの中で判っていた。こんなとき臨也が考えていることは、いつだって決まっている。
長すぎる孤独に底の見えない絶望に溺れている、死にたがりのヴァンパイア。再会した臨也が祈り願って
きたことは、いつだって一つだけだ。
 死を甘い時間みたいに欲して願う、孤独な魂。
「泣いてないよ……」
 今までどれだけの孤独に身を浸しても、泣いたことなどなかった。泣いても救いはないと知っていたからだ。けれと今は違う。静雄という存在に出会ってしまった。
「イザヤ……今日一日、あんな場所で寝てて、何してたんだよ」
「ちっちゃい頃のシズちゃん」
 思い出してた、と続く言葉は、けれど静雄に乳首を擂り潰すように指の腹で擦られ、嬌声に変わる。薄く
細い背が静雄の腕の中で綺麗に撓う。
「あん、ね、ねぇ」
 ちょうだい。俺喉渇いた、と抱き締めてくる静雄の耳元で囁けば、静雄は顔を上げ、真上から小作りな容
貌を見下ろした。
 吐息が触れるくらいの至近距離から見下ろされ、臨也は更に干からびるような餓えを自覚する。血も肉も、躯も心も、静雄を欲して干からびてしまいそうだった。たった一日離れていた時間が淋しかった。そう感じ
てしまう、感じることに慣らされてしまった身の裡に、臨也は半ば愕然とする。
 ――早く、早く、殺してよ……。
 いつか静雄に遺いて逝かれてしまう、凍えるような寒さを想像して、心根の奥が悴んで凍りついてしまい
そうだった。
「シズちゃんからしか、血、飲めないんだから」 
 ゆるゆると、細く白い指先が端正な彫り深い頬を擽るように撫でていく。
「人外みたいな力持ってて、性格だって短気なくせに、黄金率とか意味不明……」
 静雄の血は、どんな魔物も好む、言い換えれば、どんな魔物をも魅了する黄金率の血だ。いわば真理の
数値に近い絶対的左右対称の血。静雄の家系なのか、静雄個人なのか判らないが、この血の味を知って
しまったら、決して他の人間の血はもう受け付けられない。
 甘く蕩ける舌触り。飲めば細胞のすみずみにまで行き渡る甘美さ。血の中に潜む絶対的な生命の証。
「当たり前だ、他人の血なんて飲ませてたまるか」
「んふ……」
 獰猛な視線で見詰めてきたかと思えば、噛み付くようなキスを仕掛けて来る。即座に割り込んできた舌に
咥内を想う様蹂躙され、甘い唾液が喉を伝い落ちる。
 静雄の指先は器用に動き、剥き出しにした胸元を撫でていく。
「んん……」
 ねっとりと絡みつき、狭い咥内で縺れ合って絡ませ吸い上げられ、それに飽きると静雄の舌は細い頤を辿
る。
「あん、ねぇ…ねぇって……ばぁ……」
 甘ったるい舌足らずな声が不満そうに漏れる。
「俺だって腹減ったんだよ」
「あぁん……昨日あれだけ……」
 人の躯を好き勝手にしたくせにと、言外に滲ませれば、足りない、と即答される。静雄の舌と指が縦横無
尽に裸身を這い回り、快楽に弱い性感帯をあっさりと引きずり出してしまう。
「あ、ん……」
 スラックスの上から高まり始めた中心を包まれ。甘ったるい痺れが腰の奥を疼かせる。
「あとで、俺にも飲ませろ」
 俺にはこれが食事だ、と恥ずかしいことを言うと、静雄は臨也との位置をあっさりと入れ替えてしまう。
細い躯を自分の腹の上に乗せると、臨也は官能深い、妖冶な表情を滲ませる。独特な光彩を映す双眸が
赤く染まり、綺麗な笑みの奥から白い歯を覗かせる。血の奥に潜む快楽と同じ、生命を交歓するとき、臨也
も静雄も種を超えた存在になる。与え、与えられ、互いに与え合う。
 臨也の白い歯が静雄の首筋に深く埋まる。瞬間、僅かな痛感に顔を顰めたものの、静雄は愛しくて仕方
ないという貌をして、艶やかな黒髪を撫でてやる。
 ヴァンパイアに血を吸われた者全てが同属に堕ちるわけではない。臨也が本気で静雄をヴァンパイアに
引きずりこむつもりなら、そうするための儀式が必ず必要だった。
 血を吸うだけで、ヴァンパイアは繁殖したりはしない。もしそんな簡単に種族を増やせたら、今頃臨也の周
辺はヴァンパイアだらけになっていたはずだ。
 静雄の血は甘美な甘さを伴ない、ヴァンパイアの躯の隅々まで行き渡る。
 何処までも甘く、官能深い交歓だった。こうしている間だけ、人間とか異端とか無関係に、静雄と生きてい
られる。甘い死を夢見て、生きられる。
 ――だからどうか、早く俺を殺してよ、シズちゃん……。
「手前と永遠に生きるって選択肢だって、俺にはあるんだけどな……」
 そう呟く静雄の内心を、臨也は未だ知らない。








□ □ □ □ □







 2012年12月池袋
「信じられない、どうしてわざわざ酔狂にもこんな場所」
 赤と緑のクリスマスカラー一色の都会の中で、臨也は憮然となってシネマシティの看板を見上げた。
 周囲は本日ロードショーを待ちかねた女性ファンが早くも行列を作って待ち構えている。その中を、静雄と
臨也の二人は並んでいた。場違いだと想うくらい、周囲は女性ファン、もしくはカップルしかいない。その中
に、男同士で観に来ているのは静雄と臨也くらいだ。思い切り浮いていたが、シネマシティの看板に負けな
い端正な二人連れに、女性客の視線が集まっている。
「いいだろうが。折角だし」
 隣で憮然となっている臨也に苦笑すると、節だった指先が艶やかな黒髪を撫でていく。
「永遠のロマンスとかないし」
「アホ、世紀を超えたロマンスだろうが」 
 苦々しげに見上げているシネマシティの看板には、『永遠のロマンス』と書かれた、年末の目玉である劇
場版の後悔映画のタイトルか書かれている。そしてその看板の中には、エクソシストとヴァンパイアの恰好
をした、現在人気の俳優二名が収まっている。
「シズちゃんに自虐趣味あるとか知らなかった」
 ぶつぶつ小声で文句を言う臨也は、けれどその列の中から抜け出そうとはしなかった。看板から視線を隣
に移すと、自分を見ている静雄の視線とあって、拗ねたように横を向く。
 隣に佇む長身は、今はエクソシストの恰好をしていない、恋人の姿がある。有り触れた人間の有り触れた
恰好をして、けれど当時を彷彿とさせる黒いロングコートを隙なく着こなしている。
「俺の方が、数倍イケメンだけどな」
「自分で言うところが残念すぎる」
 本当は静雄に殺されて甘い死の縁にいけるはずだったのに、どうしてこうなったんだろうか?と、臨也は
僅かな苦い後悔を抱えている。けれど静雄にとっては上々だ。初めから、静雄には臨也を殺す選択肢など
なかったのだから。
「ま、未々世界は不思議に満ちてるし、それからで遅くないだろう?」 
 死にたがりのヴァンパイアは、今に至ってもその願いを棄てていない。甘美な死など遠いというのに。何よ
り自分が殺させない、誰にも触れさせない。そうと判っている筈なのに。最早それは祈りに近いな、と静雄
などは思っている。
「あんまぐだぐだ言ってると、最果てにでも連れてくぞ」
 南極でも北極でも。二人でいられる場所なら何処でも構わない。
「やーだ。あ、またイギリスに戻ってみてもいいかもね」
 昔の故郷。少なくとも静雄にとっては古の故郷だ。あれから静雄の家系がどうなったのか、詳しいことは
敢えて調べなかった。だから飛び出した故郷に戻ったことはない。けれどそろそろ一度は戻ってみてもいい
かもしれないなと、臨也は思う。
「ああ、まぁ、気が向いたらな」
「うん、いつかね」
 静雄と出会ったあの場所は、臨也にとっては懐かしく、そしていつだって回帰する場所だ。長い旅路の果
て、もし最期の刻がくるのなら、戻ってみるのもいいのかもしれない、静雄と二人で。
「いつかな」
 当時と変わらずに細く白い恋人の指に指を絡めると、臨也は僅かに呆れながらもその手を振り解かず、そ
っと握り返した。


back