| 異形の獣 act2 |
【午後7時28分】 不意に鳴った玄関チャイムに、臨也は首を傾げ、コンロに掛けた鍋の中でお玉を回しながら、玄関に 向かって声を放った。 「シズちゃん〜〜。俺が居るからって横着しないで、鍵くらい自分で開けなって」 鍵は元の場所に戻して置いた。元の場所とは何ともベタなものの、玄関ポストだ。 合鍵とは言え、玄関ポストに放り投げられた鍵など、臨也からしてみれば、言語道断だった。けれど静 雄に言わせれば、盗られて困るものは何もないと言うことになるから、静雄は借金回収業などという仕 事をしている割に、個人情報に疎いと言わざるおえない。尤も、その仕事も警察のラインに引っ掛かる か、引っ掛からないかと言う、極めてグレーゾーンに近い部類に属しているから、個人情報云々という観 念は薄いのかもしれない。 「まぁ、その名簿に価値があるって言えば、あるんだけどね」 法外な利息で貸し付ける闇金融業者や、その下請けの回収業者にとっては、責務者の名簿こそ、金 を生む金に化ける場合もある。けれど静雄に、そう言った観念はない。合鍵を無造作にポストに放り込 んで安穏としていられるのも、その為だろう。 そんなことを思いながら、再度鳴った玄関チャイムに、臨也は今時分訪れる該当者に思い至り、キッチ ンから玄関へと向かって扉を開いた。 よく考えれば、託された鍵が合鍵な以上、静雄は静雄で、自分の鍵はちゃんと持っている筈だから、 几帳面にもチャイムを鳴らす該当者は、たった一人に限られている。こんな時間に、新聞の勧誘もない だろう。 「いらっしゃい、弟君」 そして案の定。臨也の予想通り、玄関の外には、人気俳優の羽島幽平が佇んでいた。 「……貴方は……」 開いた扉から現れた人物に、幽は僅かに瞳を見開いた。そこには昼間会った人物がエプロンを付け、 当たり前の表情をして立っていたからだ。 「カレー作りに、君のお兄さんに呼び出された天敵です」 ニッコリと邪気のない笑顔を見せると、幽はぴくりと眉を動かしたものの、表情は変えなかった。 「フーン、さっすが、飛ぶ鳥を落とす威勢の人気俳優、羽島幽平クン」 ぴくりとも表情を変えなかった幽に感心すると、臨也はまぁ上がってよと促し、自分はさっさとキッチン へと戻って行く。その何とも、勝手知ったる他人の家とばかりの臨也の様子に、幽は僅かに内心で眉を 顰めた。 「……お邪魔します」 兄の家だから、お邪魔しますと言うのは何やら違う気もするが、他人の家には違いないから、一応断 って室内に上がれば、玄関の入り口には雑誌が綺麗に束ねられている。兄はこんな几帳面に雑誌を束 ねたりはしないことを考えれば、こんなことをした人物の該当者は、一人しかいない気がした。 「どうぞ。ざっと掃除しておいて正解だったなぁ。シズちゃんてば、人にカレー作りに来いなんて言うくせ に、掃除もしてないんだからねぇ」 洗い物もしてないし、洗濯もしてないしねぇと笑いながら、臨也は鍋の火加減を調節し、その合間に手 際良く野菜を切り分けていく。リズミカルな包丁の音が、キッチンに響いている。 「カレー、作ってるんですね」 室内に漂うカレーの香りに、幽は室内を見渡した。 キッチンやテーブルに並ぶ真新しい調理器具は、おそらく今日買ったあの荷物の正体だろう。以前ここ に来た時、兄のキッチンには、おおよそ料理をするような器具は存在しなかった。 テーブルの上には、鍋が二つ置かれている。どうやらその中身もカレーらしいことを考えれば、一体何 種類のカレーを作っているのか甚だ謎だ。 「そう、シズちゃんてば超我儘。日付変更線も越えた真夜中にさ、カレー食いたいってメールよこしてさ」 「食べたい?」 それはカレーを作りに来いということにはならないんじゃないのか?そう思っていると、そんな幽の内 心を見透かしたように、臨也はころころと笑った。 「シズちゃんの食いたいって言うのはね、作りに来いってことなんだよ、昔からね」 「作りに?と、あの、折原さん、ですよね?」 自ら兄の天敵と名乗ったのだから、勝手知ったる様子で、キッチンに立っているのは、兄が飽きもせず 殺し合いをしている相手に違いないだろう。けれどその相手が、何故兄の部屋のキッチンに立っている のかと言えば、どう推理しても、幽には理解の範疇の外だった。 「ああ、自己紹介が未だだったね。折原臨也。君のことはよく知っているよ」 「知っている?」 「それは勿論。ブラウン管の向こう側で拝見しているからね」 羽島幽平と言えば、若手の中では、人気実力ともにトップの俳優だ。何処か精巧に作られた人形めい た外見とは裏腹に、一度役に入り込めば、そんな氷の無表情が氷解する。そう言われてしまうくらい、 幽の人気は、今や業界関係者には実力に支えられた人気として認識されるようになっている。とは言え、私生活では表情を曝さないことでも有名で、何処かの少女漫画の主人公のように、千の仮面を持つ とも囁かれているくらいだ。それは裏を返せば、素顔が読めない。そう言うことだ。 「……平和島幽です」 「アハハ、シズちゃんと正反対だね」 何やら知っているに込められた意味が気に入らない様子の幽に、臨也は面白いと笑った。 作り笑いなど悟らせない遣り様は、何処までが演技か、その境界線は見えにくい。けれど芸能人として 知っているという返答は、何やら気に入らなかったらしい。要は弟だと言いたいのだろうなと察すると、 似た者同士のブラコンと言う言葉が頭を過ぎった。 「そんな所に突っ立ってないで座れば?アッ、それシズちゃんの好物のプリンでしょ?冷蔵庫に入れた 方がいいんじゃない?」 目敏く幽の持つ箱の所在に気付いた臨也が促せば、全て見通されて、幽が僅かに眉を寄せた。 「…兄の好物がプリンだって、よく知っているんですね?宿敵のリサーチですか?」 情報屋という職種なら、その程度の情報は簡単に入手できるだろう。 「外れ。高校時代、シズちゃんにはプリンその他諸々、散々作らされたからねぇ。カレーもそのうちの一 つだよ」 ころころと笑う臨也の印象は、噂に聴く物騒な人物には見えなかったが、昼間街中で見た印象は、逆 に言えば間違ってはいなかったことになる。 その場に合わせ、自分の気配をコントロールできる。そういうことだろう。穏やかに対すれば、大抵の 人間はそういうものだと勝手に判断する。それを見透かして、巧く使い分けているのだろう。 ころころと笑い、手際良く料理を仕上げていく臨也を横目で眺めながら、幽は冷蔵庫を開いて、今度こ そ眼を点にして唖然となった。氷の無表情と呼ばれる幽のそんな表情を知れば、彼の周囲の関係者は 驚いたに違いない。 「これ……」 「ああ、シズちゃんにプリンなんて、ボウルで作れば十分。前にもそうしてやったら、すぐに食べきったし。甘さは加減して押さえてあるから、大丈夫でしょ。あとはバナナケーキとレアチーズ。時間があればア ップルパイも焼いたんだけど、今日は流石にそんな手間掛けていられないし」 「これ全部、あれから作ったんですか?」 冷蔵庫には、ボウルの中に作られたプリンと、バナナケーキ、レアチーズが入っている。他にも何やら 丼や小鉢に盛られた料理が幾つか眠っている。兄の部屋にこんな洒落た丼や小鉢はなかったから、こ れも今日大量に買った荷物の一つなのだろう。 「欠食児童みたいな冷蔵庫だからさ、当面の作り置き。ああ見えてシズちゃん、和食嗜好だしね。今回 何を思い付いてカレーなのかは、俺も謎」 とうに野菜を切り終えた臨也は、鍋の中身をゆっくりと掻き混ぜ、こんなもんかなと呟いて、火を止めた。 「プリンが好物の所為か、出汁巻き卵や茶碗蒸しが好きで、高校時代に作らされたよ。特に出し巻き卵 は、一時ブームだったくらいで、毎日持参させられたくらいだし」 薬缶が高い音を立て、湯が沸いたことを知らせれば、臨也はやはり手慣れた仕草で、マグカップに注 いでいく。 「ハイ、インスタントだけど。砂糖とミルクはお好みでいれてね」 白いマグカップに注がれた珈琲は、それでも香ばしい芳香を漂わせ、所在なげにしている幽に差し出 され、あとからスティクシュガーと小さいミルクが付いてくる。 「アッ、ありがとうございます」 「どういたしまして。本当にシズちゃんとは正反対だね」 ニッコリと笑う臨也に少々面食らいながら、幽はカーペートの敷かれた床の上に腰を落とした。 どうにも静雄から長年聞かされ続けた折原臨也という人物とは、印象が違いすぎる。ナイフ片手に兄と 大立ち回りをする人物とは思えないくらい、臨也は薄く細い。自分も大概薄く細いと言われるものの、臨 也は更に細い気がした。細いと言うより、薄いと言うのが適格だろう。一体ウエストはどれくらいだろうか と、莫迦なことを考えてしまうくらい、臨也は薄い。それでも華奢で脆弱な印象を与えないのは、研ぎ澄 まされた双眸の所為だろう。 「シズちゃんが直線的で直球なら、君は曲線。そういう意味で、シズちゃんと君は正反対」 リクエストのカレーは3種類作ってしまい、サラダも作った。静雄の台所事情の乏しさに、うっかりと作 り置きまで作ってしまい、あとは当人が帰宅すれば食べられる状態だった。 「何か食べたいものある?」 「えっ?」 不意のリクエストに、幽は少しばかり驚いた様子で臨也を見上げ、次には首を横に振った。 「そっか。もう作る物作っちゃったし、じゃぁ買い物押し付けて、いい加減帰れって呼び戻そうか。俺だけ だといつ帰るか判らないし、君がいるって判れば、仕事放り投げてもすぐに帰ってくるだろうしね」 「いいえ、仕事はちゃんと終わらせてから戻る様にして下さい」 社会人としてのけじめです。幽が思わず口にすると、臨也は僅かに眼を点にして、次にはくつくつと喉 を鳴らした。一瞬にしてがらりと気配を変えた臨也に、幽は僅かに吐息を飲み込んだ。 全体から立ち上ぼる研ぎ澄まされた切っ先のような気配は、彼が持つと言われるナイフなど、おそらく 比べものにはならないだろう。けれどそこには兄が持つような怒気は感じられない。おそらくこれが普段 の臨也の持つものなのだろう。それを巧くオブラートする手段を心得ている。そういうことなのだろう。 そしてそういう人間が稀有なことを、幽は経験として理解している。 「大丈夫、大丈夫」 そして次にはがらりと気配を変えると、臨也は何処からともなく、携帯を取り出した。 「シズちゃんの仕事は回収業だし、今日の回収が明日に回ったからって、大した損失にはならないよ。 どうせ喧嘩買ってるだろうしね」 ころころと笑うと、臨也は携帯のアドレスを呼び出した。 「シズちゃん〜〜。俺を呼び付けた時くらい、とっとと仕事終わらせて、帰ってきな」 数回のコールで出た相手は、えらく不機嫌そうにしているから、喧嘩でもしていたに違いない。 バーテンの恰好に、ブランド物の蒼いサングラス。池袋最強で最凶と呼ばれる静雄の存在を知らない一 般人も最近は増えてきた。何処に何を注ぎ込み、借金を作るかは、それこそ個人の価値の問題だから、借りた物を速やかに返済すれば問題はない。けれど踏み倒す莫迦はやはり莫迦だから、静雄を外見 で判断し、喧嘩を売り、もれなく静雄を怒らせるという3点セットを引き起こす。そして最近はそんな莫迦 が増えていた。それは日常と非日常が互いに喰い付くし、浸蝕しているようにも見える。 幾重か抱えていた問題のピースが嵌まり、その合間にも違う場所から、違うピースが剥がれ落ちてい く。それは拾い上げた時には形を変えられ、既に元の場所には収まらなくなっている。それが臨也には 面白いのだ。街は生き物なのだと実感させる。そして街を作る人間が足掻き、蠢いている証拠に他なら ない。だから楽しい。 「喧嘩するのはいいけど、一般人相手に本気にならないようにね。今までシズちゃんの暴力で死人が出 なかったのは、奇跡的な幸運なんだから」 神か街か知らないが、異形に愛される存在もまた、異形には違いない。そう言えば最近は擬人化が 流行っていると、自分から見てもブっ飛んだ思考回路を持つ双子の妹達は、池袋が擬人化したら、静雄 さんを愛するかもないねぇと、意味不明なことを言っていたのを思い出す。 我が妹ながら、あの二人のブっ飛んだ思考回路は、理解不能だ。ある意味で静雄と同等か、それ以 上に厄介だ。どちらも付き合いが長いと言う点では、躱す手間を強いられる。 『カレー、作ってあるんだろうな』 余計なとこと言ってるんじゃねぇょ。不機嫌に話せば、電話口の相手はひどく楽しげに笑う気配が伝わ ってくる。 「じゃなきゃ、いちいち俺がシズちゃんに電話すると思う?メール1本で俺を呼び出したんだから、帰りに 紅茶買ってきて」 『何作ったんだ?』 臨也は基本的に珈琲党だ。その臨也が紅茶を飲む時は、大抵の場合で決まっている。そしてその場 合の臨也は、ティーパックの紅茶など決して飲まない。その辺りは、作り手の拘りらしい。 「バナナケーキとレアチーズ。それとプリン」 『おぅ、今夜はもう上がる』 スイーツの名前を聴いた瞬間、ころっと態度の変わった静雄に、臨也は電話口で呆れながら、くすりと 小さい笑みを滲ませる。こういう部分は、本当に大きい子供だ。 「よろしい。じゃあ帰りに紅茶買ってきてね。ウェジウッドのダージリン」 『ああ?別に何でもいいだろうが』 ブランド名を聴いても、ピンとこない。臨也の淹れる紅茶は美味いが、茶葉に対する拘りのない静雄に してみれば、何でも同じだと言うことになる。静雄にとって重要なのは、臨也が淹れる紅茶だと言うこと だ。 「ダメ。じゃないとケーキは食わせないよ。珈琲にケーキの取り合わせは合わないから」 『っせぇな……』 「そう言わないの。西武に入ってるよ。ウェッジウッドのダージリン。蒼い缶だから、すぐに判るよ。じゃな きゃ、フォートナム・アンド・メイソンでもいいけど?そっちは緑の缶。前に買ってきたやつ。あると思って たら、シズちゃん飲んじゃってるんだもん」 珈琲党の静雄が、茶葉から淹れる紅茶を飲むとは思わなかったから、買ってこなかったら、なかったと 言う顛末が付く。 『大して美味くなかったな』 臨也が淹れる要領で淹れたものの、どうにも美味くはなかったから、紅茶は買い足していなかった。 「それはシズちゃんの淹れ方の問題。蒸らし時間、無視するからだよ」 紅茶は手順を怠ると、途端に味が劣化する。静雄のように蒸らし時間を無視すると、紅茶は本来の風 味を失い、味が半減する。 「それと、弟君が来てるから」 『なにぃ?手前、それを早く言え』 「今言ったからいいじゃん。最初に言ったら、シズちゃん電話切っちゃう可能性あるから」 視界の端に幽の姿を認めると、このブラコンと内心で嘲って、臨也は先を繋げた。 「ちゃんと買い物してこなかったら、カレーにもありつけないと思いなよ。ああ、途中で喧嘩買って遊んで こないように。じゃないと、俺達先に食っちゃうから」 『いちいち、うるせぇ』 実際、臨也の言うように、最初に幽が来ていると聴いていたら、その場で電話は切っていただろう。 「料理人に権限があるのは当然なの。じゃ、そういうことで、ヨロシク」 言うだけ言うと、臨也は携帯を切って、幽に向き直った。 「もうすぐ帰って来るって。お腹空いてない?」 「兄と殺し合いの喧嘩をしているんじゃないんですか?」 臨也の科白しか判らないものの、聴いている分には、親しい友人同士の会話にしか聞こえなかった。 静雄と臨也と言う取り合わせを知らない者が聴いたら、間違いなく友人だと答えるだろう。 「不思議?」 訝しげに凝視してくる幽に、臨也は薄い笑みを浮かべた。 確かに顔を見合わせれば、殺すと繰言のように繰り返し、殺し合いの喧嘩を繰り広げている自分達が、 こうして相手のキッチンに立っていれば、大抵の人間に理解されないのは当然だろう。 互いの関係を言語に置き換え説明するのは、臨也でも些か難解だった。臨也自身、他人に説明する 意味もないと思っていたから、尚更だ。この場合例えとして判りやすいのは、おそらく新羅が高校時代 に言っていた、他愛ない会話なのかしもしれない。 「高校の時ね、面白いこと言った奴がいたんだけど、もし海で遭難して無人島に行くとしたら、何を持っ て行くった訊かれてね。その時、お互いの名前しか出てこなかったのが、答え、かな?」 新羅曰く、地球と月のように、引力で引き当っている関係らしい。お互いに引き合っているから、バラン スがとれている。そういうことらしいが、当事者の二人は、新羅の科白の意味を量りかねていた。 「俺達は地球が壊れる時でも、お互いに殺し合いしてるよ」 くすっと小さく笑う臨也の科白は、知らない者が聴いたら、惚気にしか聞こえないだろう。これが静雄と 臨也と言う取り合わせでなければ、十分惚気で通用したに違いない。 「……あれは、僕のオモチャなんです…」 臨也の科白に、幽は臨也に向かって、挑戦的な科白を吐いた。そんな幽に、臨也はやはり面白そう に片眉を上げた。 「それが君の素顔?」 さっすが実力派俳優と茶化して笑う臨也に、けれど幽は動じなかった。 「兄は昔から僕のオモチャなんです。あの力に見合う生き方をできない部分が、もう兄らしくて、可笑し いんですよ。兄は自分のことを、神話に登場する怪物みたいに、迷宮に閉じ込められて然るべき人間だ と思っていた節がありますが」 「ミノタウロス、ね。確かにシズちゃんの力は、怪物並だけどね。それで弟君は、当面大好きなお兄さん を野放しにして、更にオモチャを与えているって訳?」 流石静雄の弟だ。何事も直線的な静雄とは対照的に、弟の方は果てしなく曲線だ。曲線というより、 螺旋に捩じれている。そして弟を大切にしている静雄に、悟らせたりはしない筈だ。けれど自分達が、 セックスまでしている関係だと知れば、この弟はどうするだろうか? 自分達の関係は、理解されない。そして理解されたいとも思わない。喧嘩もするし、セックスもする。 生命のやりとりは、何より相手の息遣いを身近に感じることができる。そこに血の匂いが混ざれば尚更 だ。殺し合いの最中に互いに欲情し、喰らいあうようにセックスするのも、実際は珍しいことでもなかった。最近では喧嘩イコールでセックスという図式まで成り立ち始めているくらいだ。それは簡単に言って しまえば、猟奇殺人に絞殺が多いのと意味は同じだ。生命のやりとり、それも素手でやりあうような遣 り様は、相手の生命をより身近に感じ取り、血が騒ぐ。背筋を灼くぞくりとした高揚は、セックスと同じ だ。そして更に肉の芯を灼く快感を欲し、喰らいあうように求め合う。実際そんな場合のセックスは、互 いの肉を喰うように歯を立ててしまう為、肌の上に噛み痕が色濃く残る。 「どうなるんでしょうね?」 不意に呟かれた科白に、臨也は訝しげに眉を寄せた。 「もし兄がいなくなったら、貴方はどうします?」 「君のオモチャに収まらなくなったシズちゃんを、君が迷宮に閉じ込めちゃった場合?」 「物理的でも精神的でも、構いません」 「フーン?仮定の話しをしても意味はないと思うけど。取り敢えず、ありがとうって言っておくよ。流石に あのシズちゃんのバカ力には、俺も適わないし。シズちゃんがいなくなったら、池袋の仕事もスムーズ に進し。むしろしてみれば?君にしかできないだろうしね。平和島静雄を閉じ込めることのできる人間、 なんてね」 話している内容とは裏腹に、くすくすと笑う臨也の表情は、できると思うならやってみろと語られている 気がして、幽は内心で眉を寄せた。小さく笑う臨也の眸には、ひんやりとした薄昏い官能さえ見え隠れ している。 「さて、シズちゃん戻るまで、もう少し時間掛かりそうでし。もう一品何か作ろうかな。アッ、シズちゃん帰 ってきたら、先に風呂いれちゃうけど、お腹空かない?」 会話終了。そんな様子で立ち上がった臨也に、幽は首を横に振った。 「何作ろうかな」 じゃあ好みで作っちゃうよと、臨也は再びキッチンに向かった。 「シズちゃん閉じ込めた場合、君は永久に失うのに?」 そんな簡単なことにも気付かないんだと、臨也はキッチンに向かい、仄昏い微笑みを浮かべた。 【午後8時12分】 「幽〜〜久し振りだな」 「兄さん、お帰り」 久し振りの兄弟の再会に水を差すつもりは毛頭ないが、静雄も弟に対する遣り様は、世間一般の兄 なのかもしれない。自分の双子の妹達は、世間一般の枠組みからは遠く掛け離れているから、比較な らないが、久し振りの兄弟の再会としては、こんなものなのだろう。 「シズちゃん、紅茶は買えたの?] 「これでいいんだろ?」 ブルーの袋を放り投げると、臨也は中身を取り出した。ブルーの缶に刻印されたブランド名に間違い はない。 「じゃあ、さっさとお風呂に入ってきて」 「風呂?腹減ったから先に食う」 キッチンから菜箸片手に顔を覗かせた臨也に、静雄は乱暴に靴を脱ぐと、キッチンに足を向けた。そう すれば片手鍋に向かっている臨也に、静雄は濃いブルーのサングラス越しに、眼を点にした。 「……臨也、これどうしたんだ?」 「どれ?」 鍋から視線を離さず、手際よく鍋の中身をゆっくり掻き回している臨也の背後に佇むと、静雄は鍋の 中に手を伸ばそうとして、失敗する。 「手くらい洗え」 背後から伸びてきた腕を容赦なく叩き落とすと、臨也は菜箸でサツマ芋をひと欠片、掴み取った。 「ったく、そういう所は本当に子供だよね、シズちゃん」 やれやれと大仰に溜め息を吐くと、臨也は菜箸に挟んだサツマ芋を静雄の口に放り込んでやった。 「どう?」 「んまい」 「そぉ?煮物なんて、自分じゃ食べないからね」 「って、臨也。手前、これどうしたんだって」 キッチンに所狭しと並んでいる鍋に、見覚えはない。何より自分で料理をしようとは思わない為、片手 鍋とフライパンしかキッチンには存在しなかった筈だ。けれど今キッチンに並んでいる鍋は、カレーが入 っていると思しきホーロー鍋やら、真新しい片手鍋やら、種類が豊富に揃っている。 「こっちにもあるよ」 顔を合わせれば殺し合いを繰り広げている二人が、キッチンでこれでは、十分新婚夫婦の台所事情と 大差ない。それも互いに慣れている時点で、この手のやり取りが今更なことは、窺い知れる。なんとなく 今しがた臨也から聴いた、引力の話しが判った気がした。この二人をそう評する人物は、二人をとても よく見ているのだろう。 幽はさっさと居間に戻るとカーペットの上に腰を下ろし、テーブルの上に並ぶ鍋を顎でしゃくった。それ を見て、静雄は更に眼を点にした。 「沸いたとでも思ってるの?勿論今日買いに行ったに決まってるじゃん。もう荷物あり過ぎて途方にくれ たよ。こういう時に限って、シズちゃんのセンサーはオフになってるし」 「臨也〜〜」 役立たずと言われ、静雄が臨也に詰め寄れば、臨也は鍋から小鉢にサツマ芋を移しながら、振り返り もせずに先を続けた。 「夜中にカレー食べたいなんて連絡してくるなんて、よっぽど食べたいのかと思ってさ。ビーフカレーにシ ーフードカレーと、野菜カレーを作ってみたから」 鍋が必要なのは当然でしょ?と正論を言われてしまえば、静雄に反駁の余地はない。 「何で急にカレーなのかは後で訊くとして。ほら、さっさと風呂入ってきなって。そんな喧嘩したまんまの、埃臭い恰好で食事されるの嫌なんだよ」 判ったらさっさと入れ。臨也は静雄の反駁を綺麗に封じると、キッチンから追い出した。 【午後9時08分】 「シズちゃん、どれから食べるの?」 「ん?じゃあビーフ」 風呂上がりの静雄は、流石に自室でバーテンの恰好をすることはなかったから、ざっくりとした黒いセ ーターに、ジーンズという服装をしていた。金に染めた洗い晒しの髪と、煙草を咥えた恰好は、黙ってい ればタレントのようにも見える。弟を見ても判るように、元の素材はいいのだ。あくまで黙っていればの 話であるが。 そんな静雄は、煙草に火を付けようとして、失敗する。背後から伸びてきた細い指に、容赦なく煙草を 取り上げられた。 「手前、何しやがる」 背後を振り返れば、煙草を取り上げた臨也が、呆れた様子で、静雄を見下ろしている。その手には、ト レイにカレー皿を乗せているから、ご丁寧にもカレー皿まで用意したのかと、静雄は臨也の周到さに、 半ば呆れた。 「これから食事だって言うのに、それって料理人に対する挑戦だよ」 吸いたきゃ食べてからにしろ。静雄の文句を綺麗に黙殺すると、臨也はカレー皿を静雄の前に置き、 幽にも静雄と同じく、ビーフカレーの入ったカレー皿を置いて、静雄の隣に腰掛けた。その途端、静雄が ひどく不機嫌そうに隣を眇め見れば、その視線の意味を嫌と言う程理解している臨也は、静雄の視線 に黙殺を決め込んだ。 「……折原さん、食べないんですか?」 静雄にとっては見慣れたものでも、幽にとっては初めてだったから、幽は僅かな逡巡の後、口を開い た。 臨也の前には、小さい皿に盛られたカレーがあるだけで、それは到底、成人男性の夕食としては、少 量すぎる量だった。まさかその薄さでダイエットもないだろう。臨也の細さでダイエットなどしたら、もれな く即神仏ができあがってしまうだろうと、幽などは思ったくらいだ。 「……臨也」 低く唸るように臨也の名を呼べば、最早臨也は心得ていて、ツーンとそっぽを向いて、カレーを食べ始 めた。 小さいテーブルの上には、カレーの他には、先刻作っていたさつま芋の煮揚げが乗り、他にはグリー ンサラダが乗っている。勿論ドレッシングは臨也の特製だ。 「弟君も食べてみて」 「臨也」 「スパイス調合して、ルーから作ってあるから。隠し味も入ってるし。ああ、毒じゃないから安心して」 流石にシズちゃんだけならともかく、人気俳優の羽島幽平まで巻き込んじゃったら、全国のファンに俺 が殺されるだろうしね。 そんなふうに嘯いてころころ笑う臨也に、静雄の蟀谷に青筋が増えていく。 「手前、わざとらしく話し逸らしてんな」 「シズちゃん煩い。いいじゃん別に、カレー美味しくないの?」 「よくねぇ、少しは食え。何だその量。手前はお子様か?」 自分に盛られた分より遥かに少ない臨也のカレーは、静雄から見れば、お子様ランチ以下の分量だ。 それが静雄には気に入らない。 「あのね、食べるばっかりのシズちゃんには判らないだろうけど、味見で食欲半減するんだよね。普段 それなりに食べてるんだから、いいじゃん」 些かうんざりした様子で、臨也は大仰に溜め息を吐き出した。これも喧嘩と同様、毎回のやりとりだ。 臨也に言わせれば、一緒に食事をすれば、毎回のやりとりなのだから、いい加減に学習しろと言うこと になる。 「カロリーメイトは、食事じゃねぇ」 決して人のことを言えない臨也の食生活の貧しさと言うものを、静雄はよく判っていた。伊達に高校時 代から、殺し合いをしている訳ではないのだ。ましてその高校時代から、他人様には言えない関係にま で陥ってしまっているとなれば、尚更だ。 着痩せという言葉はあるが、その逆は一体何と言うのか、静雄が初めて臨也を犯した時、それは身 の裡に湧いた正直な感想だった。 細いと言うよりも薄い。一体何処に内蔵が在るのか疑ってしまう程、臨也の体格は細く薄い。それで いて脆弱で華奢な面は欠片も持ち合わせてはいないことが、静雄には不思議だった。ナイフを使用して いるとは言え、この薄さで自分と対等に喧嘩をしている辺り、臨也の体力も得体が知れない。けれど抱 く都度、薄い臨也の躯を実感すれば、口を挟むなと言うのも、無理な話だろう。 臨也には視野狭窄な一面が存在する。物事に集中すると、簡単に日常生活が劣化する。その最たる ものが食事だった。 手間と面倒を嫌う臨也の食生活は、決して静雄のことは言えないのだ。その反動が、今日のように現 われる。 「そうは言うけどね、今の栄養補助食品って、案外と莫迦にできないんだよ」 バランスが取れているからこその、栄養食品だ。情報収集中は、手間暇かけて悠長に料理を作って いる時間が無駄だった。血糖値さえ一定に保っていれば、脳は機能するようにできているから、一時的 に食生活が貧しくなろうが、問題は何処にもない筈だ。 「それで、折原さんはどうしてこんなに料理が巧いんですか?」 「ほら、弟君はシズちゃんと違って、行儀がいいよね」 小皿に盛ったカレーを食べながら、臨也が幽に笑い掛ければ、静雄の眉間の皺が深まっていく。 「うちは両親が忙しくて、家族揃って食事なんて滅多に摂れない家だったからね。男子でも小学生は調 理実習とかするでしょ?あれで面白かったから、作る様になったのかなぁ?」 元からの手先の器用さも手伝って、創造の余地のある料理という分野が面白く感じ、生来の追及型 の性格が災いして、色々と突き詰めた結果、料理が趣味になっていて、適度なストレス発散になってい る。その所為でか、双子の妹達は静雄と同様、めっきり食べる専門になってしまい、女のくせに料理ら しい料理をしない。下手に料理をしようものなら、恐ろしい物体が出来上がることは、実証済みだった。 一体何をどうやったら、あんな得体の知れない物体ができあがるのか、甚だ謎だ。あれは最早殺人兵 器だと、臨也などは思っている。だからあのブっ飛んだ妹達に料理はさせられない。そう言えば、事務と して雇った波江も、研究者にありがちなように、いい歳した女なのに、料理のレパートリーが少ないとき ている。その所為か、最近では他人の為に料理することが増え気がした。よくよく考えれば、自分の周 囲には静雄も含めて、料理ができない人間が多すぎる。 「それであんなに料理ができるんですね」 「あんなに?」 「シズちゃんちの冷蔵庫ってば、欠食児童並に空っぽだったからさ、作り置きしておいたから」 弟の言外を読み取った静雄が、カレーをぱく付きながら問い掛けてくるのに、臨也はゆっくりとスプー ンを口に運びながら、口を開いた。 「何作ったんだ?」 「肉じゃがと、筑前煮。食べる時にレンジで温めて。それとハンバーグ冷凍してあるから、食べる時に解 凍してから焼いてね。間違っても、この前みたいに冷凍したまま焼いたりしないでよ。それと面倒だから って、最初から強火で焼かないように。それだと、表面しか焼けないからね。判った?」 「心配なら、手前が焼にこい」 「あのね、俺もシズちゃんの相手ばっかりしてる程、暇じゃないんだよ」 一体どんな言い草だと呆れながら、ぺろりと完食されたカレー皿を差し出され、臨也はがっくりと肩を 落とした。 「あれは、ねぇのかよ?」 「ん〜〜?作ったよ。作らないと、シズちゃん煩いし?」 僅かに眉を寄せて不機嫌そうになった静雄に苦笑すると、臨也はシーフードカレーを盛り付けてやる。 あれとは、静雄の一番のお気に入りの、出汁巻き卵だ。 そんな二人のやりとりに、幽は黙々とカレーを食べながら、内心で呆気にとられていた。 この会話は、何処からどう聴いても、新婚夫婦の会話か、あるいは付き合い始めたばかりの恋人達の 会話だ。そして何より恐ろしいのは、当人達にまったく自覚がないことだ。これで数年を垂とする殺し合 いをしていると言われても、理解できない。 「あとボウルにプリン作ったから、適当に取り分けて食べて」 「おぅ。今度は茶碗蒸しな」 「何それ。俺としては、和食嗜好のシズちゃんが、何で夜中に突然カレーが食べたいなんてメール寄越 したのか、その所、じっくりと聴きたいな」 丁度いつもの面子でチャットしていた時間を見透かした様に、静雄はメールを寄越したのだ。和食嗜 好とは言え、大抵の人間がカレー好きな様に、静雄も例外なくカレー好きなことは知っている。現に来 神時代は、イレギュラーな自体でルーからカレーを作って以来、思い出したようにねだられる。だから決 してカレーが食べたいという静雄の嗜好が判らない訳ではなかったものの、夜中に突然というのは、珍 しかった。 「ああ?あ〜〜」 ばくばくと擬音が響きそうな威勢でカレーを平らげていく静雄は、臨也の科白に半瞬スプーンの動きを 止め、あ〜とぽりぽりと蟀谷を引っ掻いて、視線を泳がせた。 「きっちり吐きなね」 じゃないと、二度と作らないよ。言外に滲ませニッコリと笑えば、静雄はぼそりと呟いた。 「………不味かったんだよ」 「何が」 「トムさんに連れて行ってもらった店のカレーが、美味くなかったんだ」 「何それ」 意味判らないとばかりに、臨也が心底呆れた様子で首を傾げれば、静雄はうるせぇと文句を吐きなが ら、再びカレーを食べ始めた。 「トムさんが美味いってお勧めの店に、夜食がてら連れてかれたんだ。そしたら不味かった、それだけだ」 溜め込んだ借金を返済せず、回収屋から逃げ回る莫迦の首根っこを押さえ、返済させるのが静雄の 仕事だ。その為、昼間より、その手合いの店が盛り始める時間帯が本番とも言える。その為、静雄の 仕事が忙しいのは、昼間より夜になる。その関係で、帰宅が深夜になるのも珍しくはなかったから、今 夜のようにこの時間帯、夕飯を食べている方が、珍しいくらいだ。 そして昨夜は遅くなりがてら、仕事上の上司のトムと一緒に、最近できた店に連れて行かれた。何で もカレーが美味いと中々の評判らしかったが、どうにも自分の舌には合わなかった。おそらく世間一般 的には、美味い部類に入るのだろうが、今一つ、二つ、スパイスとコクが足りなかった。そして自分がそ う思う原因の心当たりが、静雄にはあり過ぎた。 「大体、手前が悪いんだ」 「理不尽言わないの。俺の料理を、シズちゃんの味覚の比較対象に引き摺り出さないでよ」 静雄の言わんとしていることを察した臨也は、小さく溜め息を吐き出した。高校時代に色々と作ってや った弊害とは言え、いちいち味覚対象の引き合いに引き摺り出されては堪らない。 「いいじゃねぇか」 ばくばくとシーフードカレーを食べおえた静雄は、三杯目を要求し、臨也に皿を差し出した。 「それで?」 「あ?」 「そうまでして食べたかった俺のカレーは、どうな訳?」 感想の一言もなく綺麗に平らげられていく皿を見れば、それなりに美味しいんだろうなと推し量るのは 可能だ。けれど半ば問答無用で呼び付けた相手に感想の一言もないというのは、礼に失するというも のだ。 「普通に美味いぞ」 野菜カレーをよそってもらい、臨也の問いに答えた時には、静雄の皿からは1/3の量が減っていた。 「普通ねぇ……」 自分の味を普通にしているから困るのだと、臨也は内心で遠い眼をした。 来神時代から餌づけのごとく静雄や周囲に料理を作ってきた弊害だとは自覚しているものの、自分の 味が静雄にとっては日常のごとき普通に成り果ててしまっているから、他人の料理の比較対象にされ てしまうのだ。何も男の作った料理を、他人の料理の善し悪しの物差しにする必要は何処にもないだろ うと思えば、それも無自覚だと判るから、それを静雄に納得させるのは無駄に等しい。 「よくまぁ毎度これだけ違った味を作るな、手前は」 涼しい表情をして理屈をこね回すことは気に入らないが、毎回試行錯誤の末に作り出される料理は、 気に入っていた。それだけは静雄も素直に感心していたし、臨也の唯一の長所だとさえ思っているくら いだ。 臨也の趣味がストレス発散も兼ねた料理だと知った時から、ことあるごとに臨也にあれこれとリクエス トし続けてきた。そして臨也は、周囲のリクエストに応えてきた。その結果が、他人の料理の物差しに 使用されるという弊害を生んだが、これこそまさしく餌づけの結果だろう。旧知の仲である新羅や門田か らは、餌づけの責任くらい持てと、苦笑されている始末だ。 「これだって、3種類全部味が違うもんな」 「何当たり前のこと言ってるの。具材だけ変えて味付け同じなんて、意味ないでしょ。俺がどれだけスパ イスの組み合わせに気を使ってると思ってる訳?基本的にカレーはスパイスの組み合わせだから、味 付けは無限なんだよ」 要はどれだけ適したスパイスの使い方をできるか、そういう意味で、カレーの味付け無限に近い。それ は言い換えれば、どれだけスパイスの特徴を心得て使えるか、そういうことだ。 「林檎と蜂蜜入れてみたり、隠し味にチョコレートや珈琲入れてみたり、隠し味もそれぞれ変えてあるん だからね」 少しは味わって食べなと、臨也は正面で3杯目のカレーを平らげていく静雄に少しだけ呆れて苦笑す る。けれど何も言わず黙々と平らげていく静雄のそれが、如実に美味いと物語っていることも判っている から、臨也もそれ以上小言は言わず、自分の皿に手を付けた。 「弟君、お代わりは?」 静雄同様、黙々と食べている幽の皿は空になっている。まぁこの状況では、お代わりの催促など口を 挟む余地は何処にもなかっただろうなと、臨也は苦笑を禁じ得ない。 他の誰でもない、平和島静雄を迷宮に閉じ込めてやろうと画策しているらしい弟の身の裡など、静雄 はまったく気付いていないだろう。当人は化生に近い力を有している割に、暴力は嫌いだと公言する莫 迦だ。閉じ込めることに成功したからと言って、その鎖が迷宮を作った当人に繋がれているとは限らな い。その辺り、幽の詰めは甘い。それが臨也には愉快でならない。閉じ込められた檻の前で、精々挑 発してやると、内心で薄昏い笑みを覗かせると、躯の何処かが疼く気がした。 「アッ、じゃぁお願いします」 「何がいい?」 躊躇いがちに差し出された皿を片手に立ち上がる臨也の背に、幽は暫く考えると、野菜をお願いしま すと付け加えた。 「それにしても、弟君は綺麗に食べるね」 静雄は3種類のカレーを食べたことで、一応の満足を得たらしいが、臨也はと言えば、未だ食べ終わ ってもいなかった。それは臨也の速度が遅いという訳では無論なく、食べる合間に静雄からお代わりの 要求が忙しかったからだ。 「あ?俺ががさつみたいなこと言うんじゃねぇよ」 「被害妄想だよシズちゃん。そう思うから、他人の目が気になるんだよ」 食べ終えたらしい静雄は煙草が吸いたいらしく、どうにも手持ち無沙汰にしている。先刻から煙草の 箱を弄っている様子は、子供と同じだ。 「吸うなら、隣に行てってよ」 隣は寝室として使用している部屋がある。自動喫煙が叫ばれている昨今、喫煙者は中々肩身が狭い。臨也に言わせれば、これを機に、禁煙しろということになる。 「わぁってるよ」 それでも吸わないのは、久し振りに会う弟に対する礼儀みたいなものだろう。これが二人の時なら、 断りもなく吸う静雄を、臨也は嫌という程知っている。 「大体手前は、食うのが遅い」 だらだら食ってるんじゃねぇよと静雄が言えば、その理不尽な物言いに、臨也は呆れた様子で溜め息 を吐き出した。 「俺に食べる隙も与えてくれない張本人が言うな」 「俺が3杯平らげている間に、そのお子様ランチ以下の量食べきれないってのは、手前はどうなってる んだ?」 「だから、俺に食べる余地与えなかったシズちゃんが言うな。隣なら煙草吸ってもいいから、吸ってきな よ」 隣で文句を言われると、余計に食事が進まないと、臨也は隣室を顎でしゃくった。 「いい」 「じゃぁ、八つ当たらないで、おとなしくしててよ」 煙草の箱を手の中で弄びながら憮然と応える静雄に、臨也は小さい笑みを滲ませる。 こんなふうに些細な気遣いができるくせに、どうして暴力は自戒できないのか、甚だ謎だ。けれどそれ が静雄を静雄として構成している重要な要素であり、自分達を近付けている要因であることも、臨也は 正確に理解している。そしてそれは誰にも浸蝕できない、自分達だけの領域だと思えば、身の裡からぞ くりとした官能が沸き起こる。その得体の知れない官能の正体は、未だ見えない。 知らず薄い笑みを浮かべる臨也を見凝め、幽が静雄に向かい口を開いた。 「兄さん、今度旅行に行かない?」 「ああ?何だ急に」 寝る暇もないくらいスケジュールがびっしりと埋まっている弟の一体何処に旅行に行く予定などあるの か、静雄は不思議そうに幽に視線を移した。 「今何本か映画の出演依頼あるんだけど、それが終わったら、1ヶ月くらいのオフくれるって言うからさ。 たまには兄弟で旅行もいいかなって」 静雄の隣に腰掛けている臨也を間視すれば、臨也は面白そうに笑っている。 「へぇ〜〜兄孝行の弟だね、シズちゃん。うちの双子どもも、それくらい言ってくれるかな」 「クルリとマイルが兄孝行なんてしたら、怖いだろうが」 歳の離れた兄の影響を受けたらしい臨也の双子の妹は、臨也とはまた別の次元で思考がブっ飛んで いることを知っているから、あの双子の妹が兄孝行なんてした日には、それこそ池袋が終わる気さえす る。それくらい、臨也の双子の妹は、思考がブっ飛んでいて、ある意味で兄の臨也より始末に悪い。 第一と思う。第一あの二人の孝行の仕方は、方向性が違う気がして、きっと絶対、碌でもないことをし でかすに違いない。 「まぁ、それは否定しないけどね」 静雄がげんなりした様子で話すのに、臨也も苦笑を禁じ得ない。ある意味、自分とは別の意味合いで 双子の妹達に気に入られている静雄などは、時折その被害に遭っているから、静雄が辟易するのも、 判らなくはないと思う臨也だった。 「でもさ、シズちゃんに旅行は無理じゃないかな?」 「ああ?何が俺には無理だって?」 「だってシズちゃん、長時間密室空間で我慢できる?弟君が羽伸ばせる場所なんて国内じゃ限られて いる筈だし、国外だとしたら、飛行機だよ?」 それは数十時間の拘束と意味は同じで、空飛ぶの鉄の塊の密室の中、拘束されることを余儀なくさ れる。 「機内で暴れて、うっかり飛行機落としちゃいましたって、笑えないよ。流石のシズちゃんも、高度数千メ ートルの上空から落下したら、死ぬと思うんだよね。俺としてはそれでも一向に構わないけど、弟君のフ ァンにはどうだろうね?」 さらりと物騒なことを口にした臨也の科白に、静雄は嫌そうに攅眉する。 哄笑を紛らせた臨也の科白に反駁しなかったのは、その可能性が静雄自身、否定できなかったからだ。 「別に国外でも構いませんよ」 「へぇ〜〜大した自信だね」 昼間池袋の往来を堂々と人込みに紛れて、周囲に欠片もその存在を感づかせなかったのだから、国 内旅行でも他人の目を欺くことは、幽には造作もないのかもしれない。 「そぅ言えば弟君の今回の主演作品って、執事達の沈黙だよね。それって、羊達の沈黙のパクリタイト ルみたいだけど、君がダークヒーローのレクター博士まがいの執事でも演じてるの?人肉食の執事?」 不意に赤い視線に妖冶な気配を滲ませ、臨也がくすくすと笑う。 「折原さんは情報屋だと兄から窺っていましたが、邦画関係は管轄外でしたか?」 何処かの娼婦のような妖冶な視線を向けてきた臨也に、幽も精巧に作られた人形のような綺麗な貌 を向けると、ひんやりと笑った。 「生憎と、俺の持つ情報の価値の中には、分類されていないなぁ。情報の存在って言うのは、価値と同 義でね。要求されない場所では、不必要なものなんだよ」 つまり情報は、それを求める要求の存在しない場所では何の価値も持たないという意味だ。それは情 報を取り扱う人間なら、誰もが知っている基本原則だった。そして臨也の取り扱う情報は、全て裏に絡 むものだ。情報雑誌を捲れば誰もが手にできる情報など、臨也には何の価値もない。それは臨也から 情報を買う人間も同じだろう。それでなければ、多額の金銭を支払う必要は何処にもない。 「そうでしょうね」 兄が高校から喧嘩をしている情報屋。漏れ聞く話だけでも、かなり物騒な人物で、情報操作に長けて いると人物だと聴いた。けれど物騒なのは、ナイフを扱い、情報操作に長けているから、だけではない のかもしれない。昼間見た尋常ではない気配の絶ち方、それ自体に臨也の本質が滲み出ている気分 にさせられる。 「お前達、何の話してやがる」 旅行の話が危うい方向に転がり始め、静雄が訝しげに眉を寄せた。 「幽、こいつの話に乗るな」 「ひどいなぁ、シズちゃん。弟君とコミュニケーションとってるのに。それに俺は、事実しか言ってないよ」 ころころと笑う臨也に、静雄は眉間に皺を寄せながら、幽に視線を移した。 確かに臨也の言うように、自分は移動に長時間の時間を割くのは無理だった。その辺り、静雄は自分 の性格と言うものを、見誤ってはいなかった。 「別に返事は急がないし、考えておいてほしい」 たまには兄弟水入らずもいいんじゃないかなと、幽は抑揚のない声で静雄を見ると、次には臨也に視 線を移した。 「フーン、ちゃんと返してね」 精巧に作られた人形のように、抑揚のない視線。けれどその背後から滲み出る挑発めいた幽の気配 に、臨也は相変わらず、掴み所のない妖冶な笑みを浮かべている。それはこの場には不釣り合いなく らい艶めいて、まるで淫蕩に煙る娼婦のように、官能的な何かを滲ませている。そのくせ妖冶に微笑む 背後の薄昏さは、幽にさえ真似のできない何かを秘めている。 「さぁ、どうでしょう?」 臨也の気配に気圧されることなく幽が静かに笑えば、静雄が無言で咎める視線を臨也に向ける。 流石に弟の前で、化生と大差ない力を発揮することは躊躇らわれるらしい。そんな静雄の、何処か常識 ぶった冷静さに大仰に肩を竦めて見せると、臨也は、そろそろデザートにしようかと、空になったカレー 皿をトレイに乗せ、立ち上がった。 【午後10時13分】 静雄の部屋に不釣り合いなティーカップが並んでいるのは、無論臨也が買い求めたティーセット一式 の一部だった。茶葉から紅茶を淹れる為に必要最低限のものを、臨也は今日買い求めていた。それは 静雄にしてみれば、嫌がらせ以外の何物でもないだろう。 ウェッジウッドの茶葉には、やはり同一銘柄のティーセットが必須だとばかりに、臨也が買い求めたテ ィーセットは、ウェッジウッドのグレースと言うティーセット一式だった。悪ノリしてケーキスタンドまで買っ てこなかった理性を褒めてほしいと、臨也が思っていることを、勿論静雄は知らない。 静雄に紅茶の淹れ方講義を終えた臨也は、綺麗な所作で、ティーセットに紅茶を注ぎ入れた。それは 俗に言う、紅茶のゴールデン・ルールと呼ばれるものだ。そうして現在、室内には豊潤な紅茶の香が漂 っている。 「俺も何処か旅行に行こうかなぁ」 綺麗な所作でレアチーズにフォークを差しながら、臨也は独語のように呟いた。 口内で円やかに溶けていくケーキの食感に、短時間で作った割には旨く仕上がったことに満足しながら 隣を窺えば、隣で静雄は黙々とフォークを口に運んでいる。 「ああ、行ってこい。地獄でも、冥界でも、魔界でも」 臨也の作ったレアチーズとバナナケーキを2切れずつ食べた静雄は、三切れ目に手を伸ばそうとして、臨也に容赦なく手の甲を叩き落とされた。 「それってば国外でもないし、地球外だよ。シズちゃん行ってくれば?アケローン川渡って、9つの地獄 巡りツアーでも。確か地獄の第7圏には、暴力者の地獄があった筈だし。いっそシズちゃんなら、冥府 の王と決闘とかでも、似合うかもね。その時には、観覧席用意して、迎えにきてね」 「手前が行け」 滔々と語る臨也に睥睨を向け、静雄はケーキがダメならプリンだとばかりに、ボウル一杯に作られた プリンを冷蔵庫から引っ張りだしてきた。そんな静雄に、シズちゃんてば本当に子供だねと呆れながら、 臨也は仕方ないとばかりに、プリンを小皿に取り分けてやりながら、ころころと笑った。 「喧嘩相手いないと、欲求不満になるよ?新羅曰く、俺達引力じみてるらしいから」 「気色悪いこと思い出させるな」 謎々めいた臨也の科白に、静雄はプリンを頬ばりながら、渋面を刻み付けた。 「いいんじゃないの?俺達、相思相愛みたいだし?」 「臨也、手前〜〜」 弟の前で暴力は振いたくないと、なけなしの理性を総動員させていると言うのに、臨也はそれを綺麗 に見透かして、面白がって茶々を入れてくる。その根性が気に入らない。もっと気に入らないのは、その 相手を手放せないくらい、時折情欲に逸ってしまう、自分の出所不明な肉の欲望だった。 一体何故あの時、臨也を犯してしまったのか?考えても、静雄に判るものは何もない。判っていること と言えば、衝動に任せて臨也を犯してしまった結果、喧嘩とセックスがワンセットになってしまったことだ。それは繰言のように繰り返され、時折、回遊する深海魚を思い起こさせた。 自分達の関係は、どちらかが死ぬまで繰り返される、行き場のない袋小路の迷路のようなものだ。 池袋という檻の中、それは果てなく繰り返される日常の一部だ。おそらく池袋の住人にとっても、それは 既に日常の一角になっているだろう。そんなふうに、あっさりと非日常は日常に入れ替わる。殺し合い の喧嘩も、その延長線に生じた関係も飲み込んで。それに名前を付ける無意味さも、静雄はよく判って いた。それは朝と夜が訪れるくらい、静雄にとっては日常になってしまっている。 「弟君はさ、何処に行きたい訳?」 「臨也」 わざとらしく綺麗に黙殺され、静雄の蟀谷に青筋が浮き上がる。 「イギリスあたりに」 「奇遇だね。俺もイギリスいいなって思ってたんだよねぇ」 「手前なんざ、ロンドン塔にでも、幽閉されちまってこい」 「あれ?シズちゃんのくせに、よくそんなこと知ってるね」 哄笑すれば、静雄は苦く舌打ちする。 産業革命という華やいだ表の歴史とは裏腹に、英国には裏の側面が存在する。ロンドン塔は、いわば その象徴とも言える建物だ。王族から政治犯まで。時の王室に不都合な人間を幽閉し、処刑してきた、 血濡れた場所だ。尤も、一つの国家が形態を築く為には、幾重もの血が流されている。それは何処の 国も大差ないだろう。 「ああ、でもシズちゃんは行かない方がいいかもね。何処かの誰がか、手ぐすね引いて、シズちゃん幽 閉しそうだから」 ねぇと意味深に笑えば、幽は薄い笑みを覗かせている。 「今回の映画は、一部英国でロケしたんですけど、できればオフで個人的に行きたい国です」 「ああ、今回の映画、執事の話みたいだから、英国は必須だね。『イエス・マイロード』とか言ってたりし て?『ユア・ハイネス』とか?」 「まぁ、似たようなことは言いました」 執事と言えば英国。英国と言えば階級制度が絶対で、しきたりと伝統を重んじる国柄だ。今でこそ貴 族という生き物は希少価値とは言え、たった100年程度前には、厳然と存在していた制度が貴族制度 だ。 「俺は英国なら、大英博物館に行きたいな」 「あそこも面白いものが沢山在りそうですね」 「あとはホームズ博物館かな。ベーカー街ストリート」 「ケッ。手前が有名な名探偵の博物館に行きたいなんざ、寝言は寝て言え」 「俺こう見えて乱読だし、ミステリー好きだから。ちゃんと前例あるでしょ?」 臨也が意味深に笑えば、何を思い出したのか、静雄の表情が険しくなるのが判り、幽はおや?と訝し げに兄を見た。それは弟の幽でも見たことのない、静雄の表情だったからだ。 化生に近い力を持つ兄は、けれどその力を嫌っていた。基本的に兄は暴力を嫌い、平穏な暮らしを望 んでいた人種だ。普通の家庭に生まれ、普通に暮らしていた兄が、突然その有り得ない力を手に入れ たのは、自分と些細な喧嘩をしたことが原因だった。だから何処かで兄のスイッチを押してしまったのか もしれないと、幽は幽なりに考えてもいたのだ。けれど兄の持つ力は、年々とその体躯の組織形態さえ も容易に入れ替え力を増し、当人の意思を裏切り兄を駆り立てる。それは必ずしも、兄の明確な意思と して出現していないことも物語っている。 細身の器に、有り得ない化生じみた力。内と外のバランスの悪さを、兄はけれど何処かで吹っ切った のか、或いは開き直ったのか、何時の頃からかその力で悩むこと止めたようだった。それはおそらく、来 神高校に入学した時からだ。 入学早々、誰かと喧嘩をしたらしい兄は、以来自身の持つ力を最大限に生かす場所を見付けたかの ようになっていった。そして兄の口から連日聴くようになった『折原臨也』という名前。それまで兄から、 同じ人間の名前を聞くことはなかった。 兄に一方的に喧嘩を売る人間は後を絶たず、兄は降り懸かる火の粉を払う程度の喧嘩はしていたが、それが来神学園に入学してから変化した。連日繰言のように繰り返された、たった一人の名前。 「臨也」 怒気とは明らかに違う静かな声は、静雄にはらしくないくらい、抑揚を欠いた声をしている。それは底 の方が冷えていくような声音をしていて、幽はますます訝しげに攅眉する。けれど臨也はそんな静雄の 声に、くすくすと意味深な笑みを浮かべているばかりだ。 「やだなぁシズちゃん。昔のことだよ」 「手前のやり方は、1から10まで気に入らねぇが、あれはその中でも最悪だ」 毒虫を毒と知らず掴み取ってしまう子供のような、或いは炎の中に手を突っ込んで、焼け石を取り出す ような遣り様は、今でも思い出すと、腹の底が煮える気がした。あの時臨也を探して駆けずり回った自 分の莫迦さ加減まで思い出して、静雄は残りのプリンを頬ばった。 滑らかなふんわりとしたカスタードの甘さは、けれどくどくなく、口の中で溶けていき、仄かなカラメル の苦みが丁度いい。 顔を合わせれば今度こそ殺すと思っていたというのに、不意に行方をくらませた臨也の存在は、まる で足許が一瞬で消え失せたような、言い様のない喪失感を静雄にもたらした。あの時の身の裡が冷え るような感触は、一生忘れられないだろう。 臨也が自分以外の誰かの手に掛かる可能性。その可能性を、静雄はあの時初めて、意識した。 意識した途端、冗談じゃないと腹の底が煮えた。他人に殺させることも、殺されることも許さない。あれ は自分の獲物なのだと思った時には、臨也を探して池袋を駆け回っていた。 「最悪なやり口だったけど、こうして五体満足生きてた訳だし?シズちゃん的には、殺されてた方がよか ったかもしれないけど」 死を恐れ、自己の喪失を回避しようとみっともなく足掻く。それは生命が持つ本能的な生への執着だ。どんな生命も、生きるようにできている。人間だろうが、動物だろうが、その有り様に差異はない。 死を恐れ、天国を渇望し、だからこそ人の歴史の中から、宗教は決してなくならない。まるで連綿と受 け継がれていく不死のように。それは社会のシステムと大差ない。 「ああ、手前なんかと出会わなかったら、ラクだったな」 「薄情だよね、シズちゃんは」 死ぬかもしれないと思ったあの瞬間、思い出した顔が、狂った双子の妹でもなく、まして存在が希薄 な両親でもなく、毎日生命の脈動を繋ぐ相手だったというのは、臨也にしても少々ショックな出来事では あったのだ。反吐が出そうに最悪な気分だったというのに、静雄はきっと現れるという根拠のない自信 もあった。以来、その関係は崩れることなく、歪んだまま続いている。そこには進化もなければ、後退も ない。そういう意味で、この関係は、行き止まりの袋小路のようなものだ。 愛でもなければ、恋でもない。自分達の関係は、言語に置き換えることもできなければ、記号と座標 で表すこともできない。それでもこの関係を止められないことだけは、互いに判っている。新羅が自分達 の関係を『引力』と呼んだのは、何もあながち間違った方向性ではなかったのかもしれない。ある意味 で、とてもよく自分達を見ている。そういうことなのだろう。 「でもさ、その論法でいくと、必ず訪れる喪失の回避方法としてのラクさ、に聞こえるんだよね。嫌いの 前提には、必ず好きって言う感情があるって言うのと同じようにさ」 違うの?と、薄い口唇に妖しげな笑みを刻み付ければ、静雄は苦く舌打ちする。 「手前はどうしてそう、事態を理屈捏ねて解釈するんだ」 「シズちゃんが、短絡的なだけだよ。情報屋って言うのは、大局的見地から物事を見るのが仕事だから さ。そういう意味で、人間って面白いよね。見ていて飽きない。人間が学に相応しい対象は人間だって 言う人間論は、まさしく銘言だね」 「ポウプ、ですね」 臨也の科白に出てきた言葉は、ポウプの人間論の中の一説だ。情報屋なんて怪しげな仕事をしてい る臨也の口から、そんな言葉が出てくることが、幽には少しばかり驚きだった。 「おや、弟君はシズちゃんと違って、読書家みたいだね」 「僕も折原さんと同じで、乱読派なだけです」 「ますますシズちゃんの弟とは思えないね。正反対だ」 読書云々を抜きにしても、平和島静雄を監禁しようなんて企む辺り、思考回路は静雄とは似ても似付 かない。静雄ならもっとシンプルに、殺す、叩きのめすという発想になるからだ。知略を巡らせる狡猾さ は、直線的な静雄とは対極に位置している。 「人間は、人間以上にも、人間以下にもなれねぇ。そういうことだろ。小難しく解釈する必要が何処にあ る」 「まっ、その中には、獣と大差ない莫迦も大勢いるけどね」 可笑しそうに笑いながら、臨也はフーンと少しばかり感心した様子で静雄を窺った。 静雄はこんなふうに難しい言葉も、シンプルで単純な言葉に置き換えてしまう。そうすることで、より現 実的な要素を帯びることも少なくはない。無論当人は意図してやっている訳ではない分、タチが悪い。 そしてそれは何処までも正論だから始末に悪い。 「大体さ、シズちゃんが人間だって言うのも、どうよ?って感じだけどね」 「大丈夫だよ。兄さんはチカラは桁外れでも、精神的には俺より健康だから」 常人には持ち得ないチカラを有しながら、暴力が嫌いな兄は、自分より余程精神的には健全な証拠 だろう。これで理性の下にそのチカラを制御できれば、英雄にさえなれる筈だ。 「アハハハ、自覚はあるんだ〜〜」 「幽?」 何やら判り合っているらしい臨也と幽の様子に、静雄は眉を寄せた。 自分が帰宅するまでの間、幽は臨也からいらない情報を与えられたのかもしれない。 「臨也、手前なにか幽にいらない知恵与えてねぇだろうな」 「ダメだよシズちゃん。弟がいつまでも子供だと思っていたら。こ〜〜んな綺麗な顔して、俺でも喫驚な こと考えてたりするかもよ?」 赤い視線が楽しげに隣を眺め見て、薄い口許が艶冶な弧を描く。掴み所のない臨也の微笑みは何処 か謎めいて、おそらくこの視線や微笑みに、人はあっさりと向こう側に背を押されてしまうのかもしれな い。そして臨也はこちら側に止どまりながら、堕ちていく人間を愉快そうに見下ろしているのだろう。そう いう姿が、幽には容易に想像できてしまい、兄と好んで接点を持つ人物とは思えなかった。だとしたら、 そこには一体どんなやりとりがあり今に至ったのか、幽に判るものは一切ない。 「そう言えば弟君、時間は大丈夫?」 既に時刻は深夜に差し掛かり、あと10分もすれば日付変更線になる。臨也や静雄にしてみれば、未 だ宵の口だとは言え、連日メディアに引っ張りだこの幽が同じかと言えば、話は別だ。これかにら帰宅 してシャワーでも浴びていたら、それなりの時間になってしまうだろう。 「ああ、もうそんな時間だな」 腕時計で時刻を確認してから幽を見れば、既に幽は立ち上がり、スプリングコートに袖を通していた。 「待ってろ幽。送っていく」 「……過保護」 静雄の発言に臨也は呆れ、幽は慣れているのか、苦笑している。どうにも静雄にとって、幽は今も小 さい弟のままなのかもしれない。その弟が、大胆にも兄捕獲を画策していると言うのに、無防備にもほ どがある。 「ったく、莫迦だね」 こっそり呟くと、臨也は見下ろしてくる視線に顔を上げた。精巧に作られた人形のような端正さ。それと 同じで、見下ろしてくる視線は何処か無機質で、色がない。感情の揺らぎが見えるのは、兄の静雄を前 にした時だけだ。 「弟君は、神話の中の怪物のように、シズちゃん閉じ込めておきたいみたいだけど、そうした時、餓える のは何も俺とは限らないよ?」 あれは間違いなく化生だ。それもモンスターなどと言う、安易な括りでは片付けられない異端の獣だ。 化け物、怪物、フリークス、モンスター、ミノタウロス。そう言う既存の言葉に、静雄が持つチカラは当 て嵌まらない。ただ便宜上そう呼ばれるだけの話で、静雄の持つ力は、静雄自身、制御できない代物 だ。制御できれば、化け物でも、紙一重の英雄にもなれただろう。けれど静雄はそのどれにも当て嵌ま らない。神話に登場する怪物のように、安易に閉じ込めて飼い慣らせるものでもなければ、殺してしま えるものでもない。第一檻と言うのなら、既に静雄は池袋と言う檻に閉じ込められている。 「あれは君が考えているような怪物じゃないよ。あれはね、自分が人間じゃないことを、ちゃんと知って る。自分が化け物だって自覚してる。だから人間って種族を愛してる俺と、追い掛けっこできるんだよ。 君は人間になりたい向こう側の人みたいだけど、あれは向こう側にいながら、こっちにいることを許され てる異形の獣だよ。そんな獣を閉じ込めた時、餓えるのは誰かなんて、公式使わなくても簡単に答えは 出るよね。君は精々閉じ込めておくだけ。だけど俺は遊んでやれる。その違いは大きいと思わない?だ からね」 そこで言葉を区切ると、臨也は密やかな笑みを幽に向けた。見る者の視線を逸らさない妖冶な微笑み。それでいて赤い視線は、研ぎ澄まされた切っ先のようにひんやりとして、全てを切り裂いてしまいそ うな凍える冬の月のように冴々としていた。 「あれは、俺のモノだよ」 生かすも、殺すも、生殺与奪の権限は自分にある。他人にはやらない。 声に出さず口唇の動きだけで幽に所有の在処を告げると、幽は半瞬、吐息を飲み込んだ。 自分が見下ろしている人間は、一体何者だろうか?そんな思いが、幽の身の裡を走り抜ける。顔を合 わせれば、生命のやりとりをする殺し合いの喧嘩をしているくせに、こんなふうにメール1本で、相手を 呼び出し、呼び出され、他愛ない会話で食事をする。下手をしたら、全てが茶番だ。殺し合いも憎しみも。一体何が二人の距離を一定に保っているのか、幽には立ち入れない領域に思え、僅かに身震いした。 安定と定着は意味が違う。進化も後退もない関係に、先はない。けれど何故か二人を見ていると、行 き止まりの関係に思えて仕方ない。それが幽には僅かに恐ろしかった。 「臨也。ちょっと送ってくるから、手前は片付けでもしてろ」 「何それ?カレー作りにきてやった人間に、片付けまでさせる気?」 少しは労え。言外に滲ませれば、静雄は面白そうに臨也を見下ろし、艶のある黒髪をゆったりと掻き 混ぜた。 「片付けまでが料理人の仕事だろう?帰ってきたら心置きなく労ってやるから、待ってろよ」 黒髪を撫でる節だった指先が、薄い耳元をさらりと撫でていくのに、臨也はぴくりと身を竦め、隣で涼し げに自分の髪を空いている静雄を眇め見た。 「シズちゃん、最悪」 弟に気付かれることなく、さらりと自分の弱い部分を撫でていった指先に、臨也は内心で小さく舌打ち する。 暴力しか特徴などないように見せながら、こんなふうに紛らせるやり方が、実は静雄は巧い。一体何 処の誰に教えられたのかと思うものの、どうやら中学生辺りで済ませることは済ませているらしい静雄 を知れば、何処かの玄人女にでも遊ばれた結果だろうと、推し量るのは容易だ。 「いいよ兄さん。タクシーで帰るから。歩いても別にいいんだけどね」 「ダメだ」 「変質者も変態も多いからね。弟君のような綺麗な顔したのが深夜に一人で歩いてたら、まぁ、色々と 心配はあるよね」 ころころと笑う臨也の替わり身の早さは、演技というより、情緒不安定な一面が垣間見える。そのくせ 保護色の様に背景に合わせて自分を染めることのできる気配は、尋常ではない。 口唇の動きだけで伝えられた言葉は、おそらく兄には見せない、臨也の本音だろう。哄笑と妖冶な気 配に紛らせ、冷ややに突き付けられた、刃のような言葉。そこにどんな意図があるのか、幽には判らな い。けれど自分の力を嫌っていた兄が、この男にだけ拘る理由の欠片程度は判った気がした。それは 最早執着と呼ばれる類いのものだと、おそらく兄は気付いてもいないだろう。 「じゃあタクシー呼んで。それで帰るから」 兄にとって、自分はいつまでも小さい子供のままなのだろう。それが幽には少しばかり気に入らなか った。閉じ込めてやろうと思った原因の何割かは、その辺りの歪んだ感情が発端だろう。 「シズちゃんもさ、いい加減に弟離れしなよね。鬱陶しい」 「手前は少し黙ってろ」 苦々しく舌打ちすると、静雄は携帯を取り出した。 「仕方ねぇ、タクシー呼んでやっから、それで帰れよ」 ぽんぽんと、仔イヌを撫でるように弟の頭を撫でれば、幽は苦笑して臨也に視線を移した。その視線 の先で、臨也も苦笑している。 ほどなくして静雄の呼んだタクシーが到着し、玄関まで見送りに出た臨也に、幽は無機質な笑みを刻 み付けた。 「今夜はご馳走様でした」 「お粗末様でした。いいよねぇ。シズちゃんはこんなふうに、俺に礼なんて言ったことないもんねぇ」 「うるせぇよ。おら幽、タクシー来てるぞ」 静雄は弟を促し玄関に出ると、幽はちらりと臨也を振り返った。 「俺も、誰かに盗られるつもりないんで」 「ああ?幽、お前何か盗られでもしたのか?そいつ教えろ。一遍締め上げてやる」 「可能性の話」 「何だそりゃ?お前タチの悪い女にでも引っ掛たんじゃねぇんだろうな?」 「まさか」 眉を顰めた静雄に、幽は小さい笑みを覗かせると、くるりと優雅に臨也に背を向けた。 「バイバイ〜〜」 最後に挑発的な表情を見せた幽に、臨也はひらひらと手を振った。 「俺もね、自分のモノに手を出されて黙ってる程、おとなしい性格はしていないんだよ、弟君」 万が一にも静雄に女ができたら、相手を死んだ方がマシって目に合わせる用意はできていたが、相 手が弟となれば話は別だ。相手も静雄と同様、向こう側の住人らしい。 「面白くなってきたねぇ」 くすくすと妖しげな笑みを浮かべると、臨也はキッチンに足を向けた。 【午前0時7分】 幽をタクシーに乗せて見送ってきた静雄は、キッチンで洗物に勤しむ臨也を背後から抱き締めるように 両腕を回した途端、不機嫌そうに渋面した。 「手前、また食ってなかったな」 最後に臨也を抱いてから半月余り。元々薄い躯が更に薄くなっているのに、静雄は眉間に皺を寄せ て、呻くように低い声を漏らした。 「食べてたよ」 静雄がこうして時折思い出したようにメールを寄越すのは、何も今に始まったことではなかった。仕事 が一段落ついたのを見透かすように、静雄はタイミングを図ってメールを寄越す。つまりは殺し合いの喧 嘩をしていないストレスの発散と、痩せていないかの確認作業だ。 「マットーに飯くらい食え。自分の為には相変わらず作らねぇな」 他人の為には、それが自分相手でも、気が向けばこうして料理は作るくせに、自分の為に腕を奮うこ との少ない臨也の性格を知っているから、静雄は時折メールを送る。それをして新羅や門田という、来 神時代の連中からは、不思議な関係だと呆れられているという顛末が付く。 「最近はそうでもないよ。秘書が中々に有能でね。但し有能な分、料理のレパートリーが少なくってね。 俺が作る時も増えたよ。だから仕事量自体は減っても、料理に割く時間が増えた時点で、相殺だけど ね」 最近では狂った双子の妹が湧いて出る時間も増えた分だけ、何かと引っ掻き回される。それもこれも、波江の嫌がらせに近い。ある意味彼女は双子の妹達を巧く使っている。妹達も巧く使われているこを 理解して出没しているのだから、あれはあれで、互いに利害関係があるのだろう。 「料理に割く時間が増えても、手前のことだ。味見してたからいらないとか言って、食ってなかったたろう が」 「別に俺が食わなくて、シズちゃんに迷惑掛けてないと思うけど?」 「……痛てぇんだよ」 「痛い?シズちゃんでも痛感なんて人並みにあったっけ?」 「抱く時に、骨ばっか出てると、痛ぇんだよ。大体何だこの腰の細さ。女でもこんな薄くて細いのいない ぞ」 文句と言うより、ぼやきに近い声を漏らす静雄は、背後から抱き締めた臨也の腰を、更に強く抱き締 める。そうしておいて、躯を密着させれば、臨也は呆れた吐息を滲ませる。 「そういうのは、理不尽って言うんだよ」 項に振れる生温い吐息と、鼻孔を擽る静雄の煙草の匂い。そのどちらもが、肉の芯から、容易く官能 を引き摺り上げていく。ふと漏れそうになるなまめいた吐息をやり過ごすと、臨也は挑発的に笑った。 「第一さ、欲情しながら言う科白かって言うのと、何処の女と比較してるんだって言うのと、シズちゃん 的には、どっちから突っ込んだほしい?」 背に密着してきた静雄の胸板は、鍛えられた筋肉が鋼のように引き締まり、抱き合えば簡単にナイフ が刺さらないのは頷ける。そして腰に押し付けられた下半身は、既にスラックス越しでも熱く脈動してい るのが判り、更にグイッと押し付けられ、臨也が歪に顔を歪めた。 「女は世間一般論だろ?女はウエストの細さを気に掛けるからな」 「世間一般の女の情報なんて、よく知ってたね」 軽口を叩けば、さらりと腰を撫でられ、否応なくびくんと躯が反応する。それを察して、背後で静雄がく つくつと喉を鳴らすのに、臨也は苦く舌打ちする。 「手前も人のこと言えないだろうが?腰撫でただけで、物欲しそうにヒクく付かせやがって」 「臨也」 「んンッ……呼ぶな莫迦…」 耳朶を甘噛み囁かれた低い声に、肉は否応なく反応する。 嫌々と緩く首を振れば、静雄は低く笑いながら、ぴちゃりと濡れた音を立て、陶器のように肌理細かい 肌に噛み付いた。 「ん……ッ、子供みたいに、見える位置に跡残すな」 盛りの付いた十代の子供ではないのだ。今更、その痕跡を残して楽しむ子供みたいな真似は必要な いだろう。 「手前はこんな時ばっかり素直にできてやがるから、始末に悪い」 腕の中で細い躯が引き攣るように顫えるのに、静雄が何とも言えない表情をしていることを、臨也は 気付かないだろう。 「肉付きが悪いと、抱き心地も悪いって言ってるんだ」 「それって何処までも、シズちゃんの理由だよね。俺に関係ないじゃん」 「それこそ手前が好きな事実なんだから、仕方ないと思って諦めろ。第一俺に理屈が通用しないことは、手前が一番よく判ってるだろ?手前が手前の理屈で動くのと同じで、俺は俺の好きに動く」 「本当に面白いねぇ、シズちゃんは。好きに動いた結果、俺を抱くって言うんだから、相当物好きだよ。 それとも俺ってば、もしかして、物凄い愛の告白されてる?」 全は愛せさても、個は愛せない。その歪んだ感情の帰結が何処にあるのかと言えば、繋がり合う無 意識の連鎖。人が誰もか持つ普遍的無意識とも言うべき場所なのかもしれない。 「手前は可哀相な人間、だからな」 そう薄ら笑い、静雄は背後から腕を伸ばすと、臨也の頤を掴み取った。まるで卵の先端のように細い 頤は、このまま力を込めれば、呆気ないくらい、この関係も幕を降ろすだろう。それを判っていて、臨也 は無防備な裸身を惜しげもなく曝け出してくる。 「何それ?人間のフリして、人間じゃないシズちゃんに言われる科白じゃないと思うけど」 節だった指先に乱暴に顎を掬い上げられ、そのまま強引に背後に捩じ曲げられる。 「俺はいいんだよ。とっくに諦めてる」 「何それ?莫迦じゃないの?」 普段は乱暴なくせに、こんな時ばかり、静雄の指は繊細に動く。強引に背後を振り向かせているくせ に、その力は静雄からは考えられないくらいの気遣いが垣間見える。静雄がいつもの調子で力を込め ていたら、それこそ臨也の人一倍細い首など、簡単に捩じ切れているだろう。 「来神で手前と合った時点で、そんなもんはとっくに諦めてる。諦めてねぇのは、手前だろう?」 深く溜め息を吐き出すと、静雄は腕の中の細い躯をやんわりと抱き締め、強引に振り向かせた頤に僅 かに力を込めると、引き寄せる。 「人間じゃねぇ俺としか捌け口のない手前も、十分に可哀相だな、臨也」 手前も誰にも愛されてねぇだろ?そう笑うと、静雄は噛み付くように薄い口唇を深々と貪っていく。 「んンッ……」 深々と塞がれ、熱い舌が口内に潜り込んでくるのに、臨也は抗うこともなく甘受し、狭い口内で縺れ 合うように舌を絡め合う。慣れた煙草の香りが口内に広がり、それが臨也の官能を深くする。 「んッ……苦し…」 噛み付くようなキスは、ともすれば肉を喰われてしまいそうな激しさを持っている。舌を絡め取られ吸い 上げられると、根から引き千切られていくような荒々しさがある。呼吸さえ奪われそうな激しさに、歪に 顔を歪めて逃れようとすれば、更に強い力で小作りな頭を押さえ付け、静雄は臨也を貪っていく。 「んゃ……んく……」 徐々に胸を圧迫していく息苦しさに、臨也が呻くように抗えば、ますます静雄は頭を押さえ付け、腕の 中に閉じ込めるように細い躯を締め付ける。みしりと何処かで骨が砕けていくような感覚に、臨也は淫 蕩に耽った貌を曝しながら、意識の片隅で、殺されるかもねぇと暢気に考えていた。 けれど互いに無防備な姿を曝して喰らいあうようなセックスの最中、静雄から殺意を向けられたことは 一度もない。最中の静雄というのは、普段以上に、臨也の予想の遥か上の行動をとる男だった。 一体何処で覚えたのか、躯を這い回る愛撫は的確に血肉の奥から性感を引き摺り出して、意識の正 面に逸らしようのない根深い快感を叩き付けてくる。そしていつも一方的に乱されていくのは自分だった。それが悔しいと思う感情は、もうとっくに放り出している。肉の底から沸き起こってくる愉悦に、抗え ないなら、溺れてしまった方が得策だからだ。 「ん…ッ、んンッ……ちょ…シズちゃん!」 白い肌に指の跡が残りそうな威勢で、背後に捩じ曲げられ、臨也は縺れるように絡み合う静雄の口 唇を強引に振り解くと、僅かに咳込みながら、舌から睨み付けた。 「本気で喰い殺す気?」 抗生物質を打った躯なんて、肉として美味しくないよ。物騒なわりに、些か見当違いの抗議をする臨 也は、やはり何処か世間とはズレているのかもしれない。 「手前の肉なんて、最初から旨いなんて思ってねぇよ。でも、そうだな」 互いの唾液に濡れた口唇を手の甲で抜くうと、静雄は軽過ぎる躯を横抱きに抱き上げ、ベッドの上に 乱暴に放り出した。 「喰ったら、ちゃんと骨まてしゃぶってやるから、安心しろ」 放り出した躯の上にのし掛かると、静雄はにやりと笑った。それはおそらく、臨也以外見たことのない 静雄の表情だろう。 「シズちゃんサイテー」 姦る前からそんな話かと、内心で呆れながら、臨也はのし掛かってくる静雄に抗うこともなく下肢を開 き、細い両腕をスゥと伸ばして、静雄の首に絡み付けた。 「弟君が見たら、喫驚な光景だよね」 兄が殺し合いをしている相手をベッドに組み敷いているなど、いくら幽でも予想はしていないだろう。 「手前、幽に余計な入れ知恵してねぇだろうな」 淫蕩に耽った視線で見上げてくる臨也の性質の悪い笑みに、静雄は誘われるままに顔を近付ける。 「さぁね」 くすくすと意味深な笑みを浮かべる臨也に苦く舌打ちすると、静雄は再び噛み付くように臨也の口唇を 貪っていく。 「あ……ん…」 窒息寸前まで互いを追い詰め、呼吸さえ奪いあうような荒々しいキスを繰り返すと、静雄は臨也の薄 いシャツを捲り上げた。 「心置きなく労ってやるから、覚悟しろよ、臨也」 鎖骨が浮く薄い肌。女性的な肉感など何処にもない薄い胸。相変わらず薄く細い躯を貪る高揚に喉を 鳴らすと、静雄はゆっくりと白い肌に顔を埋めた。 「半月ぶりなんだから、精々楽しませてよ」 どんな人間をも虜にしてしまうような蠱惑的で妖冶な笑みも、静雄相手には通用しない。だからこそ楽 しい。殺し合いの喧嘩をしているくせに、こうして気狂いのように求め合うことがとめられない歪み。生命 のやりとりをしている相手と、躯の相性が最高だという最悪さに、臨也はくすくすと微笑むと、陶然の 表情で細い腰を揺すり立てた。 【コメント】 マイ設定甚だしいシズイザ読んで頂き、ありがとうございました。無駄に長い話でしたが、多少なりとも楽しんで頂けたら幸いです。 この2人の来神時代のやりとりは、オフでまったり書いていく予定です。 |